2012年09月10日

スタマティスに会ったこと

2012年9月10日

ひと月ほど前、8月のある冷たい霧雨が降る日の午後、リンゴロウと二人でベルグレーブ図書館から出たところで、スタマティスにばったり会った。16才の息子のルカと一緒だった。2年ぶりか、3年ぶりか、久しぶりだった。
 あれれ、スタマティスはギリシャにいたんじゃなかったっけ?と、とっさに僕は思った。
 「久しぶりだね(Long time no see.)。 元気そうだな。こっちにはいつまでいるの?」
 「いつものようにルカに会いにきた。今週末までいる。」
雨も降っているし、改めて後で会うことにして握手をして別れた。
 スタマティスは、拙著『ヤギのアシヌーラどこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)という絵本の主人公のモデルだ。絵本では「ものぐさじいさん」という役だが、彼が飼っていた雌ヤギのアシヌーラにもモデルになってもらった。ものぐさじいさんの飼ヤギが、近所の人に借り出されて居所が分からなくなるが、最後はいろいろお土産を抱えて帰ってくると言う、田舎特有のバーター(労力と物々交換)のことを描いた絵本だ。

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近所のヤギさんたち

 もちろん、絵本のお話と実在の人物に直接のつながりはない。ただ共通点は、絵本のスタマティスも実在のスタマティスも、ものぐさなのだが、案外目先がきくことかもしれない。
 実在のスタマティスは、ギリシャ人の元船乗りでヨットマンだ。アラスカで日本の遠洋漁船に乗っていたこともあるし、東南アジアや地中海をカタマランのクルーザーで放浪していたこともある。つい最近は、若いタイ人の奥さんとギリシャのミコノス島でチャーターヨットの船長をしていた。

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 「地中海でのお客は、ロシアのマフィアとか金満アメリカ人だ。日本人は時間がないから来ない」と言っていた。
 スタマティスは、そんな好き勝手なことをして暮らしている男だ。勤めるとか、早起きしてジョギングするとかは一切しない人間だが、不思議に魅力的な生き方をしている。一つは、一所には根付かず、心の中に羅針盤を持っているみたいに、自分の欲求や意志にしたがって、どこへでも行って住み着いてしまう。面倒なことが嫌いだから、定職もないし財産もあまり持たない。でも、それを引け目に思うこともない。それで、どっこい、ちゃんと生きている。半年に一度しか会わないにせよ、息子もいる。スタマティスには、親切で人懐っこいところもあるから、人に少しくらい迷惑をかけても、彼のことで本当に腹を立てる人も少ないだろう。彼のような生き方は、僕にはとてもできないが、だからこそ魅力的で、ときどき会って話をするのが楽しみな友達なのだ。
 2、3日して、僕たちはベルグレーブの喫茶店で再会した。
 「どうだい、ギリシャは? 景気はずいぶんひどいらしいな」と、僕が言うと、「いやあ、俺はもうギリシャからは出て、2年前からタイのチェンマイで暮らしている。かみさんの実家の近くだ。農業だよ、今は農業」と、スタマティスは笑った。
 「え? じゃあ、ヨットのビジネスは?」と、僕は驚く。
 「とっくに止めた。もう海はいい。チェンマイには海がないから清々したよ。ヨットは、スペインで売っちまった。ひどい安値だったが、タイで家を建てるくらいにはなった。船は手がかかりすぎる。」
 確かにスペインの景気も悪い。だが、僕は本当に驚いた。スタマティスは心底船乗りだったからだ。昔このベルグレーブに住んでいた時も、海がないので、鬱病になりそうだと言っていた。朝からシーバスリーガルのボトルを抱いて、ぼんやりしていたこともある。それでも、別れたオーストラリア人の元妻との間に息子のルカがいるから、仕方なく山間のベルグレーブにいたのだ。しかし、その時でもブリスベンにヨットを係留していて、チャーターのお客が現れると、飛行機でブリスベンに飛び、グレートバリアリーフでも、ハミルトン島でも、どこでもお客を連れてひと回りしてくるのを商売にしていた。
 「海は最高だぞ。特に一人で出ているときはな。トイレのドアを開けっ放しでウンコをしても、とやかく言う女だっていない」と、彼は言っていたものだ。僕も、きっとそうだろうな、とうらやましかった。

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ユーカリの巨木を見ていると気が滅入る、とスタマティスは言っていた

 そういうスタマティスは、女性には手が早くて、オーストラリア人の奥さんと分かれると、すぐに息子の同級生の母親の美人バツイチとくっついた。しかし、彼女とも2、3年で別れ、今度はクルージングで行ったタイのパタヤビーチで知り合ったタイ人女子学生と出来てしまった。スタマティスより30才も若い相手だ。そして、何とその娘と結婚して、ギリシャに連れていってしまった。
 「俺はな、40才台のオーストラリア女には愛想をつかした。我が強くて、気位が高くて、威張ってて。男が尽くして当たり前だと思ってる。その点、タイ人の女性は最高だよ。俺が面倒を見てやれば、彼女も俺の面倒を見てくれる。
(I look after her, she looks after me.)料理でも洗濯でも何でもな。まあ、問題は、タイ人というのは大家族主義だから、彼女と結婚したと言うことは、つまり彼女の親類と結婚したに等しい。だが、俺はギリシャに彼女を連れていくから、その点も大丈夫だ。ワハハ。」
 これがオーストラリアを離れ、ギリシャに戻る前のスタマティスの言動だっだ。ただ、その時の周りの人たちの反応は良くなかった。特に女性の反応が悪かった。
 「全く、あんなニンニク臭い男のどこがいいのかね?若いタイ人の奥さんだなんて聞いて呆れるよ。金の切れ目が縁の切れ目、あのスケベじじいにはすぐ愛想が尽きるに違いないよ」と、前からスタマティスの女癖に呆れていた近所のオーストラリア人女性はこう言い捨てた。僕も、30才も若い奥さんを貰う度胸には驚いたものだ。しかし、今は奥さんの親類に囲まれてチェンマイの田舎で暮らしていると言うから、彼の変わり様にはびっくりした。
 「で、タイの暮らしはどうなのさ?奥さん元気?」と、僕は興味津々で尋ねた。
 「タイの暮らしは、今年で2年目だ。最初は良かったよ。でも段々大変になってきて、どうしようかと思ったが。おれみたいな西洋人がタイの田舎にいると、思いもよらない事だらけだった。でも、今はそれにも慣れてきた。タイ語も少しは分かるようになってきたしな。」
 スタマティスは船乗りだが、全く教養がない訳ではない。ちゃんとドイツの大学で心理学を勉強したこともある。しかし、大学は中退だ。理由は、彼がディスレキシア、つまり失読症、あるいは難読症と言われる障害を持っていることが判明したからだ。
 「いくら勉強しても、ちっとも頭に入らない理由が分かってほっとしたよ」と、スタマティスは自分の障害について言っていた。
 スタマティスは、書いてあるものはあまり読めない。海図や地図は、目の前にある部分はどうにか読めるが、ページをめくったとたん、前のページにあったことを忘れてしまう。よくそんなでヨットを駆って海を渡ることができたと思うが、そこは年期の入った船乗りだから、動物的な「勘」があったのだろう。
 だからスタマティスは、言葉はみんな耳から覚えてしまう。ギリシャ語は母語としても、英語はぺらぺらだ。ドイツ語もうまい(らしい)。スペイン語やイタリア語やフランス語もそこそこできるようだ。そして今はタイ語だ。障害があるのは大変だが、逆に他の能力で補うから、語学力がつくのかもしれない。
 ヨットの腕だって大したものだ。オーストラリアからギリシャに戻った時もヨットだったし、人のヨットを回送して、タイからブリスベンとか、インドネシアからメルボルンとか、しょっちゅう航海していた。僕だったら、その一つをしただけで大冒険だが、スタマティスは、ちょっといなくなったと思ったら、北アフリカかどこかまで行っていたなんてことがしょっちゅうだった。

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オーストラリアのシオマネキは何語を話すのか?

 タイの話に戻る。 
 「奥さんはどうしてんの?楽しくやってんの?」
 「タン(奥さんの名前)は、すごくハッピーだ。彼女は、ぜんぜん何もしてないからな。」
 「毎日何してんのさ?」と僕.
 「テレビを見てるんだ。タイ語のくだらないお笑い番組さ。俺には分からないから、うるせぇって言ったんだ。そしたらヘッドフォンを買ってきて、それを着けて見ている。それと、ケータイで友達か家族とおしゃべりだ。まるでケータイと暮らしているみたいだぞ。だが、俺の世話はしてくれる。食事も、洗濯も、掃除もな。タイの女ってのは、そんなもんだ。」
 「王様みたいじゃないか。」
 「ああ最高だ。でもなあ、鉄太、引っ越した時は驚いたぞ。オヤジとオフクロが持っている素敵なチーク材でできたバンガローに住まわせてもらったんだが、ひっきりになしに人がくる。いつも村の誰それが家にいるんだぞ。両親や親戚が来たら一緒に寝る。文字通り一緒にだぞ。バンガローだから、外がよく見えるが、外からも丸見えだ。俺たちは二階に住んでいたから、一階で煮炊きが始まれば煙でいぶされる。雨は入ってくる、風は吹き込んでくる。野良犬も来る。ブタだって来る。一見かっこいいが、プライバシーってものがない。全然ない」。
 いくら元船乗りでも、ヨーロッパ系人種には、プラバシーがないのは堪えられないだろう。僕だってそんなのは嫌だ。
 「だから船を売った金で家を建てたんだ。小さなバンガローだ。陽で乾かしたレンガを積んで作った家だ。これはいい。煙も入ってこない。それと犬を飼った。ドイツのドーベルマンだ。そいつを庭先に放しておけば、人も入ってこない。絶対にだ。」
 僕はその光景を想像しておかしくて笑ってしまった。
 「アハハ。じゃあ、ドーベルマンの餌は、哀れなタイ人ってわけかい?」
 「まさか、そんなひどいことをする訳ないだろ。周りの村人たちとはうまくやっている。みんな友達だ。」
 「でも、お前さんの家には入れないんだろ?」
 「呼んだ時しか入れない。それが、礼節のある近所付き合いってもんだ。」
 「農業ってのは、何をやってんだ?」と僕は尋ねた。スタマティスは、一瞬顔を曇らした。
 「そうだ、それだ、問題は。農業だ。俺はタンの父親と、つまり義理の父と、ライチー栽培をするつもりで、20エーカーのプランテーションを買うところなんだ。」
「すごいね。それだけあれば左うちわじゃないか。」
 「まあ、そういう予定だ。軌道に乗ったらライチーは中国へ輸出する。中国人はライチーの実が大好きだから高価で買ってくれる。そして、頃合いを見計らって農園も売っぱらう。ところが問題は、チェンマイの田舎では、誰も金を持ってない。うちの義父にしたって、ぜんぜん金がない。普段は現金なんかなくても暮らせるからな」と、スタマティスは顔をしかめて言った。
 「じゃあ、お前さんの持ち金をそれに使うってわけかい?」と僕。
 「いや、そんな間抜けなことはしない。だから、今はその金策を考えているところさ。どっちみち20エーカーの農園だって、今は荒れ地だから大した額じゃない。そして、そこを整地して果樹を植え、最後は売っぱらって、差額で儲けようって腹だ。だから金は戻ってくるはずだ。」
 「戻ってくるはずか」僕は相づちを打った。
 人生の惨いところは、そういう「はず」というものは、しばし外れるものであるところだろう。しかし、船乗りだったスタマティスは、不測の事態には慣れているはずだから、そんなことは納得ずくに違いない。メルボルンでウイスキー浸けになっているよりずっと良い。
 僕はそこまで話したら帰る時間がきたので、具体的な金策については聞きそびれた。実際スタマティスにだって、何か考えがあったとは思えない。 
 僕たちは霧雨の中でまた握手した。スタマティスは船乗りがよくかぶっている丸い毛糸帽を耳までぐっと引っぱりおろしながら、「冴えないなあ、メルボルンは。チェンマイに遊びにこいよ」と言った。
 「そのうち日本に帰る時、バンコク経由で帰ることにするよ」僕は、本気でそう言った。
 「そうしろ。チェンマイはバンコクから飛行機でたったの1時間だ。うちのバンガローに泊めてやる。」(僕は、豚に添い寝されている自分を想像して身震いした。) 
 それから、スタマティスは喫茶店の真ん前に停めてあった20年前の型のカローラに乗り込んだ。ドアを開ける時、ギーッときしむ音がした。これは「爆弾レンタカー」(rent-a-bomb)と呼ばれる、廃車寸前の中古車を使った安いレンタカーだ。スタマティスのもうひとつの哲学は、「なるべく歩かない」だから、短期滞在でもレンタカーを借りる。そして、車は目的地の真ん前に駐車する。
 やがて、青い排気ガスを吐いて、爆弾カローラは雨の中を走り去った。
 僕には、また遠からず、スタマティスがこの「冴えないメルボルン」に戻ってくるんじゃないかという気がしてならない。
Who knows?
 
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冬の海とメルボルン遠景
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2012年07月16日

冬休みの父子釣り旅行

釣れるときもあれば、釣れないこともある、

メルボルンでは、7月は冬休みだ。(8月はもっと真冬だから、日本が夏休みだからと言って、メルボルンにくることは勧めません。寒くて雨が多い。)

僕とリンゴロウは、釣り旅行に出かけた。愛車カムリワゴン号は1994年型で、25万キロも走っているが、屋根にカヌーのタンタン丸を乗せて、車内には釣り道具を満載しても、100キロでぐいぐい走ってくれる。いざ、Gippslandへひた走り。

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いざロックスポートへ

今回僕とリンゴロウが行ったのは、メルボルンから200キロ、ロックスポート(Loch Sport)という海辺。片側が塩水の湖、片側が90マイルビーチがどこまでも続く半島の海岸だ。釣り人にはこたえられないロケーション。冬なので誰もおらず、どこへ言っても父子二人のみ。まるで天国のような状況。

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ロックスポートの海岸

ところが、寒くて寒くて魚も一切食いつかず。波止場でも砂浜でも岩場でも、ちっとも釣れず。一週間前に出かけた、我が家の近場フリンダーズという桟橋では、キスやカワハギやシマアジが35匹も釣れたのに、なぜかロックスポートでは「丸坊主」。道理で誰も釣ってないはずだ!

ビクトリア湖でウナギを釣ったこと

二日目、仕方がないので場所を変える。ビクトリア湖(真水)とキング湖(海水)という二つの湖を結ぶ運河のような川で、我らがカヌー、タンタン丸を浮かべてカヌーからの釣りを目論む。ところが、ここでも何も食いつかず。と思いきや、葦の生える川面で釣っていたら、何かが僕の針にゴーンと食いついた。かなりの大物だ。僕の希望としては、こういう場所では30センチ代のチヌ(bream)でもあげたかったが、かかったのは大ウナギだった.直径5センチ、長さ1メートル。細い釣り竿が折れそうなくらいしなった。でも、僕はウナギをおろすのは苦手なので、糸を切って逃がしてしまった。やれやれ。

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ヌシのようなウナギ

さて、タンタン丸というカヌーは、cajan pirogueというアメリカ南部ルイジアナ州の川舟を模したカヌーだ。僕が一昨年に3ヶ月かかって作ったもの。オールで漕ぐだけでなく、12ボルトのバッテリーで駆動する船外モーターも付けられる。リンゴロウは、今回このモーターを操縦し、川を上ったり下ったりして大満足。父親の僕は、ひっくり返りはしないかとヒヤヒヤしたが、リンゴロウの操縦はなかなか上手であった。

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ペンズビルは風光明媚な港町

さて、ウナギ以外の魚がどうにも釣れないので、カムリ号を飛ばしてさらに東、ビクトリア州の釣り人のメッカと言われているPainesvilleまで足を伸ばした。ここは絵に描いたような美しい港町。「別荘買うなら、ここに決まりだな」とか言いながら、波止場でフィッシュ・チップスを食べながら、状況視察。父子共々、鋭いまなざしで水面を睨む。

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僕らの目の前をモーターボートや釣り船も行きかう。釣りに出ている人もいるようだ。ようし、今度こそなんか釣れそうだぞ! リンゴロウはお昼を終えると、近くの釣具屋に情報収集に出かける。帰って来るなり、「パパ、クモガニ(spider crab)でbream(チヌ)が釣れるってよ!」と興奮して走ってきた。そこで、生きたクモガニを一箱買い求め、さっそく糸を垂れる。

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クモガニさん

期待に胸が膨らむ。チヌはファイトが素晴らしい魚だし、食べても美味しい。ところが、待てど暮らせど、当たりも何もなし。チヌどころかフグも釣れず。お魚さんたちはどこへ行ったのか? 波止場は風が強くて寒いだけ。Painsvilleもやっぱりだめか、と嘆息。仕方がないので、クモガニたちを連れて、Loch Sportまで一時間半の道のりを引き返す。

Port Albertで、再度フィッシュ・アンド・チップスを食べたこと

ああ、三泊四日の父子釣り旅行も、父親の僕がウナギを釣り上げただけで終わるのか! いやいや、まだ、最後の手段がある。帰り道に、昨年大漁だったPort Albertという港町に寄って帰ろう! 昨年は、大振りのアジ、シマアジ、コチなど、ここの桟橋で4、50匹を釣り上げ、カムリ号に大漁旗をたてて帰宅した良港なのだ。ガハハ。今度こそは、釣ってやる。距離にして100キロの道草だが、かまうもんか。いざ、行かん!

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過去には大漁のこともあった

景気付けにビートルズの青板、赤板のCDをがんがんかけながら、South Gippslandフリーウエィを飛ばす。はやる心を抑え、時速も100キロに抑えながら、ひたすらまっすぐの道を一時間とちょっと走る。

Port Albertに着くと、潮は上げ潮ときている。つまり、魚も潮にのってばんばん上ってくるはずと、釣り糸を垂れる。

ところが、待てど暮らせど、ちっとも反応なし。「ええ?、またあ?」と、リンゴロウも泣き声。昨日のクモガニちゃんを付けたり、エビでつってみたり、桟橋に張り付いているフジツボを叩き割って餌にしたり、疑似餌でつったり、手を替え品を替えてあがくが、全然だめ。

と、そこへ、ぐぐーと引きがきた!「やったー、きたぞ!」と、ぼくは叫び、竿を上げる。コチか、アジか、ええい、釣れれば何でもいい!と、期待に胸を弾ませてリールを巻き上げる….

と、針にひっかかってきたのは、15センチくらいのカニだった。
「ちくしょう、カニでカニを釣ってどうするんじゃあ」と、放り投げようとしたが、リンゴロウは大喜び。バケツにカニを入れてしばし戯れる。

僕は、全く期待を裏切られたが、ひたすらがんばる。でも、釣れない。釣れない時は、とことん釣れない。バース海峡を越えて南極から吹いてくる風はひたすら冷たい。ああ、やんなっちゃうなあと、ため息。カニと遊び飽きたリンゴロウも、「パパ、寒いよう、腹減ったよう…」と、情けない声。

じゃあ、お昼にするか。でも、食べる場所と言えば、Port Albertには店が三軒しかない。食い物屋は、フィッシュ・アンド・チップス屋だけ。昨日の昼もフィッシュ・アンド・チップスだったのに、またかよ。でも、ここのは美味しいので有名なフィッシュ・アンド・チップス屋だからいいかあ、などと言い訳をしながら、二日続けてフィッシュ・アンド・チップスを食べるはめに。(いくら美味しくても、腹にもたれる)。お昼の後は、諦めが肝心と、釣りは降参し、ひたすらメルボルンまで200キロ、カムリ号を飛ばして帰る。

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どこまでも広がる空と水(ビクトリア湖)

ちっとも釣れない釣り旅行だった。従ってお土産もなし。釣れれば、みんなで家でお刺身と焼き魚だったのに、釣れなかったので、晩は鶏の寄せ鍋を食べました。旅行に行って帰ると、なぜかお豆腐とお醤油味の食べ物が食べたくなる。これも幸せ。女房と娘の顔を四日ぶりに見るのも、しみじみうれしい。そんな感じの冬休み「男組釣り旅行」だった。

よし、次は釣るぞ! 
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2012年05月31日

薪の備蓄状況など

薪の備蓄

薪割り日記と称したこのブログには、最初の頃はよく薪のことを書いたが、この頃はちっとも薪のことを書いていない。で、最近もちゃんと薪は割っているのかと言うと、ここのところちっとも割っていない。なぜか?

その理由は、薪の貯金が一冬分ほどあるからだ。「アリとキリギリス」というお話のように、私は、夏の間にせっせと薪を集めて割っておいたので、今冬は、あまり割らなくて済んでいる。

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庭の秋

5月の今は、正式にはメルボルンは晩秋であり、6月かられっきとした冬だ。もうけっこう寒いので、薪ストーブをボンボン燃やしている。だから、もしかしたら、私の「薪貯金」も8月頃には枯渇して、やはりせっせと薪割りを敢行しなければならなくなるかもしれない。まあ、それはまたそのときのことである。

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一日に燃やす薪の量

しかし、多少の薪貯金ができたと言って喜んでいてはいけない。上には、上がある。例えば、うちの隣は初老のご夫婦だが、この二人の家にはもはや終生薪割りの必要がないくらいの量の薪の備蓄がある。どれくらいあるかと言うと、我が家に崩れてくるくらいある。10トンくらいはあるだろう。どうしてそんなにあるかと言うと、1986年にメルボルンで大きな山火事があった後、そこら中に倒れていた焼け焦げた倒木を集めて歩いたからなのだそうだ。備蓄や貯金と言うのは、供給が需要を上回ると貯まる一方なのだが、そんなこと当たり前だ。ただ、薪の備蓄もお金の貯金も、それほどたくさん持ったことがない私には、今年の冬は、薪割りをしなくて良いくらい薪の貯金があるということが新鮮な驚きなのだ。しかし、ここまで貯まるには、数年の蓄積が必要だったことをここで強調しておこう。

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うちの薪の備蓄

ちなみに、隣のご夫婦は、60歳代前半だが、ご主人のネビルは元電車の運転手で、奥さんのケイは元看護婦である。二人とも50台半ばで早々と退職し、今は悠々自適である。こういう職業の人は、ちゃんと年金を何十年も積み立ててきたので、贅沢さえしなければ、老後を楽しく暮らしていけるのだ。お庭はとてもきれいだし、三羽飼っているニワトリは卵を毎日2、3個生むし、もうすぐ孫ができるし、毎年海外旅行だって行っている。今だってイタリア、ギリシャ、トルコを三週間かけてクルーズだ。うらやましい!(彼らの留守宅をみているおかげで、新鮮な生みたて卵をもらっている。)

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隣家の薪の備蓄

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隣家のニワトリさんたち

一方、私の方は、一冬分の薪の備蓄があるだけで、大船に乗ったつもりなのだから、将来はあまり芳しくない。おまけに自由業なので、年金もちゃんとはらってないから、多分一生リタイアできないだろう。

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庭の紅葉

「有名作家」としての日々

でも、薪割りをしないで空いた時間を何に使っているかと言うと、いろいろやっていることがある。ひとつは、この間も書いた「空き瓶洗い」だ。あれからも、せっせとビールの空き瓶を洗ってラベル剥がしをしたので、手作りビールを詰められる空き瓶の備蓄が200本くらいも貯まった。すごい! でも、こんなことで喜んでいては、全くダメなことはよく分かっている。

だから、仕事だってちゃんとしている。今日は翻訳の絵本を一冊仕上げたので、午後はお休みにした。かく言う私も、着実に、作家/翻訳家として名を広めつつあり、現に今週は、メルボルンの公立小学校の「作家訪問」の日に招待された。僕をよんでくれたのは、ハンティングデール小学校と言って、普通の公立の小学校だが、ここは日本語と英語のバイリンガル教育を行っている。日本人の先生が5、6人もいて、まるで日本にいるみたいに漢字のドリルなんかやっているのだ。

僕は、この学校に「日本人の作家」ということで招かれ、自作絵本の朗読、紙芝居、歌なんかをやってきた。バイリンガル学校だから、みんな日本語だ。ただ、「浦島太郎」の紙芝居は、竜宮城とか乙姫様とか玉手箱とか、オジーの子どもたちには、かなり理解不能な事物が出て来たので、そういうところは英語で解説した。特に、玉手箱を開けたとたん、どうして浦島がおじいさんになっちゃったのかよく分からなかったらしく、みんなぽかんとしていた。

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作家近影

読み聞かせの後は、「作家に何でも聞いてみよう!」みたいなコーナーで、英語や日本語で子どもたちがいろいろ質問してきたので、それに答えた。以下が、主だった質問である。

「お話のアイデアはどこから得るんですか?」
(答: 誰かが言った面白いことや、不思議な出来事など、毎日の生活から得ます.(ちょっと優等生的な質問かもね。)

「お話には、本当にあったことを書くんですか、それとも空想したことを書くんですか?」
(答:90パーセントは、本当にあったことを書きます。でも、出来ごとを、事実そのまま書くことはありません。例えば、人の名前は変えてしまいます。(けっこう良いところをついている質問だ.)

「絵本の絵も描くんですか?」
(答:いいえ、私は絵はヘダなので描きません.絵は絵描きが描きます.(この手の質問はいつも受ける.絵が下手なのが恥ずかしい.)

「絵本って、どうやって作るんですか?」
(答:ほとんどの場合、お話を先に書いて、絵描きさんが後で絵を付けます。時々は出版社に「こういう絵本を書いてほしい」と言われることがありますが、大概は自分で書いたお話を出版社に送ることが多いです。(ちょっと答えが難しかったかな。)

「絵本ってどのくらいの部数を印刷するんですか?」
(答: 普通は、2000冊から6000冊の間くらいです.(みんなこの答えには驚いていた.小学生には、何千と言う数は、すごくたくさんに思えるのだろう。)

「作家には、どうやったらなれるんですか?」
(答: お話を書いて本にすれば、誰だって作家になれます。(大人にも聞かれるよ、これは。)

「今までに何冊くらい本を書きましたか?」
(答:15冊くらいです。(嫌な質問だな。文学は量じゃない、質だよ、質。)

「最初に書いた本は何ですか?」
(答: 昔は英語の先生だったので、英語の教科書です(子どもたち、なぜか爆笑。僕の英語の発音が日本人的だからか?)

「作家になって有名になって、どんな気分ですか?」
(答: 私は有名じゃありません。それに、作家がみんな有名な訳ではありません。私は、別に有名になりたくて作家をしている訳でもありません。(作家ってみんな有名だと思ってるんだな。笑っちゃうなあ、こういうの。)

「お話を書くとき、お母さんに手伝ってもらうことはありますか?」
(答: 私の母は、20年前に亡くなったので、母に手伝ってもらうことはありません。でも、母の代わりに、妻や子どもたちに手伝ってもらうことはあります。(子どもならではの、すっごくかわいい質問でした。)

ハンティングデール小学校のみなさん、先生方、どうもありがとううございました!

と言う訳で、僕は、仙人みたいな生活をしていると思われているかもしれないが、ちゃんと、普通の人間との接点もあるんだということが、今回の結論。以上、おわり

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鉄太制作「ししおどし」(なんでこんなものを作ったかは、また今度説明しますが、決して暇だからじゃありません。)



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2012年05月02日

お墓で朝ご飯(最近やったことなど)

村のお墓で朝ご飯(4月上旬)

チャコが、メルボルンから300キロのギップスランドのスウィフトクリーク村で、巨大クモの巣(みたいなインスタレーション)を作るので、その応援を兼ねて、家族旅行(プラス娘のクラスメートのサムという男の子も連れて)に出かけました。大好きなタイヤーズ湖でカヌーと、サーフスキーをする予定なので、荷物満載のこんな格好で出撃です。

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トレ–ラーを引いて満載の車

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ギップスランドの田舎道

ギップスランドのスウィフトクリークは、ビクトリアのアルプス、マウントホサムの麓のきれいな村。チャコは、ここの古い墓地の上に、クモの巣を張りました。50メートルx50メートルの巨大なクモの巣。この墓地は、史蹟にも指定されている古い墓地で、墓石を読むのが面白かったです。クモの巣は、村の人も総出で作りました。とても、きれいな谷間です。二日目には、墓地で村のみなさんと朝食会。おいしいくだものを一杯食べました.りんご、杏、桃、梨(日本の梨もありました)、苺、イチヂクなど。

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お墓とクモの巣
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お墓で朝ご飯

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古いお墓

泊まった宿の裏は清流で、マス釣りを試みましたが、何も釣れず。翌日は、タイヤーズ湖までドライブです。釣りをすると、大きなコチが二匹釣れました.カヌーで湖を漕ぎ回ります。大きな湖も、ほとんど僕たちだけ。

本当にのんびりしました。

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タイヤーズ湖(塩水です)

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スウィフトクリークの野良猫とリンゴロウ

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サムとリンゴロウ

文庫キャンプ

メルボルン文庫の、恒例文庫キャンプにいきました。Upper Yarra Reservoir公園に、復活祭休み(4月下旬)を利用していきました。10家族くらいが集まって、賑やか。やっぱり、一番楽しかったのは、焚火かな。特に子どもたちが、栗を焼いたり、マシュマロを焼いたり。お父さんたちは、釣り好きな人が多いので、今夏の釣果の比べっこなど。お母さんたちも「井戸端会議」。それから、湖を見下ろす山に登りました.ほんの40分ほどの登山ですが、みんなふらふら。オーストラリアって、平地ばっかりだから、たまに山に登ると、「うへー、すごい坂!」とか言っちゃって、大騒ぎです。

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キャンプではたき火だ


日曜日のシーカヤック(5月頭)

日曜日の午前中、ふと自由な時間ができたので、ぶらっと一人で、サンドリガムまで海の散歩にいってきました。今日借りたのは、Current DesignのSciroccoというシーカヤック(全長5.2メートル)です。(僕は、カヌーは持ってるけど、、まだ自分のシーカヤックはもっていません。

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カヤックに乗るわたし

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シロッコ丸

実は、2月に二日間のシーカヤックの集中レッスンを受けたので、セルフレスキュー(ひっくり返って海に落ちたととき、カヤックに再乗船する方法)、横漕ぎ、後ろ漕ぎ、方向転換、仲間を牽引する方法など、基本的な技は教わりました.

でも、今日はまったく一人だし、秋で水はもう冷たいから、転覆しないように祈ってのパドリングです.カヤックを借り出して漕ぎ出すまで、スプレースカートがしまらなかったり、フットブレースの調整を忘れたりして、30分くらい砂浜で奮闘しました。まだ漕いでもないのに、汗だく。

ようやく準備ができて、カヤックを慎重に漕ぎ出しました。自転車に喩えれば、補助輪がとれたばっかりくらいの初心者なので、ひっくり返らないようにマリーナの周辺を周回します。艇をぎりぎりまで傾けてターンしたり、ひっくり返らないようにロウブレースの練習をして、レッスンのときの自信を取り戻しました。

どうにか、このカヤックも体に合ってきました.そこで無風、波なしのマリーナから、もう少し風や波のある外海にちょっと出てみます。

いきなり、大きな1メートルのくらいのうねりが、「ぬおー!」という感じで、カヤックを持ち上げ、降ろします。風も、10ノットほどで海方向から吹きつけます。そこで、風上に向かおうとターンすると…あわわ、とバランスを失いかけました。でも、そくざに体重移動、バランスを取り戻してオッケー。いいぞ、これでいけそうだ!

さらに自信をつけたので、もう500メートルばかり西に向かいます.今度は風下に向かって細長いカヌーは飛ぶように走ります。メルボルンの市街も遠くに見えて、いい気分。このまま、タスマニアにだって行けちゃいそう(うそ!)

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メルボルンに向かって漕ぐ

でも、あまりいい気分になっていると転覆しそうなので、そろり、そろり、マリーナに戻ります。風向きが少し東向きに変わったかな.カヤックに乗っていると、風の強さだけでなく、どちらの方位から吹いてくるか、観察するようになります。雲の種類や動きもきになります。

マリーナに戻り、またターンやブレースの練習。すると、向こうから、新品の高そうなピカピカなカヤックに乗った、年期の入ったおじさんたちが来ます。いいなあ、あいいうの欲しいなあ! もっと上手になったらね、と独り言。

まるで子どもに戻ったような気分の日曜日でした.。
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ピカピカの高級カヤックに乗ったおじさんたち
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2012年03月27日

中身が肝心

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近頃ハマっているのは、空き瓶のラベル剥がしである.

何でそんなことにハマっているかと言うと、ことの起こりは、ビールを手作りし始めたことにある。昨年10月からだ。ビールは一度作ると20リットルできてしまう。小瓶(375ミリリットル)に入れると60本だ。そこで空き瓶の確保、洗浄、ラベル剥がし、という課題が我生活の中に浮上したのだ。

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20リットルのビールを醗酵しているところ

実際、作ったビールを瓶詰めする際、空き瓶のラベルは必ずしも剥がす必要はないが、瓶を洗ったり殺菌したりしていると元の紙ラベルが自然と剥がれてきて汚くなる。衛生上もよろしくない。そこで、いっそ最初からラベルを全部剥がしてしまうことにした。シンナーを塗ったり、こすったりしてみて分かったが、一晩お湯に漬けておくのが一番きれいに剥がれる。完全に剥がれなくても、定規や古いクレジットカードのようなプラスチックの薄板でごしごしこすればきれいになる。そうすれば、手作りビールを詰める際に、ピカピカの瓶に自作ラベルだって張ることができる。

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瓶のラベル剥がしをやってみて感じたのは、ラベルのついてない空き瓶が実に美しいことだ。洗いたての濡れた瓶は、透明できらきら光っていて、清潔というだけでなく、清純と言っても良いくらいきれいだ。

僕はガラスの瓶が好きだ。水色や緑色のガラスの向こうに見える歪んだ風景を眺めて飽きることがない。古い、品質の悪い瓶のガラスに気泡が混じっていることもあるが、そういう瓶ほどきれいだ。昔のコーラの瓶も好きだが、一升瓶、ワインの瓶、ラムネの瓶、キッコーマンの醤油瓶も、みな美しい。オーストラリアで流通している、375ミリリットルのいわゆる「スタビー」と呼ばれるビールの小瓶も、会社によって形や色が違って面白い。子どもの頃、夏になると冷蔵庫には冷えた麦茶が入っていたものだが、うちの麦茶はいつもニッカの角瓶の空き瓶に入っていた。むろん角瓶に入った麦茶は、格別に美味しかった。

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ラベルを剥がしたビール瓶が70本

昔、アメリカのワシントン州立大学に留学したとき、大学近くを流れる川の橋のたもとに瓶拾いに行ったことがある。ワシントン州とアイダホ州境の、農場の間を眠たげに流れる川の橋だ。この橋を車で渡る時、瓶を車窓から捨てる人が多いらしく、川縁に空き瓶がたくさん落ちていた。多くは酒の瓶や清涼飲料水の瓶だが、かなり古い瓶も埋まっていると地元の友達が言った.古いコカコーラやドクターペッパー、あるいはウイスキーの小瓶などは骨董としてけっこうな値打ちがあるらしい。そこで、皆で泥まみれになって一時間ばかりあちこち掘り返すと、本当に出てくる、出てくる。1940年代のウイスキーの瓶、茶色の薬瓶、アールデコ風のジュース瓶など。年代物の瓶がたくさん集まったことを覚えている。そして、拾った瓶は友達がアンティック屋に売り払い、その上がりでビールをたくさん飲んだ。

それほどビンテージな瓶でなくとも、空き瓶は再利用ができる。我が家では花を一輪挿しにしたり、ジャムを作って詰めたりいろいろに使うので、段ボール一箱や二箱は、いろいろなサイズのものをとってある。僕は、このあいだ何日かかけてビール瓶およそ70本のラベルを剥がしてしまうと、今度は段ボールに保存してあった他の瓶のラベルも剥がしてしまった。ラベル剥がしは、どうも癖になるらしい。
(こう書くと、よほどの暇人だと思われるが、決してそうではない。僕は、こういったことを原稿書きや仕事の合間の気分転換にやっている。原稿を20分書くと、2、3本ごしごし。英語の論文を30分読むと、バケツでじゃぶじゃぶ、という風に。僕の生活はここ10年ばかり、ずっとそうである。炊事、洗濯、草刈り、薪割り、ビール作り、カヌー作り、家の修繕、子育て、博士論文、みな仕事の片手間である。それでも私を暇人と呼びたい人は、勝手にそうして下さい。)

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ごちゃごちゃした僕の書斎初公開

ラベルをたくさん剥がしてみて分かったことは、中にはお湯につけても決して剥がれないラベルもあることだ。そういう頑固なラベルに対しては、シンナーや「ラベル剥がしシール」など、さらに上級レベルの工程もあるにはある。しかし、しょせんは空き瓶だ、お湯で剥がれないようなラベルは相手にしないことにした。僕はもう50才だし、これからの人生は、これまでの人生ほど長くはないだろうから、やっても埒があかないことはしないことにしている。ビール瓶で言うと、ハイネッケンのような、透明プラスチックのラベルは剥がれにくい。(だからハイネッケンはもう飲まない)。また、ベルギーやドイツのビールも最後まで剥がれ難く、さじを投げたこともある。実に頑固なお国柄である。ところが、サッポロやキリンなど日本勢のラベルは、最初はちょっと抵抗するが、ある時間が経過すると、はらりと剥がれてしまう。(こういう女性が一番色っぽい?!)一方、オーストラリア国産勢のビール、大手メーカーFOSTERやCoopersは、日本のキリンなどよりはずっと手強いが、ドイツビールほどではない。こういうところは質実剛健オジー精神で頼もしい反面、芯は優しいということか。同じオーストラリアでも小さな会社の、オーガニックのホップを使った地ビール勢は、地球や体に優しくて味も美味しいだけでなく、ラベルの方も2、3時間お湯につけただけで、はらりと簡単に剥がれる。こういう心憎いビール(と空き瓶)が一番偉い!

こうやって、いろいろな空き瓶に取り組んでみて分かったことをもう一つ書くならば、空き瓶というのは、(大概はであるが、)最初に入ってきた中身より、後から入れた中身の方がずっと味も良く、品質も良いことだろう。手作りジャム、自分で作った「かえし」(醤油とみりんと砂糖を煮付めた、あれです)、自作のごま塩、畑で栽培した唐辛子で作ったラー油などは、買ってきた物よりも作ったものの方が新鮮でずっと美味しい。(袋詰めになっているピーナッツやお菓子を空き瓶に移し替えただけで美味しそうに見えるのも不思議)。

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台所の棚の中

そして手作りビール! 時には失敗することもあるが、瓶詰めして3ヶ月以上経って十分熟成が進んだビールは、買ってきた既製品のビールの数倍旨い(嘘だと思ったら自分で作って見なさい。あるいは、作っている友達の家においしいお土産を持って押しかけなさい)。日本ではアルコール度数の問題がまだあるようだが、オーストラリアではそんなこと関係なし。大体、自分が作ったビールのアルコールの度数など正確には分からないし、そんなことどうでも良し。エール、ラガー、メキシコ風セルベッサなど作ったが、どれも大変美味。

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友だちと飲む自作ビールは旨い

だから、サッポロがいいだの、エビスじゃないとビールじゃないとか、オーストラリアならJame Boagなどとごたごた言っていた自分がアホみたいだ。それに何たる値段の違い! ビールの値段のほとんどは、酒税、流通や宣伝やパッケージ代である。消費者はそれを納得して買っているのだろうか? 自分で作れば一本たった30円!

空き瓶のラベル剥がしをしていると、結局ものごとは中身が肝心だと分かってくる。その証拠に、瓶の中身がなくなるとラベルは突然虚しくなる。キリンだろうが、コカコーラだろうが、サントリーだろうが、レミーマルタンだろうが、デルモンテだろうが、空き瓶は空き瓶だ。

人もしょせん空き瓶のようだ。人は生まれた時は空っぽだが、何年も生きていくと、中にいろいろな「中身」が詰まっていく。そうやって賢くなっていく。賢くなるだけならいいが、人はいろいろなラベルをまとうようになる。学歴、職歴、経歴、家系、所属、財産、着ている服、家、自動車、etc そういうラベルを誇示するようになると、人は賢いどころか、逆に愚かに見えてくる。

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画家の妻の空き瓶には絵筆がいっぱい入れてある

今日も、我が家では、空き瓶が貯まっていく。リサイクル直行の瓶もあるが、これはという逸品、空き瓶のエリートは保存され、ラベル剥がしの工程へと進んでいく。

ラベルは簡単に剥がせるとうれしいが、なかなか剥がれないと厄介だ。ごしごしやっていたら、僕の体にも剥がれ難い「ラベル」が何枚か張り付いていることに気づいた。ラベルは無理に剥がそうとすると、醜い結果になるから、焦ってはダメだ。だから、頑固なのはそのまま、いつか簡単に剥がせる方法がみつかるまで、そっとしておく。ラベルを剥がし、すっきりした空き瓶を光にかざして眺めていると、心も空っぽになって軽くなる。

晴れた日、机仕事の合間、庭先に出て蛇口の水を迸らせながら、ふやけたラベルを瓶から剥がすのは案外楽しい。

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カヌーで漕ぐ海も心が空っぽになる
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2012年02月17日

寒い国から帰ってきた男

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冬富士

『寒い国から帰ってきたスパイ』というのは、ジョン=ルカレの有名なスパイ小説で、東西に切り裂かれた時代のベルリンを舞台にした二重スパイの話だ。冷戦時代の恐ろしい話だが、ときどき読み返したくなる秀作だ。

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雪の多摩

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高尾山頂で

別に、この小説には何の関係もないが、一月下旬から二月前半、この6年で一番寒かったと言われる東京で過ごしてメルボルンに戻ってきた.だから「寒い国から帰ってきた男」ということばが自然に脳裏に浮かんできた。

戻ってきたメルボルンは、やんわり暖かい25度で、体の汗腺がうれしそうに、じわーっと開いていくのが分かる。温暖なオーストラリアに住んでいると、段々寒いのが苦手になってくる。

当然だが、日本が冬の時は、メルボルンは夏だ。これは体験した人でないと分からないだろうが、成田から飛行機に10時間も乗ると、季節が逆転する状況は、順応するのがけっこう厳しい。しかし、僕は、東京とメルボルンの行き来はもう何十回もやったので、いつの間にか慣れてしまった。メルボルンに戻る時は、成田空港で、履いてきた股引を脱ぎ捨てる。(そう、50才の僕は、冬は股引が手放せない)。厚手のシャツも薄手のものに着替えて飛行機に乗る。そして、オーストラリアに着くと、さらにもうひと脱ぎしてTシャツになる。靴も、サンダルに履き替えたりする.ところが、周りを見渡すと、まだユニクロのダウンジャケットなんか来て、ふーふー言っている日本人中高年カップルや、マフラーを首に巻いて顔にマスクをしたままの着膨れワーホリネーチャンなんかがいて笑ってしまう。(マスクなんてしてオーストラリアの税関を通ろうとしたら、検疫官に連れていかれるぞ!)

メルボルンで人生の三分の一近くを過ごした僕には、1月は季節的には夏であり、もはや冬ではない。逆に、8月は、僕にとって真冬である。だから、日本からのお客が、ユニクロの薄っぺらシャツかなんか着て8月のメルボルン降り立ち、「おー、寒い、寒い」なんて凍えているのを見ると、また笑ってしまう。

それにしても、夏の真っ盛りに3週間も家を空けると、庭は雑草が思うがままにはびこり、ジャングルになってしまう。だから、トランクの中身を整理する間もなく、僕とチャコは庭に飛び出し、雑草を引き抜き、芝刈りで草刈りをして、事態の収拾にとりかかった。

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ベルグレーブのうちの畑

畑は無法状態のシリアみたいな状況である。延びたトマトは、支えがないので無惨に傾いているし、ズキーニは水をやってないからツルだけ延びて、実はうらなり。パセリは茎も葉も固くなって木みたい。元気につやつや延びているのは、シルバービートの葉だけだ。これは全然手がかからない野生児みたいな野菜で、夏でも冬でも、鉄分たっぷりの葉っぱを食卓に提供してくれる頼もしい奴。

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トマト(赤くなるかなあ?)

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うらなりズキニ

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シルバービート

チャコと二人で、「こんにゃろ、こんにゃろ」と、2時間ばかりひたすら雑草を抜いていくと、虎刈り頭みたいだが、どうにか畑の土が見えてきた。やれやれ、これで土を足して肥料をやれば、また何か植えられる。

植えたつもりがないのに、あちこちに生えているのはジャガイモだ。ジャガイモは、本当だったら種芋を二つに割って、灰を塗ってから植えるのだが、うちの畑には、頼みもしないのに自然に生えている。これは、コンポストに捨てても分解しきらなかったジャガイモの皮から生えてきたものだ。何としぶとい奴ら!土を耕していると、あちこちからぽろぽろ美味しそうな小さなジャガイモがこぼれ落ち、ザル一杯集まった。そんな新ジャガをバーベキューで肉の横で焼いたらとても旨かった。

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僕が作ったコンポスト(大作だよ!)

土からぼろぽろこぼれ落ちるジャガイモを集めていたら、死んだ母を思い出した。僕の母はもう20年も前に56才で亡くなったのだが、亡くなったのは9月下旬の秋口で、夏を乗り切った季節の変わり目にすっとこの世からいなくなった。母は、その年の5月頃までは元気で、倒れるまで伊豆天城の家で畑もやっていた。その母が亡くなると、父も、僕ら息子たちも、畑をする気力なんかなくなって、ほったらかしの草ぼうぼうになった。

母が亡くなった翌年の初夏、僕が天城に行ったら、畑があまりに雑草だらけなので草取りをした。そしたら、母が前年に植えたとおぼしきジャガイモが、バケツ一杯も穫れて驚いた。雑草の下の土から、見事なジャガイモが、いくらでもぽろぽろぽろこぼれてくる。まるで、母の命がジャガイモに姿を変えて生きているようで、僕は母に再会出来たみたいにうれしかった。このジャガイモは、天城の家の囲炉裏で焼いて食べたが、母が生きていたら、きっと得意の肉じゃがにでもしただろう。

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新じゃが各種(種類が混じっている)

自分の畑でとった野菜は、瑞々しく、単なる養分だけでなく、命そのものを摂取しているように美味しい。自分で釣ってきた魚を、「命をとってごめんね」と謝りながらも、おいしい刺身にして食べるのも同じだ。僕たちは、両親に生を貰って人生を始めるが、周りの生き物から命を貰って生き続けていく。

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大漁のこともある

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うちのぶどうは豊作(ワインでも作るかな)

僕は、昨日50才になった。なってみると、56才で亡くなった母の年に幾分近づいた気がする。山を歩いていて、ひとつ峠を越えると、向こうの山並みが前よりずっと近くに見えるようなったみたいに。僕もやがていつか死ぬが、その時には、母のように、畑のジャガイモみたいなものを残せたらいい。大きな家や財産ではなくて、でこぼこした、愛らしいジャガイモみたいなものを。

これは「かぼちゃ」(草間弥生の作品@直島ベネッセ美術館)
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2011年12月13日

クリスマスツリーを買いに行った

クリスマスツリーはもっと前に買わなくてはいけなかったのだが、この間まで日本に行っていたので仕方がない.

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そんなで息子リンゴロウにせかされて、近くのツリー農場に買いに行った.これは、我が家の年中行事で、行ってみれば正月のお飾りを買いに行く気分。前は娘のココもついてきたのだが、2、3年前この農場をやっているイタリア人のオヤジに「アジア人の女の子は頭がいいから、さぞあんたも勉強ができるだろう」と言われ、「アジア人だから頭がいいと言うのは逆差別であり、言ってみれば侮蔑」と憤慨し、それ以来ついて来なくなった。褒められてそんなに怒ることもないが、彼女が怒る気持も分からなくもない。多民族社会オーストラリアでは、この種の人種がらみの発言は良くても悪くても禁句である。

さて、もみの木はオーストラリアでは原生樹ではなく、ユーカリの淡い緑の中で、この濃い常緑樹の緑は異質な感じだ。こんなものを買わされるのは、クリスマスの商業主義に乗せられているせいだが、まあ「縁起物」(?)だからいいだろう。しかし、そう言って納得してしまうのは僕が日本人だからかもしれない。(まったく、故国のクリスマス時のデパートはすざましいよね。)それにしても、縁起物は値段が高い。30センチ毎に20ドル。リンゴロウが気に入った木は73ドル! (懐が痛い!) 

これを車に載せて帰るのだが、うっかり車の中に入れてしまうと、そこら中がもみの木の尖った葉だらけにになってしまうので、屋根に載せる。
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そうやって持って帰ったら、家のドアからやっと入るような大きな木だった。外だとどれくらいの木なのか大きさが分からない。「来年は、もっと小さくて安い木にしたら!」と、チャコに怒られたが、まあ、縁起物だからねぇ。いいでしょ、これくらい。

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2011年12月07日

帰ふるさと記: 一年半ぶりの日本(東京、大阪、京都、静岡)

11月後半、一年半ぶりの日本帰国だった。オーストラリアにもう15年もいる身としては、「帰国」という言葉を使うのが適切かどうかは別としてだが。

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一年半ぶりというのは、僕としてはずいぶん久しぶりだった。東北の震災、福島原発の事故などが、僕のささやかな予定にも多少の揺さぶりをもたらし、5月帰国だった予定が11月に延びてしまったのだ。

11月9日夜、成田に降り立った。空港はガラガラだ。空港もきっと放射能に汚染されているのでは、と一瞬身構えたが、すぐにそんな警戒心は吹き飛んだ.とにかく、僕の心は、まだ半分メルボルンに置いてきてあっても、成田に降り立ったとたん、もう体が「帰ってきた!」と騒ぎ出すのだ。それくらい、故郷の気温、湿度、人の話す日本語、見慣れた風景は、僕の身の内の奥底にある記憶や感覚を呼び起こす。

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僕は、そんな風に日本に帰ってくると、大概は3週間ほどの滞在なのだが、この最中は、僕は、たえず急加速と急減速を繰り返しながら時間を過ごし、結果としてかなり疲労するのだ。もちろん、時にはのんびりと、それこそ温泉にでも浸りながら鼻歌を歌ったり、故郷のおいしい食事に舌鼓を打ち、旧友や兄弟と夜明かしで語らうときもある。しかし、もはや日本で生活をしていない僕にとって、日本という場所は、概ねは過去の場所であり、この場所で時間を過ごすのは、どこかへ置いてきてしまった過去と再び出会うことの連続なのだ。それは、かなり心が重くなる体験でもある。

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そのままになっている父(渡辺茂男)の書斎

それは、僕が育ち、亡くなった両親の形見が依然としてぎっしりと詰まった実家に足を踏み入れることで始まる。実家に足を踏み入れたとたん、現在から急に過去へと引き戻され、突然に溢れ出る膨大な記憶の中で溺れそうになるのだ。実家の、何が入っているのか分からない父の寝室の引き出しを開けると、またさらに別の過去へと引き戻され、古い仏壇の扉を開けると、またさらなる過去へ踏み込んでいく。

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帰国して3日目、新幹線「のぞみ」で大阪、京都へ行った。のぞみは、東京駅で「プシュー」と扉を閉めると、軽やかにスピードを上げ、数分で品川、それからまた新横浜に停まる。その後は、本気になって加速し、小田原、三島、静岡を、まるで紙芝居の一ページ程度の感覚で飛び越えて行く。三島は、僕が中学時代を過ごした沼津への玄関口だし、静岡は父の故郷だ。でも、のぞみは、そんなことまるっきり無視して、陽気なスピードで名古屋まですっ飛ばす。お茶を一杯飲んで、オーストラリアから抱えてきた英語の小説を読んでいたら、もう京都だった。

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京都、大阪は、中学生の時以来ほとんどきたことがないという意味では、僕にとっては外国同然だ。高槻で阪急電車を降りると、インド人夫婦が、日本語で「お昼何を食べようか?」と話しながら前を通り過ぎた。今の日本では、インド人も日本語を話しているのに驚いたが、オーストラリアでだって、日本人同士が英語で話すこともあるから驚くに値しないだろう。

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説教師ののような僕: 講演会場がキリスト教会というのはよくある

今回は、大阪の高槻と吹田の二カ所で講演を頼まれ、オーストラリアの子どもの本や僕の生活について話してきた。その中で、「オーストラリアには、大阪や関西、それから九州、四国の日本人が多い気がする」と、僕の印象を述べた。すると、「東京の人は、東京に満足しているから外に出たがらないが、大阪の人も含めて、東京以外の人は故郷に満足せず、だから、東京でもオーストラリアでも面白そうな場所に出ていくのだ」と、説明してくれた人があった。

僕は、東京出身だが、決して東京には満足出来ず、アメリカへ行ったり、オーストラリアへ行ったりして、結局オーストラリアを住処にしている。そういう僕は、よほどの不満分子なのだろう。

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さて、大阪の後、一日京都を回った。自転車を1000円で借りて、三十三間堂、清水寺、銀閣、西本願寺などを訪れた.三十三間堂の千体観音の前では、圧倒的なその存在に打ちのめされた。千体の観音は、1000年近くそこに立ち、やってくる人を赦し、癒してきた。僕は、そこにしばし立ちすくみ、これらの観音が、僕を1000年待っていてくれたことに感謝した。

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夕方、さあ東京へ帰ろうと決心し、京都駅のホームに出たが、やってきたのは各駅停車の「ひかり」だった。そんなで、午後七時には、父の故郷である静岡に降り立っていた。関西弁を2、3日聞いていたら、父の方言である静岡弁にも身を浸したくなったのだ。

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駅南(えきなん、と静岡では言う)のビジネスホテルに荷物を放り投げ、呉服町の寿司屋に飛び込んだ。ここはもう間違いなく静岡だった。食べ物も言葉も。焼津の酒で生しらすをつまみ、それから呉服町はずれの「おでん横町」に足を向けた。ここには、静岡おでんのちいさなスタンドが軒を連ねる。流行っている店は月曜だと言うのに満席だ。僕は、年寄りが一人で酒を飲んでいた店に入る。老人は、天竜川の出の工務店主か何かで、「静岡は、世界でいちばんいいところじゃん」と言ってはばからない.待ってました、僕が聞きたかった言葉はこれですよ! 静岡は、世界で一番良いところ、故郷は、世界で一番良いところに決まってるぜ。その主観的な、独善的な、無知であるが故に確信に満ちた言葉。大阪でも、むろん東京でも、そんな言葉は滅多に聞かれない。でも、静岡では、ちょっと場末のこんな店に行けば、臆面もなく人はそう言ってくれる。

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老人は言う。「俺が、若かった時は、本当に静岡が良かったときだっけよ。秋田から女工さんがいっぱい集団就職で出てきてよ、島田や浜松の紡績工場で8時間交代のシフトで働いてたっけよ。で、シフトが明けると、静岡のダンスホールに来たっけじゃん。それで、俺らもめかしこんで出かけていってよ、いっしょにダンスを踊ったじゃんよ。そんなで、いっしょになって静岡に落ち着いちゃった人も多いっけじゃん」と、老人は話す。

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「そうよねえ、静岡が良いところなのは静岡の女の人はすごく働き者だからよ。昔から静岡は、共働きの夫婦が多くて有名なのよねえ」と、おでん屋のママも言う。

僕は、その赤い提灯がたくさん点いたスタンドで、おでんを2、3くし食べ(静岡おでんは、くしの数で代金を払う)、静岡サワーを2杯のんだ。これは、焼酎を緑茶で割った飲みもので、静岡ではみんなこれを飲む。僕はだめ押しに、黒はんぺんのフライも食べて満腹。耳の方も、静岡弁で満腹(耳?)だった。

静岡では親戚には寄らなかった。急に訪ねても、歓迎する方も、される方も、心の準備がない。商売をする従兄弟には、急な訪問は迷惑だろう。今回会わなければ、また別の機会に会うだろうと考え、東京に戻った。

今度は故郷多摩で、子どもたちを集めて「手作り絵本ワークショップ」を行った。一回は、「道草の楽しみ」という題で、もう一度は「オーストラリアの動物が私の町にきたら」という題で行った。道草は、今の子どもには、いささか抽象的で、なじみのないテーマだったようだ。「道草なんてしたことないもん!」と言った子もいた。大人には好評だった。大人は、子どもの時の記憶や思い出を愛おしむように、小さな絵本を宝物のように作っていた。

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東京に滞在中、小規模の同窓会があった。沼津の中学の同窓会だ。帰国する旨を2、3の友達にメールで書いたら、いつの間にかフェイスブックで知らせが回り、同窓会になった。(僕の帰国はあくまで口実。)ケンタロウ、サツキ、シンイチロウ、ナオミ、キンイチ、ユウスケといった面々が12名ほど銀座の中華屋で円卓を囲む。急ピッチで酒を口に運ぶ者もあり、すぐに座が乱れた。話題は、同窓会の常、失敗談、武勇談、恋愛、先生や友達の消息など。自分が覚えていないことも、しっかり他人が覚えていることに驚く。やがて座の乱れは頂点に達し、不参加の者も携帯やスカイプで呼び出され、韓国や北海道にいる者も会話に参加する。やがて同窓会の座は帝国ホテルのカフェに移り、そこが閉店になると、有楽町のスペイン酒場に移動。深夜2時、やっとお開きになり、予約しておいたビジネスホテルに、どう帰り着いたのかも分からず。そんな時間でも銀座は人で一杯だった.

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滞在最後の週末、新百合ケ丘の貸ホールで、「手作り絵本ワークショップ」をもう一回国際文庫協会の子どもたちのために行った。20名ばかりの子どもたちが集まり、絵本を作った。この子どもたちは、英国やフランスやオーストラリア、その他の外国に暮らした経験のある子どもで、その多くは、また将来日本を出て行くだろう。そうして、今の僕がそうであるように、「今」をどこか遠くで過ごし、故郷に帰ると、またそこで「過去」に引き戻される人生を送るのかもしれない。

僕の日本滞在も終わりに近づいた。2週間ほどで、講演二回、手作り絵本ワークショップを四回行い、京都や静岡に遊び、毎日2、3組の仕事の打ち合わせがあって気がついたら疲労困憊だった。気は張っていても、心の芯は重く、夜も熟睡できず、メルボルンに帰る以外の治療法はないと思われた。



最後の二日ほどは実家の整理を弟と行い、滞在中に買った本やこまごまとした土産を別便でオーストラリアに送る作業に費やした。そこでやっと、急加速していた心の張りが、やや普通に近い速度にもどった。

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オーストラリアに帰る前日、F社編集者Uさんと、時間の都合で西国分寺駅で落ち合った。僕は、そこまで自転車で行った。鎌倉街道、甲州街道、府中街道と、たくさんの車の後を排気ガスを吸いながら走った。西国分寺には都立府中病院がある。ここで、母が20年前亡くなった。その時は、僕は結婚したてで立川の団地にいた。その団地から重病の母を見舞う為、自転車で何度もここを訪れた。夜中など、結局自転車で来るのが一番早かったからだ。母は短い入院の中で、瞬く間に意識がなくなり、3ヶ月で亡くなった。しかし、その母の最後の頃の記憶は、僕の中に生き続けていることに気がつく。

オーストラリアに帰る日、昼食を弟と実家近所のソバ屋で食べる。いつも行く「ふさよし」が休みなので、「天ざる」へ行く。天ざるは、店も小さいのでいつも出前しか取らない。珍しく、その天ざるまで弟とぶらぶら歩き、町内の家の表札を見ながら知人の消息を話したり、思い出したり。この町内は、もはや老人ばかりだ。僕らの幼なじみの大多数は、もはやここにはいない。多摩に育った人間がこの町に居着かない理由は何だろう、と考える.

天ざるへ入る。どうしてもっと店をきれいにしないのか、いぶかるような店内だ。大きなお屋敷の立ち並ぶ住宅街の中という独占的地理的条件なのに。お品書きの方もぱっとしない。気の利いた手打ちソバでも出したら、さぞ流行るだろうに。そうしない理由は何か? そんなことを考えながら、選ぶ価値もないような品書きから、「とろろそば」を選ぶ。弟も同じものを選び、二人とも言葉少なく食べる.

店を出て、裏通りを歩く。作家、故山田風太郎のお屋敷がある。氏は数年前に亡くなったが、「山田風太郎」の表札がある。我が家も亡父の表札がまだかかったままで、この町内のあちこちに亡霊がいる。300坪ほどあった山田邸敷地は、相続税を払うためか半分ほどに減り、売った土地には小さな住宅が二軒建っている。しかし、山田邸にはまだ潤沢な印税が入り続けているようで、庭師が2、3人で、立派な庭木に霜よけの藁の覆いをかぶせている。「いいねえ、流行作家は。渋いねえ、この屋敷」と、弟がつぶやく。弟も、小説をこのごろ書いているが、山田風太郎のようになれるかどうかは、神のみぞ知る。とにかく、晩秋の陽を楽しみながらゆっくり家に戻る。

午後2時。空港へ発つ時間だ。夜の飛行機に乗れば明日の今頃はメルボルンだ。出る前、父母の仏前に線香をあげ、手を合わせて祈る。父母に、何かを語ろうと思うが、心はカラッポだ。とにかく、「ありがとう、またね」と、心の中で言う。

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駅まで、弟がでっかいグロリアで送ってくれた。彼は、ちまちまとしたことが嫌いで、こういう車を平気で乗り回す。荷物を下ろすと、弟は、「じゃあな、湿っぽい言葉は抜きにしてお別れだ」と、さよならも言わず、握手もせず、グロリアでブロロロと走り去った。僕は、弟の態度にあっけにとられながらも、帰国中に想起した諸々の、重たくて心の底が変形してしまうような記憶は全てここに置き去りにすることにした。

やがて、空港へ向かうバスがやってきた。バスは、人と、細々とした物が詰まったスーツケースを載せてしまうと定刻に出発し、あっと言う間に多摩川を渡って国立府中インターから中央高速に入り、軽快に飛ばし始めた。僕は、オーストラリアの英語の小説を膝に開いて読み始めた。そうやってバスの振動を楽しみながら、呼吸を「いち、にい、さん、しい…」と、27まで数えることを何度か繰り返した。

そうやって、僕はまたゆっくり減速していった。

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遠くなって行く故郷、多摩
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2011年09月29日

フッツクレイ図書館にての新作読み聞かせ

フッツクレイ図書館にての新作読み聞かせ

2011年9月24日

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メルボルン西部フッツクレイ図書館で、新作『やぎのアシヌーラ どこいった』(わたなべてつた作、かとうチャコ画、福音館書店 こどものとも2011年10月号)を読んできました。英語と日本語で。それから、「うらしまたろう」の紙芝居を英語で。それと『もけら もけら』(山下洋輔文、元永定正え、福音館書店)の朗読。これは日本語で。

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この会を企画して下さったのは、メルボルンの日本語書店バーニングブックスhttp://www.burningbooks.com.au/store/?language=jp の田部井紀子さんと、フッツクレイ図書館のSue Barnardさんです。これまでも、僕は、バーニングブックスで年に一回くらい絵本を読んできましたが、今回はメルボルンの公共図書館でもやってみよう!という試み。

フッツクレイの街は,従来ベトナム人街として有名でしたが、最近はスーダン、エチオピアといったアフリカ系の人たち、それからインド出身の人たちもたくさん住むようになった街です。言ってみれば庶民の街。アジア/アフリカ市場、面白いお店、安くて美味しい食堂がたくさんあります。(詳しくは、紀子さんのブログを参照のこと。 http://www.gogomelbourne.com.au/columns/kenja/

で、こんな街なのに、何で日本人の私が日本語と英語での読み聞かせを? まあ、多文化多言語なんだから、いいじゃありませんか!

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開催11時になると、図書館にはけっこうな人出が。出席者は日系人がほとんどでしたが、全然そうでない人も聞いていました。

読み聞かせだけでなく、バーニングブックスの紀子さんも、「むすんでひらいて」などの手遊び歌をやってくれました。日本語がわからなくても、これならできる! お話のあとは、浦島太郎にちなんで、お魚の折り紙作りもしました。

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私の息子の鈴吾郎もついてきたのですが、父親が熱演している間、たまたま図書館で無料でやっていた焼きソーセージを二本食べながら、マンガコーナーで「風の谷ナウシカ」(英語版)のマンガを熱心に読んでいました。まあ、一緒についてきてくれただけ、めっけもんですけど。

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日本の紙芝居は、ここら辺り(オーストラリア全般?)では全く知られてないようで、図書館員のスーザンも珍しいそうに見ていました。なかなかみなさんたのしんでくださいました。『もけら もけら』は、ジャズのオフビートで、「ぶんちゃ、ぶんちゃ」とリズムをつけて読んでみたら、体をリズムで揺らしながら聞いてた人もいました。

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で読み聞かせも無事終わり、フッツクレイの街を散策して、ベトナム料理店でお昼を紀子さんにごちそうになりました。バーミセリの肉団子汁のつけ麺みたいのと揚げ春巻きを食べました。うま、うま。
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満腹して、シーハシーハしながら店を出ると、なんと日本の工務店の作業服を着たオジーのおっちゃんが街角に立って、こちらに手を振っていました。「オーイ、のりこ!」といったので、紀子さんのお友達が偶然徘徊していたようです。作業服には「本山建設」とありました。「シンガポールの古着屋で買ったんだよ。渋いだろ?」と、このオヤジさんは言ってました。(僕もこういうの欲しい!できれば、黄色いヘルメットも。)

という、のどかな土曜日の外出でした。

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posted by てったくん at 14:07| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2011年08月17日

薪が減った

 8月に入って庭の薪も大分減ってきた。薪置き場の向こう側がすっかり見えるくらい。でも、そろそろ暖かくなってきたし、今年はまだ残っている分で大丈夫だ。

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 来年の薪も確保できている。こうやって、少なくとも少し先の蓄えさえあれば、大丈夫という気になれる。一年分の蓄えさえあれば、その間に、その先の準備もできるだろうから。こうしてみると、薪と言うのは、貯蓄みたいなものだ。でも、最低一年分の蓄えがあれば大丈夫という気分だ。それ以上はあっても余剰という感じ。
 来年分の薪は、うちの前の道路っぱたの5メートルほどのユーカリを役所が切り倒したからだ。これはうちの木じゃなくて、公共の木。ある日僕は、この木の幹がアリに食われていたのを発見し、役場に連絡した。倒れて、通行中の自動車にあたったり、電線を切ったりしたら大変だから。「うちの前の木がシロアリに食われているみたいだから調査をして下さい」と言っただけだが、役所は大して調べもせずに切り倒してしまった。「あれれ!」と、木には気の毒だったけど、全部薪になった。

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 今この薪を斧で割って積み上げているのだけど、幹の真ん中が見事にアリの巣になっていて、ここからいくらでもアリが湧き出てくる。心配していたシロアリではなくて普通の黒アリだったけど。巣からは強烈な酸っぱい匂いがする。 アリが巣食っている間は薪を積上げられないから、日向の地面に並べて乾かしている。アリの巣になっているところは空洞になってスポンジ状になっている。段々、アリは引っ越しを始めて、卵を抱えてどこかに移動していく。アリにとっては天災みたいなものかもしれないが。

ポッサムの歯

 そしたら、夜になってから腹を空かしたポッサムがやってきて、この丸太のアリの巣を齧っていった。まったくポッサムと言うのは、すごい歯と、すごい胃袋をしているもんだ。アリを食べるために、丸太を齧るとは!アリってのはそんなに美味しいもんだろうか? でも、アリを食べる動物はたくさんいるから、きっと美味しいんだろう。あの酸っぱい匂いがいいのかな?

食べたり飲んだりしているもの

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 さて、僕がこのごろ食べているもので美味しいのは、愛妻チャコが作ってくれる自然酵母パン。いわゆるサワドーと言うパンだ。彼女は醗酵ということに凝っていて、それでパン種も醗酵させて焼いている。醗酵が進むと、酸っぱさがちょっときつくなるけど、食べごたえのある立派なパンだ。(黒アリもこんな風に酸っぱくて美味しいのかな?)
 それから、このごろは、水道の水を飲むのを止めて、雨水を飲むようにしている。雨水は美味しい。うちの猫も、水道水は避けて通り、雨水を飲む。メルボルンの水道水がそんなにまずい訳ではないが。
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 雨水は、以前からタンクに貯めて樹木や畑に撒いたり、車を洗ったりに使っていたけど、飲み水にはしてなかった。でも、飲んでみたら美味しいし、お腹もこわさないのでそのまま飲んでいる。雨水は屋根から雨樋で集めているので、屋根に落ちた埃や落ち葉や鳥やポッサムの糞も入り込むけど、一応網で濾しているし、タンクの中に入った異物は下に沈んで、蛇口からは出てこない。本当は、細かい除菌フィルターで濾すべきだけど、そういうことをしている人はあまりいない。

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ちびヨット

 冬はあまり釣りにも行けないし、寒くてカヌーにも乗れないから、りんごろうと一緒に、晩ご飯の後に模型のヨットを作った。これがけっこうすいすい風を受けてよく走る。天気の良い日、近くの湖でこのチビヨットを浮かべたら、すごく早く走って驚いた。もっといろいろな船を造ろうかと考えているが、目下僕が一番作りたいのは、本物のシーカヤック。これが、今年の夏に向けてプロジェクトになるかも。

ビワの木

 今日は、庭にビワの木を植えるのだと、チャコが近所の植木屋さんからビワの苗木を買ってきた。ビワの木は、健康にとてもいい。葉っぱは解毒効果が高く、お茶にしてもいいし、お風呂に入れても良い。実がとれるまでには8年くらいかかるらしいが、実はもちろんおいしい。
 ポッサムは、ビワの実を食べるだろうか。アンズとかレモンとかスモモを食べるから、きっとビワも食べるだろうな。でも、ポッサムはきっとそのせいで健康だから、アリの巣が入っている木の切り株だって、ガリガリ齧って食べちゃうんだろう。
 
春の準備

木々は、芽を出し花を咲かせ、着々と春への準備をしている。そこで、僕もかねてから懸案だったコンポスト(堆肥)作りの囲いを作っている。地面に杭を打ち、トタン屋根の廃材で囲っただけのものだが、肥料を作るには最適だ。
 こうして、我々人間も春から夏に向けて、着々と準備をしている。
posted by てったくん at 09:08| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記