2013年03月26日

Seize the day --この日をつかめ

2012年3月23日

エスキモーロールができたこと


「今日こそできそうだ」と思う日がたまにある。なぜだか分からないが、突然そんな朝がやってくることがある。

僕は、昨年2012年にシーカヤックを始めたが、年内には必至のテクニック、エスキモーロールができるようにならなかった。エスキモーロールとは、カヤックに乗ったまま水中に逆さまにひっくり返り、そこから復元させる技だ。そのためには逆さまになったまま、水中でパドルを刀の斜め切りのごとく45度に大振りし、その勢いで舟を起き上がらせなくてはならない。これができれば海上でひっくりかえっても人手を借りずに起き上がれる。シーカヤッカーには基本の技だ。

シーカヤック・クラブの練習会にも3、4回参加したが、できるようにならなかった。僕は、逆さになると、自分の状態が分からなくなり、左右ですら混乱してしまう有様だった。子どものとき2、3度溺れたことがあり、その時のトラウマが心の深層にあるせいかもしれない。そんな僕であったが、暮れにはマレー川マラソンに仲間と参加し、無事に404キロ漕ぎ抜いて、そのことに満足しながら2012年を締めくくった。そして、気がついたら、1月も終わり、夏も去ろうとしていた。


ドリューと.jpg
カヤック友達と海を散歩するのは最高の気分だ


俺にはやり残したことがある

2月下旬、メルボルンはまだ暑い日が続いていた。ある水曜の午後、僕は一人で近所のオーラベール湖に出かけ、のんびりカヤックを漕いでいた。すると、もう一人カヤッカーが現れた。機敏にターンする短い川用カヤックで、ミズスマシのように8の字を書いたり、限界までカヤックを倒して引き起こす練習をしたり余念がない。するとこの男、おもむろに水中眼鏡を取り出し、カヤックごとひっくり返り、エスキモーロールの練習を始めるではないか。オーラベール湖にはカヤッカーがたくさん集まるが、ロールの練習をする者は見たことがない。昨今はカヤックブームだが、そもそもロールができる者はあまりいない。

この男、最初の何回かは、ひっくり返っても起き上がれないでもがいていたが、やがて、3回のうち2回は引き起こすようになった。失敗してもあきらめて枕脱したりせずに(カヤックから逆さまの状態で水中に降りてしまうこと)、起きられるまで2、3回試みる。そして、最後は「えいっ!」とばかり起き上がる。やってみれば分かるが、中年オヤジの僕らは、2、3回もやると息が切れてくる。この男も40面で若くはないが、よくやるもんだと感心する。そのうち、ほとんど100パーセント起き上がれるようになった。すごい!

その様子を見ていて、僕も「俺にはやり残していたことがあった」と気がついて、ガンと後頭部をぶたれた気がした。そして、もはやのんびりとカヤックを漕いでいられない気持になった。昨年の宿題がまだ終わっていなのだから。考えてみれば、僕の人生にはこうした課題がいくつも積み残しになっている。あまり古い課題はもう掘り起こしたくないが、エスキーロールは、是非やらなくてはならない。

「よし、次回は、水中眼鏡と、ずぶ濡れになってもいい身支度をして、また来よう」と誓った。そして一人でも、この男のように黙々と練習しようと決めた。

イメージトレーニングの日々

次の日曜が来るまで数日間、僕はイメージトレーニングをした。逆さまになった自分。水越しに、逆さまに見える太陽。ビール瓶をカヤックに、箸をパドルに見立て、自分がビール瓶に座っているつもりになって、ロールのシミュレーションをした。まず、パドルを降ったのと逆回りにカヤックが反転することを覚えることにした。何度も何度も箸を振り、それとは逆方向にビールを瓶を回転させることで回転方向を覚えた。それが迷わず出来るようになると、今度は、舟が起き上がる寸前に体を後ろにそらせて重心を低くして、舟を復元し易くするシミュレーションもした。

水中から.jpg
水中の眺め

この日をつかめ

そして日曜日が来た。「今日こそできそうだ」と、朝起きた瞬間に確信した。その気持は、オーラベール湖に来るまでずっと続いていた。天気が良かったので、僕一人ではなく、息子の鈴吾郎(りんごろう)も、サーフボードを持ってついてきた。

気温は35度。暑いから、水辺には人出がある。カヤックも20隻ほど出ている。だが、どれもおもちゃのような、rubber ducky「ゴムのアヒル」と呼ばれるプラスチックのカヤックばかり。こういう一般人の間で練習するのは、ちょっと気が引け、張りつめていた気持も萎えてきた。だが、鈴吾郎が言った。

「パパ、今日は、エスキモーロールの練習するんでしょ?手伝ってあげようか?」息子は、日差しがまぶしいのか、それとも父親の苦悩がおかしいのか、顔をくちゃくちゃにして笑っている。

水中リンゴ.jpg
水中で笑う息子、鈴吾郎


その息子の笑顔に背中をどんと押された。

「よし、やったるぞ」僕は、パドルを持ち、水深のある沖合まで出た。
鈴吾郎も、サーフボードに腰掛けて、すいすいついてくる。

「まずは ひっくりかえる練習から」僕は、そう言うと、水中眼鏡をかけ、思い切って、カヤックをひっくり返した。

天地が逆になる。水中は静寂だ。顔の周りを水泡が逆に上がっていく。3秒程そのままじっとしていると、体がまっすぐ、垂直にカヤックからぶら下がったまま安定する。水面を見ると、太陽の光が水を通して光っている。でも、だんだん息が苦しくなってきた。僕は、カヤックから滑りでて、水面に出た。

「プハーッ」と息をする。息子がさっきのままの笑い顔で、「溺れたのかと思ったよ」と、ほっとしたように言う。
「起きれなかったらカヤックの腹をこうやって手でばんばん叩くから、その音がしたら助けてくれ」と、僕は言う。

「よし、今度はロールするぞ」と言い、僕はまたカヤックによじ上った。

また水中眼鏡をはめる。
深呼吸。
パドルをカヤックと平行に持つ。
息を止め、カヤックごとひっくり返る。
3秒待って、完全に逆さ吊りになる。
精神統一し、パドルを45度角に大きく降った。

だが、一回目は失敗。半分くらいまで復元したが、ちょっと力が足りなかった。あえなく沈脱。

二度目。何と、二度目は復元できた。しかし、実は、パドルを振ったら、水底が浅くてパドルが水底にあたり、その勢いで復元してしまったのだ。だから、これはチョンボ。

しかし、水上で見ていた息子は、成功したと勘違い。
「パパ、すごい、できたじゃん!」と手を叩いて喜んでいる。

「いや、水底にパドルがあたったから、できただけ。さあ、今度こそ。」
今度は、背の立たない深みに行き、ひっくり返る。逆さの格好でまた精神統一。「えいっ!」と、パドルを水上のお日様に向かって斬りつけた。そして、ぐるっと回り出したなと感じたので、ぐいっと背中をのけぞらせた。

そのとき、コペルニクス的転回が起きた。僕は回転し、それとともに世界も回って、僕は水上にコルクのように浮かび上がった。赤ん坊が、子宮から飛び出る時も、こんなかもしれない。

「やったね、こんどは出来たね!」と、息子は手を叩いた。
「で、で、できた!」と、どもってしまったが、カヤックの上で飛び跳ねたいくらいだった。昨年練習会に3、4回練習して出来なかったことが、たった2、3回のロールで出来てしまったのだから。イメージトレーニングが功を奏したか、息子の笑顔が良かったか。まわりで「ああしろ」、「こうしろ」と口うるさく手出しする先輩カヤッカーがいなかったのも成功した理由かも。

「よし、もう一回」。僕は、二度目にすぐ挑戦した。
二度は見事な失敗。三度目は大成功。四度目は成功したが、勢いが良すぎて、反対側にひっくり返った。

10回くらいやって、成功率は五分五分くらいだったろうか。最後は息が切れてしまい、しばらく休憩することにした。凱旋将軍のような気分で岸辺に戻ると、僕の様子を見ていた、ビール腹のオヤジが、「くるっと起き上がるのは難しいのかい?」と、愛想良く話しかけてきた。

僕は、「いや、それほどじゃないけど、何度か練習が必要かもね」と、軽い調子で答えた。が、本心は、ガハハ、お前なんかにできるもんかい!と言ってから、脳天をぱん!とひっぱたいてやりたかった。ガハハ。

というわけで、興味のない人には、大したことじゃないように思えるだろうけど、僕はエスキモーロールができないカヤッカーから、エスキモーロールができるカヤッカーになったわけだ。どんなもんだい!

しかし、今後の課題はまだいくらもある。例えば、左右どちらからもロールできるようにする。水中眼鏡なしでもできるようにする(海上でひっくりかえるときは、水中眼鏡をする暇はなし)。波風のある海でも起き上がれるようにする、などなど。

生け花.jpg
美しい生け花を生けられるようにする、これも僕の課題。
(もっと難しいかも)。


翌朝、布団から起きようとすると腹筋が痛い。カヤックを引き起こすときに、けっこう腹筋を使ったようだ。やれやれ、もはや22歳じゃないことだけは確かだ。

布団に座って、痛む腹筋をさすっていたら、昔読んだけれど、忘れていた本の題名が突然頭に浮かんだ。Seize the day 『この日をつかめ』(ソール・ベロー作)だ。

パジャマのまま書架に行くと、その本がまだ隅っこにあった。パラパラめくると、角が折ってあるページがあって、そこにこんな言葉があった。

「わからんかなあ、勝利に向かって直線的に進んでゆくことはできないんだよ。波動するコースをとるんだ。」

他にも、確かに読んだことがあると思える文があった。
「ただ現在だけが、『いま・ここ』だけが実在のものなんだよ。この時をーーこの日をつかめ、だ。」

生け花盛り花.jpg
生け花も、その瞬間が勝負だ

僕の脳裏で、ジグゾーパズルのピースがぱちんとはまった音が聞こえた。22才の頃、50才なんかになったら、もう人生は終わりだなんて思っていた。でも、今51才になっても、勝利と言える瞬間は確かにやってくる。(22才の若造に何が分かるというのだ!)

Seize the day!




posted by てったくん at 17:52| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記

2013年02月26日

行きて帰りし物語

2013年2月24日

この週末、息子と一泊のキャンプにいった。モーニントン半島のバルナリングという海浜。鈴吾郎が5才のころから、年に4、5回は、こんな「行きて帰りし旅」に出る。短編小説といった感じの旅。

でも、鈴吾郎は、釣りもしたいし、泳ぎたいし、カヤックもしたいし、スノーケルで素潜りもしたい、やりたことだらけ。僕は、たった一泊なんだから、ただ釣り糸をたれて、ビールを飲んでのんびりしたい。一方鈴吾郎は、いっぱしの戦闘的釣り師だから、釣るならビッグな魚を釣り上げたい。一体誰に似たんだろう、こやつ?

とにかく、1時間で出発準備完了。カヤック二隻を、うんうん言いながら車の屋根に乗せるのは大仕事だった。

車.jpg

出発。家を出て3分、頭の中で忘れ物を検索。
「鈴吾郎、歯ブラシもった?」
「忘れた!」
「虫除けスプレーは?」
「持ってない!」
「日焼け止めクリームは?」
「パパが入れたんじゃないの? 忘れたんなら途中で買えば?」と、鈴吾郎。
虫除けスプレーと歯ブラシ二本と日焼け止め買ったらけっこうお金がかかる。というわけで、忘れ物を取りに、いきなりUターン。

高速をドライブ。車内で鈴吾郎は、日本の漫画『コナン』に読みふける。日本語は読めないくせに、漫画だけはいくらでも見飽きない。僕は、好きなニール・ヤングのCDで鼻歌。

モーニングトン半島のバルナリングまではたった一時間。まずはスーパーで買い物。「晩飯、何にする?」と鈴吾郎に聞く。鈴吾郎が食べたいものは、いつも決まっている。ギョーザかピザかスキヤキか焼き肉。今回は、調理器具はフライパンしか持ってきてない。
「うーん、分かんない。何でも良い」と鈴吾郎。10才の男児に晩ご飯の献立を聞くこと自体、無駄である。
「じゃあ、肉を焼こう。何の肉?チキン、ステーキ? ソーセージ?」と僕。
「焼き鳥!」と言うので、焼き鳥を6本買う。焼き鳥と言っても、日本の焼き鳥の三倍はある串刺し肉。味付けも、ギリシャ風、中華風、メキシカン風などがあるが、どれも旨くない。それとサラダの野菜、その他、細々としたものを買い込み、買い物は終わり。

バルナリングの海辺のキャンプ場は、土曜というのに受付係もいない。携帯番号が書いてあるので電話すると、女性が出て「27番にテントを張ってね。後で代金は取りに行きます」と言った。のだが、ついに彼女は現れなかった。(まじめな僕は後でお金を送ったが。)

27番は、頭上はユーカリの木で、涼しい木陰を作っている。しかし、ユーカリは、夏場は乾くと枯れ枝(それも大きな奴!)が落ちてくるから、注意しなくてはいけない。きっと、ここのユーカリは、枝を落とさない種類なのだろう、と考えることにしたが、そんなユーカリのことは20年近くオーストラリアに住んでいて聞いたことがない。まあ、よっぽど運が悪くなきゃ大丈夫だろう。

キャンプ.jpg

と考えながらテントを張っていたら、鈴吾郎が「ぎゃー!」と叫ぶ。「どうした?」と、走って行くと、ウサギと鳥の死骸が落ちている。「上を見ながら歩いてたら、死んだウサギをふんじゃった!」と、鈴吾郎が気持悪そうに言う。そして、「臭いよう!」と泣き声を出す。僕がユーカリの枝を見上げて落ちてくることを心配してたら、不運な息子は動物の死骸を踏んだという訳。まあ、これで厄払いはできた。それにしても、腐ったウサギは臭い。なぜこんなところで死んでるのか?

テントを立てたので海を見に行くことに。バルナリングは内海なので、波もなく、静かな遠浅。
「ようし、いっちょ、カヤックをやるか」ということになり、車から二隻のカヤック、レインボー丸とハドック船長丸を降ろす。どちらも重さは20キロ。大人二人だと楽に運べるが、子ども相手だと手こずる。鈴吾郎は、「重い!」とすぐ音を上げ、僕一人で砂浜100メートルを引きずり、大汗。

カヤックをようやく海に浮かべて乗り込む。この瞬間が好きだ。ぐらぐらっと揺れるカヤックのバランスを取りながら波頭がくだける波打ち際を越えてしまうと、後は、ゆらゆらと海のうねりに体を任せる。パドルを回転させるとカヤックは、飛ぶように進む。

広い海のあちこちを行ったりきたり。10才のチビ息子は、5メートルのレインボー丸を巧みに操り、どんどん沖へ向かう。父親は、はらはら、「そんな遠くに行ったら戻れなくなるぞ。もっと海岸の近くで乗りなさい」と叫ぶ。

レインボー丸.jpg

風が出て来たので、カヤックは止めて、釣りをする。浜辺からだからどうせ昼間は釣れない。案の定フグばかり。ああ…。

キャンプに戻り、仕切り直し。日も大分傾いて来たので、早めの夕食に。さっき買って来た焼き鳥を、フライパンでじゅうじゅう焼く。いい匂い。焼き鳥をはぐはぐ食べながら、ビールを飲む。この時間は千金の価値あり。

と思いきや、10才の息子、「さあ、今度は夜釣りだ!」と、焼き鳥を食べるが早いか、また釣り支度。
「まだ、日が暮れてないよ」と、ビール片手の僕。
「でも、これくらいから釣れるんだよ」と言い張る。
「じゃあ、早いけどいくか」と言うことになり、また浜へ。
夕暮れの海で、風に吹き上げられた湿った空気を吸うのも気持いい。

しかし、釣りはやっぱりだめだった。
小さなオーストラリア・サーモン(アジみたいな雑魚)が2匹。
小さなコチが一匹。
フグ5、6匹。
持って帰った魚はゼロ。

バルナリング.jpg

夕暮れがしのび寄り、足下が暗くなる頃、テントに戻る。寝る前に息子に本を読んでやる。いや、読んでやると言うより、僕が楽しみにしている本だ。アーサー・ランサム著『スカラブ号の夏休み』(ツバメ号とアマゾン号シリーズの第11巻)。もう一年以上もこのシリーズを読んでいて、あと一冊で終わる。このシリーズは実に読みでがあった。子どもたちが、夏休みごとに小さなヨットにのってあらゆる冒険に出かける物語だ。読み終わってしまうのが惜しい。このお話のおかげで、僕ら親子も完全に海にハマった。面白い本だが、僕はビールと夜釣りのせいで、3ページ読んでダウン。

二日目

朝7時に起きる。キャンプにしては遅い目覚め。ユーカリの木に、大きなコアラが登っている。コアラの朝寝だ。写真を撮るが、どうしても顔は見えず。

コアラ.jpg

海辺に行く。馬を泳がせている人がいる。というか、馬に乗ったまま、じゃぼじゃぼ海中乗馬している。馬も気持がいいだろうね。

バルナリングでの釣りは今日もダメそうなので、車で20分のフリンダーズに行く。ここが僕らの「ホームグラウンド」だ。ここは、外海に面しているので、魚も豊富。ところが、今日はここにも魚がいない。昼まで釣るが、ぜんぜんだめ。

「お腹がすいた」と鈴吾郎が言うので、いつも行くフィッシュ・アンド・チップス屋まで行く。もうここの奴は食べあきたが、フリンダーズには、この店しかない。だから、いつものフィッシュ・アンド・チップスを食べ、いつもの風景を眺める。フィッシュ・アンド・チップスは油が多くて不健康な食べ物だが、食べているのも肥満気味の不健康っぽい人が多い。それでもなぜか食べてしまうフィッシュ・アンド・チップスなんだよ。

チップス.jpg

海岸に戻る途中、崖の上から海を眺める。対岸はペンギンがたくさん棲んでいるフィリップ島。吸い込まれそうな青い静かな海。今日なら、カヤックを漕いで渡れそうだが、帰って来れなくなると困るから、行かない。この崖の上に豪壮なお屋敷を建てるのが僕の夢。それは我が家みんなの夢でもある。三億円くらいあればね。二億でも足りるかもしれない。安いもんだよ、そんなの。

フリンダーズ.jpg

浜に戻り、またカヤック二隻を車から降ろす。鈴吾郎は、カヤックから釣りをしてみるんだそうだ。見れば、釣り用カヤックで釣りをしているおじさん達もいる。でも、僕のカヤックは釣り用ではない。

釣りカヤック.jpg

「そんなの無理だよ。波は来るし、パドルで漕がなくちゃいけないし、ひっくり返ったら、釣り竿とか全部、海に沈んじゃうよ」と僕が言うが、息子には馬耳東風。

鈴吾郎、カヤックに釣り竿一式積んで出撃だ。ところが、やっぱり波をかぶって、釣り道具一式が海水浸しに。僕が日本から大事に抱えて来たシマノのリールもびしょ濡れ。そりゃ、言わんこっちゃない。と思うが、同時に、失敗しなくちゃ前進もなし、と息子の冒険心に感心もする。つべこべ言う父親の僕こそ、心配のし過ぎだ。

鈴吾郎、さすがにカヤックからの釣りは諦めて、桟橋から糸を垂れ、まあまあサイズのキス二匹を釣り上げた。帰りがけの駄賃に、そこらにいた釣り師からも、40センチくらいのベラをただで貰った。子どもって得だなあ!


エイ.jpg
巨大エイ こいつが来ると魚が釣れなくなる。

夕方四時。そろそろ帰る時間だ。カヤックも、釣り道具も、僕の海水パンツも、履いているサンダルも、全部砂でざらざら。ええい、っと全て車に載せて家路に着く。途中で鈴吾郎はアイスクリーム、僕はコーヒーで一服。アイスを食べた途端、鈴吾郎はグニャグニャのタコみたいに、助手席に崩れ落ちて寝込む。

僕は、今度はバート・バカラックのCDを聞きながら、鼻歌でドライブ。CDが終わるか終わらないうちに家に戻った。砂だらけのものを全て車から引き出し、庭に放り投げ、ホースでじゃぼじゃぼ洗う。

かくして、この週末の「行きて帰りし物語」はおしまい。





posted by てったくん at 13:02| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2013年01月18日

悠々として急げ。マレー川カヌーマラソン404キロ出場記

1.jpg

2013年1月

オーストラリアのビクトリア州とニューサウスウェールズ州の州境には、マレー川という全長2575キロの大河が流れている。オーストラリアのミシシッピ川とも呼ばれるが、その理由は、この川が長いことと、昔は交通および流通の要であったからだ。

そのマレー川も、現在は交通や流通にはあまり使われなくなったが、毎年12月27日から31日の5日間、Murray River Canoe Marathonというカヌーとカヤックのレースが行われる。404キロを5日間かけて漕ぐもので、オーストラリア中のカヌー野郎やカヤック気違いが集まり、腕を競い合う。このレースはすでに25年も続いており、腕に覚えのある漕ぎ手であれば、一度は出なければならないレースである。

このレースに、まだカヌー/カヤック歴が浅い私も参加することになり、リレーチームの一員として404キロを完漕した。ことの起こりは、長くなるから省略するが、かいつまんで書くと、我が家の修理をいつも頼んでいる大工で友達のギャリーがこのレースには数回出ていて、今年も出るから、サポートチームに入ってくれと頼んできたのだ。ところが、僕はカヌーは自分で漕ぎたい方だから、「サポートは嫌だ、俺も出る!」ということになった。

4.jpg
我が友ギャリーは孤高のパドラー。404キロを一人で漕ぐ(愛艇C1レーシング)


僕のチーム Push’n Wood

だが、僕は初心者なので、すでに7回出場しているPush’n Woodというリレーチームに入ることになった。彼らはメンバーに欠員が出たので新メンバーを捜していたのだ。「渡りに舟」とはこのことだ。このチーム、隊長のブライアン(建築会社経営)65才を筆頭に、平均年齢60才前後という「還暦」チームなのだ。乗っているカヌーも、真っ赤なカナディアンカヌーで、還暦色そのもの。そこに50才の僕が入って一気にチームは若返った。僕は「チームのベイビー」と呼ばれ、期待の新星となったのだ。

他のメンバー:

ダイアン: ブラアンの奥さん、50台後半、美容師の美人。
ドリュー: 心理学者、59才。優しい怪力男。元サイクリスト。
ジョアン: ドリューの奥さん。小柄で可愛い小学校のイタリア語の先生。
ヘレン:  60才くらいの麻酔医。小柄でもの静かだが、時折すごい大声を出す。
マイケル:  ヘレンの旦那で、ナイジェリア人の工学博士、65才。泳げないので、カヌーには乗らないサポート専門。酒好き。
アンドリュー: 66才、古株カヌーイスト。エンジニア。ただし、メタボ気味で糖尿と高血圧症。みんなの心配の種だが、
本人はやる気満万。
チャコ:  うちの奥さん、40台後半。サポート隊員。
鈴吾郎:  うちの息子、10才。応援団長として大活躍。

3.jpg


チームのカヌー

ブライアンが自分で作った全長5メートルのカナディアンカヌー。寄せ木細工みたいに小さな木片をエポキシでのり付けし、ファイバーグラスをかぶせたもの。船体にはオーストラリア、アボリジニ先住民、ナイジェリア、そして日本の国旗がついている。昨今はそんな古風なカヌーよりも、新素材のケブラーやカーボンでできた軽量俊足カヤックが主流だが、Push’n Woodという名の通り、このチームは、あえて「木製」の重たいカヌーを、うんせ、うんせ、押してでも完漕してやろうじゃないの、という心意気なのだ。遅くても楽しみましょう、という「亀さん」チーム。

2.jpg


トレーニング

トレーニングは、レース3ヶ月前の9月から開始。うちの近くのオーラベール湖に日曜午前に集まり、ひたすら2キロ半の周回を3、4回やる。それだけで汗だく。僕は、最初は2キロ半を休まず漕ぐことはできなかったが、11月頃には休まないでも一周出来るようになり、12月の本番までには10キロ漕いでも大丈夫になった。自分でも驚いた。腕の筋肉もムキムキに。

さあ本番

本番の12月27日はすぐにやってきた。いつもならクリスマス後の夏休みは、キャンプや海辺で過ごすが、今年は暑くて埃っぽいオーストラリア内陸部へ。マレー川ほとりに、クリスマスの翌日僕は立っていた。

5.jpg


一日目 ヤラウォンガからトカムウォル 94km

6.jpg

前日にキャンプ入りし、初日は4時起き。久しぶりに朝日が昇るのを見て興奮。(家族は眠くてぶうぶう。)キャンプから25キロのスタート地点、ヤラウォンガまで車を飛ばす。来るわ、来るわ、屋根に葉巻のような、色とりどりのカヌーやカヤックを乗せた自動車が朝の静寂をやぶって集まってきた。到着するや否や、色とりどりのユニフォームを着たチームメンバーが、「わっせ、わっせ」とカヌーを車から降ろし、7時のスタートには早くも50隻ほどのカヌーが朝靄(もや)の立ちこめるマレー川に浮かんだ。我がPush’n woodの赤いカヌーも堂々と浮かんでいる。しかし、僕の出番はまだ後なので、トップパッターのドリューとジョアンのコンビが出発するのを見守る。

7時が近づく。しーんとあたりは静まり返り、突然「バーン!」とピストルが鳴る。すると、いっせいに水しぶきをあげてカヌーがスタートした。「がんばれー!」、「行けー!」と大歓声が巻き起こる。息子の鈴吾郎も、うれしくてぴょんぴょん飛び跳ねている。

僕は初出場ということで、初日は、第三ステージの一番短い6キロのステージを、出場三回目のドリューとコンビで漕ぐことになった。ドリューは大男の力持ちだから、すごいパワーだ。後ろからぐいぐい押されて漕ぐペースをつかめず、カヌーもジグザクに走り、あまり良い結果ではなかった。それでも、6キロは軽々、およそ40分ほどで漕いでしまって、初日はあっけなかく終わった。でも、川から見るマレー川畔の景色はきれいだった。

9.jpg


二日目 トカムウォルからピクニックポイント 96km

二日目は、全行程でも最長距離の96キロ。距離は長いし、体も慣れていないから、出場者は表情が暗い。ここをのりきれば、三日目以降は楽になると言う。単独出場の大工ギャリーも、前の晩は疲労と緊張で眠れず「最悪のコンディションだ…」と浮かない顔。それでも、スタートのピストルは七時に「バーン!」となり、C−1というレース用のカヌーでギャリーは滑るように川を下って行った。

今日は、サポート組も大変だ。何せ、国立公園の中を川が流れるルートなので、サポート車が走る道路も全てダート。夏は雨も降らないから、前の車が立ち上げる埃の中を、ヘッドライト付けてのろのろ走る。まるでサファリラリーのようだ。

10.jpg

今日は僕の担当は、第四区間の16キロ。16キロは一時間半で漕げる距離だ。相棒はリーダーのブライアン。ブライアンとは練習で何度も漕いでいるから息は合っている。さあ、思いっきり漕ぐぞ、と僕は興奮して交代地点でカヌーを待った。

ところがハプニングが起きた。向かい風が強くて、ドリューとジョアンのペアが予想以上に遅れた。このままでは時間切れで、僕らは最後の区間が失格になる可能性がでてきた。アンドリューが審判に掛け合いにいった。交渉の余地はない、と言って渋い顔でかえってきた。リーダーのブライアンも掛け合いに行く。ところが、やはり首を横に振りながら帰ってきた。「てつた、残念だが、今日はここで終わりのようだ。時間切れで、ここでカヌーを引き上げなければならない。明日また仕切り直しだ」。僕はがっくり落胆した。すると、ダイアンがきっぱりと言った。「私に任せて。絶対だいじょうぶよ」と再度交渉に。

その間に、川の向こうからドリューとジョアンが漕ぐ赤いカヌーが見えてきた。500メートル、300メートル、100メートル、みんなが叫ぶ。「時間切れだ、急げー」「もっと早く漕げ!」目に見えて二人のパドルさばきが早くなる。

同時にダイアンが走ってきた。「大丈夫よ! ほんの5分だけ、審判が時計に気づかない振りをしてくれるって!」やったー、みんなでハイファイブ。

ドリューとジョアンが到着するなり、僕はとブライアンが飛び乗り、漕ぎ始めた。後に続く他のカヌーも、失格させられまじと、すごい勢いで飛ばしてくる。出発時間は4時半、いや、本当は5分遅れの4時35分。何が何でもゴールには6時前に着かなくては、本日分は失格となる。

「さあ、いくぞ!」カヌーの後席のブライアンが、低い声で叱咤する。ブライアンは、顔はいかりや長介みたいだが、声は渋くてかっこいい。「おう、見てろよ!」と、僕もフル回転でパドルを漕ぐ。お日様も傾いてきた。「さあ、夕日と競争だ!」 川面がきらきら光る。魚が跳ねる。先行するカヌーの赤や黄色の船体が時々光る。

川をぐんぐん下る。僕らの鈍足カヌーが、俊足のカヤックを1、2隻追い抜いた。「4キロ通過」、「8キロ通過」と、時折ブライアンがGPSの数字を読み上げる。突然「すごいぞ、てつた、瞬間時速12.5キロ。我がチーム最高スピードだ。お前は大したパドラーだ!」と、叫ぶ。

僕自身は自分がどれほどのペースで漕いでいたか夢中でわからなかった。ただ、10キロ地点を越えた時点から、だんだんすーっと体が気持が良くなってきた。これがランナーズハイってやつか。腕も軽く、最高の気分だ。若いときにも、登山をしているとき時々こんな気分になったっけ。いいぞ、もっとぶっ飛ばしてやれ!

「12キロ」、「14キロ、あと2キロだ」とブライアン。おっと危ない、勢いがつきすぎて、川が曲がっている箇所で岸に近づき過ぎて、倒木に引っかかりそうになった。徐行して難をかわすが、失敗すればひっくり返って沈していたところだ。

「あと1キロ!」ブライアンが冷静に言う。向こうに人の群れが見えてきた。時計を見る余裕もない。6時まであと何分?と思うが、僕はもう蒸気機関車になったつもりで、とにかく漕いだ、漕いだ、漕いだ。

やがてゴールをくぐる。「ブー!」というゴールの印のブザーがなる。パドルを頭のうえで振り回す。観客から歓声が挙がる。

ブライアンがつぶやくようにGPSを読む。「おめでとう、てつた。5時52分だ。あと8分で失格のところだった。お前がチームを救ったんだぞ。ありがとう」と言った。振り向いてブライアンと握手。

岸に着くと、みんなが寄って来た。「良かった、失格にならなくて」と、ドリューがいった。「大丈夫よって、いったでしょ!」と、ダイアンがビデオを回しながらニコニコして言う。みんなと抱き合って喜ぶ。伝説のパドラー、マッド「気違い」ミックも、ニコニコしながら寄ってきて握手してくれた。ミックは、もうこのレースに25回も出ている。今回も単独出場だ。

16キロを1時間20分程で漕いだ。平均時速12キロは出ている。かなりの好成績だ(マレー川は時速2キロ程で流れているので、実際の速度は10キロ程度だが)。

小さなハプニングだが、僕には嬉しい出来事だった。初めて参加したリレーで、チームの危機を救ったのだから。

7.jpg


11.jpg
25回出場、伝説のパドラー、マッド「気違い」ミック



三日目 ピクニックポイントからエチューカ 76km

昨晩は、蒸気船が今も川を登り下るエチューカの町で泊まった。チームの危機が救われたということで、みなでパブでお祝い。

12.jpg


三日目は、昨日のゴールからエチューカの町まで、森の中の原始風景を漕ぎ進む。僕は、第二ステージ12キロをドリューと漕ぐ。昨日の16キロに比べれば楽勝だ。今日は時間の制限も大丈夫。午前の早い時期なので、まだ肌寒い。今年は天候に恵まれ、盛夏とは言え30度そこそこの気温、ビクトリアの内陸としては涼しい。こちらは大助かりだ。ドリューも僕も、今日は漕ぐ息も合って、快調に飛ばす。僕らの乗っているのは昔風のカヌーだが、二人で漕げば、ゆっくり流している細長い現代的なカヤックを追い抜いたりもできる。ドリューがつぶやく。「すげえ、13.5キロだ。最高記録だぞ。」 僕は、このチームの記録をどんどん塗り替えているらしい。どんなものだ!

ところが、あるところで曲がりを曲がると、いきなり「どかん!」と、突風にあおられた。どうにかブレースして体勢を保つが、カヌーはあらぬ方向を向こうとする。懸命にスイープストロークで横漕ぎして方向を修正。ふと見ると、向こうでは女性チームの二人乗りカヤックが沈して、川で泳いでいる。「助けに行こう!」とドリューが言うので、そちらへ漕ぎ寄せる。「Are you all right? 大丈夫かぁ?」と叫ぶと、女性チームも川岸に泳ぎ着いたところで「We are ok! 大丈夫よ!」とにっこり笑って手を振って返答する。大丈夫そうでも一応声をかけるのが水上の掟、スポーツマンシップというものだ。

そうしているうちに12キロは、あっという間に漕ぎ終わる。記録は1時間15分。怪力ドリューとの12キロは、カヌーがぐいぐい進むので、まるで坂道を下るみたいだった。

四日目 エチューカからトランバリー 63km 

朝6時半、今日の出発地点に立つ。僕が「残りはあと二日、早いもんだ」と、川面を眺めながら言うと、一人でここまで300キロ近くを漕いできた友人ギャリーがつぶやく。「いや、俺はとにかく一日、一日を漕ぎ抜くことしか考えない。今日を漕ぎ終えられたら、そのとき明日のことを考える」と言った。やっぱり、一人で孤独に漕いでいる人は気合いが違うなあ。ギャリーは、このレースを終えると、60才になる。60才の記念に単独出場をした。この僕が60才になるときはどうだろうか。一人でカヌーを400キロも漕ぎ抜く体力を持っているだろうか。ギャリーのように、体をいたわりつつも限界に挑戦してみたい。僕も、そんな目標を持って、これからの10年を生きてゆきたいものだ。

7時。また「パーン」とピストルが鳴って、色とりどりのカヌーやカヤックが川に散らばっていった。今日もギャリーもひとりで漕いでいく。がんばれ、完走してくれよギャリーと、僕は祈る。

出発シーンを見終わると、僕と息子の鈴吾郎は、ボランティアが出している店で、熱々のベーコンエッグサンドイッチをほおばる。鈴吾郎の奴は、でっかいサンドイッチを二個も食べた。(大物になるぞ、こいつは!) 鈴吾郎は、まだ10才だから、カヌーマラソンには出られない。でも、色とりどりのカヌーやカヤックを見て、自分が出場しているみたいに興奮して声援している。12才になると出られるから、その時は、僕とタンデムで出てもいいなと思う。実際、親子や兄弟、あるいは夫婦で出ている人もたくさんいる。

8.jpg

父子で400キロ漕ぎ抜くのは、体力的にも精神的にも試練だろう。でも、それはきっと良い思い出になるだろう。振り返ってみれば、僕自身は父親と何かそんなことをした経験はない。でも、それを埋め合わすつもりで、これから自分の息子とやっても遅くはないかもしれない。

13.jpg

さて、今日のコースは、少し先に大きな堰(ダム)があるので、川の流れがひどくゆっくりだ。参加者は、「ちっとも進まない」、「まるで真綿の中を漕いでるみたいだ」と苦戦している。だから、63キロと短い距離でも、ペースが落ちるから苦しい。陸上マラソンなら上り坂という感じだろう。

僕は、二番目の中継地点からの15キロを漕いだ。相手は、またドリュー。ドリューとも息があってきたから、カヌーはぐいぐい進む。多分、今回のチームで最強のコンビだろう。しかし、流れのせいでゆっくりしかすすまない上に、カーブが多い。カーブは、曲がった途端風向きが変わるので注意が必要だ。慎重にカーブをひとつひとつ曲がる。どうして川はこんなにくねっているのだろうとうんざりする。

今はクリスマス後の休暇だから、のんびりと釣り竿を繰り出しながら、カヌーレースを見物している人が両岸にいる。あと三日で新年だ。僕は、見物人に「ハッピーニューイヤー!」と声をかけながら進んで行く。中には、「ビールが冷えてるぞ、寄っていけよ!」と、からかう人もある。早く漕ぎ終わって飲みたいなあ!

ドリューと二人で、15キロを1時間20分程で漕ぎ終えた。早くもなし、遅くもなし。僕の今日の出番は終わり。後は、他のチームメイトを応援して、大いに盛り上がる。

今夜の泊まりは、カフーナという田舎町。本日のゴールで、カヌーを引き上げると、車を連ねて田舎道をひた走り、カフーナまで小一時間のドライブ。店が10軒くらい連なるひなびた町だ。『ミッドナイトカウボーイ』の舞台の町みたいだ。日曜なので開いているのはガソリンスタンドとパブだけ。水タンクを背負った塔が町を見下ろす。町の真ん中にある公園には誰もいない。僕たちの宿は、パブ裏のモテルだ。フロントのおばさんは、これ以上愛想を悪くしようもないほど愛想の悪いおばさん。まるでヒッチコックの映画みたいだ。客室のドアには、「泥靴は脱いでから部屋に入って下さい」と書いた紙が張ってあった。羊毛を刈るシアラーと呼ばれる職人たちが多く泊まる宿だからだそうだ。

14.jpg
カフーナの木賃モーテル


晩は、そのひなびたパブでチームメンバーと夕食を食べる。冷えた生ビールは旨かったが、食事はまずかったの一言。ベジタリアンのチャコは、「これ、食べるところないわ」と、チキンサラダをほとんど残した。僕は奮発してステーキを注文した。焼き加減は「レアに近いミディアム」と言ったはずなのに、ステーキはガチガチに焼きが入っている。おまけにナイフの切れ味も悪くて、食べるのに大往生。

パブの天井には大きな扇風機が回わり、ハエがぶんぶん飛んでいる。がらんとした食堂は、クリスマスの飾り付けの片付けも終わっておらず、ひどく裏ぶれた感じ。まさに、オーストラリアの田舎の典型という雰囲気。オーストラリアに17年も住んでいるから、こんな風景も見慣れたが、それでも思わず、「オーストラリアだなあ、ここは!」などと感心してしまうほどのひどさ。

五日目(最終日) ムラビットからスワンヒル 75km

いよいよ最終日。気合いを入れてまた4時起きだ。車を連ね、出発地点のムラビットに急ぐ。6時到着。7時までにカヌーを水に入れ、出発を見送る。大きなダムも過ぎたから、また川の流れは速やかだ。カヌーマラソンの最終ゴールはスワンヒルという大きな町だ。今夜は大晦日、テレビ局の取材も来ると言う。

15.jpg
出番を待つ僕とマイケル

「てつた、今日はゴールで日の丸の旗を振れよ!」と、リーダーのブライアンが冗談を言う。初出場の僕に花を持たせてくれようと、ブライアンは、僕をアンカーに抜擢してくれた。僕は、日の丸は振らないけど、精一杯がんばるつもりだ。相棒の漕ぎ手はまたブライアン。距離も今回最長の25キロ。燃え尽きてやるぞ、と胸が高鳴る。

第一地点、第二地点、第三地点と、カヌー要員を交代しながら車で移動。内陸の穀倉地帯だから、大地は真っ平ら、視界を遮るものもない。まっすぐの道路を埃をあげて突っ走る。川沿いだけには木が生えているから、そこが川だと遠くからでも分かる。

このマラソンには、高校生のリレーチームが4校ほど出ている。レースも終盤に差しかかり、彼らはかなり盛り上がっている。女子が黄色い声援を送り、二人組のカヤックの男子組は、かっこ良く交代地点に滑り込んでくる。そして、到着するなりカヤックを横倒しにして、乗組員は水に飛び込む。交代要員はほんの数秒でカヤックに飛び乗り、大歓声の中をまた飛び出して行く。

その間を縫うようにして、おじさんおばんさん混成の、我が亀さんチームの赤いカヌーは、のんびりと川面を下る。いや、のんびりと見えるだけで、実はおじさん、おばさんも一生懸命に痛む肩や腰をかばいながら漕いでいるのだ。がんばれー、亀さん、ふれふれ、亀さん!

いよいよ第三地点に赤いカヌーが見えて来た。漕いでいるのは、巨体のアンドリューと小柄な女医のヘレン。カヌーの前後で体重があまりにも違うから、舳先に砂袋を積んでバランスを取っている。アンドリューは、たどり着くと、疲れて立ち上がれない。その巨体をみんなで引っ張り上げる。アンドリューは燃え尽きて、さっぱりした顔をしている。ブライアンは、重りの砂袋をつかむと、「もうこれには用はなし!」と、川にどぼんと放り込む。身軽になったカヌーに僕が飛び乗り、後ろにブライアンが乗ると、すぐに飛び出す。ヘレンが大声で叫ぶ、「さあ、最後に錦を飾るのよ!」マイケルが叫ぶ、「走れ、Push’n Wood!」

16.jpg
燃え尽きたアンドリュー、川に落ちる


僕とブライアンがアンカーだ。いっちょやったるぞと、僕が調子よく漕ぎ出すと、ブライアンがぼそっと言った。「ごめんな、右腕の筋肉がつっちゃった。あまり漕げない。とにかくゴールを目指してゆっくりいこうぜ」。僕は、「無理すんな、舵とりは、まかせた。漕ぐのは俺がやるから座っててくれ」。

17.jpg
リーダーのブライアン、日焼け止めを塗って「さあ、行こう」


最後にこうなるとは思わなかったが、仕方がない。ブライアンは年期の入ったパドラーだが、それでももう65才、もうじき66才。無理はきかない。僕だって無理は禁物だ。僕までダメになったらそこで本当の終わり。アンカーが棄権したら、他のメンバーに面目がたたない。

僕は、はやる気持を抑えて言う。「85%から90%で漕いで、最後の1、2キロはフルパワーだ。」ブライアンが言う。「おう、まかしたぞ。でも、無理はすんなよ。」

しばし、二人とも無言で漕ぐ。今日は暑い。スワンヒルはメルボルンから北に300キロ以上も内陸だから、気温も7、8度は高い。気温は37、8度か。ブライアンが、時折GPSの数字を読み上げる。「5キロ通過、時速11キロ」「7キロ通過、時速10キロ半。この調子を維持してくれ」と冷静な声。

しばらく進んで、後ろに声をかける。「どうだい、腕は?」
「ちょっと痛いが、漕げなくもない」とブライアン。
「無理しないで景色でも見ててくれ」と僕。

「10キロ通過」とブライアン。半分ちかく来た。僕は、ふと思い出したように、ボトルをつかんで水を飲む。生温い水が体を迸り、粘ついていた血液がさらさらになる感じがする。

水を飲むと体が軽くなる。またひたすら漕ぐ。一漕ぎごとに、スワンヒルのゴールに近づく。スワンヒルに行くのは初めてだが、まさかカヌーを漕いでたどり着くとは思わなかった。404キロなんて途方もないと思ったが、毎日みんなで漕げば、到達出来る距離だと分かった。

「さあ、あと5キロだ。最後の5キロだ。楽しく行こう」とブライアン。気がつくと彼も漕いでいる。それでもスピードは乗らないから、足の速いカヤックにどんどん抜かれて行く。「着いたら冷たいビールで乾杯だ!」と言いながら抜いて行ったのは、熟練カヤッカーのリチャードだ。彼は、メルボルンからタスマニア島までの300キロを、島づたいに漕いだこともある強者だ。川下りなどは朝飯前なのだろう。彼は、美人の妹とタンデムだ。

僕が常連のカヤックショップの店長アンドリューも抜いて行った。アンドリューは、すらっと長いオーシャンスキーという種類の俊足カヤックに乗っている。彼は単独参加だ。「アンドリュー、どうだあ?」と、僕が声をかける。「もう、ぼろぼろだよ。早く終わりたいよ!」と、身長190センチの猛者も弱音を吐く。

「あと4キロ、締めていこう」と、またブライアンがいう。僕は、不意にまた体がふわっと軽くなり、幸福感で一杯になる。またランナーズハイだ。僕は、本当にカヌー好きだ。川や海が大好きだ。水上を音もなく漕いで進んで行く感覚が楽しくて仕方がない。今ここにいることが、幸せでたまらない。

18.jpg

「あと2キロ。あのカーブを曲がると、ゴールが見えるはずだ」ブライアンが、少し高揚した声で言う。僕は、そのカーブの手前まで、右できっかり150回漕ぎ、カーブの少し手前でパドルを左に持ち替える。そしてそのまままたきっかり150回漕ぐ。右利きの僕は、当然右で漕ぐのは得意だが、左は疲れやすい。力も、右の8割くらいしか入らない。左を鍛えるのが今後の課題だな、と考えながら漕ぐ。

「見えた。あと1キロ」と、ブライアンが言う。僕は一瞬胸がいっぱいになって、すぐに返事が出来ない。胸にぐっとくるものをこらえて、「本当だ、見えた」と、5秒後に返事した。

ゴールの方でも、僕たちの赤いカヌーが見えるのか、赤いチームユニフォームの人たちが躍り上がって、手を振っているのが見える。色の黒いナイジェリア人のマイケルがすぐ分かる。「左岸に焦点を定めて、そっちへまっすぐ漕げ」と、ブライアンが指示を飛ばす。僕は、パドルを右に持ち変える。さあ、あとは最後まで右腕で漕ぎまくるぞ。

もう仲間がはっきり見える。妻のチャコが見える。ダイアンがビデオを回している。鈴吾郎が飛び跳ねている。僕は、ただ、猛烈にパドルを川に叩き込み、水を炸裂させる。もうすぐ終わりだ。

ゴールをくぐると、「ブー!」とブザーが鳴り、「Push’n Wood team!」とアナウンスがあった。鈴吾郎が水に飛び込み、カヌーまで泳いできた。僕は、漕ぐのを止めて、パドルを頭上に持ち上げた。それでもカヌーは惰性で進み、川の流れに乗って海に向かって進んで行く。ここで終わってしまうのが残念だ。ブライアンがカヌーを操り、僕たちはくるりと回って岸辺に向かった。カヌーの舳先が岸辺の砂地をざくっと噛んだ。それで終わった。最後はあっけなかった。5日間、404キロの水上の旅は終わった。

カヌーマラソンが終わって

今夜は大晦日だ。スワンヒルのイタリアンレストランに集まったPush’n Woodの面々は、ワインやビールで乾杯した。


19.jpg
鈴吾郎、ダイアン、ブライアン


「ねえ、来年ももちろん出るでしょ?」と、ダイアンがにっこり笑って僕に聞いた。「時間を作って出たいなー」と僕。
「そうなのよ、カヌーマラソンって癖になるのよね。つらくて、汚くて、暑くて、埃っぽくて、その上一週間も時間がつぶれるし、お金もけっこうかかるし。でもね、一回やるとまたやりたくなる。2回やると3回やりたくなる。不思議よねえ。」
僕も同感だ。

ところが、よく冷えたギネスビールを飲んでいたギャリーが言った。
「俺は、今のところはこりごりだね。もう一人ではやりたくないよ。」
彼は4回目の出場で、初めて単独完漕したのだった。
「でも、一人で漕ぎ切って、すごいじゃないの。すごい達成感で一杯なんじゃないの?」と、ダイアンが言う。
「いや、そんな感じじゃないなあ。とにかく、やっと終わった、という気持で一杯だよ。来年がどうのこうのなんて、とても考えられない。」
「ねえ、たった一人で400キロ漕いでいる間、ずっと何を考えていたの?」と、ジョアンがギャリーに尋ねる。

「何も考えない。ただ次の一漕ぎのことだけ考える。その次は、また次の一漕ぎのことだけ。その連続さ。とにかく、漕ぐことに集中するのみ」と、ギャリーがギネスの泡を見ながら言った。

20.jpg
404キロ漕ぎ終わっても笑っていたギャリー


マイケルが、赤ワインをどばっと僕のグラスについだ。かなり酔っているみたいだ。マイケルは「俺も、来年はカヌーに乗るからな!」と宣言した。マイケルは、泳げなくて水が怖いのだが、どうやら本当にカヌーに乗ることを決心したようだ。
「この人、本気みたいね」と、奥さんのヘレンもまじめな顔で言う。

ブライアンが言う。
「マイケル、よく決心した。それなら2月から特訓だ。まず救命胴衣を付けて、片足を水に浸ける。それができたら今度は両足を浸ける。それもできたら、今度はみんなでお前さんを川に放り込んでやる。救命胴衣があるから溺れないぞ。それでもお前さんがまだ笑っていたら、カヌーに乗せてやる。いいか?」と、ブライアンがマイケルの背中をばしばし叩きながら言った。マイケルは、涙を流しながら笑っている。65才になって初めて泳げるようになったら、さぞうれしいだろうな。

遠くでのどこかで 花火がはじける音がした。そうだ、今夜は大晦日だった。僕の初めてのマレーマラソンは終わったのだ。404キロを5日間、七人の仲間と漕いで、僕たちの水面のお祭りは終わった。川の流れに乗って僕は悠々と急ぎ、本来の自分にやっと何年ぶりかで追いついた気持がした。

22.jpg
「来年は私もでるかも」と、チャコ
posted by てったくん at 15:33| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2012年10月18日

エスキモーロールことはじめ

2012年10月15日 

僕は水中で逆さまになって、もがいていた。上下左右も分からない。鼻から水が入ってくる。耳にも水が入り、何も聞こえない。隣の人の足が逆さだ。手を振り回すが、体は逆さまのまま。呼吸も苦しくなってきた。

この状態は、今年50才になった僕の心理を、象徴的かつ具体的に表しているのかもしれない。50才になったのをきっかけに、僕は今までと少し違った視点や状況に自らを置いてみることにした。今までやったことのないことをして、凝り固まった考えを変えようということだ。そう決心しておきながら、体が逆さまになり、視点が変わっただけで、僕は戸惑い、混乱し、パニックになっていた。

僕は、シーカヤックのエスキモーロールの練習をしていた。逆さまのカヤックから僕が脱出できないでいるのを見てとったピーター・コステロは、すかさず僕のカヤックをくるりと回して浮上させてくれた。僕は「ブハーッ!」と息をついた。

「アハハハ。何もそんなに慌てないでもいいんだよ。カヤックが転覆したら、まず体の力を抜いてリラックスする。そして深呼吸して(水の中でどうやって深呼吸するんだよ、アホ!)、状況を把握する。それから、こうやってパドルを力いっぱい45度の角度で前から後ろに振るんだ。そうすればカヤックは復元するはず。簡単さ!」と、ピーターは言った。

シーカヤックとは、エスキモーが昔乗っていたような細長いボートで、これを現代的にデザインした手漕ぎ舟だ。船内に水が入らない構造になっていて、かなり波のある海でも漕ぎ回ることができる。これで、オーストラリアからニュージーランドまで漕いだり、北大西洋を横断した人もいる。僕のインストラクターのピーターも、メルボルンからタスマニア島までの300キロを漕ぎ渡った経験を持っている。

手作りヨット.jpg
僕が作ったおもちゃヨット

そしてエスキモーロールとは、ひっくり返ったカヤックを乗ったままでくるりと回転させて復元させる技を言う。スイスロールのようなケーキのことではない。海上で波にあたってひっくり返って沈したとき、この技ができれば、わざわざカヤックから水中に出なくとも、カヤックを復元させて漕ぎ続けることができる。シーカヤック乗りには必至のテクニックだ。

上り坂の先は平坦路

僕は50才になって、当然かもしれないが、これからの人生はこれまでの人生よりも短くなったことに気がついた。短く言えば、折り返し地点を過ぎたということかもしれない。でも、僕は、間違っても、これまでの人生を「折り返し」たり、繰り返したりはしたくない。これからも新しい体験をしたい。が、50才になった感慨は、人によってやや異なるみたいだ。近所の友達で、今年1月に50才になったイアンはこう語った。
 
「50才と言ったって、墓場が近くなったという訳じゃない。まだまだだ。だが、もう登り坂は終わった。これからは、俺は平坦な道を走り続けることになる。なるべく長い間な。だが、気を抜いたり、走り続けるのを止めたら終わりだ。そのとたん下り坂だ。そして、その下り坂は下れば下るほど急になる。転げ落ち出したらもう停まらない。」僕も、イアンの考えに同感だ。前に進むことは止めたくない。

イアンはこう言い残すと、仕事を3ヶ月休職し、やはり50才になった友達と二人で、がたがたのBMWのバイクにテントと寝袋を積んで、北オーストラリアの砂漠を目指した。彼のBMWは満タンでの最大航続距離は400キロ未満だそうだが、北オーストラリアには500キロ以上ガソリンスタンドがない荒野もある。そんな場所では、もちろん携帯電話など通じない。
 「予備タンクもあるし、どうにかなるさ。だがな、人生では、時には賭けに打って出ることも必要だ。まあ、相棒は心配性だから、救助信号用EPirb(遭難救助用発信装置)も持ってるしな。使うこともないだろうが。」
 スティープ・マックイーンを横長にしたような顔のイアンは、こう言ってニヤッと笑った。3月の終わり、彼らは旅立った。

海に出たい

50才になったからと言って、何かを証明しなくてはならない訳ではないだろう。イアンにしても、50才の誕生祝いに、クロスカントリーのバイク旅行に出かけたまでのことだろう。しかし、50才になったことは、何か今までやってこなかったことを始めるきっかけにはなる。

僕は、海に出たいと思った。人生これまで、海とはあまり縁がなかったが、この2、3年、僕は急に海に出たくなったのだ。きっかけは釣りだった。岸壁から息子と釣りをする楽しさをある夏休みに覚えた。それが嵩じてカヌーを始めた。僕は、パドルを漕いで静かに水面を滑っていくことに快感を覚えるようになった。眠れない夜は、水上にいるイメージを浮かべると、すぐに心が休まるようになった。ところが、波をかぶったら浸水するカヌーでは、外海に出られない。息子はモーターボートを買おうと言ったが、僕はエンジンの付いた乗り物は、うるさくて好きではない。

タンタン丸.jpg
僕の作ったカヌー、タンタン丸(釣り仕様)

そうしているうちに僕の読書の傾向も、海洋探検、航海、ヨット、カヌー、カヤックといった関連のものに傾いていった。中でも、オーストラリア人冒険家James CastrissionのAcross the Ditchという本には心揺さぶられた。二人の若者がオーストラリアからニュージーランドへの3000キロを60日かけてカヤックで渡った実話だ。Oscar Speckというドイツ人が、第二次大戦前にドイツからオーストラリアまで折りたたみのカヤックで旅した話にもロマンを感じた。日本人の吉岡嶺二が、長い時間かけて、こつこつ尺取り虫のようにカヤックで日本一周した記録にも敬服した。

シーカヤックの講習会に出て、カヤックを手に入れる

講習会.jpg
カヤックの講習会で

僕も、とにかく始めようと思った。50才になった翌月、清水の舞台から飛び降りるつもりで、二日間のシーカヤック講習会を受けた。ポートフィリップ湾の柔らかいうねりの中で、漕ぎ方の基本、沈した時の再乗艇の仕方、天気、潮流、海図の基本的知識などを学んだ。同級生には中年のオヤジとオバサンが多かった。僕はこれで大分自信をつけた。すぐに、ビクトリア・シーカヤック・クラブという団体にも入会した。

6月になって、いよいよ自分のシーカヤックを買いに出かけた。メルボルンには、3軒ほどシーカヤックの専門店がある。一軒目ではこう言われた。

「いきなり本格的なシーカヤックは、ちょっと背伸びじゃないの? 危ないし。それに、あんただけ一人で海に出たんじゃ、奥さんやお子さんがかわいそうでしょ? だから、とりあえずファミリー向けの二人乗りを買って、それで一夏海岸で慣らしてさ、それでも海に出たければ、本格的なのを買ったら?」
僕は、その店をすぐに出た。

2軒目では、カワイコちゃん店員に、あれでもいいし、これでもいいと勧められ、混乱して終わった。僕に必要なのは、的確なアドバイスであってギャルの笑顔じゃない。

買うのはよそうかと思ったが、気持を奮い立たせて、三軒目に行った。倉庫のようなこの店は、スパルタンなシーカヤックやレース艇を売る店だった。飾り気もなく、僕は店の入り口で二の足を踏みそうになった。しかし、僕の気配を感じて、奥から無愛想な大男の店員がのそっと現れたので、後へは引けなくなった。

無愛想な大男は、僕の話をじっと聞いた。筋骨隆々、腕も長くて手も大きい。気合いの入ったカヤッカーという風貌だ。
「どんな場所でカヤックを乗るんだ?」男は、単刀直入に聞いた。

カヌーはやったことがあるがカヤックは初心者である、海で波と戯れてみたい、海岸沿いに2、3日の旅に出てみたい、僕はそんなことを話した.

大男は、またぼそっと聞いた。「どんなカヤックを買いたいのか?」僕は、ドイツ製P社の名前を挙げた。すると、店員は首を横に振り、「あんたには大きすぎ、重すぎだ」と言った。僕は、スウェーデンS社の名前も挙げた。男はまた首を横に振り、店の片隅にある、細目でスッキリした形のカヤックを指差して言った。

「こう言っちゃ悪いが、あんたにはPもSも無理だ。あんたの体では持て余す(僕は170センチ、57キロ)。静かな水面なら良いが、海では、風、潮流、うねり、低温、疲れとの戦いになる。悪いことは言わない、軽くて細い舟にしておけ。あんたの体に合うカヤックは米国製H社のトレーサーしかない。」

僕は、この男なら信頼出来ると思った。そこで、この店でH社のトレーサーというカヤックを買うことにした。

待つこと2ヶ月、8月頭、アンドリュー(大男の店員)が電話して来た.今度は、うれしそうな明るい声だった。
「お前のトレーサーがアメリカからきたぞ。準備しておくから、早く取りにこい。」

僕の赤いトレーサーは全長505センチ、幅60センチ、重さ20キロ。50才になって、ポルシェを買う男もあるだろうし、若い恋人を持つ奴もいるだろう。だけど、僕の恋人は、この細長いカヤックだ。小学生の高学年になって、初めてギア付き自転車を買ってもらった時のように僕は興奮した。5メートルもあるから部屋には入れられないが、ベッドの横に置いて眠りたいくらいだった。

僕の恋人レインボー丸.jpg
赤いトレーサー、僕のカヤック


エスキモーロール

こうしてカヤックは買ったが、メルボルンの8月は真冬でなかなか海には出られない。

そんな矢先、ビクトリア・シーカヤッククラブから、「冬期エスキモー・ローリング講習会、於ラトローブ大学温水プール、初心者歓迎」という知らせが舞いこんだ。いよいよ来る時がきた。さっそく、「出席」の返信メールを出した。講習会の晩、車の屋根にトレーサーをくくり付け、ラトローブ大学のプールに向かった。「よし、やるぞ!」

エスキモーロール講習会、於ラトローブ大学プール

大学のプールに着くと、、いるいる。15隻ほどのカヤックがすでにプールサイドに並び、周りをさまざまな風情の老若男女が取り囲んでいる。
「よろしく。初参加のテツタです」と、年かさの大ヒゲ男に挨拶した。
「おう、俺はボブだ。よろしくな。初心者だって? エスキモーロールなんて、簡単だ。2、3回やれば、覚えちまう。あんたの今夜のコーチは、あそこのピーターだ。あいつは、おっちょこちょいな顔をしているが、タスマニアまで2、3回は渡っているやり手(old-hand)だ。」
僕は、準備に忙しいピーターに手を振った。

その晩の初心者は、僕ともう一人の中年男ロバートだった。ロバートは、ミラージュ580という、6メートルもある大物カヤックを担いできたが、かなり持て余し気味だった。そこへ、ニールという古参クラブ員が、スリックな黒いカヤックで様子を見に来た.
「ロバート、ミラージュなんか乗って、いきなりニュージーにでも行くつもりか? こういっちゃあ何だが、初心者がそんな大きな舟じゃあ、苦しいぞ。」
きたきた。体育会クラブの初心者いじめは、オーストラリアでも健在だ。ニールは、僕の赤いカヤックもちらっと見てこう言った。
「アメリカ製のプラスチック舟か。それで、どこまで行けるかな?」
僕は、ニールには用心しようと考えたが、顔では笑ってみせた。

それより、エスキモーロールの練習だ。僕は、ピーター方に向かって、カヤックで混み合う50メートルプールを恐る恐る漕ぎ渡った。見ると、60代後半、70代ともおぼしき初老のオヤジ(ジジイ?)たちが、使い込んだカヤックで、くるりくるりとロールを決めている。みんな老人のくせに贅肉のないいい体つきだ。加えて、さざ波ひとつ立てずに、たいして力も入れずに、カヤックをくるりと復元させている。すげえなあ!

さて、僕らの講師役のピーターは50代半ばということだが、どうみても40ちょっとにしか見えない。この若さは何だ?
「いくつか手本を見せまーす!」と言って、ピーターは、僕とロバートの前でロールしてみせる。

それから、「さあ、君たちもやってみようねえ!」と、ピーターは明るく言った。
僕たちは、恐る恐るカヤックを傾けつつ、カヤックを限界まで倒してみる。
それから、体を後ろへのけぞらしてみせる。
パドルをホウキのように、前後に滑らしてみせる。
こういったことを何度も、何度も、練習する。
はっきり言って、ロバートも、僕も、動きがぎくしゃく、ひっくり変えるのが怖くて、及び腰になってしまう。
「だめ、だめ、そんな腰つきじゃ!」と、ピーターは怒鳴る.

僕は実は、エスキモーロールに関しては、ずいぶん書籍を読んだし、Youtubeなどでもフォームは研究してきた。中でも、英国人Derek Hatchinsonの書いたSea Canoeingというテキストは、暗記するくらい読んだ。だから、水に入ったら、すぐにロールをマスターしてみせる、と意気込んでいたのだ。溺れそうな犬だって、もう少しましな様を見せるだろう。

「さあ、じゃあ、君たちも、実際に舟をひっくり返してみようじゃないの。じゃあ、まずテツタから、カヤックをひっくりかえして、これまでやったことを連続してできるか、さあ、やってみよう!」と、ピーターがうれしそうに叫んだ。さっきのニールも、黒カヤックの上からニヤニヤしながらこっちを見てやがる。

ちくしょう、見てろよ! 僕は、深呼吸し、パドルを両手で握って、後ろ向きにカヤックをひっくり返してみせた.「どうだ見たか!」、見事に、カヤックごとひっくり返ってみせた自分に一瞬得意になった。

ところがどうだ、天地が逆になった途端、僕には自分がどっちを向いているのか、両手に握ったパドルをどちらに振るのか分からなくなった。頭の中は真っ白、周りは水泡ばかりになった。

僕は、見事に敗北し、他のクラブ員がゲラゲラ笑う中を、無惨にもピーターに引き起こされたのだった。

仲間と荒海に出る図.jpg
仲間と荒海に出て行く図


エスキーロール講習の二度目、三度目

あれから、講習にもう二回出た。初回で見事な敗北を喫したので、二回目はかなり気負って出た.ところが、二回目は、一回目よりももっとひどい敗北だった。僕があまりひどい様だったので、にやけたニールまでが助けてくれた。「テツタ、もしかして、お前さんのパドルが良くないんじゃないの? 俺のを使ってみな」と、ニールは、高価なケブラー製のパドルを貸してくれた。案の定、僕はパドルを振る向きを間違え、ニールのパドルをプールの底で叩き付けて割りそうになった。ニールは青くなり、それ以降、僕に近づくのを止めた(ざまあみろ!)

「君につき合ってると、僕、自分の練習時間がなくなっちゃうなあ」と、親切だったピーターまでが見捨てるようなことを言った。

三回目は、よっぽど行くのを止めようかと思った。それでも、やはりプールに向かった。僕は、こういうときはいつも心の中で思う。”I have nothing to lose.”(失うものなど、何もない)。ピーターは、僕の姿を見ると、プールの向こうにカヤックを漕いでいってしまった.ニールはニヤニヤして、「また来たの?」みたいにウインクしてみせた(こんにゃろ、見てろよ!)。

僕は諦めない。もう誰も教えてくれないので一人で練習した。カヤックをひっくり返しては、水の中に逆さまになる練習をした。見かねて、ピーターが戻って来てくれた。
「あのね、こうしよう。パドルフロート(浮きのようなもの)を付けて練習してみよう」ピーターは言った。

フロートをパドルの右端に付ける.それでひっくり返る.そうすると、何て事はない、逆さまになっても右側が分かるのだ。単純なことだった。印があればいいのだ。僕は、勢いよくパドルを振った。カヤックが半分持ち上がった。

「おおお!」、ピーターが唸った。僕の練習を見るとはなしに見ていた2、3の観客からも声が上がった。まだロールが出来た訳ではないが、どうにか体を起こすこつが分かりかけたのだ。

「やったよ、やったよ、テツタ、その息だ.それでいいんだ。君は、体が軽いからすぐ出来る!」ピーターが握手してくれた。嬉しかった。こんなに嬉しかったことは、今年は、まだなかった。つまり50才になって、一番嬉しかったことだった。

さて、もう10月。僕はエスキモーロールがまだ出来ない。だが、もう2、3回練習を積めば出来るようになるだろう。目標があるということは素晴らしいことだ。

そして、エスキモーロールができれば、少しは波のあるところにも出て行ける。そうすれば、また、少し違った視点から、自分のいる場所を見ることができるだろう。

メルボルンはもうすぐ夏だ。

カヤック製作中.jpg
今、カヤックも作っている

posted by てったくん at 13:42| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2012年09月10日

スタマティスに会ったこと

2012年9月10日

ひと月ほど前、8月のある冷たい霧雨が降る日の午後、リンゴロウと二人でベルグレーブ図書館から出たところで、スタマティスにばったり会った。16才の息子のルカと一緒だった。2年ぶりか、3年ぶりか、久しぶりだった。
 あれれ、スタマティスはギリシャにいたんじゃなかったっけ?と、とっさに僕は思った。
 「久しぶりだね(Long time no see.)。 元気そうだな。こっちにはいつまでいるの?」
 「いつものようにルカに会いにきた。今週末までいる。」
雨も降っているし、改めて後で会うことにして握手をして別れた。
 スタマティスは、拙著『ヤギのアシヌーラどこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)という絵本の主人公のモデルだ。絵本では「ものぐさじいさん」という役だが、彼が飼っていた雌ヤギのアシヌーラにもモデルになってもらった。ものぐさじいさんの飼ヤギが、近所の人に借り出されて居所が分からなくなるが、最後はいろいろお土産を抱えて帰ってくると言う、田舎特有のバーター(労力と物々交換)のことを描いた絵本だ。

ヤギ.jpg
近所のヤギさんたち

 もちろん、絵本のお話と実在の人物に直接のつながりはない。ただ共通点は、絵本のスタマティスも実在のスタマティスも、ものぐさなのだが、案外目先がきくことかもしれない。
 実在のスタマティスは、ギリシャ人の元船乗りでヨットマンだ。アラスカで日本の遠洋漁船に乗っていたこともあるし、東南アジアや地中海をカタマランのクルーザーで放浪していたこともある。つい最近は、若いタイ人の奥さんとギリシャのミコノス島でチャーターヨットの船長をしていた。

船.jpg

 「地中海でのお客は、ロシアのマフィアとか金満アメリカ人だ。日本人は時間がないから来ない」と言っていた。
 スタマティスは、そんな好き勝手なことをして暮らしている男だ。勤めるとか、早起きしてジョギングするとかは一切しない人間だが、不思議に魅力的な生き方をしている。一つは、一所には根付かず、心の中に羅針盤を持っているみたいに、自分の欲求や意志にしたがって、どこへでも行って住み着いてしまう。面倒なことが嫌いだから、定職もないし財産もあまり持たない。でも、それを引け目に思うこともない。それで、どっこい、ちゃんと生きている。半年に一度しか会わないにせよ、息子もいる。スタマティスには、親切で人懐っこいところもあるから、人に少しくらい迷惑をかけても、彼のことで本当に腹を立てる人も少ないだろう。彼のような生き方は、僕にはとてもできないが、だからこそ魅力的で、ときどき会って話をするのが楽しみな友達なのだ。
 2、3日して、僕たちはベルグレーブの喫茶店で再会した。
 「どうだい、ギリシャは? 景気はずいぶんひどいらしいな」と、僕が言うと、「いやあ、俺はもうギリシャからは出て、2年前からタイのチェンマイで暮らしている。かみさんの実家の近くだ。農業だよ、今は農業」と、スタマティスは笑った。
 「え? じゃあ、ヨットのビジネスは?」と、僕は驚く。
 「とっくに止めた。もう海はいい。チェンマイには海がないから清々したよ。ヨットは、スペインで売っちまった。ひどい安値だったが、タイで家を建てるくらいにはなった。船は手がかかりすぎる。」
 確かにスペインの景気も悪い。だが、僕は本当に驚いた。スタマティスは心底船乗りだったからだ。昔このベルグレーブに住んでいた時も、海がないので、鬱病になりそうだと言っていた。朝からシーバスリーガルのボトルを抱いて、ぼんやりしていたこともある。それでも、別れたオーストラリア人の元妻との間に息子のルカがいるから、仕方なく山間のベルグレーブにいたのだ。しかし、その時でもブリスベンにヨットを係留していて、チャーターのお客が現れると、飛行機でブリスベンに飛び、グレートバリアリーフでも、ハミルトン島でも、どこでもお客を連れてひと回りしてくるのを商売にしていた。
 「海は最高だぞ。特に一人で出ているときはな。トイレのドアを開けっ放しでウンコをしても、とやかく言う女だっていない」と、彼は言っていたものだ。僕も、きっとそうだろうな、とうらやましかった。

ユーカリ.jpg
ユーカリの巨木を見ていると気が滅入る、とスタマティスは言っていた

 そういうスタマティスは、女性には手が早くて、オーストラリア人の奥さんと分かれると、すぐに息子の同級生の母親の美人バツイチとくっついた。しかし、彼女とも2、3年で別れ、今度はクルージングで行ったタイのパタヤビーチで知り合ったタイ人女子学生と出来てしまった。スタマティスより30才も若い相手だ。そして、何とその娘と結婚して、ギリシャに連れていってしまった。
 「俺はな、40才台のオーストラリア女には愛想をつかした。我が強くて、気位が高くて、威張ってて。男が尽くして当たり前だと思ってる。その点、タイ人の女性は最高だよ。俺が面倒を見てやれば、彼女も俺の面倒を見てくれる。
(I look after her, she looks after me.)料理でも洗濯でも何でもな。まあ、問題は、タイ人というのは大家族主義だから、彼女と結婚したと言うことは、つまり彼女の親類と結婚したに等しい。だが、俺はギリシャに彼女を連れていくから、その点も大丈夫だ。ワハハ。」
 これがオーストラリアを離れ、ギリシャに戻る前のスタマティスの言動だっだ。ただ、その時の周りの人たちの反応は良くなかった。特に女性の反応が悪かった。
 「全く、あんなニンニク臭い男のどこがいいのかね?若いタイ人の奥さんだなんて聞いて呆れるよ。金の切れ目が縁の切れ目、あのスケベじじいにはすぐ愛想が尽きるに違いないよ」と、前からスタマティスの女癖に呆れていた近所のオーストラリア人女性はこう言い捨てた。僕も、30才も若い奥さんを貰う度胸には驚いたものだ。しかし、今は奥さんの親類に囲まれてチェンマイの田舎で暮らしていると言うから、彼の変わり様にはびっくりした。
 「で、タイの暮らしはどうなのさ?奥さん元気?」と、僕は興味津々で尋ねた。
 「タイの暮らしは、今年で2年目だ。最初は良かったよ。でも段々大変になってきて、どうしようかと思ったが。おれみたいな西洋人がタイの田舎にいると、思いもよらない事だらけだった。でも、今はそれにも慣れてきた。タイ語も少しは分かるようになってきたしな。」
 スタマティスは船乗りだが、全く教養がない訳ではない。ちゃんとドイツの大学で心理学を勉強したこともある。しかし、大学は中退だ。理由は、彼がディスレキシア、つまり失読症、あるいは難読症と言われる障害を持っていることが判明したからだ。
 「いくら勉強しても、ちっとも頭に入らない理由が分かってほっとしたよ」と、スタマティスは自分の障害について言っていた。
 スタマティスは、書いてあるものはあまり読めない。海図や地図は、目の前にある部分はどうにか読めるが、ページをめくったとたん、前のページにあったことを忘れてしまう。よくそんなでヨットを駆って海を渡ることができたと思うが、そこは年期の入った船乗りだから、動物的な「勘」があったのだろう。
 だからスタマティスは、言葉はみんな耳から覚えてしまう。ギリシャ語は母語としても、英語はぺらぺらだ。ドイツ語もうまい(らしい)。スペイン語やイタリア語やフランス語もそこそこできるようだ。そして今はタイ語だ。障害があるのは大変だが、逆に他の能力で補うから、語学力がつくのかもしれない。
 ヨットの腕だって大したものだ。オーストラリアからギリシャに戻った時もヨットだったし、人のヨットを回送して、タイからブリスベンとか、インドネシアからメルボルンとか、しょっちゅう航海していた。僕だったら、その一つをしただけで大冒険だが、スタマティスは、ちょっといなくなったと思ったら、北アフリカかどこかまで行っていたなんてことがしょっちゅうだった。

シオマネキ.jpg
オーストラリアのシオマネキは何語を話すのか?

 タイの話に戻る。 
 「奥さんはどうしてんの?楽しくやってんの?」
 「タン(奥さんの名前)は、すごくハッピーだ。彼女は、ぜんぜん何もしてないからな。」
 「毎日何してんのさ?」と僕.
 「テレビを見てるんだ。タイ語のくだらないお笑い番組さ。俺には分からないから、うるせぇって言ったんだ。そしたらヘッドフォンを買ってきて、それを着けて見ている。それと、ケータイで友達か家族とおしゃべりだ。まるでケータイと暮らしているみたいだぞ。だが、俺の世話はしてくれる。食事も、洗濯も、掃除もな。タイの女ってのは、そんなもんだ。」
 「王様みたいじゃないか。」
 「ああ最高だ。でもなあ、鉄太、引っ越した時は驚いたぞ。オヤジとオフクロが持っている素敵なチーク材でできたバンガローに住まわせてもらったんだが、ひっきりになしに人がくる。いつも村の誰それが家にいるんだぞ。両親や親戚が来たら一緒に寝る。文字通り一緒にだぞ。バンガローだから、外がよく見えるが、外からも丸見えだ。俺たちは二階に住んでいたから、一階で煮炊きが始まれば煙でいぶされる。雨は入ってくる、風は吹き込んでくる。野良犬も来る。ブタだって来る。一見かっこいいが、プライバシーってものがない。全然ない」。
 いくら元船乗りでも、ヨーロッパ系人種には、プラバシーがないのは堪えられないだろう。僕だってそんなのは嫌だ。
 「だから船を売った金で家を建てたんだ。小さなバンガローだ。陽で乾かしたレンガを積んで作った家だ。これはいい。煙も入ってこない。それと犬を飼った。ドイツのドーベルマンだ。そいつを庭先に放しておけば、人も入ってこない。絶対にだ。」
 僕はその光景を想像しておかしくて笑ってしまった。
 「アハハ。じゃあ、ドーベルマンの餌は、哀れなタイ人ってわけかい?」
 「まさか、そんなひどいことをする訳ないだろ。周りの村人たちとはうまくやっている。みんな友達だ。」
 「でも、お前さんの家には入れないんだろ?」
 「呼んだ時しか入れない。それが、礼節のある近所付き合いってもんだ。」
 「農業ってのは、何をやってんだ?」と僕は尋ねた。スタマティスは、一瞬顔を曇らした。
 「そうだ、それだ、問題は。農業だ。俺はタンの父親と、つまり義理の父と、ライチー栽培をするつもりで、20エーカーのプランテーションを買うところなんだ。」
「すごいね。それだけあれば左うちわじゃないか。」
 「まあ、そういう予定だ。軌道に乗ったらライチーは中国へ輸出する。中国人はライチーの実が大好きだから高価で買ってくれる。そして、頃合いを見計らって農園も売っぱらう。ところが問題は、チェンマイの田舎では、誰も金を持ってない。うちの義父にしたって、ぜんぜん金がない。普段は現金なんかなくても暮らせるからな」と、スタマティスは顔をしかめて言った。
 「じゃあ、お前さんの持ち金をそれに使うってわけかい?」と僕。
 「いや、そんな間抜けなことはしない。だから、今はその金策を考えているところさ。どっちみち20エーカーの農園だって、今は荒れ地だから大した額じゃない。そして、そこを整地して果樹を植え、最後は売っぱらって、差額で儲けようって腹だ。だから金は戻ってくるはずだ。」
 「戻ってくるはずか」僕は相づちを打った。
 人生の惨いところは、そういう「はず」というものは、しばし外れるものであるところだろう。しかし、船乗りだったスタマティスは、不測の事態には慣れているはずだから、そんなことは納得ずくに違いない。メルボルンでウイスキー浸けになっているよりずっと良い。
 僕はそこまで話したら帰る時間がきたので、具体的な金策については聞きそびれた。実際スタマティスにだって、何か考えがあったとは思えない。 
 僕たちは霧雨の中でまた握手した。スタマティスは船乗りがよくかぶっている丸い毛糸帽を耳までぐっと引っぱりおろしながら、「冴えないなあ、メルボルンは。チェンマイに遊びにこいよ」と言った。
 「そのうち日本に帰る時、バンコク経由で帰ることにするよ」僕は、本気でそう言った。
 「そうしろ。チェンマイはバンコクから飛行機でたったの1時間だ。うちのバンガローに泊めてやる。」(僕は、豚に添い寝されている自分を想像して身震いした。) 
 それから、スタマティスは喫茶店の真ん前に停めてあった20年前の型のカローラに乗り込んだ。ドアを開ける時、ギーッときしむ音がした。これは「爆弾レンタカー」(rent-a-bomb)と呼ばれる、廃車寸前の中古車を使った安いレンタカーだ。スタマティスのもうひとつの哲学は、「なるべく歩かない」だから、短期滞在でもレンタカーを借りる。そして、車は目的地の真ん前に駐車する。
 やがて、青い排気ガスを吐いて、爆弾カローラは雨の中を走り去った。
 僕には、また遠からず、スタマティスがこの「冴えないメルボルン」に戻ってくるんじゃないかという気がしてならない。
Who knows?
 
メルボルン遠景.jpg
冬の海とメルボルン遠景
posted by てったくん at 11:42| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2012年07月16日

冬休みの父子釣り旅行

釣れるときもあれば、釣れないこともある、

メルボルンでは、7月は冬休みだ。(8月はもっと真冬だから、日本が夏休みだからと言って、メルボルンにくることは勧めません。寒くて雨が多い。)

僕とリンゴロウは、釣り旅行に出かけた。愛車カムリワゴン号は1994年型で、25万キロも走っているが、屋根にカヌーのタンタン丸を乗せて、車内には釣り道具を満載しても、100キロでぐいぐい走ってくれる。いざ、Gippslandへひた走り。

カムリ号.jpg

いざロックスポートへ

今回僕とリンゴロウが行ったのは、メルボルンから200キロ、ロックスポート(Loch Sport)という海辺。片側が塩水の湖、片側が90マイルビーチがどこまでも続く半島の海岸だ。釣り人にはこたえられないロケーション。冬なので誰もおらず、どこへ言っても父子二人のみ。まるで天国のような状況。

ロックスポートの海岸.jpg
ロックスポートの海岸

ところが、寒くて寒くて魚も一切食いつかず。波止場でも砂浜でも岩場でも、ちっとも釣れず。一週間前に出かけた、我が家の近場フリンダーズという桟橋では、キスやカワハギやシマアジが35匹も釣れたのに、なぜかロックスポートでは「丸坊主」。道理で誰も釣ってないはずだ!

ビクトリア湖でウナギを釣ったこと

二日目、仕方がないので場所を変える。ビクトリア湖(真水)とキング湖(海水)という二つの湖を結ぶ運河のような川で、我らがカヌー、タンタン丸を浮かべてカヌーからの釣りを目論む。ところが、ここでも何も食いつかず。と思いきや、葦の生える川面で釣っていたら、何かが僕の針にゴーンと食いついた。かなりの大物だ。僕の希望としては、こういう場所では30センチ代のチヌ(bream)でもあげたかったが、かかったのは大ウナギだった.直径5センチ、長さ1メートル。細い釣り竿が折れそうなくらいしなった。でも、僕はウナギをおろすのは苦手なので、糸を切って逃がしてしまった。やれやれ。

巨大ウナギ.jpg
ヌシのようなウナギ

さて、タンタン丸というカヌーは、cajan pirogueというアメリカ南部ルイジアナ州の川舟を模したカヌーだ。僕が一昨年に3ヶ月かかって作ったもの。オールで漕ぐだけでなく、12ボルトのバッテリーで駆動する船外モーターも付けられる。リンゴロウは、今回このモーターを操縦し、川を上ったり下ったりして大満足。父親の僕は、ひっくり返りはしないかとヒヤヒヤしたが、リンゴロウの操縦はなかなか上手であった。

タンタン丸.jpg


ペンズビルは風光明媚な港町

さて、ウナギ以外の魚がどうにも釣れないので、カムリ号を飛ばしてさらに東、ビクトリア州の釣り人のメッカと言われているPainesvilleまで足を伸ばした。ここは絵に描いたような美しい港町。「別荘買うなら、ここに決まりだな」とか言いながら、波止場でフィッシュ・チップスを食べながら、状況視察。父子共々、鋭いまなざしで水面を睨む。

ペインズビル.jpg

僕らの目の前をモーターボートや釣り船も行きかう。釣りに出ている人もいるようだ。ようし、今度こそなんか釣れそうだぞ! リンゴロウはお昼を終えると、近くの釣具屋に情報収集に出かける。帰って来るなり、「パパ、クモガニ(spider crab)でbream(チヌ)が釣れるってよ!」と興奮して走ってきた。そこで、生きたクモガニを一箱買い求め、さっそく糸を垂れる。

クモガニ.jpg
クモガニさん

期待に胸が膨らむ。チヌはファイトが素晴らしい魚だし、食べても美味しい。ところが、待てど暮らせど、当たりも何もなし。チヌどころかフグも釣れず。お魚さんたちはどこへ行ったのか? 波止場は風が強くて寒いだけ。Painsvilleもやっぱりだめか、と嘆息。仕方がないので、クモガニたちを連れて、Loch Sportまで一時間半の道のりを引き返す。

Port Albertで、再度フィッシュ・アンド・チップスを食べたこと

ああ、三泊四日の父子釣り旅行も、父親の僕がウナギを釣り上げただけで終わるのか! いやいや、まだ、最後の手段がある。帰り道に、昨年大漁だったPort Albertという港町に寄って帰ろう! 昨年は、大振りのアジ、シマアジ、コチなど、ここの桟橋で4、50匹を釣り上げ、カムリ号に大漁旗をたてて帰宅した良港なのだ。ガハハ。今度こそは、釣ってやる。距離にして100キロの道草だが、かまうもんか。いざ、行かん!

大漁.jpg
過去には大漁のこともあった

景気付けにビートルズの青板、赤板のCDをがんがんかけながら、South Gippslandフリーウエィを飛ばす。はやる心を抑え、時速も100キロに抑えながら、ひたすらまっすぐの道を一時間とちょっと走る。

Port Albertに着くと、潮は上げ潮ときている。つまり、魚も潮にのってばんばん上ってくるはずと、釣り糸を垂れる。

ところが、待てど暮らせど、ちっとも反応なし。「ええ?、またあ?」と、リンゴロウも泣き声。昨日のクモガニちゃんを付けたり、エビでつってみたり、桟橋に張り付いているフジツボを叩き割って餌にしたり、疑似餌でつったり、手を替え品を替えてあがくが、全然だめ。

と、そこへ、ぐぐーと引きがきた!「やったー、きたぞ!」と、ぼくは叫び、竿を上げる。コチか、アジか、ええい、釣れれば何でもいい!と、期待に胸を弾ませてリールを巻き上げる….

と、針にひっかかってきたのは、15センチくらいのカニだった。
「ちくしょう、カニでカニを釣ってどうするんじゃあ」と、放り投げようとしたが、リンゴロウは大喜び。バケツにカニを入れてしばし戯れる。

僕は、全く期待を裏切られたが、ひたすらがんばる。でも、釣れない。釣れない時は、とことん釣れない。バース海峡を越えて南極から吹いてくる風はひたすら冷たい。ああ、やんなっちゃうなあと、ため息。カニと遊び飽きたリンゴロウも、「パパ、寒いよう、腹減ったよう…」と、情けない声。

じゃあ、お昼にするか。でも、食べる場所と言えば、Port Albertには店が三軒しかない。食い物屋は、フィッシュ・アンド・チップス屋だけ。昨日の昼もフィッシュ・アンド・チップスだったのに、またかよ。でも、ここのは美味しいので有名なフィッシュ・アンド・チップス屋だからいいかあ、などと言い訳をしながら、二日続けてフィッシュ・アンド・チップスを食べるはめに。(いくら美味しくても、腹にもたれる)。お昼の後は、諦めが肝心と、釣りは降参し、ひたすらメルボルンまで200キロ、カムリ号を飛ばして帰る。

ビクトリア湖.jpg
どこまでも広がる空と水(ビクトリア湖)

ちっとも釣れない釣り旅行だった。従ってお土産もなし。釣れれば、みんなで家でお刺身と焼き魚だったのに、釣れなかったので、晩は鶏の寄せ鍋を食べました。旅行に行って帰ると、なぜかお豆腐とお醤油味の食べ物が食べたくなる。これも幸せ。女房と娘の顔を四日ぶりに見るのも、しみじみうれしい。そんな感じの冬休み「男組釣り旅行」だった。

よし、次は釣るぞ! 
posted by てったくん at 15:56| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月31日

薪の備蓄状況など

薪の備蓄

薪割り日記と称したこのブログには、最初の頃はよく薪のことを書いたが、この頃はちっとも薪のことを書いていない。で、最近もちゃんと薪は割っているのかと言うと、ここのところちっとも割っていない。なぜか?

その理由は、薪の貯金が一冬分ほどあるからだ。「アリとキリギリス」というお話のように、私は、夏の間にせっせと薪を集めて割っておいたので、今冬は、あまり割らなくて済んでいる。

もみじ.jpg
庭の秋

5月の今は、正式にはメルボルンは晩秋であり、6月かられっきとした冬だ。もうけっこう寒いので、薪ストーブをボンボン燃やしている。だから、もしかしたら、私の「薪貯金」も8月頃には枯渇して、やはりせっせと薪割りを敢行しなければならなくなるかもしれない。まあ、それはまたそのときのことである。

薪ねこ.jpg
一日に燃やす薪の量

しかし、多少の薪貯金ができたと言って喜んでいてはいけない。上には、上がある。例えば、うちの隣は初老のご夫婦だが、この二人の家にはもはや終生薪割りの必要がないくらいの量の薪の備蓄がある。どれくらいあるかと言うと、我が家に崩れてくるくらいある。10トンくらいはあるだろう。どうしてそんなにあるかと言うと、1986年にメルボルンで大きな山火事があった後、そこら中に倒れていた焼け焦げた倒木を集めて歩いたからなのだそうだ。備蓄や貯金と言うのは、供給が需要を上回ると貯まる一方なのだが、そんなこと当たり前だ。ただ、薪の備蓄もお金の貯金も、それほどたくさん持ったことがない私には、今年の冬は、薪割りをしなくて良いくらい薪の貯金があるということが新鮮な驚きなのだ。しかし、ここまで貯まるには、数年の蓄積が必要だったことをここで強調しておこう。

巻き備蓄.jpg
うちの薪の備蓄

ちなみに、隣のご夫婦は、60歳代前半だが、ご主人のネビルは元電車の運転手で、奥さんのケイは元看護婦である。二人とも50台半ばで早々と退職し、今は悠々自適である。こういう職業の人は、ちゃんと年金を何十年も積み立ててきたので、贅沢さえしなければ、老後を楽しく暮らしていけるのだ。お庭はとてもきれいだし、三羽飼っているニワトリは卵を毎日2、3個生むし、もうすぐ孫ができるし、毎年海外旅行だって行っている。今だってイタリア、ギリシャ、トルコを三週間かけてクルーズだ。うらやましい!(彼らの留守宅をみているおかげで、新鮮な生みたて卵をもらっている。)

ニブの薪.jpg
隣家の薪の備蓄

にわとり.jpg
隣家のニワトリさんたち

一方、私の方は、一冬分の薪の備蓄があるだけで、大船に乗ったつもりなのだから、将来はあまり芳しくない。おまけに自由業なので、年金もちゃんとはらってないから、多分一生リタイアできないだろう。

紅葉赤.jpg
庭の紅葉

「有名作家」としての日々

でも、薪割りをしないで空いた時間を何に使っているかと言うと、いろいろやっていることがある。ひとつは、この間も書いた「空き瓶洗い」だ。あれからも、せっせとビールの空き瓶を洗ってラベル剥がしをしたので、手作りビールを詰められる空き瓶の備蓄が200本くらいも貯まった。すごい! でも、こんなことで喜んでいては、全くダメなことはよく分かっている。

だから、仕事だってちゃんとしている。今日は翻訳の絵本を一冊仕上げたので、午後はお休みにした。かく言う私も、着実に、作家/翻訳家として名を広めつつあり、現に今週は、メルボルンの公立小学校の「作家訪問」の日に招待された。僕をよんでくれたのは、ハンティングデール小学校と言って、普通の公立の小学校だが、ここは日本語と英語のバイリンガル教育を行っている。日本人の先生が5、6人もいて、まるで日本にいるみたいに漢字のドリルなんかやっているのだ。

僕は、この学校に「日本人の作家」ということで招かれ、自作絵本の朗読、紙芝居、歌なんかをやってきた。バイリンガル学校だから、みんな日本語だ。ただ、「浦島太郎」の紙芝居は、竜宮城とか乙姫様とか玉手箱とか、オジーの子どもたちには、かなり理解不能な事物が出て来たので、そういうところは英語で解説した。特に、玉手箱を開けたとたん、どうして浦島がおじいさんになっちゃったのかよく分からなかったらしく、みんなぽかんとしていた。

作家.jpg
作家近影

読み聞かせの後は、「作家に何でも聞いてみよう!」みたいなコーナーで、英語や日本語で子どもたちがいろいろ質問してきたので、それに答えた。以下が、主だった質問である。

「お話のアイデアはどこから得るんですか?」
(答: 誰かが言った面白いことや、不思議な出来事など、毎日の生活から得ます.(ちょっと優等生的な質問かもね。)

「お話には、本当にあったことを書くんですか、それとも空想したことを書くんですか?」
(答:90パーセントは、本当にあったことを書きます。でも、出来ごとを、事実そのまま書くことはありません。例えば、人の名前は変えてしまいます。(けっこう良いところをついている質問だ.)

「絵本の絵も描くんですか?」
(答:いいえ、私は絵はヘダなので描きません.絵は絵描きが描きます.(この手の質問はいつも受ける.絵が下手なのが恥ずかしい.)

「絵本って、どうやって作るんですか?」
(答:ほとんどの場合、お話を先に書いて、絵描きさんが後で絵を付けます。時々は出版社に「こういう絵本を書いてほしい」と言われることがありますが、大概は自分で書いたお話を出版社に送ることが多いです。(ちょっと答えが難しかったかな。)

「絵本ってどのくらいの部数を印刷するんですか?」
(答: 普通は、2000冊から6000冊の間くらいです.(みんなこの答えには驚いていた.小学生には、何千と言う数は、すごくたくさんに思えるのだろう。)

「作家には、どうやったらなれるんですか?」
(答: お話を書いて本にすれば、誰だって作家になれます。(大人にも聞かれるよ、これは。)

「今までに何冊くらい本を書きましたか?」
(答:15冊くらいです。(嫌な質問だな。文学は量じゃない、質だよ、質。)

「最初に書いた本は何ですか?」
(答: 昔は英語の先生だったので、英語の教科書です(子どもたち、なぜか爆笑。僕の英語の発音が日本人的だからか?)

「作家になって有名になって、どんな気分ですか?」
(答: 私は有名じゃありません。それに、作家がみんな有名な訳ではありません。私は、別に有名になりたくて作家をしている訳でもありません。(作家ってみんな有名だと思ってるんだな。笑っちゃうなあ、こういうの。)

「お話を書くとき、お母さんに手伝ってもらうことはありますか?」
(答: 私の母は、20年前に亡くなったので、母に手伝ってもらうことはありません。でも、母の代わりに、妻や子どもたちに手伝ってもらうことはあります。(子どもならではの、すっごくかわいい質問でした。)

ハンティングデール小学校のみなさん、先生方、どうもありがとううございました!

と言う訳で、僕は、仙人みたいな生活をしていると思われているかもしれないが、ちゃんと、普通の人間との接点もあるんだということが、今回の結論。以上、おわり

ししおどし.jpg
鉄太制作「ししおどし」(なんでこんなものを作ったかは、また今度説明しますが、決して暇だからじゃありません。)



posted by てったくん at 10:29| Comment(19) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月02日

お墓で朝ご飯(最近やったことなど)

村のお墓で朝ご飯(4月上旬)

チャコが、メルボルンから300キロのギップスランドのスウィフトクリーク村で、巨大クモの巣(みたいなインスタレーション)を作るので、その応援を兼ねて、家族旅行(プラス娘のクラスメートのサムという男の子も連れて)に出かけました。大好きなタイヤーズ湖でカヌーと、サーフスキーをする予定なので、荷物満載のこんな格好で出撃です。

車トレーラー.jpg
トレ–ラーを引いて満載の車

羊.jpg
ギップスランドの田舎道

ギップスランドのスウィフトクリークは、ビクトリアのアルプス、マウントホサムの麓のきれいな村。チャコは、ここの古い墓地の上に、クモの巣を張りました。50メートルx50メートルの巨大なクモの巣。この墓地は、史蹟にも指定されている古い墓地で、墓石を読むのが面白かったです。クモの巣は、村の人も総出で作りました。とても、きれいな谷間です。二日目には、墓地で村のみなさんと朝食会。おいしいくだものを一杯食べました.りんご、杏、桃、梨(日本の梨もありました)、苺、イチヂクなど。

クモの巣.jpg
お墓とクモの巣
朝ご飯.jpg
お墓で朝ご飯

くだもの.jpg

お墓.jpg
古いお墓

泊まった宿の裏は清流で、マス釣りを試みましたが、何も釣れず。翌日は、タイヤーズ湖までドライブです。釣りをすると、大きなコチが二匹釣れました.カヌーで湖を漕ぎ回ります。大きな湖も、ほとんど僕たちだけ。

本当にのんびりしました。

カヌー.jpg
タイヤーズ湖(塩水です)

猫.jpg
スウィフトクリークの野良猫とリンゴロウ

ボーイズ.jpg
サムとリンゴロウ

文庫キャンプ

メルボルン文庫の、恒例文庫キャンプにいきました。Upper Yarra Reservoir公園に、復活祭休み(4月下旬)を利用していきました。10家族くらいが集まって、賑やか。やっぱり、一番楽しかったのは、焚火かな。特に子どもたちが、栗を焼いたり、マシュマロを焼いたり。お父さんたちは、釣り好きな人が多いので、今夏の釣果の比べっこなど。お母さんたちも「井戸端会議」。それから、湖を見下ろす山に登りました.ほんの40分ほどの登山ですが、みんなふらふら。オーストラリアって、平地ばっかりだから、たまに山に登ると、「うへー、すごい坂!」とか言っちゃって、大騒ぎです。

たき火.jpg
キャンプではたき火だ


日曜日のシーカヤック(5月頭)

日曜日の午前中、ふと自由な時間ができたので、ぶらっと一人で、サンドリガムまで海の散歩にいってきました。今日借りたのは、Current DesignのSciroccoというシーカヤック(全長5.2メートル)です。(僕は、カヌーは持ってるけど、、まだ自分のシーカヤックはもっていません。

カヤック.jpg
カヤックに乗るわたし

カヤック青.jpg
シロッコ丸

実は、2月に二日間のシーカヤックの集中レッスンを受けたので、セルフレスキュー(ひっくり返って海に落ちたととき、カヤックに再乗船する方法)、横漕ぎ、後ろ漕ぎ、方向転換、仲間を牽引する方法など、基本的な技は教わりました.

でも、今日はまったく一人だし、秋で水はもう冷たいから、転覆しないように祈ってのパドリングです.カヤックを借り出して漕ぎ出すまで、スプレースカートがしまらなかったり、フットブレースの調整を忘れたりして、30分くらい砂浜で奮闘しました。まだ漕いでもないのに、汗だく。

ようやく準備ができて、カヤックを慎重に漕ぎ出しました。自転車に喩えれば、補助輪がとれたばっかりくらいの初心者なので、ひっくり返らないようにマリーナの周辺を周回します。艇をぎりぎりまで傾けてターンしたり、ひっくり返らないようにロウブレースの練習をして、レッスンのときの自信を取り戻しました。

どうにか、このカヤックも体に合ってきました.そこで無風、波なしのマリーナから、もう少し風や波のある外海にちょっと出てみます。

いきなり、大きな1メートルのくらいのうねりが、「ぬおー!」という感じで、カヤックを持ち上げ、降ろします。風も、10ノットほどで海方向から吹きつけます。そこで、風上に向かおうとターンすると…あわわ、とバランスを失いかけました。でも、そくざに体重移動、バランスを取り戻してオッケー。いいぞ、これでいけそうだ!

さらに自信をつけたので、もう500メートルばかり西に向かいます.今度は風下に向かって細長いカヌーは飛ぶように走ります。メルボルンの市街も遠くに見えて、いい気分。このまま、タスマニアにだって行けちゃいそう(うそ!)

カヤック青2.jpg
メルボルンに向かって漕ぐ

でも、あまりいい気分になっていると転覆しそうなので、そろり、そろり、マリーナに戻ります。風向きが少し東向きに変わったかな.カヤックに乗っていると、風の強さだけでなく、どちらの方位から吹いてくるか、観察するようになります。雲の種類や動きもきになります。

マリーナに戻り、またターンやブレースの練習。すると、向こうから、新品の高そうなピカピカなカヤックに乗った、年期の入ったおじさんたちが来ます。いいなあ、あいいうの欲しいなあ! もっと上手になったらね、と独り言。

まるで子どもに戻ったような気分の日曜日でした.。
おじさんカヌー.jpg
ピカピカの高級カヤックに乗ったおじさんたち
posted by てったくん at 14:02| Comment(46) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月27日

中身が肝心

空き瓶.jpg

近頃ハマっているのは、空き瓶のラベル剥がしである.

何でそんなことにハマっているかと言うと、ことの起こりは、ビールを手作りし始めたことにある。昨年10月からだ。ビールは一度作ると20リットルできてしまう。小瓶(375ミリリットル)に入れると60本だ。そこで空き瓶の確保、洗浄、ラベル剥がし、という課題が我生活の中に浮上したのだ。

手作りビール.jpg
20リットルのビールを醗酵しているところ

実際、作ったビールを瓶詰めする際、空き瓶のラベルは必ずしも剥がす必要はないが、瓶を洗ったり殺菌したりしていると元の紙ラベルが自然と剥がれてきて汚くなる。衛生上もよろしくない。そこで、いっそ最初からラベルを全部剥がしてしまうことにした。シンナーを塗ったり、こすったりしてみて分かったが、一晩お湯に漬けておくのが一番きれいに剥がれる。完全に剥がれなくても、定規や古いクレジットカードのようなプラスチックの薄板でごしごしこすればきれいになる。そうすれば、手作りビールを詰める際に、ピカピカの瓶に自作ラベルだって張ることができる。

ビール瓶.jpg

瓶のラベル剥がしをやってみて感じたのは、ラベルのついてない空き瓶が実に美しいことだ。洗いたての濡れた瓶は、透明できらきら光っていて、清潔というだけでなく、清純と言っても良いくらいきれいだ。

僕はガラスの瓶が好きだ。水色や緑色のガラスの向こうに見える歪んだ風景を眺めて飽きることがない。古い、品質の悪い瓶のガラスに気泡が混じっていることもあるが、そういう瓶ほどきれいだ。昔のコーラの瓶も好きだが、一升瓶、ワインの瓶、ラムネの瓶、キッコーマンの醤油瓶も、みな美しい。オーストラリアで流通している、375ミリリットルのいわゆる「スタビー」と呼ばれるビールの小瓶も、会社によって形や色が違って面白い。子どもの頃、夏になると冷蔵庫には冷えた麦茶が入っていたものだが、うちの麦茶はいつもニッカの角瓶の空き瓶に入っていた。むろん角瓶に入った麦茶は、格別に美味しかった。

たくさんのビール瓶.jpg
ラベルを剥がしたビール瓶が70本

昔、アメリカのワシントン州立大学に留学したとき、大学近くを流れる川の橋のたもとに瓶拾いに行ったことがある。ワシントン州とアイダホ州境の、農場の間を眠たげに流れる川の橋だ。この橋を車で渡る時、瓶を車窓から捨てる人が多いらしく、川縁に空き瓶がたくさん落ちていた。多くは酒の瓶や清涼飲料水の瓶だが、かなり古い瓶も埋まっていると地元の友達が言った.古いコカコーラやドクターペッパー、あるいはウイスキーの小瓶などは骨董としてけっこうな値打ちがあるらしい。そこで、皆で泥まみれになって一時間ばかりあちこち掘り返すと、本当に出てくる、出てくる。1940年代のウイスキーの瓶、茶色の薬瓶、アールデコ風のジュース瓶など。年代物の瓶がたくさん集まったことを覚えている。そして、拾った瓶は友達がアンティック屋に売り払い、その上がりでビールをたくさん飲んだ。

それほどビンテージな瓶でなくとも、空き瓶は再利用ができる。我が家では花を一輪挿しにしたり、ジャムを作って詰めたりいろいろに使うので、段ボール一箱や二箱は、いろいろなサイズのものをとってある。僕は、このあいだ何日かかけてビール瓶およそ70本のラベルを剥がしてしまうと、今度は段ボールに保存してあった他の瓶のラベルも剥がしてしまった。ラベル剥がしは、どうも癖になるらしい。
(こう書くと、よほどの暇人だと思われるが、決してそうではない。僕は、こういったことを原稿書きや仕事の合間の気分転換にやっている。原稿を20分書くと、2、3本ごしごし。英語の論文を30分読むと、バケツでじゃぶじゃぶ、という風に。僕の生活はここ10年ばかり、ずっとそうである。炊事、洗濯、草刈り、薪割り、ビール作り、カヌー作り、家の修繕、子育て、博士論文、みな仕事の片手間である。それでも私を暇人と呼びたい人は、勝手にそうして下さい。)

書斎.jpg
ごちゃごちゃした僕の書斎初公開

ラベルをたくさん剥がしてみて分かったことは、中にはお湯につけても決して剥がれないラベルもあることだ。そういう頑固なラベルに対しては、シンナーや「ラベル剥がしシール」など、さらに上級レベルの工程もあるにはある。しかし、しょせんは空き瓶だ、お湯で剥がれないようなラベルは相手にしないことにした。僕はもう50才だし、これからの人生は、これまでの人生ほど長くはないだろうから、やっても埒があかないことはしないことにしている。ビール瓶で言うと、ハイネッケンのような、透明プラスチックのラベルは剥がれにくい。(だからハイネッケンはもう飲まない)。また、ベルギーやドイツのビールも最後まで剥がれ難く、さじを投げたこともある。実に頑固なお国柄である。ところが、サッポロやキリンなど日本勢のラベルは、最初はちょっと抵抗するが、ある時間が経過すると、はらりと剥がれてしまう。(こういう女性が一番色っぽい?!)一方、オーストラリア国産勢のビール、大手メーカーFOSTERやCoopersは、日本のキリンなどよりはずっと手強いが、ドイツビールほどではない。こういうところは質実剛健オジー精神で頼もしい反面、芯は優しいということか。同じオーストラリアでも小さな会社の、オーガニックのホップを使った地ビール勢は、地球や体に優しくて味も美味しいだけでなく、ラベルの方も2、3時間お湯につけただけで、はらりと簡単に剥がれる。こういう心憎いビール(と空き瓶)が一番偉い!

こうやって、いろいろな空き瓶に取り組んでみて分かったことをもう一つ書くならば、空き瓶というのは、(大概はであるが、)最初に入ってきた中身より、後から入れた中身の方がずっと味も良く、品質も良いことだろう。手作りジャム、自分で作った「かえし」(醤油とみりんと砂糖を煮付めた、あれです)、自作のごま塩、畑で栽培した唐辛子で作ったラー油などは、買ってきた物よりも作ったものの方が新鮮でずっと美味しい。(袋詰めになっているピーナッツやお菓子を空き瓶に移し替えただけで美味しそうに見えるのも不思議)。

台所の棚.jpg
台所の棚の中

そして手作りビール! 時には失敗することもあるが、瓶詰めして3ヶ月以上経って十分熟成が進んだビールは、買ってきた既製品のビールの数倍旨い(嘘だと思ったら自分で作って見なさい。あるいは、作っている友達の家においしいお土産を持って押しかけなさい)。日本ではアルコール度数の問題がまだあるようだが、オーストラリアではそんなこと関係なし。大体、自分が作ったビールのアルコールの度数など正確には分からないし、そんなことどうでも良し。エール、ラガー、メキシコ風セルベッサなど作ったが、どれも大変美味。

友人宅で.jpg
友だちと飲む自作ビールは旨い

だから、サッポロがいいだの、エビスじゃないとビールじゃないとか、オーストラリアならJame Boagなどとごたごた言っていた自分がアホみたいだ。それに何たる値段の違い! ビールの値段のほとんどは、酒税、流通や宣伝やパッケージ代である。消費者はそれを納得して買っているのだろうか? 自分で作れば一本たった30円!

空き瓶のラベル剥がしをしていると、結局ものごとは中身が肝心だと分かってくる。その証拠に、瓶の中身がなくなるとラベルは突然虚しくなる。キリンだろうが、コカコーラだろうが、サントリーだろうが、レミーマルタンだろうが、デルモンテだろうが、空き瓶は空き瓶だ。

人もしょせん空き瓶のようだ。人は生まれた時は空っぽだが、何年も生きていくと、中にいろいろな「中身」が詰まっていく。そうやって賢くなっていく。賢くなるだけならいいが、人はいろいろなラベルをまとうようになる。学歴、職歴、経歴、家系、所属、財産、着ている服、家、自動車、etc そういうラベルを誇示するようになると、人は賢いどころか、逆に愚かに見えてくる。

絵筆.jpg
画家の妻の空き瓶には絵筆がいっぱい入れてある

今日も、我が家では、空き瓶が貯まっていく。リサイクル直行の瓶もあるが、これはという逸品、空き瓶のエリートは保存され、ラベル剥がしの工程へと進んでいく。

ラベルは簡単に剥がせるとうれしいが、なかなか剥がれないと厄介だ。ごしごしやっていたら、僕の体にも剥がれ難い「ラベル」が何枚か張り付いていることに気づいた。ラベルは無理に剥がそうとすると、醜い結果になるから、焦ってはダメだ。だから、頑固なのはそのまま、いつか簡単に剥がせる方法がみつかるまで、そっとしておく。ラベルを剥がし、すっきりした空き瓶を光にかざして眺めていると、心も空っぽになって軽くなる。

晴れた日、机仕事の合間、庭先に出て蛇口の水を迸らせながら、ふやけたラベルを瓶から剥がすのは案外楽しい。

スワンベイ.jpg
カヌーで漕ぐ海も心が空っぽになる
posted by てったくん at 10:06| Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月17日

寒い国から帰ってきた男

雪富士.jpg
冬富士

『寒い国から帰ってきたスパイ』というのは、ジョン=ルカレの有名なスパイ小説で、東西に切り裂かれた時代のベルリンを舞台にした二重スパイの話だ。冷戦時代の恐ろしい話だが、ときどき読み返したくなる秀作だ。

雪景色.jpg
雪の多摩

雪だるま.jpg
高尾山頂で

別に、この小説には何の関係もないが、一月下旬から二月前半、この6年で一番寒かったと言われる東京で過ごしてメルボルンに戻ってきた.だから「寒い国から帰ってきた男」ということばが自然に脳裏に浮かんできた。

戻ってきたメルボルンは、やんわり暖かい25度で、体の汗腺がうれしそうに、じわーっと開いていくのが分かる。温暖なオーストラリアに住んでいると、段々寒いのが苦手になってくる。

当然だが、日本が冬の時は、メルボルンは夏だ。これは体験した人でないと分からないだろうが、成田から飛行機に10時間も乗ると、季節が逆転する状況は、順応するのがけっこう厳しい。しかし、僕は、東京とメルボルンの行き来はもう何十回もやったので、いつの間にか慣れてしまった。メルボルンに戻る時は、成田空港で、履いてきた股引を脱ぎ捨てる。(そう、50才の僕は、冬は股引が手放せない)。厚手のシャツも薄手のものに着替えて飛行機に乗る。そして、オーストラリアに着くと、さらにもうひと脱ぎしてTシャツになる。靴も、サンダルに履き替えたりする.ところが、周りを見渡すと、まだユニクロのダウンジャケットなんか来て、ふーふー言っている日本人中高年カップルや、マフラーを首に巻いて顔にマスクをしたままの着膨れワーホリネーチャンなんかがいて笑ってしまう。(マスクなんてしてオーストラリアの税関を通ろうとしたら、検疫官に連れていかれるぞ!)

メルボルンで人生の三分の一近くを過ごした僕には、1月は季節的には夏であり、もはや冬ではない。逆に、8月は、僕にとって真冬である。だから、日本からのお客が、ユニクロの薄っぺらシャツかなんか着て8月のメルボルン降り立ち、「おー、寒い、寒い」なんて凍えているのを見ると、また笑ってしまう。

それにしても、夏の真っ盛りに3週間も家を空けると、庭は雑草が思うがままにはびこり、ジャングルになってしまう。だから、トランクの中身を整理する間もなく、僕とチャコは庭に飛び出し、雑草を引き抜き、芝刈りで草刈りをして、事態の収拾にとりかかった。

畑.jpg
ベルグレーブのうちの畑

畑は無法状態のシリアみたいな状況である。延びたトマトは、支えがないので無惨に傾いているし、ズキーニは水をやってないからツルだけ延びて、実はうらなり。パセリは茎も葉も固くなって木みたい。元気につやつや延びているのは、シルバービートの葉だけだ。これは全然手がかからない野生児みたいな野菜で、夏でも冬でも、鉄分たっぷりの葉っぱを食卓に提供してくれる頼もしい奴。

トマト.jpg
トマト(赤くなるかなあ?)

ズキニ.jpg
うらなりズキニ

シルバー.jpg
シルバービート

チャコと二人で、「こんにゃろ、こんにゃろ」と、2時間ばかりひたすら雑草を抜いていくと、虎刈り頭みたいだが、どうにか畑の土が見えてきた。やれやれ、これで土を足して肥料をやれば、また何か植えられる。

植えたつもりがないのに、あちこちに生えているのはジャガイモだ。ジャガイモは、本当だったら種芋を二つに割って、灰を塗ってから植えるのだが、うちの畑には、頼みもしないのに自然に生えている。これは、コンポストに捨てても分解しきらなかったジャガイモの皮から生えてきたものだ。何としぶとい奴ら!土を耕していると、あちこちからぽろぽろ美味しそうな小さなジャガイモがこぼれ落ち、ザル一杯集まった。そんな新ジャガをバーベキューで肉の横で焼いたらとても旨かった。

コンポスト.jpg
僕が作ったコンポスト(大作だよ!)

土からぼろぽろこぼれ落ちるジャガイモを集めていたら、死んだ母を思い出した。僕の母はもう20年も前に56才で亡くなったのだが、亡くなったのは9月下旬の秋口で、夏を乗り切った季節の変わり目にすっとこの世からいなくなった。母は、その年の5月頃までは元気で、倒れるまで伊豆天城の家で畑もやっていた。その母が亡くなると、父も、僕ら息子たちも、畑をする気力なんかなくなって、ほったらかしの草ぼうぼうになった。

母が亡くなった翌年の初夏、僕が天城に行ったら、畑があまりに雑草だらけなので草取りをした。そしたら、母が前年に植えたとおぼしきジャガイモが、バケツ一杯も穫れて驚いた。雑草の下の土から、見事なジャガイモが、いくらでもぽろぽろぽろこぼれてくる。まるで、母の命がジャガイモに姿を変えて生きているようで、僕は母に再会出来たみたいにうれしかった。このジャガイモは、天城の家の囲炉裏で焼いて食べたが、母が生きていたら、きっと得意の肉じゃがにでもしただろう。

じゃがいも.jpg
新じゃが各種(種類が混じっている)

自分の畑でとった野菜は、瑞々しく、単なる養分だけでなく、命そのものを摂取しているように美味しい。自分で釣ってきた魚を、「命をとってごめんね」と謝りながらも、おいしい刺身にして食べるのも同じだ。僕たちは、両親に生を貰って人生を始めるが、周りの生き物から命を貰って生き続けていく。

大漁.jpg
大漁のこともある

ぶどう.jpg
うちのぶどうは豊作(ワインでも作るかな)

僕は、昨日50才になった。なってみると、56才で亡くなった母の年に幾分近づいた気がする。山を歩いていて、ひとつ峠を越えると、向こうの山並みが前よりずっと近くに見えるようなったみたいに。僕もやがていつか死ぬが、その時には、母のように、畑のジャガイモみたいなものを残せたらいい。大きな家や財産ではなくて、でこぼこした、愛らしいジャガイモみたいなものを。

これは「かぼちゃ」(草間弥生の作品@直島ベネッセ美術館)
かぼちゃ.jpg
posted by てったくん at 10:02| Comment(10) | TrackBack(0) | 日記