2014年02月05日

晴耕雨読とは言うものの

2014年2月5日

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暮れから正月にかけて一ヶ月ばかり日本に帰って、1月中旬メルボルンに戻った。晴耕雨読の生活に戻ろうと思ったのだが、夏のメルボルンはずっと晴れ、それどころか帰った日は45度の熱波だった。零度から45度はちょっと厳しかった。
 45度もあると思考は停止する。我が家には冷房はないから、部屋を閉め切って薄暗くし、ひたすら忍ぶ。夕闇がせまる午後8時頃になって涼しい風が吹き始めるころ、家中の窓やドアを開け放して冷気を入れる。ところが我が家は銀色トタン屋根だから、昼に吸い込んだ熱気はなかなか抜けきらない。
 45度では外で畑仕事もできないが、風向きが変わって、クールチェンジと言われる南風が吹いてくると一気に25度くらいまで下がり、朝夕は長そででないと寒い。これがメルボルンである。メルボルンの一日には四季がある。

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春菊の花

 涼しくなると畑の草むしりなどするが、一ヶ月留守にしていた庭や畑はすっかり雑草に覆われて見えなくなり、雑草を山のように抜くとその間から、ようやくニンジンやら、春菊やら顔を出す。春菊は野菜と言うより木のようになって花を咲かせている。食べるのは諦めて生け花にでもするしかない。ぶどうは炎天がうれしそうで、緑色だった実がみるみる濃い紫に変わり、甘くなる先から鳥がついばみにくる。

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 涼しいと楽しみは夜の読書だ。日本で買った本は船便に入れて送ってしまって当分届かないから、待つ間英語の本を読む。オーストラリアに17年も住んでいるのだし、その前は日本の大学で英語の教師をやっていたから英語の本は読むには読むが、日本語を読むのに比べればナメクジがはう速度だ。その上近眼と乱視、加えて老眼も顕著になってきたから、薄暗いスタンドの灯りで細かい英語の活字を読むのは苦労する。 
 昔から日本語の本は小走りのような速度で読んでしまう癖がついている。高校や大学時代、文庫本一冊くらいは一日で読んでいたが、そんな読書はちっとも身にならない。
 反面、英語の本ならどうせゆっくりだからじっくり楽しめる。散歩と同じで、ゆっくり歩けば歩く程気がつくことがある。英語の本でどんな本を読むかと言うと、旅行記やミュージシャンの自伝、オーストラリアの児童文学などである。アメリカの犯罪サスペンスなんかも楽しめる。冗句なども、一読して何がおかしいのか分からないこともあり、その理由を一日考えて、翌日分かることなどもある。日本語に訳されている本もわざわざ英語で読むことがあるが、それは英語の表現自体を楽しむ為だ。カズオイシグロなどは英語で読んだ方が面白い。文学はオリジナルの言語で読むに限る。(と言っても、僕は英語しか分からないが。)
 だから村上春樹なんかも日本語で読むに限る。(椎名誠なんかが英語になってもちっとも面白くないだろうな。なってないけど。)村上春樹は、オーストラリアに来てから読むようになった。近年はこちらでもいろいろな人に「村上春樹は面白かった」と言われるから、自分でも読んでみるつもりになったのだと思う。もう一つ村上春樹を読むようになった理由は、2006年暮れに突然亡くなった大学時代の親友M君の愛読書だったせいもある。彼は勤め先で倒れて亡くなったが、腕利きコピーライターで、しかも読書好きだった彼が、最後に何の本を読んでいたのだろうと気になり、彼の未亡人に「M君は、最後に何の本を読んでいたのですか?」と尋ねた。そしたら「村上春樹でした」という答だった。M君は晩年ランナーで、出社前には毎朝10キロ走っていたと言うのだが、それは同じくランナーである村上氏の影響かなと想像している。(M君、安らかに眠ってくれ。)
 あと、もうひとつ村上春樹を読む理由は、彼がかなり長い小説を書くからだ。僕は、短くてすぐに読めてしまう小説があまり好きではない。だから、村上の最近の長い小説を、長い時間ハラハラしながら読むのはなかなか楽しい。
 11歳の釣り好き、野外活動好きの息子は冒険小説が好きである。だが、彼はオーストラリア育ちで日本語が読めない。だから、長い冒険児童文学を僕は彼に読んでやっている。もうずいぶんたくさん読んでやった。
 ナルニア物語、ミスビアンカの冒険、宝島、ツバメ号とアマゾン号シリーズ、ムーミンシリーズ、冒険者たちシリーズ、誰も知らない小さな国シリーズ、ホビットの冒険、エルマーのぼうけん、オズの魔法使い、ニワトリ号一番のり、西遊記などなど。
 これらの文学に共通しているのは、どれも長いことである。ツバメ号とアマゾン号シリーズなどは12巻もあり、あきれるほど長い。全部読むのに1年以上かかった。よくまあランサムはこれを書いたと思うが、長くとも内容はちっともふやけてないからすごい。アマゾン号を読んでやったおかげで、僕たち二人は船や航海に関して知識がついた。この作品は、もう一度英語で読んでやろうと思っている。

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 中でも息子が一番愛してやまないのは、スチーブンソン『宝島』だろう。もう何度読まされたか分からないが、本当に好きである。海賊、孤島、航海、秘密の宝、戦いなど冒険の要素の宝庫である。ふたりでキャンプに行く時など持っていく。僕もこの本が大好きである。
 今は、『ドリトル先生』を読んでやっている。これも13巻あってかなり長い。子ども時代にも全部読んだが、今改めて読んでみると、ドリトル先生と言うのは万能であり、人格者であり、争いを避ける博愛主義者だ。まるで神さまのような人だが、きっとロフティングは「神」を念頭に、ドリトル先生という人を創作したのかもしれない。
 ドリトル先生の邦訳者は、井伏鱒二である。僕が中年になってから好きになった作家だ。高校時代『黒い雨』などは教科書で読まされて閉口したが、今読んでいる井伏作品は釣りや旅行に関する古いエッセイである。寝しなにちょっと読むのだが、井伏のエッセイは、どこが始まりで、どこが終わりなのか分からないようなポストモダン的流れのものが多く、何が言いたいのか分からないような奇抜な内容のものもある。そこを考えながら、眠りにつくのも楽しい。

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古い本は装丁が良い

 僕の持っている井伏の本は母方の祖父が所持していた物で、昭和30年代初期の出版のものだ。まだ旧漢字が使われている。旧漢字は読み難いが、しばらく読んでいると分かるようになってくる。例えば「駅」という字は「驛」であるし、「昼」は「晝」である。こんな文字を眺めているのも楽しい。また裏の方の奥付を見ると、「鱒二」というハンコの検印が押してある。これは井伏鱒二自身が押したんだろうかなどと考えるが、きっとそんなことはないだろう。奥さんや子どもたちが、本が出るたびに総出で押したんだろう。のんびりした時代だった。

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筑摩書房昭和33年刊の『河鹿』の検印には「鱒二」とある

 今朝は気温が25度くらいで、書斎のパソコンの前に座る前にちょっと庭仕事をした。コンポストの肥料をかき回そうと、上にかけてあった黒ビニールを外したら、下から小さなネズミが二匹飛び出した。畑のニンジンはまだたくさん植わっているが、水をやってなかったのでみな小振りだ。こういうニンジンは今夜バーベキューで焼いたら、かりっとおいしく焼けそうだ。そうだ、冷蔵庫にニワトリが一羽あるから、これもバーベキューで焼こう。という風に、我が家の夕食の菜が決定する。
 そろそろ秋口だが、まだ畑に何か作物を植えられそうな気候だ。トマト、インゲンなどはどうだろうか。ホウレンソウなどの葉ものなら、苗を買ってくればまだまだ育つに違いない。
 
posted by てったくん at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年10月16日

ミルデューラ旅行で、世界遺産のトイレに驚き、 オーストラリアで一番低い山に登ったこと

2013年10月4日


「ミルデューラの私のところに泊まりがけて来ない?」と、僕好みの女性に誘われた。で、誘ったのは僕の女房なので、別に断る理由もなく、ほいほい出かけてきた。息子鈴吾郎の学校も春休みだし、いっちょ遠出をしましょうか、ということだ。
 女房は、ミルデューラには3週間ばかり滞在していた。この町のアートフェスティバルに呼ばれて作品を作ったりワークショップをした。主催者が宿泊のために一軒家を借り上げてくれたので、そこに息子と私も寄せてもらうことになった。そんな美味しい話も滅多にない。
 しかし、息子の鈴吾郎(10才)は浮かない顔だった。なぜならミルデューラには海がないからだ。息子は釣り気違いだから海が好きだ。だが、ミルデューラは内陸で、メルボルンから北へ600キロ入ったところにある。その一帯は平野の農業地帯で、牧場と果樹園ばかり。海どころか、ちょっと行けば砂漠。だから釣り気違いの息子はがっかり。

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内陸の麦畑

 「いや、ミルデューラにはマレー川という大きな川があって、そこには100キロもある巨大なマレーコッドという大きな魚がうようよ泳いでいる」と、僕は明るく告げた。しかし、息子は「そんなの釣れっこないよ。だいたい100キロの魚を、うちのちっちゃい竿でどうやって釣るのさ? 仮に釣れても、パパなんて腰抜かして座り小便だよ。そもそもマレー川で釣れるのは、鯉とかナマズみたいな変な魚ばっかりだ!」と父親をコケにする。だが、息子の言う通りで、マレーコッドは滅多に釣れない。それに、確かによく釣れる鯉とかナマズはヒゲなんか生えていて変な顔だ。でも、だからと言ってそれを変な魚と決めつけるのは差別だ。変な顔をしている人が必ずしも変な人とは限らない。そうだったら、世の中の半分の人は変な人だ。でも、やっぱり息子の言う通り、巨魚マレーコッドが釣れたら、やっぱり腰を抜かすだろうなあ。
 そこで、マレー川では釣りはしないことにした。息子はむくれている。そしたら友達が、「あら、あそこにはマンゴ国立公園があって、「中国の壁」と呼ばれるすごい岩の隆起とか、化石とか、砂丘とかあって、見に行く価値があるわよ。それにあそこは世界遺産だからちょっとしたものよ!」と教えてくれた。ビクトリア州に世界遺産があるなんて知らなかったから驚いた。息子にも「世界遺産だぞ」と言ったが、全然理解しなかった。(そもそもオーストラリアでは「世界遺産」などという概念はあまり広まっていない)。
 というわけで、僕と鈴吾郎は、春休み2週目に、カルダーハイウェーをぶっ飛ばして、ミルデューラまで600キロをひと走りした。

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突然こういうものが道ばたに落ちているのもオーストラリア

ミルデューラが都会で驚く

結論から言うと、今回は驚きの旅で、2、3の驚くべきできごとに続けて遭遇した。しかし、これらには何も関連はない。だから、今すぐこれを読んでいる人たちにミルデューラに行った方が良い、と勧めるつもりはない。

 さて、その第一はミルデューラの町が意外に大きかったことだ。というか、すごく都会でびっくりした。しかし、そのことは女房にも聞いていたし、前にこの辺りを通過したときに見て知っていたから、初めて知ったというより、改めて驚いたと言っておく方が正しい。
 すでに分かっていることに再度遭遇して驚くなんてことがあるか?と疑う人もあるかもしれない。もしかしたら僕は老人性痴呆症なのかもしれないが、知っていたってやっぱり驚くこともたまにはある。知っていることと、感じることは、また別のことなのだ。
 さて、メルボルンを出て、カルダーハイウェーを北に向かって30キロも走れば、すぐに景色は田舎になる。それがオーストラリアの特質だ。シドニーでもアデレードでも、少し走ればすぐ田舎。意図しなくても自然に田舎になる。そこが日本と違うところ。日本は、相当走らないと田舎にならない。あるいは、田舎的な場所をピンポイントして目指さないと本当の「田舎」の景色が見られないだろう。例えば、僕の故郷の多摩は東京では田舎の方だが、あまり田舎の景色は残っていない。

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ミルデューラの街角

 さて、メルボルンは、田舎を1時間ちょっとも走って、ベンディゴといういくらか大きな、昔ゴールドラッシュで栄えた町を過ぎると、もうこれで町らしい町はなくなってしまう。村みたいなところしかない。もう車の制限速度も時速110キロである。110キロでも2車線双方通行だから、大きなトレーラーなんかとすれ違うにはかなりスリルがある。だから、田舎町は、文字通り「あっ」という間に通過してしまう。
 メルボルンを朝の8時に出て、そんな道をひたすら走り、ミルデューラには午後4時に着いた。600キロを8時間かかったということだ。ほとんどは時速110キロで走ったが、停まってお昼を食べたり、トイレに行ったり、アイスを食ったり、携帯で話したり、コーヒーを飲んだりしたから、600キロだとそれくらいの時間がかかる。特に子連れだとそうだ。
 景色はまあ美しかったが、単調だ。信号もメルボルンを出れば全然ないからブレーキを踏む必要もほとんどない。することがないから、息子の鈴吾郎ともいろいろな会話に興ずる。しかし、10才の少年とはあまり深い会話もできない。鈴吾郎との会話のテーマは以下のようなもの:

• サクマドロップでは何味が好きか?(鈴吾郎は、サクマドロップの大缶をドライブ中ずっとなめていた)。
• BMWとアウディとベンツは何が違うか?
• フェラーリを買うのと、海辺に別荘を買うのとどっちがいいか?
• ウルトラマンとドラエモンが闘ったら、どちらが勝つか?
• 焼き鳥は、タレと塩では、どちらがうまいか?
• ラーメンは、豚骨と醤油と、どっちが美味しいか?
• ハンバーガーの具は、多い方がいいか、少ない方がいいか?
• カンタス航空とジェットスター航空はどっちがサービスがいいか?
• エアバスとボーイングでは、どっちの飛行機が速いか?
• 餃子を何個食べたことがあるか?
• ビールとコーヒーでは、どちらが美味しいか?
• 自衛隊は、どうして攻撃できないのか? 
• 焼き肉とスキヤキは、どちらがごちそうか?
• どうして、しゃぶしゃぶの肉を長くスープに浸けていたらいけないのか?
• 機関銃と拳銃は、どちらが危ないか?
• ジャンボジェットにロケットエンジンを付けたら何キロで飛べるか?
• コンコルドでメルボルンからミルデューラに飛んだら、何分で着くか?
• マグロとアジの刺身では、どっちがおいしいか?
 
こういうことを息子と話すのは楽しくなくもないが、5時間も6時間も続けていると苦しい。だから、時間が経つにつれて僕も言葉少なめになってくる。だが相手はあきらめず、「ねえパパ、ねえパパ、聞いているの? ねえパパ!」としつこく聞いてくる。ちなみに鈴吾郎は、オーストラリア生まれのオーストラリア育ちだが、食べ物などは、意外に日本的テイストである。会話も日本語であるから助かる。これが英語だったら、とても長距離ドライブは持たない。
 で、田舎道を延々走ってミルデューラに着くと、いきなり大きな町が現れた。「れれれ?!」と蜃気楼を見ているような感じだ。しかし、ここはオーストラリアだから、そういう町がいくつかある。例えば大陸の真ん中にあるアリススプリングスは、砂漠の真ん中の大都会だ。アメリカのラスベガスも似ているが、遠く離れているという点では比較にはならない。オーストラリアのこうした都市には何百キロも隣町がない。
 ミルデューラもちょっとそんなである。東西南北どっちに行っても、シドニーまで1000キロ、メルボルンまで500キロは、アデレードまで600キロといった具合に離れている。その間には小さな町がぱらぱらあるだけ。そんな場所なのに、ファーストフードのレストランは何でもあるし、立派な屋内プールや大学もあるし、町の真ん中には噴水があるし、アートや音楽のフェスティバルはやってるし、パブやレストランが目抜き通りに並んでいる。市バスも走っているし、電車の駅もある。お洒落なかっこうの人たちが目抜き通りを歩いている。街角にはホームレスだっていて、思わず「すげえー」と言ってしまった。中心街は、東京で言ったら多摩センターくらいの賑わいだ。誰だって、砂漠の真ん中に多摩センターがあったら驚くだろう。ミルデューラには小さいが飛行場だってある。でも多摩には飛行場がないから、ミルデューラは多摩と言うより調布といった方が正しいかもしれない。調布には調布飛行場があるからだ。ここは砂漠の中の調布かもしれない。

ミルデューラは移民の町 

そして、ミルデューラは移民の町である。と言うか、オーストラリア全体がそうなのだから、そんなことは「あたり前田のクラッカー!」(古い?)だ。何もミルデューラだけが特別なのではない。しかし、どんな移民がどんな場所に多いかには地域差が少しあることがここでも分かる。ミルデューラはイタリア系が多い。それで、ぶどう作りが盛んだから、ワインやオリーブの看板が多くて、イタリア料理店も賑わっている。『ステファノ』というレストランが有名で、メルボルンからわざわざ飛行機で食べにくる人がいるらしい。イタリア系は戦後にヨーロッパから来たが、すでにこの土地に根を下ろし、かなり成功している人も多いようだ。
 農産地のミルデューラは、干しぶどうを始めとしたドライフルーツを世界中に輸出している。だから人手も必要だ。最近移民してきたイラク、中東、北アフリカ系の人たちもこういう場所に落ち着いている。この人たちはまだこれからだから、農場の季節労働やスーパーのレジ打ちなんかでしのぎをけずっている。インド系、中国系も多いが、祖国から多少の資本を持ってきている人もあるのか、小さな商店主などにおさまっている。ミルデューラ商店街の、お持ち帰り専門の小さな寿司屋も中国系だった。

先住民アボリジニの人たちの姿

 ミルデューラのような内陸の町に来ると、アボリジニの人たちの姿も多い。もちろん、みんな普通の暮らしをしているが、悲しい光景も目にする。
 女房が作品を制作している画廊に入ると、賑やかに展示作品の制作が進んでいた。ここはラトローブ大学の施設なので、美術学部の院生などがボランティアで手伝っている。今回のアートフェスティバルの為に、女房も含めて50名近いアーティストたちが来ている。私と鈴吾郎も、到着早々女房の制作を手伝った。
 その作業をしていたら、突然外の路上で怒声がし、ばたばた人が走りまわる気配がした。外をのぞくと、若い女性の警察官が中年の男に飛びかかって押し倒している。すぐに私服警官とおぼしき男性もその上に乗っかった。パトカーもすぐきて、中からも2、3名の警官が飛び降りてさらに男の上に乗っかった。やがて下から「助けてくれー、ヘルプミー!」という情けない男の声が聞こえてきた。
 やがて男が手錠されてパトカーで連れ去られた。それは、貧相な格好のアボリジニ男性であった。容疑が何であったか分からないが、こうした光景はミルデューラでは珍しくないのだろう、一時は私も含めて野次馬が少し集まったが、アボリジニの容疑者だと分かると、「ただのアル中か麻薬だろう…」とか言いながら三々五々散らばっていった。それは何とも侘しい光景だった。 
 先住民アボリジニの人たちは、豪社会で長い年月虐げられてきた。今でもアルコールや麻薬、失業などで社会の底辺で喘ぎ苦しんでいる。これは、アボリジニの人たちが無能なのでなく、植民地化の末に、土地も故郷も言葉も家族も失った人たちの断末魔の姿だ。とても悲しいことだ。
 一方、移民や難民できた人たちの多くは、最初苦労しても、やがては社会で仕事を得て、認知され、居場所を確立し、中には成功者となる者もいる。しかし、ここで何千年も暮らしている先住民の人たちは過去200年の間に居場所を失い、今も不安定な暮らしをしている。さっき警官にもみくちゃにされた男には何か事情があったのだろうけど、ぜひ頑張って欲しい。

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オーストラリアの先住民には頑張って欲しい。これもネイティブのトカゲ。どっちが前?


イギリス風コテージに泊まる

 さて、オーストラリ人はイギリス風なものを好む。昔はオーストラリアで「海外=overseas」というと、イギリスのことであったと言う。それくらい、顔がイギリスの方を向いていた時代があった。今はそれほどでもないが、それでもイギリスを渇望するオーストラリア、みたいな面は、そこらに散見される。僕たちがミルデューラで泊まったコテージ(一軒家の宿)も、イギリスの田舎屋風であった。「オーストラリア風イギリス田舎屋風の家」だ。まあ、気持は分かるが、妙と言えば妙な趣味だ。全然違うかもしれないが、中国人が日本のラーメンとかギョーザを見たらそんな風に思うのかもしれない。あるいは、僕がオーストラリアの水道管のような巻寿司を食べて、「これは寿司と言うより、SUSHIであるな」と思うようなものかも。

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英国風コテージの中

 しかし、なにがどうあれ快適な宿だった。外壁はオレンジ系ピンクでやや派手、室内はカントリー風、アンティック風(あくまでアンティック風ね)の置物や調度でまとめてある。田舎風だが居心地が良い、というのがオーストラリアだ。シャワーのお湯だって、栓をひねれば、どばっと出るし、ガスヒーターも強力だし、ベッドには電気毛布も入っている。イギリスの本物の田舎家は、本当に古いから居心地がちょっと悪い可能性があるが、オーストラリアの田舎家は、近代的で居心地が良い。
 
ミルデューラの一日

よく朝、仕事のある女房は早く出て行ったが、鈴吾郎と僕は、ふかふかのでっかいベッドで朝寝坊し、イギリス風にベーコンエッグとトーストの朝ご飯を食べた。それから、歩いて女房が仕事をしているギャラリーに行き、ひとしきり制作を手伝う。毛糸の玉をほぐし、脚立に登って天井からそれをたらし、床に結びつける。これを何百本もやっていく訳だが、光があたると海中にさしこむ光の束のように見える。ところどころに女房がミルデューラの小学生と一緒に作ったドライフルーツ(地元の物産)のモビールを吊るす。光の束と、ひからびた果物のコントラストが面白い。 

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チャコの作品

 隣のアーティストはミルデューラ出身のイタリア系の女性で、ビデオのインスタレーションと繊細なピンク色のドローイングの組合わせの展示だ。ビデオはイタリアから植民してきたイタリア移民のおじいさん、おばあさんのインタビューで、年寄りたちが登場し、イタリア訛の分かりにくい英語で自分たちの経験を話す。その音声の背後には、イタリア語のABCをたくさんの子どもたちが朗読している声が重ねてある。それが呪文のように繰り返される。

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チャコの作品

 しかし、作業をしながら、そのイタリア語ABCの呪文を長時間聞いていたら、何だか頭が痛くなってきた。前からそうなのだが、こういう意味の分からない言語音をずっと繰り返し聞いているのは少し苦手だ。
 他にもたくさんアーティストがいて面白かった。鈴吾郎が大変興奮したのは、流木やそこらのガラクタで、ライフルや機関銃を作っていたアーティスト。武器というと過激だが、作品はとてもほのぼのしている。鈴吾郎は、常日頃、過激なライフル銃や拳銃や弓矢をうちで作っているから、うっとりとこれらの美しい「兵器」に見ほれていた。オーストラリアの社会全体、特に鈴吾郎が通っているシュタイナー学校では、もちろん子どもが銃などの武器で遊ぶことは奨励されていない。しかし、こういうのが好きなのは男の本能かもしれない。
 作業も一段落したので、鈴吾郎と自転車でミルデューラの町を走りまわった。ミルデューラは平らなので楽ちんだ。マレー川沿いには気持のよい砂利道が続いているので、ここをすっ飛ばす。マレー川を観光用の外輪船が行き来していて、どこからかカントリミュージックが聞こえてくる。
 昼は宿に戻り、「出前一丁」のインスタントラーメンを作って食べる。鈴吾郎は、僕とキャンプなんかすると、いつも「出前一丁」を食べたがる。今どきインスタントラーメンという感じだが、僕も息子とネギかなんかパラパラ刻んでのせた出前一丁がけっこう好きである。
 午後、スーパーに夕食の買い出しに行く。僕は外食が好きではない。ひとつは、子ども連れでレストランに入るのが嫌いなのと、昨今のオーストラリアは物価がめちゃ高いからかもしれない。
 宿の近くには、コールズというスーパーがあった。大きな町にコールズはどこにでもある。それとウールワース(セーフウェー)もどこにでもある。オーストラリアの「大きな町」という定義のひとつは、これら二つのスーパーがあるかどうかかもしれない。
 この二つのブランドのスーパーはが激しく競争している。それは、政治で労働党と保守党が入れ替わり立ち替わり政権をとっているのと似ている。自動車会社も、オーストラリアでは、ホールデンとフォードがライバルである(どちらも業績が悪くてつぶれそうだが)。どこでもそうだが、一党独裁は良くない。企業でも、アップル、マクドナルド、東京電力など独占企業は、裏でも表でも、ろくなことはしてない。もちろん二党制だって、それ以外の勢力を阻むところがあるから良くない部分もあるが、一党独裁よりは良い。
 コールズもウールワースも、オーストラリアではどこへ行ってもほぼ同じ場所に同じ品物が置いてある。地域性がない。と言うより、排除している。オーストラリア人は、スーパーというのはどこでも均質であるべき、と思っているようだから、地元の物産を置いて集客するという感覚があまりない。日本では、土地柄が大切だが、オーストラリアでは、ことに食べ物に関してはあまりそうではない。そのせいか分からないが、オーストラリアの英語も驚く程地域的な方言がない。それはアメリカやイギリスと大きく違う。(もちろん、オーストラリア英語自体は、独自の方言と言えるけど。)
 で、スーパーだが、僕は普段ウールワースに行き慣れているので、コールズに入ると迷子になる。それで、買い物に余計時間がかかる。しかし、急ぐ訳でもないから、迷子になりつつ買い物を楽しむ。夕食は、焼き肉とサラダにすることになった。鈴吾郎にメニューを相談すると、「焼き肉かスキヤキかギョーザかピザ!」になってしまう。
 帰りがけ、隣のコールズ系の大きな酒屋に入る。体育館のような広さだ。オーストラリア人は酒飲みだが、田舎の人はよほどたくさん飲む。都会では、飲む酒の男女差はなくなってきているが、このごろは、男でも白ワインとかシャンパンとか飲むようになったが、田舎の「本当の男」はビールしか飲まない。
 で、ここにも「地酒」コーナーはなく、ワインもビールも、機械的に、種類別、銘柄別に置いてあるのみ。情緒も何もない。僕は、ミルデューラの地ビールMildura Breweryという銘柄を探すが、弱小のレーベルだから隅っこの方にやっと見つけた。それも、すごく恥ずかしそうに、ちょっと置いてあっただけ。地元なんだかから、もっと宣伝すればいいのに。でも、全国版大手量販店は、地元の小企業には冷たいのかもしれない。

世界遺産「マンゴ国立公園」

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翌日も女房のアート制作を手伝う。一日中、はしごを上り下りして足腰が痛くなった。でも、どうにか目処がついたので、ミルデューラ滞在最後の日は、いよいよマンゴ国立公園に行くことにした。ミルデューラからは110キロ、マレー川を渡ったニューサウスウェールズ州側にその公園はある。オーストラリアの国立公園(National Park)は最低限の施設(公園事務所、トイレ、キャンプ場など)しかなく、お店もホテルも食堂と言った商業施設は全て外にしかない。マンゴの場合は、一番近いお店まで90キロ離れている。

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マンゴへの道

 早起きして、お弁当のサンドイッチを作る。車はミルデューラを出て、マレー川を渡り、牧場の中の快適な道を10キロ程ゆく。すると道は突然赤土のダートに変わる。まるで洗濯板の上を走っているようだ。地図上では、実線でなく点線の道路だ。地図には「四輪駆動でなくとも通行可」と書いてあるが、ダートが始まるところの標識には「雨が降ったらこの道は閉鎖」とあった。なるほど、そうだろう。
 ダートでも制限速度は110キロであるが、とてもそんなスードでは走れない。僕の車はもう28万キロも走っているので、サスペンションも無きに等しい。ガタボコ道のショックがダイレクトに伝わってくる。それでも、慣れてくると段々70、80、90キロと速度は上がっていき、平均90キロくらいで飛ばす。後ろには赤い埃が立ち上り、まるでパリ・ダカールラリーみたいだ。
 そんな道を一時間、マンゴ国立公園に到着。さっそくインフォメーションセンターに行き、地図を見る。公園内も車で一周できるようだ。

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地表の隆起

 それで、まずGreat Wall of China(中国の長い壁)と呼ばれる、地面が壁のように隆起した場所を見に行く。
 マンゴ湖(水は一滴もない)を囲むようにして、地面が隆起している。ここは4万年前以上前の地殻が露出していて、遠い昔に闊歩していた身長3メートルの巨大カンガルーや巨大ウォンバット、あるいはティラシンと言われる肉食虎の化石などが出てくるらしい。マンゴという名前は、マンゴ人という4万年前、一説には6万年前に生きていた人たちの名前からとられている。1969年に発見された化石からその存在が分かったと言うが、この人たちは人類で初めて火葬をした人たちとして知られているそうだ。どうして火葬したのかは良くわかっていないが、死者が生者を脅かすことがないように、という仮説がある。(日本のように人口密度が高い場所で死者を火葬して埋葬するのは利にかなっているが、こんな広くて人口密度が低い場所で火葬するには、よっぽどはっきりした理由がひつようだろうな。)
 
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移動する砂丘の上を移動する息子

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エミュはそこらじゅうにいる。いつもつがいで。

世界遺産のトレイ

  今回の旅行の驚きのもうひとつは、展示物のトイレだった。
 さて、ガタボコ道をさらにぼこぼこ走り、今度は1940年代までこの土地で牧場経営をしていたザンキという家族の牧場跡を見に行く。ここも史蹟として保存してある。古い住居跡のレンガの煙突、地下室、羊の毛刈り小屋などがオリジナルな状態で保存してある。まあ、オーストラリアにいると、こういうものは珍しくないから、「ふむ、ふむ」とさっさと見て歩く。
 これらの展示物の間に古いトタン張りのトイレがあった。まあ、4万年前のマンゴ人に比べれば、60年前の牧場跡といのは、それほど古くないが、このトイレも、見ると背後には配水管がついていたりして、どこか新しい気もする。このトイレはオリジナルか、新しく作ったものか、ちょっと定かでない。そんなことを考えていたら、そのトイレの扉を何気なく開けた鈴吾郎が叫んだ。
 「うへえ、くっせー!」
 「どうした、何が臭い?」と僕は尋ねた。
 「誰かここでウンコをしたんだよ。見てよ、パパ」と、ゲラゲラ笑いながら僕をトイレに引きずりこもうとする。
 怖いもの見たさでのぞくと、本当に黒いウンコがびっしりとトイレに詰まっている。え? 1940年のウンコがいまだに臭いはずがあるか? と、僕は目が点になった。いや、このウンコは、最近のものに違いない。誰かが脱糞したものの、砂漠のトイレだから、水を流すにも流す水がないことに後で気がついたに違いない。何というアホなことだ。
 そして、本当に臭い。本物である。やはりこのウンコは展示物ではない。それにしても、世界遺産の展示物のトイレにウンコをするとは、大した度胸だ。それに、公園のレインジャーは、どうしてこのウンコを掃除しないのだろうか?
辺りを見回すとここらにトイレはない。だが、隠れてウンコをするに適した薮や木はいくらでもある。普通なら、そうした物陰で脱糞するものだ。 
 だが、これは大犯罪だ。しかし、犯人はとうに逃げてしまった。だから、どうしてこんなところにウンコがあったのか、誰がしたのかは分からずじまい。
 とにかく、世界遺産なんだから、はやく片付けて欲しい。

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世界遺産の臭いトイレ

オーストラリアで一番低い山、ウイチェプルーフ山(標高43メートル)登頂

さて、今回の旅行の三つ目の驚きは、僕と鈴吾郎が、オーストラリアで一番低い山に、知らない間に登っていたという事実である。(そう低い山。高い山じゃありません。)

 僕は、もともと山登りが好きである。そういう事実を知らない人もこの文章を読んでいる中にはいるだろうからあえて書いておくが、僕は大学時代にワンダーフォーゲル部に属し、副主将までつとめた筋金入りの山男だ(だった)。南アルプス、磐梯山、八ヶ岳、秩父、奥多摩、丹沢などは、自分の家の裏庭のように知っている(知っていた)今まで登った山で一番の最高峰は、アメリカはワシントン州にあるレイニアー山4300メートルだ。富士山よりも600メートルは高い。(自慢すんな!)
 さて、そんな僕だから山登りにはうるさい。オーストラリアで一番高い山はコジオスコ山で、2228メートル。どうということはない。頂上までリフトもついている。7大陸最高峰を全て登った登山家のディック・ベイスも、ちょっと拍子抜けしただろう。僕も、近くまでいったことはあるが、登ったことはない。わざわざ登る程でもない。
 だから、逆に、オーストラリアで一番低い山に知らないうちに登ってしまっていたというのは、ややびっくりだった。

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オーストラリアで一番低い山、ウィチェプルーフ山

 事の次第はこうだ。
 四日間のミルデューラ滞在も終わり、五日目にメルボルンに鈴吾郎と僕は戻ることになった。同じ道を、来た時と同じように時速110キロで走った。来たときにも退屈な景色だから、帰る時はもっと退屈だ。鈴吾郎とは話す種も残ってない。しかし、鈴吾郎は、上にリストしたような話題をもう一度おさらいするように繰り返す。
 で、途中1時頃、お昼を食べることになった。お昼は、またもや僕が作ったサンドイッチで、あまりエキサイティングとは言えない。それでも、Wycherproofという、何と発音したら良いのか分からない小さな町が近づいてきたし、天気も良いし、「どこか木陰でも見つけてちょっと一休み」と思ったら、「ウィチャプルーフ山の頂上展望台まで1キロ」という標識が目に入った。展望台とは、お昼を食べるにもってこいだ。
 ウィチャプルーフ山は小高い丘で、てっぺんにテレビや電話のアンテナと、町に水を送る貯水タンクが「でん!」とのっかっていた。鉄道の枕木を地面にとめる釘を溶接して作った、球状の彫刻もあった。なかなかアートしてるな、この町は! 景色は絶景とまではいかないが、まあまあかな。

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オーストラリアで一番低い山の頂上にある彫刻

 頂上には、町のライオンズクラブが立てた看板があって、「オーストラリアの地図に登録された一番低い山、ウィチェプルーフ山標高43メートル」とあり。(これ以上低いと、山でなくて丘ってことなのかな?「山」の定義って何?
詳しくは、http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Wycheproof )

 僕と鈴吾郎、とにかくこの低い山の頂上でサンドイッチを食べた。鈴吾郎は、サンドイッチ片手に、近くのひょろひょろしたユーカリの木の根元で立ちションをする。(汚ねえなあ、お前。サンドイッチ持ったまま小便すんな! でも、まあ誰も見てないからいいか。)そして、見るとはなしに、この木の根元を見ると、おお、何か銅板が埋めてある! で、読むとはなしに読むと、「ウィチェプルーフ・ライオンズクラブ交換留学生、セキ・ノブユキ氏が植樹。1972年」と書いてあった。何と、これは由緒ある木なのではないか! そこに立ちションするとは何事かだ! 

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セキさんの銅板

 「りんごろう、セキノブユキさんに謝りなさい」とまで言わなかったけどね。でも、はっきり言ってこのユーカリの木、植樹されてから40年もたつのに、これしか丈がないとは、あまり栄養がよくないんじゃないの?というのが僕の感想だ。
 僕としては、セキ・ノブユキさんに「あなたの植えた木は今でも枯れずに、オーストラリアで一番低い山のてっぺんに立ってますよ」と、お伝えしたい気持でいっぱいだ。誰か、1972年ごろ、ライオンズクラブの奨学金でメルボルンに留学していたセキ・ノブユキさんを知ってたら教えて!
 
 そう言う訳で、驚きに満ちたミルデューラ旅行だった。オーストラリアの田舎は、なかなか良いところだよ!
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2013年08月01日

血圧計のないオーストラリア

2013年8月1日

血圧計を買った。機種はオムロン、オーストラリアドルで29ドルだった。イギリスの会社から買ったので郵送に3週間かかった。日本製だと思ったら「ベトナム製」だった。

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うちの血圧計はシンプル

 なぜ血圧計なんか買ったかと言うと、かかりつけのGP(町医者をオーストラリアやイギリスでは、General Practitionerと言う。普通の病気や怪我は何でも見てくれ、専門医が必要なら紹介状を書いてくれる)に、最近「血圧が高くなってきたねえ」と言われたせいだ。

僕の健康

 僕のGP、イギリス人マイケル医師には、10年程前からかかっている。いろんなことで受診しているから、彼は僕の最近10年間の健康データを持っているのだ。
 僕は、しかし、健康には自信がある。身長170センチ、体重は56−59キロを維持している。コレステロールや血糖値、ガンマGTPなんかも大丈夫だ。運動は、カヤック、カヌーを始め、自転車、ヨガ、薪割り、庭仕事など、毎日やっている。外食はほとんどしないし(この辺には食べる場所もないし)、揚げ物なんかも作らない。肉は好きだが、たくさんは食べない。風邪もほとんどひかないし、早寝早起き。

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最近は、毎朝女房と心臓破りの坂を上り下りしている。汗だくになる。

 しかし、それでも絶対的な運動量が足りなかったのだろう。酒も、深酒はやらないが、晩酌はほぼ毎日やっていた。血圧が高めなのは、遺伝もあるかもしれない。とにかく、もう50才を越えた訳だし、健康には留意せよという警告に受け取った。そんなで、血圧をモニターするために、オムロンを買った。当然の投資だ(たった29ドルで何を言う!)

子どもの血圧

オムロンがうちにくると、子どもたちも大喜びで競って血圧を測りたがった。10才の鈴吾郎(小学4年)も、18才の鼓子(バレリーナ/大学生)も、上が100くらい、下は70台。驚異的な血圧だ。若いってのはいいねえ。ベジタリアンで、酒も飲まなく、もともと血圧が低い女房も、上が90から100の間である。うらやましい。僕は常に130台で、医者に行くと「白衣高血圧症」なのか、すぐ140台になってしまい、マイケル医師を「あれれ?」と慌てさせる。女房曰く、「血圧が130以上あるっていうのは、どんな気分?」 そんなこと言われても分からないよ!
 そう言えば、うちのネコのタマも7才、もう中年なのだ。食べ過ぎでまるまる太っている。タマの血圧も測ってみたいが、どうやって計るんだろうか?しっぽに巻いてみようか?

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水を飲むタマちゃん


血圧計の見当たらないオーストラリア

 血圧計を買ったもうひとつの理由は、オーストラリア社会では血圧計がそこらに見当たらないからだ。医者にはもちろんあるが、他の場所には置いてない。血圧計るたびに医者に行っていたのでは金がかかりすぎる。
 日本だとあらゆる公共の場所にあるだろう。病院の待合室、薬局、市役所、温泉やプール、飛行場。そう言えば、近所の床屋にもあったなあ。血圧計を見る限り、日本社会は老人に優しく、高齢者を気遣っている気配に満ちあふれている。
 一方、オーストラリアにはそんな気配りはない。移民の国であり、毎年のように何万人も若い移民や難民をインドや中国や東南アジアやアフリカから「仕入れ」て、それで人口と平均年齢を調整してしまうのだ。先週も、120人もイラン難民を乗せたボートピープルが、オーストラリアの領海にやってきたが、そんなのが毎週のように押し寄せてきている。その移民難民から、オーストラリアにとって都合の良い人たちだけを受け入れ、そうでない人は追い返している(まあ、人道的に受け入れている、とは言っているけど、疑わしい。)
 そんなで、老人問題はオーストラリアでは、日本ほど深刻ではない。特に、血圧計の設置を見る限り、その対応は遅れていると言わざるを得ない。僕は、大金を払ってプライベート健康保険にも入っているが(歯医者、マッサージ、眼鏡代、プライベートな病院の入院費などがカバーされる)、驚いたことに、血圧計のお金は出してくれなかった。そんなに血圧を知りたければ自分で買え、という、そんな社会なのだ。
 
オーストラリアで年をとる

 血圧計を買ったと言うことは、客観的にみても、僕はもう若くないと言えよう(当たり前だ、若者が血圧計を買うかい!)。でも、まだ年寄りという程ではないし、末永く元気に生きたい。そこで、血圧もモニターしてみようという考えなのだ。
 死ぬ時はポクッと死にたいと思う人は多いだろう。僕もそうだ。それは逆を返せば、老いても健康でいたい、ということだろう。オーストラリアでは、肥満や食品アレルギーの人がすごく多い。これらは、糖尿や心臓病、ガンなどの重大疾患にもつながるだろう。こういう人は、食事制限にがっちり縛られて生きている。遺伝の人は気の毒だが、多くは生活習慣が原因だ。僕が嫌なのは、これを食べちゃいけない、あれは飲んじゃいけないと制限されることだ。幸い、そういう制限は今のところないから、食べたければ、何だって食べていい。

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躊躇なく、ステーキサンドイッチをばくばく食べる鈴吾郎10才

 運動だって、どこも悪いところはないから、激しい運動は控えなさいとかも言われていない。一ヶ月程前には、カヤックでエスキモーロールの猛練習をしたら腰を痛めた。軽いぎっくり腰かもしれないが、オーストラリアには「ぎっくり腰」という言葉がないから分からない。でも、整体の先生は「大丈夫、ちゃんと直せばまたいくらでもできるようになりますよ!」と太鼓判を押してくれた。だから、懲りたわけではない。機運を睨みつつ、着々と準備をしているのだ。 
 
それだからこそ、健康維持のために、朝夕鋭意オムロンの電源を入れて、血圧を測っているのだ。
メルボルンの春はもうそこまでやってきた。今は椿が満開で、梅もちらほらこぼれだした。これからが良い季節だ。
 ここで一句。
 
  血圧計 吸って吐くのは 春の風

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健康に良いか悪いか分からないが、釣りも好きです(これはカワハギ。オーストラリアにもいます)。
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2013年07月06日

冬のある日、イベントフルな一日

2013年7月4日

メルボルンのシティで、息子と「カツ丼」と「ラーメン」のお昼を食べる

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メルボルンの6月末はもう冬だ。ある平日、息子鈴吾郎の学校も冬休みになったので、二人してダンデノン山を降り、メルボルンのシティに出向いた。目的地は日本領事館である。
 領事館には、パスポートの更新以外には滅多なことでは行かない。しかし、今日は無料の日本映画上映会があるという。黒澤明『七人の侍』と、アニメ『ナルト疾風伝』の二本立てなのだ。『七人の侍』は、僕が見たい映画、『ナルト疾風伝』は、鈴吾郎が見たい映画だ。10才の彼は、今は日本のアニメやマンガに目がない。二人の利害が一致したので、「じゃあ、行ってみよう」ということになった。
 シティに行くには電車が良い。メルボルンの電車は東京の電車のように頻繁に来ないし、特急や急行もあまりなくて、のろのろしているが、まあ、たまに乗るには風情があって良い。最近は、マイキーという自動改札になったが、これが難物で、カードを改札のセンサーにべたっと貼付けて、2秒ばかり待たないとちゃんと認知されない。僕は、初めてマイキーを使った時、日本の自動改札のつもりでカードを「軽くかざした」だけで乗車したが、それではだめで、その後、運悪く車内検札にひっかかって無賃乗車と間違われた。そのままでは、300ドル近い罰金をとられる。しかし、それは全くの濡れ衣だったし、その時は、鈴吾郎が証人としていたので、電車会社に手紙を長々と書いて釈明した。そしたら、罰金はとられないで済んだ。しかし、手紙を書くのに2時間もかかってしまい、全く時間の無駄だった。
 メルボルンの電車は、以前メルボルン大学に勤めていたとき、片道1時間、5年間通勤に使った。オーストラリアの通勤電車は田舎くさい。車内で飯を食う奴、大股を広げて新聞を読むオヤジ、化粧をする女性、ケータイで商売の話をしているビジネスマンなどがいる。さらに、隣に座った人がすぐ話しかけてくるのもけったいだ。
 まあ、そんな電車でもたまには良い。そもそも車を運転しないですむのはほっとする。オーストラリアで暮らしていると、移動はいつも車だから、まったくうんざりする。
 で、どれくらいメルボルンの電車が遅いかと言うと、うちのあるベルグレーブの山駅からシティのサザンクロス駅まで40キロ、これに1時間かかる。これが中央特速や京王線特急だったら25分だろう。
 さて、僕と鈴吾郎、一時間も乗ってあきあきしたころサザンクロスに着いた。ここは大きくて立派な駅で、見事な建築である。長距離列車や空港へ行くリムジンバスも出ている。大きなアーチ型の天井は、スポーツ競技場のように高い。
 僕と鈴吾郎、サザンクロスで、駅構内のスーパーマーケットのウルワースに入り、映画を見ながら食べるおやつを買う。『七人の侍』は三時間以上、『ナルト』が1時間半、合計5時間も映画を見る予定だから、僕はともかく、10才の息子には、おやつが必要だ。シティのウルーワースはビジネス客が相手だから、お弁当や軽食の品揃えがいい。うちの近所のウルワースなどは、場末中の場末なので、必要最小限のものしか売ってない。シティのウルワースには、お弁当売り場、デリカテッセンなんかがあるので、「まるで外国へ来たみたいだねえ!」と鈴吾郎が喜ぶ。僕も日本のデパ地下をちょっと思い出す。(まあ、それほどではないが。) 
 ここで、鈴吾郎は、茹で枝豆、キュウリび細巻きを買う。このふたつは、鈴吾郎の大好物だ。僕がメルボルンのスーパーで枝豆とキュウリの細巻きを買ったのは17年間こちらに住んでいてこれが始めてだった。思わずカレンダーに赤丸を付けたくなった。

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これはオーストラリアの回転寿司のおいなり(美味しくない!)

 さて、枝豆とキュウリ巻に気を良くしてウルワースを出ると、ちょうどお昼時。「ようし、せっかくシティに来たんだ、なんか旨いものを食おう!」と、僕は力強く言った。鈴吾郎も、「よし、何を食べようか?」と弾んだ声で答える。
 賑やかなバークストリートを歩いていくと『鳥xx』という日本語の看板が見えた。「ここで食べようか?」と僕は胸を張って言う。ウインドーのメニューをのぞく。焼き鳥丼、幕の内弁当など、旨そうなものがあるが、値段を見ると、どれも20ドルかそれ以上、昼飯で食べるにはやや高い。膨らんでいた気持がしゅんとしぼむ。しかし、ここはオフィス街だから仕方がない。少し歩くと、中華屋がある。ここらならきっと手頃だろう。
 中華屋をのぞくと、中華に混じって「katsudon=カツ丼」、「ramen=ラーメン」などの文字が見えた。「あるじゃないか、ラーメンにカツ丼!」と、僕は嬉しい声をあげた。鈴吾郎も「じゃあ、ここだね、パパ!」と、期待に鼻の穴を膨らます。
 カウンターで「ラーメンとカツ丼ね」と注文する。やっているのは、広東語を話す中国人家族。店を眺めると、昼時だと言うのに空いている。少し嫌な予感。 
 実は僕は、メルボルンの中華屋における「日本食」には何度か痛い目にあっているのだ。特に、中華屋のカツ丼にはかなり裏切られている。一度うちの近所の中華屋で食べたカツ丼は、一見確かにカツ丼だった。その証拠に、白いご飯の上にカツらしきものがのっていて、それは卵に覆われていた。それで安心していたら、その卵は、日本のカツ丼のような卵とじではなく、オムレツのようなものであった。そして、カツには、びちゃびちゃトンカツソースがかかっていた。「カツ丼にトンカツソースかけるバカがいるか!」と怒鳴りたくなった。そして、カツの下にひいてあったタマネギは、ただの炒めタマネギだった。そして、ご飯は、もちろん中華風ぼそぼそご飯であった。全くのギャフンである。
 しかし、それにも懲りず、僕はそれ以外にも2、3回メルボルンの中華「カツ丼」を食べたことがある。みんな大同小異だった。
 だから、もはや、メルボルンの中華屋が作る「カツ丼」など食べなければいいのに、つい僕は注文してしまう。(だって、カツ丼が好きなんだからしょうがない。)
 さて、待つこと3分、鈴吾郎のラーメンがきた。それを見て、「うん?」と僕は思わず言ってしまった。ラーメンの表面は、タマネギとピーマンの細切りと鶏肉が覆っている。スープはどんより濁っている。僕たちの理解しているラーメンは、ネギ、チャーシュー、ナルト(そう、これからアニメ『ナルト』を見るのだ)、海苔などがのっているはずだ。そしてスープは、澄んでいるはずだ。それが伝統的日本ラーメンである。鈴吾郎は、オーストラリア生まれ、オーストラリア育ち、国籍もオーストラリアのものを持っているが、味覚は立派な日本人である。ラーメンにもうるさい。
 そんな鈴吾郎だから、思わず「パパ、これラーメンじゃないよ!」と叫んでしまったのは致し方ない。
 「まあ、食べなよ、きっと旨いよ」と、僕はあきらめ顔で言う。鈴吾郎は、レンゲでスープを一口飲み、「う、甘い…」と漏らす。そして、浮かない顔でラーメンをすすった。僕も一口食べたが、確かに汁は甘めだ。しかし、麺はラーメンにかなり近いものであった。そこで、「ま、我慢して食べなさい。」と、僕は尊大に言ったのだった。
 だが、これでいよいよ僕の「カツ丼」には期待ができなくなった。ラーメンがこれでは、カツ丼はどんなか?
 さて、待つこともう2分、何が入っているか分からないが、広東人兄ちゃんが運ぶドンブリが、カウンターを発ってこちらへむかってきた。兄ちゃんは、なまった英語で「enjoy!」などと陽気に言って丼をテーブルに置いた。
 見れば、トレイの上には小さな小皿も載っている。そこで、期待をこめてドンブリを覗き込むと、「うう、?????」であった。
 一瞬、自分の目が信じられなかった。2、3度、瞬きをしてから、もう一度見る。幻ではない。白いご飯の上に、カツ様のものが5枚。しかも、紙のように薄い。そして、その下には、マッチ箱ほどの大きさのレタスが一枚。それだけである。タレも何もかかっていない。卵もない。タマネギもない。何もない。カツと小さなレタスのみ。こんなカツ丼、みたことない。名古屋のソースカツ丼だって、もっとちゃんとしている。
 我が目を信じられず、小皿の方を見る。がーん!何と、そこには、トンカツソースとマヨネーズが入っている。たったそれだけ。
 「トンカツにマヨネーズ、これをどうやって、食えっていうんじゃい!」と、僕はうなってしまった。「これは断じてカツ丼ではない!」と、僕は思わずカウンターの方を恨めしげに見たが、広東人たちは笑顔で受け流す。その隙に、鈴吾郎は「あ、そのカツ、おいしそう!」とか言って、あっと言う間に2枚をぱくぱく食べてしまった。ああ、残ったカツはたった3枚!これでどうやって、どんぶり一杯の飯を食えと言うのじゃ?
 しぶしぶ、カツにソースとマヨネーズを付け、大事、大事に食べる。それでも頼みのカツ三枚はすぐになくなり、最後に小さなレタスにマヨネーズを付けて食べる。まだご飯がたくさんあるので、鈴吾郎のラーメンの甘い汁を飯にかけて食うが、半分くらいで文字通り、匙を投げた。
 せっかくシティに出て来たのに、情けない昼飯だった。
 
 日本領事館の映画上映会
 
メルボルンでは、もう二度と中華屋カツ丼は食うまいと決心して店を出る。(でも、きっとまた食べるだろうな。)
 日本領事館はすぐそこだ。きっかり2時から上映会が始まった。やはりここは日本である。鈴吾郎10才には『七人の侍』は難しいかな、と思った。しかし、スターウォーズを作ったスピルバーグが、そのインスピレーションを得たのがこの映画だと、彼には、きっぱり言ってある。鈴吾郎はスターウォーズを何よりも愛するから、スピルバーグは言うならば鈴吾郎の神さまだ。そして、黒澤明はそのさらにその上だから、神さまの神さまということになる。
 鈴吾郎は、案の定、食い入るように画面を見ている。志村喬、三船敏郎、加東大介、木村功、千秋実などが登場し、渋い演技を見せる。三船敏郎の「山猿」の演技には鈴吾郎も声をたてて笑う。黒澤流の物語の盛り上げ方もいい。次に、どんな場面がくるか見ていてよく分かるし、だから、クライマックスに向かってテンションががんがん高くなる。ハラハラのしっぱなし。鈴吾郎も、さっき買って来た枝豆やら、キュウリ細巻きなどを食べながら楽しんでいる。よしよし。
 そんなで『七人の侍』の三時間半は、あっという間に過ぎた。さあ、次はアニメ『ナルト疾風伝』。これはどうかなあ、と思う。昼に食べたカツ丼が脳裏を横切る。僕は、そもそもアニメが好きではない。まあ、今日は息子のお供だから仕方がない、という気持で90分つき合った。
 結論から言えば、『ナルト』はまったく面白くないというほどではなかった。(回りくどい言い方だな。)日本神話がストーリーの下敷きにあり、そこに忍者が加わる。その忍者は、現代の探偵会社みたいなところで働いている。何だか、昔のテレビドラマ『傷だらけの天使』みたいな設定だ。その上、チャクラとか、ヨガとか、そういうインドっぽいものが出てくる。登場キャラクターの姿は、シンプルにマンガ/ギャグ風に描かれているが、一方、情景は極めて写実的にリアルに描くという宮崎駿的なアニメ文法で、もう日本のアニメ作品の定番そのものといった感じだった。でも、ストーリーは全然だめ。黒澤を観たすぐ後に比較するのも何だけど、次の場面がどうなるかまったく予測もつかず、わくわくする間もなく場面が展開してしまう。そして、次々に魔法的な技を使って相手を倒すので、必然性も理由もへったくれもない。最後のクライマックスも原爆の炸裂のような爆発が連続するだけで、何が起きているかも分からないうちに悪者が退治されて話が終わる。いったい何じゃこれ?
 やっと『ナルト』が終わり、領事館を出ると外はもう夜。「パパ、どっちの映画が面白かった?」と鈴吾郎。「七人の侍かな。パパは古い映画が好きだから」と僕。「うん、僕も七人の侍が好きだったよ。あのチャンバラが強いおじちゃん、かっこいいね。きっと忍者だね、あの人!」と鈴吾郎。そして、「でも、ナルトも面白かったよね」と付け加える。「そうだね、思ったよりも良かった」と僕。
 「さて、夕食を食べて帰るか?」と言うが、ずっと座っていたので腹も減ってない。さっきの「カツ丼」がまだ胃の中にある。
 そこで、またサザンクロス駅に歩いていき、帰りの電車に乗る。

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りんごろう侍

メルボルンの酔っぱらい「紹興酒男」

やってきた電車は、途中駅リングウッド止まりの各駅停車だった。が、寒いホームで待っているよりは乗ってしまおうということになった。でも、考えてみれば、リングウッド駅でまた次の電車を待つのだから、結局同じことだ。しかし、そこはせっかちな我々父子だから、仕方がない。
 車中、親子仲良く、丸バツのゲームや、あみだくじなどを紙に書いて遊ぶ。それにも飽きると、鈴吾郎はリュックからマンガ『コナン』(英語版)を取り出して読みふける。周りは通勤客だが、メルボルンの夜の電車はそんなに混まないのでリラックスできる。
 見ると、向かいに座っている男は、ビニール袋にしのばせている酒をちびちび飲んでいる。人種、国籍はよく分からない。白人と東洋人の混血のような、南アメリカのような、そんな風体だ。人種は分からないが、着ている服、履いている靴は、まったくのボロだ。大きな、汚いスーツケースも抱えている。ホームレスかもしれない。まあ、そういう人だって電車に乗ることもあろう。
 それはいいが、車内の飲酒はメルボルンでは禁止だ。罰金500ドルくらい取られる。ところがこの男、そんなこと気にしてない風で、ちびちび飲んで楽しんでいる。飲んでいるのは、珍しいことに中国の紹興酒だ。普通こういう手合いは安ビールか安赤ワインだが、案外こいつは違いの分かる奴かもしれない。 見れば、紹興酒の瓶を隠し持っているビニール袋には「亜州食品公社」と漢字で書いてある。ははん、こいつは、チャイナタウンの安いスーパーで買い物をしてきたんだなと分かる。
 この紹興酒男、かなりの酩酊だ。目がとろんとして、体もグニャグニャ。こんな酔っぱらいはメルボルンの公共の場では珍しい。まあ、この人は楽しそうだからいいけど。こいつ、ラッパ飲みでちびちび飲みながら、落ちている古新聞を拾って読もうとするが、電車がゆれて、よたよたする。どうにか拾って読み出すが、今度は視線が定らない。今度は、汚いスーツケースのジッパーを開けにかかる。また体が揺れてなかなか開けられない。それでも、紹興酒の瓶を下に置いたり、思い直して倒さないようにまた持ったりしながら、ようやっとスーツケースを開ける。すると、中には、ボロいノートパソコンやら、着替えが入っているのが見える。そして、「亜州食品公社」のビニール袋がもういくつか入っている。その中には、鶏肉のパックやら、ブロッコリ、キャベツ、インスタントコーヒーや醤油の瓶なども入っている。スーツケースにはプラスチックの皿なんかも入っている。つまり、このスーツケースには、こいつの所持品一切合財が入っているわけだ。僕は、吹き出しそうになるが、スーツケースを引きずって買い物するこの男の哀れな姿が目に浮かび、やや可哀想になる。やはりこいつはホームレスか、あるいはアパートを追い出されて、宿を求めてさまよっている風来坊なのだろう。だとしたら、紹興酒なんか電車の中で飲んでいる場合か!
 さて、紹興酒男は、ボトル片手にスーツケースの中のものをひと通り検分して安心したのか、ジッパーを閉めにかかる。ところが、プラスチック皿が出っ張っていてなかなか閉まらない。皿を押しこんでからジッパーを閉めりゃ良いのに、タコ状態だからそんな簡単な作業もできない。僕は、思わず、手伝ってやろうかと体を乗り出しかけたが、スリと間違われたら困るから、黙って見ていることにした。そのうちどうにか、タコ男、ジッパーを閉めるのに成功した。やれやれだ。
 電車は、そうしているうちにヌナワディング駅に停まった。降りる客はドアの前に群がり、ドアが開いてみんな降りていく。ドアが閉まる瞬間、紹興酒男もここで降りるはずであったことに、はたと気がつく。そこで、紹興酒とスーツケースをひっつかみ、よろよろしながら、ぎりぎりでドアをすり抜けた。後には「亜州食品公社」のビニール袋が一枚と、紹興酒の残り香。果たして無事に帰ったのだろうか?
 
乗換のリングウッド駅で、乱闘騒ぎ

やがてリングウッド駅に着く。この電車は、ここで車庫入りだ。そこで、寒風吹きさらしのホームに鈴吾郎と降り、ベルグレーブ行きを待つことに。「寒い!」と鈴吾郎。場内アナウンスがあり、ベルグレーブ行きは反対側のホームから出発と言う。そこで、陸橋を渡って反対側のホームへ。
 ここリングウッドは、電車が二手に分かれる大きな駅だが、物騒な駅で人相の悪い輩がいつも徘徊している。そんな駅なのに、場内にはいつもバッハやモーツァルトのクラシック音楽が流れる。それは、そういう輩たちがクラシック音楽を嫌うからだと言う。本当に効果があるのだろうか?
 とにかく、いつかもここで電車を待っていたら、線路上でふたりの男が喧嘩を始めた。電車が来ても喧嘩を止めないから、電車の方が、喧嘩が終わるのを待っていた。さすがメルボルン!
 他のあるときは、夜遅くここで乗り換えたら、リングウッドで乗ってきた若い男が刺激臭の激しい薬品を吸い始めた。僕は頭が痛くなったので、席を移った。あれは何の薬品だったんだろう? シンナーみたいな匂いだった。
 今夜は、10才の息子もいることだし、『七人の侍』と『ナルト疾風伝』もみたし、暴力はもうたくさん。早く家に帰って、夕食を食べて寝たい、という気分である。
 と思っていたら、向いのホームの待合室で不穏な動きが見えた。若い入れ墨男が、電気ドリルを手に持って壁をたたいている。「このアマ、ぶっ殺してやる」と叫んでいる。これいは、まずい。
 すると、近くで女の「キャー」という悲鳴がし、若い女が女子トイレに駆けこんだ。その後から、電気ドリル男も女子トイレに駆けこんだ。これは大いにまずい状況だ。
 「パパ、どうしたの、あの人たち?」と息子。息子には流血騒ぎは見せたくない。
 「いいから、他の方をみてなさい」と僕は言うが、もちろん鈴吾郎はその光景に釘付けだ。
 女子トイレから怒声が聞こえる。それを聞きつけて2、3人の若い男女が女子トイレに駆けこんだ。友達らしい。すると、すぐに電気ドリル男、若い女、後から駆けこんだ他の男女たちが一群になってトイレから出てくる。そして、外で輪になって口論を始めた。
 駅職員がやっと出てきて、その口論に加わった。押したり、引いたり、押しくらまんじゅうが始まる。こちら側のホームの乗客からもヤジが飛ぶ。「お前ら、いい加減にして帰れ!」
 別の駅員がケータイを出して警察を呼んだ。3、4分して警官が二人きた。(駅の前は警察署)。
 すると、電気ドリル男は口論の輪をすっと抜け出し、陸橋を渡ってこっちへ近づいてくる。う、まずい。こっちへくるんじゃない!
 ところが、警官や他のみんなも気づき、電気ドリル男を追いかける。電気ドリル男、陸橋の柵を乗り越えて逃げようとする。線路に飛び降りるのか?息子に死人は見せたくない。どうしよう! 鈴吾郎は夢中で騒ぎを見守っている。
 すると、警官二人、すばやく陸橋を駆け上り、あっというまに電気ドリル男を捕まえて、柵の向こう側からこっち側に引きずりあげた。通勤客からどっと歓声が上がる。
 この警官二人、とりまきの女の子のマフラーを借り、電気ドリル男を縛り上げた。さすが警察官。電気ドリル男は、何か怒鳴って騒いでいるが、もごもごよく聞こえない。
 そうしているうちに、僕たちの電車がむこうから来た。やれやれ、どうなるのか最後まで見ていられなくて残念。それでも電車に乗ると、ほっとした。すると鈴吾郎から質問。
 「パパ、あの電気ドリルの人、どうなるの?」
 「さあ、トラ箱に入れられて、おまわりさんにすごく怒られるんだろうなあ。」
 「トラ箱って何?」
 「悪い人を一晩入れておく牢屋のこと。一晩入れておくと、どんなに暴れた人でも大概は大人しくなるからね。それで警察官が次の日にお説教をするんだ。すごく叱られるんだぞ。罰金だってたくさんとられるぞ。」
 「パパもトラ箱、入ったことある?」
 「まさか、パパはないよ。鈴吾郎も、絶対にそんなところに入っちゃダメだぞ!」
 「大丈夫、僕そんなことしないよ。」
そして、父子二人は、アハハと笑った。
 「パパ、ちょっと怖かったけど面白かったね。」
 「そうだな。今日はいろいろなことがあったね。」
 「またシティに行こうね、電車で!」
 「ああ、そうしよう。」

 僕たちは、無事に終点のわが町ベルグレーブまで電車で帰り、さすがにお腹も空いたのでピザ屋でピザを買って帰って食べて、お風呂に入って寝た。
(女房と娘は、出かけていなかった。)
 かくして、僕たち父子のイベントフルな一日は終わった。やはり、シティに行くには、電車に限る。
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2013年04月22日

秋の日曜日、スタマティスに再び会う

2013年4月21日

蔓草.jpg
忍び寄る秋

日曜日の朝、「スタマティスがベルグレーブに来てるって言うから、一緒にコーヒーを飲もうじゃないの」と、大工で、カヌー仲間のギャリーから電話がきた。僕は、翻訳中のグリム童話を中断し、ベルグレーブのカフェに向かった。

山の景色.jpg
山の風景

 爽やかな秋晴れだ。メルボルンの景勝地であるベルグレーブの町は、こんな日は観光客でいっぱいだ。この古いカフェもガイドブックに載っているのだろうか、中国人の観光客グループがどかどか入ってくる。
 ギャリーが来て、やがてスタマティスも来た。スタマティスは、相変わらずニンニクの体臭がする。そのことで茶化してやろうと思ったが、半年振りに会う友達には失礼かなと思って、とどまった。
 スタマティは、僕の『ヤギのアシヌーラ どこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)という絵本の主人公「ものぐさじいさん」のモデルだ。ギリシャ人で元船乗り、5年程前までベルグレーブの住民だったが、当地で二回離婚を経験し、そんなでオーストラリアに嫌気がさし、ギリシャに戻ってヨットのチャータービジネスをして失敗した。そして、今はタイのチェンマイで、30才も年下のタイ人の奥さんと暮らしている。現在は農業をしていると言うが、風来坊で風まかせの人生を送っている自由人だ。

もみじ.jpg


 「僕のことを覚えていてくれてありがとう」と、僕は感謝とも、皮肉ともつかない挨拶をして、ニンニク臭いスタマティスと握手した。スタマティスはニヤニヤしながら「テツタのことは毎晩寝る前に、いつも思い出しているよ。スイートメモリーだ」と言った。僕はニンニク臭いスタマティスに添い寝されている自分を想像し、「ウゲェ!」と思わず声に出してしまった。
 「今回は、何の用事だい?」とギャリーが尋ねる。
 「息子のルカの18才の誕生日でね」とスタマティス。
ルカは、別れたオーストラリア人の一人目の妻との間の息子だ。
 「そうか、18才の誕生パーティを盛大にやるってわけか?」と 僕が聞くと、「ところが、ルカは、何もしたくないってんだ。人の注目を浴びるのが嫌な性格なんだな。Happy birthdayと言われるのも嫌なんだよ」と スタマティス。
 「じゃあ、何のために来たのかわからんな。でも、安上がりで良いじゃないか」と、ギャリー。
 「全く、息子の考えていることは分からんよ」と、スタマティス。
 「で、タイのチェンマイ暮らしは、どうだい?」と、僕。
 「ああ、ライチー栽培は軌道に乗った。だが、今年はライチーに実が付かなかった」と、スタマティス。
 スタマティスは、昨年チェンマイでライチー農園を義父と始めたのだ。(そのことは以前にブログに書いたのでそちらを参照:
http://makiwarinikki.sblo.jp/article/58139429.html

 「何だ、実が付かないんじゃ、儲からないじゃないか」とギャリー。スタマティスは、ライチーの実を中国に輸出し、大儲けをしようという魂胆だ。
 「そうだ。それが問題だ」スタマティスは、コップの水をぐっと飲んだ。その時、ウエイトレスが来て、スタマティスから注文をとろうとした。早口で、その上なまりのある英語だったので、スタマティスは何を言われたのか分からなかったらしい。2、3回聞き直してから、「ああ、そうか注文ね。カップチーノをお願い。それからちょっと聞くがな、彼女。ずいぶんなまった英語を話すが、どうやらオーストラリア人じゃないだろう? いったいどこの出身?」とぞんざいに尋ねた。
 僕とギャリーは、その乱暴な聞き方にぎくっとしたが、黙っていた。
 「イスラエルよ」と、ウェイトレスは叩き付けるようにいった。言葉は荒いが、ちょっといい女だ。
 「そうか、道理で聞き覚えのある訛だと思った」と、意味ありげな笑いを浮かべたスタマティスが言う。そして、「Welcome to Australia!」と、大げさに両腕を開いて言った。
 ウエイトレスが顔をしかめたので、紳士のギャリーが、「こいつは大バカだからどうか気にしないでくれ(Don’t’ worry about this idiot.)」と ウエイトレスに謝った。ウエイトレスは、さっさと向こうにいってしまった。
 「で、どうしてライチーに実がならないんだ?」と 僕が尋ねた。
 「いいかいテツタ、タイじゃなあ、俺みたいな外人は何をつかまされるかわかったもんじゃない。おれのライチーは、大学の農業試験場に問い合わせたら、ライチーじゃないってんだ。いいか、本物のライチーがリンゴだとしたら、俺のはミカンみたいないものだって言うんだ。ライチーじゃなくて、レイチーって呼んだらいいようなしろものだ。それを植えちまったんだ」。
 スタマティスは、以前「ライチーで大儲けする」と大見得をきったが、そういう「つもり」というのは、大方こんな具合に外れるようだ。
 スタマティスは続ける。「でもな、タイの農業試験場は親切で、無料でいろいろ指導してくれる。タイには偉い王様がいて、その資金でダムはできるわ、灌漑用水は完備するわで、みんな尊敬している。農業試験場も王様の予算で成り立っている。何でもただでやってくれるんだ。いいか、正月になると、金持ちから貧乏人まで、王様の宮殿に、札束のはいった封筒を持って献上にくるんだ。タイってのは、そういう国だ。驚いたよ。
 で、おれのライチーじゃない、レイチーも、農業試験場に言わせると、ある薬品をまけば花が咲いて実をつけるっていうんだ。どうもチェンマイの気温がいけないらしい。この薬品をまけば、レイチーが気温を勘違いして、それで花が咲くって寸法だ。そういう品種らしい。」
 「へえ、何だいそりゃ?つまり、土壌に欠けている物質を補うのかい?肥料かそれは?」と、大学で化学を勉強したギャリーが尋ねた。
 「いや、肥料ではない。とにかく、それを今年撒かなかったら、どうしたと思う? (スタマティスは そこで2、3秒おおげさに間を置いてから言った。)花が咲かずに、いきなり葉が出て来た! それも、見事な、立派な緑の葉がたくさん!」
 僕は、笑っていいのか、気の毒な顔をしていいのか分からなかったが、スタマティスは、「葉っぱは食えないからな。がはは」と笑ったので、一緒に笑った。
 そのとき、さっきのちょっと美人のイスラエル人ウエイトレスが、スタマティスのカップチーノを運んで来た。そして、スタマティスのことを睨みつけながら、「あんたたち、昼ご飯は注文しないの? お腹空いたでしょ?」と、昼飯を食わないなら出て行け、と言わんばかりに尋ねた。なるほど、店は昼の客で混み始めている。 
 僕は、「昼は家に帰って食べるからいいや」と言った。紳士のギャリーは、「じゃあ、僕はケーキを頼もうかな」と言った。スタマティスは、「俺はダイエット中なんだよ」と言った。ウエイトレスが怒り出す前に、紳士のギャリーがまた言った。「このアホのことは無視してくれ(Please ignore this idiot)。」 
 ウエィトレスは、どうしようもない客だ、と言うように、何も言わずに引っ込んだ。
 それから、中国にライチーを売るとどれくらい儲かるかという話をスタマティスが続けた。
 「いいか、ライチーでも、レイチーでもいいが、乾燥させて真空パックにして中国に輸出する。すると、中国人は、正月に友達や親戚を訪問する際、このライチーを手みやげにするんだ。いいかい、10億人の中国人が、全員ライチーを買うんだぞ! すぞいぞ、これは!」スタマティスは また両腕を広げて言った。そして、続けた。
 「中国の景気は天井知らずだ。ユーチューブで見たんだが、中国の建設業は儲けまくっている。富裕階級は、祖父、父親、孫の三世代の貯金をあわせて不動産に投資する。それで、高級マンションが建つ。そういうマンションが各地でばんばん建てられ、町ができる。それに付随するショッピングセンターやなんかも出来る。そこにマクドナルドやKFCの看板が立てられる。そういう都市が毎年12箇所も出来てるんだそうだ。だがな、驚くなよ、みんな無人なんだぞ、そういう都市は。高級マンションにも、ショッピングセンターにも人はいない。マクドナルドやKFCも看板だけ。中国は、余った金でゴーストタウンを建ててるんだ。」
 イスラエル人ウエイトレスがギャリーのケーキを持って来て、スタマティスをじろっと睨んだ。スタマティスはウエイトレスにウインクして、「俺にはケーキないの?」と言った。すると、ウエイトレスは、大きなため息をついて、「ダイエット中じゃなかったの?」と言った。スタマティスは、それには構わず続けた。
 「だがな、いいか、これはバブル経済だ。いまにはじける。俺は、そうなる前の中国にライチーを売りまくるんだ。どうだ、すごいだろ?」
 「だけど、ライチーに実が付かなきゃダメじゃないか?」と、ギャリーがケーキをほおばりながら言った。
 「そうだ、だから来年は例の薬剤を散布する。そうすれば、ライチーはたわわに実をつけ、俺は安泰だ。分かるか?」と、スタマティスは頷いてみせた。僕は、怪しいもんだ、と思ったが、もっともらしくうなずいてみせた。
 「それにしても、世界は問題が絶えない。不安要素で一杯だ。中国と日本の領土争いは、あれはいったい何の為だ?中国と日本は戦争をするのか?」と スタマティスが僕に尋ねた。
 「いや、あの領土問題は政治的なもんで、いつも何だかんだ日本と中国はもめているよ。ロシアも然り、北朝鮮も然りだよ」と、僕が答える。
 「そうか、それならいい。しかし、日本の地震と津波はすごかったな。災害は必ず来る。俺はずっと昔、神戸震災のちょうど一週間前に、神戸に飛行機の乗り換えで一晩だけ滞在したことがある。そのとき神戸の街をうろうろしたんだが、良かったなあ、あの街は。街角で喫茶店に入ってコーヒーを注文したんだが、ミルクが来なかった。だから、言葉を使わずに身振りで説明して苦労したよ。そしたら、ウエイターがじっと俺を見て、最後に笑いながら、「ミルクですか?」って聞くんだよ。あれには恥かいたな。日本人が、ミルクのことを「ミルク」って言うなんて知らなかったよ」スタマティスは笑った。僕も、背の高いスタマティスが、神戸の狭い喫茶店で、体を折るようにしてパントマイムをしている姿を想像して吹き出した。
 「あの喫茶店のウエイターも、神戸の古い街を歩いていたおばあさんも、みんなあの後の地震で死んだかもしれないなあ」と、スタマティスは遠くを見るような目つきで言った。
 「いや、きっと生きてるさ」と、僕は反論した。 
 「それにしても、相変わらずメルボルンは冴えないな。いいかい、今回ここに来て早一週間たったが、俺はもう以前みたいに落ち込んできたんだ。でも、逆にそれが俺は嬉しいんだ。ギリシャに戻って、タイに移って、それが結局正しい判断だったことが分かったからな。息子のルカには、離れて暮らすことになって悪いが、ルカだって、不幸な父親より、ハッピーな父親の方がいいだろう」と スタマティスは結論づけた。
 「ああ、その気持は僕も分かるよ」と、僕は言った。「僕も、日本に帰って、成田空港に降り立った途端、昔の心持ちに戻る。そして、リムジンバスを待つ間、喫茶店に入り、コーヒーを日本語で注文する。誰も、僕がオーストラリアに20年近く住んでいるなんて知らない。で、東京の見慣れた景色を見て、旧友に会い、旨い日本食を食べる。それはそれで楽しい。でも、そんな風景に浸っていると、昔の心持ちに引き戻される。だから、一週間もするとオーストラリアに戻りたくなる。で、飛行機に乗って、メルボルンに戻り、空港にタッチダウンする前、あたりの農場の緑が見えてくると、涙が込み上げてくることもある」と、僕。 
 「おいおい、俺はそんなセンチメンタルじゃないぞ」と、スタマティスが笑った。
 「さて、そろそろ昼飯を食いに家に帰るよ」と、僕は言った。オーストラリアの物価はこのごろ目まぐるしく上昇し、カフェで昼飯を食べただけですぐ2000円くらいかかる。だから、僕はこのごろ財布の紐が固いのだ。
 「ライチー栽培は儲かるぞ」と、スタマティスが別れ際にまた言う。
 「いや、俺ならシイタケの有機栽培にしておこう。メルボルンは寒くて湿ってるからな」と、僕はそう答えておいて、なるほどメルボルンは冴えない、と思う。
 「そうだ、それを中国に売れ」と、景気よくスタマティスは言った。
 「あほ!中国にはシイタケは売る程あるぞ」と、ギャリーが笑う。
 「まあ、そのうち儲かったら、チェンマイのライチー御殿に招待してくれよ」と僕は言った。
 「そうだ、本当に来い。タイはいいぞ。暖かくて、ゆっくりしてて、ストレスがない。そこら中においしい果物が生っている」と、スタマティスは念を押した。
 僕は、スタマティスとギャリーと握手してカフェを出た。

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うちの庭のキノコ

 外には、ダンデノン山を背景に、秋晴れの空に風が吹いていた。もしスタマティスのように、どこか知らない場所に移って、そこで暮らしたらどんなだろう、と考えた。それは案外、重くてずんとくる仮説だった。しかし、僕は、その疑問はそれ以上考えないことにして、(心の中で)封筒に入れて、引き出しに仕舞った。そして、「いつか僕にとっての「ライチー(レイチー?)栽培」がみつかったら開けること」と「封筒」にメモした。
 それから、家に帰ったら何を昼飯に食べるか考えながら、カフェの前の坂を歩き始めた。
 
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スタマティスに会った後、栗拾いをした

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イガに包まれたつややかな栗

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小一時間でこんなに栗を拾いました
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2013年03月26日

Seize the day --この日をつかめ

2012年3月23日

エスキモーロールができたこと


「今日こそできそうだ」と思う日がたまにある。なぜだか分からないが、突然そんな朝がやってくることがある。

僕は、昨年2012年にシーカヤックを始めたが、年内には必至のテクニック、エスキモーロールができるようにならなかった。エスキモーロールとは、カヤックに乗ったまま水中に逆さまにひっくり返り、そこから復元させる技だ。そのためには逆さまになったまま、水中でパドルを刀の斜め切りのごとく45度に大振りし、その勢いで舟を起き上がらせなくてはならない。これができれば海上でひっくりかえっても人手を借りずに起き上がれる。シーカヤッカーには基本の技だ。

シーカヤック・クラブの練習会にも3、4回参加したが、できるようにならなかった。僕は、逆さになると、自分の状態が分からなくなり、左右ですら混乱してしまう有様だった。子どものとき2、3度溺れたことがあり、その時のトラウマが心の深層にあるせいかもしれない。そんな僕であったが、暮れにはマレー川マラソンに仲間と参加し、無事に404キロ漕ぎ抜いて、そのことに満足しながら2012年を締めくくった。そして、気がついたら、1月も終わり、夏も去ろうとしていた。


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カヤック友達と海を散歩するのは最高の気分だ


俺にはやり残したことがある

2月下旬、メルボルンはまだ暑い日が続いていた。ある水曜の午後、僕は一人で近所のオーラベール湖に出かけ、のんびりカヤックを漕いでいた。すると、もう一人カヤッカーが現れた。機敏にターンする短い川用カヤックで、ミズスマシのように8の字を書いたり、限界までカヤックを倒して引き起こす練習をしたり余念がない。するとこの男、おもむろに水中眼鏡を取り出し、カヤックごとひっくり返り、エスキモーロールの練習を始めるではないか。オーラベール湖にはカヤッカーがたくさん集まるが、ロールの練習をする者は見たことがない。昨今はカヤックブームだが、そもそもロールができる者はあまりいない。

この男、最初の何回かは、ひっくり返っても起き上がれないでもがいていたが、やがて、3回のうち2回は引き起こすようになった。失敗してもあきらめて枕脱したりせずに(カヤックから逆さまの状態で水中に降りてしまうこと)、起きられるまで2、3回試みる。そして、最後は「えいっ!」とばかり起き上がる。やってみれば分かるが、中年オヤジの僕らは、2、3回もやると息が切れてくる。この男も40面で若くはないが、よくやるもんだと感心する。そのうち、ほとんど100パーセント起き上がれるようになった。すごい!

その様子を見ていて、僕も「俺にはやり残していたことがあった」と気がついて、ガンと後頭部をぶたれた気がした。そして、もはやのんびりとカヤックを漕いでいられない気持になった。昨年の宿題がまだ終わっていなのだから。考えてみれば、僕の人生にはこうした課題がいくつも積み残しになっている。あまり古い課題はもう掘り起こしたくないが、エスキーロールは、是非やらなくてはならない。

「よし、次回は、水中眼鏡と、ずぶ濡れになってもいい身支度をして、また来よう」と誓った。そして一人でも、この男のように黙々と練習しようと決めた。

イメージトレーニングの日々

次の日曜が来るまで数日間、僕はイメージトレーニングをした。逆さまになった自分。水越しに、逆さまに見える太陽。ビール瓶をカヤックに、箸をパドルに見立て、自分がビール瓶に座っているつもりになって、ロールのシミュレーションをした。まず、パドルを降ったのと逆回りにカヤックが反転することを覚えることにした。何度も何度も箸を振り、それとは逆方向にビールを瓶を回転させることで回転方向を覚えた。それが迷わず出来るようになると、今度は、舟が起き上がる寸前に体を後ろにそらせて重心を低くして、舟を復元し易くするシミュレーションもした。

水中から.jpg
水中の眺め

この日をつかめ

そして日曜日が来た。「今日こそできそうだ」と、朝起きた瞬間に確信した。その気持は、オーラベール湖に来るまでずっと続いていた。天気が良かったので、僕一人ではなく、息子の鈴吾郎(りんごろう)も、サーフボードを持ってついてきた。

気温は35度。暑いから、水辺には人出がある。カヤックも20隻ほど出ている。だが、どれもおもちゃのような、rubber ducky「ゴムのアヒル」と呼ばれるプラスチックのカヤックばかり。こういう一般人の間で練習するのは、ちょっと気が引け、張りつめていた気持も萎えてきた。だが、鈴吾郎が言った。

「パパ、今日は、エスキモーロールの練習するんでしょ?手伝ってあげようか?」息子は、日差しがまぶしいのか、それとも父親の苦悩がおかしいのか、顔をくちゃくちゃにして笑っている。

水中リンゴ.jpg
水中で笑う息子、鈴吾郎


その息子の笑顔に背中をどんと押された。

「よし、やったるぞ」僕は、パドルを持ち、水深のある沖合まで出た。
鈴吾郎も、サーフボードに腰掛けて、すいすいついてくる。

「まずは ひっくりかえる練習から」僕は、そう言うと、水中眼鏡をかけ、思い切って、カヤックをひっくり返した。

天地が逆になる。水中は静寂だ。顔の周りを水泡が逆に上がっていく。3秒程そのままじっとしていると、体がまっすぐ、垂直にカヤックからぶら下がったまま安定する。水面を見ると、太陽の光が水を通して光っている。でも、だんだん息が苦しくなってきた。僕は、カヤックから滑りでて、水面に出た。

「プハーッ」と息をする。息子がさっきのままの笑い顔で、「溺れたのかと思ったよ」と、ほっとしたように言う。
「起きれなかったらカヤックの腹をこうやって手でばんばん叩くから、その音がしたら助けてくれ」と、僕は言う。

「よし、今度はロールするぞ」と言い、僕はまたカヤックによじ上った。

また水中眼鏡をはめる。
深呼吸。
パドルをカヤックと平行に持つ。
息を止め、カヤックごとひっくり返る。
3秒待って、完全に逆さ吊りになる。
精神統一し、パドルを45度角に大きく降った。

だが、一回目は失敗。半分くらいまで復元したが、ちょっと力が足りなかった。あえなく沈脱。

二度目。何と、二度目は復元できた。しかし、実は、パドルを振ったら、水底が浅くてパドルが水底にあたり、その勢いで復元してしまったのだ。だから、これはチョンボ。

しかし、水上で見ていた息子は、成功したと勘違い。
「パパ、すごい、できたじゃん!」と手を叩いて喜んでいる。

「いや、水底にパドルがあたったから、できただけ。さあ、今度こそ。」
今度は、背の立たない深みに行き、ひっくり返る。逆さの格好でまた精神統一。「えいっ!」と、パドルを水上のお日様に向かって斬りつけた。そして、ぐるっと回り出したなと感じたので、ぐいっと背中をのけぞらせた。

そのとき、コペルニクス的転回が起きた。僕は回転し、それとともに世界も回って、僕は水上にコルクのように浮かび上がった。赤ん坊が、子宮から飛び出る時も、こんなかもしれない。

「やったね、こんどは出来たね!」と、息子は手を叩いた。
「で、で、できた!」と、どもってしまったが、カヤックの上で飛び跳ねたいくらいだった。昨年練習会に3、4回練習して出来なかったことが、たった2、3回のロールで出来てしまったのだから。イメージトレーニングが功を奏したか、息子の笑顔が良かったか。まわりで「ああしろ」、「こうしろ」と口うるさく手出しする先輩カヤッカーがいなかったのも成功した理由かも。

「よし、もう一回」。僕は、二度目にすぐ挑戦した。
二度は見事な失敗。三度目は大成功。四度目は成功したが、勢いが良すぎて、反対側にひっくり返った。

10回くらいやって、成功率は五分五分くらいだったろうか。最後は息が切れてしまい、しばらく休憩することにした。凱旋将軍のような気分で岸辺に戻ると、僕の様子を見ていた、ビール腹のオヤジが、「くるっと起き上がるのは難しいのかい?」と、愛想良く話しかけてきた。

僕は、「いや、それほどじゃないけど、何度か練習が必要かもね」と、軽い調子で答えた。が、本心は、ガハハ、お前なんかにできるもんかい!と言ってから、脳天をぱん!とひっぱたいてやりたかった。ガハハ。

というわけで、興味のない人には、大したことじゃないように思えるだろうけど、僕はエスキモーロールができないカヤッカーから、エスキモーロールができるカヤッカーになったわけだ。どんなもんだい!

しかし、今後の課題はまだいくらもある。例えば、左右どちらからもロールできるようにする。水中眼鏡なしでもできるようにする(海上でひっくりかえるときは、水中眼鏡をする暇はなし)。波風のある海でも起き上がれるようにする、などなど。

生け花.jpg
美しい生け花を生けられるようにする、これも僕の課題。
(もっと難しいかも)。


翌朝、布団から起きようとすると腹筋が痛い。カヤックを引き起こすときに、けっこう腹筋を使ったようだ。やれやれ、もはや22歳じゃないことだけは確かだ。

布団に座って、痛む腹筋をさすっていたら、昔読んだけれど、忘れていた本の題名が突然頭に浮かんだ。Seize the day 『この日をつかめ』(ソール・ベロー作)だ。

パジャマのまま書架に行くと、その本がまだ隅っこにあった。パラパラめくると、角が折ってあるページがあって、そこにこんな言葉があった。

「わからんかなあ、勝利に向かって直線的に進んでゆくことはできないんだよ。波動するコースをとるんだ。」

他にも、確かに読んだことがあると思える文があった。
「ただ現在だけが、『いま・ここ』だけが実在のものなんだよ。この時をーーこの日をつかめ、だ。」

生け花盛り花.jpg
生け花も、その瞬間が勝負だ

僕の脳裏で、ジグゾーパズルのピースがぱちんとはまった音が聞こえた。22才の頃、50才なんかになったら、もう人生は終わりだなんて思っていた。でも、今51才になっても、勝利と言える瞬間は確かにやってくる。(22才の若造に何が分かるというのだ!)

Seize the day!




posted by てったくん at 17:52| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記

2013年02月26日

行きて帰りし物語

2013年2月24日

この週末、息子と一泊のキャンプにいった。モーニントン半島のバルナリングという海浜。鈴吾郎が5才のころから、年に4、5回は、こんな「行きて帰りし旅」に出る。短編小説といった感じの旅。

でも、鈴吾郎は、釣りもしたいし、泳ぎたいし、カヤックもしたいし、スノーケルで素潜りもしたい、やりたことだらけ。僕は、たった一泊なんだから、ただ釣り糸をたれて、ビールを飲んでのんびりしたい。一方鈴吾郎は、いっぱしの戦闘的釣り師だから、釣るならビッグな魚を釣り上げたい。一体誰に似たんだろう、こやつ?

とにかく、1時間で出発準備完了。カヤック二隻を、うんうん言いながら車の屋根に乗せるのは大仕事だった。

車.jpg

出発。家を出て3分、頭の中で忘れ物を検索。
「鈴吾郎、歯ブラシもった?」
「忘れた!」
「虫除けスプレーは?」
「持ってない!」
「日焼け止めクリームは?」
「パパが入れたんじゃないの? 忘れたんなら途中で買えば?」と、鈴吾郎。
虫除けスプレーと歯ブラシ二本と日焼け止め買ったらけっこうお金がかかる。というわけで、忘れ物を取りに、いきなりUターン。

高速をドライブ。車内で鈴吾郎は、日本の漫画『コナン』に読みふける。日本語は読めないくせに、漫画だけはいくらでも見飽きない。僕は、好きなニール・ヤングのCDで鼻歌。

モーニングトン半島のバルナリングまではたった一時間。まずはスーパーで買い物。「晩飯、何にする?」と鈴吾郎に聞く。鈴吾郎が食べたいものは、いつも決まっている。ギョーザかピザかスキヤキか焼き肉。今回は、調理器具はフライパンしか持ってきてない。
「うーん、分かんない。何でも良い」と鈴吾郎。10才の男児に晩ご飯の献立を聞くこと自体、無駄である。
「じゃあ、肉を焼こう。何の肉?チキン、ステーキ? ソーセージ?」と僕。
「焼き鳥!」と言うので、焼き鳥を6本買う。焼き鳥と言っても、日本の焼き鳥の三倍はある串刺し肉。味付けも、ギリシャ風、中華風、メキシカン風などがあるが、どれも旨くない。それとサラダの野菜、その他、細々としたものを買い込み、買い物は終わり。

バルナリングの海辺のキャンプ場は、土曜というのに受付係もいない。携帯番号が書いてあるので電話すると、女性が出て「27番にテントを張ってね。後で代金は取りに行きます」と言った。のだが、ついに彼女は現れなかった。(まじめな僕は後でお金を送ったが。)

27番は、頭上はユーカリの木で、涼しい木陰を作っている。しかし、ユーカリは、夏場は乾くと枯れ枝(それも大きな奴!)が落ちてくるから、注意しなくてはいけない。きっと、ここのユーカリは、枝を落とさない種類なのだろう、と考えることにしたが、そんなユーカリのことは20年近くオーストラリアに住んでいて聞いたことがない。まあ、よっぽど運が悪くなきゃ大丈夫だろう。

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と考えながらテントを張っていたら、鈴吾郎が「ぎゃー!」と叫ぶ。「どうした?」と、走って行くと、ウサギと鳥の死骸が落ちている。「上を見ながら歩いてたら、死んだウサギをふんじゃった!」と、鈴吾郎が気持悪そうに言う。そして、「臭いよう!」と泣き声を出す。僕がユーカリの枝を見上げて落ちてくることを心配してたら、不運な息子は動物の死骸を踏んだという訳。まあ、これで厄払いはできた。それにしても、腐ったウサギは臭い。なぜこんなところで死んでるのか?

テントを立てたので海を見に行くことに。バルナリングは内海なので、波もなく、静かな遠浅。
「ようし、いっちょ、カヤックをやるか」ということになり、車から二隻のカヤック、レインボー丸とハドック船長丸を降ろす。どちらも重さは20キロ。大人二人だと楽に運べるが、子ども相手だと手こずる。鈴吾郎は、「重い!」とすぐ音を上げ、僕一人で砂浜100メートルを引きずり、大汗。

カヤックをようやく海に浮かべて乗り込む。この瞬間が好きだ。ぐらぐらっと揺れるカヤックのバランスを取りながら波頭がくだける波打ち際を越えてしまうと、後は、ゆらゆらと海のうねりに体を任せる。パドルを回転させるとカヤックは、飛ぶように進む。

広い海のあちこちを行ったりきたり。10才のチビ息子は、5メートルのレインボー丸を巧みに操り、どんどん沖へ向かう。父親は、はらはら、「そんな遠くに行ったら戻れなくなるぞ。もっと海岸の近くで乗りなさい」と叫ぶ。

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風が出て来たので、カヤックは止めて、釣りをする。浜辺からだからどうせ昼間は釣れない。案の定フグばかり。ああ…。

キャンプに戻り、仕切り直し。日も大分傾いて来たので、早めの夕食に。さっき買って来た焼き鳥を、フライパンでじゅうじゅう焼く。いい匂い。焼き鳥をはぐはぐ食べながら、ビールを飲む。この時間は千金の価値あり。

と思いきや、10才の息子、「さあ、今度は夜釣りだ!」と、焼き鳥を食べるが早いか、また釣り支度。
「まだ、日が暮れてないよ」と、ビール片手の僕。
「でも、これくらいから釣れるんだよ」と言い張る。
「じゃあ、早いけどいくか」と言うことになり、また浜へ。
夕暮れの海で、風に吹き上げられた湿った空気を吸うのも気持いい。

しかし、釣りはやっぱりだめだった。
小さなオーストラリア・サーモン(アジみたいな雑魚)が2匹。
小さなコチが一匹。
フグ5、6匹。
持って帰った魚はゼロ。

バルナリング.jpg

夕暮れがしのび寄り、足下が暗くなる頃、テントに戻る。寝る前に息子に本を読んでやる。いや、読んでやると言うより、僕が楽しみにしている本だ。アーサー・ランサム著『スカラブ号の夏休み』(ツバメ号とアマゾン号シリーズの第11巻)。もう一年以上もこのシリーズを読んでいて、あと一冊で終わる。このシリーズは実に読みでがあった。子どもたちが、夏休みごとに小さなヨットにのってあらゆる冒険に出かける物語だ。読み終わってしまうのが惜しい。このお話のおかげで、僕ら親子も完全に海にハマった。面白い本だが、僕はビールと夜釣りのせいで、3ページ読んでダウン。

二日目

朝7時に起きる。キャンプにしては遅い目覚め。ユーカリの木に、大きなコアラが登っている。コアラの朝寝だ。写真を撮るが、どうしても顔は見えず。

コアラ.jpg

海辺に行く。馬を泳がせている人がいる。というか、馬に乗ったまま、じゃぼじゃぼ海中乗馬している。馬も気持がいいだろうね。

バルナリングでの釣りは今日もダメそうなので、車で20分のフリンダーズに行く。ここが僕らの「ホームグラウンド」だ。ここは、外海に面しているので、魚も豊富。ところが、今日はここにも魚がいない。昼まで釣るが、ぜんぜんだめ。

「お腹がすいた」と鈴吾郎が言うので、いつも行くフィッシュ・アンド・チップス屋まで行く。もうここの奴は食べあきたが、フリンダーズには、この店しかない。だから、いつものフィッシュ・アンド・チップスを食べ、いつもの風景を眺める。フィッシュ・アンド・チップスは油が多くて不健康な食べ物だが、食べているのも肥満気味の不健康っぽい人が多い。それでもなぜか食べてしまうフィッシュ・アンド・チップスなんだよ。

チップス.jpg

海岸に戻る途中、崖の上から海を眺める。対岸はペンギンがたくさん棲んでいるフィリップ島。吸い込まれそうな青い静かな海。今日なら、カヤックを漕いで渡れそうだが、帰って来れなくなると困るから、行かない。この崖の上に豪壮なお屋敷を建てるのが僕の夢。それは我が家みんなの夢でもある。三億円くらいあればね。二億でも足りるかもしれない。安いもんだよ、そんなの。

フリンダーズ.jpg

浜に戻り、またカヤック二隻を車から降ろす。鈴吾郎は、カヤックから釣りをしてみるんだそうだ。見れば、釣り用カヤックで釣りをしているおじさん達もいる。でも、僕のカヤックは釣り用ではない。

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「そんなの無理だよ。波は来るし、パドルで漕がなくちゃいけないし、ひっくり返ったら、釣り竿とか全部、海に沈んじゃうよ」と僕が言うが、息子には馬耳東風。

鈴吾郎、カヤックに釣り竿一式積んで出撃だ。ところが、やっぱり波をかぶって、釣り道具一式が海水浸しに。僕が日本から大事に抱えて来たシマノのリールもびしょ濡れ。そりゃ、言わんこっちゃない。と思うが、同時に、失敗しなくちゃ前進もなし、と息子の冒険心に感心もする。つべこべ言う父親の僕こそ、心配のし過ぎだ。

鈴吾郎、さすがにカヤックからの釣りは諦めて、桟橋から糸を垂れ、まあまあサイズのキス二匹を釣り上げた。帰りがけの駄賃に、そこらにいた釣り師からも、40センチくらいのベラをただで貰った。子どもって得だなあ!


エイ.jpg
巨大エイ こいつが来ると魚が釣れなくなる。

夕方四時。そろそろ帰る時間だ。カヤックも、釣り道具も、僕の海水パンツも、履いているサンダルも、全部砂でざらざら。ええい、っと全て車に載せて家路に着く。途中で鈴吾郎はアイスクリーム、僕はコーヒーで一服。アイスを食べた途端、鈴吾郎はグニャグニャのタコみたいに、助手席に崩れ落ちて寝込む。

僕は、今度はバート・バカラックのCDを聞きながら、鼻歌でドライブ。CDが終わるか終わらないうちに家に戻った。砂だらけのものを全て車から引き出し、庭に放り投げ、ホースでじゃぼじゃぼ洗う。

かくして、この週末の「行きて帰りし物語」はおしまい。





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2013年01月18日

悠々として急げ。マレー川カヌーマラソン404キロ出場記

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2013年1月

オーストラリアのビクトリア州とニューサウスウェールズ州の州境には、マレー川という全長2575キロの大河が流れている。オーストラリアのミシシッピ川とも呼ばれるが、その理由は、この川が長いことと、昔は交通および流通の要であったからだ。

そのマレー川も、現在は交通や流通にはあまり使われなくなったが、毎年12月27日から31日の5日間、Murray River Canoe Marathonというカヌーとカヤックのレースが行われる。404キロを5日間かけて漕ぐもので、オーストラリア中のカヌー野郎やカヤック気違いが集まり、腕を競い合う。このレースはすでに25年も続いており、腕に覚えのある漕ぎ手であれば、一度は出なければならないレースである。

このレースに、まだカヌー/カヤック歴が浅い私も参加することになり、リレーチームの一員として404キロを完漕した。ことの起こりは、長くなるから省略するが、かいつまんで書くと、我が家の修理をいつも頼んでいる大工で友達のギャリーがこのレースには数回出ていて、今年も出るから、サポートチームに入ってくれと頼んできたのだ。ところが、僕はカヌーは自分で漕ぎたい方だから、「サポートは嫌だ、俺も出る!」ということになった。

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我が友ギャリーは孤高のパドラー。404キロを一人で漕ぐ(愛艇C1レーシング)


僕のチーム Push’n Wood

だが、僕は初心者なので、すでに7回出場しているPush’n Woodというリレーチームに入ることになった。彼らはメンバーに欠員が出たので新メンバーを捜していたのだ。「渡りに舟」とはこのことだ。このチーム、隊長のブライアン(建築会社経営)65才を筆頭に、平均年齢60才前後という「還暦」チームなのだ。乗っているカヌーも、真っ赤なカナディアンカヌーで、還暦色そのもの。そこに50才の僕が入って一気にチームは若返った。僕は「チームのベイビー」と呼ばれ、期待の新星となったのだ。

他のメンバー:

ダイアン: ブラアンの奥さん、50台後半、美容師の美人。
ドリュー: 心理学者、59才。優しい怪力男。元サイクリスト。
ジョアン: ドリューの奥さん。小柄で可愛い小学校のイタリア語の先生。
ヘレン:  60才くらいの麻酔医。小柄でもの静かだが、時折すごい大声を出す。
マイケル:  ヘレンの旦那で、ナイジェリア人の工学博士、65才。泳げないので、カヌーには乗らないサポート専門。酒好き。
アンドリュー: 66才、古株カヌーイスト。エンジニア。ただし、メタボ気味で糖尿と高血圧症。みんなの心配の種だが、
本人はやる気満万。
チャコ:  うちの奥さん、40台後半。サポート隊員。
鈴吾郎:  うちの息子、10才。応援団長として大活躍。

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チームのカヌー

ブライアンが自分で作った全長5メートルのカナディアンカヌー。寄せ木細工みたいに小さな木片をエポキシでのり付けし、ファイバーグラスをかぶせたもの。船体にはオーストラリア、アボリジニ先住民、ナイジェリア、そして日本の国旗がついている。昨今はそんな古風なカヌーよりも、新素材のケブラーやカーボンでできた軽量俊足カヤックが主流だが、Push’n Woodという名の通り、このチームは、あえて「木製」の重たいカヌーを、うんせ、うんせ、押してでも完漕してやろうじゃないの、という心意気なのだ。遅くても楽しみましょう、という「亀さん」チーム。

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トレーニング

トレーニングは、レース3ヶ月前の9月から開始。うちの近くのオーラベール湖に日曜午前に集まり、ひたすら2キロ半の周回を3、4回やる。それだけで汗だく。僕は、最初は2キロ半を休まず漕ぐことはできなかったが、11月頃には休まないでも一周出来るようになり、12月の本番までには10キロ漕いでも大丈夫になった。自分でも驚いた。腕の筋肉もムキムキに。

さあ本番

本番の12月27日はすぐにやってきた。いつもならクリスマス後の夏休みは、キャンプや海辺で過ごすが、今年は暑くて埃っぽいオーストラリア内陸部へ。マレー川ほとりに、クリスマスの翌日僕は立っていた。

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一日目 ヤラウォンガからトカムウォル 94km

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前日にキャンプ入りし、初日は4時起き。久しぶりに朝日が昇るのを見て興奮。(家族は眠くてぶうぶう。)キャンプから25キロのスタート地点、ヤラウォンガまで車を飛ばす。来るわ、来るわ、屋根に葉巻のような、色とりどりのカヌーやカヤックを乗せた自動車が朝の静寂をやぶって集まってきた。到着するや否や、色とりどりのユニフォームを着たチームメンバーが、「わっせ、わっせ」とカヌーを車から降ろし、7時のスタートには早くも50隻ほどのカヌーが朝靄(もや)の立ちこめるマレー川に浮かんだ。我がPush’n woodの赤いカヌーも堂々と浮かんでいる。しかし、僕の出番はまだ後なので、トップパッターのドリューとジョアンのコンビが出発するのを見守る。

7時が近づく。しーんとあたりは静まり返り、突然「バーン!」とピストルが鳴る。すると、いっせいに水しぶきをあげてカヌーがスタートした。「がんばれー!」、「行けー!」と大歓声が巻き起こる。息子の鈴吾郎も、うれしくてぴょんぴょん飛び跳ねている。

僕は初出場ということで、初日は、第三ステージの一番短い6キロのステージを、出場三回目のドリューとコンビで漕ぐことになった。ドリューは大男の力持ちだから、すごいパワーだ。後ろからぐいぐい押されて漕ぐペースをつかめず、カヌーもジグザクに走り、あまり良い結果ではなかった。それでも、6キロは軽々、およそ40分ほどで漕いでしまって、初日はあっけなかく終わった。でも、川から見るマレー川畔の景色はきれいだった。

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二日目 トカムウォルからピクニックポイント 96km

二日目は、全行程でも最長距離の96キロ。距離は長いし、体も慣れていないから、出場者は表情が暗い。ここをのりきれば、三日目以降は楽になると言う。単独出場の大工ギャリーも、前の晩は疲労と緊張で眠れず「最悪のコンディションだ…」と浮かない顔。それでも、スタートのピストルは七時に「バーン!」となり、C−1というレース用のカヌーでギャリーは滑るように川を下って行った。

今日は、サポート組も大変だ。何せ、国立公園の中を川が流れるルートなので、サポート車が走る道路も全てダート。夏は雨も降らないから、前の車が立ち上げる埃の中を、ヘッドライト付けてのろのろ走る。まるでサファリラリーのようだ。

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今日は僕の担当は、第四区間の16キロ。16キロは一時間半で漕げる距離だ。相棒はリーダーのブライアン。ブライアンとは練習で何度も漕いでいるから息は合っている。さあ、思いっきり漕ぐぞ、と僕は興奮して交代地点でカヌーを待った。

ところがハプニングが起きた。向かい風が強くて、ドリューとジョアンのペアが予想以上に遅れた。このままでは時間切れで、僕らは最後の区間が失格になる可能性がでてきた。アンドリューが審判に掛け合いにいった。交渉の余地はない、と言って渋い顔でかえってきた。リーダーのブライアンも掛け合いに行く。ところが、やはり首を横に振りながら帰ってきた。「てつた、残念だが、今日はここで終わりのようだ。時間切れで、ここでカヌーを引き上げなければならない。明日また仕切り直しだ」。僕はがっくり落胆した。すると、ダイアンがきっぱりと言った。「私に任せて。絶対だいじょうぶよ」と再度交渉に。

その間に、川の向こうからドリューとジョアンが漕ぐ赤いカヌーが見えてきた。500メートル、300メートル、100メートル、みんなが叫ぶ。「時間切れだ、急げー」「もっと早く漕げ!」目に見えて二人のパドルさばきが早くなる。

同時にダイアンが走ってきた。「大丈夫よ! ほんの5分だけ、審判が時計に気づかない振りをしてくれるって!」やったー、みんなでハイファイブ。

ドリューとジョアンが到着するなり、僕はとブライアンが飛び乗り、漕ぎ始めた。後に続く他のカヌーも、失格させられまじと、すごい勢いで飛ばしてくる。出発時間は4時半、いや、本当は5分遅れの4時35分。何が何でもゴールには6時前に着かなくては、本日分は失格となる。

「さあ、いくぞ!」カヌーの後席のブライアンが、低い声で叱咤する。ブライアンは、顔はいかりや長介みたいだが、声は渋くてかっこいい。「おう、見てろよ!」と、僕もフル回転でパドルを漕ぐ。お日様も傾いてきた。「さあ、夕日と競争だ!」 川面がきらきら光る。魚が跳ねる。先行するカヌーの赤や黄色の船体が時々光る。

川をぐんぐん下る。僕らの鈍足カヌーが、俊足のカヤックを1、2隻追い抜いた。「4キロ通過」、「8キロ通過」と、時折ブライアンがGPSの数字を読み上げる。突然「すごいぞ、てつた、瞬間時速12.5キロ。我がチーム最高スピードだ。お前は大したパドラーだ!」と、叫ぶ。

僕自身は自分がどれほどのペースで漕いでいたか夢中でわからなかった。ただ、10キロ地点を越えた時点から、だんだんすーっと体が気持が良くなってきた。これがランナーズハイってやつか。腕も軽く、最高の気分だ。若いときにも、登山をしているとき時々こんな気分になったっけ。いいぞ、もっとぶっ飛ばしてやれ!

「12キロ」、「14キロ、あと2キロだ」とブライアン。おっと危ない、勢いがつきすぎて、川が曲がっている箇所で岸に近づき過ぎて、倒木に引っかかりそうになった。徐行して難をかわすが、失敗すればひっくり返って沈していたところだ。

「あと1キロ!」ブライアンが冷静に言う。向こうに人の群れが見えてきた。時計を見る余裕もない。6時まであと何分?と思うが、僕はもう蒸気機関車になったつもりで、とにかく漕いだ、漕いだ、漕いだ。

やがてゴールをくぐる。「ブー!」というゴールの印のブザーがなる。パドルを頭のうえで振り回す。観客から歓声が挙がる。

ブライアンがつぶやくようにGPSを読む。「おめでとう、てつた。5時52分だ。あと8分で失格のところだった。お前がチームを救ったんだぞ。ありがとう」と言った。振り向いてブライアンと握手。

岸に着くと、みんなが寄って来た。「良かった、失格にならなくて」と、ドリューがいった。「大丈夫よって、いったでしょ!」と、ダイアンがビデオを回しながらニコニコして言う。みんなと抱き合って喜ぶ。伝説のパドラー、マッド「気違い」ミックも、ニコニコしながら寄ってきて握手してくれた。ミックは、もうこのレースに25回も出ている。今回も単独出場だ。

16キロを1時間20分程で漕いだ。平均時速12キロは出ている。かなりの好成績だ(マレー川は時速2キロ程で流れているので、実際の速度は10キロ程度だが)。

小さなハプニングだが、僕には嬉しい出来事だった。初めて参加したリレーで、チームの危機を救ったのだから。

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25回出場、伝説のパドラー、マッド「気違い」ミック



三日目 ピクニックポイントからエチューカ 76km

昨晩は、蒸気船が今も川を登り下るエチューカの町で泊まった。チームの危機が救われたということで、みなでパブでお祝い。

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三日目は、昨日のゴールからエチューカの町まで、森の中の原始風景を漕ぎ進む。僕は、第二ステージ12キロをドリューと漕ぐ。昨日の16キロに比べれば楽勝だ。今日は時間の制限も大丈夫。午前の早い時期なので、まだ肌寒い。今年は天候に恵まれ、盛夏とは言え30度そこそこの気温、ビクトリアの内陸としては涼しい。こちらは大助かりだ。ドリューも僕も、今日は漕ぐ息も合って、快調に飛ばす。僕らの乗っているのは昔風のカヌーだが、二人で漕げば、ゆっくり流している細長い現代的なカヤックを追い抜いたりもできる。ドリューがつぶやく。「すげえ、13.5キロだ。最高記録だぞ。」 僕は、このチームの記録をどんどん塗り替えているらしい。どんなものだ!

ところが、あるところで曲がりを曲がると、いきなり「どかん!」と、突風にあおられた。どうにかブレースして体勢を保つが、カヌーはあらぬ方向を向こうとする。懸命にスイープストロークで横漕ぎして方向を修正。ふと見ると、向こうでは女性チームの二人乗りカヤックが沈して、川で泳いでいる。「助けに行こう!」とドリューが言うので、そちらへ漕ぎ寄せる。「Are you all right? 大丈夫かぁ?」と叫ぶと、女性チームも川岸に泳ぎ着いたところで「We are ok! 大丈夫よ!」とにっこり笑って手を振って返答する。大丈夫そうでも一応声をかけるのが水上の掟、スポーツマンシップというものだ。

そうしているうちに12キロは、あっという間に漕ぎ終わる。記録は1時間15分。怪力ドリューとの12キロは、カヌーがぐいぐい進むので、まるで坂道を下るみたいだった。

四日目 エチューカからトランバリー 63km 

朝6時半、今日の出発地点に立つ。僕が「残りはあと二日、早いもんだ」と、川面を眺めながら言うと、一人でここまで300キロ近くを漕いできた友人ギャリーがつぶやく。「いや、俺はとにかく一日、一日を漕ぎ抜くことしか考えない。今日を漕ぎ終えられたら、そのとき明日のことを考える」と言った。やっぱり、一人で孤独に漕いでいる人は気合いが違うなあ。ギャリーは、このレースを終えると、60才になる。60才の記念に単独出場をした。この僕が60才になるときはどうだろうか。一人でカヌーを400キロも漕ぎ抜く体力を持っているだろうか。ギャリーのように、体をいたわりつつも限界に挑戦してみたい。僕も、そんな目標を持って、これからの10年を生きてゆきたいものだ。

7時。また「パーン」とピストルが鳴って、色とりどりのカヌーやカヤックが川に散らばっていった。今日もギャリーもひとりで漕いでいく。がんばれ、完走してくれよギャリーと、僕は祈る。

出発シーンを見終わると、僕と息子の鈴吾郎は、ボランティアが出している店で、熱々のベーコンエッグサンドイッチをほおばる。鈴吾郎の奴は、でっかいサンドイッチを二個も食べた。(大物になるぞ、こいつは!) 鈴吾郎は、まだ10才だから、カヌーマラソンには出られない。でも、色とりどりのカヌーやカヤックを見て、自分が出場しているみたいに興奮して声援している。12才になると出られるから、その時は、僕とタンデムで出てもいいなと思う。実際、親子や兄弟、あるいは夫婦で出ている人もたくさんいる。

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父子で400キロ漕ぎ抜くのは、体力的にも精神的にも試練だろう。でも、それはきっと良い思い出になるだろう。振り返ってみれば、僕自身は父親と何かそんなことをした経験はない。でも、それを埋め合わすつもりで、これから自分の息子とやっても遅くはないかもしれない。

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さて、今日のコースは、少し先に大きな堰(ダム)があるので、川の流れがひどくゆっくりだ。参加者は、「ちっとも進まない」、「まるで真綿の中を漕いでるみたいだ」と苦戦している。だから、63キロと短い距離でも、ペースが落ちるから苦しい。陸上マラソンなら上り坂という感じだろう。

僕は、二番目の中継地点からの15キロを漕いだ。相手は、またドリュー。ドリューとも息があってきたから、カヌーはぐいぐい進む。多分、今回のチームで最強のコンビだろう。しかし、流れのせいでゆっくりしかすすまない上に、カーブが多い。カーブは、曲がった途端風向きが変わるので注意が必要だ。慎重にカーブをひとつひとつ曲がる。どうして川はこんなにくねっているのだろうとうんざりする。

今はクリスマス後の休暇だから、のんびりと釣り竿を繰り出しながら、カヌーレースを見物している人が両岸にいる。あと三日で新年だ。僕は、見物人に「ハッピーニューイヤー!」と声をかけながら進んで行く。中には、「ビールが冷えてるぞ、寄っていけよ!」と、からかう人もある。早く漕ぎ終わって飲みたいなあ!

ドリューと二人で、15キロを1時間20分程で漕ぎ終えた。早くもなし、遅くもなし。僕の今日の出番は終わり。後は、他のチームメイトを応援して、大いに盛り上がる。

今夜の泊まりは、カフーナという田舎町。本日のゴールで、カヌーを引き上げると、車を連ねて田舎道をひた走り、カフーナまで小一時間のドライブ。店が10軒くらい連なるひなびた町だ。『ミッドナイトカウボーイ』の舞台の町みたいだ。日曜なので開いているのはガソリンスタンドとパブだけ。水タンクを背負った塔が町を見下ろす。町の真ん中にある公園には誰もいない。僕たちの宿は、パブ裏のモテルだ。フロントのおばさんは、これ以上愛想を悪くしようもないほど愛想の悪いおばさん。まるでヒッチコックの映画みたいだ。客室のドアには、「泥靴は脱いでから部屋に入って下さい」と書いた紙が張ってあった。羊毛を刈るシアラーと呼ばれる職人たちが多く泊まる宿だからだそうだ。

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カフーナの木賃モーテル


晩は、そのひなびたパブでチームメンバーと夕食を食べる。冷えた生ビールは旨かったが、食事はまずかったの一言。ベジタリアンのチャコは、「これ、食べるところないわ」と、チキンサラダをほとんど残した。僕は奮発してステーキを注文した。焼き加減は「レアに近いミディアム」と言ったはずなのに、ステーキはガチガチに焼きが入っている。おまけにナイフの切れ味も悪くて、食べるのに大往生。

パブの天井には大きな扇風機が回わり、ハエがぶんぶん飛んでいる。がらんとした食堂は、クリスマスの飾り付けの片付けも終わっておらず、ひどく裏ぶれた感じ。まさに、オーストラリアの田舎の典型という雰囲気。オーストラリアに17年も住んでいるから、こんな風景も見慣れたが、それでも思わず、「オーストラリアだなあ、ここは!」などと感心してしまうほどのひどさ。

五日目(最終日) ムラビットからスワンヒル 75km

いよいよ最終日。気合いを入れてまた4時起きだ。車を連ね、出発地点のムラビットに急ぐ。6時到着。7時までにカヌーを水に入れ、出発を見送る。大きなダムも過ぎたから、また川の流れは速やかだ。カヌーマラソンの最終ゴールはスワンヒルという大きな町だ。今夜は大晦日、テレビ局の取材も来ると言う。

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出番を待つ僕とマイケル

「てつた、今日はゴールで日の丸の旗を振れよ!」と、リーダーのブライアンが冗談を言う。初出場の僕に花を持たせてくれようと、ブライアンは、僕をアンカーに抜擢してくれた。僕は、日の丸は振らないけど、精一杯がんばるつもりだ。相棒の漕ぎ手はまたブライアン。距離も今回最長の25キロ。燃え尽きてやるぞ、と胸が高鳴る。

第一地点、第二地点、第三地点と、カヌー要員を交代しながら車で移動。内陸の穀倉地帯だから、大地は真っ平ら、視界を遮るものもない。まっすぐの道路を埃をあげて突っ走る。川沿いだけには木が生えているから、そこが川だと遠くからでも分かる。

このマラソンには、高校生のリレーチームが4校ほど出ている。レースも終盤に差しかかり、彼らはかなり盛り上がっている。女子が黄色い声援を送り、二人組のカヤックの男子組は、かっこ良く交代地点に滑り込んでくる。そして、到着するなりカヤックを横倒しにして、乗組員は水に飛び込む。交代要員はほんの数秒でカヤックに飛び乗り、大歓声の中をまた飛び出して行く。

その間を縫うようにして、おじさんおばんさん混成の、我が亀さんチームの赤いカヌーは、のんびりと川面を下る。いや、のんびりと見えるだけで、実はおじさん、おばさんも一生懸命に痛む肩や腰をかばいながら漕いでいるのだ。がんばれー、亀さん、ふれふれ、亀さん!

いよいよ第三地点に赤いカヌーが見えて来た。漕いでいるのは、巨体のアンドリューと小柄な女医のヘレン。カヌーの前後で体重があまりにも違うから、舳先に砂袋を積んでバランスを取っている。アンドリューは、たどり着くと、疲れて立ち上がれない。その巨体をみんなで引っ張り上げる。アンドリューは燃え尽きて、さっぱりした顔をしている。ブライアンは、重りの砂袋をつかむと、「もうこれには用はなし!」と、川にどぼんと放り込む。身軽になったカヌーに僕が飛び乗り、後ろにブライアンが乗ると、すぐに飛び出す。ヘレンが大声で叫ぶ、「さあ、最後に錦を飾るのよ!」マイケルが叫ぶ、「走れ、Push’n Wood!」

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燃え尽きたアンドリュー、川に落ちる


僕とブライアンがアンカーだ。いっちょやったるぞと、僕が調子よく漕ぎ出すと、ブライアンがぼそっと言った。「ごめんな、右腕の筋肉がつっちゃった。あまり漕げない。とにかくゴールを目指してゆっくりいこうぜ」。僕は、「無理すんな、舵とりは、まかせた。漕ぐのは俺がやるから座っててくれ」。

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リーダーのブライアン、日焼け止めを塗って「さあ、行こう」


最後にこうなるとは思わなかったが、仕方がない。ブライアンは年期の入ったパドラーだが、それでももう65才、もうじき66才。無理はきかない。僕だって無理は禁物だ。僕までダメになったらそこで本当の終わり。アンカーが棄権したら、他のメンバーに面目がたたない。

僕は、はやる気持を抑えて言う。「85%から90%で漕いで、最後の1、2キロはフルパワーだ。」ブライアンが言う。「おう、まかしたぞ。でも、無理はすんなよ。」

しばし、二人とも無言で漕ぐ。今日は暑い。スワンヒルはメルボルンから北に300キロ以上も内陸だから、気温も7、8度は高い。気温は37、8度か。ブライアンが、時折GPSの数字を読み上げる。「5キロ通過、時速11キロ」「7キロ通過、時速10キロ半。この調子を維持してくれ」と冷静な声。

しばらく進んで、後ろに声をかける。「どうだい、腕は?」
「ちょっと痛いが、漕げなくもない」とブライアン。
「無理しないで景色でも見ててくれ」と僕。

「10キロ通過」とブライアン。半分ちかく来た。僕は、ふと思い出したように、ボトルをつかんで水を飲む。生温い水が体を迸り、粘ついていた血液がさらさらになる感じがする。

水を飲むと体が軽くなる。またひたすら漕ぐ。一漕ぎごとに、スワンヒルのゴールに近づく。スワンヒルに行くのは初めてだが、まさかカヌーを漕いでたどり着くとは思わなかった。404キロなんて途方もないと思ったが、毎日みんなで漕げば、到達出来る距離だと分かった。

「さあ、あと5キロだ。最後の5キロだ。楽しく行こう」とブライアン。気がつくと彼も漕いでいる。それでもスピードは乗らないから、足の速いカヤックにどんどん抜かれて行く。「着いたら冷たいビールで乾杯だ!」と言いながら抜いて行ったのは、熟練カヤッカーのリチャードだ。彼は、メルボルンからタスマニア島までの300キロを、島づたいに漕いだこともある強者だ。川下りなどは朝飯前なのだろう。彼は、美人の妹とタンデムだ。

僕が常連のカヤックショップの店長アンドリューも抜いて行った。アンドリューは、すらっと長いオーシャンスキーという種類の俊足カヤックに乗っている。彼は単独参加だ。「アンドリュー、どうだあ?」と、僕が声をかける。「もう、ぼろぼろだよ。早く終わりたいよ!」と、身長190センチの猛者も弱音を吐く。

「あと4キロ、締めていこう」と、またブライアンがいう。僕は、不意にまた体がふわっと軽くなり、幸福感で一杯になる。またランナーズハイだ。僕は、本当にカヌー好きだ。川や海が大好きだ。水上を音もなく漕いで進んで行く感覚が楽しくて仕方がない。今ここにいることが、幸せでたまらない。

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「あと2キロ。あのカーブを曲がると、ゴールが見えるはずだ」ブライアンが、少し高揚した声で言う。僕は、そのカーブの手前まで、右できっかり150回漕ぎ、カーブの少し手前でパドルを左に持ち替える。そしてそのまままたきっかり150回漕ぐ。右利きの僕は、当然右で漕ぐのは得意だが、左は疲れやすい。力も、右の8割くらいしか入らない。左を鍛えるのが今後の課題だな、と考えながら漕ぐ。

「見えた。あと1キロ」と、ブライアンが言う。僕は一瞬胸がいっぱいになって、すぐに返事が出来ない。胸にぐっとくるものをこらえて、「本当だ、見えた」と、5秒後に返事した。

ゴールの方でも、僕たちの赤いカヌーが見えるのか、赤いチームユニフォームの人たちが躍り上がって、手を振っているのが見える。色の黒いナイジェリア人のマイケルがすぐ分かる。「左岸に焦点を定めて、そっちへまっすぐ漕げ」と、ブライアンが指示を飛ばす。僕は、パドルを右に持ち変える。さあ、あとは最後まで右腕で漕ぎまくるぞ。

もう仲間がはっきり見える。妻のチャコが見える。ダイアンがビデオを回している。鈴吾郎が飛び跳ねている。僕は、ただ、猛烈にパドルを川に叩き込み、水を炸裂させる。もうすぐ終わりだ。

ゴールをくぐると、「ブー!」とブザーが鳴り、「Push’n Wood team!」とアナウンスがあった。鈴吾郎が水に飛び込み、カヌーまで泳いできた。僕は、漕ぐのを止めて、パドルを頭上に持ち上げた。それでもカヌーは惰性で進み、川の流れに乗って海に向かって進んで行く。ここで終わってしまうのが残念だ。ブライアンがカヌーを操り、僕たちはくるりと回って岸辺に向かった。カヌーの舳先が岸辺の砂地をざくっと噛んだ。それで終わった。最後はあっけなかった。5日間、404キロの水上の旅は終わった。

カヌーマラソンが終わって

今夜は大晦日だ。スワンヒルのイタリアンレストランに集まったPush’n Woodの面々は、ワインやビールで乾杯した。


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鈴吾郎、ダイアン、ブライアン


「ねえ、来年ももちろん出るでしょ?」と、ダイアンがにっこり笑って僕に聞いた。「時間を作って出たいなー」と僕。
「そうなのよ、カヌーマラソンって癖になるのよね。つらくて、汚くて、暑くて、埃っぽくて、その上一週間も時間がつぶれるし、お金もけっこうかかるし。でもね、一回やるとまたやりたくなる。2回やると3回やりたくなる。不思議よねえ。」
僕も同感だ。

ところが、よく冷えたギネスビールを飲んでいたギャリーが言った。
「俺は、今のところはこりごりだね。もう一人ではやりたくないよ。」
彼は4回目の出場で、初めて単独完漕したのだった。
「でも、一人で漕ぎ切って、すごいじゃないの。すごい達成感で一杯なんじゃないの?」と、ダイアンが言う。
「いや、そんな感じじゃないなあ。とにかく、やっと終わった、という気持で一杯だよ。来年がどうのこうのなんて、とても考えられない。」
「ねえ、たった一人で400キロ漕いでいる間、ずっと何を考えていたの?」と、ジョアンがギャリーに尋ねる。

「何も考えない。ただ次の一漕ぎのことだけ考える。その次は、また次の一漕ぎのことだけ。その連続さ。とにかく、漕ぐことに集中するのみ」と、ギャリーがギネスの泡を見ながら言った。

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404キロ漕ぎ終わっても笑っていたギャリー


マイケルが、赤ワインをどばっと僕のグラスについだ。かなり酔っているみたいだ。マイケルは「俺も、来年はカヌーに乗るからな!」と宣言した。マイケルは、泳げなくて水が怖いのだが、どうやら本当にカヌーに乗ることを決心したようだ。
「この人、本気みたいね」と、奥さんのヘレンもまじめな顔で言う。

ブライアンが言う。
「マイケル、よく決心した。それなら2月から特訓だ。まず救命胴衣を付けて、片足を水に浸ける。それができたら今度は両足を浸ける。それもできたら、今度はみんなでお前さんを川に放り込んでやる。救命胴衣があるから溺れないぞ。それでもお前さんがまだ笑っていたら、カヌーに乗せてやる。いいか?」と、ブライアンがマイケルの背中をばしばし叩きながら言った。マイケルは、涙を流しながら笑っている。65才になって初めて泳げるようになったら、さぞうれしいだろうな。

遠くでのどこかで 花火がはじける音がした。そうだ、今夜は大晦日だった。僕の初めてのマレーマラソンは終わったのだ。404キロを5日間、七人の仲間と漕いで、僕たちの水面のお祭りは終わった。川の流れに乗って僕は悠々と急ぎ、本来の自分にやっと何年ぶりかで追いついた気持がした。

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「来年は私もでるかも」と、チャコ
posted by てったくん at 15:33| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2012年10月18日

エスキモーロールことはじめ

2012年10月15日 

僕は水中で逆さまになって、もがいていた。上下左右も分からない。鼻から水が入ってくる。耳にも水が入り、何も聞こえない。隣の人の足が逆さだ。手を振り回すが、体は逆さまのまま。呼吸も苦しくなってきた。

この状態は、今年50才になった僕の心理を、象徴的かつ具体的に表しているのかもしれない。50才になったのをきっかけに、僕は今までと少し違った視点や状況に自らを置いてみることにした。今までやったことのないことをして、凝り固まった考えを変えようということだ。そう決心しておきながら、体が逆さまになり、視点が変わっただけで、僕は戸惑い、混乱し、パニックになっていた。

僕は、シーカヤックのエスキモーロールの練習をしていた。逆さまのカヤックから僕が脱出できないでいるのを見てとったピーター・コステロは、すかさず僕のカヤックをくるりと回して浮上させてくれた。僕は「ブハーッ!」と息をついた。

「アハハハ。何もそんなに慌てないでもいいんだよ。カヤックが転覆したら、まず体の力を抜いてリラックスする。そして深呼吸して(水の中でどうやって深呼吸するんだよ、アホ!)、状況を把握する。それから、こうやってパドルを力いっぱい45度の角度で前から後ろに振るんだ。そうすればカヤックは復元するはず。簡単さ!」と、ピーターは言った。

シーカヤックとは、エスキモーが昔乗っていたような細長いボートで、これを現代的にデザインした手漕ぎ舟だ。船内に水が入らない構造になっていて、かなり波のある海でも漕ぎ回ることができる。これで、オーストラリアからニュージーランドまで漕いだり、北大西洋を横断した人もいる。僕のインストラクターのピーターも、メルボルンからタスマニア島までの300キロを漕ぎ渡った経験を持っている。

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僕が作ったおもちゃヨット

そしてエスキモーロールとは、ひっくり返ったカヤックを乗ったままでくるりと回転させて復元させる技を言う。スイスロールのようなケーキのことではない。海上で波にあたってひっくり返って沈したとき、この技ができれば、わざわざカヤックから水中に出なくとも、カヤックを復元させて漕ぎ続けることができる。シーカヤック乗りには必至のテクニックだ。

上り坂の先は平坦路

僕は50才になって、当然かもしれないが、これからの人生はこれまでの人生よりも短くなったことに気がついた。短く言えば、折り返し地点を過ぎたということかもしれない。でも、僕は、間違っても、これまでの人生を「折り返し」たり、繰り返したりはしたくない。これからも新しい体験をしたい。が、50才になった感慨は、人によってやや異なるみたいだ。近所の友達で、今年1月に50才になったイアンはこう語った。
 
「50才と言ったって、墓場が近くなったという訳じゃない。まだまだだ。だが、もう登り坂は終わった。これからは、俺は平坦な道を走り続けることになる。なるべく長い間な。だが、気を抜いたり、走り続けるのを止めたら終わりだ。そのとたん下り坂だ。そして、その下り坂は下れば下るほど急になる。転げ落ち出したらもう停まらない。」僕も、イアンの考えに同感だ。前に進むことは止めたくない。

イアンはこう言い残すと、仕事を3ヶ月休職し、やはり50才になった友達と二人で、がたがたのBMWのバイクにテントと寝袋を積んで、北オーストラリアの砂漠を目指した。彼のBMWは満タンでの最大航続距離は400キロ未満だそうだが、北オーストラリアには500キロ以上ガソリンスタンドがない荒野もある。そんな場所では、もちろん携帯電話など通じない。
 「予備タンクもあるし、どうにかなるさ。だがな、人生では、時には賭けに打って出ることも必要だ。まあ、相棒は心配性だから、救助信号用EPirb(遭難救助用発信装置)も持ってるしな。使うこともないだろうが。」
 スティープ・マックイーンを横長にしたような顔のイアンは、こう言ってニヤッと笑った。3月の終わり、彼らは旅立った。

海に出たい

50才になったからと言って、何かを証明しなくてはならない訳ではないだろう。イアンにしても、50才の誕生祝いに、クロスカントリーのバイク旅行に出かけたまでのことだろう。しかし、50才になったことは、何か今までやってこなかったことを始めるきっかけにはなる。

僕は、海に出たいと思った。人生これまで、海とはあまり縁がなかったが、この2、3年、僕は急に海に出たくなったのだ。きっかけは釣りだった。岸壁から息子と釣りをする楽しさをある夏休みに覚えた。それが嵩じてカヌーを始めた。僕は、パドルを漕いで静かに水面を滑っていくことに快感を覚えるようになった。眠れない夜は、水上にいるイメージを浮かべると、すぐに心が休まるようになった。ところが、波をかぶったら浸水するカヌーでは、外海に出られない。息子はモーターボートを買おうと言ったが、僕はエンジンの付いた乗り物は、うるさくて好きではない。

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僕の作ったカヌー、タンタン丸(釣り仕様)

そうしているうちに僕の読書の傾向も、海洋探検、航海、ヨット、カヌー、カヤックといった関連のものに傾いていった。中でも、オーストラリア人冒険家James CastrissionのAcross the Ditchという本には心揺さぶられた。二人の若者がオーストラリアからニュージーランドへの3000キロを60日かけてカヤックで渡った実話だ。Oscar Speckというドイツ人が、第二次大戦前にドイツからオーストラリアまで折りたたみのカヤックで旅した話にもロマンを感じた。日本人の吉岡嶺二が、長い時間かけて、こつこつ尺取り虫のようにカヤックで日本一周した記録にも敬服した。

シーカヤックの講習会に出て、カヤックを手に入れる

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カヤックの講習会で

僕も、とにかく始めようと思った。50才になった翌月、清水の舞台から飛び降りるつもりで、二日間のシーカヤック講習会を受けた。ポートフィリップ湾の柔らかいうねりの中で、漕ぎ方の基本、沈した時の再乗艇の仕方、天気、潮流、海図の基本的知識などを学んだ。同級生には中年のオヤジとオバサンが多かった。僕はこれで大分自信をつけた。すぐに、ビクトリア・シーカヤック・クラブという団体にも入会した。

6月になって、いよいよ自分のシーカヤックを買いに出かけた。メルボルンには、3軒ほどシーカヤックの専門店がある。一軒目ではこう言われた。

「いきなり本格的なシーカヤックは、ちょっと背伸びじゃないの? 危ないし。それに、あんただけ一人で海に出たんじゃ、奥さんやお子さんがかわいそうでしょ? だから、とりあえずファミリー向けの二人乗りを買って、それで一夏海岸で慣らしてさ、それでも海に出たければ、本格的なのを買ったら?」
僕は、その店をすぐに出た。

2軒目では、カワイコちゃん店員に、あれでもいいし、これでもいいと勧められ、混乱して終わった。僕に必要なのは、的確なアドバイスであってギャルの笑顔じゃない。

買うのはよそうかと思ったが、気持を奮い立たせて、三軒目に行った。倉庫のようなこの店は、スパルタンなシーカヤックやレース艇を売る店だった。飾り気もなく、僕は店の入り口で二の足を踏みそうになった。しかし、僕の気配を感じて、奥から無愛想な大男の店員がのそっと現れたので、後へは引けなくなった。

無愛想な大男は、僕の話をじっと聞いた。筋骨隆々、腕も長くて手も大きい。気合いの入ったカヤッカーという風貌だ。
「どんな場所でカヤックを乗るんだ?」男は、単刀直入に聞いた。

カヌーはやったことがあるがカヤックは初心者である、海で波と戯れてみたい、海岸沿いに2、3日の旅に出てみたい、僕はそんなことを話した.

大男は、またぼそっと聞いた。「どんなカヤックを買いたいのか?」僕は、ドイツ製P社の名前を挙げた。すると、店員は首を横に振り、「あんたには大きすぎ、重すぎだ」と言った。僕は、スウェーデンS社の名前も挙げた。男はまた首を横に振り、店の片隅にある、細目でスッキリした形のカヤックを指差して言った。

「こう言っちゃ悪いが、あんたにはPもSも無理だ。あんたの体では持て余す(僕は170センチ、57キロ)。静かな水面なら良いが、海では、風、潮流、うねり、低温、疲れとの戦いになる。悪いことは言わない、軽くて細い舟にしておけ。あんたの体に合うカヤックは米国製H社のトレーサーしかない。」

僕は、この男なら信頼出来ると思った。そこで、この店でH社のトレーサーというカヤックを買うことにした。

待つこと2ヶ月、8月頭、アンドリュー(大男の店員)が電話して来た.今度は、うれしそうな明るい声だった。
「お前のトレーサーがアメリカからきたぞ。準備しておくから、早く取りにこい。」

僕の赤いトレーサーは全長505センチ、幅60センチ、重さ20キロ。50才になって、ポルシェを買う男もあるだろうし、若い恋人を持つ奴もいるだろう。だけど、僕の恋人は、この細長いカヤックだ。小学生の高学年になって、初めてギア付き自転車を買ってもらった時のように僕は興奮した。5メートルもあるから部屋には入れられないが、ベッドの横に置いて眠りたいくらいだった。

僕の恋人レインボー丸.jpg
赤いトレーサー、僕のカヤック


エスキモーロール

こうしてカヤックは買ったが、メルボルンの8月は真冬でなかなか海には出られない。

そんな矢先、ビクトリア・シーカヤッククラブから、「冬期エスキモー・ローリング講習会、於ラトローブ大学温水プール、初心者歓迎」という知らせが舞いこんだ。いよいよ来る時がきた。さっそく、「出席」の返信メールを出した。講習会の晩、車の屋根にトレーサーをくくり付け、ラトローブ大学のプールに向かった。「よし、やるぞ!」

エスキモーロール講習会、於ラトローブ大学プール

大学のプールに着くと、、いるいる。15隻ほどのカヤックがすでにプールサイドに並び、周りをさまざまな風情の老若男女が取り囲んでいる。
「よろしく。初参加のテツタです」と、年かさの大ヒゲ男に挨拶した。
「おう、俺はボブだ。よろしくな。初心者だって? エスキモーロールなんて、簡単だ。2、3回やれば、覚えちまう。あんたの今夜のコーチは、あそこのピーターだ。あいつは、おっちょこちょいな顔をしているが、タスマニアまで2、3回は渡っているやり手(old-hand)だ。」
僕は、準備に忙しいピーターに手を振った。

その晩の初心者は、僕ともう一人の中年男ロバートだった。ロバートは、ミラージュ580という、6メートルもある大物カヤックを担いできたが、かなり持て余し気味だった。そこへ、ニールという古参クラブ員が、スリックな黒いカヤックで様子を見に来た.
「ロバート、ミラージュなんか乗って、いきなりニュージーにでも行くつもりか? こういっちゃあ何だが、初心者がそんな大きな舟じゃあ、苦しいぞ。」
きたきた。体育会クラブの初心者いじめは、オーストラリアでも健在だ。ニールは、僕の赤いカヤックもちらっと見てこう言った。
「アメリカ製のプラスチック舟か。それで、どこまで行けるかな?」
僕は、ニールには用心しようと考えたが、顔では笑ってみせた。

それより、エスキモーロールの練習だ。僕は、ピーター方に向かって、カヤックで混み合う50メートルプールを恐る恐る漕ぎ渡った。見ると、60代後半、70代ともおぼしき初老のオヤジ(ジジイ?)たちが、使い込んだカヤックで、くるりくるりとロールを決めている。みんな老人のくせに贅肉のないいい体つきだ。加えて、さざ波ひとつ立てずに、たいして力も入れずに、カヤックをくるりと復元させている。すげえなあ!

さて、僕らの講師役のピーターは50代半ばということだが、どうみても40ちょっとにしか見えない。この若さは何だ?
「いくつか手本を見せまーす!」と言って、ピーターは、僕とロバートの前でロールしてみせる。

それから、「さあ、君たちもやってみようねえ!」と、ピーターは明るく言った。
僕たちは、恐る恐るカヤックを傾けつつ、カヤックを限界まで倒してみる。
それから、体を後ろへのけぞらしてみせる。
パドルをホウキのように、前後に滑らしてみせる。
こういったことを何度も、何度も、練習する。
はっきり言って、ロバートも、僕も、動きがぎくしゃく、ひっくり変えるのが怖くて、及び腰になってしまう。
「だめ、だめ、そんな腰つきじゃ!」と、ピーターは怒鳴る.

僕は実は、エスキモーロールに関しては、ずいぶん書籍を読んだし、Youtubeなどでもフォームは研究してきた。中でも、英国人Derek Hatchinsonの書いたSea Canoeingというテキストは、暗記するくらい読んだ。だから、水に入ったら、すぐにロールをマスターしてみせる、と意気込んでいたのだ。溺れそうな犬だって、もう少しましな様を見せるだろう。

「さあ、じゃあ、君たちも、実際に舟をひっくり返してみようじゃないの。じゃあ、まずテツタから、カヤックをひっくりかえして、これまでやったことを連続してできるか、さあ、やってみよう!」と、ピーターがうれしそうに叫んだ。さっきのニールも、黒カヤックの上からニヤニヤしながらこっちを見てやがる。

ちくしょう、見てろよ! 僕は、深呼吸し、パドルを両手で握って、後ろ向きにカヤックをひっくり返してみせた.「どうだ見たか!」、見事に、カヤックごとひっくり返ってみせた自分に一瞬得意になった。

ところがどうだ、天地が逆になった途端、僕には自分がどっちを向いているのか、両手に握ったパドルをどちらに振るのか分からなくなった。頭の中は真っ白、周りは水泡ばかりになった。

僕は、見事に敗北し、他のクラブ員がゲラゲラ笑う中を、無惨にもピーターに引き起こされたのだった。

仲間と荒海に出る図.jpg
仲間と荒海に出て行く図


エスキーロール講習の二度目、三度目

あれから、講習にもう二回出た。初回で見事な敗北を喫したので、二回目はかなり気負って出た.ところが、二回目は、一回目よりももっとひどい敗北だった。僕があまりひどい様だったので、にやけたニールまでが助けてくれた。「テツタ、もしかして、お前さんのパドルが良くないんじゃないの? 俺のを使ってみな」と、ニールは、高価なケブラー製のパドルを貸してくれた。案の定、僕はパドルを振る向きを間違え、ニールのパドルをプールの底で叩き付けて割りそうになった。ニールは青くなり、それ以降、僕に近づくのを止めた(ざまあみろ!)

「君につき合ってると、僕、自分の練習時間がなくなっちゃうなあ」と、親切だったピーターまでが見捨てるようなことを言った。

三回目は、よっぽど行くのを止めようかと思った。それでも、やはりプールに向かった。僕は、こういうときはいつも心の中で思う。”I have nothing to lose.”(失うものなど、何もない)。ピーターは、僕の姿を見ると、プールの向こうにカヤックを漕いでいってしまった.ニールはニヤニヤして、「また来たの?」みたいにウインクしてみせた(こんにゃろ、見てろよ!)。

僕は諦めない。もう誰も教えてくれないので一人で練習した。カヤックをひっくり返しては、水の中に逆さまになる練習をした。見かねて、ピーターが戻って来てくれた。
「あのね、こうしよう。パドルフロート(浮きのようなもの)を付けて練習してみよう」ピーターは言った。

フロートをパドルの右端に付ける.それでひっくり返る.そうすると、何て事はない、逆さまになっても右側が分かるのだ。単純なことだった。印があればいいのだ。僕は、勢いよくパドルを振った。カヤックが半分持ち上がった。

「おおお!」、ピーターが唸った。僕の練習を見るとはなしに見ていた2、3の観客からも声が上がった。まだロールが出来た訳ではないが、どうにか体を起こすこつが分かりかけたのだ。

「やったよ、やったよ、テツタ、その息だ.それでいいんだ。君は、体が軽いからすぐ出来る!」ピーターが握手してくれた。嬉しかった。こんなに嬉しかったことは、今年は、まだなかった。つまり50才になって、一番嬉しかったことだった。

さて、もう10月。僕はエスキモーロールがまだ出来ない。だが、もう2、3回練習を積めば出来るようになるだろう。目標があるということは素晴らしいことだ。

そして、エスキモーロールができれば、少しは波のあるところにも出て行ける。そうすれば、また、少し違った視点から、自分のいる場所を見ることができるだろう。

メルボルンはもうすぐ夏だ。

カヤック製作中.jpg
今、カヤックも作っている

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2012年09月10日

スタマティスに会ったこと

2012年9月10日

ひと月ほど前、8月のある冷たい霧雨が降る日の午後、リンゴロウと二人でベルグレーブ図書館から出たところで、スタマティスにばったり会った。16才の息子のルカと一緒だった。2年ぶりか、3年ぶりか、久しぶりだった。
 あれれ、スタマティスはギリシャにいたんじゃなかったっけ?と、とっさに僕は思った。
 「久しぶりだね(Long time no see.)。 元気そうだな。こっちにはいつまでいるの?」
 「いつものようにルカに会いにきた。今週末までいる。」
雨も降っているし、改めて後で会うことにして握手をして別れた。
 スタマティスは、拙著『ヤギのアシヌーラどこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)という絵本の主人公のモデルだ。絵本では「ものぐさじいさん」という役だが、彼が飼っていた雌ヤギのアシヌーラにもモデルになってもらった。ものぐさじいさんの飼ヤギが、近所の人に借り出されて居所が分からなくなるが、最後はいろいろお土産を抱えて帰ってくると言う、田舎特有のバーター(労力と物々交換)のことを描いた絵本だ。

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近所のヤギさんたち

 もちろん、絵本のお話と実在の人物に直接のつながりはない。ただ共通点は、絵本のスタマティスも実在のスタマティスも、ものぐさなのだが、案外目先がきくことかもしれない。
 実在のスタマティスは、ギリシャ人の元船乗りでヨットマンだ。アラスカで日本の遠洋漁船に乗っていたこともあるし、東南アジアや地中海をカタマランのクルーザーで放浪していたこともある。つい最近は、若いタイ人の奥さんとギリシャのミコノス島でチャーターヨットの船長をしていた。

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 「地中海でのお客は、ロシアのマフィアとか金満アメリカ人だ。日本人は時間がないから来ない」と言っていた。
 スタマティスは、そんな好き勝手なことをして暮らしている男だ。勤めるとか、早起きしてジョギングするとかは一切しない人間だが、不思議に魅力的な生き方をしている。一つは、一所には根付かず、心の中に羅針盤を持っているみたいに、自分の欲求や意志にしたがって、どこへでも行って住み着いてしまう。面倒なことが嫌いだから、定職もないし財産もあまり持たない。でも、それを引け目に思うこともない。それで、どっこい、ちゃんと生きている。半年に一度しか会わないにせよ、息子もいる。スタマティスには、親切で人懐っこいところもあるから、人に少しくらい迷惑をかけても、彼のことで本当に腹を立てる人も少ないだろう。彼のような生き方は、僕にはとてもできないが、だからこそ魅力的で、ときどき会って話をするのが楽しみな友達なのだ。
 2、3日して、僕たちはベルグレーブの喫茶店で再会した。
 「どうだい、ギリシャは? 景気はずいぶんひどいらしいな」と、僕が言うと、「いやあ、俺はもうギリシャからは出て、2年前からタイのチェンマイで暮らしている。かみさんの実家の近くだ。農業だよ、今は農業」と、スタマティスは笑った。
 「え? じゃあ、ヨットのビジネスは?」と、僕は驚く。
 「とっくに止めた。もう海はいい。チェンマイには海がないから清々したよ。ヨットは、スペインで売っちまった。ひどい安値だったが、タイで家を建てるくらいにはなった。船は手がかかりすぎる。」
 確かにスペインの景気も悪い。だが、僕は本当に驚いた。スタマティスは心底船乗りだったからだ。昔このベルグレーブに住んでいた時も、海がないので、鬱病になりそうだと言っていた。朝からシーバスリーガルのボトルを抱いて、ぼんやりしていたこともある。それでも、別れたオーストラリア人の元妻との間に息子のルカがいるから、仕方なく山間のベルグレーブにいたのだ。しかし、その時でもブリスベンにヨットを係留していて、チャーターのお客が現れると、飛行機でブリスベンに飛び、グレートバリアリーフでも、ハミルトン島でも、どこでもお客を連れてひと回りしてくるのを商売にしていた。
 「海は最高だぞ。特に一人で出ているときはな。トイレのドアを開けっ放しでウンコをしても、とやかく言う女だっていない」と、彼は言っていたものだ。僕も、きっとそうだろうな、とうらやましかった。

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ユーカリの巨木を見ていると気が滅入る、とスタマティスは言っていた

 そういうスタマティスは、女性には手が早くて、オーストラリア人の奥さんと分かれると、すぐに息子の同級生の母親の美人バツイチとくっついた。しかし、彼女とも2、3年で別れ、今度はクルージングで行ったタイのパタヤビーチで知り合ったタイ人女子学生と出来てしまった。スタマティスより30才も若い相手だ。そして、何とその娘と結婚して、ギリシャに連れていってしまった。
 「俺はな、40才台のオーストラリア女には愛想をつかした。我が強くて、気位が高くて、威張ってて。男が尽くして当たり前だと思ってる。その点、タイ人の女性は最高だよ。俺が面倒を見てやれば、彼女も俺の面倒を見てくれる。
(I look after her, she looks after me.)料理でも洗濯でも何でもな。まあ、問題は、タイ人というのは大家族主義だから、彼女と結婚したと言うことは、つまり彼女の親類と結婚したに等しい。だが、俺はギリシャに彼女を連れていくから、その点も大丈夫だ。ワハハ。」
 これがオーストラリアを離れ、ギリシャに戻る前のスタマティスの言動だっだ。ただ、その時の周りの人たちの反応は良くなかった。特に女性の反応が悪かった。
 「全く、あんなニンニク臭い男のどこがいいのかね?若いタイ人の奥さんだなんて聞いて呆れるよ。金の切れ目が縁の切れ目、あのスケベじじいにはすぐ愛想が尽きるに違いないよ」と、前からスタマティスの女癖に呆れていた近所のオーストラリア人女性はこう言い捨てた。僕も、30才も若い奥さんを貰う度胸には驚いたものだ。しかし、今は奥さんの親類に囲まれてチェンマイの田舎で暮らしていると言うから、彼の変わり様にはびっくりした。
 「で、タイの暮らしはどうなのさ?奥さん元気?」と、僕は興味津々で尋ねた。
 「タイの暮らしは、今年で2年目だ。最初は良かったよ。でも段々大変になってきて、どうしようかと思ったが。おれみたいな西洋人がタイの田舎にいると、思いもよらない事だらけだった。でも、今はそれにも慣れてきた。タイ語も少しは分かるようになってきたしな。」
 スタマティスは船乗りだが、全く教養がない訳ではない。ちゃんとドイツの大学で心理学を勉強したこともある。しかし、大学は中退だ。理由は、彼がディスレキシア、つまり失読症、あるいは難読症と言われる障害を持っていることが判明したからだ。
 「いくら勉強しても、ちっとも頭に入らない理由が分かってほっとしたよ」と、スタマティスは自分の障害について言っていた。
 スタマティスは、書いてあるものはあまり読めない。海図や地図は、目の前にある部分はどうにか読めるが、ページをめくったとたん、前のページにあったことを忘れてしまう。よくそんなでヨットを駆って海を渡ることができたと思うが、そこは年期の入った船乗りだから、動物的な「勘」があったのだろう。
 だからスタマティスは、言葉はみんな耳から覚えてしまう。ギリシャ語は母語としても、英語はぺらぺらだ。ドイツ語もうまい(らしい)。スペイン語やイタリア語やフランス語もそこそこできるようだ。そして今はタイ語だ。障害があるのは大変だが、逆に他の能力で補うから、語学力がつくのかもしれない。
 ヨットの腕だって大したものだ。オーストラリアからギリシャに戻った時もヨットだったし、人のヨットを回送して、タイからブリスベンとか、インドネシアからメルボルンとか、しょっちゅう航海していた。僕だったら、その一つをしただけで大冒険だが、スタマティスは、ちょっといなくなったと思ったら、北アフリカかどこかまで行っていたなんてことがしょっちゅうだった。

シオマネキ.jpg
オーストラリアのシオマネキは何語を話すのか?

 タイの話に戻る。 
 「奥さんはどうしてんの?楽しくやってんの?」
 「タン(奥さんの名前)は、すごくハッピーだ。彼女は、ぜんぜん何もしてないからな。」
 「毎日何してんのさ?」と僕.
 「テレビを見てるんだ。タイ語のくだらないお笑い番組さ。俺には分からないから、うるせぇって言ったんだ。そしたらヘッドフォンを買ってきて、それを着けて見ている。それと、ケータイで友達か家族とおしゃべりだ。まるでケータイと暮らしているみたいだぞ。だが、俺の世話はしてくれる。食事も、洗濯も、掃除もな。タイの女ってのは、そんなもんだ。」
 「王様みたいじゃないか。」
 「ああ最高だ。でもなあ、鉄太、引っ越した時は驚いたぞ。オヤジとオフクロが持っている素敵なチーク材でできたバンガローに住まわせてもらったんだが、ひっきりになしに人がくる。いつも村の誰それが家にいるんだぞ。両親や親戚が来たら一緒に寝る。文字通り一緒にだぞ。バンガローだから、外がよく見えるが、外からも丸見えだ。俺たちは二階に住んでいたから、一階で煮炊きが始まれば煙でいぶされる。雨は入ってくる、風は吹き込んでくる。野良犬も来る。ブタだって来る。一見かっこいいが、プライバシーってものがない。全然ない」。
 いくら元船乗りでも、ヨーロッパ系人種には、プラバシーがないのは堪えられないだろう。僕だってそんなのは嫌だ。
 「だから船を売った金で家を建てたんだ。小さなバンガローだ。陽で乾かしたレンガを積んで作った家だ。これはいい。煙も入ってこない。それと犬を飼った。ドイツのドーベルマンだ。そいつを庭先に放しておけば、人も入ってこない。絶対にだ。」
 僕はその光景を想像しておかしくて笑ってしまった。
 「アハハ。じゃあ、ドーベルマンの餌は、哀れなタイ人ってわけかい?」
 「まさか、そんなひどいことをする訳ないだろ。周りの村人たちとはうまくやっている。みんな友達だ。」
 「でも、お前さんの家には入れないんだろ?」
 「呼んだ時しか入れない。それが、礼節のある近所付き合いってもんだ。」
 「農業ってのは、何をやってんだ?」と僕は尋ねた。スタマティスは、一瞬顔を曇らした。
 「そうだ、それだ、問題は。農業だ。俺はタンの父親と、つまり義理の父と、ライチー栽培をするつもりで、20エーカーのプランテーションを買うところなんだ。」
「すごいね。それだけあれば左うちわじゃないか。」
 「まあ、そういう予定だ。軌道に乗ったらライチーは中国へ輸出する。中国人はライチーの実が大好きだから高価で買ってくれる。そして、頃合いを見計らって農園も売っぱらう。ところが問題は、チェンマイの田舎では、誰も金を持ってない。うちの義父にしたって、ぜんぜん金がない。普段は現金なんかなくても暮らせるからな」と、スタマティスは顔をしかめて言った。
 「じゃあ、お前さんの持ち金をそれに使うってわけかい?」と僕。
 「いや、そんな間抜けなことはしない。だから、今はその金策を考えているところさ。どっちみち20エーカーの農園だって、今は荒れ地だから大した額じゃない。そして、そこを整地して果樹を植え、最後は売っぱらって、差額で儲けようって腹だ。だから金は戻ってくるはずだ。」
 「戻ってくるはずか」僕は相づちを打った。
 人生の惨いところは、そういう「はず」というものは、しばし外れるものであるところだろう。しかし、船乗りだったスタマティスは、不測の事態には慣れているはずだから、そんなことは納得ずくに違いない。メルボルンでウイスキー浸けになっているよりずっと良い。
 僕はそこまで話したら帰る時間がきたので、具体的な金策については聞きそびれた。実際スタマティスにだって、何か考えがあったとは思えない。 
 僕たちは霧雨の中でまた握手した。スタマティスは船乗りがよくかぶっている丸い毛糸帽を耳までぐっと引っぱりおろしながら、「冴えないなあ、メルボルンは。チェンマイに遊びにこいよ」と言った。
 「そのうち日本に帰る時、バンコク経由で帰ることにするよ」僕は、本気でそう言った。
 「そうしろ。チェンマイはバンコクから飛行機でたったの1時間だ。うちのバンガローに泊めてやる。」(僕は、豚に添い寝されている自分を想像して身震いした。) 
 それから、スタマティスは喫茶店の真ん前に停めてあった20年前の型のカローラに乗り込んだ。ドアを開ける時、ギーッときしむ音がした。これは「爆弾レンタカー」(rent-a-bomb)と呼ばれる、廃車寸前の中古車を使った安いレンタカーだ。スタマティスのもうひとつの哲学は、「なるべく歩かない」だから、短期滞在でもレンタカーを借りる。そして、車は目的地の真ん前に駐車する。
 やがて、青い排気ガスを吐いて、爆弾カローラは雨の中を走り去った。
 僕には、また遠からず、スタマティスがこの「冴えないメルボルン」に戻ってくるんじゃないかという気がしてならない。
Who knows?
 
メルボルン遠景.jpg
冬の海とメルボルン遠景
posted by てったくん at 11:42| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記