2015年08月25日

そして一年、音楽に癒されながら

2015年8月24日

音楽による治癒力を実感したのは、今年6月に行われたカヌーマラソンに出場した時だ。そのときは、歌うことで体の痛みが確実にとれたからだ。

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Riverland Paddle Marathon(略してRPM)は、南オーストラリアのマレー川で開催される、三日間全長200キロのカヌーマラソンだ。僕は昨年と今年と二度出場した。昨年2014年はリレーチームの一員で、200キロのうち70キロを漕いだ。今年2015年は、自分一人で三日間かけ、カヤックで半分の100キロを漕いだ。 (10、50、100、200キロと距離を選べる)。

100キロを漕ぐ場合、初日は36キロ、二日目は27キロ、三日目は32キロの行程となる。初日の36キロが最長である。これまで一人で一度に漕いだ最長距離は28キロ、2人乗りでも50キロ、だから単独で36キロは未知の世界。体調も良く、トレーニングもして漕ぎ切る自信はあったが、本心は「当たって砕けろ」という気分であった 。
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初日。案の定30キロ漕いだところで右腕が完全に音を上げた。痛くてパドルが上がらない。しかし、最終チェックポイントはもう過ぎたし、 見渡せば川の両岸はどこも原野。ここで棄権しても助けは来ない。あと6キロ、這ってでもゴールまでたどり着かなくてはならない(水上では這えないけれども…)。

そのとき、ふと昔の記憶が蘇った。大学時代、僕はワンダーフォーゲル部だった。合宿で山に入り、誰かがへたばり始めると、歩きながら歌を歌わされた。縦列で歩きながら、前から順番に大声で歌う。「よし、つぎは、わたなべ!」と先輩に言われると、山の歌でも、アニメの主題歌でも、水戸黄門のテーマでも、大声で喉も裂けよと歌わなくてはいけない。

ところが、大声で歌っていると辛さが軽減し、力が湧いてくる。今でも覚えているが、大学一年の夏合宿で大雪を縦走した時、最後の下りで先輩が足首を捻挫した。そこで一年生男子は、交代で先輩の分と二人分のザックを背負うはめになった。その日は長い尾根を苦しみ抜いて下ったが、歌を歌って乗り切った(まるで軍隊!)。

そんなでRPMのときも歌を歌うことを思いついた。どうせ周りには誰もいない。最初は、ギターで弾くので歌詞を暗記しているサイモンとガーファンクルを2、3曲。それからニール・ヤング、イーグルス、ディラン、続いてビートルズ、ジョン・レノン、ウィングス、トラベリング・ウィルベリーズなどの洋楽。ここらで覚えていた英語歌詞がほぼ枯渇したが、荒井由美、オフコース、山下達郎、佐野元春、井上陽水、RCサクセション、高田渡、吉田拓郎、イルカ、かぐや姫などのJ-POPのレパートリーがけっこうたくさん記憶にあった。やっぱり日本語はしっくりする。それからは、カラオケでよく歌ったペドロアンドカプリシャス、ハイファイセット、寺尾聡なんかも登場。だが、ついにそこらで本当にネタ切れになり、今度は、ためらいつつも松田聖子、森進一、アグネスチャン、西城秀樹、キャンディーズ、小柳ルミ子と、かなり深く、遠い世界までたどり着いてしまった。

だが、効果は絶大で、カヤックを一人漕ぎながら30曲ばかりも歌っていると、あれほど痛かった右腕の痛みは完全になくなり、6キロ先のゴールもすぐに見えてきた。チームメイトたち(僕は、Push’n Woodという中高年カヌーチームの一員)は、首を長くしてなかなか到着しない僕を待ってくれていたが、僕がバート・バカラックの「雨に濡れても」を陽気に歌いながら現れたので、みんな鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をしていた。僕は、「もっと漕いでいたい!」と一人でハイになっていた。

そんなで、音楽の癒す力を、身を以て体験している。

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ベニス・ビエンナーレで

ここで、シリアスな話で恐縮だが、ちょうど一年前、弟の光太がぽっくり亡くなった。命日2014年8月22日、39歳だった。

弟が亡くなったとき、僕はオーストラリアにいた。光太は亡くなる直前にオーストラリアの僕と、横浜にいるもう一人の兄弟の光哉に電子メールを送っている。それにはこうあった。

「 こちらは暑い日、涼しい日の繰り返しで夏バテ気味です。あさってライブなので気力をためています。そんなわけで私はまあまあ元気です。」

こう読むと、体調が良くないことを自覚していたことが分かる。その2、3時間後、突然光太は亡くなった。(光太は複数の重篤な持病を抱えて闘病中で、結局そのために亡くなっている。)

このメールにもあるように、光太はライブを2日後に控えていた。このことは、僕にいろいろなことを考えさせる。ひとつは、ライブに出られなかったことは残念だったろうということ。もうひとつは、結局ライブ出演はできなかったものの、人生の最後2、3ヶ月間、大好きな音楽という生き甲斐があったことは大きな喜びであったのではないかということだ。病気を持って生きる辛さを音楽が癒してくれたのではないか。

光太は、中高から大学時代を通してバンド活動をしていた。高校時代の友達とは「D」というロックバンドをやっていた。そのバンドは、つい最近まで活動していた。光太自身は、地方の大学院に行き、その後も仕事が忙しくなって、ずいぶん前に「D」は辞めていた。だが、光太がいない間も「D」は継続し続け、光太が病気になって何年か経った昨年は、そのバンドをやっていた光太の友人たちが、光太の闘病生活からの回復と社会復帰を計って、2014年8月24日にライブを企画してくれたのだ。

もちろん光太自身もその計画に喜び、ベーシストとして参加することになっていた。その練習の映像が残っているが、光太はベースでハードな曲をがんがん弾いている。僕は、それをビデオで見て、光太が本当に復活するかもしれないと期待を抱き、「ひょっとしたら、ひょっとするぞ!」と思って喜んだ。

ところが、ライブ二日前のリハーサルに光太は現れなかった。バンドのリーダーH君は、仕方なく光太の親友M君にベースの代役を頼んだ。ライブ当日も光太は現れなかった。そのときはもう亡くなっていたからだ。

光太亡き後、彼のアパートには、ギターやベースが数本、CDやカセットが数百本残されていた。H君がグレッチのエレキを引き取り、光太の甥であるマア君が白いヤマハのエレキを引き取った。あとは処分した。僕は、光太が演奏していると思われる「D」のカセット数本を形見としてもらった。

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形見の楽器たち

そうやって、光太は僕たちの前から永遠に姿を消した。

それから一年。今年7月から8月、僕は数年振りに家族と夏のヨーロッパを旅行した。一ヶ月も旅行をするのは何年振りだったろう。僕は、その間全くの風来坊的旅人に徹し、観光の予定もあまり立てず、何も生産的な活動はしなかった。でも、かえってそれが楽しかった。

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パリ、ベルサイユ

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南仏サン・アントニン
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南仏サン・アントニン、妻のチャコの作品
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南仏サン・アントニン

その帰り道、日本へも立ち寄った。光太の一周忌をするためだ。横浜の弟の家に泊まった際、甥の部屋に光太の形見の白いヤマハがあった 。白いエレキなんて正直趣味が悪いと思うのだが、懐かしくて僕はそれを抱きかかえ、はっぴいえんどの「夏なんです」という曲の、ちょっと複雑なコードを弾いてみた。それは昨夏光太が亡くなった頃よく聴いていた曲だ。アンプを通さないエレキギターの生(き)の音は、ほとんど聞き取れないほどか弱い乾いた音で、そのせいで、かえって魂に直接響いてくる。

今思えば、そのときのギターの小さな音は、光太がどこからか僕に語りかけた言葉だったに違いない。僕は、そのときから無性にまた音楽がやりたくなった。

光太と以前に、酔っぱらってジャムったことが2、3回ある。まだ光太がかなり元気だった頃だ。僕が一人で日本に帰国した際、夜中に二人でギターやベースを抱えて即興演奏をした。僕が夜更けに成田から多摩の実家に着くと、ふたりで飲み出して(主に僕が)、気がつくと二人でギターを抱えて歌っていたこともある。大概は全くのデタラメ即興演奏で、僕らになじみ深い京王電鉄の駅を新宿から順番に歌ってみせたり、光太が病気のリハビリのために働いていた豆腐屋の仕事をブルースにして歌ったりだった。

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15歳の光太、アメリカ、メイン州の友人宅で

そのあるとき、こう光太に言われた。

「てったくんのギターは、まるで白人が無理にブルース弾いているみたいだね」

軽い気持で言っただけだろうが、僕は13才も年下の弟にずばっと言われて返す言葉もなかった。全くその通りだったからだ。僕のギターは全くのまねっこで、気持もそんなにこもってなかったから。一方、光太の弾くギターやベースはすごく荒削りで、気持がこもっていた。そこには喜怒哀楽があった。

それからしばらく僕はギターには触れなかった。まるで弾く気もしなくなった。音楽はもう聴くだけにしようと思った。
 
だが、光太が亡くなってから、何度も音楽に助けられ、その力を信じられるようになった。そして、今度は、今までやらなかったジャズをやろうと考えた。ジャズは聴くのは好きだったが、理論が面倒だから自分には無理だと思い込んでいた。でも、ジャズの真髄はインプロ、すなわち即興演奏であり、ジャズをやることは、一定のスケールやコード進行は守りつつも、あくまで自分の表現をすることだ。真似はあり得ない。誰かがやっている演奏を真似ても、それはジャズとは言えないだろう。また気持が込もっていなければ、良い表現にならない。(それはどんな音楽や芸術でも同じだ)。だから、僕が最終的に目指したいのは、上手に楽器を弾けるようになることだけでなく、何かを音楽で表現できるようになることだ。どんな稚拙であってもだ。音楽は、人によって定義が違うだろうが、今の僕にとってはそういうものだ。

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ベニスでは、街のざわめきの向こうから、いつも生の音楽が聞こえてくる

実は、光太が亡くなったとき、僕は驚きや混乱で、ほとんど涙を流すことさえできなかった。こんなこと書くと不謹慎かもしれないが、あのときひと思いに号泣できていれば、どんなにか気持がすっきりしただろう。

そんな僕であったが、今は、渾身のジャズの即興演奏を聞いて「おお、すげえ!」と興奮もし、時には感情が緩んで涙ぐんだりすることもある(ちょっと危ない?)ギターもまた弾き始めていて、難しいと思っていたジャズのスケールを練習したり、とても覚えられないと思っていたコードを覚えるのに苦心したりしている。まだ、山の麓を歩いている様なものだが、楽しくて仕方がない。そして、今度こそ「お前のギターはまねっこだ」などと言われないようになりたい。

そんなで、ひょっとしたら、これが自分にとっての癒しのプロセスなのかなと思ったりもしている。

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ダブルベースは大きいから、誰かがかついでいると、ベースが一人で歩いているみたいだ(東京、五反田で)
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2015年05月20日

木で作る、自分で作る

2015年5月20日

この間、日本から来た女性が我が家に遊びにきて、僕と息子の鈴吾郎が作っているボートを見て、「こういうのを作るのが仕事なんですか?」と言った。いろいろなものを作るのが趣味だが、「仕事ですか?」と言われたのは初めてだ。悪い気はしなかった。

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でも、僕にとって木工とかボート作りはあくまで趣味だから、仕事にしたいとは思わない。そもそも僕は職人的な木工が不得意で、 作る物と言えば寸法もきっちり計ってないから、歪んでいたり、隙間があいていたりする。決して売り物なんかにできない。

それでも、この間作った仏壇はなかなか良い感じに仕上がった。姫路のお寺の和尚さんである友人が、オーストラリアで仏壇を作っていると聞いて、高価なお曼荼羅と仏具をわざわざ郵送して下さった。感謝感激である。幸い関税も取られなかったが、オーストラリアの税関の人たちだって、仏具に課税したら罰があたると思ったに違いあるまい。

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僕が作る物は概ね材料は木であるが、高価な材木は使わず(使えない!)、合板やホームセンターで手に入る松材や廃材を使うことが多い。結婚して公団の団地に住んだ時は本当にお金がなくて、家具の殆どは手作りであった。その時のダイニングセットは、女房がアメリカ留学から帰ったときの引っ越し荷物が入っていたクレートで作った。でも、そんなことをするのが、昔から好きなのだ。

そんなで、これまで、ずいぶんいろいろな物を作ったが、ふと思いついて作るだけなので、それほど長持ちしない物も多く、失敗作もある。でも、ただ同然の材料だから、失敗したって 壊れたってどうってことない。

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息子の学校のピザ・オーブンはみんなで作ったが、この扉は僕の作(これも廃材)

僕の現在の趣味は、カヤック/カヌーである。海や湖を漕いでまわる小さな細長い舟だ。今は4隻持っているが、2隻は自分で作った。(現在、息子とモーターボートを作っている)。中でも、最初に作った2人乗りのカヌーには一番愛着がある。でも、一番性能が良いのは値段の張るプラスチック製のシーカヤックである。これはいかにも「プラスチックでこざい」といった風情のもので、木製の優雅さがない。色もデザインも過激だ。でも、海に出るときは命を預ける訳だから、丈夫で安定性が優先する。だからいくら過激でも、買ったもので我慢している。本当は、シーカヤックも木で作りたいのだが、僕の技術ではまだちょっと無理だ。

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自作第一号タンタン丸

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作った二隻と買ったシーカヤック(赤いやつ)

でもカヌーとカヤックのパドルは作ってみた。最初に作ったのは、 カヌー用の「ビーバーテイル」という形のパドルで、これは2人乗りのカヌーを静かな湖などで漕ぐとき使う。それでも昨年は、南オーストラリアで開催されたカヌー200キロのリレーレースに出た時はこの自作パドルで出場したが、ちゃんと完漕できた。自作パドルで出場しているのは僕一人だけだったから、少し鼻が高かった。

昨年もう一本作ったのは「グリーンランドパドル」と言われるシーカヤック用パドルだ。棒みたいなので、スティックパドルとも言われる。これはホームセンターで売っている安いツーバイフォーの松材を使ったので、材料費は1500円くらいしかかかってない。完成品を買ったら2万円以上はするだろう。カーボンなら5、6万する。

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自作パドルと買ったパドル、僕のギター

僕だってカーボン/グラスファイバー製のカヤックパドルを一本持っている。ワーナー社製(アメリカ製)の5万円のパドルだ。800グラムしかなく、羽のように軽い。二年前に買ったが、値段だけあって素晴らしい使い心地だ。海に出て行く時は、主にこれを使ってきた。

ところが、最近、制作費1500円のグリーンランドのお株がぐっと上がっている。グリーランドパドルは細身なので、海で潮風が吹いているときでも風にあおられないので、漕ぎやすい。細いから、漕ぎ始めはなかなかスピードが上がらないが、いったん巡航速度(時速6キロくらい)になってしまうと、 細身ゆえ肩に優しく、長時間漕いでも疲れにくい。一方、カーボン製のワーナーで漕ぐと、ブレードの幅が太いので初速から早いのだが、その分肩の負担が重くて、疲れやすい。それに風があるときは、水の外に出ているブレードが風にあおられて舟がぐらぐらしやすい。まあ、こういうものはすべて一長一短あって、万能のものはない。

そこで、試しに友達にGPSを借りて、手作りパドルとカーボンパドルを湖で漕ぎ較べてみた。すると驚いたことに、1500円の自作木製パドルも5万円のカーボンのパドルも、一周二キロの湖を漕いでまわる速度はほとんど同じなのだった。(ということは、松材でなくて、檜や柳などのもっと良い木材を使って、軽くてしなるパドルを作れば、カーボンより早いかもしれない。やってみよう!)

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これはいつも漕ぎに行く湖の柳の木


とにかく、ハイテク製と木製とどちらが良いかと聞かれたら、木製が好きだ。

もうひとつ、(自分で作った物ではないが…)僕の宝物は、古いヤマハのフォークギターである。昨年東京の実家を処分したので、引っ越し荷物に入れてオーストラリアまで持ってきた。さすがに捨てるに忍びなかった。

中学一年のときに両親に買ってもらったギターだから40年前のオールド・ギターである。当時2万5千円だったことも覚えている。ずっと実家に置き去りにしてあって、手入れもしてなかったから、すごくぼろぼろだった。こっちに持って来てから塗り替えようかと思ったが、試しに家具用の油で磨いてみたら、渋くて良い色になった。塗り替える必要などなかった。ボディに小さな穴も開いていたが、これもパテで埋めてきれいにしてやったら、昔よりはるかに良い音で鳴るようになった。奮発して、エリック・クラプトンも使っているマーチンの弦を張ったら、最高に良くなった。

僕がもう一本持っているギターは、オベーションというアメリカのメーカー製で(韓国製だけど)、ボディの表は木だが、裏と側面はファイバーグラスで出来ている。いわゆるエレアコと呼ばれるギターで、アンプに通して電気ギターとして演奏することもできる。軽くて、しゃかしゃか澄んだ音がするが、古いヤマハみたいな、しっとりと深い良い音はしない。

きっと、プラスチックのギターは1000年たっても同じ音がするのだろう。でも、木製の物は、壊れてもかなりのところまで直すことができる。そこがケチな性分の僕に合っている。それに、直せない程壊れたら、燃やして灰にしてしまえばいい。あるいは、そこらの薮にでも放り投げておけば、いずれ腐って土にかえるだろう。

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これは息子のリンゴロウが8歳くらいのときに作った自動車

それが木製の潔さだろうし、ものの道理であろう。木製のものは、たとえそれが「物」であっても、生き物みたいな手触りと親しさを感じる。鉄製のものもそう悪くないかもしれない。でも、プラスチックやカーボンとなると、そんな親しみは全くなく、使っているうちはまだしも、いったん壊れてしまうと、どれほど愛着のあった道具だったとしても、ただのゴミと化す。それどころか、プラスチックやカーボンは燃やせないし、朽ち果てないから、本当に始末に悪い。









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2015年04月27日

仏壇作り

2015年4月20日

初冬。今、仏壇を作っている。

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製作中の仏壇

両親があの世に行って何年もたち、昨年東京の実家も処分した。そのとき、実家にあった古い大きな仏壇も処分せざるを得なくなった。そこで、中に入っていた位牌の行き先が問題となった。僕のすぐ下の横浜に住んでいる弟は、「親父とお袋の位牌はおれが引き取るよ」と言ってくれた。末弟は、「じゃあ、おれは『渡辺家先祖代々の霊』の位牌を受け持つよ」と言ってくれた。 独り者の末弟は、実家に住んでいたのだが、家を処分することになって世田谷に引っ越していた 。オーストラリアに住む僕は、海外と言うことで、位牌の引き取りは免除され、密かに「ああ、良かった」と思った。

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実家にあった仏壇

ところが、「渡辺家先祖代々の霊」の位牌を引き取ってくれた末弟が、実家を処分して半年後の昨夏に病気で急死してしまった。思わぬ事態であった。

もちろん、亡くなった弟の位牌も作った。彼も両親と一緒に、横浜の弟の家の仏壇に入った。ところが、「渡辺家先祖代々の霊」の位牌の行き場がなくなってしまった。どうしてそんなことになったかと言うと、横浜の弟の家にあるのは、小さくて新しい、モダンな仏壇なのだ。この仏壇は、両親二人の位牌にちょうどの大きさなので、亡くなった弟の位牌も入れると、もうギュウギュウの満員なのである。これには困った。

「大きな仏壇に買い替えてよ。お金は出すから」と僕が言うと、横浜の弟は、「嫌だよ、そんな大きな仏壇をリビングに置きたくないよ」と言う。弟の家は、かっこいいモダンな新築の家なのだ。それに横浜の弟は、名古屋かどこかの仏壇屋さんと、もうすでに一門着起こしていたのだった。どういう経緯かと言うと、最初に仏壇を注文した時、父の位牌(かなり背が高い)の大きさを測り間違えてしまったのだ。だから、送られてきた仏壇に、父の位牌が入らなかったのだ。まさか、父の位牌をノコギリで切って、背丈を短くする訳にはいかない。そこで、仏壇屋に取り替えてもらおうと連絡したら、「ちゃんと大きさを測ってから注文して下さいって、ウエブサイトに赤字で大きく書いてあるでしょ! 位牌の大きさを間違えるなんて、不信心にも程がある」と、こっぴどく叱れたのだった。弟は、平謝りに謝り、それでやっと 取り替えてもらったのだ。だから、今更その仏壇を「下取り」に出して、さらに大きな仏壇に変えて下さいなどと、とても言えないのだった。

そういう経緯だったから、僕もそれ以上の事は言えなく、昨暮、「渡辺家先祖代々の霊」をスーツケースに入れ、メルボルンに連れ帰ったのである。渡辺家の先祖の霊たちは、ジェットスター航空の成田−メルボルン直行便、最新型ボーイング787ドリームライナーで、オーストラリアへ移住したのだった。

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そんな訳で、仏壇を作っている。いくらオーストラリアにいたって仏壇くらい買えばいいじゃないかと言う人もあるだろうが、ご先祖様も、子孫が心を込めて作った手作りの仏壇に入れば、悪い心持ちではない筈だ。(断じて仏壇代をケチっている訳ではない。)ちなみに、父の実家は12人兄弟姉妹で大家族だったから、渡辺家の先祖はいったい何人になるのだろうか。それに、この位牌を、いつ誰が作ったかも分からないので(かなり古そう)、本当にどれだけのご先祖様がここに入っておられるのか分からない。しかし、そんなことを気にしたって仕方ないがないから、暇を見て作業を進めている。

その仏壇の材料だが、息子と製作中のモーターボートの残りの耐水ベニアである。ボート用の最高品質のベニアだから、ご先祖様にも異存がないことを祈っている。失礼のないように丁寧に作っているが、何分素人仕事なので、格調高くなどとはとても望めない。それどころか、ぴちっと寸法が合わなくて、隙間があったりする。 でも、僕のご先祖は、きっと物わかりの良い人ばかりだから、大丈夫な筈だと信じ、真心込めて仕事にかかっている。

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ボートはなかなか完成しないが、仏壇作りは意外に早く終わりそうだ











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2015年04月07日

餃子の夕べ

2015年4月9日


「秋深し」のメルボルン。世界ではいろいろなことが起きているが、ここベルグレーブでは、とある晩秋の夕べ、日系家族が集まり、せっせと餃子を作って食べたのだった。4家族、親8名、子ども9名、総勢17名だったが、各家族平均90個程度の餃子を作ったので、全部で400個くらいできた。(もしかしたら、もっとあったかもしれない。)

オーストラリアにあっても、子どもは餃子が大好きである。もちろん、日本のように手軽にスーパーのお惣菜売り場や「餃子の王将」で餃子を買ってくる訳にいかないから、ひたすら自分達で作るのである。

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我が家では、餃子を割にしょっちゅう作る。息子鈴吾郎の好物であるからだ。鈴吾郎の好物は、スキヤキ、焼き肉、ピザ、スパゲッティミートソース(オーストラリアでは、スパゲッティ・ボロネーズと呼ぶが、さらに「スパグボロ」と短縮する )、それから餃子である。これらを繰り返していれば、鈴吾郎はハッピーなのだ。

その鈴吾郎が待ちこがれているのが「餃子パーティー」である。これは数年前に始まった「行事」だが、私の主催する「メルボルンこども文庫」に参加している2、3の料理好き家族があるとき集まって「餃子をたくさん作って、子どもたちに思い切り食べさせてやろうじゃないの」ということになって始まった。子どもをダシにした飲み会、というだけのことだが。

そんなことで今年は4、5回目だと思うが、餃子パーティは秋の復活祭休みの行事になりつつある。この時期になると、鈴吾郎も「餃子パーティーの季節だな」と言い出すのだ。

毎回出席メンバーは少しずつ違うのだが、いつも必ず張り切って登場するのは韓国人のお父さんフンさんである。フンさんは本職がホテルのケーキ職人だけあって、餃子なんかはお手のものだ。「韓国のギョウージャは、モヤシが入っていてシャキシャキ美味しいのよ」などと言いながら、おいしい餃子を山ほど作ってくる。奥さんのマユミさんはベジタリアンだから、愛妻家のフンさんは家ではなるべく菜食に徹している。だから、餃子パーティとかバーベキューの集まりがあると、肉を思い切り食べられるから大張り切りなのだ。

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それから今回は、スリランカ系オーストラリア人のお父さんロシュさんも登場した。ロシュさんは、何年か前に、文庫でやっているキャンプの「カレーの夕べ」に颯爽とデビューした。ロシュさんのご両親は予約制カレーレストランを経営する。だから、さぞ美味しい「スリランカ野菜カレー」を食べられるとみんなは期待したのだった。ところが、そのときロシュさんは,何と日本のハウスジャワカレーで普通の「和風カレー」を作って男を下げたのだった。「ロシュさん、何でそんなカレー作るのよ?」とみなに聞かれたが、ロシュさんは頭をかきかき、「いやあ、子どもが普通のカレーが良いって言うから…」と答えた。

だから、今回もロシュさんの餃子には期待してなかったのだが、どうしてどうして、インド風キヌア入り野菜餃子は、スパイスのひねりも効いていて美味しかった。(奥さんのジュンさんの力作だったようですが)。

我が家の餃子はというと、「キャベツと白菜入り豚肉餃子」で、餃子としては普通の、ストレートの味。それから、女房のチャコは、トーフ入り野菜餃子を作った。フンさん曰く、「日本人の作るギョウージャは生姜の味がするね。韓国人のつくるギョウージャはニンニクの味」。確かに、僕のも女房のも、たくさんショウガをすって入れたから、そう言える。

餃子を焼くのもフンさんの仕事。三百個の餃子を焼くのもちっとも大変じゃない。鼻歌混じりで、ビールをぐびぐび飲みながらフンさんは、焼けた餃子をつまみ食いしながら焼いて、楽しくてしょうがないという風である。

僕も、フンさんの横で、餃子をつまみ食いしながら、ビールを飲む。ビールも、ビクトリア・ビターとか、フォスターとか、そういう安いビールじゃなくて、こう言う時は、この頃出回るようになったマイクロ・ブルワリー系の極上ビールを飲むのである。だから、いくらでも飲めちゃう。

さて、こんがり焼けた餃子は、先ず子どもたちに食べさす。 ムカイさんの奥さんのヒロコさんが山盛りの餃子をテーブルに運ぶと、待ち構えていた子供達が、「わああ!」と言いながら、いっせいに箸でつつく。すると、2、30個の餃子が一瞬でなくなる。「まるでアリ地獄!」とヒロコさん。

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9人のアリ地獄は、200個ばかりの餃子をあっと言う間に食べてしまう。息子の鈴吾郎は、ほんの15分で「俺、23個食った」とゲップをしている。子どもたちは食べるだけ食べると、外に遊びに行ってしまった。

やっと、静かになったので親達は、ゆっくりといろいろな餃子を味わいつつ、歓談。飲み食いしながらの話題は、 必然的に、子どもの教育(ここに来ている家族は、全員シュタイナー学校に子どもをやっている)、教師の噂、子どもの国籍の選択といった真面目な話題から始まり、やがて、 政治とか オーストラリア人の批判、日本人の批判、北朝鮮と韓国の歴史、 麻薬、アルコール中毒、密輸など、段々ディープな話題に発展していく。

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しかし、あくまで復活祭の清くてさっぱりした近所付き合いだから、遊び疲れてお腹がいっぱいになった子ども達が、「眠いよう、もううちに帰るよう!」と言い出せば、親達はお皿を洗って、さっさと帰り支度を始めるという潔さだ。

こうして、今年の餃子パーティも無事に終了した。「やっぱ、フンさんの肉がいっぱい入ったギョーザが一番だったなあ。また食べたいなあ!」と、鈴吾郎は、早くも来年の餃子パーティーに思いを馳せている。

posted by てったくん at 20:14| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2015年02月02日

バーベキューと父親の権威

2015年2月1日

公園での金曜日夕方のバーベキューは、夏時間の間は毎週行われる。主に子どもたちの行っている学校の、ベルグレーブ界隈に暮らす家族が集まる。もう15年程続いているだろうか。多いと10家族くらい、少なくても2、3家族はやってくる。

先週に久しぶりに行ったら、いつものメンバーがたくさんきていた。お父さんたちは、ビール片手に肉を焼き、お母さんたちはピクニックのマットを敷いて、その上で井戸端会議。子どもたちは、公園中を走り回っている。

父親たちの焼きたてのソーセージを食べながらの話題と言えば、夏休みはどうだったの、息子と釣りに行って50センチもあるタイを釣ったの、サッカーのアジアカップでオーストラリアが勝ったとか日本が負けたとか、まあそんなところ。

久しぶりに会ったグレン(仮名)という父親は映像作家なのだが、ティーンエージの娘が拒食症で大変だと言う。「やせ細って死ぬんじゃないかと思ったよ。とにかく今は病院の特別プログラムに入れて、看護師監視の元にリハビリしているけど、今後も難題が多くて、困りきっているよ。とにかくカロリーのあるものは何も食べてくれないんだ」と大弱り。どうしてそんなことになったのか分からないが、肥満が多いオーストラリアでは、若い女性の過食/拒食は確かに大問題だ。

「そんなで、うちもいろいろ大変なんだが、こんなことで落ちこんでいちゃいけないと思ったし、息子(14才)の方とも父子の絆を固めなくちゃいけないからね。それで、息子とキャンプに行っていろいろ話してて、環境保護の話題になったわけ。そしたら、うちの、あのやわな息子がだよ、『父ちゃん、田舎じゃ野良猫や野良ブタや野良ウサギなんかの害獣がいっぱいいて、農家が苦労しているらしい。だから、いっちょう俺と父ちゃんで、憂さ晴らしも兼ねてライフルで、そいつらをばんばん撃っちゃおう 』とか言うわけよ。うちの優男の息子がだよ。あいつがそんな気になるのも珍しいなと思ってさ。でも考えてみたら、それもいい教育になるかなって、俺もまじに考えているわけさ」

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アジアカップ「日本対ヨルダン戦」会場

そしたら、クリントイーストウッドを崩したような顔つきのイアンという父親が「そいつは面白え! うちの息子も、スケボーばっかりやっててからっきし性根がダメだから、是非やらせたい。俺も乗ったぞ」と張り切って、ビールをグビリと飲んだ。

「だが、人家の近くじゃ危ないし、どっか誰かの牧場みたいな広い敷地でライフルがばんばん撃てる場所がないかな?」とグレン。

すると、黙って紅茶を飲んでいたレンガ職人のビルが言う。(ビルは、筋肉隆々の強そうな親父なのだが、酒は一滴も飲めない)。「おれは毎日ジェンブルック村の向こうの山に仕事で行っているが、あの辺りには野生の鹿がいっぱいいるぞ。あれは害獣だから撃ってもいいはずだ。それに、あの辺りは山だから人もいない。鉄砲なんていくらでも撃てるぞ。ただ、鹿はすばしっこいから、人が来るとすぐ逃げちゃうけどな。」

「何、鹿がいるってか? 鹿とは最高だ。肉がめちゃうまい。鹿を撃って牧場の真ん中でバラバラに切り刻んで、その場で焼いて食っちゃおうぜ。ティーンエージャーの息子たちは、ぶるっちゃうだろうけど、最高の教育だよ。サステナビリティーとか、永続的社会とかいってもさあ、自分たちが食っている肉がどこからきてんのか、ここらで一発教えてやんなきゃ、示しがつかねえよ。それに俺たち父親の権威を回復するには最高の機会じゃないの? ねえ、どう、今度の週末みんなで鹿撃ち行かない?」と、グレンが嬉しそうに言う。かなり酔っぱらっているようだ。

とまあ、バーベキューでのお父さんたちは、こんな風に酔って話が大きくなっていくのが常だが、あながち全くのデタラメを言っているのではなく、この中の一人か二人は本気である。ビルもイアンも、ちゃんと自宅に狩猟用のライフルを持っているし。僕は、銃はあまり撃ったことがないので、遠慮しておくことにして、黙って聞いていた。(でも、僕だってアメリカの大学に留学した時は、ライフル射撃の授業を履修して単位を取りました。22口径の小さなライフルだったけど。)

僕の息子は12歳だから、鉄砲を撃つには早いかもしれない。でも、すでに実は銃オタクで、輪ゴム鉄砲を作ってばかりいる。輪ゴムだから危なくはないけど、見た目は本物の猟銃のようなごつい奴を作る。だから物騒だ。僕は、「作っても良いけど、絶対外に持ち歩かないこと。家からは一歩も出してはいけない」と釘を刺している。どうして、うちの息子がそんなに銃好きなのか分からないけど、好きで仕方がないみたいだ。僕も12歳の頃は、銀玉鉄砲はもとより、癇癪玉とか爆竹とかで、親の目を盗んで爆発遊びをしていたけど。でも、もうそういう時代じゃないし、オーストラリではそういうおもちゃは御法度だから、少しでも、僕はそこから息子の関心をそらそうと努力している。今も、そのために本物のモーターボートを父子で作っているのだけど、それでもやっぱり息子は銃が好き。

じゃあ、銃はだめだからと言って、危ないこと全般から男の子たちを遠ざけて家に閉じこめて、勉強とゲームだけさせておけば良いか?さすがに僕も、そんなことは全然思わない。一度くらいは、猟銃で鹿を撃ち、バラバラに解体して内蔵を処理し、焚き火で焼いて食べる、そんなことをしてもいいじゃないかと思う。そもそも、うちの息子も僕も釣りがだい好きで、2週間に一度は行くし、今までに何百匹も釣り上げ、それをかっさばいて食べている。

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息子が釣り上げた立派なシマアジ

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父親の私にさばかれるシマアジ

だいたい、釣りと猟のどこが違うんだ?本質的には何も違わない。ただ、銃では人が殺せるけど、釣り竿では殺せないだけだ。多分ね。(しかし、 動物を銃で撃って殺して、それをナイフで解体するのはちょっと怖いなあ。ニワトリくらいならできそうかな? いや、やっぱり可愛そうだな。)

とにかく、オーストラリアのバーベキューでは、でっかいステーキや、子どもの腕程もあるソーセージを焼いて食べながら、それらの肉が一体どこから来ているのか、というような話題で父親たちは盛り上がるのだ。オーストラリアというのは、そういう場所だし、そういう場所であり続けるだろう。そういう場所で子育て、特に男の子を育てているのは、案外幸運なことかもしれない。

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バーベキューが息子は大好き

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タスマニアデビルは、ニワトリを食べるのが好き(みたい)

一方、お母さんたちと言えば、バーベキューに来てもこの頃はベジタリアン が増え、日本人のお母さん(うちの女房)の作ってきたヒジキの煮物やチラシ寿司に舌鼓をうち、流行しつつある「エダマメ」という食品の食べ方を議論したり、拒食や過食の問題について意見を交換したりしているのである。そんなお母さんたち自身は、決して銃を抱えて鹿を撃ちにいったりはしない。

ところが、オーストラリアのお父さんたちは、菜食主義に傾きつつあるお母さんたちに、全く頭が上がらないのだ。これは一体どういうことなんだろう?

社会の構造というのは、こういう危ないバランスの上に乗っかっているものなのかもしれないですね。

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タマちゃんとネズミ















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2014年12月24日

一人きりのクリスマスイブ

2014年12月24日

家族が日本に帰っているので、今年は一人きりのクリスマスイプだ。明日のクリスマスも一人。考えてみれば、生まれて初めてかもしれない。

午前中はクリスマスのごちそうの買物 。明後日は家族が帰ってくるから、その準備もあるが、今夜は自分一人だけなので、記録的に分厚いステーキを焼いて食べることにした。それも、買ったばかりのウェバーという、アメリカ製の素晴らしいガスバーベキューで焼こうと思っている。ステーキは、骨付きのTボーンで、厚さは3センチくらいで500グラム以上ある。これでたった6ドルであった。物価高のオーストラリアで肉も高くなったが、これは安い。

それにしても、クリスマスのスーパーは、ものすごい人出で殺気だっていた。駐車場に車を入れるのにも、すくんでしまうくらい。駐車場の中に車が溢れていて、空いたらすぐに駐車出来るように虎視眈々と待っている人がたくさんいる。僕は、クリスマスにもめごとも嫌だから、少し遠くに置いて歩いた。中もすごい人。みんな巨大なハムとか七面鳥を買っている。あんなでかいハム、どうして好きなんだろう? オーストラリアのクリスマスは質より量だな。そんなこと考えながら、買うものを買ってレジに並ぶと、こんどは横入りする人がいる。僕の前にちょっと隙間が空いていたからだが、明らかに人が並んでいるのは分かっていたはずだ。でも、面倒だから苦情も言わず。

やれやれと家に帰ると、先週20歳になった娘が、クッキーとケーキを山のように焼いている。今夜はボーイフレンドの家のディナーに呼ばれているとのこと。こうやって娘は、段々父親から離れていく。

「こっちのお皿のやつは、失敗したやつだから食べて良いよ」と、クッキーの失敗作をたくさんいただいた。ボーイフレンドには、ちゃんとしたやつ。父親には欠けたり焦げたりしたやつ。でも甘い物は大好きだから、文句を言わず「ありがとう」と頂く。この頃の僕は、あまり文句を言わなくなった。

お昼になると、 ごはんが無性に食べたくなって炊き込みご飯を作った。干し椎茸でダシをとり、餅米を混ぜて炊いたらすごく美味しく出来た。娘は、「あ、おいしそう!」と歓声をあげて丼一杯食べた。オーストラリア生まれ、そして最近国籍までオーストラリア人になった娘だが、炊き込みご飯は大好きだ。その娘は、クッキーやらプレゼントを山のように抱えてボーイフレンドの家にいそいそと出かけて行った。恋をしている娘は、生き生きとしている。

食後に娘の「失敗クッキー」を食べたが、クリスマスらしくスパイスがきいていて、とても美味しかった。

午後は芝刈りをする。クリスマス明けに妻と息子が日本から帰ってきたら、すぐに10日間ほどキャンプ旅行に行くのだ。これが正しいオーストラリアの夏休み。クリスマスが終わったらキャンプ! だから芝は刈っておかないと延び放題になる。

その後は、畑の水やり。それから、樹木の枝の剪定。それから、畑の雑草抜き。車の洗車。キャンプに持って行く自転車の整備。

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畑のほうれん草が食べごろ

やることはいくらでもある。そうしているうちにもう夕方。やれやれ。さあ、シャワーでも浴びて、ビールタイムにするか、と思ったら、友達から「メリークリスマス!」という電話がきて、しばらく話し込んでしまった。

さて、今度こそシャワーを浴びてビール、と浮き浮きしたら、仕込んでおいた自作ビールの一次醗酵が終わっている頃だ、ということにふと気がつく。そこで糖度を測ってみると、もう瓶詰めしなくてはならない瀬戸際にきている。しかし、これからクリスマスイプにビールの瓶詰めもなんだから、明日に延ばすことに。でも明日はクリスマスじゃないか! でも、いいや。どうせ一人なんだから。それに、明日やっておかないと、明後日はもう女房と息子が帰ってくるし、娘も交えて、家族で遅かりしクリスマスディナーを食べる予定だから、やっぱり明日瓶詰めしておかないと、暇がなくなる。

やれやれ、何でこんな忙しいんだろう。さあ、今度こそ本当にシャワーを浴びて、ビールを飲んで、でっかいステーキを食べようっと。

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猫のタマちゃんがいるから、一人きりではなかった
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2014年11月24日

11月末、初夏の週末

2014年11月23日

「生きているだけでも幸いだと思わなくちゃね」と、出し抜けにロビンが言った。

先週のヨガのレッスンのときだ。ロビンはヨガの先生で昔からの友達でもあり、息子と娘の幼なじみのお母さんでもある。彼女がそんなことを言ったのは、2、3日前に息子のデブリン(小学校六年)が学校で、友達にまちがって喉元を殴られてショックで呼吸困難になり、救急車で運ばれたからだ。幸いデブリンはすぐ回復し、そればかりか、救急車の中で施された麻酔に酔っぱらってやけに陽気になったというおまけがついた。

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チャコの作った、色とりどりの「苔玉」

その日の晩、ロビンはかねてから癌で闘病生活を送っていた友達ローザの家を訪問した。すると、着くなりローザの18歳の娘が玄関に出て来て「お母さんがベッドで死んでるみたい」と言ったそうな。そこでロビンは、またもや看護士を呼ぶやら、身内の人たちに連絡したりで、大わらわだったと言う。

一日のうちに、二度もそんなことがあれば、「生きているだけでも幸いだと思わなくちゃね」と、言いたくもなろう。

そんなで、金曜日はローザのお葬式だった。ローザはまだ51歳、僕もうちの女房も同世代。3、4年前に癌になったが、放射線や抗がん剤は全て拒否、自然の代替医療だけで生存し、死の二ヶ月前まで仕事を続けていた。その分長生きだったのかどうかは分からないが、少なくとも自分の人生は全うしたと意識できただろう。

親しい友人という訳でもなかったが、ローザは、うちの娘と息子が世話になったダンデノン山シュタイナースクールの創設メンバーで、 死ぬまでその事務室に居たし、また 彼女の子どもたちとうちの子どもたちがそこで一緒に大きくなったから、いろいろな意味で「仲間」という感じだった。

ローザの葬式は、メルボルンから1時間ほどのドローインという田舎町で行われた。どこまでも緑の低い山が続くラトローブ渓谷の入り口の町で、ローザはその近くの農場で生まれ育ったと言う。ローザが埋葬された墓地も、見晴らしの良い丘の上にあった。ロビンは、「ここなら良いわね」と、 ローザもここなら安らかに眠れるという意味なのか、 ここになら自分も埋葬されても良いという意味なのか、どちらにもとれることを言った。きれいな田舎だが、 僕だったら、ここに葬られるのはいささか寂しい。

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オーストラリアの古い、古いお墓

僕もつい2ヶ月前に日本で39歳の弟を見送っている。だから、よく生や死について考える。どこに骨を埋めるかというのも問題だが、それは死者自身というよりも、残された人たちにとっての問題かもしれない。僕は、メルボルンの近くの海に散骨して欲しいと思っているのだが、あるときそう口に出して言うと、子どもたちも女房も口を揃えて、「お墓がないと会いに行く場所がない」と不平を漏らした。そこで初めて、お墓は生きている人たちのものなのだと悟った。

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僕の好きなギップスランドの海

とにかく、11月のメルボルンは気候がいい。初夏と言うか、遅い春と言うか、気温もマイルドだし、盛夏の乾燥もまだ始まらないから、樹木は瑞々しく緑も濃い。ローザの葬式の日も、すこぶるよい天気で、彼女には悪いが、買ったばかりの(2005年型の中古だが)スバルの四駆をすっ飛ばしてドライブ気分だった。これまで愛用していた30万キロ走ったトヨタ・カムリはどうなったかと言うと、8月に弟が昇天したすぐあとくらいに、致命傷のエンジンオイル漏れを起こしてやはり昇天したのだった。

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初夏のメルボルン、ボタニカルガーデンで製作中のチャコ

娘と息子をあちこち連れて歩いた自動車を葬るのは寂しかったが、新車がくれば、これはこれで楽しい。このスバルがすばらしいのは、今や「化石」と呼んでも良いようなカセットプレーヤーがまだ付いていて、これで古いカセットを聴けることだ。ドゥービーやらディランやらCSNやらサンタナやらチックコリアやら山下達郎やら陽水やら、70、80年代のカセットがこのスバルの中で見事に復活している。こういうアナログなものは、やっぱりしっくりくる。

週末も良い天気だった。とにかく野外に出ていたくて、土曜は息子とその友達を連れて、息子も僕も好きなフリンダーズまでスパルで釣りに行った。カワハギ、キスなどが上げ潮にのって、ぽんぽんっと10匹程釣れた。潮風に一日吹かれていると、寿命が2、3年確実に延びる。

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翌日曜は、ひたすら庭仕事をした。通りぞいの生け垣がジャングルになっていたので切りそろえた。梯子をかけて、ちょきちょきハサミで切っていたら、隣家のお父さんの退役軍人キースが、「とても見ちゃいられない」と言って、電動庭ばさみを貸してくれた。ところが、電気コードが邪魔で、借りておいて悪いが、とても使っちゃいられない。そこで、またもやハサミでちょきちょきした。昔、日本の実家でも、年に2、3回、植木屋の増島さんがハサミでちょきちょき切っていた。 僕は、増島さんが、超スローに樹木に話しかけながら丁寧に植え込みを切りそろえるのを見て育ったから、この作業はハサミじゃないとダメだと信じている。

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刈った後の生け垣。虎刈りだが、満足

半日働いたら、すごい量の枝や葉が出た。あと2週間すると「樹木ゴミ」の回収があるから、このとき全部出してしまうつもりだ。夏の始まりの時期には有り難いサービスだ。

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これは庭のビワ、初夏の味覚

生け垣が終わると、近所の日本人のお母さんにいただいたヨモギと茗荷を畑に植えた。ヨモギは、ヨモギ団子などに使えるし、茗荷はザルそばや、冷奴の薬味にできる。今からよだれが出そうだ。これを下さったアンナさんは日本人のお母さんだが、うちより、もう少し田舎の農場に、オーストラリア人の家具職人のご主人と三人のお子さんと暮らしている。小柄な可愛いお母さんなのだが、やっていることはまるで「農家のおばさん」。味噌造り、梅干し造り、糠の漬け物、畑では茗荷、ヨモギ、しそ、牛蒡など、何でも作ってしまう。馬や羊も飼っている。日本野菜の種や苗は、「サステナビリティーの会」という日本人農業愛好者の会で交換してくるのだそうだ。オーストラリアの日系人は、きっと地球最後の日も、それも一番最後まで生き延びる人種に違いない。

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茗荷とヨモギ

庭と畑で汗を流したあとは、息子と釣った魚を刺身にし、自分で作ったビールを飲んで喉を潤した。

生きていることは非常に幸いなことだと、心から感じた。

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ビール作りの様子











posted by てったくん at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年11月10日

駅弁、駅そば

2014年11月8日

10月の終わりから、また二週間ほど日本に滞在した。この8月以来、日本に来る用事が連続したので、落ち着いてメルボルンで薪など割っていられない状態だ。しかし、忙しいときは忙しいのだから仕方がない。8月末に末弟の光太が急逝したので、彼の人生の後片付けという大事な用事もあった。

それと今回は地方の図書館に行って人前で話をする仕事が東京、静岡、姫路であったので、新幹線に乗って行き来した。トールキンではないが「行きて帰りし物語」である。それで駅弁を4回も食べた。駅弁は、たまに食べると心躍るが、4回も食べるとやや飽きる。子供の頃、デパートで「駅弁大会」があると、母が 買って帰ることがあったが、家で食べる駅弁もなぜかうまくなかった。やはり駅弁は、たまに長距離列車の中で食べるのがいい。

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最初は静岡へ行って帰ったが、新横浜から12時頃の「ひかり」に乗った。久しぶりの駅弁だから迷いに迷い、最後は決めかねて月並みなシュウマイ弁当800円を買った。しかし、これが意外にうまくて満足した。横浜でシュウマイ弁当とはつまらない選択と思ったが、平凡さの中にこそ幸せがあるという感慨を久しぶりに味わった。
 
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その新幹線でだが、横に座っていたイタリア人家族は、新幹線も駅弁も初めてらしく、お父さんが幕の内弁当を一口食べては感想をいちいち語り、息子がそれをiPhoneのムービーに録画していた。富士山が見えてくると皆で立ち上がり、ジュースやビールで乾杯した。イタリア語は皆目分からないが、楽しそうな人たちを見ているのは愉快だった。

でも、ひかり号で新横浜から静岡はたった40分だから、シュウマイ弁当を食べ、伊藤園のお茶を飲み終わらないうちに、もう静岡に着いてしまって、旅情を楽しむ時間はあまりなかった。

静岡は父の故郷である。父は寺町という場所の写真屋に生まれ、兄弟は12人 だったから、静岡には親戚がたくさんいる。僕の講演会にも15人もいとこやおばさんなどがやってきた。会場の一列が全部親戚であった。講演の後、いとこ会をすることになり、スナックを借り切ってみんなで酒を飲んだ。静岡だから、黒はんぺんフライがうまかった。その宴会では、静岡のお墓が草ぼうぼうになっているのはどんなものかとか、祖父母や先祖の位牌がどこにあるのか分からなくなっている、とかいう話題で盛り上がった。経緯は端折るが、僕はその場で「先祖代々の位牌」を受け継ぐことを承諾させられ、メルボルンに渡辺家の先祖全員をひき連れて帰ることになった。帰りの飛行機は、さぞにぎやかなことだろう。それにしても、渡辺家もずいぶん国際化したものだ。

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静岡のおでん横町の夜

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静岡浅間神社

静岡からの帰りの新幹線も昼時で、いとこ会に駆けつけた弟の光哉と一緒だった。 光哉は「富士山弁当」という三角形の弁当を、僕は「茶飯弁当」にした。どちらも地味目な弁当だが、静岡にはあまり駅弁の種類がないから仕方がない。どちらにも小さなカップに入ったわさび漬けがついていたが、これが辛くてうまかった。茶飯というのは、まるで法事に食べる食事のようだが、 味はけっこう良かった。駅弁の善し悪しは、見かけや値段ではない。

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浅間神社にはイノシシが出るらしいが、幸い出会わなかった

東京にもどると、翌日は戸籍をとるため都内の市役所、区役所を回って歩いた。末弟の光太が亡くなって、諸処の手続きのために 戸籍謄本や除籍票が必要なのだ。それも、彼の分だけでなく、 亡くなった両親や僕の分もいるし、もう一人の弟の光哉の分もいる。それらをとるために多摩、立川、西東京、大田区と一日で歩き、くたくたになった。人が死ぬと面倒な手続きがたくさんあるし、 けっこうお金もかかる。でも、どの役所でも、市民課の係はとても親切だった。(親切すぎて、うるさいほど他人の事情を聞きたがる人もあった。)戸籍はこれだけでなく、両親が昔住んでいた静岡、大阪、滋賀県彦根といった場所からも取り寄せなくてはならない。引っ越すたびに戸籍を移す人もあるようだが、死んだときのことを考えると、戸籍はやたらに移すものではない。

戸籍をとるために歩いたその日、昼どきは多摩センターにいた。10月末にしては陽気も暖かく、冷たい蕎麦を食べたくなった。しかし、多摩センター駅の周辺には普通のそば屋が見当たらず、 しかたなく「箱根そば」という駅そば屋に入った。「箱根そば」は確か小田急電鉄の経営だと思ったが、中学、高校時代は小田急で通学していたから、ずいぶん世話になった。鶴川、新宿、小田原の「箱根そば」を何度食べたことだろう。ただ、当時僕が愛好していたのは、蕎麦ではなくて「野菜かき揚げ丼」だった。200円くらいで滅法腹持ちが良かったからだ。

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多摩センターの秋はきれいだったが、そばはまずかった

だが、多摩センターのこの日は、冷たいおそばの気持だったので、またもや悩みに悩んだ末選んだのは「野菜かき揚げ丼と冷たいおそばセット」であった。すばらしい選択と思ったが、これが大失敗であった。蕎麦は、割にこしがあったが、タレがやたらと甘かった。僕は甘いタレは苦手である。甘いタレはかき揚げ丼にもいっぱいかかっていて、べちゃべちゃしていてうまくなかった。

「まずったな」と後悔したが、その甘ったるい蕎麦と丼を食べながら、死んだ光太が言っていたことを思い出した。「立ち食い蕎麦では、『富士そば』はうまいが、『箱根そば』はうまくない。」「富士そば」は、どこの会社がやっているのか知らないが、都内の新宿やお茶の水などにたくさんある立ち食いそばだ。光太は以前に中野に住んでいて、そこから新宿の大学病院に勤めていたから、よく富士そばを食べたらしい。

とにかく、どうしてそんな大事なことを先に思い出さなかったのか、自分の迂闊さを呪ったが、きっと記憶の中で、中学高校時代の空腹時に食べた「かき揚げ丼」のおいしさが40年たって結晶化していたせいだろう。あれがうまかったのは、若さ故であろう。

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多摩市立図書館本館にある、父渡辺茂男の書斎「へなそうるのへや」
(多摩センターから徒歩8分)

だが、その晩は、フランス料理だった。フォアグラを口にしながら、僕は「箱根そば」のまずいかき揚げ丼に、ざまあみろと言った。フランス料理は、僕の実家があった多摩の図書館員である阿部さんという女性が、わざわざ赤坂まで食べに連れて行ってくれたのだ。 阿部さんは、時折クラシックのコンサートに行った帰りに、ここで一人で贅沢な時を過ごすらしい。図書館員には、そんなおしゃれな趣味の人がいる。僕は、今回の日本では、秋サンマを食べようと意気込んでいたのだが、 計らずともここのコースで、前菜にサンマが出た。このサンマは、キールロワイヤルを飲みながら食べた。炭火で焼いて大根おろしで食べるのとはまた違った趣向だが、これも大変旨かった。(阿部サン、ごちそうさま!)

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お化粧直しした白鷺城こと、姫路城(地元の人は「白すぎ城」とも言っていた)

それから二、三日して、姫路へ向かう新幹線上の人となった。そのときも昼時だった。三回目だから今度は張り込んで、新横浜駅構内のトンカツ屋の「盛り合わせ弁当」を買った。トンカツ、海老フライ、チキンカツが入っており、千切りキャベツも別袋に入っていて、カツがべちゃべちゃにならない工夫がしてある。トンカツソースもたっぷりだった。だが、カツはやっぱり揚げたてでないとうまくない。そんなことは明白な訳であって、最初に気がつくべきであった。そんな感想のトンカツ弁当であった。

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姫路城には、忍者がたくさんいた

姫路の講演会は、姫路城を見上げる立派な図書館で行われ、聴衆の反応も良かった。お色直しした姫路城も美しかった。唯一失敗したのは、パソコンの接続がうまくいかず、せっかく準備していったスライドがろくに見せられなかったことだ。講演会というのは、最悪の事態も予測して望まなくてはならない。しかし、スライドが映らないというのは最悪の事態という程ではない。逆に、そのせいで少しは話の中身が濃くなったかもしれない。だとしたら、怪我の巧妙というやつだ。自慢ではないが、もう講演会を2、30回はやっているから大分慣れてきたと言える。

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仕事中の私

その講演会では、父が昔訳した童話「ミスビアンカの冒険」シリーズのファンだったという清流さんという姫路の住職にお会いした。初めてお会いしたのに、初対面な気がしなかった。それは、しばらく前から清流さんとはFacebookでお友達になっていたからだ。清流さんは、住職なだけでなく、保育園の園長で、ハンガリー仕込みのピアニストで、児童文学はプロ(私の父)を恐ろしがらせる程の知識であり、その上武道の有段者でもあるという人だ。その上清流さんに、夜は豆腐会席をごちそうになった。この豆腐会席が、今回の帰国で食べたものの中で一番豪華だったかもしれない。特に湯葉がおいしかった。遠くまで行って珍しいものを頂く、これが本当の「ご馳走」だろう。

さらに、姫路の講演会には、大学時代同じ登山クラブに所属していた次郎丸君が奈良から駆けつけてくれた。彼とは30年ぶりに会った。次郎丸君は、昔も太陽のように笑顔が明るい青年だったが、現在もニコニコした陽気なおじさんだった。「武道と神道」ということを生涯の研究テーマにしているそうで、そのことを書いた論文や著書をたくさんくれた。神道も武道も僕は知識がないから、読むのが楽しみだ。

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姫路の夜景は、けっこうアートだった

姫路から帰る新幹線も、またもや昼時だった。四回目の駅弁ではエキサイトしない。しかし、何も食わないで東京まで帰るのも嫌だから、乗車前姫路の駅前デパ地下に入ってみた。 そこは食べ物のジャングルといった風で、あわや遭難しそうだった。しかし、機転をきかせて幸い早い時点で「穴子飯」に決着をつけたから、新幹線にも時刻通り乗ることができた。11月頭の三連休の最終日だから、乗り遅れて指定席に座れないと、東京まで立ちっぱなしになる。

だが、穴子飯はうまかった。特に飯の横についていた奈良漬けに興奮した。奈良漬けは、子供時代からの好物だが、こんなにうまい奈良漬けを食べたのは40年ぶりかもしれない。穴子飯でうまい奈良漬けが食べられたことは、昔なじみに再会した喜びにこそ勝らないが、特筆すべきものがある。 弟は、2ヶ月前に39歳で死んでしまったが、生きていればこんな喜びもあるのにと、奈良漬けを食べてほろりとした。

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新幹線で一人旅していたウッドベース。(光太も旅好きで、ウッドベースも弾いていたから、光太みたいだった。)

東京に戻ると、さらにあちこち用事があって、街中を歩かなければならなかった。とにかく、人の多さと、騒音のうるささに辟易し、「今さら東京では暮らせない」という気持が強くなり、すぐさまメルボルンに帰りたくなった。

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「東京暮らしは楽じゃない」、福岡出身のトラフグたち

しかし、帰る直前に、橋さんという友人の女性から「おもしろいカフェが武蔵小金井にできたからいきましょうよ」と誘われ、 のこのこ出かけた。そこは英語で言うと、artist-run-spaceと呼ぶような場所で、芸術家が自分たちが活動しやすいように、自分たちで経営している画廊のような場所だ。そこがカフェもやっているのだ。

ここは、すごく居心地が良かった。本当は、僕が行った晩は営業してなかったらしいのだが、友達のよしみで開いてくれて、食事も出してくれた。食事は、健康に良さそうなご飯と、自分の所で漬けたぬか漬けと、美味しい赤キャベツのスープと、そんなものだったが、ほんわかと優しい味がした。カフェでは近所の母子なども、持参の弁当など食べながら遊んでいて、そこにいた良太くんという6歳くらいの子どもが、自分のお小遣いで買ったというおせんべいを皆にふるまってくれた。だから、僕は大事にオーストラリアからもってきた高級板チョコを良太君にあげた。僕は普段はケチなので、こんなことは滅多にしない。良太くんのお母さんは、「すみませんねえ、エビで鯛をつっちゃったみたいで…」と恐縮していた。でも、僕は、このカフェのリラックスした雰囲気で、それくらい気持がおおらかになっていたのだ。だから、ちっとも損をした気はしていない。このカフェは、アートフルアクションというNPOがやっている。詳しくは、http://artfullaction.net

他にも、今回の帰国ではおいしいものを食べた。滞日の最後の日、横浜の弟光哉の奥さんの智子さんが作ってくれた松茸ご飯のことは、ぜひ書いておかなければならない。この松茸ご飯には、何とトルコ産の松茸が入っていたのだ。トルコからどうやって松茸が日本にくるのか分からないが、トルコ産でも正真正銘の松茸で、酢橘をしぼって食べると、どんな松茸に負けないほどおいしかったし、匂いもぷんとした。

そのトルコ松茸は、僕のおなかに収まったまま、オーストラリアに飛ぼうとしている。
(成田へ向かう成田エクスプレスの中で書く)

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ゴールドコースト空港でメルボルン行きを待つ間、日本のコンビニで買ったお握りを食べた。
このジェットスター便ボーイング787に「渡辺家先祖代々」を全員乗せて帰った。


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2014年09月12日

寿司と蕎麦

2014年9月12日

8月の終わりから9月上旬、日本に2週間行って来た。日本に行くと楽しみなのは食べ物だ。僕がまず食べるのは蕎麦だ。冬なら鴨南蛮、たぬき、 天ぷらそば。夏なら、もり、ザル、天ザル、とろろなど。この頃の蕎麦は、味が良くなったと思う。立ち食い蕎麦でも、不味くて食べられないということがない。

今年2014年の3月まで多摩に実家があったのだが、そこに最後まで暮らしていた末弟とは、僕が帰国すると、よく一緒に実家近くの団地の中にあるS屋というそば屋に行ったものだ。S屋は、よくある 団地のそば屋で、近所の人が食べに来たり、出前をしたりするのが主の、地味なそば屋だ。それでも味は悪くないし、値段も安いので贔屓にしていた。末弟は気楽な独り者だったから、しょっちゅうS屋で食べていたらしい。土曜日の午後など、ぶらりとS屋に行くと、団地の老年テニスクラブの親父さんたちが、昼酒に顔を真っ赤にしながら怪気炎をあげていた。そのでたらめな会話を聞きながら蕎麦をすするのも悪くなかった。

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たまに奮発して行くのは、K屋という蕎麦屋で、ここは超高級で有名だ。多摩と八王子の境にあって、飛騨の古民家を移築して作った豪勢な建物だ。蕎麦の器も、多摩在住だった辻清明という陶芸家が作った器で食べさせる。天ぷらのエビも生きた伊勢エビだ。だから値段は高いが、味も一流だ。ここは、僕の両親がまだ元気だった20年以上前からときどき通っている。両親の墓参りの後など、 僕たち三兄弟はK屋に行くことがよくあった。今年も、実家を売り払い、最後に不動産屋に鍵を引き渡した後、三人でK屋に行って蕎麦を食べた。

末弟は実家がなくなると、 世田谷の千歳烏山にアパートを借りた。南口の商店街をまっすぐ南に歩いて行くと500メートル程で商店が切れる。それでも歩いて行くと郵便局があって、その先を右に入った、モルタル作りの二階建てのアパートだった。

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この弟の新宅(?)を僕は今年三月に見に行った。弟は、千歳烏山の駅で、大福とみたらし団子の入った袋を下げて僕を待っていた。ちょうど昼だったから駅前のそば屋に入った。

「アパートの大家が、ここが旨いって言ったんだ」と末弟は言った。ジャズが流れる、お洒落なそば屋だった。 隣の夫婦は、昼間からビールを飲んでいた。弟は、鴨南蛮を食べた。僕は、その時何を食べたのか覚えてない。

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寿司も日本に帰ると必ず食べる。そんな高級な寿司は食べないが、仕事で顔を出す、巣鴨の近くの出版社の近くの寿司屋には、ときどき寄る。ここではランチしか食べないが、1500円くらいでけっこうなクオリティーな握りを食べられる。ランチで足りない時は、お好みで赤貝や中トロをつまむが、それだけでずいぶん贅沢をした気持になる。

実家がまだあった時は、これまた末弟と、実家近くのファミレス横の回転寿司に行った。ここへは晩飯を食べに行った。所詮回転寿司だから、二人とも値段の事など一切考えず、腹がはじける程食べた。絵皿だろうが金皿だろうが、何だろうが関係ない。 ウニ、トロ、ヒラメの縁側、のどぐろ、鯛、アジの活け造りなど。二人で、支払いは8000円とか一万円を超えることもあった。これが多いか、少ないか分からないが、しばらく寿司を見るのも嫌になるくらい食べた。

今回の帰国は、その末弟の葬儀だった。39歳だった末弟は8月末に急に病気で亡くなったので、僕はあわてて日本に帰った。こういうことは準備しておくことができないから、いつもあわてての帰国だ。父が危篤になったときも、最後に亡くなった時も、大慌てで帰った。こういうとき外国に暮らしているのはすごく不便だ。

さらにこういう時は、成田までの飛行機が辛い。今回も、ケアンズで乗り換えると、周りはオーストラリアで夏休みを過ごした楽しげな家族連れや学生がいっぱいだった。僕は、その真ん中で、沈痛な顔をして何時間も座っていた。爆発しそうな気持だった。

そして、慌ただしく帰国の2週間は過ぎた。葬儀の準備、通夜、葬儀、遺品の整理、事務処理。 真ん中の弟は、 グロッキー気味だった。彼は、弟の死直後から、悲しむ暇もなく、葬儀屋との交渉などの役目を一手に引き受けたのだから。僕も到着するや否や、喪主として活動しなければならなかった。喪主をするのは、父の時と二度目だ。親戚や知人 へ末弟の死を告げる電話を何度もしなくてはならず、これにはうんざりした。

それでも不思議なことに、腹もへれば喉も渇く。飛行機の中のまずい機内食もぱくぱく食べ、成田エクスプレスの車両ではカツサンドを食べた。横浜の、真ん中の弟の家に着くと、二人でエビスビールをがぶがぶ飲んで寝た。久しぶりに飲んだエビスは旨かった。

そして、今回も寿司と蕎麦を何回も食べた。末弟の葬儀の帰国だと言うのに やっぱり好物の食べ物を食べてしまう。

通夜の席では、食べ物がとても喉に通るとは思えなかったが、にぎり寿司が出た。ちょっとつまんでみたら案外きちんとした味だった。 末弟は若くして死んだから、通夜には高校時代や大学時代の友人たちが大挙して訪れた。その人たちと弟の思い出話で盛り上がり、みんなビールや酒を大いに飲み、寿司も足りなくなった。葬儀屋さんが慌てて追加を注文した。みんな、笑ったり泣いたりしながらも、よく寿司をつまんでいた。

末弟のアパートに遺品を整理に行った時は、真ん中の弟夫婦と、僕の妻を誘って、末弟と最後に行った千歳烏山のそば屋に入った。彼と食べた時程、旨いと思わなかったけど。店には前と同じようにジャズが流れていた。

帰国中の最後の晩には、回転寿司にも行った。横浜の真ん中の弟の家の近くだ。こちらはお洒落な加賀風の回転寿司で、味もぐんと良く、値段も高い。味がいいから週末は大混雑で、行くときには携帯電話で予約を入れておかないと入れない。それでも入り口でさらに20分は待たされる。回転寿司は、次から次へと注文して食べるので、せわしない。メニューと首っ引きで食べなければならない。だからあまり会話が弾まない。まあ、これは回転寿司という場所柄仕方がないだろう。

蕎麦は、ここに書いた以外にも、もう二三回食べたので、2週間の帰国中に5回は蕎麦屋に入った計算になる。思い返せば、父が亡くなったときも、もっと前に母が亡くなった時も、葬儀の前や最中や後に、蕎麦や寿司を食べた。悲しみながらも、寿司や蕎麦を美味しいと思ったのは今回も同じだった。

でもどうして なんだろう。僕は、どんなことがあっても、寿司や蕎麦をおいしいと思える人間なのか。それとも、寿司や蕎麦は、どんなことがあっても美味しく食べられる物なのか。試しに、成田空港でメルボルンに帰る飛行機に乗る前に、蕎麦でなく、うどんを食べてみた。

やっぱり蕎麦や寿司ほど、美味しいとは思わなかった。

今年の一月、今はなき実家のベランダで。
(左から、僕、真ん中の弟、末弟)
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2014年07月11日

30万キロの奇跡

2014年7月9日

冬の釣り行き

冬である。息子リンゴロウの学校も冬休み。メルボルンの7月は真冬で、雨が時折は激しく降り、カヤックに乗って海に出たくとも、風速30メートルの風が吹き荒れていたりするので、なかなかそれも叶わない。天気は変わりやすく、晴れていたと思えば雨が降り、土砂降り と思ったら、虹が出てまた晴れたりする。気分的には雨が降っている時の方が多い気がする。

そんなうっとうしい気分を振り払う為、なかなか休みがないリンゴロウのサッカークラブの練習の合間を縫い、男だけで2泊3日の釣り旅行に出た。行く先はメルボルンの東150キロ、ギップスランド南部ポートウェルシュプールという漁港。ここへは僕が2ヶ月程前にシーカヤックの合宿で来て、ここなら魚が釣れそうだと、睨んだ場所である。

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ギップスランドの平野

2ヶ月前のシーカヤックの合宿とは、ビクトリア・シーカヤック・クラブの親睦合宿で、スネークアイランドという島に漕いで渡り、そこからウイルソンズプロム国立公園までさらに海峡を漕ぐという趣向だった。僕は、まだ新参者なので、島渡りなど大丈夫だろうかと思ったが、クラブの会長さんが「大丈夫、ちっとも心配なし。初心者歓迎!」と太鼓判を押したので、のこのこ出かけて行った。ところがポートウェルシュプール港を出た日は、風速15ノット(28キロメートル)の向かい風、1、5メートルの波とうねりに揉まれ、まるでジェットコースターに乗っているように大波を下ったり、登ったり。自分がどちらを向いているのかも分からず、先輩に「こっちだ、こっちだ」と言われて必死に漕ぐのみだった。

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スネークアイランドの合宿

合宿2日目は、 スネークアイランドから海峡を渡ってプロム国立公園の東海岸を漕いだが、波打ち際でちょっと気を抜いたら横波を食らい、 冷たい水に頭からどぼんと沈した。おかげで 水温16度の海で生まれて初めて泳いだ。泳いでいるうちはアドレナリンが出ているせいか寒くないが、陸に上がってからの方が寒くてガタガタ震えた。

今回は、そのポートウェルシュプールに息子と2人でのんびり釣り旅行だ。しかし、着いた日はやはり強風と低温で、ちっとも釣れず。小振りのフラットヘッド(和名はコチ)が少しかかるだけ。2日間でどうにか釣れたと言えるのは、27センチと30センチのコチが二匹とカニ一匹。あまり芳しくない釣行だった。

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小さなコチ

しかし、冬の澄んだ空気は美しく、冬雨に閉じ込められて溜まった鬱積はギップスランドの空っ風といっしょにどこかへ飛んでいった。やっぱり広い所に出て、のんびりするに限る。海風はとても爽やか、肺の底の底まですっきりする。


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遠浅の海岸は車で走れる


30万キロの奇跡

ギップスランドの緑の大地を突っ走ったこの冬の旅行中に、僕の車トヨタ・カムリワゴン(1994年型)がついに走行距離30万キロを突破した。 オーストラリアでは40万キロくらい走る車が決して珍しくないが、僕が一台の車にこれだけ長く乗ったのは初めてだ。2000年に(中古、7万キロ)買ったから、もう15年は乗っている。今11歳のリンゴロウが生まれて時、病院からうちに連れて帰るときもこの車だった。

「パパ、 この車良いよね。でっかくて、何でものせられて」と、リンゴロウは今も言うが、彼にはこの車はゆりかごの様なものだろう。もちろん、金にあかせず最新型のSUVや4WDに替えたらもっと良いだろうけど、この古いワゴンでとりあえず用は足りている。燃費もまあまあ(リッター10から12キロ)、故障知らずだ。また、広い室内、汚れても構わないくたびれたボディには、釣り道具、キャンプ道具、カヤックなど、塩水や泥で汚れたものを満載してもちっとも気にならない。とにかくこれだけ使えば、カーボンフットプリントも最小限にとどめたことになるのでは?

もちろん、乗っていた車が30万キロ走った ことにはあまり深い意味はないだろう。ただ単に、僕がよほど物持ちが良いのか、ケチなのか、たまたま整備を怠らなかったせいか、運が良かったか、この車が「当たり」だったのか、あるいは僕がよほど物事に固執するたちなのか、まあ、そんなことかも知れない。

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しかし、僕はこの車でいろいろな用を足したし、何度も家族と旅行もしたし、息子ともどれだけ釣りに行ったか分からない。だから、 自動車は、所詮ただの「物」かもしれないが、30万キロもの長い距離と時間をつき合ってもらった事を、何かの僥倖(ぎょうこう=おもいがけない幸い)と考える事にした。 そして、今後何かすばらしいことがたくさん起きると考えることにした。

餅つき

そのことを祝うつもりでもないが、7月の文庫では、餅つきをやった(僕は「メルボルンこども文庫」という集まりをもう15年も主催している)。昨年だったか臼と杵を作ったので、ついにそれを使ってみる事にしたのだ。餅つきは準備が大変だからなかなか腰が上がらなかったのだが、近所の日本人の友達に「やりましょうよ!」とそそのかされ、急遽やることになった。

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オジーのパパもぺったらぺったら

7キロの餅米を前夜から水に浸けて、朝から強火で蒸した。昼過ぎには、文庫の子どもたちやら親たちが10家族程集まり、ぺったり、ぺったり餅つきが始まった。あんころ餅、ショウユ餅、キナコ餅、大根おろしのからみ餅などだが、7キロの餅米がきれいになくなった。みんな食べること、食べること。オジーのお父さんたちも、あんころ餅やショウユ餅を「おいしい、おいしい」と、はぐはぐ食べていた。

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餅米は、オーストラリアの我が家の近所で売っているのは、タイと中国産の餅米だが、韓国産の餅米を差し入れてくれたご家族があり、その方が断然粘りがあって美味しかった。きっと韓国の餅米は、日本の餅米に似ているのだろう。

餅つきというのは、お祭りみたいで、人が集まってわいわいやるのが楽しい。特に、冬の寒いときに、湯気の出る餅を食べながらやると、心の中がぽっかり暖まる。

春を待つ気持

リンゴロウの冬休みはまだあと2、3日ある。サッカーの練習もあるし、もう泊まりで出かるほどの余裕はない。 今日も朝からまた雨。そこで、リンゴロウを連れて、ビクトリア・シーカヤッククラブの面々が、手作りカヤックを作っているワークショップを覗きに行くことにした。

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手作りカヤック工房

ミッチャムの教会の裏の作業場がカヤック工房となっていて、クラブのメンバーの有志たちが一週間かけて、昔風のグリーンランド型シーカヤックを作っている。初老の親爺たちがカンナくずだらけになりながら、子どものように喜々としてカヤックを作っていた。僕も、過去にカヌーとカヤックを作った経験があるので、興味津々で見せてもらう。

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skin-on-frameのカヤックの骨組み

今回この人たちが作っているのは、skin-on-frameという形式の、昔のグリーンランドの先住民たちが、動物の皮を木製フレームに張って作ったのと同じ形のものだ。ただ動物の皮の代わりに、新素材の繊維と防水のポリウレタン塗料を塗るところが現代的だが。教えているのは、クラブ会長のボブとその義理の息子ブレンダンだ。ボブは、本業は大学教授/牧師であるが、なんだかカヤックの方が本業ではないかと思われる程のめりこんでいる。

「カヤック作りは、本職はだしですね」と僕がお世辞とも皮肉とも取れることを言うと、サンタクロースのような巨漢のボブは破顔し、
「いやあ、こう寒いと、あまり海にも出れないしね。でも、この間は、強風の中、海に出てローリング練習をやったら、自慢の木製グリーランドパドルを折っちゃってね。ウハハ! このワークショップが終わったら、すぐにもう一本作らなくちゃならんのだよ。ワハハハ!」と、大きなお腹を揺すって笑うのであった。こういう福々とした人といると、心の底が暖かくなってくる気がする。

こうやって、みんな春がくるのを着々と準備しながら待っている。僕も、雨が上がったら海に出るぞ。


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ウィルソンズ・プロム国立公園で愛艇に乗る
posted by てったくん at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記