2016年05月18日

パジャマの問題

2016年5月18日

ある女性からパジャマを頂いた。その女性は美しい人妻である。

「私があげたパジャマ、着てくれた?」 マケイラは、いくらか頬を赤らめながらそう僕に言った。彼女が着た薄紫のブラウスの裾が、風をはらんではためいた。場所は、モンバルク村のサッカークラブの練習場である。目前では、男の子たちが広い人工芝のフィールドを走り回っている。うちの息子の鈴吾郎やマケイラの息子たちも走っている。明るい光の射す、土曜日の朝だ。

P1000150.JPG
モンバルクのサッカー場

「え? 君のくれたパジャマ?」僕は、一瞬何のことか分からず、うろたえた。そして、二秒後に思い出した。一昨日、僕の妻のチャコが、ややくたびれた、少し紫色がかった濃灰色のパジャマの上下を持ち帰ったのだ。

「これ、マケイラから預かってきたんだけど、君にだって」と、笑いを噛み殺しながら僕に手渡した。
「なんじゃこりゃ?」と僕。マケイラは息子の級友であるベンのお母さんである。どうして、マケイラが僕にお古のパジャマをくれるのか、まったく理由が分からない。

「どうして、マケイラが僕にパジャマなんかくれるの?」
「そんなこと知らないわよ。マークのお古じゃないの?」と、チャコ。マークはマケイラの旦那である。僕よりも背が高く、体も大きい。マークのお古なんて、大きすぎて着られる訳がない。それにマークのお古のパジャマなんて着るのは嫌である。

だから、そんなパジャマは着ないで放っておいたのだ。しかし、考えてみれば、人妻からパジャマをもらうのは生まれて初めてである。僕としても、心の置き所にやや困る。せっかく貰ったんだから、一回くらいは着ないと悪いかも。もしかしたら、マケイラは僕に気があるのかもしれない。いや、考え過ぎだろう。だとしたら僕の妻にパジャマを託す筈がないし、夫のお古のパジャマを好きな男に渡すだろうか。そんなバカな…。

僕は、二秒間の間にこれだけのことを考え、マケイラに答えた。「ああ、あのパジャマね! ちょっと紫色のあのパジャマね。ええと、まだ着てないんだよ。でも、どうもありがとう。今夜さっそく着てみるよ。それにしても服を貰うなんてうれしいなあ。どうしてパジャマなんかくれたの?」と、僕は尋ねた。

「ウヒヒヒ」マケイラは笑った。マケイラは、チャーミングな女性なのだが、なぜか笑う時は「ウヒヒヒ」と笑う。いつだったか、うちの鈴吾郎が、「おばさんの笑い方は変だよ。どうして『ウヒヒヒ』って笑うのさ?」と、失礼なことを言ったことさえある。マケイラは、「生まれつきなのよ。でも、 人ってみんな笑い方が違うでしょう? 私はウヒヒヒって笑うの」と答えた。

マケイラは、年は40ちょっとくらいで、細い針金縁の眼鏡をかけたやや古風な感じの、知性的な女性である。いつもふわっとした紫色のスカートを着て、上にもやや紫系の色のブラウスを着ている。バイオリンが上手で、息子の学校の音楽の先生も務めている。クラスの親の中では一番の世話好きで、 性格も温厚だから、みんなに愛されている。

「ウヒヒヒ、あれはね、マークが友達に貰ったのよ。だけどマークにはちょっと小さくて着られないの。だから、じゃあテツタにあげようってことになってね。だから、マークは着てないし、洗濯もしてあるから、安心して着てね。ウヒヒヒ」と、マケイラはにっこり笑った。

「そうか、そういう訳だったのか。 僕のことを思い出してくれてありがとう。じゃあ、さっそく今晩着てみるよ」と、僕は答えた。

「どういたしまして。 ウヒヒヒ」と、マケイラは、またちょっぴり頬を赤く染めて答えた。やっぱり、少し僕に気があるのかもしれない。

その晩、その少し紫色がかったパジャマを僕は着てみた。紫色はマケイラの服と一緒だが、それは単なる偶然であろう。ところが、そのパジャマ、貰ったのは良いが、着心地が悪いのである。道理でマークも着たくないわけだ。これをマークに手渡したどこかの誰かも、手放す筈だ。

問題点は、いくつかあった。まず、ズボンのゴムがゆるい。パジャマのゴムがゆるいのは致命的である。きつすぎても良くないが、ゆるいのは本当に良くない。ところが、このパジャマには、ゴムに加えてひもが付いている。だから、締め付けることもできる。しかし、これは最初からゴムがゆるいことを前提にして付けられているように思えるが、とすると、最初からこのズボンが緩いことを認めていることを意味する。どう考えても、ひどいパジャマのズボンだ。

しかも、このひもを締めてしまうと、ほどくのが難しい。これでは夜中に手洗いに起きた時に面倒くさい(僕は必ずトイレに起きる)。それに、寝ている間に蝶結びがほどけて、固結びになってしまったりしたら、もっと面倒なことになる。それからズボンが僕には長過ぎる。これだからオーストラリアの服は嫌だ。ズボンは長過ぎ、シャツも袖が長すぎだからだ。

上着も着てみる。とりあえず、可も不可もない。ただの長そでの丸首シャツである。問題は、ズボンと同様僕にはやや大きい。その上、色がひどい。濃灰色に紫がかった、ぱっとしない色だ。これでは、あまり良い夢も見られそうもない。

それでも、せっかくもらったのだから、一晩マケイラのパジャマで寝てみた。が、やはりダメであった。ズボンはすそからまくれ上がり、すね丸出しになった。ズボンのゴムが緩いので、シャツがはだけてお腹が出てしまう。袖もゆるゆるで、 まくれ上がって七分袖状態だ。まったく具合が悪い。非常に寝心地が悪かった。

でも、折角マケイラがくれたのだから、次の晩もこのパジャマにつき合った。二晩目は、たくしこんだシャツがまくれないように、ズボンのひもを固めに結んで寝たのだが、これが裏目に出た。心配した通り、ひもが固結びになって夜中のトイレの際に往生した。

「だめだよ、このパジャマ。着心地が悪くて失格」と、僕はチャコに言った。「あら、せっかくマケイラがくれたのに?残念じゃないの」と、彼女は薄笑いをして言った。

ともかく、このパジャマはお払い箱行きになった。マケイラには、着心地がどうだったかという報告はしていない。僕としても、真相を告げて、純粋な心の人妻を傷付けたくはないからだ。

こういう機会に考えて見えると、着心地の良いパジャマというものに僕はあまり出会ったことがない。子ども時代には、いろいろなパジャマを着させられた。冬は、風邪をひくからと厚ぼったいパジャマを着せられ、暑くて寝られないこともあった。夏は夏で、ごわごわした木綿のパジャマを着せられ、首筋やお腹の脇の柔らかい皮膚が摩擦して不快だった。旅館でたまに着る浴衣も好きではない。浴衣を着て寝ると、どうしても前がはだけてしまって、寝難くて仕方がない。

だから、大人になってからは、スエットパンツにTシャツかトレーナーである。これが最良である。スエットパンツは、ゴムもきつすぎず、ゆるすぎでもない。すそもゴムですぼまっているので、まくれ上がることもない。トレーナーも同様である。トレーナーは、厚すぎず、薄すぎずのがちょうど良い。

日本に帰ると、何日かは妻の実家に泊まる。そのとき義母が、義父のパジャマを貸してくれることがある。パジャマを忘れた時などは、ありがたくお借りする。が、人のパジャマを着ると安眠できない。生理的な問題と言うより、他人の夢を見そうな気がして不安になるのだ。どうしてそうなのかと言うと、人がいったんでも着たパジャマは、着心地が違う気がするからだ。形状記憶合金のように、本来の持ち主の体の形状をパジャマが覚えている気がする。だから僕が、例えば義父のパジャマを着て寝ると、義父の体のくぼみに体を入れて寝ている心持ちになる。そんな夜は、自分の夢ではなく、義父の夢、あるいは彼の無意識に入ってしまう気がして怖い。

IMGP7105.JPG
眠れない子ども、というテーマの絵本がたくさんある

IMGP7146.JPG
これも眠れない子どもの絵本

安眠というのは非常に大事だろう。幸い、自分は夜中にトイレに起きる以外は眠りが妨げられることはあまりない。ベルグレーブに引っ越したばかりの頃、裏の家が火事で焼け落ちたことがあるが、そのときも目を覚まさなかった。まあ、段々年をとってきたせいか、早朝目覚めたまま寝れなくなることもたまにあるが、そういう時は、数字を27から逆に数える、あるいは、カヤックを漕ぎながら水にできる波紋を見ているのを想像すると、大概はまた寝てしまう。

IMGP6199.JPG
水の波紋は眠気を誘う

あと、この頃していることで眠りに良いことはヨガである。ヨガは、これも息子の学校の美人のお母さんのロビンが教えているので、もう二年程通っている。しかも、僕のクラスは男性は僕一人で、あとは女性ばかりであるが、このことが少しは僕のモチベーションを高めているかもしれない。とにかく、このヨガクラスに行った夜はぐっすり眠れる。

もうひとつは、寝るときにアイマスクをすることである。日本を往復するたびに航空会社が無料でくれるアイマスクをたくさん持っているので、これをはめて寝るのだ。これを始めた理由は、僕の妻が宵っ張りで、なかなか寝ないせいである。一方僕は早寝。だから、妻が寝るときに、真っ暗な寝室に入ってこなくても良いようスタンドをひとつ点けたまましておくのだ。それでも熟睡できるようにと、僕はアイマスクを付けるようになった。おかげで、これをはめると、ぱたっと寝てしまう。

IMGP7016.JPG
鈴吾郎の子守唄はiPad

このことを友人でもあり、人妻であるエリさんに話したら、「てつたさんもそうなんですか? 私もアイマスクを愛用しているんですよ!」と白状した。僕は実は、アイマスクをして寝るのは、はたから見たら、いささか不気味なのではないかと思っていたのだが、麗しき女性であるエリさんも、こういうものをして寝ていると知って、これでアイマスクをしていても晴れた気持で眠れると知って嬉しくなった。

さて、今日は、パジャマや安眠について書いてみたが、その過程で2、3回「美しい人妻」について、話の行きがかり上言及した。しかし、この文章の目的はあくまで安眠についての考察であり、人妻について私が邪念を抱いているせいではないことを、賢明な読者諸兄姉は、たちどころに見抜いたであろう。




posted by てったくん at 15:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2016年05月02日

モンバルクの栗拾いと、バルークのキウイもぎ

2016年4月29日


過日、栗拾いに行った。モンバルクの友人宅である。ここへは毎年寄らせてもらっているが、住民であるララと夫のサージは年配で、悪い事に、ララは今年になってから膝も痛めている。だから、もう栗拾いをしないので、「いくらでもとってね」と言う。全く贅沢な話だ。

ララとサージの家の敷地は5エーカーはあるだろうか。モンバルク村を見下ろす山の斜面にあり、ウォーバートンの山を遠くに眺める日当りの良い斜面に果樹がたくさん植わっている。キウイ、レモン、フィジョア、リンゴ、梨、日本のミカンや柿の木もある。

この家の栗の木は、戦後に移ってきたイタリア系移民が植えたそうだから、もう樹齢50年以上だろうか、見上げるような大木だ。だが、イタリア移民の一世の多くはもうこの世を去り、生きていてももう高齢だから、栗拾いはできない。二世や三世は栗なんか食べない。だから、こうやって日本人の僕たちが21世紀になって、拾って食べているわけだ。

バケツ一杯の栗.jpg
バケツ一杯の栗

今年は、日本からメルボルン駐在でやってきているご家族と、うちの近所のもう一家族を誘って、三家族で拾った。それでも採りきれない。うちはバケツに4杯も拾ったが、当分食べきれない程ある。

栗を拾うのは単純な作業だ。地面に落ちているのを拾うだけだから、上手いも下手もない。毬(いが)に入っているのは足で踏みつけて、ぐりぐり押さえると観念して中から出てくる。そんなことを何百回も繰り返していると、やがてバケツが栗でいっぱいになる。

こういう単純な作業を繰り返していると、不思議と頭の中が空っぽになって、子どものときの記憶なんかが蘇ってくる。子ども時代、東京西部、多摩にも栗林がたくさんあった。でも、厳重に柵がしてあって、僕たち住宅地の子どもは外から眺めるだけだったから、栗林を持っている農家の子どもが羨ましかった。だから、メルボルンに来るまで、ちゃんと栗拾いなぞしたことはない。だから、栗拾いの夢が50年たってやっと実現した訳だ。そういう記憶の隅に焼き付いた光景が、古い写真のネガみたいに蘇ってくる。

ララとサージは、ロシア系移民である。オーストラリアには1970年代にやってきている。移民と言っても、ソ連を追い出されてきたから難民であり、ロシアには帰れない。追い出された理由は、西欧よりの自由主義的インテリ家庭に育ち、反ソ連的だったからだと言う。財産を没収され、身ぐるみ剥がれて逃げ出したから、彼等にとってロシアはもはや記憶の中にしかない。

そんなロシア育ちのララはキノコに詳しい。この時期ララの家に入ると、色とりどりのキノコが干してある。「どうして食べられるかどうか分かるの?」と尋ねても、「うまく説明出来ない。でも、私は知っている。見れば分かる。セントペテルスブルグの近くの森の中で、いつも採っていたから。」

栗拾いをしていると、「おしっこ!」と、日本人家族の小さな女の子のなっちゃんが言う。栗林にトイレはない。「そこらで、しちゃいなさいよ」と僕が言う。お母さんも「そうしなさい、なっちゃん、そこでしなさい」と言う。「できないよ、トイレに行きたい!」となっちゃんは泣き声を出す。

仕方がないから、ララ宅の母屋へトイレを借りに行く。ララは、実は生け花の先生で、僕もしばらく習っていたことがある。そんな日本びいきのララとサージは昨日まで日本に桜を見に旅していた。昨夜遅く帰ってきたばかりだから、あまりお邪魔したくなかったのだが、なっちゃんのためにドアを叩く。

すると、バスローブを着た疲れた顔のララがドアを開けてくれた。「あらー、来てたの? トイレ? どうぞ、どうぞ」と、家にあがらせてくれる。なっちゃんはトイレに駆け込み、僕はしばし立ち話。

「日本は良かったわあ、桜が本当に見事で。奈良が一番良かったわね。沖縄は初めて行ったけど、正直あまりぴんとこなかったわ。どうして沖縄の人は長生きするのかしらね、よく分からないわ」と、日本の印象を話す。

そうか、日本は桜なんだな、と僕も改めて思う。日本の桜なんてもう何年も見ていない。日本の桜。桜と言えば日本。インターネットを眺めていても、この時期は、桜、桜、桜。でも、それくらい見事だってことなんだろう。でも、メディアであまり大騒ぎするのは、興ざめだ。(僕に言わせれば、それが日本の悪いところだ。)それでも、いつか春に帰る機会があったら、桜を思い切り満喫してみたい。亡くなった父もこう言っていた。「春の奈良はいいぞ。いっぺん行ってみろ。」奈良の田舎なんかだったら、良いだろうな。


バルークへ

ララ宅で拾った栗を手みやげに、翌週の週末は、バルークという田舎にある、友人であるリッチとエリさんの別荘に寄せてもらった。メルボルンから東へ200キロ、ラトローブ渓谷のモーウェルという発電所(石炭の火力発電)がたくさんある町まで高速を走り、そこからは山道を40分程登るとバルークだ。

途中「タシー山の頂上見晴し台」という標識があったので、ガタボコ道を500メートルほど登って行くとアンテナが立っていて、そこが見晴し台だった。

車中ではぐうぐう寝ていた13歳の息子の鈴吾郎もむっくり起き上がり、「お、すごい景色だ、写真を撮ろう!」と言い、自慢のiPadを持ち出す。オーストラリアには、あまり高い山がないから、こうした高見の見物ができる場所はうれしい。

タッシー山で.jpg
タッシー山の頂上から

鈴吾郎は、しばらくiPadをあちこち向けて風景写真をとっていたが、「ここは風が吹いたら、すごそうな場所だな」と言う。今日は秋とは言え、穏やかな天気だ。

遠くに発電所の煙が見える。石炭を燃やすので評判が悪いのだが、ラトローブ渓谷自体が石炭の上にあるような場所だから、燃料には事欠かない。オーストラリアは、世界でも一酸化炭素の排出量が最も多い国のひとつだが、 こうした安い燃料があるだけに 、太陽や風や水などの代替エネルギーになかなか移行出来ない問題を抱えている。(でも、どうしてこんなに電気代は高いんだろうね?)

タシー山からバルークはすぐであった。バルークは、タラブルガ国立公園の横の村だが、ここにリッチとエリさん夫婦が田舎屋を買ったのは3年間くらい前だろうか。

僕らが到着すると、作業着を着たリッチが現れた。リッチは普段は会社勤めだが、こういう田舎にいる時は樵のような格好をしている。オーストラリアの男は、スーツよりも作業着が似合う。僕の様な日本人でも、作業着が似合う様になるとオーストラリアに馴染んできた証拠だ。

リッチとエリさんの家の敷地は10エーカー。「ひと山」という感じかもしれない。こういう田舎では、家一軒の敷地はエーカー単位である。家自体もかなり広いが、相当ガタガタである。ぼろい、とは聞いていたが、本当にぼろい。

セドリックじいさんの山の家.jpg
共産主義者セドリックじいさんの山の家

「こうやって友達に来てもらえるようになるまで3年かかりました」とエリさんが笑って言う。「メルボルンに住んでいるから、月に二回来るとしても、ちょっとずつしか片付けられないんです」と、彼女は言う。

「前に住んでいた人は100歳まで生きた老人で、しかも、その人が亡くなってからもう15年もたっている状態の家を買ったから、どれくらいぼろいかわかるでしょ?」とリッチ。この老人は、定年退職してからこの家を買い、40年程をここで過ごしたと言う。

「最初は小さな山小屋だったのを、こちらに一部屋、あちらに一部屋、物置をひとつ、温室をひとつ、という具合にどんどん建て増したらしいんだよ。だから広いんだけど、ほとんど全部違法建築!」とリッチは笑う。

「どうしてこんな山奥に家を買ったの?」と尋ねると、「バルークは、若い頃からよく来ていて、キャンプをしたりしたんだよ。僕は、このギップスランド地方が大好きでね、将来ここに土地を買って、木をたくさん植えて、昔の様な森を復活させていきたいと思っていたのさ。そしたら、こういう物件に出くわしてね。ここは、もうちゃんと森になっているから、じゃあ、この森を守る為にこの家を買おうと思ったわけ」とリッチが答える。森を守るために家を買うと言うのは、本当に見上げた心意気だ。

10エーカーのうち、家屋や物置がある敷地は3、4エーカーで、残りは原野だ。隣はもう国立公園であるが、どこが境界か目印もない。それを知る唯一の方法は、スマホでGoogleマップを開き、それで方位を見ながら歩くことだと言う。便利な世の中になったものだ。

庭を見せてくれる。リッチとエリさんが植えた新しい樹木である原生種のユーカリには赤い印がついている。前の住民であった老人が植えた木は、見上げる様な大木になっている。リンゴや梨やヘイゼルナッツの木もある。温室からはみ出たキウイの蔓はあちこちを這いずりまわり、100坪くらいのジャングルだ。キウイの実がたわわになっていて、市場へ出荷出来るほどの量だ。「あとで、みんなでとりましょうね」とエリさん。

キウイの木に被われそうな家.jpg
キウイに埋もれた家

陽がかげってきたので、家に入る。こういう山奥では日が落ちるのがめっぽう早い。家の中では、薪ストーブがぼうぼう燃えている。僕のベルグレーブの家にも薪ストーブはあるが、薪をけちっているので、こんなに景気良くは燃やせない。「このジャングルには、薪はいくらでもあるからね。それに週末しか来ないから、薪は燃やし放題。トレーラーを引いて来たら、いくらでも薪をあげるよ」とリッチ。薪はメルボルンで買うと、一立方メートル130ドルもする。

この家はとても古い。築70、80年の家だから、本当はそんなに古い訳ではないが、10年以上も手入れをしてなかったから、ぼろぼろの箇所がある。それをリッチたちはこつこつ直しているのだ。それでも、二部屋はあまりにもぼろかったから、あきらめて解体したと言う。「床も壁も腐ってたからね」とリッチ。

「実は、この家に住んでいた老人は、コミュニスト(共産主義者)だったんだよ。共産党のパンフレットがたくさんあってね、ほら」と、リッチは机の上に積んである古ぼけた冊子を見せてくれた。それから「日本の共産党へ書いた手紙の写しも残っているよ」と、カーボン紙の写しをファイルから取出した。

その手紙の日付は1964年で、「日本共産党 書記長様」とある。内容は、日本でそのころあった事件に関することで、労働争議か何かの咎で逮捕された日本人の某の釈放を、オーストラリア共産党も全面的に支持するという内容であった。共産党員は国際的に一致団結しよう、という文章で、日本以外にも、ロシアや東欧諸国の同胞へあてた手紙も何通かそのファイルにあった。オーストラリアも労働者の国だから、共産党や社会主義の人たちの活動は盛んだろう。

ララとサージのように、ソ連から反共的だというかどで追い出されて、オーストラリアに来たと言う人もあれば、そのオーストラリアで、共産主義者の男が、こんなに楽しそうに、山奥で自由に楽しく暮らしていたというのは、皮肉でなくて何だろうか。

「この家を買ったらね、近所の人たちがセドリック(共産主義の老人の名前)のことをいろいろ教えてくれてね。だから僕は、この家の歴史にのめりこんでいるんだよ」と、リッチが苦笑いする。

古い家を買うと、ついでにその家の歴史も買うことになる。過去と未来を同時に手に入れるということだ。オーストラリアには古い家がたくさん残っているから、実際こういう話はよく聞くし、僕も自分の家を買った時、押し入れの奥から、前に住んでいた子どもの描いたスケッチブックを見つけたことがある。庭を掘っていたら、古い木製のおもちゃの自動車が出てきたこともあった。古い家はタイムカプセルなのかもしれない。

「物置にもいろいろ面白いものがたくさん詰まっていてね、まだ全部調べてないんだけど、ほらこんなのもあったよ」と、リッチが見せてくれたのは、産婦人科医が使う手術用具一式だった。「これなんか、胎児の頭をつかむ道具だね」と、薄気味悪いものを取出して見せる。「そのじいさん、変態だったのかもよ」と僕はつぶやく。

セドリックじいさんの作業小屋.jpg
セドリックじいさんの夢の跡

夜のバルークは、耳が痛くなる様な静けさだった。ベルグレーブも静かだが、どこかで自動車の音はするし、夜遅くには駅から電車の汽笛の音も届く。 しかし、バルークには何の音も届かない。風や動物の立てる音がするだけ。

ぐっすり寝たので、 翌朝はみんな寝坊だった。庭でとれたリンゴや梨の朝ご飯を食べ、外に出る。鈴吾郎とトモ君は、庭でエンジン付きのゴーカートに乗っている。アクセルを床まで踏むと60キロは出るという代物だ。こんなものを自分の庭で乗れるのだから、オーストラリアの子どもは幸せだ。

ゴーカートで森を走る.jpg
ゴーカートで飛ばす子ども達

「すげえスピードが出るんだよ。パパ見てて!」と、鈴吾郎は興奮し、家の前の芝生で、ゴーカートで8の字を描いたり、スキッドさせたり、ドリフトさせたりしてみせる。「パパも乗ってみなよ」と言うから僕も挑戦するが、庭をガタボコゆっくり二周しただけで、体中の骨がばらばらになり、首がもげそうになったから、早々に退散した。

「キウイをもぎにいきましょう」と、奥さんたちが言うので、僕もそっちへいく。長男のアキちゃんがもうすでにキウイのジャングルに潜り込み、どこか見えないところで、「あ、大きいのがあった! こっちにも大きいのがある!」と、歓声を挙げながら実をもいでいる。僕も、いっしょになってもいだら、すぐに段ボール箱に四箱とれた。

あまりたくさんあるので、「これを一体どうやって食べるんでしょうね」と、思わず言ってしまった。

キウイの森でキウイをもぐ.jpg
みんなでキウイをもぐ

「キウイジャム、キウイワイン、キウイジュース」と、チャコがアイデアを出すが、あまりレパートリーは考えつかない。僕の多摩の家にも、母が昔植えたキウイがあって、毎年箱一杯くらいとれた。母が亡くなると、子どもの本の作家だった父は、キウイを植えた母を懐かしんで『キウイじいさん』(渡辺茂男作、クレヨンハウス刊)という絵本を書いた。これは、老人がキウイの木に元気をもらって老後を乗り切る物語である。この話には、「キウイ最中」とか「キウイぜんざい」とか、変な食べ物が出てくる。絵はナンセンス画で有名だった長新太さんが描いた。僕は今でもこの絵本が大好きで、これを読むと、父や、今はもうない、キウイの木があった実家が懐かしくなる。

「そういえばさ、キウイが好きなおじいさんが出てくる絵本があったよね」と、ゴーカートを乗り捨ててきた鈴吾郎が言う。「あんた何言ってんの、それは、あんたのおじいさんが書いた絵本なのよ、覚えてないの?」と、チャコがあきれ顔をして言う。

「ねえリッチ、ゴーカートの後ろの車輪をこわしちゃったみたい」と、鈴吾郎が首をうなだれる。「え? そうか、ちょっと見てみよう」とリッチ。ゴーカートを見にいくと、なるほど後のホイールが曲がって、タイヤが外れている。「あれまあ、どこか固いものにぶつけたんだな。仕方ないよ、気にするな」とリッチが慰める。

そんな事をしているうちに、気がつくともう昼。あわてて昼ご飯を食べ、タラブルガ国立公園の森をちょっとだけ歩きに行った。森の奥では、パキスタン人と思しき大家族が、特別に美味しそうなバーベキューをしていたから、森中に香辛料のきいた焼き肉の匂いが漂っていた。その上、僕らにはわからない言葉で、彼らの大きな笑い声が森に木霊していた。

「普段は、もっと静かなんだけどなあ…」とリッチがつぶやく。「パパ、あの人たちのバーベキュー美味しそうだね。ちょっとだけ食べさせてくれないかな?」と、食いしん坊のアキちゃんが言う。「何言ってんだ、お前昼飯食べたばかりだろ!」と、リッチがたしなめた。

僕らは、足早に散歩を終えると、車に山ほどキウイを乗せて、メルボルンへ戻った。短いが、とても愉快な週末だった。

高さ100メートルのユーカリ.jpg
樹齢200年、高さ100メートルのユーカリの巨木
posted by てったくん at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年04月18日

自転車でどこへ行こうか?


2016年4月18日

僕の古い自転車ブリジストン・ダイヤモンド号を直したから、そのことをFacebookに載せた。そうしたら、中学校時代の旧友F君が、ずっと所蔵していた、これも同じくブリジストン・ダイヤモンド号を昨年レストアしたと言って写真をアップして見せてくれた。F君のダイヤモンド号もピカピカだったが、似た様なことを考えるもんだと、全く驚いた。この間書いた、輪友トノムラ君もコメントをくれたが、彼のダイヤモンド号はずっと昔にお釈迦になったそうだ。当然だよな、40年も前の自転車だもの。でも、そのうちまた一緒にサイクリングしようということになったので、Facebookも効用があるのだと嬉しくなった。

サイクリングロード.jpg
サイクリングロードにて

さて、直した自転車でどこへ行こうかと考えつつ、同時に、この間から自転車に関する本をいろいろと読んでいる。今読んでいるのは、米国のDon Pettersonの書いたThe Old Man on Bicycleという本だ。彼は、元外交官なのだが、定年退職後の72歳のとき、突然思い立って、北米大陸の東海岸ニューハンプシャーから西海岸サンフランシスコまで、二ヶ月かけて自転車で横断した。本書では淡々とした調子でその旅の様子を書いているが、同時に老人の健康、老後の生き方についても意見を書いている。 著者は「私にとって老人とは、常に私より15歳年上の人間のことである」と、誰かの言葉を引用して書いていたが、僕も70歳になったら、そう思いたい。こういうことも書いているが、むしろ、老いとは無理に闘うのではなく、上手に折り合いをつければ、アメリカ大陸横断だって決して無理でないことをこの本は教えてくれる。

他にも引っ張り出して読んだのは、伊藤礼著『こぐこぐ自転車』、『自転車ぎこぎこ』、『大東京ぐるぐる自転車』の三冊である。この著者も老人である。伊藤翁は、大学を退職する二年前、やはり突然目覚めて自転車に乗り始め、八十何歳の今も、杉並の自宅から、どこへでも自転車で出かけてしまうというお達者振りである。翁曰く、「自転車なら必ず席に座れるし、必ず時間通りに目的地に到着する。」 僕は、この伊藤先生に大学時代に英語や英文学を教わったのだが、いつも30分くらい授業に遅れてやってきて、出席を長い時間かけてとり、やっと教科書を2ページくらい訳すと、またもや30分くらい早く授業を切り上げるのであった。授業にはあまり熱心ではなかったが、話がとても面白くて、授業の外でも個人的にお世話になったので、「学費泥棒!」とはちっとも思わなかった。

そのころから伊藤礼先生は、エッセイストとして有名で、特に『狸ビール』という訳の分からない本を書いて、世間を騒がせていた。だから、 僕は卒業後もずっと伊藤先生の著作に注目し、ご著書は全部読んでいる。伊藤先生は、お父さまである作家、伊藤整の評伝等が「真面目」な著作だが、上記3冊の自転車エッセイは抱腹絶倒で、自転車に縁のない人もぜひ読むことをお勧めする。『耕せど、耕せど。久我山農場物語』という園芸に関するエッセイも書いておられ、この本でも老境ということについて大いに学ばされる。特に、溲瓶(しびん)の使い方の説明などは、俗人の到達できる領域を越えた記述である。

僕.jpg
パタソンリバー河口にて

そういう本も読みながら、自転車でどこへ行くか考える為に、 僕はベルグレーブの本屋で、メルボルンとビクトリア州自転車地図を買ってきた。当地はかなりの自転車ブームで、メルボルン市内にはかなりの距離の自転車専用道路が整備されつつある。田舎では、元もと鉄道線路だった土地を自転車や乗馬専用に整備している道も大分伸びてきている。

しかし、じゃあ、どこへでもこうした道で行けるかと言うと、そうはいかない。まだまだ自転車は、車道の脇を走らなくてはならないことが多く、ここオーストラリアは自動車の走行速度は普通道路でも70キロ以上だから、路側帯を自転車で走るのは命がけである。僕が住んでいるダンデノン山はけっこう勾配がきつく、路側帯もろくにもなくて、車道を行くのはなかなか手強い。

だから多くの人は、自動車に自転車を積んでどこかまで行き、そこから走り始める。でも、こう言っては何だがキセル乗車をしているようで中途半端だ。しかし、そういうことを言っていたらどこも行くところがないし、結局アームチェア・サイクリストで終わって、地図を眺めて嘆息しているだけで終わってしまう。

田舎道.jpg
ダンデノンクリーク沿いの道

そこである秋晴れの日、僕も車にダイヤモンド号を積み込み、エンデバーヒルズという隣町まで15分程ドライブした。そこからは、自転車道を、パタソン・レイクという海岸の街まで一走りしてきた。ダンデノン・クリークという小川沿いの気持のよい平らな道で、海に近づくと川は太くなり、最後はポートフィリップ湾に注いでいる。その河口まで行ってきた。義弟に前にもらったサイクル速度計もつけてたので、距離や平均時速も分かった。この日走った距離は片道19.5キロ、往復39キロ。平均時速17キロ、走行時間は3時間半くらいであった。

速度計.jpg
速度計は見ていて楽しい

結果から言うと、走ると不愉快になるような幹線道路は走らないで済むので、とても楽だった。難を言うならば、自転車道路というのは走るのが楽すぎるのと、裏道や田舎道を走っている時のような思わぬ発見や意外な景色や光景もなく、やや退屈という面がある。長く苦しい峠道を踏破し、今度は長い下りで快哉を叫ぶクライマックスもない。安全な道はあくまで淡々と続き、過保護なサイクリングと言っても良い。でも、こんな不平を言うのは、贅沢かもしれないから、 今後も、この自転車地図を参考に、あちこち走ってみようと思っている。

イスラム寺院.jpg
ダンデノン市のイスラム寺院

そう言えば、フォーク歌手、高田渡の曲にも『自転車にのって』という曲があった。「自転車に乗って、ちょいとそこまで歩きたいから」というフレーズは言い得て妙だ。自転車の良さは、そいうった手軽さにあるんだと思う。

晴朗なれど、.jpg
ポートフィリップ湾。晴朗なれど波高し
posted by てったくん at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年03月28日

古い自転車のレストア整備

2016年3月26日

今年初頭、Luigi’s Freedom Rideという自転車がテーマの小説を読んでうれしくなり、高校生のときから乗っている古い自転車をレストアすることにした。そのことは、この間書いたが、いっときは、もうこんな古い自転車なんか直すのよそうと思った。でも、この小説の主人公の自転車に対する愛情に感動してモチベーションがぐんと上がり、「古いものは大事にしよう!」と思い直した。

古い自転車2.jpg
きれいになった古い自転車

それから一ヶ月以上、暇さえあれば自転車の整備。一番苦労したのは、錆び落としかもしれない。錆を落とすには、コンパウンドと呼ばれる研磨剤が最も強力である。これを付けたスチールウールでこする。これに勝るものは無い。レモン汁や酢につける、コカコーラに浸けるとかの方法もある(コカコーラは、もう一生飲まないことに決めた)。だが、それでも落ちない錆もある。そういうのは、もうトタン屋根の補修に使う銀色の塗料を塗ってしまった。 コロンブスの卵である。そうすると、一寸見ただけでは新品に見えてしまうくらいきれいになった。(やや誇張気味。)

錆びた部品.jpg
塗ってしまった部品

そんなあるとき、友人のアラン宅に行った。お茶を飲みながら、「40年前の自転車をレストアしているんだよ。錆落としに苦労してね」と僕は言った。

するとアランが、「錆を落とそうと思ううちは、まだ正常。錆たままが良いと思うようになったら、ちょっと異常」と言う。アランは、筋金入りの骨董マニアである。そして、「俺の自転車を見せてやるよ」と、僕を車庫に連れていった。

そこにあったのは、錆だらけの水色の自転車。「これは、パトリシア(アランの奥さん)の誕生プレゼントに買ったんだ。錆びさびだろ。そこがいいんだよ。でも、こういうのが良くなると、かなり気違いだぜ。」

水色の自転車は1930年代のものだそうで、イギリス製のラーレイだか何だか分からないが、鉄製の重たいやつだ。(こんな鉄アレイみたいなもの、よく乗るよ。)
「見てごらん、このライト! アセチレン灯だよ。もちろん点かないけど、かっこいいだろ!」と、アランはうれしそうに言う。

アランは、水道とガスの配管屋で、年齢は60台半ば。若い頃はどもりがひどかったが、オーストラリア南極観測基地のガス水道管理の仕事に志願して、計二年を極地ですごして帰ったら、どもりがすっかり直ったそうだ。 今は温厚な初老の紳士。骨董マニアだが、一番好きなのはクラシックカー。愛車は1964年型ジャガーEタイプで、我が子以上にこれを愛でている。休みとなると、これで奥さんとあちこちドライブ。加えてキャンプ用にと、1970年代のフォルクスワーゲンのバンも持っている。

家の中も骨董だらけ。居間には日本の茶箪笥や掛け軸、竹籠などが置いてあるが、これは奥さんの趣味。家中に古い時計、クラリネットやサックスといった古楽器、自動車の部品、古本なんかがぎっしり。これはアランの趣味。 玄関横の門灯は本当のガス灯がちらちら点いている。庭のあちこちには、日本の灯籠、古い梯子など。統一もへったくれもないが、とにかく古いものだらけの家。

アランが、「もうひとつすごいものを見せてやる」と取り出したのは、自動車の木製ハンドル。もちろんジャガーのもの。「これを手に入れるのは苦労したんだ。アメリカのマニアから譲ってもらったんだけど、本当の1964年型の純正だぞ。見てご覧、木のハンドルに塗ってあるニスがつや消しだろ。これが正真正銘のオリジナル塗装なんだ。普通ジャガーのオーナーは、ハンドルのニスが禿げてくると、艶のあるニスを塗る。きれいだからね。でも、これは間違い。つや消しのニスじゃないとオリジナルじゃないんだよ。これは大発見だ。下手したらスミソニアン博物館ものだ。うははは。」

呆れた僕は、「あんた、本当の気違いだな」と言うと、アランは嬉しそうに、「そうなんだよ、そうなんだよ、うひひひ」ともっと喜ぶ。

僕は気違いじゃないから、古くても、錆びている自転車は嫌だ。きれいにして乗りたい。部品も古いのはかっこいいけど、オリジナルでなくても全然構わない。

緑の自転車.jpg
これは緑化された自転車

でも、アランに刺激されたので、家に帰ると、かなり精魂こめて自転車の整備をした。自転車を完全にバラしてみて思ったのは、パーツ自体はそれほど多くないから、作業は大変じゃない。ただ面倒なのは、真っ黒に汚れた油だらけの部品、特にチェーンに触るのが嫌ということがあるかもしれない。でも、これには使い捨てのシリコン手袋をはめて対処した。汚いチェーンをきれいにするには、お湯をかけたり、灯油に一晩つけておいたりする。他の部品も灯油で磨けば、大概はきれいになる。

それでも、汚い部品やチェーンを磨きながら灯油の匂いをかいでいると、中学生、高校生の頃を思い出す。夏休みや春休み、自転車旅行に行く前に、こうやって自転車を整備したものだ。手先を真っ黒にしながら、心はわくわく。そんな気持を思い出したのは、ずいぶん久し振りだ。

テクニカルなことになるが、長年この自転車の補修が面倒だったもうひとつの理由は、タイヤサイズの問題である。僕の自転車は、650Bの40という特殊なサイズで、このタイヤはオーストラリアではほとんど売ってない。(日本でも、そこらの店にはない。)大概の人は、大人用自転車には26インチか27インチしかないと思っているかもしれないが、これは大間違い。700ミリ、650ミリという径もあり、これらは26インチと27インチと微妙に径が違う。さらに、その中にも、更にこまかい径や幅のバラエティがある。サイズが合わないタイヤは車輪にぴったりはまらないから困る。

今回は、インターネットでそのタイヤを探して海外に発注した。イギリスの店に注文したら、ドイツから送られてきた。届いたのを見ると、アメリカのメーカーだが,製造は中国であった。このタイヤは、地球を一周半してきたわけだ。いったいどうなってんだろう!

さらに、今回のレストアで大問題はフレームの塗装だった。フレームは、傷だらけで目もあてられない状態。もと自転車屋のトニーに相談すると、「いいじゃないの、このままで。古くて傷だらけなのも味だよ、味!」と人ごとだと思っていい加減なことを言う。確かに、少しくらい傷があるのは「味」かもしれないが、 傷だらけでぼろぼろなのは「味」をすっかり通り越している。でも、フレームの塗り直しは目の玉が飛び出るほど高価。オーストラリアだと5万円、日本でも2万円はかかる。新しいフレームが買えちゃう値段だ!

塗装中.jpg
塗装中のフレーム

そこで、思い切って自分で塗り直すことにした。自転車フレームを塗り直すのは、普通はやらない方がいい。上手に塗るのが難しいのと、焼き付け塗装じゃないから、またすぐ傷だらけになるからだ。でも、これもコロンブスの卵。傷だらけになったらまた塗り直せばいい。

そこで、塗料を買いに自動車専門の塗料屋に行った。「自転車のフレームを塗りたいんだけど」と、相談すると、塗料屋が「フレームを持っておいでよ。その色にスプレー缶を調合してあげるから」だって。さすがプロは違う。待つこと一日、オリジナルとほぼ全く同じメタリックレッドのスプレー缶を作ってくれた。うれしいなあ。

古い塗装を落としたり、2日くらいかけてフレームを塗りあげる。我ながら、「ムムム!」と唸りたくなる程きれいに塗れた。

ツリーハウス.jpg
我が家の古びたツリーハウス。アーティスト西川しょう子さんと、文庫の子ども達がきれいに塗り直してくれました。

後は、ブレーキやギアのケーブルやなんかの消耗部品。ここまでくれば楽勝。インターネット時代だから、普通の部品ならどこでも郵送で買える。最後に、すり減って虫食い状態になったクランクのシャフトも替えることにした。寸法を測ると、73ミリという非常にレアなサイズで(普通は68ミリ)、一瞬青ざめた。こんなの今どきあるの? でも、シドニーの自転車屋にちゃんとあった。

でも、部品を探しながらインターネットで見ていると、古い自転車をレストアして乗るのは、けっこう一般的な趣味として広まっていることが分かる。一種の懐古主義だ。メルボルンにもその筋の専門店が2、3軒あることを知る。そのうちの一軒は、「MOTTAINAI Bicycle」と言う名前。 http://mottainaicycles.com/ 

もちろん、日本語の「もったいない」から命名したらしい。街に出たついでにのぞいてみたら、倉庫みたいな場所で、ヒッピー風ひげ面男が三人ほど、古い自転車を組み直していた。 店にはあること、あること、懐かしいオールドバイクがたくさん 。デローザ、ビアンキ、エディメルクス、プジョー、ラーレーなどに混じって、丸石、ミヤタ、フジといった日本車もある。懐かしくて涙が出そう!

インターネットを見てると、日本にも気違いがたくさんいることが分かる。中でも、古い自転車を徹底的に整備して磨き上げるのが趣味のおじさんたちにもつける薬はない。アランみたいな錆びさび派?とは逆で、こちらはピカピカ派だ。そこまでピカピカに磨いてどうすんの?と思うくらいに、ピカピカに磨く。確かに、昔の60年代から80年代くらまでのロードレーサーやランドナーといった自転車はかっこいいから磨きたくなるだろうけど、ここまできれいにしたら、外で乗れないじゃないの?

繰り返すようだが、僕はそこまで気違いじゃないから、古い自転車をきれいに整備して、もう一度走れるようになればハッピー。

三月中旬、ついにダイヤモンド号が完成。さっそく走りに出る。家を出て、モンバルク村、エメラルド村、メンジーズクリーク村と三角に走って40キロ。田舎道、未舗装道路も多いから、きれいだったダイヤモンド号は、すぐに埃だらけ。でも、久しぶりに走ると気持がいい。ところが、54歳の僕には、山坂が意外にきついのも新たな発見。昔はこのギアで奥多摩、秩父、丹沢、日光いろは坂、信州乙女峠なんかを荷物いっぱい積んでがんがん走ったというのに、今はちょっと坂がきついと、一番低いギアで、時速八キロのろのろ走行。

ようし、これからはトレーニングして、あちこち走るよ。

機関車.jpg
近所の森の中を走る100年前の蒸気機関車。これもぴかぴか。
posted by てったくん at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年03月08日

自転車が好き

2016年3月8日

お隣の庭先のユーカリの古木が枯れたので、市が突然伐り倒しにきた。自分の家の庭先でも、道路から二メートルくらいまでは市の土地で、そこにある木も市が管理する。お隣の夫婦はニュージーランドへ旅行中だった。それで、帰ってきたら家の前が伐採した丸太の山になっていて仰天。ご主人は、「伐ったのはいいけど、一番枯れている木を忘れているんだよ」と言った。見ると、一本、枯れ木が丸々残ってた。 これは、次回を待たなくてはならない。

そんなおかげで、我が家も薪のお裾分けにあずかった。ありがたや。まだ薪ストーブを燃やすには早いが、だんだんと秋が深くなってきている。

木を伐る.jpg
樵(きこり)は、高いところが好きでないと勤まらない

秋と言えば、読書だ(でも、何でだ?)。地元ベルグレーブの小さな図書館に週に一回は行くが、図書館で本を借りる良さは、自分では買ったり、選んだりしない様な本が陳列されていることだ。そういう本を読んで面白かったりすると、うれしい。特に、日本語になってないオーストラリアや他の国の作家を知ると、新しい友達ができたような気分だ。

この間読んだ小説、Louigi’s Freedom Ride(Alan Murray、Fourth Estate 2014)に影響されて、僕の中で自転車熱がぶり返している。オーストラリアに来てから、自転車からはやや遠ざかっていたのだが、この本のおかげで再燃した。

これは、オーストラリアの作家の本だが、イタリヤの北部田舎町で生まれ育ったLouigiという自転車少年の物語である。時代背景は、第二次大戦前から現代までである。Louigiは物心がついてからずっと自転車が大好きで、あちこち乗り回していた。親父が鍛冶屋で工具類がうちに豊富にあるから、自転車修理にも詳しくなる。やがて第二次大戦が始まり、ムッソリーニの自転車部隊に入った。ところが戦争が激化してくると、イギリスのスパイと知り合いになり、やがてファシストであるムッソリーニに抵抗するレジスタンス活動に参加する様になる。そうやって、ナチスドイツやイタリヤのファシスト党に抵抗しているうちに戦争がどうにか終わる。そこで今度は、子ども時代からの夢であった「地球の果て」オーストラリアまで、自転車旅行をすることになった。途中でイスラエルに寄ったり、スリランカで酒浸りになったりするが、どうにかシドニーにたどり着く。そればかりか、そこで戦争で離ればなれになっていた友達や恋人に巡りあったり。それから恋人と結婚し、シドニーの裏町で自転車屋を開くと、それが成功して、最後はシドニーの北の海岸沿いの田舎町に引っ越し、そこで幸せに生涯を終えた、というお話。シドニーでイタリヤ時代の恋人に偶然再会したりするくだりは、かなりご都合主義的だが、それでも非常に楽しい物語で、あっという間に読み終えた。

また、この本には、自転車に関する引用があちこちにちりばめられてあって、それがけっこう面白かった。
例えば、こういう引用。

「空気圧ってのは、とても大事だ。例えばトランペット奏者で、このことを分かってない奴は、決して、甘い素敵な音を出せない。自転車のタイヤと同じだ。正しい空気圧は「彼女」をクールに、やすやすと運んでくれる。空気圧がちゃんとしてないタイヤは、ばあさんのオッパイと同じで、ぺったんこで、まるで役に立たない。
ザビエル・ヌガット、パナマ・スター・クインテット1937年」

引用をもうひとつ。

「サイクリングの喜びは、グライダーで空を滑空することに等しい。サイクリングには、心を静かにする何かがある。それは、体と心、精神と肉体の完全な統合の境地である 。きちんと指導しさえすれば、サイクリングは、どんな狂気も、平静で正常な心に戻すことができるだろう。
  ベレッカー・ボルグ、『銀輪とギア、あるいは運動セラピー』1968年」

とのむらと.jpg
トノムラと僕、信州に向かう朝(1978頃)

僕は、中学時代から高校時代、それから大学時代まで、サイクリングが好きで随分いろいろな所を走った。最初のサイクリングは、中学一年の夏休みの初日、中学校の寮があった沼津から、 同級生のトノムラ君と東京の実家へ走って帰った。箱根の山もものとはせず、130キロの道のりを矢の様に走破した。

それからは、箱根、伊豆、富士、東海道、奥多摩、丹沢、秩父、甲州、信州、木曽路、飛騨、伊勢と、休みの度にどんどん足を伸ばした。僕の輪友(懐かしい言葉だ!)は、長いことそのトノムラ君だったが、やがて、大学の同級生だった妻ともあちこち走る様になった。彼女も自転車好きで、卒業後はしばらく『サイクルスポーツ』という雑誌の編集部で仕事をしていたくらいだ。僕は、北海道は二周したが、一周はトノムラ君と、もう一周は妻とした。

ところが、オーストラリアへ引っ越してからは、以前ほど自転車に乗らなくなった。子どもも二人いるし、仕事も忙しいという月並みの理由もあるが、加えて言うならば、オーストラリアはアメリカみたいな車社会だから、案外自転車で走り難いこともある。自転車でのろのろ走っていると、車に弾き飛ばされそうになる。普通の道路でも自動車は、80キロ、90キロで走るから、道路を選ばないとなかなか恐ろしい。

もうひとつ言うならば、町と町の間の距離が非常に長いから、自転車のツーリングとなると、半端ではないということもある。日本やヨーロッパなどでは、どんなに田舎に行っても、4、5キロも走れば、隣村や町があって、そこにはお店もあれば、レストランやコンビニもあるだろうし、キャンプ場や、日本だったら温泉だってある。だから、走っていて飽きないし、休む場所にも事欠かない。


南仏で.jpg昨夏、南仏にて、息子鈴吾郎

 ところが、オーストラリアでは、僕のいるビクトリア州でも、ちょっと田舎に行けば、100キロ、200キロくらい行っても、何もないのが珍しくない。200キロは、自動車なら2、3時間だが、自転車では、頑張っても2日はかかる。
 そんなところを軽い気持でサイクリングなんか出来ない。もちろん、そういうところを走っている猛者も、いるにはいる。何時だったか、田舎を車で旅行していたら、日本人のサイクリストとすれ違った。荷物を満載した自転車に、日の丸をつけて走っていたからすぐ分かった。

その後、四日程して、僕が同じ道を戻ってきたら、またその自転車青年を追い越した。前にすれ違った所から大して前進してなかった。これが、オーストラリアのサイクリングの実情である。

ところがLouigi’s Freedom Rideを読んでいたら、昔のサイクリングの喜びがふつふつ蘇ってきた。峠を越えた時の達成感、その後に長い坂道を下る時の爽快感、丸一日自転車をこいだ後の心地よいけだるさ、知らない町を訪れる旅情、そんな感覚が僕の記憶の底から浮き上がってきた。

僕は、たまらなくなり、物置に突っ込んであった古いサイクリング車を引っ張り出してきた。少年時代は宝物のように大事にしていたが、最近は埃をかぶり、物置で錆だらけになっていたのだ。思えば、15歳のときに買ってもらって以来40年、この自転車と僕は二人三脚で生きて来たと言える。ちなみにこの愛車は、ブリジストン、ダイヤモンドキャンピング、15段変速。当時の自転車としては、かなり高級車だった。うちの親も、よくこんなものを買ってくれたものだ。

自転車.jpg
錆だらけのダイヤモンド号

 そんなで、この自転車をすっかりきれいにして、またサイクリングをしようと、僕は企んでいるのだ。

再塗装をまつフレーむ.jpg
塗装を待つフレーム

サドル.jpg
皮サドルは、ひび割れをお手入れ中

クランク.jpg
パーツ類も磨いている


付記: 

メルボルンも、最近は自転車ブーム、エコブームなので、シティの中は大分自転車道が整備された。それから、田舎にも、レイル・トレイルと言って、昔鉄道が走っていた後を自転車や馬や徒歩で歩ける様にしてある場所がたくさんある。そういった場所を、あちこち走ってやろうと思っている。



posted by てったくん at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年01月31日

1月26日オーストラリアデイは「ギョーザの日」

2016年1月31日

オーストラリアでは、1月26日は「オーストラリアデイ」という祝日、建国記念日のような日である。これが1月最後の週末なので、振替休日がくっついてロングウィークエンドになったり、飛び石連休になったりする。この日が終われば、子ども達の夏休みも終わりで、翌日辺りから学校がはじまる。だからこの週末は、「最後だから、うんと楽しもうぜ」という雰囲気だ。

P1040234.jpg
夏なのに、雨が多くて寒い。

オーストラリアデイの起源は、そもそも1788年1月26日に、イギリスからアーサー・フィリップ総督を乗せた船がシドニー湾に到着し、その旗を立てた日ということである。これが、現在のオーストラリアという国家の始まりということになっている。

もちろん、こういう日をこの国の起源にすることに異議がある人は山ほどいる。大体オーストラリアは、イギリスの流刑地としての植民地で始まった訳であるから、アメリカみたいに、イギリスと袂を分かった人たちが、理想の土地を求めてやってきて住み始めたのとは訳が違う。大体、流刑地だったなんて、かっこう悪過ぎる。

それに、オーストラリアに元々住んでいた先住民であるアボリジニの人たちの立場はどうなるのか? イギリス人に土地を奪われ、 荒野に追い立てられて、イギリス人の牧場を横切っただけで銃で撃たれたり、踏んだり蹴ったりの200年だった。だから、アボリジニの人たちの中には(加えて、アボリジニじゃない人でも)この日を「侵略の日」と呼ぶ人たちもいる。

P1040216.JPG
我が家を侵略してきたエキドゥナ(ハリモグラの様な有袋類)

それに、これまでの200年間には、イギリス人から始まって、いろいろな移民がオーストラリアにやってきている。ドイツ人、ギリシャ人、イタリア人、ロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、オランダ人、ユダヤ人、中国人、ベトナム人、日本人、イラク人、アフガニスタン人、ソマリア人、何だっている。こうした人々の立場はどうなる?

イギリスからだって、1901年に独立しているわけだし、今さら、オーストラリアがイギリスの植民地だなんて思っている人はないだろう。それなのに、イギリスの植民地としてオーストラリアが始まった日を未だに祝っているのはしっくりこない。かなりアナクロ的だと言ってもいい。

だが、国家の起源や建国記念日を、その時代ごとの風潮に照らし合わせてしょっちゅう変えてしまうのも大変だろう。第一、1月26日のオーストラリアデイが無くなったら、夏休みが1日か2日短くなってしまう。そうなったらもっと大変だ。だから、難しいことをごちゃごちゃ言うのは止めて、バーベキューでもして、夏休みの最後の一日を楽しみましょう、というのが大勢の姿勢である。かく言う僕も、そんな一人である。あまり政治的になって、せっかくの休日なのに頭痛持ちみたいな顔で過ごしたくない。

P1040229.JPG
夏なのに寒くて薪ストーブをたいてしまった。

じゃあ、今年のオーストラリアデイは、何をして過ごしたかと言うと、餃子を作って食べて過ごした。息子鈴吾郎(りんごろう、13歳)の同級生のお母さん達が「餃子の作り方を教えてちょうだい!」と言ったからだ。息子らは、しょっちゅう我が家で餃子を食べている。餃子は、鈴吾郎の大好物だから、我が家では週に一度は作って食べている。たまたま遊びに来た友達も、だから餃子を食べる機会がある。で、余った餃子は冷凍にしておき、鈴吾郎は学校へお弁当に持っていく。だから、我が家の餃子は、この辺りではかなり有名なのだ。

だから、オーストラリア人の子どもらも、「うちでもギョーザ作ってよう!」とわめくはめに。ところが、お母さん達は、我が家の餃子を食べたことがないし、作り方も分からない。

それに加えて、今、オーストラリアではちょっとした餃子ブームが起きている(今ごろ?ってな感じですが)。日本で餃子ブームがあったのは、もう随分前だから、その伝播の速度が如何に遅いか良くわかるだろう。オーストラリアなんて、そんなもんである。しょせん地の果て、南半球の離れ島なんである。

餃子の他に、ラーメンも大ブームになっているが、ヨーロッパ、北米でラーメンブームがブレークしてから2、3年はたって、やっとブレークしている。 それくらい、オーストラリアの人たちは遅いのだ。いつも流行に乗り遅れている。(ちなみに、ユニクロも無印も、ようやく昨年あたりようやくメルボルンに進出したが、まだ知名度はそれほど高くない。これからである。)

だから、そんなメルボルンには、今さらのように餃子屋がタケノコのように芽を出しているし、スーパー等でも冷蔵、冷凍の餃子が出回り始めている。だが、餃子は高値で希少である。贅沢品の範疇に入るかもしれない。だから、うちの近所の人たちは餃子が食べたくてしょうがない。

そこで、「よっしゃ、それほど望むなら餃子の作り方をお教えしましょう!」ということになって、2家族(プラスうちの娘の友達三人)が集まった。我が家も入れると、総勢12名ほど。けっこうな人数だ。餃子の皮は200枚程用意した(足りるかな?)

ところが、蓋を開けてみると、このメンバー、いろいろな食事制限やアレルギー持ちがいて困った。これが現代オーストラリアの問題である。例えば、ニッキーというお母さんは、消化不良を起こすのでタマネギ、青ネギ、キャベツや白菜がだめ。グレースちゃんという娘は、小麦粉をはじめとしたグルテン質がだめで、卵ダメ、味の素みたいな調味料なんか食べたら死んじゃう。娘の友達、 21歳のお嬢さんのケイティは、ビーガンのベジタリアンだから、肉はもとより、魚や乳製品、卵も食べない。

もう、いったいぜんたい、 どんな餃子を作ったらいいわけ?と、僕は思わず叫んでしまった。でも、うちのカミさんは、そういうのにとても慣れている人なので、「だーいじょうぶ、だーいじょうぶ、まかせておいて。あんたは、焼き方だけ教えれば良いから」と言う。

かくして、餃子教室を行ったのだが、どうにかなるもんだ。結果として、以下のような餃子ができた。

1)春雨、豆腐、ひじき、ニンジンとショウガ入り餃子、
2)青ネギ、春雨、豆腐、キャベツ、鶏肉ひき肉の餃子(ただし、皮は米粉の春巻きの皮)
3)牛豚の合い挽き肉と、ネギ、キャベツ、ニンニク、ショウガとシソが入った餃子。

P1040235.jpg
鉢植えのシソ

僕は、餃子の焼き方を指南した。「まず、フライパンを熱くしてから油をたっぷりひきます。それから餃子を並べて入れて、コップに半分くらい水を足します。それで、蓋をして蒸し焼きにするのがコツですよ」てな具合。小麦を水に溶かして、かけ回すと焼き上がりがぱりぱりになる。これも、やってみせる。

餃子を蒸し焼きにすると言う感覚が、オーストラリア人にはなかなか分からなかった様子であるが、別に難しいことじゃないので、みんなすぐに上手に焼ける様になった。

味の方は、どれもけっこう美味しかった。僕としては、ベジタリアンのひじきの餃子がけっこう好み。オーストラリア人のお母さんたちは、餃子の具(餡と言うのかな?)をかなりぎゅうぎゅうにつめたので、かなり太めの餃子となったけど。これってオーストラリアっぽい?

彼女たちの感想は? 「思ったよりも簡単だった!」、「こんなに餃子をたくさん食べたの初めて!ゲップ」、「フェタチーズとカボチャなんか入れても美味しいかもね!」

中学生男子の感想は?「けっ、ベジタリアンの餃子なんか食えるかよ。肉が入った餃子が一番うまいに決まってるじゃん!」

とにかく、良かった、良かった。

と言う訳で、オーストラリアデイに餃子というのは、新しい伝統なのかもしれない。

P1040225.jpg
中学生男子である息子がクリスマスプレゼントにくれた手製の木槌と手彫りのスプーン(木箱も手製)
これは嬉しかった。




posted by てったくん at 19:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2016年01月15日

Where are we now? 今どこにいるのだっけ?

2016年1月15日

暮れと正月に日本に行っていた。ほとんどは東京武蔵野市の妻の実家に居たのだが、クリスマス前に2泊3日で息子と伊豆大島に行った。 大島は二人とも初めてだった。

釣り2.jpg

13歳の息子鈴吾郎は、オーストラリアから日本に来ると、朝から晩までテレビを見ているか、吉祥寺などの盛り場で小遣いを全部使ってしまうかなので、少しでもそういう環境から引き離すために大島に行ったわけだ。

ただ、それは建前で、僕が東京にあまりいたくなかったから、三日間だけでもどこかへ行こうと考えた。息子は、ちょうど良い口実だった。僕は、せっかく東京に帰ってきても、東京にはあまりいたくない。用事が終わると、どこかへ行くか、メルボルンへ帰って来たくなる。東京がそんなに嫌いな訳でもないのだが、長くはいられないのだ。

テレビや買物が好きな鈴吾郎も、父親と釣り旅行に行くのは嫌ではない。だから、武蔵野の家をリュックサックを背負って出た二人の足取りは軽かった。 中央線を神田で降り、釣具屋で新しい磯釣り竿を奮発する。僕たちは、二人連れの浦島太郎のように意気揚々と竹芝桟橋に向かった。

大島は東京から意外に近い。距離にすると120キロだが、竹芝桟橋からジェットボートだと二時間かからない。僕たちの乗るジェットボートは極彩色の虹色に塗ってあって、薄曇りの冬空の下では、はしゃぎ過ぎな感じだった。出港するとすぐに時速80キロの高速ですっ飛ばし、羽田空港、横浜、横須賀、観音崎の先をかすめ、1時間程で相模湾の外に出た。荒れた海の上をいくがいくが行くと、45分程で大島の岩壁が見えて来る。

ジェット戦.jpg

大晦日までまだ一週間あるから、大島はひっそりとしていた。泊まった旅館もガラガラだった。「まだ年末のお客さんは来ませんし、島民の忘年会があるくらいですね」と、宿の主人は言った。僕たちは、露天風呂に嫌になるくらい浸かってから元町に出て、ほとんど一軒だけ開いていた居酒屋で、好きな食べ物をデタラメに注文して食べた。それから宿に帰って、大きな和室のふかふかの布団にごろごろし、TVで下らないお笑い番組を見た。息子はテレビを見ながら、島の雑貨屋で買った大きなドラ焼きをぺろりと平らげてみせた。寝る前にもう一度温泉に入ると、空にでっかい月が出ていた。大きな松の木が風にゆさゆさ揺れていた。

居酒屋.jpg

翌日は、穏やかないい天気だった。宿のすぐ前の元町港の桟橋で釣りをした。横にいた地元の釣り師は「冬はちっとも釣れないよ」と言いながらも、80匹ばかり小振りのメジナを揚げていた。僕たちは、フカセ釣りのコツも分からなかったから、あまり釣れなかった。それでも同じ様なメジナを4、5匹釣っただろうか。

魚.jpg

昼飯を港の横のひなびた定食屋で食べ、午後も同じ場所で釣った。やっぱりあまり釣れなかった。でも、釣りをしていると不思議に退屈しない。波に映るいろいろな陰や光を見たり、遠くの伊豆半島や伊豆諸島を眺めたり、その手前を行き来する船を数えてみたり。息子は、大きなカラスを追いかけて、逆に追いかけられたり。

大島の夕日はとても良かった。冬の短い日は四時頃から暮れかかる。やがて雲の間から大きな赤いお日様が降りて来て、最後はストンとばかり海の中に落ちて消える。その後もしばらくは夕日の光の名残がある。こういう時間帯が一番釣れる筈なのだが、僕らの竿にはもう魚はかからなかった。

夕日.jpg

宿に帰り、その夜も最初の日と同じ様に元町で夕食を食べ、温泉に入って寝た。

翌日は、曇って寒い冬の天気だった。大島は東京よりもいくらか暖かいだろうが、それでも外は寒い。宿のおやじさんが車で岡田港まで送ってくれた。午後二時サルビア丸が出るまで、岡田港で釣りをするつもりだ。岡田港では大きなシマアジなんかも揚がると言う情報だったから、鈴吾郎は「大きなのが釣れるかな?」と、期待感に胸を膨らましていた。

釣り竿.jpg

ところが、全くダメだった。横で釣っていた東京から来ているグループにも大した獲物はなかった。鈴吾郎は、そうなると諦めが早く、「僕は船の待合所にいるからね」と、ゲームをして時間をつぶそうと、パソコンを抱えて建物に入ってしまった。僕だけは、もうしばらく桟橋で頑張ったが、エサ取りの小魚に餌を取られるばかりで、釣果はなかった。

寒くていられなくなったので、僕も待合所に退却した。釣りと言うのは、魚が釣れれば楽しい。では、釣れないと楽しくないかというと、そういうこともない。全ては心の持ちようである。

僕と鈴吾郎は、船を待つ間待合所の食堂でラーメンを食べた。 鈴吾郎はラーメンに加えて「あしたば餃子」を注文した。13歳の男の子は、本当によく食べる。

昼過ぎ、大きな観光バスが2、3台やってきて、水兵のような制服を着た高校生がどっさり降りて来た。島にある全寮制の海洋高校がこの日でおしまいなので、帰省する生徒達が 本土の実家にかえるところだった。(道理で、帰りはジェットボートが満席で、僕たちは普通船のサルビア丸で帰るはめになったはずだ。)

200人ばかりの高校生は、あっという間に待合所を埋め尽くし、お土産を買い漁り、アイスクリームを食べ、ラーメンを食べ、缶コーヒーを飲んだ。見ると、生徒の三人に一人は手荷物に釣り竿を持っている。当然かもしれないが、島の高校生は余暇に釣りをするらしい。愉快な発見だった。

「みんな釣りが好きなんだね」と、鈴吾郎も嬉しそうに言った。やがて、 ジェットボートが入港し、高校生たちが乗り込み、東京方向へ消え去った。 待合所はまた静かになった。

入れ違いで、僕たちの乗るサルビア丸も入港した。4000トンの船が、狭い岡田港で向きを変える光景は迫力がある。接岸すると、すぐさまコンテナーをいくつも詰め込み、驚く程少ない乗客を乗せてサルビア丸もさっさと出航した。僕たちはデッキに出て、島が小さくなるまで眺めていた。

サルビア.jpg

室内に入ると、帰省する労働者風の人たち3、4名が自動販売機でビールやタコ焼きを買い、ほとんど口もきかずに酒盛りをしている。黙ったままビールをすすり、テレビで競艇の中継を眺めていたが、やがて毛布をひっかぶって寝てしまった。

鈴吾郎は、パソコンでゲームをしているので、僕はまたデッキに出た。午後3時と言うのに外はもう薄暗い。相模湾はけっこう荒れていて、白波がたっている。4000トンのサルビア丸もけっこう揺れる。デッキの真ん中では、船酔いにならないようにか、何人もの男達が毛布を頭の上までひっかぶって寝ている。まるで死体みたいだ。この寒いのによく外で寝ていられるものだ。

僕は室内に戻り、ゲームに飽きた息子とテレビで女子サッカーの中継を見た。やがて船が揺れなくなり、東京湾に入ったことが分かった。

竹芝桟橋に到着するまで、またデッキに出た。クリスマスを2日後に控えた東京のイルミネーションは、夢の国みたいだった。ゾウリムシのような屋形舟もみな満艦飾に電球で飾り立てている。中では忘年会がたけなわなのだろう。

夜景.jpg

「あ、東京タワーだ!」と、鈴吾郎が叫んだ。東京タワーは、光の洪水のビル街の上に、灯台のように君臨している。「やっぱり、東京タワーはいいなあ、東京に来たっていう感じがするよ」と、オーストラリア生まれの息子が言う。僕はおかしくなって吹き出してしまう。53歳の僕の感慨と同じだからだ。東京タワーを見ていると、僕の中にある日本や東京への愛憎、過ぎていった年月への懐かしさが温泉のようにこみ上げてくる。

タワー.jpg


竹芝桟橋に着いて、僕たちは浜松町まで歩いた。ホームに立つと、あっという間に山手線が来た。神田で中央線に乗り換えて椅子に座ると、 息子は疲れたのか僕にもたれかかってすぐに寝てしまった。電車の中では、 釣り竿の置き場所に困った。

これが、僕と息子の伊豆大島旅行の思い出だ。その後、クリスマスが来て、お正月を賑やかに家族や親戚と過ごし、神社やお寺に初詣し、僕と家族は日本の正月を堪能してから、メルボルンに帰ってきた。

もどって数日。ニュースを見ると、歌手のデビット・ボウイが亡くなったという知らせがあった。彼が最後に歌ったWhere are we now?という曲がバックに流れていた。

ボウイは、昔ベルリンに住んでいたそうだが、Where are we now?は、ベルリンの壁がまだあったその頃を歌った曲だそうだ。何度も耳にしたから、Where are we now? というフレーズが耳に焼き付いてしまった。歌詞の元の意味に関係なく、歌に込められたボウイの気持が僕の感情に共鳴する。歌とはそういうものだ。

「もう、日本には帰ってこないのか?」今回の帰国でも、複数の肉親や友達に尋ねられた。 僕は、今年でオーストラリアに来て20年 になる。昨年大病をして死を垣間見た義父に尋ねられたりすると、本当に答えに困る。

Where are we now? 今どこにいるのだっけ? オーストラリアに決まっている。が、僕は、こうやって、大島とか、日本のことなんかもよく考える。僕(の気持)は、本当にどこにいるんだろう?と思うこともよくある。

ボウイが歌う。
Where are we now, where are we now?
The moment you know, you know, you know.  
As long as there’s sun,
As long as there’s rain,
As long as there’s fire,
As long as there’s me,
As long as there’s you.

今どこにいるのだっけ? どこだっけ? 
でも、すぐ思い出す。思い出す。思い出す。
日が出さえすれば。
雨が降りさえすれば。
火が燃えさえすれば。
僕さえいれば。
君さえいれば。

posted by てったくん at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年12月04日

神様がくれた「38平方メートル」

2015年12月

暦を一枚めくって、2015年も12月になった。師走。

さて、前回のブログにベランダを作る為、土台を埋める穴を掘っていることを書いた。そのベランダが完成した。土台の穴を掘り始めてから二ヶ月。本職の大工なら二週間くらいで仕上げる仕事だろうから、その何倍も時間がかかったことになる。

berannda.jpg

作る上で、どこが一番大変だったかと聞かれても分からない。穴掘りだったかもしれないし、合計410メートル長のデッキ板に、等間隔に穴を開け、そこに5センチのネジを埋め込んでいく作業だったかもしれない。ネジは合計で1300本埋め込んだ。

実はもっとゆっくり仕上げたかったのだが、11月中旬、娘の鼓子(ここ)に期限を付けられた。「パパ、私の二十一歳の誕生パーティーに間に合わせてね。」鼓子は12月18日に二十一歳になる。二十一歳になると、オーストラリアでは成人になったとことを祝う習慣がある。そのときは、友達や親類を呼んで大いに賑やかにやる。(現在、法的な成人は18歳であるが)。

僕は絶句した。「えっ! そんな、間に合わないかもよ」。すると鼓子が言った。「間に合わないなら、パーティーをキャンセルするから、そうなら早く言ってね。」

と言うわけで、娘に甘い父親は、焦ってデッキ作りに精を出す毎日になった。

ところが、土台の穴掘りが終わった頃、ちょっと胃の調子が悪くなり、胃カメラを飲んで検査することになった。人生初めてのイベントだった。幸い、胃は胃酸過多ということで、それほど大事には至らなかった。やれやれ。

土台の埋め込みが終わると、土台の上に桟(さん)を渡す作業だ。これは正確さが問われる作業なので、緊張した 。左右も上下も、寸法がぴったり合い、しかも上板を渡したときに面が水平にならなくてはならない。だから、水準器を片手に、電動ノコで土台の杭を切る時も、切り口が水平になるように気をつかった。ここも、どうにか乗り越えた。

joist.jpg

さあ、次はいよいよ上板を註文して、それを張り付ける段階だ。上板を註文する為に広さを計ると、全部で38平方メートルあった。

近所のホームセンターに行く。店主のグラントの計算によれば、38平米だと、90センチ幅のデッキ材が410メートル分必要という計算だった。しかも、このうち5%は無駄な端材となる言う。上板は硬質で、しかも防水のきく木材だから、一番値の張る材料であることは言うまでもない。無駄は出したくない。

とにかく、410メートルとは驚いた。一体いくらになるんだ? するとグラントは、僕の気持を汲み取って、こう言った。「テツタさんも多分ご存知のように、現在大手XXと〇〇というふたつのホームセンターは、デッキ材料の値段で互いに競っているんですよ。だから、はっきり言うと、XXで買うのが一番安い。でも、当店とテツタさんは、これまで、とても良い関係を築いてきましたから、私としてはぜひ誠意のあるところを見せたい!」

こう言うと、グラントは景気良く計算機をパンパンと弾いた。それは、思っていたより300ドルほど安い値段だった。こうして商談は成立した。僕も、大手ホームセンターを儲けさせるより、地元の個人商店を応援したい。

結局、一メートル5ドルくらいだったので、410メートルで2000ドル以上かかった。しかし、これくらいのデッキを大工に作らせたら2、3千ドルではとても済まないので、文句は言えまい。

また、このデッキ材を張る為には、デッキ用の枕頭ネジが必要だが、何本必要なのか皆目分からなかった。(結局、500本入りの箱を二箱半、1300本程使った。)

それから、デッキ材を切るノコギリもいる。これは普通のノコギリで大丈夫。ただし、切れ味が良くないといけないので、ドイツ製の新品を買った。410メートルのデッキ材(全部で140枚)をぎこぎこ切っても、まだ切れ味はそれほど悪くならなかった。なかなか優れもの。

それから電気ドリル。うちには二つあるので重宝した。ひとつは、穴あけ用、ひとつは枕頭ネジを入れる用。枕頭ネジは、プラスマイナスのネジでなく、四角い穴があいた特殊なものだった。

ほどなく、デッキ材も届いた。いろいろな長さのものが140本。ものすごい量だ。本当にこれを張っていくわけ?

さて、最初の一本。

デッキ材を束から取出して、驚愕。2メートルのもの、3メートルのもの、4メートルのもの、どれひとつとしてまっすぐなものはない。みんな弓形に曲がっている。酷いものは、真ん中で、1センチ以上湾曲している。

「これって不良品じゃないの!」僕は、すぐにホームセンターのグラントに会いに行った。

グラント曰く、「木材ってのは、みんな曲がっているものなんです。だから張るときは、クランプとか、ねじ回しをテコに噛ましてね、ぐっと押さえてまっすぐにして、そのすきにドリルで穴をあけ、そこへネジを入れてやると、まっすぐ張れますよ。思ったよりも簡単、簡単。すぐ馴れますよ。グッドラック!」だって。

でも、こんな長いものを押さえながら、ドリルで穴を開けて、ドリルを持ち替えて、そのままネジなんか入れられるかよ。手が三本必要じゃないの!泣きたい気持だった。

そんなで、最初の一列(約10メートル)を張り付けるのに、午前中いっぱい奮闘。張っても、デッキは、何だか うねうね曲がっている。その上、かがんで作業をするので、腰は痛いし、腕は痛い。ドリルで木ネジを止めるから、腕は腱鞘炎になりそう。これを10メートルかける40列もやるわけ? まったく途方に暮れた。

ところが、そんな調子で初めた割には、二列、三列やるうちに、段々コツが分かってきた。酷く湾曲したデッキ材を矯正するには、車のタイヤジャッキが役に立った。成功した時は、思わず快哉を叫んだ。

こうして、毎日午後になると、毎日二時間ほどデッキを張り続ける生活が続いた。


「目覚めよ! 神様にしてみたい三つの質問」

ある日の午後。デッキ材を計っては切り、ドリルで穴を開け、枕頭ネジでとめる作業に没頭していた。祈る様な格好でひざまずき、夢中で仕事に打ち込んでいた。

すると、頭上で日本語の声がした。「お邪魔しまぁーす! おやおや、お仕事中ですか?」

見上げると、スーツを着た若い男二人が、玄関先からこちらを見てニコニコしている。スーツを着た人なんか、メルボルンのここらで見かける事はまずない。しかも、スーツを着た日本人と言えば、宗教パンフレット配りに来た青年たちに間違いない。

この人たちは、度々我が家を訪れている。あるとき、どうしてメルボルンの果てのこんな所に日本人が住んでいるのか分かるのかと尋ねた。すると、「電話帳を見て、日本のお名前の方を訪問させていただいているんですよ」という答えだった。そう言えば、うちは電話帳に名前と住所がでている。最後に電話帳を見た時点で、メルボルンには「ワタナベ」さんが7、8名掲載されていた。結構いるもんだな。

僕がドリルを下に置いて、近づくと、二人は恐縮して、揉み手をしながらニコニコ笑った。「お忙しい所、申し訳ありません。大工さんですか?」

この人たちは、いつも礼儀正しい。一方、いつも僕はぶすっと答える。
「いいえ、これは自分の家なの。デッキ作りを趣味でやっているだけ。」

すると、「すごーぅい! これ全部自分で作ったんですか?」と、丸顔の男が素っ頓狂な声で言う。やや関西弁だ。

「ええ、全部自分で作ったんだよ。で、何か用事?」と、僕は(分かっているくせに)聞いた。

「お忙しいところ、すみません。このパンフレット置きにきたんです。良いことがいっぱい書いてあるから、ぜひお読み下さい!」と、また丸顔が言う。

「わざわざ、どうも。いつもご苦労様。大変ですね、遠くまで」と、僕は皮肉っぽく 言った。

「うふふふ、大丈夫です」とまた丸顔。こいつは、何を言っても笑っている。けっこう徳をつんでいるのかもしれない。もう一人は、無言でニコニコして立っているだけ。

「こちらには長くお住まいですか?」と丸顔。
「そうねえ、15年以上かな」と僕。
「すごーぅい!そんなに長く?」と丸顔が、ため口で、うれしそうに叫ぶ。

僕は、吹き出しそうになり、「お二人は?」と、尋ねる。
「僕たち、ワーキングホリデーです。うふふ。」と、丸顔。

ワーホリで、布教に来たのかな? だったらよくビザがもらえたな。
「じゃあ、オーストラリア生活を楽しんでね。では、僕はまだ作業があるんで」と、僕はドリルを手に持った。

「そうですよね、そうですよね、お邪魔してすみませんでした。」と二人は、揉み手しながら後ずさって、姿を消した。

しかし、よく来るよなあ、こんなところまでと僕は独り言い、一休みすることにした。コーヒーを入れる間、例のパンフレットを見る。

「祈れば何か良いことがありますか?」とか「目覚めよ! 神様にしてみたい三つの質問」とかある。ぱらぱらめくって読む。なるほど、害になることは書いてないし、良いことがたくさん書いてあると言っても過言ではない。「神様にしてみた三つの質問」とは、

1.(神は)なぜ苦しみを許しているのですか?
2.なぜ宗教は、偽善に満ちているのですか?
3.なぜ人は存在しているのですか?

こりゃあ、どれも深遠な質問だな。その答えは、いちいち書くまでもないが、およそ400字程にまとめられ、分かりやすく書いてある。それ以外にも「宗教と進化論が両立するか」といった解説もある。

pannf.jpg

宗教って言うのは、分かりやすいのがミソなんだな!と僕は、一人納得してしまった。でも逆に、これだけ単純化するのもちょっと怖いかも。こういう、かなり割り切った説明を聞いて、「そうか、そうだったのか!」って、そう簡単に納得できちゃうわけなの、君たちは?と、さっきの丸顔を思い浮かべる。(あいつなら、そうかも。)

コーヒーを飲みながら、「遠くから来たんだから、さっきの二人にもコーヒーくらいふるまっても良かったかな」と思う。でも、それじゃあまるで、落語に出てくる横町のご隠居だ。(まだ、そんなに年とってないよ、俺は)。

IMGP6815.jpg
しゃがんで、デッキを張っていると、宗教の方達だけでなく、鳥もやってくる。これは、キングパロットというオウム。

ところで、去る11月9日は、息子鈴吾郎の誕生日だった。鈴吾郎は13歳になった。いよいよティーンエージャーである。その息子は、あたかも子ども時代に決別する様に、パーティーをプールでやった。クラスメートが全員来た。そして、みんな腰が抜けるくらい、楽しそうに遊んだ。まるで5歳のチビにもどったみたいに。親たちも、大人に変わりつつある思春期前期の子供たちが、声変わりのだみ声で、はしゃぎ回るのを見て笑っていた。

「サイコーだったな!」息子は、帰りの車の中で満足そうにつぶやいた。僕は、子どもの心のままの 息子がいとおしくて、胸が一杯になった。

tannjoubi.jpg

いよいよ、デッキ張りも終わりに近づいた。

最後の4、5列になると、残りの空間の幅が気になり始めた。きっちり90ミリ 幅にしないと、最後の一枚がぴたっと収まらない。

ところが案の定、最後の空間は、苦心して調整したにも関わらず、5センチちょっととなった。9センチのデッキ材だから、半分の幅に切らなくてはならない。しぶしぶ僕は、電動ノコで長いデッキ材を四センチちょっとの幅に切った。最後は、カンナを使ってミリ単位で削った。

そして、デッキは完成した。38平米のデッキ。僕はうれしくて、心もピカピカだった。

「すごいね、よく出来たね!」と、室内で絵本の挿絵を描いていた妻のチャコも外に出てきて、新品のデッキを眺めた。

「38平米だよ」と、僕は言った。

「38平米! すごいじゃないの」と、チャコがニコニコした。

そのとき思い出した。38平米とは、僕たちが結婚してすぐ住んだ2DKの公団住宅の広さだ。狭いアパートだったが、新婚の二人には住めば都だった。

その公団アパートに住んだ理由は、結婚前アメリカの美大に留学していて、なかなか帰国してくれないチャコを、是が非でも日本にひき戻して結婚する為に、僕は公団の空き家抽選に申し込んだからだ。あるとき僕は、住宅整備公団の事務所で、立川市幸町団地に「2DK、家賃3万4千円」の空き家が あるのを見つけ、さっそくダメ元で申し込んでみた。

倍率は137倍だった。ところが、それが当たった。当選のハガキを握りしめ、僕はボストンのチャコに国際電話をかけた。「当たったよ、公団があたったよ! 137倍だ。立川だ!」チャコは、僕が何の話をしているのか、しばらく分からなかったようだ。

まあ、その公団住宅があたったからだけではないが、無事にチャコは3年の留学を切り上げ日本に帰ってきて僕と結婚した。当時、大学の非常勤講師だった僕には、狭くても何でも、家賃の低さがとてもありがたかった。この団地には二年間住んだ。いろいろなことがあった二年間だが、そのことは今は書かない。

でも、あのときはきっと、神様が僕たちを見ていたんだと信じている。

38平米。この一致は偶然かな? いや、偶然じゃない。きっと初心に戻れってことだ。神様がいたら聞いてみたい。「ベランダが38平米なのは、単なる偶然? それとも必然?」


とにかく、いよいよ次は、鼓子の二十一歳のバースデーパーティーだ。

yane.jpg

ベランダは間に合ったのだが、そのせいで、車庫の屋根の高さが足りなくなってしまった。今はこの改修をしている。バースデーパーティーに間に合うかな?



posted by てったくん at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年10月23日

あなは ほるもの おっこちるとこ

2015年10月22日

今、毎日穴を掘っている。

子供の頃もしょっちゅう掘っていた。幼稚園の砂場、自分のうちの庭、空き地、いろいろなところで掘っていた記憶がある。絵本作家モーリス・センダックにも、『あなは ほるもの おっこちるとこ』(わたなべしげお訳、岩波こどもの本)という作品があるが、穴にはいろいろな種類があり、様々な目的の為に掘られる。落とし穴、トンネル、タイムカプセルを埋めた穴、死んだ金魚を埋めた穴、生ゴミの穴、ただの穴、大きな穴、小さな穴、エトセトラ、エトセトラ。子供は穴を掘って大きくなる。

あな.jpg
深さ70センチ、幅30センチ

幼稚園のある時、僕は級友のトクヤマナガオ君と「地球の裏側まで掘ってみよう!」決意した。プラスチックの小さなシャベルを手に掘ること10分、幼稚園生としてはかなり深く掘ったつもりだったが、やがて砂場の底のコンクリートにぶち当たった。

トクヤマ君は、「おお!地球の裏側ってのは、コンクリートだったのか! やっぱりなあ!」と素っ頓狂な声で叫んだ。 地球の裏側は砂場の底30センチのところにあり、それはコンクリートで覆われていた。僕らには大発見だった。

その後、トクヤマナガオ君は大学では工学部に進み、土木工学を専攻した。今では大きな鉄道会社に勤めている。きっとトンネルなんかを掘っているに違いない。

ちいさいころ.jpg
1才10ヶ月にして、すでに穴を掘っている私(左)

さて、今僕が掘っている穴は、深さ70センチ、直径30センチの穴である。これを30ばかり掘らなくてはならない。これは木製デッキの土台の杭を埋める穴である。車庫と家の間の隙間の木製デッキが腐ってだめになったので作り直すことにしたのだ。オーストラリアは大工の人件費も高いし、自分でやることにした

だが、デッキの面積は4X7メートル=28平方メートルばかりあって、けっこう広い。地面からの高さはおよそ80センチと低いが、最低60センチは杭を埋めなくてはいけない。また杭は、1.2メートル四方ごとに打たなくてはならないので、30ほど穴を掘らなくてはならない。

デッキ.jpg
デッキを作っている作業現場

僕の作業工程は、穴を二つか三つ掘るごとに、穴底にコンクリートを流し込む。それが固まると、杭を差し込んで、水準器を使って水平で垂直なことを確かめつつ、さらにコンクリートを流し込んで固める。この繰り返しだが、これまで15本埋めたので、残りは半分である。まだ先は長い。

近所のイアンというお父さんと穴掘りの話をした。彼はこういう日曜大工仕事は大先輩である。本職はプラスチック工場の生産管理だから、工学系の作業はお手の物。「穴掘りみたいな仕事ってのは一度にやると面倒だし、根つめてやると骨だ。だから、毎日仕事から帰ると、夕食前ひと掘り、土曜日の午後にふた掘りってな具合に掘れば、いつかは終わる。急いじゃだめよ、急いじゃ」。なるほど。

これも近所のお父さんで石工のビルは、穴掘りのプロである。石壁を作ったり、暖炉を作ったり、フェンスを直したり、毎日仕事として穴を掘っている。ビルの穴掘りを見ていると、(ちょっと誇張があるが)バレエダンサーが白鳥の湖を踊る様に華麗である。力も入れず、音も立てない。息の乱れも見せずに、あっという間に大穴を掘ってしまう。

ビル曰く、「穴ってのはね、深くなると掘り難くなるでしょ。だから、立ったまま掘るんじゃなくて、こうやってひざまずいて、低い姿勢で丁寧に土を掻き出すように掘る」と言う。やっぱり、年期が入っている。

デッキ作りは、大工事と言えば大工事のようだが、それほど難しい作業ではない。本棚を作るよりは大変だが、家を一軒建てるよりはずっと簡単だ。

IMGP6807.jpg
三種の神器、水準器、巻き尺、深さを計る竹の棒(70センチに切ってある)


でも、僕がデッキを作るのは初めての事。何でも初めての時は知らない事が多い。作業に着工するまでは、本を読んだり、ネットで調べたり、経験者に話を聞いたり、近所のホームンセンターの人に相談したりし、決断まで1年はかかった。それでも「よし、やるぞ!」という気持になかなかならなかった。

でも、考えているだけじゃデッキは出来ない。だから最近、杭に使う木材18メートルを一気に註文してしまった。こうなったら後には引けない。かくして作業が始まった。

そこで穴を掘っている訳だ。イアンが言う様に、毎日二つか三つ穴を掘り、杭を立てている。でも案外難しい。 杭をセメントで埋めてもう一度水準器で調べると、曲がっていたりする。高さが一センチ低かったり。そんなことはしょっちゅうだ。一本として完璧な杭はない。

オーガー.jpg
穴掘りの道具「オーガー」は純粋オーストラリア製

また、掘っていると、地面から何が出て来るか分からない。だいたい、うちの庭は50センチ掘ると黒土が終わって、その下は粘土だ。その粘土を掘ると水が出て来たり。こういうときは、どうすればいいの?

雨水管が埋まっていて、それをスコップでぶち壊してしまったりもする。娘のボーイフレンドのシャノンにそのことを話す。シャノンは庭師なので、こういう仕事を毎日、朝から晩までやっている。だから、雨水管くらいは平気の平左。「あははは。やりましたね!僕だってしょっちゅう水道管を破裂させて水道屋のやっかいになってますよ。ガス管だけではちょっと怖いけどね。水道管があるか、ガス管があるか、60センチ下にあるか、1メートル下か、神様だけがご存知ですよ。」

IMGP6803.jpg
オーガーをぐりぐり回すと、穴が深くなり、土がオーガーの先の筒にたまるので、引き上げて捨てる

本当にその通りだ。地面の中に何があるかは、神様だけがご存知。穴は掘ってみないと分からない。掘っていると、スコップの先にじゃりっと石が当たる。そして、意外にその石が大きかったりする。でも、こんな障害物を掘り出せた時の気分の良さったらない。

だから、不思議と穴掘りは、やればやるほど楽しくなる。掘っていると、だんだん上手になる。良い穴が、すこっと掘れたときの達成感はなかなかだ。最初は面倒だし、腰も痛くなるが、上手になってくると、上記のビルじゃないが、優雅で経済的な掘り方が出来る様になる。冗談でなく、たまに外に出掛けると、早く家に帰って穴が掘りたくなったりする。

子供時代は、純粋に穴掘りが楽しかった。どろどろになって、大きな穴を掘ると、子供なりに「仕事をしたんだ!」という感慨があった。喜びで体が一杯になるような、そんな充実感だった。まあ、今ではそこまでは感じないが、それでも無心に穴を掘るのは悪くない。

さあ、これを書いたら、もうひと穴掘ってこようっと。

IMGP6808.jpg
もうひとつ作業のこつは、整理整頓だ。
posted by てったくん at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年09月23日

バーロン川で、 わらしに戻って蟹と戯むる

2015年9月20日

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」と詠んだのは啄木だが、これは帰郷の念に駆られて詠んだ悲しい歌である。

「バーロン川の桟橋にわれ笑いながら蟹とたわむる」これは、僕が大漁を詠んだ楽しい歌である。

さて9月の中旬のある週、僕と息子の鈴吾郎と妻のチャコは、メルボルンの南、ジーロンに住むK松さん家族に呼んでもらって春休みの2、3日を過ごした。K松さんは、この近くの田舎のシュタイナー学校の幼稚園教諭であるが、休日はほとんど毎日釣りをしている太公望である。ここで今回、ボラ40匹、蟹を40匹とった。

ゆでが二.jpg
茹でたら、オレンジ色に染まったカニ

K松さん曰く、「春がきても、なかなかビクトリア州近辺の水温は上昇しないんですよ。つまりお魚さんたちはまだ冬なんです。だから、9月に気温が暖かくなっても、すぐは 釣れないんですよ 。」

でも、せっかく春休みなんだから「ちょっと様子だけでもみましょうよ」ということになったのである。そこで、僕とチャコと鈴吾郎は、車を飛ばし、K松宅のあるベラリン半島に赴いた。すると、K松さんは春のお日様のような明るい顔で、「そろそろポートアーリントン港のワカメが旬です。さっそくとりに行きましょう。ワカメは、俳句では、春の季語なんですよ」と洒落たことを言う。実は、K松さんの日本にいるお母さんは俳人なのだ。

さて、ポートアーリントンへ着くと、そこはぽかぽか暖かく、湾を隔てた向こうにメルボルンのスモッグと、その中ににょきにょきとビルが見える。

でも、どうしてこんなところに日本のワカメが生えているかと言うと、それは日本のコンテナ船が空荷でくるとき日本の海水を船腹に積んでくる。その海水を荷物を積む前にメルボルンの湾内に捨てる。すると、その海水に含まれていた日本のヒトデやら海草やらが放たれ、そこらで育ち始めるのだ。その結果、ここポートフィリップ湾から、西へ300キロのアポロベイくらいまで、日本のワカメが繁殖しつつあるのだ。これは「侵略的外来種」ということで、駆逐されることが奨励されている。同時に、肥満ばかりのオーストラリア人の一部では、「ワカメは健康に素晴らしいスーパーフードだから、これを食べると日本人のように痩せられる」という情報が広まり、みんな競ってワカメを穫っているという噂もある。

だが、どうしてか今日は、肥満のオーストラリア人がワカメを争ってとっている気配はない。だから、日本人の僕たちだけが、港の外壁の岩の上をよろよろ歩いてワカメをとった。ちょうど干潮時なので、手を伸ばせば水中のワカメの根元のあたりを持って引き抜くと簡単に抜ける。

「根元の固い所が根株です。そこを細かく刻むとネバネバして、おいしいんです」とK松さん。鈴吾郎も、チャコも、とれたてのワカメが大好きだから、すぐにバケツ一杯と、ビニール袋二袋ほどとる。「これだけあれば、一年分あります」とK松さん。一年分と聞くと、ずいぶん得をした様な気持だ。

帰り際に、港の桟橋でムール貝を売っているおばさんがいたので、5キロ買う。一キロたった5ドルだ。ところが、「まだ寒いし、今年はまだ春の雨があまり降ってないから、貝が痩せてるんだよ」と、おばさん。「半分は、釣り餌に使うんです」と言うと、「そんなら、カラが破れているのをサービスするよ」と、一袋余計にただでくれた。ここでも大分得をした気分になる。

その足で、ベラリン半島南端のクイーンズクリフのフェリー乗り場に行って魚を釣る。さっき買ったムール貝を贅沢に撒き餌に使う。天気も良く、ぽかぽか暖か。でも、全然釣れない。どういうことか? この桟橋では、過去には30センチ以上あるシマアジやらメジナやらオバケのようにでかいカワハギなどを釣り上げたと言うのに、今日は10センチくらいのベラが一匹釣れただけ。

釣りに行って釣れないと、「なぜ釣れないのか?」ということを言う人がある。しかし、この質問は間違っている。本当に釣りが上手になりたいなら、「どうしたら釣れるのか?」という質問をするべきなのだ。現に、僕の知り合いの子どもで、「どうして僕は釣れないのか?」ということを必ず投げかけてくる少年がいる。その質問をする時のこの子の顔色は明るくなく、この子の釣り師としての将来も決して明るくない。今度会ったら、「どうやったら釣れるのか?」と、質問を逆転するように教示してやろう。

魚が釣れないということの最大の原因は、魚がいないということにある。あるいは、いても、気温などの関係で、餌を食べないという状況だ。こういうときは、大概は何をしてもダメであり、帰宅するに限る。

K松さんも、「おかしいなあ…。今日は坊主ですね」と言い、いさぎよく帰宅することに。でも、夜は、K松さんが2日前に釣っておいてくれたカワハギを刺身に肴に酒を飲んだ。旨い酒だった。良い釣り師になる秘訣の一つは、釣れなくてもくよくよしないことだ。

さて翌日。絵本の締め切りがあるチャコは、電車でメルボルンに帰る。僕たち男組と、K松さんの娘さんの小四のアイちゃんは、今日も釣をする。でも、 午後4時が満潮なので、昼ご飯をゆっくり食べてから出陣。今日の行く先はバーロン川。

バーロン川は、バーロンヘッズという海岸に流れ込む大きな川で、河口から2、3キロまでは全くの海水。だから満潮時はいろいろな魚が川をさかのぼってくる。そして、干潮時は、その魚たちが川を下って行く(当たり前だ!)。だから、ここは、常に魚が行き来している「魚ハイウェー」 なのだ。これまでも、僕たちはもう何度もここで釣りをし、以下のような魚を釣り上げている。
1.ボラ、
2.「唐揚げくん」(本当はトミーラフというアジのような魚。唐揚げにして食べるので、こういう名まえ)、
3.オーストラリア・サーモン(顔が少し鮭に似ている。味はアジのような魚)
4.その他、キス、シマアジ、コチなどだが、上記ほどはいない。

言うまでもないが、これらはみな、煮て良し、焼いて良し、揚げて良し、刺身でも良しと言う、美味しい魚ばかりだ。だからバーロン川は、とても良い川なのである。

かにかご.jpg
バーロン川にカニカゴを投げる鈴吾郎

ところが、この日も、ほぼ坊主で終わる。小さなボラがぽちぽち釣れただけ。となりの国籍不明のおじさんが、30センチのシマアジを上げたときは、一瞬盛り上がったが、それ以外は音沙汰なし。おまけに空は曇ってきて、寒くて仕方ない。ただ、魚の代わりに釣り針に4匹ばかりカニがかかったことは特筆しておく。

「ちっちゃいカニだけじゃあ、お話になりませんな」と、さすがのK松さんも渋い顔。とりあえず、K松宅に帰って夕食。それでも、料理が得意のK松さんは、いろいろ作ってくれてもてなしてくれた。加えて、偶然釣れたチビガニをダシに「カニのみそ汁」も作った。

ところが、意外や意外、このカニのみそ汁が美味しかった! カニも小さいくせに、身がむっちりと詰まっていて美味。アイちゃんが「もっと食べたい!」と言ったので、「じゃあ、明日は バーロン川でカニ穫りをしましょう!」ということに決定。

翌日。今日は、僕と鈴吾郎が夕方に帰宅しなくてはならないので、早々と午前からの出陣。でも満潮は夕方5時。天気も良くない。「コンディション的には、最悪ですね」とK松さん。

それでも我々は、釣具店に行き、カニ穫り用のカゴを買う。たった8ドル。「これって安くない?」と私たち。それから、カニ穫りの餌になる、ニワトリの骨とガラを肉屋に貰いに行く。これは無料。「これってお得じゃない?」と、私たち。

ところが車に乗ると、今度は冷たい雨と雹が降り出した。「コンディション的には最悪ですね」とK松さん。「でも、まあ、バーロン川に行って、様子だけでもみましょうよ」と、僕。

バーロン川に行くと、さっきの冷たい雨はどこ吹く風、太陽が出てお日様ぽかぽか。「最高のコンディションですよ」とK松さんはニコニコ。

鈴吾郎とアイちゃんは、本格的カニ穫りに大興奮。子どもはカニ穫りが好きだ。二人は、ニワトリのガラをカニ穫りのカゴにゆわえ付けたり大わらわ。

カニか御投げ.jpg
カニカゴを仕掛ける小学生ふたり

僕は、カニ穫りを子らに任せ、一人ゆうゆうと釣り竿を垂れてみる。すると、どうだ、ボラが入れ食いじゃないか! 

さて、ここで言っておくが、ボラと言うのは日本では底辺的な下魚かもしれないが、オーストラリアのボラはちょっと違う。こちらは水がきれいなせいか、新鮮なボラはちっとも臭くなくて美味しい。刺身、焼き魚、いずれも脂が乗っていて旨い。むっちりとした白身が、つやっぽくて色っぽくて悪くない。

僕が、ボラをぽぽーんと釣り上げているのを見て、k松さんもあわてて釣り始め、やはりボラをぽんぽん上げ始めた。子ども達も、カニ穫りカゴをぼちゃんと水に落として、ボラ釣りを始める。

さて、まつこと15分。ためしにカゴをあげてみる。すると、15センチ程のカニが二匹も入っている。「おお、すげえ」と、鈴吾郎が喜んで、大振りのカニをつかみあげた。すると「いでえ、いでえ!」と悲鳴をあげた。カニに指を挟まれたのだ。うちの息子は、カニのつかみ方を知らない。

「カニってのは、甲羅の両横をこうやって持つんだよ」と、カニを捕まえて50年の僕が教示する。が、やはり大きなカニのハサミにはさまれそうになり、カニを取り落として苦笑い。


カニアップ.jpg
カニのアップ

ぼらたくさん.jpg
ボラを並べる鈴吾郎とアイちゃん

とにかく、こんな調子でカゴを2、30分おきに入れたり出したりすると、 必ずカニが2、3匹入っている。そんなですぐにバケツ一杯とれた。ボラの方も、ぽんぽん釣り上げ、こちらもクーラーボックスが一杯。

「いやあ、今日はたくさんとれたなあ!」と、みんな喜色満面だ。では、「そろそろ帰りますか!」と、k松さん。 見ると、向こうから雨を含んだ黒雲がやってくるから、急いで帰路についた。

帰ってから数えると、カニが40匹、ボラも40匹釣れていた。大漁と言ってもいいような快調な釣りだった。

「カニ穫りは楽しかったな。新しい遊びを覚えちゃった感じですね。よし、明日もカニ穫り行くぞ!」とk松さんは、底抜けに明るい顔をして言うのだった。

早めの夕食をいただき、僕と鈴吾郎は、お土産にカニとボラとワカメをたくさんアイスボックスに入れてもらって、高速を飛ばして家路に着いた。

春休みは、まだあと10日も残っているから、僕たちももう一、二回は釣りに行くつもりだ。

ペリカン.jpg
鶏ガラを一羽分飲みこんで、目を白黒させていたアホなペリカン。
それでも、どうにか飲みこんでまた戻ってきたので、追い返した。



posted by てったくん at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記