2015年02月02日

バーベキューと父親の権威

2015年2月1日

公園での金曜日夕方のバーベキューは、夏時間の間は毎週行われる。主に子どもたちの行っている学校の、ベルグレーブ界隈に暮らす家族が集まる。もう15年程続いているだろうか。多いと10家族くらい、少なくても2、3家族はやってくる。

先週に久しぶりに行ったら、いつものメンバーがたくさんきていた。お父さんたちは、ビール片手に肉を焼き、お母さんたちはピクニックのマットを敷いて、その上で井戸端会議。子どもたちは、公園中を走り回っている。

父親たちの焼きたてのソーセージを食べながらの話題と言えば、夏休みはどうだったの、息子と釣りに行って50センチもあるタイを釣ったの、サッカーのアジアカップでオーストラリアが勝ったとか日本が負けたとか、まあそんなところ。

久しぶりに会ったグレン(仮名)という父親は映像作家なのだが、ティーンエージの娘が拒食症で大変だと言う。「やせ細って死ぬんじゃないかと思ったよ。とにかく今は病院の特別プログラムに入れて、看護師監視の元にリハビリしているけど、今後も難題が多くて、困りきっているよ。とにかくカロリーのあるものは何も食べてくれないんだ」と大弱り。どうしてそんなことになったのか分からないが、肥満が多いオーストラリアでは、若い女性の過食/拒食は確かに大問題だ。

「そんなで、うちもいろいろ大変なんだが、こんなことで落ちこんでいちゃいけないと思ったし、息子(14才)の方とも父子の絆を固めなくちゃいけないからね。それで、息子とキャンプに行っていろいろ話してて、環境保護の話題になったわけ。そしたら、うちの、あのやわな息子がだよ、『父ちゃん、田舎じゃ野良猫や野良ブタや野良ウサギなんかの害獣がいっぱいいて、農家が苦労しているらしい。だから、いっちょう俺と父ちゃんで、憂さ晴らしも兼ねてライフルで、そいつらをばんばん撃っちゃおう 』とか言うわけよ。うちの優男の息子がだよ。あいつがそんな気になるのも珍しいなと思ってさ。でも考えてみたら、それもいい教育になるかなって、俺もまじに考えているわけさ」

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アジアカップ「日本対ヨルダン戦」会場

そしたら、クリントイーストウッドを崩したような顔つきのイアンという父親が「そいつは面白え! うちの息子も、スケボーばっかりやっててからっきし性根がダメだから、是非やらせたい。俺も乗ったぞ」と張り切って、ビールをグビリと飲んだ。

「だが、人家の近くじゃ危ないし、どっか誰かの牧場みたいな広い敷地でライフルがばんばん撃てる場所がないかな?」とグレン。

すると、黙って紅茶を飲んでいたレンガ職人のビルが言う。(ビルは、筋肉隆々の強そうな親父なのだが、酒は一滴も飲めない)。「おれは毎日ジェンブルック村の向こうの山に仕事で行っているが、あの辺りには野生の鹿がいっぱいいるぞ。あれは害獣だから撃ってもいいはずだ。それに、あの辺りは山だから人もいない。鉄砲なんていくらでも撃てるぞ。ただ、鹿はすばしっこいから、人が来るとすぐ逃げちゃうけどな。」

「何、鹿がいるってか? 鹿とは最高だ。肉がめちゃうまい。鹿を撃って牧場の真ん中でバラバラに切り刻んで、その場で焼いて食っちゃおうぜ。ティーンエージャーの息子たちは、ぶるっちゃうだろうけど、最高の教育だよ。サステナビリティーとか、永続的社会とかいってもさあ、自分たちが食っている肉がどこからきてんのか、ここらで一発教えてやんなきゃ、示しがつかねえよ。それに俺たち父親の権威を回復するには最高の機会じゃないの? ねえ、どう、今度の週末みんなで鹿撃ち行かない?」と、グレンが嬉しそうに言う。かなり酔っぱらっているようだ。

とまあ、バーベキューでのお父さんたちは、こんな風に酔って話が大きくなっていくのが常だが、あながち全くのデタラメを言っているのではなく、この中の一人か二人は本気である。ビルもイアンも、ちゃんと自宅に狩猟用のライフルを持っているし。僕は、銃はあまり撃ったことがないので、遠慮しておくことにして、黙って聞いていた。(でも、僕だってアメリカの大学に留学した時は、ライフル射撃の授業を履修して単位を取りました。22口径の小さなライフルだったけど。)

僕の息子は12歳だから、鉄砲を撃つには早いかもしれない。でも、すでに実は銃オタクで、輪ゴム鉄砲を作ってばかりいる。輪ゴムだから危なくはないけど、見た目は本物の猟銃のようなごつい奴を作る。だから物騒だ。僕は、「作っても良いけど、絶対外に持ち歩かないこと。家からは一歩も出してはいけない」と釘を刺している。どうして、うちの息子がそんなに銃好きなのか分からないけど、好きで仕方がないみたいだ。僕も12歳の頃は、銀玉鉄砲はもとより、癇癪玉とか爆竹とかで、親の目を盗んで爆発遊びをしていたけど。でも、もうそういう時代じゃないし、オーストラリではそういうおもちゃは御法度だから、少しでも、僕はそこから息子の関心をそらそうと努力している。今も、そのために本物のモーターボートを父子で作っているのだけど、それでもやっぱり息子は銃が好き。

じゃあ、銃はだめだからと言って、危ないこと全般から男の子たちを遠ざけて家に閉じこめて、勉強とゲームだけさせておけば良いか?さすがに僕も、そんなことは全然思わない。一度くらいは、猟銃で鹿を撃ち、バラバラに解体して内蔵を処理し、焚き火で焼いて食べる、そんなことをしてもいいじゃないかと思う。そもそも、うちの息子も僕も釣りがだい好きで、2週間に一度は行くし、今までに何百匹も釣り上げ、それをかっさばいて食べている。

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息子が釣り上げた立派なシマアジ

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父親の私にさばかれるシマアジ

だいたい、釣りと猟のどこが違うんだ?本質的には何も違わない。ただ、銃では人が殺せるけど、釣り竿では殺せないだけだ。多分ね。(しかし、 動物を銃で撃って殺して、それをナイフで解体するのはちょっと怖いなあ。ニワトリくらいならできそうかな? いや、やっぱり可愛そうだな。)

とにかく、オーストラリアのバーベキューでは、でっかいステーキや、子どもの腕程もあるソーセージを焼いて食べながら、それらの肉が一体どこから来ているのか、というような話題で父親たちは盛り上がるのだ。オーストラリアというのは、そういう場所だし、そういう場所であり続けるだろう。そういう場所で子育て、特に男の子を育てているのは、案外幸運なことかもしれない。

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バーベキューが息子は大好き

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タスマニアデビルは、ニワトリを食べるのが好き(みたい)

一方、お母さんたちと言えば、バーベキューに来てもこの頃はベジタリアン が増え、日本人のお母さん(うちの女房)の作ってきたヒジキの煮物やチラシ寿司に舌鼓をうち、流行しつつある「エダマメ」という食品の食べ方を議論したり、拒食や過食の問題について意見を交換したりしているのである。そんなお母さんたち自身は、決して銃を抱えて鹿を撃ちにいったりはしない。

ところが、オーストラリアのお父さんたちは、菜食主義に傾きつつあるお母さんたちに、全く頭が上がらないのだ。これは一体どういうことなんだろう?

社会の構造というのは、こういう危ないバランスの上に乗っかっているものなのかもしれないですね。

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タマちゃんとネズミ















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2014年12月24日

一人きりのクリスマスイブ

2014年12月24日

家族が日本に帰っているので、今年は一人きりのクリスマスイプだ。明日のクリスマスも一人。考えてみれば、生まれて初めてかもしれない。

午前中はクリスマスのごちそうの買物 。明後日は家族が帰ってくるから、その準備もあるが、今夜は自分一人だけなので、記録的に分厚いステーキを焼いて食べることにした。それも、買ったばかりのウェバーという、アメリカ製の素晴らしいガスバーベキューで焼こうと思っている。ステーキは、骨付きのTボーンで、厚さは3センチくらいで500グラム以上ある。これでたった6ドルであった。物価高のオーストラリアで肉も高くなったが、これは安い。

それにしても、クリスマスのスーパーは、ものすごい人出で殺気だっていた。駐車場に車を入れるのにも、すくんでしまうくらい。駐車場の中に車が溢れていて、空いたらすぐに駐車出来るように虎視眈々と待っている人がたくさんいる。僕は、クリスマスにもめごとも嫌だから、少し遠くに置いて歩いた。中もすごい人。みんな巨大なハムとか七面鳥を買っている。あんなでかいハム、どうして好きなんだろう? オーストラリアのクリスマスは質より量だな。そんなこと考えながら、買うものを買ってレジに並ぶと、こんどは横入りする人がいる。僕の前にちょっと隙間が空いていたからだが、明らかに人が並んでいるのは分かっていたはずだ。でも、面倒だから苦情も言わず。

やれやれと家に帰ると、先週20歳になった娘が、クッキーとケーキを山のように焼いている。今夜はボーイフレンドの家のディナーに呼ばれているとのこと。こうやって娘は、段々父親から離れていく。

「こっちのお皿のやつは、失敗したやつだから食べて良いよ」と、クッキーの失敗作をたくさんいただいた。ボーイフレンドには、ちゃんとしたやつ。父親には欠けたり焦げたりしたやつ。でも甘い物は大好きだから、文句を言わず「ありがとう」と頂く。この頃の僕は、あまり文句を言わなくなった。

お昼になると、 ごはんが無性に食べたくなって炊き込みご飯を作った。干し椎茸でダシをとり、餅米を混ぜて炊いたらすごく美味しく出来た。娘は、「あ、おいしそう!」と歓声をあげて丼一杯食べた。オーストラリア生まれ、そして最近国籍までオーストラリア人になった娘だが、炊き込みご飯は大好きだ。その娘は、クッキーやらプレゼントを山のように抱えてボーイフレンドの家にいそいそと出かけて行った。恋をしている娘は、生き生きとしている。

食後に娘の「失敗クッキー」を食べたが、クリスマスらしくスパイスがきいていて、とても美味しかった。

午後は芝刈りをする。クリスマス明けに妻と息子が日本から帰ってきたら、すぐに10日間ほどキャンプ旅行に行くのだ。これが正しいオーストラリアの夏休み。クリスマスが終わったらキャンプ! だから芝は刈っておかないと延び放題になる。

その後は、畑の水やり。それから、樹木の枝の剪定。それから、畑の雑草抜き。車の洗車。キャンプに持って行く自転車の整備。

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畑のほうれん草が食べごろ

やることはいくらでもある。そうしているうちにもう夕方。やれやれ。さあ、シャワーでも浴びて、ビールタイムにするか、と思ったら、友達から「メリークリスマス!」という電話がきて、しばらく話し込んでしまった。

さて、今度こそシャワーを浴びてビール、と浮き浮きしたら、仕込んでおいた自作ビールの一次醗酵が終わっている頃だ、ということにふと気がつく。そこで糖度を測ってみると、もう瓶詰めしなくてはならない瀬戸際にきている。しかし、これからクリスマスイプにビールの瓶詰めもなんだから、明日に延ばすことに。でも明日はクリスマスじゃないか! でも、いいや。どうせ一人なんだから。それに、明日やっておかないと、明後日はもう女房と息子が帰ってくるし、娘も交えて、家族で遅かりしクリスマスディナーを食べる予定だから、やっぱり明日瓶詰めしておかないと、暇がなくなる。

やれやれ、何でこんな忙しいんだろう。さあ、今度こそ本当にシャワーを浴びて、ビールを飲んで、でっかいステーキを食べようっと。

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猫のタマちゃんがいるから、一人きりではなかった
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2014年11月24日

11月末、初夏の週末

2014年11月23日

「生きているだけでも幸いだと思わなくちゃね」と、出し抜けにロビンが言った。

先週のヨガのレッスンのときだ。ロビンはヨガの先生で昔からの友達でもあり、息子と娘の幼なじみのお母さんでもある。彼女がそんなことを言ったのは、2、3日前に息子のデブリン(小学校六年)が学校で、友達にまちがって喉元を殴られてショックで呼吸困難になり、救急車で運ばれたからだ。幸いデブリンはすぐ回復し、そればかりか、救急車の中で施された麻酔に酔っぱらってやけに陽気になったというおまけがついた。

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チャコの作った、色とりどりの「苔玉」

その日の晩、ロビンはかねてから癌で闘病生活を送っていた友達ローザの家を訪問した。すると、着くなりローザの18歳の娘が玄関に出て来て「お母さんがベッドで死んでるみたい」と言ったそうな。そこでロビンは、またもや看護士を呼ぶやら、身内の人たちに連絡したりで、大わらわだったと言う。

一日のうちに、二度もそんなことがあれば、「生きているだけでも幸いだと思わなくちゃね」と、言いたくもなろう。

そんなで、金曜日はローザのお葬式だった。ローザはまだ51歳、僕もうちの女房も同世代。3、4年前に癌になったが、放射線や抗がん剤は全て拒否、自然の代替医療だけで生存し、死の二ヶ月前まで仕事を続けていた。その分長生きだったのかどうかは分からないが、少なくとも自分の人生は全うしたと意識できただろう。

親しい友人という訳でもなかったが、ローザは、うちの娘と息子が世話になったダンデノン山シュタイナースクールの創設メンバーで、 死ぬまでその事務室に居たし、また 彼女の子どもたちとうちの子どもたちがそこで一緒に大きくなったから、いろいろな意味で「仲間」という感じだった。

ローザの葬式は、メルボルンから1時間ほどのドローインという田舎町で行われた。どこまでも緑の低い山が続くラトローブ渓谷の入り口の町で、ローザはその近くの農場で生まれ育ったと言う。ローザが埋葬された墓地も、見晴らしの良い丘の上にあった。ロビンは、「ここなら良いわね」と、 ローザもここなら安らかに眠れるという意味なのか、 ここになら自分も埋葬されても良いという意味なのか、どちらにもとれることを言った。きれいな田舎だが、 僕だったら、ここに葬られるのはいささか寂しい。

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オーストラリアの古い、古いお墓

僕もつい2ヶ月前に日本で39歳の弟を見送っている。だから、よく生や死について考える。どこに骨を埋めるかというのも問題だが、それは死者自身というよりも、残された人たちにとっての問題かもしれない。僕は、メルボルンの近くの海に散骨して欲しいと思っているのだが、あるときそう口に出して言うと、子どもたちも女房も口を揃えて、「お墓がないと会いに行く場所がない」と不平を漏らした。そこで初めて、お墓は生きている人たちのものなのだと悟った。

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僕の好きなギップスランドの海

とにかく、11月のメルボルンは気候がいい。初夏と言うか、遅い春と言うか、気温もマイルドだし、盛夏の乾燥もまだ始まらないから、樹木は瑞々しく緑も濃い。ローザの葬式の日も、すこぶるよい天気で、彼女には悪いが、買ったばかりの(2005年型の中古だが)スバルの四駆をすっ飛ばしてドライブ気分だった。これまで愛用していた30万キロ走ったトヨタ・カムリはどうなったかと言うと、8月に弟が昇天したすぐあとくらいに、致命傷のエンジンオイル漏れを起こしてやはり昇天したのだった。

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初夏のメルボルン、ボタニカルガーデンで製作中のチャコ

娘と息子をあちこち連れて歩いた自動車を葬るのは寂しかったが、新車がくれば、これはこれで楽しい。このスバルがすばらしいのは、今や「化石」と呼んでも良いようなカセットプレーヤーがまだ付いていて、これで古いカセットを聴けることだ。ドゥービーやらディランやらCSNやらサンタナやらチックコリアやら山下達郎やら陽水やら、70、80年代のカセットがこのスバルの中で見事に復活している。こういうアナログなものは、やっぱりしっくりくる。

週末も良い天気だった。とにかく野外に出ていたくて、土曜は息子とその友達を連れて、息子も僕も好きなフリンダーズまでスパルで釣りに行った。カワハギ、キスなどが上げ潮にのって、ぽんぽんっと10匹程釣れた。潮風に一日吹かれていると、寿命が2、3年確実に延びる。

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翌日曜は、ひたすら庭仕事をした。通りぞいの生け垣がジャングルになっていたので切りそろえた。梯子をかけて、ちょきちょきハサミで切っていたら、隣家のお父さんの退役軍人キースが、「とても見ちゃいられない」と言って、電動庭ばさみを貸してくれた。ところが、電気コードが邪魔で、借りておいて悪いが、とても使っちゃいられない。そこで、またもやハサミでちょきちょきした。昔、日本の実家でも、年に2、3回、植木屋の増島さんがハサミでちょきちょき切っていた。 僕は、増島さんが、超スローに樹木に話しかけながら丁寧に植え込みを切りそろえるのを見て育ったから、この作業はハサミじゃないとダメだと信じている。

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刈った後の生け垣。虎刈りだが、満足

半日働いたら、すごい量の枝や葉が出た。あと2週間すると「樹木ゴミ」の回収があるから、このとき全部出してしまうつもりだ。夏の始まりの時期には有り難いサービスだ。

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これは庭のビワ、初夏の味覚

生け垣が終わると、近所の日本人のお母さんにいただいたヨモギと茗荷を畑に植えた。ヨモギは、ヨモギ団子などに使えるし、茗荷はザルそばや、冷奴の薬味にできる。今からよだれが出そうだ。これを下さったアンナさんは日本人のお母さんだが、うちより、もう少し田舎の農場に、オーストラリア人の家具職人のご主人と三人のお子さんと暮らしている。小柄な可愛いお母さんなのだが、やっていることはまるで「農家のおばさん」。味噌造り、梅干し造り、糠の漬け物、畑では茗荷、ヨモギ、しそ、牛蒡など、何でも作ってしまう。馬や羊も飼っている。日本野菜の種や苗は、「サステナビリティーの会」という日本人農業愛好者の会で交換してくるのだそうだ。オーストラリアの日系人は、きっと地球最後の日も、それも一番最後まで生き延びる人種に違いない。

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茗荷とヨモギ

庭と畑で汗を流したあとは、息子と釣った魚を刺身にし、自分で作ったビールを飲んで喉を潤した。

生きていることは非常に幸いなことだと、心から感じた。

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ビール作りの様子











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2014年11月10日

駅弁、駅そば

2014年11月8日

10月の終わりから、また二週間ほど日本に滞在した。この8月以来、日本に来る用事が連続したので、落ち着いてメルボルンで薪など割っていられない状態だ。しかし、忙しいときは忙しいのだから仕方がない。8月末に末弟の光太が急逝したので、彼の人生の後片付けという大事な用事もあった。

それと今回は地方の図書館に行って人前で話をする仕事が東京、静岡、姫路であったので、新幹線に乗って行き来した。トールキンではないが「行きて帰りし物語」である。それで駅弁を4回も食べた。駅弁は、たまに食べると心躍るが、4回も食べるとやや飽きる。子供の頃、デパートで「駅弁大会」があると、母が 買って帰ることがあったが、家で食べる駅弁もなぜかうまくなかった。やはり駅弁は、たまに長距離列車の中で食べるのがいい。

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最初は静岡へ行って帰ったが、新横浜から12時頃の「ひかり」に乗った。久しぶりの駅弁だから迷いに迷い、最後は決めかねて月並みなシュウマイ弁当800円を買った。しかし、これが意外にうまくて満足した。横浜でシュウマイ弁当とはつまらない選択と思ったが、平凡さの中にこそ幸せがあるという感慨を久しぶりに味わった。
 
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その新幹線でだが、横に座っていたイタリア人家族は、新幹線も駅弁も初めてらしく、お父さんが幕の内弁当を一口食べては感想をいちいち語り、息子がそれをiPhoneのムービーに録画していた。富士山が見えてくると皆で立ち上がり、ジュースやビールで乾杯した。イタリア語は皆目分からないが、楽しそうな人たちを見ているのは愉快だった。

でも、ひかり号で新横浜から静岡はたった40分だから、シュウマイ弁当を食べ、伊藤園のお茶を飲み終わらないうちに、もう静岡に着いてしまって、旅情を楽しむ時間はあまりなかった。

静岡は父の故郷である。父は寺町という場所の写真屋に生まれ、兄弟は12人 だったから、静岡には親戚がたくさんいる。僕の講演会にも15人もいとこやおばさんなどがやってきた。会場の一列が全部親戚であった。講演の後、いとこ会をすることになり、スナックを借り切ってみんなで酒を飲んだ。静岡だから、黒はんぺんフライがうまかった。その宴会では、静岡のお墓が草ぼうぼうになっているのはどんなものかとか、祖父母や先祖の位牌がどこにあるのか分からなくなっている、とかいう話題で盛り上がった。経緯は端折るが、僕はその場で「先祖代々の位牌」を受け継ぐことを承諾させられ、メルボルンに渡辺家の先祖全員をひき連れて帰ることになった。帰りの飛行機は、さぞにぎやかなことだろう。それにしても、渡辺家もずいぶん国際化したものだ。

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静岡のおでん横町の夜

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静岡浅間神社

静岡からの帰りの新幹線も昼時で、いとこ会に駆けつけた弟の光哉と一緒だった。 光哉は「富士山弁当」という三角形の弁当を、僕は「茶飯弁当」にした。どちらも地味目な弁当だが、静岡にはあまり駅弁の種類がないから仕方がない。どちらにも小さなカップに入ったわさび漬けがついていたが、これが辛くてうまかった。茶飯というのは、まるで法事に食べる食事のようだが、 味はけっこう良かった。駅弁の善し悪しは、見かけや値段ではない。

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浅間神社にはイノシシが出るらしいが、幸い出会わなかった

東京にもどると、翌日は戸籍をとるため都内の市役所、区役所を回って歩いた。末弟の光太が亡くなって、諸処の手続きのために 戸籍謄本や除籍票が必要なのだ。それも、彼の分だけでなく、 亡くなった両親や僕の分もいるし、もう一人の弟の光哉の分もいる。それらをとるために多摩、立川、西東京、大田区と一日で歩き、くたくたになった。人が死ぬと面倒な手続きがたくさんあるし、 けっこうお金もかかる。でも、どの役所でも、市民課の係はとても親切だった。(親切すぎて、うるさいほど他人の事情を聞きたがる人もあった。)戸籍はこれだけでなく、両親が昔住んでいた静岡、大阪、滋賀県彦根といった場所からも取り寄せなくてはならない。引っ越すたびに戸籍を移す人もあるようだが、死んだときのことを考えると、戸籍はやたらに移すものではない。

戸籍をとるために歩いたその日、昼どきは多摩センターにいた。10月末にしては陽気も暖かく、冷たい蕎麦を食べたくなった。しかし、多摩センター駅の周辺には普通のそば屋が見当たらず、 しかたなく「箱根そば」という駅そば屋に入った。「箱根そば」は確か小田急電鉄の経営だと思ったが、中学、高校時代は小田急で通学していたから、ずいぶん世話になった。鶴川、新宿、小田原の「箱根そば」を何度食べたことだろう。ただ、当時僕が愛好していたのは、蕎麦ではなくて「野菜かき揚げ丼」だった。200円くらいで滅法腹持ちが良かったからだ。

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多摩センターの秋はきれいだったが、そばはまずかった

だが、多摩センターのこの日は、冷たいおそばの気持だったので、またもや悩みに悩んだ末選んだのは「野菜かき揚げ丼と冷たいおそばセット」であった。すばらしい選択と思ったが、これが大失敗であった。蕎麦は、割にこしがあったが、タレがやたらと甘かった。僕は甘いタレは苦手である。甘いタレはかき揚げ丼にもいっぱいかかっていて、べちゃべちゃしていてうまくなかった。

「まずったな」と後悔したが、その甘ったるい蕎麦と丼を食べながら、死んだ光太が言っていたことを思い出した。「立ち食い蕎麦では、『富士そば』はうまいが、『箱根そば』はうまくない。」「富士そば」は、どこの会社がやっているのか知らないが、都内の新宿やお茶の水などにたくさんある立ち食いそばだ。光太は以前に中野に住んでいて、そこから新宿の大学病院に勤めていたから、よく富士そばを食べたらしい。

とにかく、どうしてそんな大事なことを先に思い出さなかったのか、自分の迂闊さを呪ったが、きっと記憶の中で、中学高校時代の空腹時に食べた「かき揚げ丼」のおいしさが40年たって結晶化していたせいだろう。あれがうまかったのは、若さ故であろう。

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多摩市立図書館本館にある、父渡辺茂男の書斎「へなそうるのへや」
(多摩センターから徒歩8分)

だが、その晩は、フランス料理だった。フォアグラを口にしながら、僕は「箱根そば」のまずいかき揚げ丼に、ざまあみろと言った。フランス料理は、僕の実家があった多摩の図書館員である阿部さんという女性が、わざわざ赤坂まで食べに連れて行ってくれたのだ。 阿部さんは、時折クラシックのコンサートに行った帰りに、ここで一人で贅沢な時を過ごすらしい。図書館員には、そんなおしゃれな趣味の人がいる。僕は、今回の日本では、秋サンマを食べようと意気込んでいたのだが、 計らずともここのコースで、前菜にサンマが出た。このサンマは、キールロワイヤルを飲みながら食べた。炭火で焼いて大根おろしで食べるのとはまた違った趣向だが、これも大変旨かった。(阿部サン、ごちそうさま!)

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お化粧直しした白鷺城こと、姫路城(地元の人は「白すぎ城」とも言っていた)

それから二、三日して、姫路へ向かう新幹線上の人となった。そのときも昼時だった。三回目だから今度は張り込んで、新横浜駅構内のトンカツ屋の「盛り合わせ弁当」を買った。トンカツ、海老フライ、チキンカツが入っており、千切りキャベツも別袋に入っていて、カツがべちゃべちゃにならない工夫がしてある。トンカツソースもたっぷりだった。だが、カツはやっぱり揚げたてでないとうまくない。そんなことは明白な訳であって、最初に気がつくべきであった。そんな感想のトンカツ弁当であった。

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姫路城には、忍者がたくさんいた

姫路の講演会は、姫路城を見上げる立派な図書館で行われ、聴衆の反応も良かった。お色直しした姫路城も美しかった。唯一失敗したのは、パソコンの接続がうまくいかず、せっかく準備していったスライドがろくに見せられなかったことだ。講演会というのは、最悪の事態も予測して望まなくてはならない。しかし、スライドが映らないというのは最悪の事態という程ではない。逆に、そのせいで少しは話の中身が濃くなったかもしれない。だとしたら、怪我の巧妙というやつだ。自慢ではないが、もう講演会を2、30回はやっているから大分慣れてきたと言える。

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仕事中の私

その講演会では、父が昔訳した童話「ミスビアンカの冒険」シリーズのファンだったという清流さんという姫路の住職にお会いした。初めてお会いしたのに、初対面な気がしなかった。それは、しばらく前から清流さんとはFacebookでお友達になっていたからだ。清流さんは、住職なだけでなく、保育園の園長で、ハンガリー仕込みのピアニストで、児童文学はプロ(私の父)を恐ろしがらせる程の知識であり、その上武道の有段者でもあるという人だ。その上清流さんに、夜は豆腐会席をごちそうになった。この豆腐会席が、今回の帰国で食べたものの中で一番豪華だったかもしれない。特に湯葉がおいしかった。遠くまで行って珍しいものを頂く、これが本当の「ご馳走」だろう。

さらに、姫路の講演会には、大学時代同じ登山クラブに所属していた次郎丸君が奈良から駆けつけてくれた。彼とは30年ぶりに会った。次郎丸君は、昔も太陽のように笑顔が明るい青年だったが、現在もニコニコした陽気なおじさんだった。「武道と神道」ということを生涯の研究テーマにしているそうで、そのことを書いた論文や著書をたくさんくれた。神道も武道も僕は知識がないから、読むのが楽しみだ。

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姫路の夜景は、けっこうアートだった

姫路から帰る新幹線も、またもや昼時だった。四回目の駅弁ではエキサイトしない。しかし、何も食わないで東京まで帰るのも嫌だから、乗車前姫路の駅前デパ地下に入ってみた。 そこは食べ物のジャングルといった風で、あわや遭難しそうだった。しかし、機転をきかせて幸い早い時点で「穴子飯」に決着をつけたから、新幹線にも時刻通り乗ることができた。11月頭の三連休の最終日だから、乗り遅れて指定席に座れないと、東京まで立ちっぱなしになる。

だが、穴子飯はうまかった。特に飯の横についていた奈良漬けに興奮した。奈良漬けは、子供時代からの好物だが、こんなにうまい奈良漬けを食べたのは40年ぶりかもしれない。穴子飯でうまい奈良漬けが食べられたことは、昔なじみに再会した喜びにこそ勝らないが、特筆すべきものがある。 弟は、2ヶ月前に39歳で死んでしまったが、生きていればこんな喜びもあるのにと、奈良漬けを食べてほろりとした。

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新幹線で一人旅していたウッドベース。(光太も旅好きで、ウッドベースも弾いていたから、光太みたいだった。)

東京に戻ると、さらにあちこち用事があって、街中を歩かなければならなかった。とにかく、人の多さと、騒音のうるささに辟易し、「今さら東京では暮らせない」という気持が強くなり、すぐさまメルボルンに帰りたくなった。

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「東京暮らしは楽じゃない」、福岡出身のトラフグたち

しかし、帰る直前に、橋さんという友人の女性から「おもしろいカフェが武蔵小金井にできたからいきましょうよ」と誘われ、 のこのこ出かけた。そこは英語で言うと、artist-run-spaceと呼ぶような場所で、芸術家が自分たちが活動しやすいように、自分たちで経営している画廊のような場所だ。そこがカフェもやっているのだ。

ここは、すごく居心地が良かった。本当は、僕が行った晩は営業してなかったらしいのだが、友達のよしみで開いてくれて、食事も出してくれた。食事は、健康に良さそうなご飯と、自分の所で漬けたぬか漬けと、美味しい赤キャベツのスープと、そんなものだったが、ほんわかと優しい味がした。カフェでは近所の母子なども、持参の弁当など食べながら遊んでいて、そこにいた良太くんという6歳くらいの子どもが、自分のお小遣いで買ったというおせんべいを皆にふるまってくれた。だから、僕は大事にオーストラリアからもってきた高級板チョコを良太君にあげた。僕は普段はケチなので、こんなことは滅多にしない。良太くんのお母さんは、「すみませんねえ、エビで鯛をつっちゃったみたいで…」と恐縮していた。でも、僕は、このカフェのリラックスした雰囲気で、それくらい気持がおおらかになっていたのだ。だから、ちっとも損をした気はしていない。このカフェは、アートフルアクションというNPOがやっている。詳しくは、http://artfullaction.net

他にも、今回の帰国ではおいしいものを食べた。滞日の最後の日、横浜の弟光哉の奥さんの智子さんが作ってくれた松茸ご飯のことは、ぜひ書いておかなければならない。この松茸ご飯には、何とトルコ産の松茸が入っていたのだ。トルコからどうやって松茸が日本にくるのか分からないが、トルコ産でも正真正銘の松茸で、酢橘をしぼって食べると、どんな松茸に負けないほどおいしかったし、匂いもぷんとした。

そのトルコ松茸は、僕のおなかに収まったまま、オーストラリアに飛ぼうとしている。
(成田へ向かう成田エクスプレスの中で書く)

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ゴールドコースト空港でメルボルン行きを待つ間、日本のコンビニで買ったお握りを食べた。
このジェットスター便ボーイング787に「渡辺家先祖代々」を全員乗せて帰った。


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2014年09月12日

寿司と蕎麦

2014年9月12日

8月の終わりから9月上旬、日本に2週間行って来た。日本に行くと楽しみなのは食べ物だ。僕がまず食べるのは蕎麦だ。冬なら鴨南蛮、たぬき、 天ぷらそば。夏なら、もり、ザル、天ザル、とろろなど。この頃の蕎麦は、味が良くなったと思う。立ち食い蕎麦でも、不味くて食べられないということがない。

今年2014年の3月まで多摩に実家があったのだが、そこに最後まで暮らしていた末弟とは、僕が帰国すると、よく一緒に実家近くの団地の中にあるS屋というそば屋に行ったものだ。S屋は、よくある 団地のそば屋で、近所の人が食べに来たり、出前をしたりするのが主の、地味なそば屋だ。それでも味は悪くないし、値段も安いので贔屓にしていた。末弟は気楽な独り者だったから、しょっちゅうS屋で食べていたらしい。土曜日の午後など、ぶらりとS屋に行くと、団地の老年テニスクラブの親父さんたちが、昼酒に顔を真っ赤にしながら怪気炎をあげていた。そのでたらめな会話を聞きながら蕎麦をすするのも悪くなかった。

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たまに奮発して行くのは、K屋という蕎麦屋で、ここは超高級で有名だ。多摩と八王子の境にあって、飛騨の古民家を移築して作った豪勢な建物だ。蕎麦の器も、多摩在住だった辻清明という陶芸家が作った器で食べさせる。天ぷらのエビも生きた伊勢エビだ。だから値段は高いが、味も一流だ。ここは、僕の両親がまだ元気だった20年以上前からときどき通っている。両親の墓参りの後など、 僕たち三兄弟はK屋に行くことがよくあった。今年も、実家を売り払い、最後に不動産屋に鍵を引き渡した後、三人でK屋に行って蕎麦を食べた。

末弟は実家がなくなると、 世田谷の千歳烏山にアパートを借りた。南口の商店街をまっすぐ南に歩いて行くと500メートル程で商店が切れる。それでも歩いて行くと郵便局があって、その先を右に入った、モルタル作りの二階建てのアパートだった。

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この弟の新宅(?)を僕は今年三月に見に行った。弟は、千歳烏山の駅で、大福とみたらし団子の入った袋を下げて僕を待っていた。ちょうど昼だったから駅前のそば屋に入った。

「アパートの大家が、ここが旨いって言ったんだ」と末弟は言った。ジャズが流れる、お洒落なそば屋だった。 隣の夫婦は、昼間からビールを飲んでいた。弟は、鴨南蛮を食べた。僕は、その時何を食べたのか覚えてない。

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寿司も日本に帰ると必ず食べる。そんな高級な寿司は食べないが、仕事で顔を出す、巣鴨の近くの出版社の近くの寿司屋には、ときどき寄る。ここではランチしか食べないが、1500円くらいでけっこうなクオリティーな握りを食べられる。ランチで足りない時は、お好みで赤貝や中トロをつまむが、それだけでずいぶん贅沢をした気持になる。

実家がまだあった時は、これまた末弟と、実家近くのファミレス横の回転寿司に行った。ここへは晩飯を食べに行った。所詮回転寿司だから、二人とも値段の事など一切考えず、腹がはじける程食べた。絵皿だろうが金皿だろうが、何だろうが関係ない。 ウニ、トロ、ヒラメの縁側、のどぐろ、鯛、アジの活け造りなど。二人で、支払いは8000円とか一万円を超えることもあった。これが多いか、少ないか分からないが、しばらく寿司を見るのも嫌になるくらい食べた。

今回の帰国は、その末弟の葬儀だった。39歳だった末弟は8月末に急に病気で亡くなったので、僕はあわてて日本に帰った。こういうことは準備しておくことができないから、いつもあわてての帰国だ。父が危篤になったときも、最後に亡くなった時も、大慌てで帰った。こういうとき外国に暮らしているのはすごく不便だ。

さらにこういう時は、成田までの飛行機が辛い。今回も、ケアンズで乗り換えると、周りはオーストラリアで夏休みを過ごした楽しげな家族連れや学生がいっぱいだった。僕は、その真ん中で、沈痛な顔をして何時間も座っていた。爆発しそうな気持だった。

そして、慌ただしく帰国の2週間は過ぎた。葬儀の準備、通夜、葬儀、遺品の整理、事務処理。 真ん中の弟は、 グロッキー気味だった。彼は、弟の死直後から、悲しむ暇もなく、葬儀屋との交渉などの役目を一手に引き受けたのだから。僕も到着するや否や、喪主として活動しなければならなかった。喪主をするのは、父の時と二度目だ。親戚や知人 へ末弟の死を告げる電話を何度もしなくてはならず、これにはうんざりした。

それでも不思議なことに、腹もへれば喉も渇く。飛行機の中のまずい機内食もぱくぱく食べ、成田エクスプレスの車両ではカツサンドを食べた。横浜の、真ん中の弟の家に着くと、二人でエビスビールをがぶがぶ飲んで寝た。久しぶりに飲んだエビスは旨かった。

そして、今回も寿司と蕎麦を何回も食べた。末弟の葬儀の帰国だと言うのに やっぱり好物の食べ物を食べてしまう。

通夜の席では、食べ物がとても喉に通るとは思えなかったが、にぎり寿司が出た。ちょっとつまんでみたら案外きちんとした味だった。 末弟は若くして死んだから、通夜には高校時代や大学時代の友人たちが大挙して訪れた。その人たちと弟の思い出話で盛り上がり、みんなビールや酒を大いに飲み、寿司も足りなくなった。葬儀屋さんが慌てて追加を注文した。みんな、笑ったり泣いたりしながらも、よく寿司をつまんでいた。

末弟のアパートに遺品を整理に行った時は、真ん中の弟夫婦と、僕の妻を誘って、末弟と最後に行った千歳烏山のそば屋に入った。彼と食べた時程、旨いと思わなかったけど。店には前と同じようにジャズが流れていた。

帰国中の最後の晩には、回転寿司にも行った。横浜の真ん中の弟の家の近くだ。こちらはお洒落な加賀風の回転寿司で、味もぐんと良く、値段も高い。味がいいから週末は大混雑で、行くときには携帯電話で予約を入れておかないと入れない。それでも入り口でさらに20分は待たされる。回転寿司は、次から次へと注文して食べるので、せわしない。メニューと首っ引きで食べなければならない。だからあまり会話が弾まない。まあ、これは回転寿司という場所柄仕方がないだろう。

蕎麦は、ここに書いた以外にも、もう二三回食べたので、2週間の帰国中に5回は蕎麦屋に入った計算になる。思い返せば、父が亡くなったときも、もっと前に母が亡くなった時も、葬儀の前や最中や後に、蕎麦や寿司を食べた。悲しみながらも、寿司や蕎麦を美味しいと思ったのは今回も同じだった。

でもどうして なんだろう。僕は、どんなことがあっても、寿司や蕎麦をおいしいと思える人間なのか。それとも、寿司や蕎麦は、どんなことがあっても美味しく食べられる物なのか。試しに、成田空港でメルボルンに帰る飛行機に乗る前に、蕎麦でなく、うどんを食べてみた。

やっぱり蕎麦や寿司ほど、美味しいとは思わなかった。

今年の一月、今はなき実家のベランダで。
(左から、僕、真ん中の弟、末弟)
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2014年07月11日

30万キロの奇跡

2014年7月9日

冬の釣り行き

冬である。息子リンゴロウの学校も冬休み。メルボルンの7月は真冬で、雨が時折は激しく降り、カヤックに乗って海に出たくとも、風速30メートルの風が吹き荒れていたりするので、なかなかそれも叶わない。天気は変わりやすく、晴れていたと思えば雨が降り、土砂降り と思ったら、虹が出てまた晴れたりする。気分的には雨が降っている時の方が多い気がする。

そんなうっとうしい気分を振り払う為、なかなか休みがないリンゴロウのサッカークラブの練習の合間を縫い、男だけで2泊3日の釣り旅行に出た。行く先はメルボルンの東150キロ、ギップスランド南部ポートウェルシュプールという漁港。ここへは僕が2ヶ月程前にシーカヤックの合宿で来て、ここなら魚が釣れそうだと、睨んだ場所である。

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ギップスランドの平野

2ヶ月前のシーカヤックの合宿とは、ビクトリア・シーカヤック・クラブの親睦合宿で、スネークアイランドという島に漕いで渡り、そこからウイルソンズプロム国立公園までさらに海峡を漕ぐという趣向だった。僕は、まだ新参者なので、島渡りなど大丈夫だろうかと思ったが、クラブの会長さんが「大丈夫、ちっとも心配なし。初心者歓迎!」と太鼓判を押したので、のこのこ出かけて行った。ところがポートウェルシュプール港を出た日は、風速15ノット(28キロメートル)の向かい風、1、5メートルの波とうねりに揉まれ、まるでジェットコースターに乗っているように大波を下ったり、登ったり。自分がどちらを向いているのかも分からず、先輩に「こっちだ、こっちだ」と言われて必死に漕ぐのみだった。

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スネークアイランドの合宿

合宿2日目は、 スネークアイランドから海峡を渡ってプロム国立公園の東海岸を漕いだが、波打ち際でちょっと気を抜いたら横波を食らい、 冷たい水に頭からどぼんと沈した。おかげで 水温16度の海で生まれて初めて泳いだ。泳いでいるうちはアドレナリンが出ているせいか寒くないが、陸に上がってからの方が寒くてガタガタ震えた。

今回は、そのポートウェルシュプールに息子と2人でのんびり釣り旅行だ。しかし、着いた日はやはり強風と低温で、ちっとも釣れず。小振りのフラットヘッド(和名はコチ)が少しかかるだけ。2日間でどうにか釣れたと言えるのは、27センチと30センチのコチが二匹とカニ一匹。あまり芳しくない釣行だった。

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小さなコチ

しかし、冬の澄んだ空気は美しく、冬雨に閉じ込められて溜まった鬱積はギップスランドの空っ風といっしょにどこかへ飛んでいった。やっぱり広い所に出て、のんびりするに限る。海風はとても爽やか、肺の底の底まですっきりする。


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遠浅の海岸は車で走れる


30万キロの奇跡

ギップスランドの緑の大地を突っ走ったこの冬の旅行中に、僕の車トヨタ・カムリワゴン(1994年型)がついに走行距離30万キロを突破した。 オーストラリアでは40万キロくらい走る車が決して珍しくないが、僕が一台の車にこれだけ長く乗ったのは初めてだ。2000年に(中古、7万キロ)買ったから、もう15年は乗っている。今11歳のリンゴロウが生まれて時、病院からうちに連れて帰るときもこの車だった。

「パパ、 この車良いよね。でっかくて、何でものせられて」と、リンゴロウは今も言うが、彼にはこの車はゆりかごの様なものだろう。もちろん、金にあかせず最新型のSUVや4WDに替えたらもっと良いだろうけど、この古いワゴンでとりあえず用は足りている。燃費もまあまあ(リッター10から12キロ)、故障知らずだ。また、広い室内、汚れても構わないくたびれたボディには、釣り道具、キャンプ道具、カヤックなど、塩水や泥で汚れたものを満載してもちっとも気にならない。とにかくこれだけ使えば、カーボンフットプリントも最小限にとどめたことになるのでは?

もちろん、乗っていた車が30万キロ走った ことにはあまり深い意味はないだろう。ただ単に、僕がよほど物持ちが良いのか、ケチなのか、たまたま整備を怠らなかったせいか、運が良かったか、この車が「当たり」だったのか、あるいは僕がよほど物事に固執するたちなのか、まあ、そんなことかも知れない。

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しかし、僕はこの車でいろいろな用を足したし、何度も家族と旅行もしたし、息子ともどれだけ釣りに行ったか分からない。だから、 自動車は、所詮ただの「物」かもしれないが、30万キロもの長い距離と時間をつき合ってもらった事を、何かの僥倖(ぎょうこう=おもいがけない幸い)と考える事にした。 そして、今後何かすばらしいことがたくさん起きると考えることにした。

餅つき

そのことを祝うつもりでもないが、7月の文庫では、餅つきをやった(僕は「メルボルンこども文庫」という集まりをもう15年も主催している)。昨年だったか臼と杵を作ったので、ついにそれを使ってみる事にしたのだ。餅つきは準備が大変だからなかなか腰が上がらなかったのだが、近所の日本人の友達に「やりましょうよ!」とそそのかされ、急遽やることになった。

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オジーのパパもぺったらぺったら

7キロの餅米を前夜から水に浸けて、朝から強火で蒸した。昼過ぎには、文庫の子どもたちやら親たちが10家族程集まり、ぺったり、ぺったり餅つきが始まった。あんころ餅、ショウユ餅、キナコ餅、大根おろしのからみ餅などだが、7キロの餅米がきれいになくなった。みんな食べること、食べること。オジーのお父さんたちも、あんころ餅やショウユ餅を「おいしい、おいしい」と、はぐはぐ食べていた。

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餅米は、オーストラリアの我が家の近所で売っているのは、タイと中国産の餅米だが、韓国産の餅米を差し入れてくれたご家族があり、その方が断然粘りがあって美味しかった。きっと韓国の餅米は、日本の餅米に似ているのだろう。

餅つきというのは、お祭りみたいで、人が集まってわいわいやるのが楽しい。特に、冬の寒いときに、湯気の出る餅を食べながらやると、心の中がぽっかり暖まる。

春を待つ気持

リンゴロウの冬休みはまだあと2、3日ある。サッカーの練習もあるし、もう泊まりで出かるほどの余裕はない。 今日も朝からまた雨。そこで、リンゴロウを連れて、ビクトリア・シーカヤッククラブの面々が、手作りカヤックを作っているワークショップを覗きに行くことにした。

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手作りカヤック工房

ミッチャムの教会の裏の作業場がカヤック工房となっていて、クラブのメンバーの有志たちが一週間かけて、昔風のグリーンランド型シーカヤックを作っている。初老の親爺たちがカンナくずだらけになりながら、子どものように喜々としてカヤックを作っていた。僕も、過去にカヌーとカヤックを作った経験があるので、興味津々で見せてもらう。

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skin-on-frameのカヤックの骨組み

今回この人たちが作っているのは、skin-on-frameという形式の、昔のグリーンランドの先住民たちが、動物の皮を木製フレームに張って作ったのと同じ形のものだ。ただ動物の皮の代わりに、新素材の繊維と防水のポリウレタン塗料を塗るところが現代的だが。教えているのは、クラブ会長のボブとその義理の息子ブレンダンだ。ボブは、本業は大学教授/牧師であるが、なんだかカヤックの方が本業ではないかと思われる程のめりこんでいる。

「カヤック作りは、本職はだしですね」と僕がお世辞とも皮肉とも取れることを言うと、サンタクロースのような巨漢のボブは破顔し、
「いやあ、こう寒いと、あまり海にも出れないしね。でも、この間は、強風の中、海に出てローリング練習をやったら、自慢の木製グリーランドパドルを折っちゃってね。ウハハ! このワークショップが終わったら、すぐにもう一本作らなくちゃならんのだよ。ワハハハ!」と、大きなお腹を揺すって笑うのであった。こういう福々とした人といると、心の底が暖かくなってくる気がする。

こうやって、みんな春がくるのを着々と準備しながら待っている。僕も、雨が上がったら海に出るぞ。


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ウィルソンズ・プロム国立公園で愛艇に乗る
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2014年06月04日

「石井桃子さんのお握り」の真相

2014年6月2日

メルボルンの6月は、もう冬だ。


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冷たい雨に濡れながらポストから郵便を取り出したら、日本から『石井桃子のことば』(中川李枝子、松居直、若菜晃子ほか著、新潮社)が送られてきていた。

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さっそく開いてみる。写真がたくさんあって、どこを見ても楽しい本だ。若い頃の石井桃子さんが、とても素敵だ。それに中川李枝子さんや松居直さんなど、石井桃子さんに縁のあった人たちの文章や談話がたくさん載っていて、子どもの本の研究をする人には資料価値も高いだろう。僕の父(子どもの本の作家だった渡辺茂男)が石井桃子さんと懇意にしていたおかげで、僕にも懐かしい人たちや作家がたくさん出てくる。この本をいただいたのは、『ぐりとぐら』の著者である中川李枝子さんの文章が載っているページの写真を、僕が出版社に貸したからだ。その写真とは、中川さん一家(ご主人の宗弥氏とご子息の画太さん)と石井桃子さん、そして我が家の全員(父、母、弟光哉と僕)が一緒に、僕の実家の近くの多摩丘陵を野歩きしている写真だ。1966、7年頃の写真である。

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多摩丘陵 1966年頃。石井桃子さん、中川李枝子さん、父茂男、弟光哉、白帽子の僕、母一江 (父の後は中川画太さん)


この本を読んでいたら、ぜひ、書いておかなければいけないことがあることを思い出した。それは、石井桃子さんのお握りのことだ。

ことの起こりはこうだ。昨2013年秋、東京子ども図書館の機関誌である『こどもととしょかん』(138号)に僕の一文「石井桃子さんのお握り」を掲載していただいた。短い文だからもう一度以下に掲載する。


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「子ども時代、父(渡辺茂男)の先輩作家であった石井桃子さんには、よくお会いした。石井さんは、僕がおどけたことをすると、細い手を口に当てて、「おほほほ!」と笑うのだった。そうすると僕は、父に「調子に乗るな!」と叱られたものだ。

我が家がロンドンにいた時は、石井さんがうちに滞在した。かなり恥ずかしい思い出だが、シティかどこかへ行くと言った石井さんに、小学四年の僕は、「じゃあ、英語の通訳してあげようか?」と偉そうにいったのだった。石井さんは、また「おほほほ!」と笑い、「じゃあ、てったちゃんにお願いしようか!」と言った。父には「英語の達人に、何て失礼な!」と怒られた。

ほろっとするのは、お握りのこと。高二の夏、友人T君と信州を自転車旅行し、追分の石井さんの山荘に泊めて頂いた。石井さんは、真っ黒に日焼けした僕たちに、「元気そうね!毎日何を食べてるの?」と尋ねた。僕が、「ラーメンとか、カツ丼!」と答えると、石井さんは体を二つに折って、「おほほほ!」と、笑いが止まらなかった。

その晩は、ゆっくりお風呂に浸かり、きれいな布団で寝かして頂いた。翌朝出がけに石井さんが、「ラーメンにカツ丼じゃあねえ」と言い、ずっしり重いお握りを持たしてくれた。

僕とT君は、そのお握りを千曲川の河原で食べた。それは直径が15センチ位あって、万力で締めたように固かった。あの大きなお握りのことはたまに思い出すが、石井さんは、あんなでっかいのを、どうやってあんな固く握ったんだろ?」

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嘘ではない。本当の話である。

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石井さんの別荘の前と軽井沢で


今年2014年3月、 石井桃子さんのお宅であった「かつら文庫」(東京子ども図書館の分館)が新装オープンした。僕は、それに合わせて帰国し、それにちなんで、石井桃子さんと父茂男の交流について話をする機会を頂いた。(父の蔵書の主だったものを東京子ども図書館に寄贈させて頂いたということもあったので。父の蔵書は現在かつら文庫に展示されている。)。

講演会当日、 杉並の会場には、光栄にも松岡亨子さん、中川李枝子さんといった児童文学者もお出でになっていた。僕は、子ども時代のエピソードを交えつつ、このお握りのことも含めて話をした。

僕の話が終わると、質問やコメントの時間になった。すると、中川さんが、さっと手を挙げてマイクを持った。そして一言。

「鉄太さん、あの石井先生のお握りの話なんだけど、あれは本当は私が握ったのよ。覚えてない? 石井先生は6人兄弟の末っ子で、大事に育てられたから、お握りなんて握れないの。それで、あんたが高校生の時、サイクリング旅行で石井先生の別荘に泊まるって言うから、あんたのご両親に頼まれて、私がお世話する為に、追分までわざわざ出掛けて行って一緒に泊まったのよ。忘れたの? それどころか、あなたのお友達(T君)とあなたと一緒の部屋に寝たのよ。」

それを聞いて、僕の頭の中は真っ白になった。石井さんが握ったとばかり思っていたお握りが、実は中川李枝子さんが握ったお握りだったとは! 僕は、何てことを書いてしまったのだ!

会場は笑いの渦になった。こんなアホな勘違いが、公衆の面前であばかれることも、そうないだろう。

すると、自分でも驚いたのだが、40年近く前の記憶が、脳裏の奥底からするすると蘇ってきたのだ。そうだ、あの時石井桃子さんのお宅に、もう一人おばさんがいたっけ! それどころか、 そのおばさんが僕らと枕を並べて寝ると聞いて、 僕は「参ったなあ、こりゃあ!」と思ったことさえ思い出した。まさか、あれが中川さんだったとは!

中川李枝子さん、ごめんなさい!

しかし、それで、あのお握りの謎がすっかり解けた。あんなにでかくて(直径15センチ)、しっかり中まで固いお握りを、あの可憐な石井桃子さんが握れたはずがないのだ。そうだ、中川さんなら納得できる。中川さんが可憐じゃない、なんて言っている訳じゃありません! あのお握りが、『ぐりとぐら』に登場する、森の中のでっかい卵みたいだったから。

お握りの謎が解けたので、僕は、講演会のさらし者にされながらも、まんざら悪い気ではなかった。中川さんご自身も、別に腹を立てている風でもなかったし。(ですよね?) 横では、松岡亨子さんもニコニコ笑っていた。

というのが、石井桃子さんのお握りの真相だ。でも、そのおかげで、僕はいよいよあのお握りを食べた思い出を懐かしく思い出すようになった。石井さんのお握りでも、中川さんのお握りでも、どちらでもいいではないか。どちらにせよ、見たことないほど、でっかい、固いお握りだったのだから。

付け加えると、 「大発言」の後、 中川李枝子さんが言い加えたことが良かった。(きっと、僕をいじめすぎたと思われたのだろう。)

「あのとき、あなたと一緒にサイクリングをしていらした青年ね、あの方はどうなさってるの? とても感じの良い方だったわね。」

僕は、答えた。
「ありがとうございます。はい、あの者は中学時代の親友で、Tといいます。彼は、今は台所用品の会社のサラリーマンで、とても真面目な社会人になっております。」

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トノムラと僕  1977年頃、信州サイクリングに出発の朝


Tくんの本名は、「トノムラ・アツシ」と言う。きっとトノムラは、昔ごちそうになったお握りに、そんな裏話があるともちっとも知らず、今日も台所用品を売っているのだろう。(おい、トノムラ、元気か?)

人生には、思いがけない裏があるってことかもしれない。
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2014年05月08日

砂利を敷く

2014年5月7日

今日やったことと言えば、地面に砂利を敷いたことだ。それだけである。しかし、それで大いなる達成感を得られたのだから良かったではないかと自賛している。

砂利と言えば、 僕には苦い思い出がある。小学3年生くらいのころ、我が家の近所はまだ道路が舗装ではなくて砂利敷だった。ある日、近所のマーちゃんちで遊んでいたのだが、そのうちマーちゃんちの庭に道路の砂利を敷きつめてきれいにしようということになった。そこで、僕たちは大奮闘して砂利を敷き詰めた。ところが後で、とんでもないことをしでかしたと言って、マーちゃんのお母さんに大目玉を食らった。その上、せっかく運んだ砂利を道路に戻させられて閉口した。

さて、今回なぜ我が家の庭の隅に砂利を敷いたかと言うと、自動車を置く車寄せを作るためだ。なぜ車寄せが必要かと言うと、娘が中古のカローラを買ったからだ。そして、庭で余分な車を置ける場所が、メルボルンが冬になって雨が多くなると、泥が柔らかくなってタイヤが埋まって、車が出しにくくなる場所だったからだ。


砂利を敷くなど、人を呼んでやってもらえば済むと思うだろうが、昨今、世界でも一番人件費が高いと言われているオーストラリアで、いちいち砂利を敷くだけのために人を雇うなどと言うのは最も贅沢なことだ。だが、そう言う僕も、以前は砂利を敷くなんていうのは、この世でもっとも下等な仕事だと信じていた。だから、そんな自分が砂利敷きをするようになるなんて以前なら夢にも思わなかっただろう。しかし、ベルグレーブの山へ越してきてかれこれ14年、この物価高のせいもあって、こんなことは全て自分でするようになった。

予想通り、今日の砂利敷きの作業は実に楽しかった。子どもの時、喜々としてマーちゃんちの庭に砂利を運んで 以来だ。おまけにこの作業は僕に新たな発見をもたらしてくれた。


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敷いた砂利は、5トンダンプに軽く山盛りに積んできた量で、3立法メートル程だったろうか。これが多いか少ないかは感覚の問題だろう。しかし、重さは3トン以上あるのだから、その量を腕力だけで移動させるには、けっこう体力を使った。作業に用いたのは、大きめのスコップ、小さなスコップ、金属製の熊手、それと畑で使う小さな鋤(すき)だった。

最初は大きなスコップで砂利をすくったが、すぐに腕が痛くなった。これではまるっきりダメだと観念した。それで小さなスコップに持ち替えた。ところが、もっと能率が落ちた。熊手も使ってみたが、表面を馴らすには良いが、大量の砂利を移動するには向いていない。そこで鋤を使ってみたら、これが一番能率良かった。

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30分ほど、鋤を使って砂利を移動させた。すると、能率が良いだけに筋肉の疲労が著しく、腕がどうしようもなくだるくなった。もうこれ以上続けていられない気分だった。だが砂利はいくらも減っていない。このままでは夕方娘が帰ってきても、自動車を停める場所がない。

そこで、しばらく休んだ。そしたら腕のだるさがなくなった。そこで作業を続けた。でも、すぐにまただるくなった。そこで、また大きなスコップに持ち替えた。ただ、今度は大きなスコップに目一杯じゃなくて、半量くらいの砂利をすくって投げた。これが最も効率がよく思えた。しかも、無闇にすくって投げるのではなく、右腕で10杯、次は左腕で10杯という風に、作業を重ねていく。砂利を投げる方向も、撒いた量が少ない所を重点的にねらっていく、という風に戦略的に作業を行った。砂利のすくい方にも、ちょうど良い力の入れ方があることも段々分かってきた。言ってみるならば「砂利の気持になる」ってことかもしれない。

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そうしているうちに、作業は意外なほどはかどった。途中で優雅にコーヒーブレークなどを入れて3時間程で作業を終えた。結果、見事な車寄せが出来上がった。娘の喜ぶ顔が目に浮かんで嬉しかった。さっそく自分の自動車を停めてみたが、もう泥にタイヤが埋まることもなく、真新しい車寄せの上に僕の車は嬉しそうに君臨してみせた。

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砂利を敷くという作業も、これまでバカにしていたようなものでは全くなかった。それどころか、立派な作業であることが分かった。一体、自分の生立ちや、受けてきた教育はなんの為だったのだろうと、こういう肉体作業をするといつも感じる。壁にペンキを塗ったり、編み物をしたり、地面に砂利を敷くような単純な作業こそ感覚を鋭くする素晴らしい瞑想の一種だ。それだけでなく、 腕の筋肉の疲れを克服する為にスコップの使い方を工夫したり、 砂利を投げる回数を数えることで、精神的な困難を乗り切れることも分かった。こういったことは、頭で考えているだけでは決して分かり得ない。

今、人類は癌やアルツハイマー症などを克服し、長生きをする為の術を探し求めることに血眼になっている。難病の治療法にこそならないが、砂利を敷くような単純な作業には、日々を健やかに生きられる秘訣があるのかもしれない。

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ウォンバットにも苦悩があるらしい


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2014年04月22日

イースター休み

2014年4月21日


復活祭、イースターの日

イースターは北半球では春の訪れと同義かもしれないが、僕の暮らすオーストラリア、メルボルンでは、秋の行事だ。イースターは、子どもの学校の秋休みと重なるが、移動祝祭日なので、休みの真ん中になったり、後になったり。今年は、秋休みの最後の週末だった。
この秋休みは、旅行やキャンプに三回も行ってしまって、全然うちに居なかった。そんなで休みの最後の週末くらい大人しくしていようと思ったら、「そろそろ栗拾いにおいで」と、近所の知人から誘いがきた。そこで友達家族と、たまたまうちにいた娘と娘のボーイフレンドを誘って、モンバルク村の栗林へ向かうために車に乗った。

ところが、車をバックで出す時、前のバンパーの端を庭の石に引っかけてしまった。そしたら「ガリガリ、バリン!」と大きな音を立てて、バンパーが全部とれてしまった。あれまあ、なんてこった!

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この石は、昨年に免許をとったばかりの 娘も「この石邪魔!」と言って毛嫌いしていた 石だったのだが、無精で動かしていなかった。僕も時々 「ガリガリ」と車を引っ掻いていたが、僕のカムリは古い車なので、全然気にしてなかった。

外れたバンパーを前に唖然。どうしよう…? でも、とにかく栗拾いにいかなくちゃ。気を取り直して、女房の車で出掛ける。
モンバルクの知人宅には、こんなに大きな栗の木が十本程ある。3、40年前に、イタリア系の移民が植えたものらしい。

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イタリア人は栗が好きらしい。スイス人も栗が好きらしい。そして、日本人の我々も大好き。でも、普通のアングロのオジーは、あまり栗を食べない。

さて、一時間で、これだけとった。とり過ぎかな。これだけとっても、まだまだある。子どもたちは、とにかく集めるのが大好き。大興奮で栗拾いをしていた。大人も楽しかったけど。とれたての栗は、つやつや。まだ水分が多いので、じっくりフライパンで炒ってから食べないとだめ。

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みんなが見上げているのは、枝の上のフクロウ。昼間なのに、フクロウが、木の枝から僕たちを見下ろしていた。

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さて、うちに帰ってから、外れた車のフェンダーを検分。試しにはめてみると、すぽっとはまる。見れば、簡単なフックとねじではまっているだけ。よし、自分でつけてみようと決心。娘のボーイフレンドも、「僕も、前に姉の車のフェンダーをケーブルタイで結んでくっつけたことがありますよ」と言う。そうか、ケーブルタイっていう手があったか。

そこで車の下にもぐりこんで、ごそごそ1時間。二カ所ほど穴をドリルで開けてケーブルタイでぎりぎり縛り上げたら、ちゃんとフロントグリルは元にもどった。思ったより簡単だったので、ウハハと笑ってしまった。

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でも、バンパーの両側のはじっこのところは、外れたときの衝撃で割れてしまった。これは台所用のシリコンかエポキシでくっつけてしまおう。あと4000キロ走れば、30万キロの大台にのる94年型カムリワゴンは、こんな風にまたもや風格がついてしまった。

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イースターマンデーにサイクリング

イースターの翌日はイースタマンデーという祝日。これは、ただの休日。いよいよ秋休みも今日で終わり。天気も良いので自転車に乗りに、ウォーバートントレールというサイクリングロードまでドライブ。(バンパーはしっかりくっついたまま)。このサイクリングロードは、我が家から車で30分ほど。昔、鉄道の線路だった道で、リリデールという町からウォーバートンの村まで全長40キロ。今回は、このうち15キロ(往復30キロ)を、女房と息子と僕の三人で走る。

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 今日は、三人とも、細いタイヤの軽量バイク 。11歳の息子は、女房のお古の700Cタイヤのロードレーサーで風のように走る。6歳の息子と初めてここに来た時は、16インチのチビチャリだったのに。それでも15キロ走り抜いたので驚いた。今は、ロードレーサーの息子に追いつくのが、とてももう大変。

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 三人で30キロを2時間強で走り抜けた。道は、細かい砂利道だけど、固いので細いタイヤでも全然大丈夫。僕が乗っているのは、中学生のときから乗っているブリジストン・ダイヤモンドという名車。40年前のオールド自転車(真ん中の赤いやつ)。

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休日なのでたくさんサイクリストがいたけど、こういうエンジン付きのは、かなりチョンボだな。

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家に帰ったら、太ももがかなり痛かった。たった30キロでこうなるとは日頃の運動が足らない証拠。
僕は、スピードよりも持久力をつけたい質だ。これからもがんばるぞ。


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2014年03月27日

こんなに長くオーストラリアにいる理由

2014年3月26日

オーストラリアに引っ越してから17年は経っている。こんなに長く、とも思うが、振り返ってみればあっという間だった。もう両親もいなし、この3月で東京の実家も処分してしまったので、日本に帰る場所もなくなってしまった。(両親の 墓はあるけど、墓は「帰る場所」って感じじゃないねえ)。
それと、たまたま実家の処分と同時になったが、19歳の娘が、 大学に入ったのをきっかけにオーストラリア国籍を取る事になった。つい昨日その為の「国籍テスト」(citizenship test)というのを受験してきたが、100点だったと喜んでいた。まあ、娘は大学で歴史を専攻しているから、「オーストラリアを最初に発見した西欧人は誰?」とかいう質問は簡単だったに違いない。
娘もオーストラリア国籍を取るし、東京の実家もなくなるし、僕とオーストラリアの関係はいよいよ密接になる一方だ。で、よく聞かれるのは、「ずっとこのまま死ぬまでオーストラリアにいるつもり?」ということだ。答えは「そんなこと、分からないよ」である。
僕は幸運なことに、仕事やらいろいろで、年に2、3回は日本に帰っているから、それほど日本恋しのホームシックにもかからない。「ああ、オーストラリアにいるのも飽きたなあ」と思う頃、ちょうど日本に帰る用事ができる。でも、東京に2週間もいると、オーストラリアに帰りたくなる。というか、オーストラリアの緑と、家族のいる自分の家が恋しくなる。

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この間、成田空港でホラ貝を吹いていた男の人

東京の実家がなくなったので、3月初旬に2週間ほど帰国したときは、弟の家と妻の実家と単身赴任中の友達の家に滞在させてもらった。弟も、妻の実家も、友達の家も、どこも気兼ねがいらないので気楽だった。中でも、単身赴任の友達の家が一番気楽だったなあ。男2人で鍋なんか食いながら晩酌したりして。

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実家からメルボルンに持って来た、子ども時代からあるスキヤキ鍋

50面下げて情けないが、実家がなくなったのは寂しい。でも、それ以上に嬉しかったのは、東京の友達や知人が「今度帰った時は、ぜひ我が家にも泊まって下さいね」と口を揃えて言ってくれたこと。これからは、そう言ってくれる友達が僕の故郷なんだなって思った。
オーストラリアに17年もいて、どうしてここにこんなに長くいるんだろうと自分でも不思議に思う。絶対的にここにいなくてはならない理由もなかったし、もし日本にいたら、今頃もっと売れっ子作家になっていたかもしれない(そんなわけないだろうが!)。

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ガンジーの真似をしているインド系英国人の友達と、インド人の真似をしているフランス人の友達

で、ここにいた理由の一つは、友達がたくさんできたからだろう。日本人の友達もたくさんいるし、オーストラリア人や他の国籍の友人もたくさんいる。これから新しい土地に行って暮らすのもエキサイティングだとも思うけど、こんなにたくさん友達ができるかな? あるいは、日本に戻ったとしても、昔の友達との間に前と同じような友情が復活するかもどうかも分からないし、東京に限って言うならば、もうあそこで長くは暮らせないなあ。

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Flower and Garden show会場のエグジビション・ビルディング

関係ないが、2、3日前メルボルンのシティで「Flower and Garden Show」という催しがあったので見て来た。 僕は生け花をやっていて、その仲間とそこに作品を出品したから、それを見に行ったわけだけど、それ以外の展示物もとても面白かった。こういう催しは引退した年寄りのものだと思っていたが、行ってみたらそんなことはなくて、もっとずっと楽しかった。(年寄りも多いは多かったけど。) とにかく、きれいな花や、庭や、農機具やなんかを見ていると、うきうき楽しくなってくるし、それを見ている人たちみんながニコニコしてとても幸せそうなことが一番良かった。
僕は、花とか木とかにそれほど気にかけないでこれまで生きてきたけど、これからは生活の真ん中に植物を置いて、その周りでニコニコしながら生きたいと思ったくらいだ。

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こんなオフィスもいいねえ

Flower and Garden Showを見た後に、天気も良いのでメルボルンの街をぶらぶら歩いていたら、この間日本に帰った時、飛行機でとなりの席に座っていた少年にばったり出くわした。 そのE君は、日系スウェーデン人で、メルボルン大学で工学を勉強している。とてもニコニコで感じの良い若者だったからすっかり意気投合して、フライト中に話しこんでしまったのだった。 E君には、もう二度と会わないだろうと思っていたので、街でばったり会えてとても嬉しかった。それで10分程立ち話をして別れた。

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仲間と僕が出品した生け花作品。(材料は、菊と竹)

 その後、電車に乗って家に帰ったのだけど、そうしたらBox Hillという駅で電車が故障で立ち往生した。その間、暇だから前の席に座っていた中国人カップルと話し始めた。2人は北京から新婚旅行でメルボルンに来ていて、我が家の近くのパッフィンビリーという蒸気機関車に乗りに行くところだと言う。あまり英語もできないので、半分は漢字で筆談。でも、漢字の筆談って、けっこう盛り上がるんだよね。
 それで、やっと電車が動き始めたのはいいが、彼らは電車が遅れたせいで、わざわざ我が町ベルブレーブまで来たのに蒸気機関車に乗り遅れるはめに。せっかく北京からきたというのにそれじゃあ気の毒だ。そこで、僕は駅の駐車場に停めてあった自分の車に2人を乗せて、蒸気機関車を大追跡した。もちろん蒸気機関車よりも車の方が早いから、ついに二つ先のエメラルド駅で蒸気機関車に追いつき、新婚旅行の2人を乗せてやった。
 「謝、謝! 北京でまた会いましょう!」そう言って2人は機関車に乗って行ってしまったが、考えてみたら名前も連絡先も聞いてなかったなあ。まあ、それでもどこかでまた会うかも分からない。
その一日は、Flower Garden Showに行ったり、E君にばったり出会ったり、中国の新婚さんと知り合ったりしていて、何だか良い1日だったな。
それで気がついた。僕が、なぜこんなに長くオーストラリアにいる理由を。それは、ニコニコしている人がたくさんいるからだ。そうでなかったら、多分僕はここにそんなに長くいなかっただろうし、これからもここにいようとは思わないだろうね、きっと。
posted by てったくん at 20:01| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記