2016年03月28日

古い自転車のレストア整備

2016年3月26日

今年初頭、Luigi’s Freedom Rideという自転車がテーマの小説を読んでうれしくなり、高校生のときから乗っている古い自転車をレストアすることにした。そのことは、この間書いたが、いっときは、もうこんな古い自転車なんか直すのよそうと思った。でも、この小説の主人公の自転車に対する愛情に感動してモチベーションがぐんと上がり、「古いものは大事にしよう!」と思い直した。

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きれいになった古い自転車

それから一ヶ月以上、暇さえあれば自転車の整備。一番苦労したのは、錆び落としかもしれない。錆を落とすには、コンパウンドと呼ばれる研磨剤が最も強力である。これを付けたスチールウールでこする。これに勝るものは無い。レモン汁や酢につける、コカコーラに浸けるとかの方法もある(コカコーラは、もう一生飲まないことに決めた)。だが、それでも落ちない錆もある。そういうのは、もうトタン屋根の補修に使う銀色の塗料を塗ってしまった。 コロンブスの卵である。そうすると、一寸見ただけでは新品に見えてしまうくらいきれいになった。(やや誇張気味。)

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塗ってしまった部品

そんなあるとき、友人のアラン宅に行った。お茶を飲みながら、「40年前の自転車をレストアしているんだよ。錆落としに苦労してね」と僕は言った。

するとアランが、「錆を落とそうと思ううちは、まだ正常。錆たままが良いと思うようになったら、ちょっと異常」と言う。アランは、筋金入りの骨董マニアである。そして、「俺の自転車を見せてやるよ」と、僕を車庫に連れていった。

そこにあったのは、錆だらけの水色の自転車。「これは、パトリシア(アランの奥さん)の誕生プレゼントに買ったんだ。錆びさびだろ。そこがいいんだよ。でも、こういうのが良くなると、かなり気違いだぜ。」

水色の自転車は1930年代のものだそうで、イギリス製のラーレイだか何だか分からないが、鉄製の重たいやつだ。(こんな鉄アレイみたいなもの、よく乗るよ。)
「見てごらん、このライト! アセチレン灯だよ。もちろん点かないけど、かっこいいだろ!」と、アランはうれしそうに言う。

アランは、水道とガスの配管屋で、年齢は60台半ば。若い頃はどもりがひどかったが、オーストラリア南極観測基地のガス水道管理の仕事に志願して、計二年を極地ですごして帰ったら、どもりがすっかり直ったそうだ。 今は温厚な初老の紳士。骨董マニアだが、一番好きなのはクラシックカー。愛車は1964年型ジャガーEタイプで、我が子以上にこれを愛でている。休みとなると、これで奥さんとあちこちドライブ。加えてキャンプ用にと、1970年代のフォルクスワーゲンのバンも持っている。

家の中も骨董だらけ。居間には日本の茶箪笥や掛け軸、竹籠などが置いてあるが、これは奥さんの趣味。家中に古い時計、クラリネットやサックスといった古楽器、自動車の部品、古本なんかがぎっしり。これはアランの趣味。 玄関横の門灯は本当のガス灯がちらちら点いている。庭のあちこちには、日本の灯籠、古い梯子など。統一もへったくれもないが、とにかく古いものだらけの家。

アランが、「もうひとつすごいものを見せてやる」と取り出したのは、自動車の木製ハンドル。もちろんジャガーのもの。「これを手に入れるのは苦労したんだ。アメリカのマニアから譲ってもらったんだけど、本当の1964年型の純正だぞ。見てご覧、木のハンドルに塗ってあるニスがつや消しだろ。これが正真正銘のオリジナル塗装なんだ。普通ジャガーのオーナーは、ハンドルのニスが禿げてくると、艶のあるニスを塗る。きれいだからね。でも、これは間違い。つや消しのニスじゃないとオリジナルじゃないんだよ。これは大発見だ。下手したらスミソニアン博物館ものだ。うははは。」

呆れた僕は、「あんた、本当の気違いだな」と言うと、アランは嬉しそうに、「そうなんだよ、そうなんだよ、うひひひ」ともっと喜ぶ。

僕は気違いじゃないから、古くても、錆びている自転車は嫌だ。きれいにして乗りたい。部品も古いのはかっこいいけど、オリジナルでなくても全然構わない。

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これは緑化された自転車

でも、アランに刺激されたので、家に帰ると、かなり精魂こめて自転車の整備をした。自転車を完全にバラしてみて思ったのは、パーツ自体はそれほど多くないから、作業は大変じゃない。ただ面倒なのは、真っ黒に汚れた油だらけの部品、特にチェーンに触るのが嫌ということがあるかもしれない。でも、これには使い捨てのシリコン手袋をはめて対処した。汚いチェーンをきれいにするには、お湯をかけたり、灯油に一晩つけておいたりする。他の部品も灯油で磨けば、大概はきれいになる。

それでも、汚い部品やチェーンを磨きながら灯油の匂いをかいでいると、中学生、高校生の頃を思い出す。夏休みや春休み、自転車旅行に行く前に、こうやって自転車を整備したものだ。手先を真っ黒にしながら、心はわくわく。そんな気持を思い出したのは、ずいぶん久し振りだ。

テクニカルなことになるが、長年この自転車の補修が面倒だったもうひとつの理由は、タイヤサイズの問題である。僕の自転車は、650Bの40という特殊なサイズで、このタイヤはオーストラリアではほとんど売ってない。(日本でも、そこらの店にはない。)大概の人は、大人用自転車には26インチか27インチしかないと思っているかもしれないが、これは大間違い。700ミリ、650ミリという径もあり、これらは26インチと27インチと微妙に径が違う。さらに、その中にも、更にこまかい径や幅のバラエティがある。サイズが合わないタイヤは車輪にぴったりはまらないから困る。

今回は、インターネットでそのタイヤを探して海外に発注した。イギリスの店に注文したら、ドイツから送られてきた。届いたのを見ると、アメリカのメーカーだが,製造は中国であった。このタイヤは、地球を一周半してきたわけだ。いったいどうなってんだろう!

さらに、今回のレストアで大問題はフレームの塗装だった。フレームは、傷だらけで目もあてられない状態。もと自転車屋のトニーに相談すると、「いいじゃないの、このままで。古くて傷だらけなのも味だよ、味!」と人ごとだと思っていい加減なことを言う。確かに、少しくらい傷があるのは「味」かもしれないが、 傷だらけでぼろぼろなのは「味」をすっかり通り越している。でも、フレームの塗り直しは目の玉が飛び出るほど高価。オーストラリアだと5万円、日本でも2万円はかかる。新しいフレームが買えちゃう値段だ!

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塗装中のフレーム

そこで、思い切って自分で塗り直すことにした。自転車フレームを塗り直すのは、普通はやらない方がいい。上手に塗るのが難しいのと、焼き付け塗装じゃないから、またすぐ傷だらけになるからだ。でも、これもコロンブスの卵。傷だらけになったらまた塗り直せばいい。

そこで、塗料を買いに自動車専門の塗料屋に行った。「自転車のフレームを塗りたいんだけど」と、相談すると、塗料屋が「フレームを持っておいでよ。その色にスプレー缶を調合してあげるから」だって。さすがプロは違う。待つこと一日、オリジナルとほぼ全く同じメタリックレッドのスプレー缶を作ってくれた。うれしいなあ。

古い塗装を落としたり、2日くらいかけてフレームを塗りあげる。我ながら、「ムムム!」と唸りたくなる程きれいに塗れた。

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我が家の古びたツリーハウス。アーティスト西川しょう子さんと、文庫の子ども達がきれいに塗り直してくれました。

後は、ブレーキやギアのケーブルやなんかの消耗部品。ここまでくれば楽勝。インターネット時代だから、普通の部品ならどこでも郵送で買える。最後に、すり減って虫食い状態になったクランクのシャフトも替えることにした。寸法を測ると、73ミリという非常にレアなサイズで(普通は68ミリ)、一瞬青ざめた。こんなの今どきあるの? でも、シドニーの自転車屋にちゃんとあった。

でも、部品を探しながらインターネットで見ていると、古い自転車をレストアして乗るのは、けっこう一般的な趣味として広まっていることが分かる。一種の懐古主義だ。メルボルンにもその筋の専門店が2、3軒あることを知る。そのうちの一軒は、「MOTTAINAI Bicycle」と言う名前。 http://mottainaicycles.com/ 

もちろん、日本語の「もったいない」から命名したらしい。街に出たついでにのぞいてみたら、倉庫みたいな場所で、ヒッピー風ひげ面男が三人ほど、古い自転車を組み直していた。 店にはあること、あること、懐かしいオールドバイクがたくさん 。デローザ、ビアンキ、エディメルクス、プジョー、ラーレーなどに混じって、丸石、ミヤタ、フジといった日本車もある。懐かしくて涙が出そう!

インターネットを見てると、日本にも気違いがたくさんいることが分かる。中でも、古い自転車を徹底的に整備して磨き上げるのが趣味のおじさんたちにもつける薬はない。アランみたいな錆びさび派?とは逆で、こちらはピカピカ派だ。そこまでピカピカに磨いてどうすんの?と思うくらいに、ピカピカに磨く。確かに、昔の60年代から80年代くらまでのロードレーサーやランドナーといった自転車はかっこいいから磨きたくなるだろうけど、ここまできれいにしたら、外で乗れないじゃないの?

繰り返すようだが、僕はそこまで気違いじゃないから、古い自転車をきれいに整備して、もう一度走れるようになればハッピー。

三月中旬、ついにダイヤモンド号が完成。さっそく走りに出る。家を出て、モンバルク村、エメラルド村、メンジーズクリーク村と三角に走って40キロ。田舎道、未舗装道路も多いから、きれいだったダイヤモンド号は、すぐに埃だらけ。でも、久しぶりに走ると気持がいい。ところが、54歳の僕には、山坂が意外にきついのも新たな発見。昔はこのギアで奥多摩、秩父、丹沢、日光いろは坂、信州乙女峠なんかを荷物いっぱい積んでがんがん走ったというのに、今はちょっと坂がきついと、一番低いギアで、時速八キロのろのろ走行。

ようし、これからはトレーニングして、あちこち走るよ。

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近所の森の中を走る100年前の蒸気機関車。これもぴかぴか。
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2016年03月08日

自転車が好き

2016年3月8日

お隣の庭先のユーカリの古木が枯れたので、市が突然伐り倒しにきた。自分の家の庭先でも、道路から二メートルくらいまでは市の土地で、そこにある木も市が管理する。お隣の夫婦はニュージーランドへ旅行中だった。それで、帰ってきたら家の前が伐採した丸太の山になっていて仰天。ご主人は、「伐ったのはいいけど、一番枯れている木を忘れているんだよ」と言った。見ると、一本、枯れ木が丸々残ってた。 これは、次回を待たなくてはならない。

そんなおかげで、我が家も薪のお裾分けにあずかった。ありがたや。まだ薪ストーブを燃やすには早いが、だんだんと秋が深くなってきている。

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樵(きこり)は、高いところが好きでないと勤まらない

秋と言えば、読書だ(でも、何でだ?)。地元ベルグレーブの小さな図書館に週に一回は行くが、図書館で本を借りる良さは、自分では買ったり、選んだりしない様な本が陳列されていることだ。そういう本を読んで面白かったりすると、うれしい。特に、日本語になってないオーストラリアや他の国の作家を知ると、新しい友達ができたような気分だ。

この間読んだ小説、Louigi’s Freedom Ride(Alan Murray、Fourth Estate 2014)に影響されて、僕の中で自転車熱がぶり返している。オーストラリアに来てから、自転車からはやや遠ざかっていたのだが、この本のおかげで再燃した。

これは、オーストラリアの作家の本だが、イタリヤの北部田舎町で生まれ育ったLouigiという自転車少年の物語である。時代背景は、第二次大戦前から現代までである。Louigiは物心がついてからずっと自転車が大好きで、あちこち乗り回していた。親父が鍛冶屋で工具類がうちに豊富にあるから、自転車修理にも詳しくなる。やがて第二次大戦が始まり、ムッソリーニの自転車部隊に入った。ところが戦争が激化してくると、イギリスのスパイと知り合いになり、やがてファシストであるムッソリーニに抵抗するレジスタンス活動に参加する様になる。そうやって、ナチスドイツやイタリヤのファシスト党に抵抗しているうちに戦争がどうにか終わる。そこで今度は、子ども時代からの夢であった「地球の果て」オーストラリアまで、自転車旅行をすることになった。途中でイスラエルに寄ったり、スリランカで酒浸りになったりするが、どうにかシドニーにたどり着く。そればかりか、そこで戦争で離ればなれになっていた友達や恋人に巡りあったり。それから恋人と結婚し、シドニーの裏町で自転車屋を開くと、それが成功して、最後はシドニーの北の海岸沿いの田舎町に引っ越し、そこで幸せに生涯を終えた、というお話。シドニーでイタリヤ時代の恋人に偶然再会したりするくだりは、かなりご都合主義的だが、それでも非常に楽しい物語で、あっという間に読み終えた。

また、この本には、自転車に関する引用があちこちにちりばめられてあって、それがけっこう面白かった。
例えば、こういう引用。

「空気圧ってのは、とても大事だ。例えばトランペット奏者で、このことを分かってない奴は、決して、甘い素敵な音を出せない。自転車のタイヤと同じだ。正しい空気圧は「彼女」をクールに、やすやすと運んでくれる。空気圧がちゃんとしてないタイヤは、ばあさんのオッパイと同じで、ぺったんこで、まるで役に立たない。
ザビエル・ヌガット、パナマ・スター・クインテット1937年」

引用をもうひとつ。

「サイクリングの喜びは、グライダーで空を滑空することに等しい。サイクリングには、心を静かにする何かがある。それは、体と心、精神と肉体の完全な統合の境地である 。きちんと指導しさえすれば、サイクリングは、どんな狂気も、平静で正常な心に戻すことができるだろう。
  ベレッカー・ボルグ、『銀輪とギア、あるいは運動セラピー』1968年」

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トノムラと僕、信州に向かう朝(1978頃)

僕は、中学時代から高校時代、それから大学時代まで、サイクリングが好きで随分いろいろな所を走った。最初のサイクリングは、中学一年の夏休みの初日、中学校の寮があった沼津から、 同級生のトノムラ君と東京の実家へ走って帰った。箱根の山もものとはせず、130キロの道のりを矢の様に走破した。

それからは、箱根、伊豆、富士、東海道、奥多摩、丹沢、秩父、甲州、信州、木曽路、飛騨、伊勢と、休みの度にどんどん足を伸ばした。僕の輪友(懐かしい言葉だ!)は、長いことそのトノムラ君だったが、やがて、大学の同級生だった妻ともあちこち走る様になった。彼女も自転車好きで、卒業後はしばらく『サイクルスポーツ』という雑誌の編集部で仕事をしていたくらいだ。僕は、北海道は二周したが、一周はトノムラ君と、もう一周は妻とした。

ところが、オーストラリアへ引っ越してからは、以前ほど自転車に乗らなくなった。子どもも二人いるし、仕事も忙しいという月並みの理由もあるが、加えて言うならば、オーストラリアはアメリカみたいな車社会だから、案外自転車で走り難いこともある。自転車でのろのろ走っていると、車に弾き飛ばされそうになる。普通の道路でも自動車は、80キロ、90キロで走るから、道路を選ばないとなかなか恐ろしい。

もうひとつ言うならば、町と町の間の距離が非常に長いから、自転車のツーリングとなると、半端ではないということもある。日本やヨーロッパなどでは、どんなに田舎に行っても、4、5キロも走れば、隣村や町があって、そこにはお店もあれば、レストランやコンビニもあるだろうし、キャンプ場や、日本だったら温泉だってある。だから、走っていて飽きないし、休む場所にも事欠かない。


南仏で.jpg昨夏、南仏にて、息子鈴吾郎

 ところが、オーストラリアでは、僕のいるビクトリア州でも、ちょっと田舎に行けば、100キロ、200キロくらい行っても、何もないのが珍しくない。200キロは、自動車なら2、3時間だが、自転車では、頑張っても2日はかかる。
 そんなところを軽い気持でサイクリングなんか出来ない。もちろん、そういうところを走っている猛者も、いるにはいる。何時だったか、田舎を車で旅行していたら、日本人のサイクリストとすれ違った。荷物を満載した自転車に、日の丸をつけて走っていたからすぐ分かった。

その後、四日程して、僕が同じ道を戻ってきたら、またその自転車青年を追い越した。前にすれ違った所から大して前進してなかった。これが、オーストラリアのサイクリングの実情である。

ところがLouigi’s Freedom Rideを読んでいたら、昔のサイクリングの喜びがふつふつ蘇ってきた。峠を越えた時の達成感、その後に長い坂道を下る時の爽快感、丸一日自転車をこいだ後の心地よいけだるさ、知らない町を訪れる旅情、そんな感覚が僕の記憶の底から浮き上がってきた。

僕は、たまらなくなり、物置に突っ込んであった古いサイクリング車を引っ張り出してきた。少年時代は宝物のように大事にしていたが、最近は埃をかぶり、物置で錆だらけになっていたのだ。思えば、15歳のときに買ってもらって以来40年、この自転車と僕は二人三脚で生きて来たと言える。ちなみにこの愛車は、ブリジストン、ダイヤモンドキャンピング、15段変速。当時の自転車としては、かなり高級車だった。うちの親も、よくこんなものを買ってくれたものだ。

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錆だらけのダイヤモンド号

 そんなで、この自転車をすっかりきれいにして、またサイクリングをしようと、僕は企んでいるのだ。

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塗装を待つフレーム

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皮サドルは、ひび割れをお手入れ中

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パーツ類も磨いている


付記: 

メルボルンも、最近は自転車ブーム、エコブームなので、シティの中は大分自転車道が整備された。それから、田舎にも、レイル・トレイルと言って、昔鉄道が走っていた後を自転車や馬や徒歩で歩ける様にしてある場所がたくさんある。そういった場所を、あちこち走ってやろうと思っている。



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2016年01月31日

1月26日オーストラリアデイは「ギョーザの日」

2016年1月31日

オーストラリアでは、1月26日は「オーストラリアデイ」という祝日、建国記念日のような日である。これが1月最後の週末なので、振替休日がくっついてロングウィークエンドになったり、飛び石連休になったりする。この日が終われば、子ども達の夏休みも終わりで、翌日辺りから学校がはじまる。だからこの週末は、「最後だから、うんと楽しもうぜ」という雰囲気だ。

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夏なのに、雨が多くて寒い。

オーストラリアデイの起源は、そもそも1788年1月26日に、イギリスからアーサー・フィリップ総督を乗せた船がシドニー湾に到着し、その旗を立てた日ということである。これが、現在のオーストラリアという国家の始まりということになっている。

もちろん、こういう日をこの国の起源にすることに異議がある人は山ほどいる。大体オーストラリアは、イギリスの流刑地としての植民地で始まった訳であるから、アメリカみたいに、イギリスと袂を分かった人たちが、理想の土地を求めてやってきて住み始めたのとは訳が違う。大体、流刑地だったなんて、かっこう悪過ぎる。

それに、オーストラリアに元々住んでいた先住民であるアボリジニの人たちの立場はどうなるのか? イギリス人に土地を奪われ、 荒野に追い立てられて、イギリス人の牧場を横切っただけで銃で撃たれたり、踏んだり蹴ったりの200年だった。だから、アボリジニの人たちの中には(加えて、アボリジニじゃない人でも)この日を「侵略の日」と呼ぶ人たちもいる。

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我が家を侵略してきたエキドゥナ(ハリモグラの様な有袋類)

それに、これまでの200年間には、イギリス人から始まって、いろいろな移民がオーストラリアにやってきている。ドイツ人、ギリシャ人、イタリア人、ロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、オランダ人、ユダヤ人、中国人、ベトナム人、日本人、イラク人、アフガニスタン人、ソマリア人、何だっている。こうした人々の立場はどうなる?

イギリスからだって、1901年に独立しているわけだし、今さら、オーストラリアがイギリスの植民地だなんて思っている人はないだろう。それなのに、イギリスの植民地としてオーストラリアが始まった日を未だに祝っているのはしっくりこない。かなりアナクロ的だと言ってもいい。

だが、国家の起源や建国記念日を、その時代ごとの風潮に照らし合わせてしょっちゅう変えてしまうのも大変だろう。第一、1月26日のオーストラリアデイが無くなったら、夏休みが1日か2日短くなってしまう。そうなったらもっと大変だ。だから、難しいことをごちゃごちゃ言うのは止めて、バーベキューでもして、夏休みの最後の一日を楽しみましょう、というのが大勢の姿勢である。かく言う僕も、そんな一人である。あまり政治的になって、せっかくの休日なのに頭痛持ちみたいな顔で過ごしたくない。

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夏なのに寒くて薪ストーブをたいてしまった。

じゃあ、今年のオーストラリアデイは、何をして過ごしたかと言うと、餃子を作って食べて過ごした。息子鈴吾郎(りんごろう、13歳)の同級生のお母さん達が「餃子の作り方を教えてちょうだい!」と言ったからだ。息子らは、しょっちゅう我が家で餃子を食べている。餃子は、鈴吾郎の大好物だから、我が家では週に一度は作って食べている。たまたま遊びに来た友達も、だから餃子を食べる機会がある。で、余った餃子は冷凍にしておき、鈴吾郎は学校へお弁当に持っていく。だから、我が家の餃子は、この辺りではかなり有名なのだ。

だから、オーストラリア人の子どもらも、「うちでもギョーザ作ってよう!」とわめくはめに。ところが、お母さん達は、我が家の餃子を食べたことがないし、作り方も分からない。

それに加えて、今、オーストラリアではちょっとした餃子ブームが起きている(今ごろ?ってな感じですが)。日本で餃子ブームがあったのは、もう随分前だから、その伝播の速度が如何に遅いか良くわかるだろう。オーストラリアなんて、そんなもんである。しょせん地の果て、南半球の離れ島なんである。

餃子の他に、ラーメンも大ブームになっているが、ヨーロッパ、北米でラーメンブームがブレークしてから2、3年はたって、やっとブレークしている。 それくらい、オーストラリアの人たちは遅いのだ。いつも流行に乗り遅れている。(ちなみに、ユニクロも無印も、ようやく昨年あたりようやくメルボルンに進出したが、まだ知名度はそれほど高くない。これからである。)

だから、そんなメルボルンには、今さらのように餃子屋がタケノコのように芽を出しているし、スーパー等でも冷蔵、冷凍の餃子が出回り始めている。だが、餃子は高値で希少である。贅沢品の範疇に入るかもしれない。だから、うちの近所の人たちは餃子が食べたくてしょうがない。

そこで、「よっしゃ、それほど望むなら餃子の作り方をお教えしましょう!」ということになって、2家族(プラスうちの娘の友達三人)が集まった。我が家も入れると、総勢12名ほど。けっこうな人数だ。餃子の皮は200枚程用意した(足りるかな?)

ところが、蓋を開けてみると、このメンバー、いろいろな食事制限やアレルギー持ちがいて困った。これが現代オーストラリアの問題である。例えば、ニッキーというお母さんは、消化不良を起こすのでタマネギ、青ネギ、キャベツや白菜がだめ。グレースちゃんという娘は、小麦粉をはじめとしたグルテン質がだめで、卵ダメ、味の素みたいな調味料なんか食べたら死んじゃう。娘の友達、 21歳のお嬢さんのケイティは、ビーガンのベジタリアンだから、肉はもとより、魚や乳製品、卵も食べない。

もう、いったいぜんたい、 どんな餃子を作ったらいいわけ?と、僕は思わず叫んでしまった。でも、うちのカミさんは、そういうのにとても慣れている人なので、「だーいじょうぶ、だーいじょうぶ、まかせておいて。あんたは、焼き方だけ教えれば良いから」と言う。

かくして、餃子教室を行ったのだが、どうにかなるもんだ。結果として、以下のような餃子ができた。

1)春雨、豆腐、ひじき、ニンジンとショウガ入り餃子、
2)青ネギ、春雨、豆腐、キャベツ、鶏肉ひき肉の餃子(ただし、皮は米粉の春巻きの皮)
3)牛豚の合い挽き肉と、ネギ、キャベツ、ニンニク、ショウガとシソが入った餃子。

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鉢植えのシソ

僕は、餃子の焼き方を指南した。「まず、フライパンを熱くしてから油をたっぷりひきます。それから餃子を並べて入れて、コップに半分くらい水を足します。それで、蓋をして蒸し焼きにするのがコツですよ」てな具合。小麦を水に溶かして、かけ回すと焼き上がりがぱりぱりになる。これも、やってみせる。

餃子を蒸し焼きにすると言う感覚が、オーストラリア人にはなかなか分からなかった様子であるが、別に難しいことじゃないので、みんなすぐに上手に焼ける様になった。

味の方は、どれもけっこう美味しかった。僕としては、ベジタリアンのひじきの餃子がけっこう好み。オーストラリア人のお母さんたちは、餃子の具(餡と言うのかな?)をかなりぎゅうぎゅうにつめたので、かなり太めの餃子となったけど。これってオーストラリアっぽい?

彼女たちの感想は? 「思ったよりも簡単だった!」、「こんなに餃子をたくさん食べたの初めて!ゲップ」、「フェタチーズとカボチャなんか入れても美味しいかもね!」

中学生男子の感想は?「けっ、ベジタリアンの餃子なんか食えるかよ。肉が入った餃子が一番うまいに決まってるじゃん!」

とにかく、良かった、良かった。

と言う訳で、オーストラリアデイに餃子というのは、新しい伝統なのかもしれない。

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中学生男子である息子がクリスマスプレゼントにくれた手製の木槌と手彫りのスプーン(木箱も手製)
これは嬉しかった。




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2016年01月15日

Where are we now? 今どこにいるのだっけ?

2016年1月15日

暮れと正月に日本に行っていた。ほとんどは東京武蔵野市の妻の実家に居たのだが、クリスマス前に2泊3日で息子と伊豆大島に行った。 大島は二人とも初めてだった。

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13歳の息子鈴吾郎は、オーストラリアから日本に来ると、朝から晩までテレビを見ているか、吉祥寺などの盛り場で小遣いを全部使ってしまうかなので、少しでもそういう環境から引き離すために大島に行ったわけだ。

ただ、それは建前で、僕が東京にあまりいたくなかったから、三日間だけでもどこかへ行こうと考えた。息子は、ちょうど良い口実だった。僕は、せっかく東京に帰ってきても、東京にはあまりいたくない。用事が終わると、どこかへ行くか、メルボルンへ帰って来たくなる。東京がそんなに嫌いな訳でもないのだが、長くはいられないのだ。

テレビや買物が好きな鈴吾郎も、父親と釣り旅行に行くのは嫌ではない。だから、武蔵野の家をリュックサックを背負って出た二人の足取りは軽かった。 中央線を神田で降り、釣具屋で新しい磯釣り竿を奮発する。僕たちは、二人連れの浦島太郎のように意気揚々と竹芝桟橋に向かった。

大島は東京から意外に近い。距離にすると120キロだが、竹芝桟橋からジェットボートだと二時間かからない。僕たちの乗るジェットボートは極彩色の虹色に塗ってあって、薄曇りの冬空の下では、はしゃぎ過ぎな感じだった。出港するとすぐに時速80キロの高速ですっ飛ばし、羽田空港、横浜、横須賀、観音崎の先をかすめ、1時間程で相模湾の外に出た。荒れた海の上をいくがいくが行くと、45分程で大島の岩壁が見えて来る。

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大晦日までまだ一週間あるから、大島はひっそりとしていた。泊まった旅館もガラガラだった。「まだ年末のお客さんは来ませんし、島民の忘年会があるくらいですね」と、宿の主人は言った。僕たちは、露天風呂に嫌になるくらい浸かってから元町に出て、ほとんど一軒だけ開いていた居酒屋で、好きな食べ物をデタラメに注文して食べた。それから宿に帰って、大きな和室のふかふかの布団にごろごろし、TVで下らないお笑い番組を見た。息子はテレビを見ながら、島の雑貨屋で買った大きなドラ焼きをぺろりと平らげてみせた。寝る前にもう一度温泉に入ると、空にでっかい月が出ていた。大きな松の木が風にゆさゆさ揺れていた。

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翌日は、穏やかないい天気だった。宿のすぐ前の元町港の桟橋で釣りをした。横にいた地元の釣り師は「冬はちっとも釣れないよ」と言いながらも、80匹ばかり小振りのメジナを揚げていた。僕たちは、フカセ釣りのコツも分からなかったから、あまり釣れなかった。それでも同じ様なメジナを4、5匹釣っただろうか。

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昼飯を港の横のひなびた定食屋で食べ、午後も同じ場所で釣った。やっぱりあまり釣れなかった。でも、釣りをしていると不思議に退屈しない。波に映るいろいろな陰や光を見たり、遠くの伊豆半島や伊豆諸島を眺めたり、その手前を行き来する船を数えてみたり。息子は、大きなカラスを追いかけて、逆に追いかけられたり。

大島の夕日はとても良かった。冬の短い日は四時頃から暮れかかる。やがて雲の間から大きな赤いお日様が降りて来て、最後はストンとばかり海の中に落ちて消える。その後もしばらくは夕日の光の名残がある。こういう時間帯が一番釣れる筈なのだが、僕らの竿にはもう魚はかからなかった。

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宿に帰り、その夜も最初の日と同じ様に元町で夕食を食べ、温泉に入って寝た。

翌日は、曇って寒い冬の天気だった。大島は東京よりもいくらか暖かいだろうが、それでも外は寒い。宿のおやじさんが車で岡田港まで送ってくれた。午後二時サルビア丸が出るまで、岡田港で釣りをするつもりだ。岡田港では大きなシマアジなんかも揚がると言う情報だったから、鈴吾郎は「大きなのが釣れるかな?」と、期待感に胸を膨らましていた。

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ところが、全くダメだった。横で釣っていた東京から来ているグループにも大した獲物はなかった。鈴吾郎は、そうなると諦めが早く、「僕は船の待合所にいるからね」と、ゲームをして時間をつぶそうと、パソコンを抱えて建物に入ってしまった。僕だけは、もうしばらく桟橋で頑張ったが、エサ取りの小魚に餌を取られるばかりで、釣果はなかった。

寒くていられなくなったので、僕も待合所に退却した。釣りと言うのは、魚が釣れれば楽しい。では、釣れないと楽しくないかというと、そういうこともない。全ては心の持ちようである。

僕と鈴吾郎は、船を待つ間待合所の食堂でラーメンを食べた。 鈴吾郎はラーメンに加えて「あしたば餃子」を注文した。13歳の男の子は、本当によく食べる。

昼過ぎ、大きな観光バスが2、3台やってきて、水兵のような制服を着た高校生がどっさり降りて来た。島にある全寮制の海洋高校がこの日でおしまいなので、帰省する生徒達が 本土の実家にかえるところだった。(道理で、帰りはジェットボートが満席で、僕たちは普通船のサルビア丸で帰るはめになったはずだ。)

200人ばかりの高校生は、あっという間に待合所を埋め尽くし、お土産を買い漁り、アイスクリームを食べ、ラーメンを食べ、缶コーヒーを飲んだ。見ると、生徒の三人に一人は手荷物に釣り竿を持っている。当然かもしれないが、島の高校生は余暇に釣りをするらしい。愉快な発見だった。

「みんな釣りが好きなんだね」と、鈴吾郎も嬉しそうに言った。やがて、 ジェットボートが入港し、高校生たちが乗り込み、東京方向へ消え去った。 待合所はまた静かになった。

入れ違いで、僕たちの乗るサルビア丸も入港した。4000トンの船が、狭い岡田港で向きを変える光景は迫力がある。接岸すると、すぐさまコンテナーをいくつも詰め込み、驚く程少ない乗客を乗せてサルビア丸もさっさと出航した。僕たちはデッキに出て、島が小さくなるまで眺めていた。

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室内に入ると、帰省する労働者風の人たち3、4名が自動販売機でビールやタコ焼きを買い、ほとんど口もきかずに酒盛りをしている。黙ったままビールをすすり、テレビで競艇の中継を眺めていたが、やがて毛布をひっかぶって寝てしまった。

鈴吾郎は、パソコンでゲームをしているので、僕はまたデッキに出た。午後3時と言うのに外はもう薄暗い。相模湾はけっこう荒れていて、白波がたっている。4000トンのサルビア丸もけっこう揺れる。デッキの真ん中では、船酔いにならないようにか、何人もの男達が毛布を頭の上までひっかぶって寝ている。まるで死体みたいだ。この寒いのによく外で寝ていられるものだ。

僕は室内に戻り、ゲームに飽きた息子とテレビで女子サッカーの中継を見た。やがて船が揺れなくなり、東京湾に入ったことが分かった。

竹芝桟橋に到着するまで、またデッキに出た。クリスマスを2日後に控えた東京のイルミネーションは、夢の国みたいだった。ゾウリムシのような屋形舟もみな満艦飾に電球で飾り立てている。中では忘年会がたけなわなのだろう。

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「あ、東京タワーだ!」と、鈴吾郎が叫んだ。東京タワーは、光の洪水のビル街の上に、灯台のように君臨している。「やっぱり、東京タワーはいいなあ、東京に来たっていう感じがするよ」と、オーストラリア生まれの息子が言う。僕はおかしくなって吹き出してしまう。53歳の僕の感慨と同じだからだ。東京タワーを見ていると、僕の中にある日本や東京への愛憎、過ぎていった年月への懐かしさが温泉のようにこみ上げてくる。

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竹芝桟橋に着いて、僕たちは浜松町まで歩いた。ホームに立つと、あっという間に山手線が来た。神田で中央線に乗り換えて椅子に座ると、 息子は疲れたのか僕にもたれかかってすぐに寝てしまった。電車の中では、 釣り竿の置き場所に困った。

これが、僕と息子の伊豆大島旅行の思い出だ。その後、クリスマスが来て、お正月を賑やかに家族や親戚と過ごし、神社やお寺に初詣し、僕と家族は日本の正月を堪能してから、メルボルンに帰ってきた。

もどって数日。ニュースを見ると、歌手のデビット・ボウイが亡くなったという知らせがあった。彼が最後に歌ったWhere are we now?という曲がバックに流れていた。

ボウイは、昔ベルリンに住んでいたそうだが、Where are we now?は、ベルリンの壁がまだあったその頃を歌った曲だそうだ。何度も耳にしたから、Where are we now? というフレーズが耳に焼き付いてしまった。歌詞の元の意味に関係なく、歌に込められたボウイの気持が僕の感情に共鳴する。歌とはそういうものだ。

「もう、日本には帰ってこないのか?」今回の帰国でも、複数の肉親や友達に尋ねられた。 僕は、今年でオーストラリアに来て20年 になる。昨年大病をして死を垣間見た義父に尋ねられたりすると、本当に答えに困る。

Where are we now? 今どこにいるのだっけ? オーストラリアに決まっている。が、僕は、こうやって、大島とか、日本のことなんかもよく考える。僕(の気持)は、本当にどこにいるんだろう?と思うこともよくある。

ボウイが歌う。
Where are we now, where are we now?
The moment you know, you know, you know.  
As long as there’s sun,
As long as there’s rain,
As long as there’s fire,
As long as there’s me,
As long as there’s you.

今どこにいるのだっけ? どこだっけ? 
でも、すぐ思い出す。思い出す。思い出す。
日が出さえすれば。
雨が降りさえすれば。
火が燃えさえすれば。
僕さえいれば。
君さえいれば。

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2015年12月04日

神様がくれた「38平方メートル」

2015年12月

暦を一枚めくって、2015年も12月になった。師走。

さて、前回のブログにベランダを作る為、土台を埋める穴を掘っていることを書いた。そのベランダが完成した。土台の穴を掘り始めてから二ヶ月。本職の大工なら二週間くらいで仕上げる仕事だろうから、その何倍も時間がかかったことになる。

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作る上で、どこが一番大変だったかと聞かれても分からない。穴掘りだったかもしれないし、合計410メートル長のデッキ板に、等間隔に穴を開け、そこに5センチのネジを埋め込んでいく作業だったかもしれない。ネジは合計で1300本埋め込んだ。

実はもっとゆっくり仕上げたかったのだが、11月中旬、娘の鼓子(ここ)に期限を付けられた。「パパ、私の二十一歳の誕生パーティーに間に合わせてね。」鼓子は12月18日に二十一歳になる。二十一歳になると、オーストラリアでは成人になったとことを祝う習慣がある。そのときは、友達や親類を呼んで大いに賑やかにやる。(現在、法的な成人は18歳であるが)。

僕は絶句した。「えっ! そんな、間に合わないかもよ」。すると鼓子が言った。「間に合わないなら、パーティーをキャンセルするから、そうなら早く言ってね。」

と言うわけで、娘に甘い父親は、焦ってデッキ作りに精を出す毎日になった。

ところが、土台の穴掘りが終わった頃、ちょっと胃の調子が悪くなり、胃カメラを飲んで検査することになった。人生初めてのイベントだった。幸い、胃は胃酸過多ということで、それほど大事には至らなかった。やれやれ。

土台の埋め込みが終わると、土台の上に桟(さん)を渡す作業だ。これは正確さが問われる作業なので、緊張した 。左右も上下も、寸法がぴったり合い、しかも上板を渡したときに面が水平にならなくてはならない。だから、水準器を片手に、電動ノコで土台の杭を切る時も、切り口が水平になるように気をつかった。ここも、どうにか乗り越えた。

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さあ、次はいよいよ上板を註文して、それを張り付ける段階だ。上板を註文する為に広さを計ると、全部で38平方メートルあった。

近所のホームセンターに行く。店主のグラントの計算によれば、38平米だと、90センチ幅のデッキ材が410メートル分必要という計算だった。しかも、このうち5%は無駄な端材となる言う。上板は硬質で、しかも防水のきく木材だから、一番値の張る材料であることは言うまでもない。無駄は出したくない。

とにかく、410メートルとは驚いた。一体いくらになるんだ? するとグラントは、僕の気持を汲み取って、こう言った。「テツタさんも多分ご存知のように、現在大手XXと〇〇というふたつのホームセンターは、デッキ材料の値段で互いに競っているんですよ。だから、はっきり言うと、XXで買うのが一番安い。でも、当店とテツタさんは、これまで、とても良い関係を築いてきましたから、私としてはぜひ誠意のあるところを見せたい!」

こう言うと、グラントは景気良く計算機をパンパンと弾いた。それは、思っていたより300ドルほど安い値段だった。こうして商談は成立した。僕も、大手ホームセンターを儲けさせるより、地元の個人商店を応援したい。

結局、一メートル5ドルくらいだったので、410メートルで2000ドル以上かかった。しかし、これくらいのデッキを大工に作らせたら2、3千ドルではとても済まないので、文句は言えまい。

また、このデッキ材を張る為には、デッキ用の枕頭ネジが必要だが、何本必要なのか皆目分からなかった。(結局、500本入りの箱を二箱半、1300本程使った。)

それから、デッキ材を切るノコギリもいる。これは普通のノコギリで大丈夫。ただし、切れ味が良くないといけないので、ドイツ製の新品を買った。410メートルのデッキ材(全部で140枚)をぎこぎこ切っても、まだ切れ味はそれほど悪くならなかった。なかなか優れもの。

それから電気ドリル。うちには二つあるので重宝した。ひとつは、穴あけ用、ひとつは枕頭ネジを入れる用。枕頭ネジは、プラスマイナスのネジでなく、四角い穴があいた特殊なものだった。

ほどなく、デッキ材も届いた。いろいろな長さのものが140本。ものすごい量だ。本当にこれを張っていくわけ?

さて、最初の一本。

デッキ材を束から取出して、驚愕。2メートルのもの、3メートルのもの、4メートルのもの、どれひとつとしてまっすぐなものはない。みんな弓形に曲がっている。酷いものは、真ん中で、1センチ以上湾曲している。

「これって不良品じゃないの!」僕は、すぐにホームセンターのグラントに会いに行った。

グラント曰く、「木材ってのは、みんな曲がっているものなんです。だから張るときは、クランプとか、ねじ回しをテコに噛ましてね、ぐっと押さえてまっすぐにして、そのすきにドリルで穴をあけ、そこへネジを入れてやると、まっすぐ張れますよ。思ったよりも簡単、簡単。すぐ馴れますよ。グッドラック!」だって。

でも、こんな長いものを押さえながら、ドリルで穴を開けて、ドリルを持ち替えて、そのままネジなんか入れられるかよ。手が三本必要じゃないの!泣きたい気持だった。

そんなで、最初の一列(約10メートル)を張り付けるのに、午前中いっぱい奮闘。張っても、デッキは、何だか うねうね曲がっている。その上、かがんで作業をするので、腰は痛いし、腕は痛い。ドリルで木ネジを止めるから、腕は腱鞘炎になりそう。これを10メートルかける40列もやるわけ? まったく途方に暮れた。

ところが、そんな調子で初めた割には、二列、三列やるうちに、段々コツが分かってきた。酷く湾曲したデッキ材を矯正するには、車のタイヤジャッキが役に立った。成功した時は、思わず快哉を叫んだ。

こうして、毎日午後になると、毎日二時間ほどデッキを張り続ける生活が続いた。


「目覚めよ! 神様にしてみたい三つの質問」

ある日の午後。デッキ材を計っては切り、ドリルで穴を開け、枕頭ネジでとめる作業に没頭していた。祈る様な格好でひざまずき、夢中で仕事に打ち込んでいた。

すると、頭上で日本語の声がした。「お邪魔しまぁーす! おやおや、お仕事中ですか?」

見上げると、スーツを着た若い男二人が、玄関先からこちらを見てニコニコしている。スーツを着た人なんか、メルボルンのここらで見かける事はまずない。しかも、スーツを着た日本人と言えば、宗教パンフレット配りに来た青年たちに間違いない。

この人たちは、度々我が家を訪れている。あるとき、どうしてメルボルンの果てのこんな所に日本人が住んでいるのか分かるのかと尋ねた。すると、「電話帳を見て、日本のお名前の方を訪問させていただいているんですよ」という答えだった。そう言えば、うちは電話帳に名前と住所がでている。最後に電話帳を見た時点で、メルボルンには「ワタナベ」さんが7、8名掲載されていた。結構いるもんだな。

僕がドリルを下に置いて、近づくと、二人は恐縮して、揉み手をしながらニコニコ笑った。「お忙しい所、申し訳ありません。大工さんですか?」

この人たちは、いつも礼儀正しい。一方、いつも僕はぶすっと答える。
「いいえ、これは自分の家なの。デッキ作りを趣味でやっているだけ。」

すると、「すごーぅい! これ全部自分で作ったんですか?」と、丸顔の男が素っ頓狂な声で言う。やや関西弁だ。

「ええ、全部自分で作ったんだよ。で、何か用事?」と、僕は(分かっているくせに)聞いた。

「お忙しいところ、すみません。このパンフレット置きにきたんです。良いことがいっぱい書いてあるから、ぜひお読み下さい!」と、また丸顔が言う。

「わざわざ、どうも。いつもご苦労様。大変ですね、遠くまで」と、僕は皮肉っぽく 言った。

「うふふふ、大丈夫です」とまた丸顔。こいつは、何を言っても笑っている。けっこう徳をつんでいるのかもしれない。もう一人は、無言でニコニコして立っているだけ。

「こちらには長くお住まいですか?」と丸顔。
「そうねえ、15年以上かな」と僕。
「すごーぅい!そんなに長く?」と丸顔が、ため口で、うれしそうに叫ぶ。

僕は、吹き出しそうになり、「お二人は?」と、尋ねる。
「僕たち、ワーキングホリデーです。うふふ。」と、丸顔。

ワーホリで、布教に来たのかな? だったらよくビザがもらえたな。
「じゃあ、オーストラリア生活を楽しんでね。では、僕はまだ作業があるんで」と、僕はドリルを手に持った。

「そうですよね、そうですよね、お邪魔してすみませんでした。」と二人は、揉み手しながら後ずさって、姿を消した。

しかし、よく来るよなあ、こんなところまでと僕は独り言い、一休みすることにした。コーヒーを入れる間、例のパンフレットを見る。

「祈れば何か良いことがありますか?」とか「目覚めよ! 神様にしてみたい三つの質問」とかある。ぱらぱらめくって読む。なるほど、害になることは書いてないし、良いことがたくさん書いてあると言っても過言ではない。「神様にしてみた三つの質問」とは、

1.(神は)なぜ苦しみを許しているのですか?
2.なぜ宗教は、偽善に満ちているのですか?
3.なぜ人は存在しているのですか?

こりゃあ、どれも深遠な質問だな。その答えは、いちいち書くまでもないが、およそ400字程にまとめられ、分かりやすく書いてある。それ以外にも「宗教と進化論が両立するか」といった解説もある。

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宗教って言うのは、分かりやすいのがミソなんだな!と僕は、一人納得してしまった。でも逆に、これだけ単純化するのもちょっと怖いかも。こういう、かなり割り切った説明を聞いて、「そうか、そうだったのか!」って、そう簡単に納得できちゃうわけなの、君たちは?と、さっきの丸顔を思い浮かべる。(あいつなら、そうかも。)

コーヒーを飲みながら、「遠くから来たんだから、さっきの二人にもコーヒーくらいふるまっても良かったかな」と思う。でも、それじゃあまるで、落語に出てくる横町のご隠居だ。(まだ、そんなに年とってないよ、俺は)。

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しゃがんで、デッキを張っていると、宗教の方達だけでなく、鳥もやってくる。これは、キングパロットというオウム。

ところで、去る11月9日は、息子鈴吾郎の誕生日だった。鈴吾郎は13歳になった。いよいよティーンエージャーである。その息子は、あたかも子ども時代に決別する様に、パーティーをプールでやった。クラスメートが全員来た。そして、みんな腰が抜けるくらい、楽しそうに遊んだ。まるで5歳のチビにもどったみたいに。親たちも、大人に変わりつつある思春期前期の子供たちが、声変わりのだみ声で、はしゃぎ回るのを見て笑っていた。

「サイコーだったな!」息子は、帰りの車の中で満足そうにつぶやいた。僕は、子どもの心のままの 息子がいとおしくて、胸が一杯になった。

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いよいよ、デッキ張りも終わりに近づいた。

最後の4、5列になると、残りの空間の幅が気になり始めた。きっちり90ミリ 幅にしないと、最後の一枚がぴたっと収まらない。

ところが案の定、最後の空間は、苦心して調整したにも関わらず、5センチちょっととなった。9センチのデッキ材だから、半分の幅に切らなくてはならない。しぶしぶ僕は、電動ノコで長いデッキ材を四センチちょっとの幅に切った。最後は、カンナを使ってミリ単位で削った。

そして、デッキは完成した。38平米のデッキ。僕はうれしくて、心もピカピカだった。

「すごいね、よく出来たね!」と、室内で絵本の挿絵を描いていた妻のチャコも外に出てきて、新品のデッキを眺めた。

「38平米だよ」と、僕は言った。

「38平米! すごいじゃないの」と、チャコがニコニコした。

そのとき思い出した。38平米とは、僕たちが結婚してすぐ住んだ2DKの公団住宅の広さだ。狭いアパートだったが、新婚の二人には住めば都だった。

その公団アパートに住んだ理由は、結婚前アメリカの美大に留学していて、なかなか帰国してくれないチャコを、是が非でも日本にひき戻して結婚する為に、僕は公団の空き家抽選に申し込んだからだ。あるとき僕は、住宅整備公団の事務所で、立川市幸町団地に「2DK、家賃3万4千円」の空き家が あるのを見つけ、さっそくダメ元で申し込んでみた。

倍率は137倍だった。ところが、それが当たった。当選のハガキを握りしめ、僕はボストンのチャコに国際電話をかけた。「当たったよ、公団があたったよ! 137倍だ。立川だ!」チャコは、僕が何の話をしているのか、しばらく分からなかったようだ。

まあ、その公団住宅があたったからだけではないが、無事にチャコは3年の留学を切り上げ日本に帰ってきて僕と結婚した。当時、大学の非常勤講師だった僕には、狭くても何でも、家賃の低さがとてもありがたかった。この団地には二年間住んだ。いろいろなことがあった二年間だが、そのことは今は書かない。

でも、あのときはきっと、神様が僕たちを見ていたんだと信じている。

38平米。この一致は偶然かな? いや、偶然じゃない。きっと初心に戻れってことだ。神様がいたら聞いてみたい。「ベランダが38平米なのは、単なる偶然? それとも必然?」


とにかく、いよいよ次は、鼓子の二十一歳のバースデーパーティーだ。

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ベランダは間に合ったのだが、そのせいで、車庫の屋根の高さが足りなくなってしまった。今はこの改修をしている。バースデーパーティーに間に合うかな?



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2015年10月23日

あなは ほるもの おっこちるとこ

2015年10月22日

今、毎日穴を掘っている。

子供の頃もしょっちゅう掘っていた。幼稚園の砂場、自分のうちの庭、空き地、いろいろなところで掘っていた記憶がある。絵本作家モーリス・センダックにも、『あなは ほるもの おっこちるとこ』(わたなべしげお訳、岩波こどもの本)という作品があるが、穴にはいろいろな種類があり、様々な目的の為に掘られる。落とし穴、トンネル、タイムカプセルを埋めた穴、死んだ金魚を埋めた穴、生ゴミの穴、ただの穴、大きな穴、小さな穴、エトセトラ、エトセトラ。子供は穴を掘って大きくなる。

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深さ70センチ、幅30センチ

幼稚園のある時、僕は級友のトクヤマナガオ君と「地球の裏側まで掘ってみよう!」決意した。プラスチックの小さなシャベルを手に掘ること10分、幼稚園生としてはかなり深く掘ったつもりだったが、やがて砂場の底のコンクリートにぶち当たった。

トクヤマ君は、「おお!地球の裏側ってのは、コンクリートだったのか! やっぱりなあ!」と素っ頓狂な声で叫んだ。 地球の裏側は砂場の底30センチのところにあり、それはコンクリートで覆われていた。僕らには大発見だった。

その後、トクヤマナガオ君は大学では工学部に進み、土木工学を専攻した。今では大きな鉄道会社に勤めている。きっとトンネルなんかを掘っているに違いない。

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1才10ヶ月にして、すでに穴を掘っている私(左)

さて、今僕が掘っている穴は、深さ70センチ、直径30センチの穴である。これを30ばかり掘らなくてはならない。これは木製デッキの土台の杭を埋める穴である。車庫と家の間の隙間の木製デッキが腐ってだめになったので作り直すことにしたのだ。オーストラリアは大工の人件費も高いし、自分でやることにした

だが、デッキの面積は4X7メートル=28平方メートルばかりあって、けっこう広い。地面からの高さはおよそ80センチと低いが、最低60センチは杭を埋めなくてはいけない。また杭は、1.2メートル四方ごとに打たなくてはならないので、30ほど穴を掘らなくてはならない。

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デッキを作っている作業現場

僕の作業工程は、穴を二つか三つ掘るごとに、穴底にコンクリートを流し込む。それが固まると、杭を差し込んで、水準器を使って水平で垂直なことを確かめつつ、さらにコンクリートを流し込んで固める。この繰り返しだが、これまで15本埋めたので、残りは半分である。まだ先は長い。

近所のイアンというお父さんと穴掘りの話をした。彼はこういう日曜大工仕事は大先輩である。本職はプラスチック工場の生産管理だから、工学系の作業はお手の物。「穴掘りみたいな仕事ってのは一度にやると面倒だし、根つめてやると骨だ。だから、毎日仕事から帰ると、夕食前ひと掘り、土曜日の午後にふた掘りってな具合に掘れば、いつかは終わる。急いじゃだめよ、急いじゃ」。なるほど。

これも近所のお父さんで石工のビルは、穴掘りのプロである。石壁を作ったり、暖炉を作ったり、フェンスを直したり、毎日仕事として穴を掘っている。ビルの穴掘りを見ていると、(ちょっと誇張があるが)バレエダンサーが白鳥の湖を踊る様に華麗である。力も入れず、音も立てない。息の乱れも見せずに、あっという間に大穴を掘ってしまう。

ビル曰く、「穴ってのはね、深くなると掘り難くなるでしょ。だから、立ったまま掘るんじゃなくて、こうやってひざまずいて、低い姿勢で丁寧に土を掻き出すように掘る」と言う。やっぱり、年期が入っている。

デッキ作りは、大工事と言えば大工事のようだが、それほど難しい作業ではない。本棚を作るよりは大変だが、家を一軒建てるよりはずっと簡単だ。

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三種の神器、水準器、巻き尺、深さを計る竹の棒(70センチに切ってある)


でも、僕がデッキを作るのは初めての事。何でも初めての時は知らない事が多い。作業に着工するまでは、本を読んだり、ネットで調べたり、経験者に話を聞いたり、近所のホームンセンターの人に相談したりし、決断まで1年はかかった。それでも「よし、やるぞ!」という気持になかなかならなかった。

でも、考えているだけじゃデッキは出来ない。だから最近、杭に使う木材18メートルを一気に註文してしまった。こうなったら後には引けない。かくして作業が始まった。

そこで穴を掘っている訳だ。イアンが言う様に、毎日二つか三つ穴を掘り、杭を立てている。でも案外難しい。 杭をセメントで埋めてもう一度水準器で調べると、曲がっていたりする。高さが一センチ低かったり。そんなことはしょっちゅうだ。一本として完璧な杭はない。

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穴掘りの道具「オーガー」は純粋オーストラリア製

また、掘っていると、地面から何が出て来るか分からない。だいたい、うちの庭は50センチ掘ると黒土が終わって、その下は粘土だ。その粘土を掘ると水が出て来たり。こういうときは、どうすればいいの?

雨水管が埋まっていて、それをスコップでぶち壊してしまったりもする。娘のボーイフレンドのシャノンにそのことを話す。シャノンは庭師なので、こういう仕事を毎日、朝から晩までやっている。だから、雨水管くらいは平気の平左。「あははは。やりましたね!僕だってしょっちゅう水道管を破裂させて水道屋のやっかいになってますよ。ガス管だけではちょっと怖いけどね。水道管があるか、ガス管があるか、60センチ下にあるか、1メートル下か、神様だけがご存知ですよ。」

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オーガーをぐりぐり回すと、穴が深くなり、土がオーガーの先の筒にたまるので、引き上げて捨てる

本当にその通りだ。地面の中に何があるかは、神様だけがご存知。穴は掘ってみないと分からない。掘っていると、スコップの先にじゃりっと石が当たる。そして、意外にその石が大きかったりする。でも、こんな障害物を掘り出せた時の気分の良さったらない。

だから、不思議と穴掘りは、やればやるほど楽しくなる。掘っていると、だんだん上手になる。良い穴が、すこっと掘れたときの達成感はなかなかだ。最初は面倒だし、腰も痛くなるが、上手になってくると、上記のビルじゃないが、優雅で経済的な掘り方が出来る様になる。冗談でなく、たまに外に出掛けると、早く家に帰って穴が掘りたくなったりする。

子供時代は、純粋に穴掘りが楽しかった。どろどろになって、大きな穴を掘ると、子供なりに「仕事をしたんだ!」という感慨があった。喜びで体が一杯になるような、そんな充実感だった。まあ、今ではそこまでは感じないが、それでも無心に穴を掘るのは悪くない。

さあ、これを書いたら、もうひと穴掘ってこようっと。

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もうひとつ作業のこつは、整理整頓だ。
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2015年09月23日

バーロン川で、 わらしに戻って蟹と戯むる

2015年9月20日

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」と詠んだのは啄木だが、これは帰郷の念に駆られて詠んだ悲しい歌である。

「バーロン川の桟橋にわれ笑いながら蟹とたわむる」これは、僕が大漁を詠んだ楽しい歌である。

さて9月の中旬のある週、僕と息子の鈴吾郎と妻のチャコは、メルボルンの南、ジーロンに住むK松さん家族に呼んでもらって春休みの2、3日を過ごした。K松さんは、この近くの田舎のシュタイナー学校の幼稚園教諭であるが、休日はほとんど毎日釣りをしている太公望である。ここで今回、ボラ40匹、蟹を40匹とった。

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茹でたら、オレンジ色に染まったカニ

K松さん曰く、「春がきても、なかなかビクトリア州近辺の水温は上昇しないんですよ。つまりお魚さんたちはまだ冬なんです。だから、9月に気温が暖かくなっても、すぐは 釣れないんですよ 。」

でも、せっかく春休みなんだから「ちょっと様子だけでもみましょうよ」ということになったのである。そこで、僕とチャコと鈴吾郎は、車を飛ばし、K松宅のあるベラリン半島に赴いた。すると、K松さんは春のお日様のような明るい顔で、「そろそろポートアーリントン港のワカメが旬です。さっそくとりに行きましょう。ワカメは、俳句では、春の季語なんですよ」と洒落たことを言う。実は、K松さんの日本にいるお母さんは俳人なのだ。

さて、ポートアーリントンへ着くと、そこはぽかぽか暖かく、湾を隔てた向こうにメルボルンのスモッグと、その中ににょきにょきとビルが見える。

でも、どうしてこんなところに日本のワカメが生えているかと言うと、それは日本のコンテナ船が空荷でくるとき日本の海水を船腹に積んでくる。その海水を荷物を積む前にメルボルンの湾内に捨てる。すると、その海水に含まれていた日本のヒトデやら海草やらが放たれ、そこらで育ち始めるのだ。その結果、ここポートフィリップ湾から、西へ300キロのアポロベイくらいまで、日本のワカメが繁殖しつつあるのだ。これは「侵略的外来種」ということで、駆逐されることが奨励されている。同時に、肥満ばかりのオーストラリア人の一部では、「ワカメは健康に素晴らしいスーパーフードだから、これを食べると日本人のように痩せられる」という情報が広まり、みんな競ってワカメを穫っているという噂もある。

だが、どうしてか今日は、肥満のオーストラリア人がワカメを争ってとっている気配はない。だから、日本人の僕たちだけが、港の外壁の岩の上をよろよろ歩いてワカメをとった。ちょうど干潮時なので、手を伸ばせば水中のワカメの根元のあたりを持って引き抜くと簡単に抜ける。

「根元の固い所が根株です。そこを細かく刻むとネバネバして、おいしいんです」とK松さん。鈴吾郎も、チャコも、とれたてのワカメが大好きだから、すぐにバケツ一杯と、ビニール袋二袋ほどとる。「これだけあれば、一年分あります」とK松さん。一年分と聞くと、ずいぶん得をした様な気持だ。

帰り際に、港の桟橋でムール貝を売っているおばさんがいたので、5キロ買う。一キロたった5ドルだ。ところが、「まだ寒いし、今年はまだ春の雨があまり降ってないから、貝が痩せてるんだよ」と、おばさん。「半分は、釣り餌に使うんです」と言うと、「そんなら、カラが破れているのをサービスするよ」と、一袋余計にただでくれた。ここでも大分得をした気分になる。

その足で、ベラリン半島南端のクイーンズクリフのフェリー乗り場に行って魚を釣る。さっき買ったムール貝を贅沢に撒き餌に使う。天気も良く、ぽかぽか暖か。でも、全然釣れない。どういうことか? この桟橋では、過去には30センチ以上あるシマアジやらメジナやらオバケのようにでかいカワハギなどを釣り上げたと言うのに、今日は10センチくらいのベラが一匹釣れただけ。

釣りに行って釣れないと、「なぜ釣れないのか?」ということを言う人がある。しかし、この質問は間違っている。本当に釣りが上手になりたいなら、「どうしたら釣れるのか?」という質問をするべきなのだ。現に、僕の知り合いの子どもで、「どうして僕は釣れないのか?」ということを必ず投げかけてくる少年がいる。その質問をする時のこの子の顔色は明るくなく、この子の釣り師としての将来も決して明るくない。今度会ったら、「どうやったら釣れるのか?」と、質問を逆転するように教示してやろう。

魚が釣れないということの最大の原因は、魚がいないということにある。あるいは、いても、気温などの関係で、餌を食べないという状況だ。こういうときは、大概は何をしてもダメであり、帰宅するに限る。

K松さんも、「おかしいなあ…。今日は坊主ですね」と言い、いさぎよく帰宅することに。でも、夜は、K松さんが2日前に釣っておいてくれたカワハギを刺身に肴に酒を飲んだ。旨い酒だった。良い釣り師になる秘訣の一つは、釣れなくてもくよくよしないことだ。

さて翌日。絵本の締め切りがあるチャコは、電車でメルボルンに帰る。僕たち男組と、K松さんの娘さんの小四のアイちゃんは、今日も釣をする。でも、 午後4時が満潮なので、昼ご飯をゆっくり食べてから出陣。今日の行く先はバーロン川。

バーロン川は、バーロンヘッズという海岸に流れ込む大きな川で、河口から2、3キロまでは全くの海水。だから満潮時はいろいろな魚が川をさかのぼってくる。そして、干潮時は、その魚たちが川を下って行く(当たり前だ!)。だから、ここは、常に魚が行き来している「魚ハイウェー」 なのだ。これまでも、僕たちはもう何度もここで釣りをし、以下のような魚を釣り上げている。
1.ボラ、
2.「唐揚げくん」(本当はトミーラフというアジのような魚。唐揚げにして食べるので、こういう名まえ)、
3.オーストラリア・サーモン(顔が少し鮭に似ている。味はアジのような魚)
4.その他、キス、シマアジ、コチなどだが、上記ほどはいない。

言うまでもないが、これらはみな、煮て良し、焼いて良し、揚げて良し、刺身でも良しと言う、美味しい魚ばかりだ。だからバーロン川は、とても良い川なのである。

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バーロン川にカニカゴを投げる鈴吾郎

ところが、この日も、ほぼ坊主で終わる。小さなボラがぽちぽち釣れただけ。となりの国籍不明のおじさんが、30センチのシマアジを上げたときは、一瞬盛り上がったが、それ以外は音沙汰なし。おまけに空は曇ってきて、寒くて仕方ない。ただ、魚の代わりに釣り針に4匹ばかりカニがかかったことは特筆しておく。

「ちっちゃいカニだけじゃあ、お話になりませんな」と、さすがのK松さんも渋い顔。とりあえず、K松宅に帰って夕食。それでも、料理が得意のK松さんは、いろいろ作ってくれてもてなしてくれた。加えて、偶然釣れたチビガニをダシに「カニのみそ汁」も作った。

ところが、意外や意外、このカニのみそ汁が美味しかった! カニも小さいくせに、身がむっちりと詰まっていて美味。アイちゃんが「もっと食べたい!」と言ったので、「じゃあ、明日は バーロン川でカニ穫りをしましょう!」ということに決定。

翌日。今日は、僕と鈴吾郎が夕方に帰宅しなくてはならないので、早々と午前からの出陣。でも満潮は夕方5時。天気も良くない。「コンディション的には、最悪ですね」とK松さん。

それでも我々は、釣具店に行き、カニ穫り用のカゴを買う。たった8ドル。「これって安くない?」と私たち。それから、カニ穫りの餌になる、ニワトリの骨とガラを肉屋に貰いに行く。これは無料。「これってお得じゃない?」と、私たち。

ところが車に乗ると、今度は冷たい雨と雹が降り出した。「コンディション的には最悪ですね」とK松さん。「でも、まあ、バーロン川に行って、様子だけでもみましょうよ」と、僕。

バーロン川に行くと、さっきの冷たい雨はどこ吹く風、太陽が出てお日様ぽかぽか。「最高のコンディションですよ」とK松さんはニコニコ。

鈴吾郎とアイちゃんは、本格的カニ穫りに大興奮。子どもはカニ穫りが好きだ。二人は、ニワトリのガラをカニ穫りのカゴにゆわえ付けたり大わらわ。

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カニカゴを仕掛ける小学生ふたり

僕は、カニ穫りを子らに任せ、一人ゆうゆうと釣り竿を垂れてみる。すると、どうだ、ボラが入れ食いじゃないか! 

さて、ここで言っておくが、ボラと言うのは日本では底辺的な下魚かもしれないが、オーストラリアのボラはちょっと違う。こちらは水がきれいなせいか、新鮮なボラはちっとも臭くなくて美味しい。刺身、焼き魚、いずれも脂が乗っていて旨い。むっちりとした白身が、つやっぽくて色っぽくて悪くない。

僕が、ボラをぽぽーんと釣り上げているのを見て、k松さんもあわてて釣り始め、やはりボラをぽんぽん上げ始めた。子ども達も、カニ穫りカゴをぼちゃんと水に落として、ボラ釣りを始める。

さて、まつこと15分。ためしにカゴをあげてみる。すると、15センチ程のカニが二匹も入っている。「おお、すげえ」と、鈴吾郎が喜んで、大振りのカニをつかみあげた。すると「いでえ、いでえ!」と悲鳴をあげた。カニに指を挟まれたのだ。うちの息子は、カニのつかみ方を知らない。

「カニってのは、甲羅の両横をこうやって持つんだよ」と、カニを捕まえて50年の僕が教示する。が、やはり大きなカニのハサミにはさまれそうになり、カニを取り落として苦笑い。


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カニのアップ

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ボラを並べる鈴吾郎とアイちゃん

とにかく、こんな調子でカゴを2、30分おきに入れたり出したりすると、 必ずカニが2、3匹入っている。そんなですぐにバケツ一杯とれた。ボラの方も、ぽんぽん釣り上げ、こちらもクーラーボックスが一杯。

「いやあ、今日はたくさんとれたなあ!」と、みんな喜色満面だ。では、「そろそろ帰りますか!」と、k松さん。 見ると、向こうから雨を含んだ黒雲がやってくるから、急いで帰路についた。

帰ってから数えると、カニが40匹、ボラも40匹釣れていた。大漁と言ってもいいような快調な釣りだった。

「カニ穫りは楽しかったな。新しい遊びを覚えちゃった感じですね。よし、明日もカニ穫り行くぞ!」とk松さんは、底抜けに明るい顔をして言うのだった。

早めの夕食をいただき、僕と鈴吾郎は、お土産にカニとボラとワカメをたくさんアイスボックスに入れてもらって、高速を飛ばして家路に着いた。

春休みは、まだあと10日も残っているから、僕たちももう一、二回は釣りに行くつもりだ。

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鶏ガラを一羽分飲みこんで、目を白黒させていたアホなペリカン。
それでも、どうにか飲みこんでまた戻ってきたので、追い返した。



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2015年09月10日

  ジャズギターにはまっている

2015年9月10日

今、ジャズギターの練習にはまっている。ギターだけでなく、練習用の小さなアンプも買ってしまったし、もう後には引けない。

もちろん薪割りもしなくてはならないし、仕事もしなくてはならないし、ご飯も作らなくてはならないし、夜がくれば寝なくてはならないけど、心の中はギターのことや、ジャズのコードや音階でいっぱいだ。寝ていても、「えーと、フリジアン・スケールは、ラシドレミファソラで、シがフラット」などと考えているくらいだ。

本当は、先生についてちゃんと教われば良いのだが、僕にあまりにも知識がなくて先生にもあきれられるだろうから、基礎的なことは覚えてからそのうちレッスンに挑もうという計画だ。(そうしないとお金も無駄だし)。

それにしても、僕が高校時代にバンドをやっていた頃と、いろいろなことがうんと違う。僕がもっていたギターのグレコというブランドはもうないが、70年代に作られたグレコギターがネットで「オールド」として、高値で売り買いされているのに驚く。新しいブランドもたくさんあるし、マニアックな手作りギターなどもたくさん出て来ている。ギブソンのギターは相変わらず高値だが、50万、60万のギターなんていったい誰が買うんだろう?(僕は、最近Eastmanという中国製のフルアコを買ったが、これはなかなか評判がよく、アメリカのプロのジャズギタリストもたくさん使っている。)

まあ、それから、ウエブサイトにはいろいろ便利な音楽サイトがあって、ジャズの理論やギターの弾き方も丁寧に教えてくれる。僕も幸い、良い自習用のジャズギターのウエブサイトに出会って、重宝している。これは神戸のギター学校のサイトなのだが、とても親切で分かりやすく、それでいて回り道してでも覚えてなくてはいけないことなんかも、しっかりと教えてくれる。無料で申し訳ないくらい。

ジャズ理論の基本は、コードとスケールと、それらの循環システムと、リズムからなっていると言ってもいい。もちろん、そんなことは昔から頭では分かっていた。僕は、高校時代は、ロックとフュージョン系のバンドを生意気にもやっていたから、理論は別としても、けっこう難しい曲をまあまあ弾いていた。ただ、練習と言えば、カセットプレーヤーが壊れるまで、レコードが傷だらけになるまで何度も聞いての耳コピーのみ。しかし、53歳の今は、そんなに時間も割けないし、少しは知的に効率的に学びたいと思う。

だから今さらながらジャズの理論をかじっている訳だが、恥ずかしいが、コード名の横に付いている7とか9とかの数字とか、さらにその横のフラットやシャープの記号とかの意味をあまり分かっていなかったことを知って愕然としている。ジャズのコードも、たくさん種類のある音階の各音を起点とし、三度ずつ上の音を合計4音重ねたものであることなんかも知らなかった。その二番目と五番目のコードを繰り返して演奏することを、いわゆる「ツー・ファイブ」と言って、その間にギターやピアノが即興演奏するなんて決まりもよく分かってなかった。(いったい、30年もジャズを聴いてきて何だったんだろう?)

というわけで、毎日が発見で、新しいことを学んで喜んでいる。(ただ、あまりに低いレベルのことなので、女房や子どもに自慢したりはできない。うちの子どもは二人ともチェロを弾くし、女房もまあまあのピアノを弾く )。

便利と言えば、インターネットでYoutubeを見れば、どんなスタンダードの曲でも、どこかの誰かが弾き方を教えてくれる時代だ。ジム・ホールでもジョー・パスでもパット・メセニーでもジョン・スコフィールドでも渡辺香津美でも、たいがいの音楽家の映像がある。だから、 何度も穴があくほど見れば、演奏のコツが少し分かる。昔、高校生の頃、コンサートに行くときポケットに録音できるウォークマンを忍ばせて行き、演奏を盗み録りしたりした。時には、レコードになっていない新曲が録音できたりして、まるで鬼の首でもとったような気分だった。もちろん、それを耳コピーして練習したものだ。

でも、今はそんなことまでしなくても、世界中の音楽が、有名ミュージシャンから、果ては世界の果ての街角で演奏しているストリートミュージシャンの演奏までパソコンで見ることができる。そうして知った新しい曲を、書斎で、すぐにその場で 練習し、パソコンに録音して、ガレージバンドなどの音楽ソフトで加工したりすることもできる。(ガレバンはまだあまり使ってないけど、便利そう。これに、はまったらそれこそ仕事どころではないだろう。)

関係ないが、ジャズを齧るようになって読書のレパートリーも増えた。音楽、ジャズ、ロック、楽器ということについて、この頃は以前に増して興味が湧いている。

昔から持っているジャズ関係の本も読み直した。秋吉敏子の『ジャズと生きる』、相倉久人『現代ジャズの視点』などだ。後者は60年代の中頃に書かれたすごく古い本だが、モダンジャズから、新しくコールマンやコルトレーン、マイルズといった新しいミュージシャンがクールジャズやモード奏法などの 手法を編み出した時代のことが書かれていて面白い。ジャズは「感情を表現する音楽だ」などと、面白いことが書いてある。秋吉敏子は渡辺貞男の大先輩だが、50年代の日本の音楽業界が嫌で日本を飛び出し、米国で大成功したジャズピアニストで、この人の人生遍歴もなかなかすごい。

ジャズの歴史は、アメリカや関連世界の政治、文化、ポピュラーカルチャー、芸術と関係があり、シンクロしていることがよくわかる。またジャズの歴史は、構造主義とか、ポストコロニアリズムとか、脱構築とか、クリティカルセオリーとか、環境批評とか、そういう人文系学問の流れともすごくどこかでつながっていて、いよいよ興味はつきない。僕がいま齧っているようなジャズの基本的な理論構造などは、まるで構造主義時代 の記述言語学がやっていた事とそっくりである。音階というのはSVCのような文法構造であり、コード循環はや音節の繰り返しはシンタックスで、7とか9とかの数字で表される度数は、その単語(音)の文法的な役割や品詞を表す指標である。

だが、そうした基本構造を突き崩しているのが60年代後半からのフリージャズやモード奏法なんかであり、今のジャズなんかは、そうした形式はまず脱構築され、その上国境や人種を越え、まったく新しい文化的、政治的なコンテキストで演奏され、ジャズは黒人の音楽なんて固定概念は遥か遠いことになってしまった。そうした意味で、僕のような日系人が、オーストラリアで、日本の例えば「ちびまるこちゃん」のテーマ曲を、アメリカに根ざしたジャズの音階やコードでアレンジしなおし、それを中国製のギターで弾いたとしたら それは一体何なんだろう?(なんだっていいじゃないか!)

さて、これも手元にあって長らく「積んどく」の本だったのだが、David Byrneという、トーキングヘッズというロックバンドのリーダーが書いたHow Music Worksという本も読みふけっている。主にロックについての本だが、ポピュラー音楽の歴史といった内容で、大学のテキストになるくらい中身が濃厚だ。Byrneは非常に現代的で分析的な音楽家だから、彼の本を読むと、現代のポピュラー音楽が、どれほど巧妙に細工され、上手にマーケットされた「商品」であるかがわかる。聞き手は(すなわち消費者)、自分が、ある曲や音楽家を「発見した」ように思ってCDを買ったり曲をダウンロードしたりするが、それは巧妙に張られた音楽マーケティングの網に引っかかっただけなのだ。そういうことが、この本で読むとよく分かる。また音楽家という人種が、どれほど多様であり、音楽家として生きるための方策が、これまた星の数ほどあることも分かる。音楽というのは、テレビやラジオで放送され、 CDやインターネットからダウンロードできるメジャーレーベルだけのものでないと言うことも。

そのByrneには、Bicycle Diariesという自転車についての随筆もあって驚かされる。自転車好きのByrneはコンサートで世界を回る際、必ず自転車を持って行くのだが、その自転車から見えたブラジルやフィリピンなどの各地の文化や音楽のことを語っているのがこの本である。これを読むと、音楽家はこういうことを考えているのか、と驚きもし納得もする。実を言うと僕は、Talking Headsの音楽はあまり好きではないのだが、この人の書く文章は好きである。

これもロックだが、去年読んだNeil Youngの自伝も面白かった。Neilは、音楽家以外にも、身障者の為の学校(自分の息子のために作った)を運営したり、(「鉄ちゃん」だから)鉄道模型の会社を買っちゃったり、アメリカの往年の名車を電気自動車に改造する事業を展開したり、アップルコンピュータを向こうに、昔の真空管アンプとレコードの音をデジタル機器で再生する装置の開発などもやっている。ニールヤングは、言ってみればベンチャー起業家と発明家みたいなところがある。音楽が嫌になると、一年くらいはギターには触りもせず、こういう「趣味」に生きるのだそうだ。言うまでもなく、彼の音楽は出来不出来もあるが、ロックとしては超一流だ。ちなみに、ニールヤングの文章は、非常に下手である。多分自分で書いたのではなくて、編集者が聞き書きしたものに手を入れた程度であろう。こういう所も、人間臭くて面白い。

同様に、エリック・クラプトンの自伝も面白かった。(この本は、娘のボーイフレンドのシャノンに借りた。シャノンはクラプトンに心酔するロッカーなのであるが、実はシャノンのお父さんは、セミプロのロックミュージシャンなのだ。これについては、またそのうち書くこともあるだろうが、今は娘がボーイフレンドのことなど書くと怒るので、これ以上は書けない。)

そう言う僕は、クラプトンのギターは、それほど好きと言う感じじゃなかったし、今でもmy favouriteではない。が、それは別として、クラプトン自伝は面白かった。その極みは、私生児である彼が、自分の母方のおばあさんを、実の母であると信じて育った生立ちの悲劇にあるかもしれない。それから、ドラッグとアルコール中毒から立ち直った経過もすごかった(アル中で酒が止められない人は、クラプトン自伝を読むべし。)その後は、息子が高層マンションから墜落死するという最悪の悲劇に見舞われるのだが、それをTears in Heavenという曲にして歌い、それが大ヒットしたという出来事も尋常ではないだろう。有名なジョージ・ハリスンとの友情(?)のいきさつもまあまあ面白かった。クラプトンが、ジョージの奥さんのパティに恋いこがれ、彼女をモデルにレイラという有名な曲を書いたことはよく知られている。そしてついに、このパティをジョージから譲り受けて(?)無事に結婚したのだが、それまでの思い込みが強すぎたのか、案外早く別れちゃっている。クラプトンは、「まあ、人生なんてそんなもんだ。そんなことで立ち止まるより、先に歩こうぜ」ってな感じでやっている。

クラプトン自伝を読むと、どんな大スターでも人間だし、努力が大切なんだ、という基本的なことが分かる 。(フェラーリで娘に運転の練習をさせているのなんか見ても尊敬する気にはならないが。)

音楽自体とはあまり関係ないが、こういう尋常ではない才能をもったミュージシャンが がどうやって生きたか、というのは小説並みに面白い。

さて、そんなだから、このごろ図書館へ行くと、ジャズの歴史、楽器の図鑑 、ギターの弾き方、ミュージシャンの自伝、音楽評論、楽譜などを片っ端から借りてきている。ついこの間亡くなったアメリカの心理学者で、作家のオリバー・サックスが書いた『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』は借りてきてまだ読んでないが、どうして人間が音楽を発明してこれを愛好しているかという内容なので、読むのがとても楽しみだ。

ミュージシャンのウエブサイトなどにも、けっこうお宝な文章がある。僕が現在もっとも敬愛するジャズギタリストはパット・メセニーだが、彼のウエブサイトには、彼の書いた文章や対談なんかもたくさん載っていて興味深い。ジャズミュージシャンはけっこうインテリだから、文学や芸術などにも詳しくて、それと音楽が交錯するところの話なんかもしてくれて楽しい。

でも、メセニーの文章で一番おもしろかったのは、彼がミズーリ州にある母校(高校)で行った講演録だった。彼はジャズミュージシャンとしては、20回もグラミー賞を受賞して、前人未到の境地の人なのだが、母校でのスピーチは、生立ちの中の音楽の話なので親近感がもてた。彼は、キャンザスシティーの近くの田舎育ちで、お父さんはガソリンスタンドをやっていた。でも、そのお父さんとお兄さんが、けっこうすごいトランぺッターで、父親と兄貴があまりうまいからパット自身はトランぺッターとしては早い時期に挫折している。それでも、高校時代はブラスバンドをやっている。それで、ビートルズがアメリカに上陸し、みんながロックに狂い始めた時、自分はマイルズデイビスを聞いてジャズに走ったことなんかも話していた。マイアミ大学に入ると、19歳で音楽講師になり、さらにボストンのバークリー音楽大学に奨学金をもらって、ゲーリーバートンの助手となる。そこからは、もう流星のごとくジャズ界のスタートなった。僕は、16歳のとき、パットが21歳で出したソロアルバム「思い出のサンロレンゾ」を聞き、正直ぶっ飛んで、3日くらい興奮して眠れなかった。今でも、このアルバムはmy favouriteだ。
(英語だけど、パットのスピーチは以下に。)
http://www.patmetheny.com/writings/full_display.cfm?id=15

それにしても、音楽はやっぱり聞くのが一番だ。Youtubeには、面白いジャズの演奏がたくさんあるけど、最近見たのですごく良かったのが、
Charlie Apicella and Iron City。特にI hear a symphonyという曲が最高。これは、昔シュープリームズが歌った曲のジャズ版カバー。
https://www.youtube.com/watch?v=-X3ZRYpcLRw

このビデオでは、Apicella が口あけて、歌いながら弾くところが、楽しくて仕方ないって感じ。すごくスイングしている。ギターソロは、ウエスモンゴメリーみたいな分かりやすいサウンドだけど、技もあるし、フレーズが歌っている。バックのハモンドオルガンのおっさんも、まるで60年代のままの感じで渋い。加えて、シンバルがやたら騒がしいドラムも賑やか。あとこの バンドで最高にかっこいいのが、真ん中でコンガを叩いているおばちゃんだ。おばちゃんがコンガを叩いているのは初めて見た。髪型も高校の家庭科の先生みたいだけど、ミスマッチなのが最高。でも、有名なパーカッショニストらしい。

今すぐニューヨークに行って、こういうコンサートを聴きたいなあ。でも、メルボルンの近くでも10月の終わりにワンガラッタ・ジャズ・フェスティバルというのがあるから、ぜひ行ってみたいと思っているのだ。
posted by てったくん at 09:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月25日

そして一年、音楽に癒されながら

2015年8月24日

音楽による治癒力を実感したのは、今年6月に行われたカヌーマラソンに出場した時だ。そのときは、歌うことで体の痛みが確実にとれたからだ。

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Riverland Paddle Marathon(略してRPM)は、南オーストラリアのマレー川で開催される、三日間全長200キロのカヌーマラソンだ。僕は昨年と今年と二度出場した。昨年2014年はリレーチームの一員で、200キロのうち70キロを漕いだ。今年2015年は、自分一人で三日間かけ、カヤックで半分の100キロを漕いだ。 (10、50、100、200キロと距離を選べる)。

100キロを漕ぐ場合、初日は36キロ、二日目は27キロ、三日目は32キロの行程となる。初日の36キロが最長である。これまで一人で一度に漕いだ最長距離は28キロ、2人乗りでも50キロ、だから単独で36キロは未知の世界。体調も良く、トレーニングもして漕ぎ切る自信はあったが、本心は「当たって砕けろ」という気分であった 。
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初日。案の定30キロ漕いだところで右腕が完全に音を上げた。痛くてパドルが上がらない。しかし、最終チェックポイントはもう過ぎたし、 見渡せば川の両岸はどこも原野。ここで棄権しても助けは来ない。あと6キロ、這ってでもゴールまでたどり着かなくてはならない(水上では這えないけれども…)。

そのとき、ふと昔の記憶が蘇った。大学時代、僕はワンダーフォーゲル部だった。合宿で山に入り、誰かがへたばり始めると、歩きながら歌を歌わされた。縦列で歩きながら、前から順番に大声で歌う。「よし、つぎは、わたなべ!」と先輩に言われると、山の歌でも、アニメの主題歌でも、水戸黄門のテーマでも、大声で喉も裂けよと歌わなくてはいけない。

ところが、大声で歌っていると辛さが軽減し、力が湧いてくる。今でも覚えているが、大学一年の夏合宿で大雪を縦走した時、最後の下りで先輩が足首を捻挫した。そこで一年生男子は、交代で先輩の分と二人分のザックを背負うはめになった。その日は長い尾根を苦しみ抜いて下ったが、歌を歌って乗り切った(まるで軍隊!)。

そんなでRPMのときも歌を歌うことを思いついた。どうせ周りには誰もいない。最初は、ギターで弾くので歌詞を暗記しているサイモンとガーファンクルを2、3曲。それからニール・ヤング、イーグルス、ディラン、続いてビートルズ、ジョン・レノン、ウィングス、トラベリング・ウィルベリーズなどの洋楽。ここらで覚えていた英語歌詞がほぼ枯渇したが、荒井由美、オフコース、山下達郎、佐野元春、井上陽水、RCサクセション、高田渡、吉田拓郎、イルカ、かぐや姫などのJ-POPのレパートリーがけっこうたくさん記憶にあった。やっぱり日本語はしっくりする。それからは、カラオケでよく歌ったペドロアンドカプリシャス、ハイファイセット、寺尾聡なんかも登場。だが、ついにそこらで本当にネタ切れになり、今度は、ためらいつつも松田聖子、森進一、アグネスチャン、西城秀樹、キャンディーズ、小柳ルミ子と、かなり深く、遠い世界までたどり着いてしまった。

だが、効果は絶大で、カヤックを一人漕ぎながら30曲ばかりも歌っていると、あれほど痛かった右腕の痛みは完全になくなり、6キロ先のゴールもすぐに見えてきた。チームメイトたち(僕は、Push’n Woodという中高年カヌーチームの一員)は、首を長くしてなかなか到着しない僕を待ってくれていたが、僕がバート・バカラックの「雨に濡れても」を陽気に歌いながら現れたので、みんな鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をしていた。僕は、「もっと漕いでいたい!」と一人でハイになっていた。

そんなで、音楽の癒す力を、身を以て体験している。

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ベニス・ビエンナーレで

ここで、シリアスな話で恐縮だが、ちょうど一年前、弟の光太がぽっくり亡くなった。命日2014年8月22日、39歳だった。

弟が亡くなったとき、僕はオーストラリアにいた。光太は亡くなる直前にオーストラリアの僕と、横浜にいるもう一人の兄弟の光哉に電子メールを送っている。それにはこうあった。

「 こちらは暑い日、涼しい日の繰り返しで夏バテ気味です。あさってライブなので気力をためています。そんなわけで私はまあまあ元気です。」

こう読むと、体調が良くないことを自覚していたことが分かる。その2、3時間後、突然光太は亡くなった。(光太は複数の重篤な持病を抱えて闘病中で、結局そのために亡くなっている。)

このメールにもあるように、光太はライブを2日後に控えていた。このことは、僕にいろいろなことを考えさせる。ひとつは、ライブに出られなかったことは残念だったろうということ。もうひとつは、結局ライブ出演はできなかったものの、人生の最後2、3ヶ月間、大好きな音楽という生き甲斐があったことは大きな喜びであったのではないかということだ。病気を持って生きる辛さを音楽が癒してくれたのではないか。

光太は、中高から大学時代を通してバンド活動をしていた。高校時代の友達とは「D」というロックバンドをやっていた。そのバンドは、つい最近まで活動していた。光太自身は、地方の大学院に行き、その後も仕事が忙しくなって、ずいぶん前に「D」は辞めていた。だが、光太がいない間も「D」は継続し続け、光太が病気になって何年か経った昨年は、そのバンドをやっていた光太の友人たちが、光太の闘病生活からの回復と社会復帰を計って、2014年8月24日にライブを企画してくれたのだ。

もちろん光太自身もその計画に喜び、ベーシストとして参加することになっていた。その練習の映像が残っているが、光太はベースでハードな曲をがんがん弾いている。僕は、それをビデオで見て、光太が本当に復活するかもしれないと期待を抱き、「ひょっとしたら、ひょっとするぞ!」と思って喜んだ。

ところが、ライブ二日前のリハーサルに光太は現れなかった。バンドのリーダーH君は、仕方なく光太の親友M君にベースの代役を頼んだ。ライブ当日も光太は現れなかった。そのときはもう亡くなっていたからだ。

光太亡き後、彼のアパートには、ギターやベースが数本、CDやカセットが数百本残されていた。H君がグレッチのエレキを引き取り、光太の甥であるマア君が白いヤマハのエレキを引き取った。あとは処分した。僕は、光太が演奏していると思われる「D」のカセット数本を形見としてもらった。

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形見の楽器たち

そうやって、光太は僕たちの前から永遠に姿を消した。

それから一年。今年7月から8月、僕は数年振りに家族と夏のヨーロッパを旅行した。一ヶ月も旅行をするのは何年振りだったろう。僕は、その間全くの風来坊的旅人に徹し、観光の予定もあまり立てず、何も生産的な活動はしなかった。でも、かえってそれが楽しかった。

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パリ、ベルサイユ

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南仏サン・アントニン
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南仏サン・アントニン、妻のチャコの作品
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南仏サン・アントニン

その帰り道、日本へも立ち寄った。光太の一周忌をするためだ。横浜の弟の家に泊まった際、甥の部屋に光太の形見の白いヤマハがあった 。白いエレキなんて正直趣味が悪いと思うのだが、懐かしくて僕はそれを抱きかかえ、はっぴいえんどの「夏なんです」という曲の、ちょっと複雑なコードを弾いてみた。それは昨夏光太が亡くなった頃よく聴いていた曲だ。アンプを通さないエレキギターの生(き)の音は、ほとんど聞き取れないほどか弱い乾いた音で、そのせいで、かえって魂に直接響いてくる。

今思えば、そのときのギターの小さな音は、光太がどこからか僕に語りかけた言葉だったに違いない。僕は、そのときから無性にまた音楽がやりたくなった。

光太と以前に、酔っぱらってジャムったことが2、3回ある。まだ光太がかなり元気だった頃だ。僕が一人で日本に帰国した際、夜中に二人でギターやベースを抱えて即興演奏をした。僕が夜更けに成田から多摩の実家に着くと、ふたりで飲み出して(主に僕が)、気がつくと二人でギターを抱えて歌っていたこともある。大概は全くのデタラメ即興演奏で、僕らになじみ深い京王電鉄の駅を新宿から順番に歌ってみせたり、光太が病気のリハビリのために働いていた豆腐屋の仕事をブルースにして歌ったりだった。

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15歳の光太、アメリカ、メイン州の友人宅で

そのあるとき、こう光太に言われた。

「てったくんのギターは、まるで白人が無理にブルース弾いているみたいだね」

軽い気持で言っただけだろうが、僕は13才も年下の弟にずばっと言われて返す言葉もなかった。全くその通りだったからだ。僕のギターは全くのまねっこで、気持もそんなにこもってなかったから。一方、光太の弾くギターやベースはすごく荒削りで、気持がこもっていた。そこには喜怒哀楽があった。

それからしばらく僕はギターには触れなかった。まるで弾く気もしなくなった。音楽はもう聴くだけにしようと思った。
 
だが、光太が亡くなってから、何度も音楽に助けられ、その力を信じられるようになった。そして、今度は、今までやらなかったジャズをやろうと考えた。ジャズは聴くのは好きだったが、理論が面倒だから自分には無理だと思い込んでいた。でも、ジャズの真髄はインプロ、すなわち即興演奏であり、ジャズをやることは、一定のスケールやコード進行は守りつつも、あくまで自分の表現をすることだ。真似はあり得ない。誰かがやっている演奏を真似ても、それはジャズとは言えないだろう。また気持が込もっていなければ、良い表現にならない。(それはどんな音楽や芸術でも同じだ)。だから、僕が最終的に目指したいのは、上手に楽器を弾けるようになることだけでなく、何かを音楽で表現できるようになることだ。どんな稚拙であってもだ。音楽は、人によって定義が違うだろうが、今の僕にとってはそういうものだ。

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ベニスでは、街のざわめきの向こうから、いつも生の音楽が聞こえてくる

実は、光太が亡くなったとき、僕は驚きや混乱で、ほとんど涙を流すことさえできなかった。こんなこと書くと不謹慎かもしれないが、あのときひと思いに号泣できていれば、どんなにか気持がすっきりしただろう。

そんな僕であったが、今は、渾身のジャズの即興演奏を聞いて「おお、すげえ!」と興奮もし、時には感情が緩んで涙ぐんだりすることもある(ちょっと危ない?)ギターもまた弾き始めていて、難しいと思っていたジャズのスケールを練習したり、とても覚えられないと思っていたコードを覚えるのに苦心したりしている。まだ、山の麓を歩いている様なものだが、楽しくて仕方がない。そして、今度こそ「お前のギターはまねっこだ」などと言われないようになりたい。

そんなで、ひょっとしたら、これが自分にとっての癒しのプロセスなのかなと思ったりもしている。

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ダブルベースは大きいから、誰かがかついでいると、ベースが一人で歩いているみたいだ(東京、五反田で)
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2015年05月20日

木で作る、自分で作る

2015年5月20日

この間、日本から来た女性が我が家に遊びにきて、僕と息子の鈴吾郎が作っているボートを見て、「こういうのを作るのが仕事なんですか?」と言った。いろいろなものを作るのが趣味だが、「仕事ですか?」と言われたのは初めてだ。悪い気はしなかった。

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でも、僕にとって木工とかボート作りはあくまで趣味だから、仕事にしたいとは思わない。そもそも僕は職人的な木工が不得意で、 作る物と言えば寸法もきっちり計ってないから、歪んでいたり、隙間があいていたりする。決して売り物なんかにできない。

それでも、この間作った仏壇はなかなか良い感じに仕上がった。姫路のお寺の和尚さんである友人が、オーストラリアで仏壇を作っていると聞いて、高価なお曼荼羅と仏具をわざわざ郵送して下さった。感謝感激である。幸い関税も取られなかったが、オーストラリアの税関の人たちだって、仏具に課税したら罰があたると思ったに違いあるまい。

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僕が作る物は概ね材料は木であるが、高価な材木は使わず(使えない!)、合板やホームセンターで手に入る松材や廃材を使うことが多い。結婚して公団の団地に住んだ時は本当にお金がなくて、家具の殆どは手作りであった。その時のダイニングセットは、女房がアメリカ留学から帰ったときの引っ越し荷物が入っていたクレートで作った。でも、そんなことをするのが、昔から好きなのだ。

そんなで、これまで、ずいぶんいろいろな物を作ったが、ふと思いついて作るだけなので、それほど長持ちしない物も多く、失敗作もある。でも、ただ同然の材料だから、失敗したって 壊れたってどうってことない。

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息子の学校のピザ・オーブンはみんなで作ったが、この扉は僕の作(これも廃材)

僕の現在の趣味は、カヤック/カヌーである。海や湖を漕いでまわる小さな細長い舟だ。今は4隻持っているが、2隻は自分で作った。(現在、息子とモーターボートを作っている)。中でも、最初に作った2人乗りのカヌーには一番愛着がある。でも、一番性能が良いのは値段の張るプラスチック製のシーカヤックである。これはいかにも「プラスチックでこざい」といった風情のもので、木製の優雅さがない。色もデザインも過激だ。でも、海に出るときは命を預ける訳だから、丈夫で安定性が優先する。だからいくら過激でも、買ったもので我慢している。本当は、シーカヤックも木で作りたいのだが、僕の技術ではまだちょっと無理だ。

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自作第一号タンタン丸

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作った二隻と買ったシーカヤック(赤いやつ)

でもカヌーとカヤックのパドルは作ってみた。最初に作ったのは、 カヌー用の「ビーバーテイル」という形のパドルで、これは2人乗りのカヌーを静かな湖などで漕ぐとき使う。それでも昨年は、南オーストラリアで開催されたカヌー200キロのリレーレースに出た時はこの自作パドルで出場したが、ちゃんと完漕できた。自作パドルで出場しているのは僕一人だけだったから、少し鼻が高かった。

昨年もう一本作ったのは「グリーンランドパドル」と言われるシーカヤック用パドルだ。棒みたいなので、スティックパドルとも言われる。これはホームセンターで売っている安いツーバイフォーの松材を使ったので、材料費は1500円くらいしかかかってない。完成品を買ったら2万円以上はするだろう。カーボンなら5、6万する。

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自作パドルと買ったパドル、僕のギター

僕だってカーボン/グラスファイバー製のカヤックパドルを一本持っている。ワーナー社製(アメリカ製)の5万円のパドルだ。800グラムしかなく、羽のように軽い。二年前に買ったが、値段だけあって素晴らしい使い心地だ。海に出て行く時は、主にこれを使ってきた。

ところが、最近、制作費1500円のグリーンランドのお株がぐっと上がっている。グリーランドパドルは細身なので、海で潮風が吹いているときでも風にあおられないので、漕ぎやすい。細いから、漕ぎ始めはなかなかスピードが上がらないが、いったん巡航速度(時速6キロくらい)になってしまうと、 細身ゆえ肩に優しく、長時間漕いでも疲れにくい。一方、カーボン製のワーナーで漕ぐと、ブレードの幅が太いので初速から早いのだが、その分肩の負担が重くて、疲れやすい。それに風があるときは、水の外に出ているブレードが風にあおられて舟がぐらぐらしやすい。まあ、こういうものはすべて一長一短あって、万能のものはない。

そこで、試しに友達にGPSを借りて、手作りパドルとカーボンパドルを湖で漕ぎ較べてみた。すると驚いたことに、1500円の自作木製パドルも5万円のカーボンのパドルも、一周二キロの湖を漕いでまわる速度はほとんど同じなのだった。(ということは、松材でなくて、檜や柳などのもっと良い木材を使って、軽くてしなるパドルを作れば、カーボンより早いかもしれない。やってみよう!)

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これはいつも漕ぎに行く湖の柳の木


とにかく、ハイテク製と木製とどちらが良いかと聞かれたら、木製が好きだ。

もうひとつ、(自分で作った物ではないが…)僕の宝物は、古いヤマハのフォークギターである。昨年東京の実家を処分したので、引っ越し荷物に入れてオーストラリアまで持ってきた。さすがに捨てるに忍びなかった。

中学一年のときに両親に買ってもらったギターだから40年前のオールド・ギターである。当時2万5千円だったことも覚えている。ずっと実家に置き去りにしてあって、手入れもしてなかったから、すごくぼろぼろだった。こっちに持って来てから塗り替えようかと思ったが、試しに家具用の油で磨いてみたら、渋くて良い色になった。塗り替える必要などなかった。ボディに小さな穴も開いていたが、これもパテで埋めてきれいにしてやったら、昔よりはるかに良い音で鳴るようになった。奮発して、エリック・クラプトンも使っているマーチンの弦を張ったら、最高に良くなった。

僕がもう一本持っているギターは、オベーションというアメリカのメーカー製で(韓国製だけど)、ボディの表は木だが、裏と側面はファイバーグラスで出来ている。いわゆるエレアコと呼ばれるギターで、アンプに通して電気ギターとして演奏することもできる。軽くて、しゃかしゃか澄んだ音がするが、古いヤマハみたいな、しっとりと深い良い音はしない。

きっと、プラスチックのギターは1000年たっても同じ音がするのだろう。でも、木製の物は、壊れてもかなりのところまで直すことができる。そこがケチな性分の僕に合っている。それに、直せない程壊れたら、燃やして灰にしてしまえばいい。あるいは、そこらの薮にでも放り投げておけば、いずれ腐って土にかえるだろう。

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これは息子のリンゴロウが8歳くらいのときに作った自動車

それが木製の潔さだろうし、ものの道理であろう。木製のものは、たとえそれが「物」であっても、生き物みたいな手触りと親しさを感じる。鉄製のものもそう悪くないかもしれない。でも、プラスチックやカーボンとなると、そんな親しみは全くなく、使っているうちはまだしも、いったん壊れてしまうと、どれほど愛着のあった道具だったとしても、ただのゴミと化す。それどころか、プラスチックやカーボンは燃やせないし、朽ち果てないから、本当に始末に悪い。









posted by てったくん at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記