2017年05月22日

バンコクで、国際児童図書評議会アジア会議に出席の記

2017年5月22日

5月初旬、初冬のメルボルンから晩夏のバンコクに飛んだ。IBBY国際児童図書評議会アジア会議に出席するためだ。大会は三日間、その間アジア諸国や他の国からやって来た児童書関係者による研究発表、事例発表、ワークショップなどが行われる。私も、オーストラリアで過去17年間主宰してきた、日本語児童文庫の軌跡について話すべく、原稿を携えてやって来た。

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出た時は雨のメルボルン

空港から出て電車に乗り、バンコク中心街の駅で降りた。駅からホテルまで2キロほど、スーツケースを引っ張って歩いた。初めてのバンコクだが、「懐かしい」光景が満ち溢れている。夜の10時というのに、狭い歩道に溢れるたくさんの人たち。裸電球の灯る小さなお店。その奥でミシンを踏む女性。路上の屋台。荷物をたくさん積んだ自転車を引く男。たくさんのオートバイ。60年代の日本のどこかの街中を歩いているような錯覚がする。インドネシア、マレーシア、インドでも、そんな既視感に襲われたことがある。

バンコクの街には、貧富の差も数多見受けられた。路地裏のゴミの間に蠢く人影。夜遅いのにそこらを走り回っている浮浪者のような子供。歌を歌いながら物乞いをしている女性。路頭で宝くじを売る人たち。あくびをして客待ちをするトゥクトゥクの男。その間を縫って歩く、ブランド品の名前が書いてある袋を下げた女性。王宮のようなショッピングセンター。人で溢れかえるコンビニストア。私のような裕福な国から来た(あまり裕福ではない)観光客。

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IBBYの国際大会、特にアジア大会は、いつも私に発見をさせてくれる旅だ。初めて訪れた街角に繰り広がる様々な光景の中で私は目を見張る。それだけなら、普通の観光旅行でも起きることだが、IBBYの大会では、ホスト国の人たち、加えてそれ以外のアジア、アフリカ、中近東、東アジア、南アメリカから来た人たちと出会って、子供の本を取り巻くありとあらゆることについて意見を交換し、議論し、物語を聞かせあい、ワークショップで色々なことを教えあったりする。その上、食事を共にし、お酒を飲み、感激して抱き合ったりもする。私はいつもそこで出会った人たちから勇気をもらい、共感し合い、そして新しい使命をもらって帰国する。

大会1日目。

会場となったアノーマグランドホテルには、日本人の知己がたくさんいた。バンコク大会だから、日本からの参加者が多い。JBBY会長の板東さん、マイティブックの松井さん、東京子ども図書館の張替さんと護得久さん、翻訳家の野坂さん、片桐さんなどなど。海外の知己もいる。タイのポルナノンさん、インドネシアのブナンタさん、マレーシアのジャミラーさんなど。この会で会うだけの人も多いが、とても懐かしい。

一日目は、基調講演が主だった。最初は、タイIBBY会長バラバーンさんの話で、タイ支部の発足から現在までの読書推進の問題、伝統的な哲学や倫理を新しい物語として語り、マルチメディア化していく課題などについて話された。IBBYドンカー会長は、子供の本に関する現代の普遍的な問題、紛争、貧困、難民といったことと私たちがどう関わっていかなければいけないか切々と論じた。

続いて、日本の学研プラス社の黒田さんが、教材開発の世界で起きている技術革新について話した。上記二人の話とは全く異なる次元の話であったが、先端的なデジタル技術が絵本や児童文学作品の表現に用いられることがあるとすれば、それはどういう影響を子供たちに及ぼすのか、切実に考えさせられる材料となった。

次は、IBBY朝日賞受賞者、タイ人作家シンカマーンさんの講演。シンカマーンさんは児童文学者でもあり、米作農民でもあるということで、いきなり箱から米を取り出して、参加者に配りだしたのには驚いた。話もかなりの脱線ぶりだったが、最後はタイの米にまつわる神話を披露され、素晴らしい語り口だった。まるで、神話の登場人物が話をしているようであった。

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タイは果物が美味しい

お昼をはさんで、もう一人、英国ペンギン社のメリントン氏が、ピーターラビットのマーケティングについて話した。ピーターラビットは古典文学であると同時に、確立されたブランドなのである。このブランドの版権は、アパレルを始めとし、テーマパークの果てまで200もの企業に売られ、そこから巨大な資本を得ているという話であった。数百部、数千部の自作を売ることに四苦八苦している我々のような作家や出版社から見れば夢物語であったが、絵本の商業的な側面も考えようによっては、社会に大きな還元をする元手にもなり得るのだから、大規模商業出版にも理ありと感じた。

夜は、バンコク国際交流基金において、「児童文学作家の仕事」という座談会に、濱野京子さん、まはら三桃さん、陣崎草子さんという3人の売れっ子作家に混じって出席させていただいた。マイティブック松井紀美子さんの企画である。会場には、60名ほどのタイ人、及び日系人の聴衆が駆けつけ、我々の話を熱心に聴いてくださった。(と言っても、私は上記の3名の丁々発止の発言に圧倒され、時差ぼけもあって、あまり発言できないで終わってしまったのだから情けない。)

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(向かって右から)まはら三桃さん、濱野京子さん、陣崎草子さん
二日目。

二日目は、会場をホテル向かいのTKパーク図書館に移して行われた。TKパークは、大きなショッピングセンターの最上階にある、新しい、明るい図書館である。コンピュータや小さな子供の遊具がたくさん置いてあり、真ん中は、劇場になっている。大小のセミナルームも完備しているから、IBBY大会のような大人数の集まりも開催できる。音楽室まであるのには感心した。

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TKパークからの見晴らし

本日は様々な発表が並行して行われるのだが、私の発表も午後にあるので、心を鎮める意味で、東京子ども図書館理事長の張替恵子さんと同館員の護得久えみ子さんによるストーリーテリングのワークショップに出てみた。多数の参加者が熱心に聞き入っていたが、お二人の素話と絵本の読み聞かせは、もはや常人の域を超えた名人芸であった。こういう人たちが子供の本の普及に従事していれば、どんなデジタルメディアが登場しても、人が人に口伝えで伝えるお話は決して廃れないであろうと確信した。

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護得久えみ子さんが『しょうぼうじどうしゃじぷた』を英語で朗読してくださり、感激

午後、私の発表の順番が回ってきた。ありがたいことに、日本から参加の皆さんがずらっと座っている。私がIBBY大会で、メルボルンこども文庫のことを話すのは3回目である。毎回ちょっとずつ焦点は違うが、基本的には私の経験談だ。文庫は、日本の伝統的読書推進の方法であるが、もはや日本国内にとどまらず、海外各地に飛び火して日系人の子供たちに日本語の読書の喜びを振りまいているというのが今回の趣旨である。また、文庫も紙芝居のような日本発「文化輸出」となりつつあり、現にメキシコには40箇所ほどの、BUNKOが存在するという話もした。

発表の後では、インド、カンボジア、フランス、香港、タイなどの参加者から、「私がインドでやっていることもまさに文庫である」、「誰でもできる小さな活動ということに共感した」、「タイのインターナショナルスクールでもぜひ文庫をしたい」など嬉しい感想を頂いた。自分がやっている小さな活動を通して、このような励ましが諸外国の皆さんから得られることも、この会の素晴らしいところだ。

夜は、カルチャーナイトだった。これはタイ主催者側によるおもてなしで、美味しいタイ料理をたっぷりご馳走になり、その上、タイ伝統舞踊や勇まし戦太鼓なども見せて頂いた。最後はみんなで輪になって踊ったが、気がついたら私もその中に混じっていた。普段はダンスなんてしないのに、よほど開放的な気分になっているのだろう。

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ぞうさんの形をした不思議なサンドイッチ

三日目

三日目午前は、会場を抜け出し、スラム街の保育園と、その地域で活動をするマレットファン(夢の種)というNGOの見学に赴く。アレンジしてくださったのは、攪上久子さんとマレットファンの皆さんだ。

バスに乗り、10分ほどバンコクの渋滞の中を走ると、そこはスラムの地区だ。屋台や小さな店がたくさん並ぶ表通りから裏に入ると、落ち着いた路地が運河沿いに続く。ここにもパラパラとお店が並んでいて、食べ物や雑貨を売っている。ここがスラムとはとても思えないほど綺麗に片付いていて、道ゆく人たちもニコニコと「サワディー」と挨拶してくれる。

路地奥にその保育所があり、園児が整列して迎えてくれた。先生たちはみな頭にスカーフをかぶっているので、イスラム教系の保育所とうかがい知れる。ここで私たちは、マレットファンの人たちに通訳してもらい、日本から来たことや、絵本や読書の普及の仕事をしているとを話すが、どこまで小さい子供に分かってもらえたか。子供達が、大型絵本「ぞうさんのさんぽ」を読んでもらって笑ったり、私たちの携えて来た絵本を見るキラキラした目は、どこの子供たちとも変わらない。グループモコモコ(布絵本を作る会)の野口さんが、自作の縫いぐるみや布絵本を披露すると、わーっと喜ぶ声をあげた。野口さんの布絵本を使った巧みな語りは大人が見ても楽しいのだから、子供にはどれほどに面白く写るだろう。そのあと、教室を一つ一つ見せていただいた。教室はあまり広くないが、それなりに工夫が見られ、子供達が少しでも楽しく、有意義な時を過ごせる努力が見られた。

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保育園で布絵本を披露する野口さん

保育所を辞し、今度はこの地区の公民館へ5分ほど歩く。さっきから我々にくっついて歩いている、サンダルばきの中年のヒゲを生やした男性は、町内会長さんだと判明。保育所で時間をとりすぎたので、公民館では軽食(野菜とひき肉を挟んだロティ)を急いでいただきながら会長さんのお話を聞くが、会長さんはパワーポイントまで用意され、詳しくこの地区の説明をしてくださった。ここの地区はスラムだが、むしろ密集地区と言う方が適切なようだ。今も木造住宅が密集しているが、100年前に入植が始まり、以前は漁業が主な産業だったそうだ。今は市外地化していて、あらゆる職業の人が暮らす。住民のコミュニティ意識は高く、市からの助成金もつき、まちづくりに貢献しているとのこと。小ぎれいな家々の庭にはジャックフルーツ、バナナ、マンゴーなどの果樹が植わり、こんな街に暮らすのも悪くないと思った。


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熱弁を振るう町内会長

急ぎ足で、もう1箇所保育所を回るが、こちらは何かのイベントで人が溢れていた。記念写真だけ写し、マレットファンの事務所に車で移動。事務所近くの食堂で「タイ風鴨肉ラーメン」をいただくが、これが大変美味。真オレンジ色の「アイスティー」を恐る恐る飲むが、味の方は普通のアイスティーだった。

マレットファンの事務所はビルの二階にあり、小さな図書館というか、文庫のようで、日本やタイの絵本がたくさん並んでいる。ここを拠点に、松尾久美さんとタイ人スタッフのギップさん、ムアイさんは、格差の多いタイ社会の中で奮闘する教師、親、保育者などのために、教育支援を行なっている。具体的には絵本を普及させる活動、色々な専門家を招いての教育研修会、ワークショップなどである。少年鑑別所に収容されている子供たちにまで絵本の紹介を行い、効果を上げているそうだ。
ウエブサイト: http://maletfan.org/jp/

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マレットファン本部

マレットファンでもっとゆっくりしていたかったが、またIBBY会場に戻る。午後にも仲間の発表があるからだ。野坂悦子さんは、オランダ語の絵本の翻訳家であるが、紙芝居普及にも熱心だ。「紙芝居文化の会」はこれまで世界各地に紙芝居を普及させることに成功してきたが、今回もこの大会のワークショップで紙芝居の魅力をたっぷりと教えてくれた。紙芝居を演じる時に一番大切なことは、何よりも共感だと言う。野坂さんは「kyoukan」と言う日本語を使って説明していたが、その努力には脱帽してしまった。あまり面白いので、私も今回で「紙芝居文化の会」の会員になった。
ウエブサイト: http://www.geocities.jp/kamishibai/index.html

紙芝居のワークショップを途中で抜け出し、出版社マイティブックの社長で編集者の松井紀美子さんの発表を聞く。松井さんは、JBBYの広報活動をしたり、絵本や児童文学者のネットワークのために奔走したり、タイや中国の作家の絵本を日本で出版したり、大変な貢献をしている人だ。僕は、海外のIBBY大会というと、ほぼいつも松井さんと行動を共にして、夜はビールを飲んだりしている。その松井さんの発表は、「小さな出版社の夢:世界の素晴らしい絵本を子供たちに届けること」で、彼女の奮闘努力の話だ。今は出版不況だし、日本では子供の出生率が下がるし、絵本出版には踏んだりけったりの時代だが、松井さんは諦めずに、自分が出した絵本をスーツケースに詰め、世界中を渡り歩き、講演会やワークショップを開催し、そこで知り合った人たちに直接絵本を渡している。私もいつも松井さんにお世話になり、絵本を売らせてもらっているが、本屋ではあまり売れないのに、講演会やシンポジウムなどをやると、飛ぶように絵本が売れてしまう。人が人に出会って、手渡しで絵本を渡すことがどれほど大切なことか松井さんは教えてくれた。これからも松井さん、頑張れ! ウエブサイト: http://www.mightybook.net

さて、これで大体IBBY大会は終わり。(他にもいくつか発表は聞きましたが、割愛します)。閉会式が行われ、次のアジア大会開催地の中国の代表が挨拶した。中国はやる気満々なので、2年後の大会が楽しみ。

さて、翌日は大会後の見学ツアーがあって、私はDalun Bannalaiという児童図書館を見に行った。ここはタイのIBBYが作った図書館だが、コロニアル風の木造建物を修復し、とても綺麗な、居心地の良い場所になっている。本も選りすぐった本がきちんと整理され、子供にも分かりやすいように並んでいる。庭先にはカフェもあり、子供でなくとも、ここで静かな時を過ごせたら幸せだろう。図書館とは、そういう場所だ。ちょうど私たちがいた時、にわか雨がざあざあ降り出したが、雨の音を聞きながら本をめくっているのも風情のあるものだ。バンコクも、そろそろ夏が終わって、雨季に入る。

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Dalun Bannalai図書館

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私の父(渡辺茂男)のくまくん絵本が貸し出しデスクにあったので、パチリ

最後の日: 上記松井さんのお膳立てで、日系人の加古川さんという音楽家が主宰するサロン・オ・デュタンというスタジオで、自作を読ませていただく。30名ほどの在バンコクの日本人・日系人のみなさんが集まってくださった。最初は、タイの絵本『ニン』を松井さんとタイ人の女性が披露する。「ニン」というのはタイ語で「静かに!」という意味だそうだが、もっと深く、「自分の心をじっと見つめなさい」という意味があるのだそうだ。さすが、信心深い仏教国の人が書いた本と感心する。私は、『ヤギのアシヌーラ どこいった』と『ぱくぱくはんぶん』を読むが、まあまあ受けたので、安心した。それから、松井さんのたってのリクエストだったので、『まきばののうふ』をギターを弾きながら歌った。これはだいぶ恥ずかしかったが、どうにかやってのけられて良かった。

午後は、全くのお客さんだが、サロン・オ・デュタンに居座り、松井さんの主宰した座談会「アジアで育つ帰国子女の幸せ」に出席。松井さん自身がシンガポール育ちの帰国子女、西南大学の帰国子女入学第一号ということなので、ご自身の体験談も面白かったった。また、タイ在住の日系人の皆さんと知り合えたことも有益だった。バンコクには、在住20年や30年という方々がたくさんいるようで、日系人のコミュニティーとしては、大変成熟していることも分かり、興味深かった。

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『ニン どんなときも』(チーワン・ウィサーサ作、竹内より子訳、マイティブック)

というわけで、私の子供の本作家としてのオフィシャルなタイ訪問ブログはここで終わり。観光旅行などについては、また後日書くつもりです。

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posted by てったくん at 11:16| 日記

2017年04月20日

秋の味

2017年4月20日

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クカバラ(ワライカケス)は、バーベキューのソーセージを盗む名人

秋の味と言うと、僕はいやしくも秋刀魚を一番に思い浮かべるが、オーストラリアでは秋刀魚は獲れない。が、輸入の冷凍物なら売っている。でも、高いから買わない。その貴重な冷凍秋刀魚を釣り仲間のK松さんが「到来物ですが」と、一袋くれた。だから、この週末あたり、家族が揃ったら景気良く炭火でじゅうじゅう焼いて食べようと思っている。

先週までは、復活祭イースターの秋休みだった。オーストラリア、メルボルンのこの辺りでは、イースターが来れば、夏が終わった、そろそろ秋だという季節だ。秋休みは、いつも僕がやっている子ども文庫のキャンプで、「どんぐり山」とみんなが呼んでいるUpper Yarra Reservoir Parkというところへ、二泊三日で出かける。もう10年くらい続けているキャンプで、始めた頃は息子がまだ3歳だった。息子は、このキャンプでは朝から晩まで焚き火で合法的に火遊びができ、キャンプ場のすぐ脇には綺麗な小川が流れていて、いつでも好きなだけ水遊びができたから、鼻血が出るくらい楽しいキャンプだった。 その息子も今や14歳で、もう今年はこのキャンプには母親と日帰りでちょっと顔を出しただけだった。

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どんぐり山の秋

大概文庫キャンプは、天気に恵まれるのだが、今年は二晩目から天気が崩れて大雨が降った。二晩目はいつも、参加家族がそれぞれ作ったカレーを持ち寄ってみんなで 食べることになっているから、今年は雨を避けてキャンプ場の集会所に場所を移して、そこでカレーを食べた。今年のカレーは、チキンカレー、マトンカレー、野菜カレー、タイのグリーンカレーなどが並んだが、このカレーの夕べを密かに楽しみにしてキャンプにやってくる家族もいる。うちの息子も、このカレーだけは鱈腹食べて、「ああ、食った、食った」と満足そうに帰っていった。

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カレー宴会

秋休みの間は釣りにも行った。実は、某所で鯵がたくさん釣れていることを、他でもないこの僕が発見したのだ。これに狂喜乱舞したのは、上記釣り仲間K松さん、その師匠のH井さんだ。たまたま日本からこちらへ帰省していたM城さんも釣り部隊に加わった。我々は、車を連ねて2、3回その穴場へ行ったが、いつもは坊主のことが多いM城さんでさえ30センチ以上ある尺鯵をあげて、ニヤニヤ笑いが止まらなくなった。僕は、夜釣りは眠くなってしまうので苦手だが、K松さんとH井さんは、「キ印」の釣り師だから、夜も出かけて行って、ある晩は70匹ばかり釣り上げたらしい。「もう釣堀みたいにうじゃうじゃいましたよ」と、K松さんは言っていた。

釣った鯵は、タタキになり、刺身になり、干物になり、酢締めになり、アジフライになり、棒寿司になったりした。これで、当分魚の供給も安定したと思っていたが、鯵の面白いところは、ある時期になるとぱたっと釣れなくなることだ。一体どこへ行ってしまうのか分からないが、秋が深まってきた途端、もう1匹もいなくなってしまった。

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「だから、釣れる時は、無理してでもたくさん釣らないといけないんですよ」とH井さんは、K松さんに言ったらしいが、 僕自身は、そんなに釣ってどうすんの?と思う。まあ、「キ印」には「キ印」の人の理屈というものがあるのだろう。

そのK松さんが、釣りの合間にうちに家族で泊まりにきて、近所へ栗拾いに行った。他にも3家族ほど参加したから、結構な人出になったが、大きな樹齢40年ほどの大木がある場所だから、それくらい来ても獲りきれないくらいある。というのが、昨年までの常だったが、今年は、なぜか栗が小さくて、それほどたくさん落ちていなかった。見上げると、まだ木にたくさん緑のイガがついていた。だから、栗の熟する時期が遅かったのかもしれない。温暖化のせいだろうか。

それでも、みんなバケツに二杯くらいは拾ったから、満足して帰って行った。後で、K松さんの奥さんをはじめ、参加した家族がメールをくれて、拾った栗は、焼き栗だけでなく、栗−ム(つまり、栗クリーム)、モンブラン、栗ご飯、栗スープ、渋皮煮などになったと教えてくれた。栗を剥くのは大変な作業だが、みんなせっせと美味しいものを作るのにはとても熱心だ。ところが、我が家の栗は、まだ焼き栗にもならず、バケツに入ったままだ。(拾ったばかりの栗は湿り気があるので、少し置いておいた方が、焼いた時にパリッと焼ける気がする。)

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今年は少ない方だったが、それでもたくさんの栗

こうして書いていると、秋はずいぶん食べ物のテーマで書くことがあるなと感じるし、自分は秋が好きなんだな、とも思う。まだもう少し気候の良い時期が続くから、秋ならではの活動をもっと野外でやりたい。
posted by てったくん at 13:17| 日記

2017年03月27日

ドイツからオーストラリア、シーカヤック2万3000キロの旅

2017年3月27日

土曜日の夜、冒険カヤッカーのサンディ・ロブソンの講演に行ってきた。サンディ・ロブソンと言っても知らない人がほとんどだろうが、シーカヤックを漕いで、ドイツからオーストラリアまでの2万3千キロを5年半かけて旅した冒険家だ。オーストラリア、パース出身、48歳の小柄な女性である。  http://www.sandy-robson.com/Home_Page.html
僕が所属するビクトリア・シーカヤック・クラブでの講演会だったが、冒険について、じっくり話を聞くことができた。

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サンディ・ロブソン

ドイツからオーストラリアまで漕ぐということ自体脅威的な冒険だが、この旅はサンディ・ロブソンが初ではない。実はオスカー・スペックというドイツ人カヤッカーが1930年代に行っている。オスカー・スペックは、もっと長い5万キロを、7年かけて漕いでいる。おまけに、オーストラリアに着いた途端に第二次世界対戦が勃発し、敵国人として逮捕され、戦後までオーストラリアの捕虜収容所で過ごし、そのままオーストアリアに帰化したというおまけがつく。
https://en.wikipedia.org/wiki/Oskar_Speck

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オスカー・スペック

スペックの旅をロブソンはそっくりそのまま辿ろうとした訳だが、彼女の旅を要約するとこうなる。

2011年5月14日、ドイツのウルムを出発。ドナウ川を南下し、スロバキア、セルビア、マセドニア、ギリシャを漕ぎ抜け、キプロス島へ渡る。そこから島伝いに 地中海を渡り、黒海を通り抜けてトルコ到着。

トルコ沿岸を漕ぎ、イラン、イラクは、紛争のために部分的にだけ漕ぐ。その後はパキスタン、インド西岸を漕いで、スリランカに渡る。スリランカを一周し(これは史上初)、インド東岸を漕いでバングラディッシュまで至る。

バングラデッシュから、ミャンマー、タイ、マレーシア、インドネシアを漕破。パプアニューギニア沿岸を漕いで、最後にトーレス海峡を横断し、オーストラリアへ到着したのが2016年11月。到着した時、サンディは48歳だった。

1930年代のオスカー・スペックの5万キロの旅と、2010年代のサンデイ・ロブソンの2万3000キロの旅をそのまま比較することはできない。しかし、どちらも大冒険であることは確かだ。

サンデイの話で面白かった点は、冒険という概念について現代の冒険家の意見が聞けたことだ。冒険家は、海や山や砂漠や北極や海底などに出かけていく。そういう場所は、人影もまばらな寂しい僻地である。エベレストを登頂する、北極点を踏破する、ヨットで世界を一周する、そういうことが近代の、あるいはすぐ最近までの冒険だったかもしれない。もちろん、今でも冒険だろう。

しかし、サンデイの冒険はちょっと違う。もちろん自然の脅威は、カヤックでこれだけの距離を旅すればいくらでもある。長さ5メートル、幅80センチのカヤックに命を託し、幅80キロの海峡を渡ったり、3メートルのうねりがある海を1日に100キロ近く漕いだり、人食いワニや、スマトラ虎のいるジャングルでキャンプをするのが危険でない訳がない。

しかし、それだけが冒険なのではないとサンディは言う。肌の色も、宗教も、言葉も、文化も、政治的な信条も違う人たちが暮らす 場所を移動することが、どれほど大変で、どれほど危険で、予期せぬ出来事に満ちているか分からないのだと。

彼女の旅がドイツから始まったことは、そう言う意味で幸運だったかもしれない。西側の、生活水準も高い、安全な国だからだ。しかし、東へ南へと移動するほど、状況は難しくなっていく。例えば、マセドニアとギリシャは仲が悪く、そういう仲の悪い国同士の国境の川を漕いで渡る のはドキドキハラハラだったようだ。インドとパキスタンも同様だ。またヨーロッパの中でも、水上には、マフィアや泥棒がいて、一人旅の女性を拐かそうとする悪漢がいる。イラン、イラクなどは、川の中にはまだ紛争時代の機雷が設置してあるそうだ。また、旅行の許可自体がなかなか降りない国も数多い。港があっても、外国人や漁師以外には使用を禁じている場所もある(日本にもある)。だから、上陸するにも上陸できず、ひたすら漕ぎ続けることもあったという。

それでもサンデイは諦めず、オスカースペックの旅をそのまま辿り続ける。一番大変だったのはインドだったそうだ。特に女性の一人旅は、どこへ行っても黒山の人だかりだったそうで、カヤックで着岸する、あるいは出発することには相当な困難が伴ったようだ。常に何十名、何百名の人たち、それもほとんどが男性の注視する中でキャンプし、炊事し、トイレに行かなければならない。また、インドは軍事的な要所も多く、カヤックなど見たこともない漁師にテロリストと間違われて拿捕されて警察へ突き出されたり、モーターボートに追跡されて轢き殺されそうになったこともあるという。

サンディはそれでも 諦めずに毎日漕ぎ続けたが、やがて、ストレスが溜まり、体力が落ち、食事が食べられなくなる。マラリアにかかり、入院する羽目にもなった。

それでも彼女は言う。「信じられないようなひどい目にもあったけど、ありとあらゆる人々の親切があったから、私は旅を続けられ、完漕できた。私を襲おうとした人もいるけど、それよりも、私を守ってくれて助けてくれた人の方が多かった。だから、ひどいことより、楽しいことの方がずっと多かった。」

こんなことは今だからこそ、笑って言えるのだろう。しかし、自分のコンフォートゾーン(安全で、危険を感じないですむ空間)から、一旦出なければ、決してこんな体験もできないし、こんな人生観を持つこともないだろう。

「次は、どんな冒険をするのですか?」講演の後に、こんな質問が出た。 「分からないわ。人生観がすっかり変わってしまったから。ひとつには、オーストラリアのような裕福な国の生活スタイルというのが嫌になってしまったの。人間が生きるために、こんなにたくさんの物はいらないと思うの。それから、自分だけが幸せなら、困っている人がいても知らんぷりなんて、 本当に冷たい社会ね。でも、そう言っても始まらないから、とりあえずシーカヤックや野外活動のガイドの仕事をしつつ、今回の冒険のことを本に書き上げるのが目標。その後、次の冒険を考えるつもり。これだけの旅をすると、すごくたくさん友達ができるから、その友達をもう一度訪ねて、また同じ道を辿ってもいいわね。」

全く恐るべき冒険家であるが、僕と大して年も違わないわけだし、大いに見習いたい。とにかく何歳になっても、コンフォートゾーンからちょっとでも足を踏み出し、冒険を恐れない人間でありたい。コンフォートゾーンから出ることが冒険であるならば、それは考え方や価値観にも当てはまるだろうし、 仕事にも日々の暮らしの中にもあるだろう。 冒険するためには、必ずしもヒマラヤやアラスカに行く必要はないだろう。

そういう意味で、大いに啓発される講演だった。

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これは私。マレー川400キロのマラソンに初出場したとき。2万3000キロに比べれば、400キロなんてお茶の子であるが、私的にはドキドキものでした。
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2017年02月28日

あるジャズミュージシャンの死

ラリー・コリエルというジャズギタリストが73歳で亡くなったと、インターネット版朝日新聞「おくやみ」欄にあった。僕は、新聞の「おくやみ」欄には、どうしてから分からないが必ず目を通す。おかしな癖だ。

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ラリーコエリル(若い頃)

その癖、僕は直接知らない人の死には、それほど心を動かされないのだけど、ラリー・コリエルが死んだニュースにはちょっと動揺した。彼の音楽を若い時からちょくちょく聞いていたからに間違いないけど、動揺して、改めて彼の音楽に、昔どれほど心を動かされたことか久しぶりに 思い出した。

ジャズは好きじゃないし、よく分からん、というオーストラリア人にたまに会う。この間、駅で車を止めて学校から帰ってくる息子を待っていたら、同じように子供を待っている息子の同級生のお母さんが、「あら、ジャズを聴いているの?日本人ってジャズが好きなのよね。東京の喫茶店とかお店は、いつもジャズが流れているじゃないの?」と、褒められているのか何なのか分からないことを言われた。僕は、たまたま 車のオーディオで、ジム・ホール(ギター)とロン・カーター(ベース)のデュエットアルバム『アローントゥギャザー』を聴いていたのだ。こういう人は、自分ではジャズなんか聞かないんだろう、きっと。

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オーストラリア生まれのうちの息子も、チェロを弾くが、ジャズは好きではない。そのうち、好きになるかもしれないけど。

日本人が、そんなにジャズ好きかどうかなんて考えてことなかったが、言われてみると 、好きなんだろうなと思う。僕が学生の頃は、「ライブ・アンダーザスカイ」とかジャズフェスティバルなんかが日本でもあって、キースジャレットやら、チックコリアやら有名なミュージシャンが沢山来日していたし、それを見にも行った。日本ではジャズのレコードもたくさん出ているし、日本人のジャズミュージシャンもたくさんいる。

でも、オーストラリア人だって、ジャズが好きな人は結構いるだろう。ミュージシャンも沢山いるし、メルボルンにはジャズのクラブもある。だから、日本人がジャズ好きで、オーストラリア人がジャズ嫌いなんて議論は、非常に無為 だろう。好きな人は好き、分からない人には分からない。それがジャズだよ。

コリエルは、60年代にゲーリー・バートンという有名なビブラホン奏者のバンドに入った 頃から 有名になったギタリストで、ジャズとロックのフュージョン音楽の生みの親の一人だと言われている。もちろん60年代半ばから、ジャズとロックはあちこちで融合を始めていたから、マイルス・デイビスを始めとして、あらゆる音楽家がいわゆるフュージョン音楽を演奏していた。フュージョンの一つの要素は楽器の電気化だが、ジャズギタリストたちは、フュージョンの前からとっくにエレキギターを弾いていた。ただ、それは単に音を大きくするための措置でしかなかったが。でも、コリエルは、そうじゃなくて、ロックミュージシャンみたいに、例えば、ジミヘンみたいに、歪んだ音でガリガリとエレキを弾いて見せて、 それがジャズでは非常に新鮮だったわけだ。

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スペイン、サンチャゴ・デ・コンポステーラのバンド。夜中の一時に、じゃんじゃん演奏していた。
(昔撮った写真)

しかし、コリエルはジャズが弾けるロックミュージシャンになったのじゃなくて、やっている音楽は、ずっとジャズそのものだった。小説家が、例えば村上春樹が新しい作品を書くごとに、新しいテーマや言葉のスタイルやボキャブラリーを使ってみせるように、コリエルという音楽家も、積極的に新しいスタイルを彼の音楽を取り入れただけの話だ。そういう新しいスタイルなりを、コリエルは「ボキャブラリー」と呼んでいるから、やっぱり一つの「要素」なんだろうね。

「俺にはさあ、ロックってのは、あまり面白くねえんだよ。和声が単純すぎてさ、広がりがなくて、パッとしないだよね」と、コリエルは1980年代のあるインタビューで言っている。うーん、ロックの人が聞いたら怒るだろうけど、まあそれはそうだ。ロックにもいろいろあるが、ロックの一つの決定的な要素は、単純さだろう。単純なメロディー、単純な和音、 単純なフレーズの繰り返し。ロックは、単純さ故にパワーがあるのかもしれない。

ジャズが分からない人というのは、端的に言ってしまえば、ジャズの不思議なコード進行や、不協和音の多さについていけない 人達だろう 。裏打ちのビートも難解かもしれない。それに比べれば、カントリーや、演歌や、大方のロックも、決まり切ったコードと音階を使っているし、リズムもわかりやすくて軽快だ。悪く言えば、マンネリ、常套句の羅列と言ってもいい。しかし、どちらの音楽が良いとか、悪いとかではなく、そういう違いがある、というだけのことだ。全然違う音楽なのだから。どんな形態の芸術にもそういうジャンルの違いがあるし、複雑だからいいという訳ではない。しかし、ジャズで使う和音で、例えば、Bm7フラット5やCm6というのは、やっぱ気持ちいいし、こういうコードが流れていくことから生まれる緊張感は、カントリーや演歌にはないだろう。

僕がコリエルのギターを聞くようになったのは、大学生の頃だ。バブル経済も後期に近づき、フュージョンブームもやや陰りが出て来た頃かもしれない。ロックもフュージョンも、流行っているものはとても洗練されていたが、手の加えすぎ、スカスカで、味のない綺麗な霧のような音楽みたいな気がしていた。

そんな時、コリエルの 「ヨーロッパの印象」(European Impression)というレコードを聴いた。これは1978年のモントルージャズフェスティバルのライブ演奏だから、出てから数年経ってから聴いたわけだ。でも、これにはぶっ飛ばされた。今でも、レコードに針を落とした時の衝撃は忘れない。ギターの金属製の弦のギラギラした音が、そのままスピーカーから響く。これは、オベーションという生ギター一本で演奏しているレコードだが、ピックが弦に擦れる音、コリエルの吐息や唸り声、膝でリズムをとる音までが、全部録音されている。レコードの最初から最後まで、コリエルは、じゃかじゃかじゃかと、不協和音のたくさん混じった、それでいた澄んだ音色のコードを非常な勢いで持ち上げたり下げたり、叩きつけたりして弾いている。ものすごい早いパッセージを、機関銃のように弾くが、そのうち3分の1くらいの音は、かすれてちゃんと出ていない。でも、そこがライブのいいところで、かえって荒々しい感じでグッと盛り上がる。たった一人の舞台だから、一瞬も気が抜けない。火を吹くような演奏だった。

僕は、しばらくこのレコードを毎日のように聴いていた。ある時など、ステレオででかい音で聴いていたら、二階の書斎で仕事をしていた父が下に降りてきて、僕の部屋をのぞき、「お前、この頃ギターがえらく上手くなったな」と言った。ところが、それがコリエルというジャズギタリストのレコードだと知って、「へえ、こういうギターを弾く人もあるもんだ」と感心していた。

僕は、一度だけコリエルを見たことがある。それは新宿京王プラザホテルのプールでだった。 バンドのメンバーたちとのんびりプールで泳いでいた。コリエルは、ボサボサ頭で度の強いメガネをかけているから、すぐに彼とわかった。僕も(タダ券をもらったので)同じプールで泳いでいたのだが、心臓がドキドキしてとても話しかけることなどできなかった。その代わり、一緒に泳いでいたバンドのメンバーみたいな黒人の男性に、「あれはギタリストのラリー・コリエルですよね?」と聞くことは聞けた。すると、彼は「そうだよ、ラリーだよ。コンサートで日本に来ているのさ」と答えた。僕は、いよいよ感動して、返す言葉もなかった。

「ヨーロッパの印象」(European Impression)以来、僕はコリエルの生ギターの独演の虜になった。上手に弾くとか、洗練されているとか、テクニックが素晴らしいといった類の音楽とは全く違うもので、素の、生の「表現」という感じだ。コリエルの他のレコードも聞いたが、僕には生ギター一本の演奏が、一言で言えば、潔くて好きだった。(もっとハードコアの生粋のジャズファンなら、違うことを言うかもしれないが。)

今僕は、「ヨーロッパの印象」(European Impression)のレコードもCDも持っていない。オーストラリアに引っ越した時、日本に置いてきて失くしてしまった。20歳の時に衝撃を受けたレコードは、55歳の僕は今、どんな風に聞くだろう。

しかし近年も、コリエルの生ギターによる、「ボレロ」や「ラプソディーインブルー」といった演奏をユーチューブなどで聴く機会があった。聞くたびに、やっぱりすごいなあと、ため息をついた。コリエルは、年をとってもあちこちの音楽祭にギター一本背中に担いでいき、「ボレロ」を若い時と同じくらいの勢いで一気に弾いてみせ、僕はそのスタミナに感心していた。というとアンダーステイトメントで、彼のギターには、生きる元気をもらっていたと言ってもいい。彼には「枯れる」という言葉は似合わないと思った。

そのコリエルが、僕の誕生日の一週間後、コンサートツアーの途中にニューヨークのホテルで突如亡くなってしまった。73歳だったという。夏が終わった途端に秋になり、一気に木の葉が落ちてしまったような気がする。

ちょっと早かったんじゃないのか、コリエルさん。もっと、あの火の出るようなギターを聞かせて欲しかった。

冥福を祈る。

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スペイン、サンチャゴ・コンポステーラ・大聖堂
(昔撮った写真)
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2017年01月25日

一人暮らしの夏休み

2017年 1月13日記

11月から12月の頭は、ここビクトリア州では大雨が降って、あちこち洪水になったり、大木がうちの裏庭に倒れたりして、本当に夏が来るんだろうかと思った。ところが、12月半ばからは、打って変わったような晴天続き、しかも気温はそれほど高くない、いわば理想の状態が続いている。

そんな陽気の12月20日、女房のチャコと息子の鈴吾郎を早朝空港に送って行った。二人は日本に一ヶ月里帰り帰国だ。朝8時過ぎの飛行機だから、4時半起床、 5時出発、空港6時時着。やれやれだ。カナダに留学中だった娘の鼓子も、明後日にはバンクーバーから東京入りし、我が家は僕以外、クリスマス、暮れ、正月と日本だ。僕は、帰国しようかどうしようかグズグズしていたら、年末になって飛行機の運賃も上がってしまい、メルボルンで猫タマと留守番になってしまった。

だから一ヶ月、1月20日まで一人暮らしの身になった。空港から帰る車の中では、喜びと寂しさが入り混じった不思議な感傷に襲われたが、すぐに喜びの方が大きくなった。

空港から戻ると、近所のRさん宅へ行く。Rさんには、小学生の息子が二人ある。この二人のために自宅内にサッカー場を作っているので、その手伝いだ。自宅にサッカー場を作るなんて 冗談と思ったが、Rさんはまじだった。Rさんの家は山の斜面2000坪ほどの敷地だが、サッカーボールを蹴る平地がない。そこで、敷地の一番下の 傾斜が緩い300坪を平らにする計画だ。「そんなこと、できるの?」と聞くと、「できる、できる、重機を借りれば、3日で終わるよ」とRさん。Rさんは物静かな図書館員なのだが、やるとなったらやる男で、以前にも自分で家を建てたこともあるし、今も二軒目を建てつつある。


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パワーショベルを運転するR氏

さて、敷地に入ると、重機の音がし、小さなパワーショベルと、小さなボブキャットと呼ばれるブルドーザーが動いている。ボブキャットは、小学4年生の長男が運転していではないか!

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ボブキャットを運転する長男

「こういうの、ありですか?」と聞くとRさん、「あり、あり、大有り。息子は運転が大好きだし、自分のサッカー場だから、気合が入ってるんだよ」と笑い顔。

小学生がブルドーザーとは驚いた。「さあさあ、鉄太さんにはパワーショベルをやってもらおうかな」と、Rさん。観念して、パワーショベルの運転席に座る。色々なレバーが5、6本突き出ていて、どこをどうやるのか分からない。Rさんが、簡単に説明してくれ、「5分も練習すれば、できるようになるから」と、笑って言う。僕は「マジかよ」と、独り言。でも、5分もやったら、本当にできるようになった。

独身生活初日は、そんなわけで、土木の仕事となった。


12月21日、二日目。

またもRさんの家でパワーショベル。Rさん、「今日中にあそこまで削れるかな?」と言って、5メートルほど先の松の樹を指差す。こう言うと簡単だが、5メートルX幅10メートルx高さ3メートルと言うと、150立法米の土砂の移動だ。 「無理、無理、ぜったい無理!」と僕。

それでも、夕暮れまでに、その半分くらいはやっつけた。くたくたで、家に帰って、ビールを飲んで、ステーキを焼いて食べ、ダウン。


三日目、12月22日。

家族が出かけたらすぐにやろうと思っていた、水道栓の漏れを直す。家族がいても水道修理はできるが、元栓を閉めるので、誰もいない方が楽だ。水道栓を直すのは簡単そうでなかなか難しい。直し方が分からない栓もある。

まず固くなっている台所の栓と、風呂場のシャワーの栓に取り掛かる。分解し始めてみて、パッキンのゴムがないことに気が付き、ホームセンターへ走る。ところが、せっかく買ってきてたら、 サイズが違っていた。ホームセンターに走って戻って取り替えてもらい、どうやら組み込んだ。シャワーの方もポタポタが収まり、ホッとする。でも、シャワーの取っ手をはめるネジがおかしな形で、どうやって締めたらいいか分からない。専用のネジ回しが必要なようで、ホームセンターに再度とって返し、そう言うネジ回しがないか尋ねるが、「ありません」と言う返答。うんざりする。

水道の栓を直したり、下水の詰まりを直したりするのは、もはや年中行事になりつつある。だが、どうも水回りは得意でないし、やっていてもあまり楽しくない。一昨年は、クリスマスイブに洗濯機の排水口を直したが、管の下の方が詰まっていたので床下に潜ってドロドロになり、それで一日潰れた。しかし、こう言う小さな「災害」を時どき経験しないと何事も身につかない。本当は、他にも直したい水道栓はいくつかあるのだが、今日はこれでおしまいにする。

水道栓を直してホッとしていたら、「明朝、ボートを借りるので、釣りに来ませんか? 時間は朝7時から11時。早朝だから、今夜からうちに泊まって、明日一緒に行きましょう」と、ジーロンのK松さんから電話。非常に良いタイミング。こういうお誘いは断る理由がないので、車を飛ばして、ジーロンまで100キロのドライブ。

ジーロンに着くと、ちょうど夕食の準備ができた ところ。夕食は、K松さんが前日に釣ったカワハギの刺身。コリコリして美味しいこと。


12月23日、独身四日目。朝6時起きで、K松さん、小学5年生の娘さんと海に向かう。

「 大きなアオリイカがじゃんじゃん釣れていますよ」と、貸しボート屋のマイクは、笑顔でそう言った。
「 先週は、大きな奴を12ハイあげました」とK松さんも自慢する。僕は、実を言うとイカは釣ったことがない。そこで期待に胸を膨らましてボートの人に。

500メートルばかり沖に出ると、もうそこはイカがうじゃうじゃいそうな場所だった。青く澄んだ水面を覗くと、森のように海藻が 生えた海底だ。

「よっしゃあ、たくさん釣るぞ」と、三人とも息巻いたが、なかなか釣れない。「おかしいなあ?」Kさん。僕もK松さんの娘もイカ釣り用のエギ(ルアーのようなもの)を振り回すが、全然あたりがない。

それでも、「あ、釣れた!」とK松さん。エギに食らいついた大きなアオリイが墨を吹いている。しばらくして、もう2匹。でも、僕も娘さんも釣れない。僕は、諦めて普通の魚を釣ることにした。

しばらく待つと、弱いあたりがあった。引き上げると、30センチのガーフィッシュ(サヨリ)。「え、こんなのがいたんだ!」と、K松さんが驚く。

K松さんが、アオリイカをもう一匹あげたが、その後は何もかからなくなった。太陽も頭の真上。「もうすぐお昼ですね、そろそろ帰りましょうか」と、ボートを港に向けた。

僕は、自分は釣りもしないのにアオリイカを2ハイお土産にもらって帰宅。これが、翌日の僕のクリスマスイブディナーになった。


12月24日、25日

クリスマスイブとクリスマスは、独身生活ゆえ、人を呼ぶのも面倒だし、呼ばれるのも面倒なので、首を低く、誰のアンテナにも引っかからないように隠者のごとく過ごす。イブは、サヨリとイカの刺身を堪能し、クリスマスは、でかいステーキを焼いて食べた。うまうま。こう言う時に一人で、誰とも口を聞かないで過ごしていると、地球最後の男になったような気分だ。

さて、この二日とも、昨年作ったベランダを再塗装する。昨年ホームセンターの店長のグラントは、「このウルトラデッキという塗料を塗れば、優に三年はもつ」と太鼓判を押したが、たった一年で、太陽にさらされ、雨に打たれ、息子がサッカーのリフティングを練習し、家族も毎日行ったり来たりしたら、デッキの真ん中がハゲハゲになった。

「一年でハゲハゲだ」と、グラント店長に言うが、「そりゃあ、オーストラリアの紫外線は強力だからね!」と、紫外線のせいにした。まあ、嘘とは言えない。そこでまたウルトラデッキを塗った。人が歩く真ん中は、3度塗りした。


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きれいになったデッキ

12月26日 ボクシングデー。

家族が日本に帰国して、はや一週間。こう毎日働いてばかりいてはつまらない。車を飛ばして、モーニングトン半島突端、ポートシーまで釣りの下見。クリスマス明けのボクシングデーの休日で、しかも天気はカーンと晴れ渡り、高速はかなりの渋滞。みんな海に繰り出す人ばかり。

いつもの倍くらいの時間がかかったが、昼前ポートシーに到着。ここは金持ちの別荘が連なる海浜の街で、 海岸沿いを走れば3台続けてポルシェとすれ違ったりする。ここの桟橋でイカがじゃんじゃん釣れるらしい。ポートフィリップ湾の一番外海に近い場所 だから、あり得る話だ。

今日僕が下見に来た理由は、日本からこちらに帰国中のM城さんと、釣り友達の前述K松さんの二人を、ここに 案内しようと言う魂胆だからだ。下見でも一応釣竿は持ってきた。桟橋に出てみると、若い男が見ている前で、続けてアオリイカを3バイ釣り上げた。「本当かよ!」と、思わず唸ってしまう。ところが好天気の休日だから、すぐに海水浴の人たちが桟橋からバシャバシャ飛びこみ始めた。これじゃあイカ釣りなんてやってられない。僕も竿を振ってみたが、釣れたのはキス一匹。これから夏休みが佳境に入るから、ここじゃあイカ釣りは無理だろうなあ、と残念な気持ちで帰途につく。


12月29日。

今日と明日は、いよいよM城さんとK松さんが我が家に泊まりにきて、二日続けて釣り合宿だ。

一日目は、近場のSポイントと言う海辺へ行く。天気がどうも思わしくなく、雨雲がもくもくしている。先日のポートシーは遠いので、また別の機会にということになった。

Sポイントは、フレンチ島に行くフェリーが出る桟橋で、この間引き潮の時に、息子の鈴吾郎がカワハギをじゃんじゃん釣り上げた場所だ。カワハギは、釣っても引きがあまりないし、鈍重な感じであまり面白くないが、食べるとコリコリしていて美味しい。それに、他に何も釣れなくとも 、カワハギだけは大概いてくれるから、ありがたい魚だ。今日は、普段は日本在住(単身赴任)のM城さんに、カワハギでもいいから、普段釣れない分だけ釣ってもらいたい。

桟橋からは、広々とした海のあちこちに、雨雲が垂れているのが見える。対岸のフレンチ島では雷が光っている 。「まあ、やれるだけやりましょう」と、三人とも竿を振る。

すぐに、どーん、と鈍いあたり。やはりカワハギだ。「来ましたよ、カワハギさんです!」と僕は二人に伝える。「ここまできてカワハギを釣ってるんじゃあ、意味ないなあ」と、普段ジーロン近辺で、毎日のようにカワハギを釣りまくっているK松さんが、やや不満そう。

でも、僕とK松さんは、コツだけはわきまえていて、すぐに2、3匹引き上げた。ところが、M城さんは、そのあたりのコツがイマイチなので、なかなか釣りあげられない。

ところがついに、「あ、来ましたよ!あ、重い、重い!」と、M城さんが、中腰になって叫んだ。 見ると、針には今日一番の大物がかかっている。30センチはあるカワハギだ。「やりましたね、M城さん!」と僕。

ところが、釣り糸が桟橋の手すりに引っかかり、大物がボタンと落ちてしまった。「あ、カワハギが落ちる!」とM城さん。針から外れたカワハギは、海に戻ろうと桟橋でバタバタ跳ねている。とっさに僕は、バレーボールのトスの要領で、カワハギを素手で引っ叩いた。それでどうやら無事にゲット。カワハギには鋭いトゲがあるので、刺さったらどうしようと思ったが、無事だった。

三人で、小一時間で5、6匹釣り上げただろうか、いよいよ雨空が重く垂れ込めてきた。「やばいですね、帰りましょう」とK松さん。車に飛び乗ると、すぐに天の底が抜けたような大雨になった。

家に戻り、カワハギ六匹はお刺身になった。一番の大物を釣り上げたM城さんはまんざらでもない顔で、お刺身を口に運んでいた。ああ、良かった。


12月30日。独身生活10日目。

日本にいたら、この時期は、帰省だの、大掃除だの、おせちの準備だの、年賀状書きだので忙しい が、オーストラリアでは、ただの休み。いや、休日でもなく、ただの平日。

よって、K松、M城、私の三人は、家族をほったらかして今日も釣り 。昨晩のカワハギで気を良くしたM城さんは、さらに気が大きくなり、「もっと遠くに行って、もっと大きな魚を釣ろう!」と開高健みたいなことを言い出したので、東のギップスランド方面に行くことになる。

ギップスランドは、メルボルンの東から大陸の果てまで広がる大平原で、その海沿い には、いくつもの有名な釣り場がある。一番東700キロ先には、イーデンという町がある。そこはかつての捕鯨の町だが、今 でもブリやらマグロといった怪物級の魚がじゃんじゃん釣れる(らしい)。その手前のマラクータと言う入江には、チヌ、コチ、シマアジといった美味しい魚たちがたくさんいる(らしい)。

しかし、日帰りではそんな遠くまで行けないので、「とにかく、行けるところまで行きましょう」と、興奮するM城さんを牽制しつつ、やや二日酔い気味の三人を乗せた車は東に向かった。1時間ほど走るとコリ**という標識が見えてきた。

「コリ**で、ちょっと手合わせをしてみたらどうでしょう?」と僕。コリ**は、実はちょっと有名な釣り場なのだ。ここは、昨日行ったSポイントと、フレンチ島を挟んだ逆側で、フレンチ島との間が狭い海峡になっている。ここだけ、ぐっと水深もあって魚影も濃い(らしい)。

「そうですね、ちょっとここで手を合わせてみましょう」と、二日酔いが抜けないK松さんも同意したので、高速を降りて桟橋へ。

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コリ**の青い海と空

桟橋に行くと、先客の釣り人が5、6人。イカ釣りの人、糸を遠くに投げて大物狙いの人(オーストラリアにはこの手が多い)、比較的近くで、ウキを付けて、サヨリやキスを狙っている人などいろいろだ。

「こういうところは、何が釣れるかわからないからなあ」と、百戦錬磨のK松さんが呟く。K松さんは、我々の仲間では一番場数を踏んでいて、イカでも、カワハギでも、キスでも、ウナギでも、マグロでも、何でも釣ってしまう達人だ。幼稚園の先生なのだが、釣りが好きなので、海の近くの幼稚園に勤めているくらいだ。まあ、コリ**でマグロは無理だが、僕も何が釣れてもいいように、万能な落とし込みの仕掛けをぽちゃんと桟橋から落として見た。

待つこと30分、グーンと竿がしなった。糸が右に左に走る。「きた、きた、ボラかシマアジだ!」と僕は叫ぶ。桟橋の下に隠れていた魚が食らいついたのだ。ファイトがすごい。鈍重なカワハギでないことだけは確かだ。

落とさないように、慎重に巻き取ると、22センチの銀色に光るシマアジだった。シマアジは釣って楽しいし、食べるにも刺身でよし、焼いてよしの大好物の魚である。これは嬉しい。

「お、いいのが釣れましたね」とM城さん。K松さんも、「よっしゃあ、本腰を入れて釣りましょう」と気合いを入れる。K松さんは、撒き餌をピシピシと海にまいて魚を集めにかかる。日本では当たり前の漁法だが、オーストラリア人はあまりやらない。彼らは、大きな餌をつけて、遠くに投げて、気長に待つのみ。それじゃあ、なかなか釣れないですよ。

と言うわけで、僕たちのところだけ、シマアジやボラやキスがじゃんじゃん(と言うほどではないが)釣れ始めた。周りのオーストラリア人は、「どうやって釣ってるんだ?」と見に来る始末。

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シマアジなど

そんな具合に、昼過ぎまで釣って、持ち帰れるサイズの魚が合計7、8匹釣れた(持って帰って良いサイズが法律で決まっている)。「そろそろ帰りましょうか」と K松さんが促す。M城さんは、もっと遠くで、さらに大物を釣りたがっていたが、「また、お正月に行きましょう」と言う。お正月とは、2、3日後のことであるのだが。

大晦日は、家のペンキ塗りと、庭の芝刈りをした。メルボルンのシティでは、花火大会とかあるが、そう言うところには、酔っ払いの若者があふれているだけなので、家で大人しくする。それどころか、昼間の作業で疲れて、9時には寝てしまう。


2017年、元旦。

いくらか曇り空で、気温も涼しいので、サイクリングに行く。行き先は、いつも走っているウォーバートントレールという自転車道。ここはもともと森林鉄道の線路だった道だから、勾配も緩くて楽チン。自動車も来ないから、ゆったり走れる。もう何度も来ているから、ちょっと飽きたけど。

景色を眺めながら走っていると、マウンテンバイクのティーンエージャーの少年が、すごい勢いで抜いていった。ところが、ちょっと先で、急にくるっと向きを変えて戻ってくる。どうしたんだろう?と行ってみる と、なんと道の真ん中に、牛の群がいるではないか!大人しそうな雌牛ばかりだが、10頭くらいいて、のどかに草を食べている。しばらく待っていたが、なかなかどいてくれない。

「モウ、堪忍袋の尾が切れた」と、自転車を押しながら、じりじり近づいて行ったら、 気の弱そうな牛からどき始めた。 だが、気の強そうなリーダー格の牛は、僕を睨んだまま動かない。もう引き返そうかと思ったが、5分くらい睨めっこしたら、リーダー牛も牧場の方へ歩いて行った。やれやれ。今年は酉年だと思ったが、元旦から牛に出くわすとは、どう言うことか。

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自転車道の牛たち

今日は、セビルから終点のウォーバートン村まで往復し、50キロプラスを走った。元旦だが、僕と同じように一人で黙々と走っている人もいて、自分だけがこんなことをしているのではないと分かってホッとする。もちろん家族連れやグループで 楽しそうに走っている人たちも多い。

しかし、久しぶりだったから、 たった50キロ走っただけで疲れてしまった。

家に帰って、シャワーを浴びて、今度はブライトンのF原さんの家に向かう。ブライトンは、メルボルンのシティの近く、海外沿いの高級住宅街だ。ここらの 住民はみんなポートシーとか、ケアンズとか、南仏とか、日本のニセコとかに別荘を持っているから、夏休みは不在、元旦の今日はゴーストタウンだ。

F原さんは、僕がこの夏、独身生活を送っていると知り、「焼肉をするから、泊まりがけで来てください」と、親切に誘ってくれたのだ。

僕がお邪魔すると、すでに焼肉の準備ができている。ビールを飲み、つまみを食べてから、オーストラリア産「和牛」を炭火でじゅうじゅう焼いて食べる。うまくないわけがない。飲み物は、日本の焼酎になる。僕がで釣ったシマアジの一夜干しも 焼いて食べた。釣れたてなので美味い。

食後は、一日遅れだが、インターネットで紅白歌合戦を観る。日本にいた時も紅白は滅多にみなかったし、本当に久しぶりだ。僕が最後に見た紅白は、鈴木健二アナが司会をしていた回で、最後に時間切れなのに、鈴木アナが、「私にもう1分ください」と叫んで有名になった時だ。あの時ですら、出演している歌手のほとんどを知らなか ったが、2016年紅白の出演者は、さらに知らない人ばかりで、宇宙人を見ている気がした。しかし、まあ、酒をだらだら飲みながら、こういうものを見るのも悪くない 。

一月二日。だらだらとF原さん宅に居座る 。朝は、奥さんが美味しいお雑煮を作ってくれた。「何もないんですが、おせちを少しだけ」と、すごくちゃんとしたおせちもご馳走になる。それで、ベラベラ喋っていたら、もうお昼だ。

「そろそろお暇します」と言うと、ご主人が「いやあ、ラーメンを食べて言ってくださいよ」と言うので、「じゃあ、ラーメンを食べたら帰ります」とお言葉に甘える。

ご馳走になったラーメンは、インスタントだったが、この頃の日本のインスタントラーメンは、飛躍的に美味しくなった。F原さん曰く、「この頃インスタントが非常に美味しいので、わざわざ外にラーメンを食べに行く必要が無くなりました」。僕は「ラーメンを外に食べに行く必要」と言うのを経験したことがないが、F原さんの言わんとすることはよく理解できる。メルボルンにも、この頃ラーメン屋や居酒屋がたくさんあるが、たかだかラーメンに日本の何倍ものお金を払うのは馬鹿馬鹿しい。


その後の独身生活のダイジェスト。

この後も、僕の独身生活は一月二十日に家族が帰国するまで続いた。その間に、家の屋根の周りと、窓枠のペンキ塗りを終えた。午前の涼しい時間帯は、ペンキ塗りや庭仕事、午後は昼寝か釣り、夕方も釣りに行くか、一杯やって映画をみて寝てしまうと言う生活を規則正しく続けた。自分一人でも規則正しい生活が送れることで、今後の人生を乗り切って行く自信が湧いてきた。

仕事は一切しなかったし、パソコンの前に座るのも、フェイスブックとメールをチェックして天気予報を読む以外はほとんどしなかった。だから夏休みが終わった時点で仕事に戻れるか、若干の不安がある。

釣りは、お正月にまたM城さんとポートシーに行ってみたが、海水浴の人が多くて、やっぱり何も釣れなかった。あとの時は、前述したコリ**に一番多く通った。ここへは我が家からは1時間ちょっと、距離にして70キロほどである。高速をビューンと飛ばして行けばいいので楽である。ここへは、朝、昼、晩と通い、干潮時も満潮時にも行って釣ってみたが、干潮から満潮に向かう時、それも午前中が一番釣れることが分かった。何度も通ったので顔見知りになった釣り人もあって、「九月に来てみろよ、40センチのシマアジが、ばーんと釣れるぞ」と教えてくれた。今後の釣行に期待が膨らむ。


1月19日。独身生活最後の日。

いよいよ、これで僕の夏休みも終わりだ。たった一人で暮らしていると、1日中誰とも口をきかない日もあったが、わりに頻繁に友達にも会っていたので、それほど孤独ではなかった。しかし、そろそろ一人で食事をするのも飽きてきたし、家族に会っていろいろな話をしたい欲求が頭をもたげてきた。おかげで、自分が正常な人間であることが分かって安心した。

最後の日、残っていた窓枠のペンキ塗りをし、釣り具を整理した。そう言えば、せっかくの夏なのに、シーカヤックには全然行かなかった。海に行くにしても、魚を釣りたい 欲求の方が俄然大きかったからだ。以前は逆で、釣りに行っても、シーカヤックに乗りたい欲求の方が大きいことが多かったが、僕の趣味の優先順位は時によってかなり変わる。

作りかけのボート製作にも、もっと時間を割くつもりであったが、ペンキ塗りにかける時間が多かったので、思ったほど作業をしなかった。それでも、ボートの裏底のサンディングはほぼ終えたので、あとは塗装をするだけになった。これで、いよいよ内部の製作に取り掛かれる。ボートは今年ゆっくり仕上げるつもりである。何も急ぐことはない。

数えてたら、十二月二十日から一月二十日の間、釣りは10回以上行ったので、三日に一回は行っていたことになる。要するに、釣りばかりしていたアホな夏休みだった。でも、子供に帰ったように楽しく、時には一人で、時には友達と一緒に、心から笑って過ごすことができた。

人は、ある程度思い切って、アホになったと思うくらい遊んでしまうのが精神的に良いことがわかった。だから今年は、仕事は最短時間で切り上げ、残った時間は思い切り遊ぶ方針で行くことに決定した。

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持って帰るには1センチ足りなくて、命拾いした29センチのコチ



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2016年10月22日

メルボルン、シドニー往復2000キロのドライブ 

2016年10月20日

春休み、メルボルンの自宅からシドニーの北側ナラビーンという町まで、片道930キロのドライブ旅行に行ってきた。これまで一日で走った最長距離は、南オーストラリアのモーガンからメルボルンまでの830キロなので、今回が自己最長記録となった。

シドニーへ行った訳は、息子の鈴吾郎(りんごろう、13歳)がサッカーのビクトリア州代表チームに入ったので、その観戦だ。こう書くとまるで「甲子園」に出たみたいだが、それほどではなくて、あくまで彼が所属している「教会リーグ」という地域リーグの中でのことで、オーストラリア中学生サッカーの最高峰ということではない。トーナメントは、全部で5日間の総当たり戦。ひとチーム毎日2、3試合を行う。今回出場は、南オーストラリア、ニューサウスウェールズ、クイーンズランド、そしてニュージーランドの各代表だ。

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でも、一応州代表だから鈴吾郎の鼻息は荒い。そして、その鈴吾郎のサッカーを支えてきた母親チャコの鼻息も同じくらい荒くなった。だから、ちょっと遠いけどシドニーまで行ってみますか、ということになった。

通常シドニーへ行くには一時間半の飛行機なのだが、今回は現地で宿とトーナメント会場の間の移動もあるし、できればシドニー観光もという魂胆もあったので車になった。飛行機の方が往復2000キロのガソリン代よりも安かったかもしれないが。

メルボルンからシドニーへの往路は、メルボルンを出たのが午後だったので、280キロ先のワンガラッタという町で一泊することになった。だから、一気に950キロ走るのは、シドニーからの帰路ということに。鈴吾郎たちサッカー選手陣は、バスでの移動なので、行きも帰りも別行動だった。


ワンガラッタまで280キロ

午後2時にメルボルンの東側のベルグレーブにある我が家を出発した。シティを抜けて、一回だけ休憩に止まり、ワンガラッタまで三時間弱のドライブだった。これくらいのドライブは楽勝だ。天気は小雨だが、メルボルン空港の横を抜けて北に向かうヒュームハイウエーはシドニーとメルボルンを結ぶ大動脈だから、4車線で速度制限は110キロ。110キロを超えないようにクルーズコントロールを110キロに合わせる。自分でアクセルを踏んでいると、登り道ではスピードが落ち、下り坂ではスピードが出すぎるが、クルーズコントロールだと、ぴったりと110キロを維持できる。オーストラリアで長距離を走るときはこれが便利だ。うちのスバルは燃費があまり良くないが、高速に出ると流石に良くなり、リッター15キロ以上走るので、得をしたような気がする。4車線だと、遅い車は追い抜けば良いし、速い車には好きなように抜いてもらえるから気が楽。多くのオーストラリアの田舎では、一級の国道でも2車線の対面通行が多いから、100キロで走って、抜きつ抜かれつするのはかなり気疲れする。それに比べると、ヒュームハイウェーは天国のよう(だから、退屈でヒュームは嫌だという人も多い。でも道路はレース場じゃないんだからね!)。

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ヒュームハイウェーの青い空


夕闇が落ちる頃、ワンガラッタに着いた。人口2万人の町だが、2万というのはオーストラリアの田舎では大きな方に入る。そういう町は周囲数百キロのいろいろな要所も兼ねるから、学校、政府事務所、銀行、商店、自動車屋、空港、病院、スポーツ施設、賭博場などがある。ワンガラッタもそうで、人口の割には店がたくさんあって賑やか。ただし、日没までのこと。日が暮れると、ガラッと人気がなくなる。オーストラリア人は日が暮れるとみんな家に帰ってしまい、店も田舎ではきっかり5時に閉めてしまうところも多い。ワンガラッタもその通り。

「しばらく仕事をする」と言う女房をモーテルに残し(パソコンとWIFIがあれば、どこでも仕事ができる人)、ワンガラッタ見物の散歩に出た。6時過ぎにはもうゴーストタウンで、長さ1キロほどの目抜き通りを歩いている人は数える程。開いている店はピザ屋と中華屋、そして最近増え始めたマッサージ屋くらい。

そんな目抜き通りを歩いて、町の反対側を流れるマレー川の支流であるキングリバーまで歩く。この冬ビクトリアは雨が多く、マレー川はあちこちで氾濫して洪水を起こしている。キングリバーも満々と水をたたえていて、すぐにあふれそう(しばらくして、ワンガラッタも洪水になった)。

偶然だが、今夜は僕ら夫婦の結婚記念日だ。だから、このキングリバーを見下ろすようにして建っている(はずの)フランス料理のレストランを予約しようと言うのが、僕の散歩の魂胆だった。だが、どう言うわけか目当てのレストランがない。同じ住所には、やや雰囲気の違うカフェがあって、そこには普段は農場で働いているような日焼けした若者がぎっしり集っている。みんな刺青をしていて、農機具会社のマークがついたベースボールキャップをかぶっている。そのお相手は、化粧の濃い、金髪やブルネットの女性たち。店内には大きなテレビスクリーンがあって、オーストラリアンフットボールの試合を写し出している。どう見てもフランス料理店ではない。目当てのレストランは潰れたらしい。

ああ残念!結婚記念日に、ワンガラッタでピザか中華か!情けないなあ、俺たち夫婦!と、さえない気持ちでモーテルに戻るが、途中にちょっと洒落たイタリア料理があった。ビクトリア朝風の古い建物、店内にはかっこいいバーもある。ここなら良いかもしれない。

というわけで、仕事を終えた女房を連れて、このイタリア料理におもむく。結果を言えば、味の方は大味、量も多め。ワンガラッタだから仕方がないかも。僕はサーモンのステーキ、女房は、ほうれん草のリゾット。ワインは、この間のニュージーランド旅行以来はまっているピノ・ノワールの赤。

食べながら辺りの人を観察。横に座っていた「農場風」夫婦は、それぞれが500グラムのステーキをペロリと平らげた。500グラムのステーキというのは、半端な大きさではない。厚みは3センチ、直径は大きなお好み焼きほど。日本人なら四人前だろう。その横では、三世代の家族が集まってピザの大判振る舞い。誰かの誕生日らしい。そのさらに横では、すごく太った彼女と、すごく痩せた彼氏というカップルがデート中。

一応イタリア料理店でありながら、雰囲気は西部劇に出てくる居酒屋のようだ。現代のオーストラリアであることと、ここが田舎であることを匂わせるのは、客が白人ばかりで、それも肥満の人が多いこと。服装も地味目、というか野暮ったい。肥満はオーストラリアの社会問題であり、医療や税制、教育にまたがる問題だが、ここらの人が食べているものを見ると、体重を減らそうという積極的な努力はほとんど見られない。だが、そう言うことが例え事実だったとしても、ここにいる人たち一人一人に対して僕が批判的になることは間違っている。この人たちの体重が僕よりいくらか重くても、この人たちが田舎に住んでいていくらか野暮だったとしても、僕がこの人たちの人間性やライフスタイルなりを批判できることにはならない。僕だって、僕の生き様や食べているものを他人からとやかく言われたり、偏見の目で見られるのは迷惑なのだから。


シドニーまであと600キロ

翌朝8時、ワンガラッタを出発。シドニーまでまだ600キロ以上ある。女房の朝飯はヨーグルトにフルーツ。僕はフルーツと紅茶だけ。昨晩の大きなサーモンのステーキがまだお腹に残っている。あのサケだって、軽く250グラムはあっただろう。

ヒュームハイウェーを行くが行くが行くと、ビクトリアとニューサウスウェールズ州境のウォドンガ・オルベリーという町だ。ここにはマレー川の主流が流れる。雨ばかりだから、ものすごい水の量。さらに行くとGundagaiという町。「ここって、確か何かで有名だったな?」と記憶するが、何だったか思い出せない。それでも行くと、Dog on the tucker box(弁当箱に座った犬)と書かれた標識がある。これで思い出した。オーストラリア版忠犬ハチ公の物語だ。昔、ここに牛飼いたちだけが暮らしていた頃、主人の弁当箱に座って主人の帰りを待ち、その中に排便したという犬の物語だ。主人の弁当箱に排便する犬のどこが忠犬なのか分からないが、この犬のことを歌った民謡さえある。Gundagaiではこの犬のフェスティバルが毎年あるというし、道路にも大きな看板はあるし、博物館もあるし、さぞや立派な犬グソだったに違いない。

タラカッタという、カルカッタみたいな名前の村がシドニーとメルボルンのちょうど真ん中にあった。ここでスバルを給油しようと高速を降りると、すぐに110キロから50キロに減速の標識だ。減速しきらないで70キロくらいで走っていると、忍者のように隠れていたパトカーが出現した。「ちゃんと減速しなさいよ」と、きついお叱り。でも、切符は切られませんでした。やれやれ。以後は絶対に捕まらないように気をつけることを肝に銘ずる。

まだシドニーまで500キロある。やれやれ。ヒュームハイウェーはくねくねと、緑の丘と牧場、森や林をぬって続く。昨夜は27年目の結婚記念日だったし、今日は僕の母の命日でもある。僕たち夫婦の会話も、そうした様々な過去を振り返ったり戻ったりするが、やがて話すことも途切れてくる。そう思ったら、チャコは助手席でぐうすか寝ている。昼飯の後だから気落ち良さそうに舟を漕いでいる。俺も寝たいよ、全く。

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シドニーには、どうにか午後3時にやっと到着。やっぱり疲れたが、シドニーの町は、はっとするくらい綺麗だ。シドニー湾を囲むように街が広がり、その真ん中にはシドニーハーバーブリッジがそびえ立ち、向かいにはオペラハウスがある。「いいねえ、金持ちになったら、このあたりに家を買いたいね」と、いつもと同じ冗談を言いつつ橋を渡る。そこから目的地ナラビーンまで小一時間、午後4時着。今日は600キロを8時間ほどで走ったことになる。

宿のエアB&Bは小高い丘の上にあった。リタイアしたイスラエル出身のカップルが経営している。母屋の地下に小綺麗なアパートメントがしつらえてあり、ここが私たちの宿だ。地下と言っても丘の斜面だから半地下で、窓から海が見えるという優雅な地下室。広い台所付きの居間に、洗面所、ベッドルームがあり、広々としている。ここが一泊70ドルとは格安だ。


サッカー三昧の日々

翌日からサッカーの試合見物。いくら教会リーグでも州代表だから、子供たちのテクニックもさすが。これくらい上手いと見ていても面白い。応援にも熱が入る。鈴吾郎のビクトリア州チームは昨年優勝したので、今年も優勝を狙っている。今年初参加の鈴吾郎は、補欠扱いで、試合に勝っている時だけは出してもらえる。末席でも、そんなチームに入れてもらって鈴吾郎は本当に嬉しそうだ。彼の取り柄は、走るのがやたらに早いこと。ボールが回ってくると、ミツバチのように猛烈にダッシュする。あの足の速さは誰に似たんだろう?

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俊足、鈴吾郎

ビクトリアからは、僕たち夫婦だけでなくて、他にも10家族ほどが応援に駆けつけている。チームメイトの家族の文化背景もいろいろで、うちは日本で、それ以外は、ギリシャ、マレーシア(それともインドネシアかな?)、アフガニスタン、アフリカのスーダンかどこか、オランダ、インドなどなど。オーストラリアにいると、相手の出身などはいちいち尋ねないのが礼儀だし、見ただけでは本当にどこの出身だかわからない。とにかく、みんなで一団となって応援する。

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観戦中のチャコ


キューピーマヨネーズは偉い!

正直言って、オーストラリアを旅行していてつまらないのは食事だ。どこに行っても同じようなものしかないからだ。ピザ、イタリア料理、サンドイッチ、フィシュアンドチップス、巻き寿司、中華、ハンバーガー、ミートパイ、サンドイッチなどの繰り返し。

もちろん、その中にも出来不出来もあるし、お金をたくさん出して、それなりの場所で食べれば目の玉が落ちるような素晴らしい料理もあるだろう。それに、肉や野菜や果物といった食材は豊かだ。でも、庶民的な食事のレベルだと、どこへ行ってもあまり変化がない。日本なら、電車で旅行しても車で旅しても、どこかの町へ着けば、その土地の名物が目白押しに並んでいるし、名産品もたくさんある。でもこちらでは名産品なんてないし、スーパーへ行っても、シドニーのウールワースもメルボルンのウールワースも、全く同じような造りで、全く同じ商品が全く同じ値段で売られている。メルボルンでもシドニーでも、チキンの丸焼きは一羽7ドル99セント、デリカテッセンの横の保温ケースの中に並んでいる。(どこのスーパーでも、商品を探す手間が省けるけど。)

だからシドニーへ行っても、(途中のワンガラッタで肩透かしを食らったせいもあるが)食事に関しては期待はしないことにした。そもそもサッカー観戦が目的だから、レストランを探している時間もない。朝は宿でささっと食べ、昼はサッカー場で食べられるようにサンドイッチかお握りを作って持っていく。夕方も遅くまで試合があったりするから、ゆっくり外食というわけにもいかない。シドニーのダウンタウンだったら遅くまでやっているレストランもあるが、ナラビーンのような郊外では、あまり遅くまでやっている店はない。ピザ屋くらいはあるが、僕たちはあまりピザが好きではない。だから、夜も遅くなってから宿に帰り、ご飯をたいて、簡単なおかずで自炊だった。

今回の旅行でも、最初からそのことを予見していたから、もしかして宿にガス台がなかったら困ると思ってカセットコンロと鍋とフライパンを持ってきた。そしたら見事予想が当たって、ガス台がなくて、調理機器はトースターと電子レンジだけだった。オーストアリアでは、「キッチン付き」と書いてあっても、そんなことがある。そこで、カセットコンロでご飯を炊いたり、野菜炒めを作ったりして重宝した。オーナーのイスラエル人夫婦はカセットコンロを初めて見たらしく、「これは便利だ!私たちも買おう!」と言っていた。

調味料も、油、醤油、塩こしょう、ワサビくらいは、僕たちもいつも持って歩いている。ただ、どういうわけか、いつもマヨネーズを忘れる。そこで今回は、スーパーで久しぶりにキューピーマヨネーズを買った(いつもは、キューピーは高くて量が少ないから買わない。)

オーストラリアのスーパーでも、キューピーはどこでも手に入る。今回、久しぶりに買って驚いたのは、その蓋だった。日本でも多分そうだと思うが、キューピーの蓋は二重になっている。最初の赤いプラスチックの蓋を取ると、小さい穴が開いている。そこからマヨネーズを絞り出すと、当然だが、にょろにょろと細くマヨネーズが出てくる。もっとたくさん絞り出したければ、さらにもう一つの赤い蓋を外すと、今度は太い星型の穴が開いていて、そこから太めのマヨネーズが、ぶにゅーっと出てくる。こんなに手が込んでいるのは日本製品だけである。日本に住んでいる日本人は、こういうことを「当たり前田のクラッカー」だと思っているだろうが(古いねえ、僕も!)、一旦日本を出てしまうと、こういうことは非常に珍しいと気がつくであろう。オーストラリア製のどんなマヨネーズを買ったとしても、蓋が二段式になっていたり、太い方の穴が星型になっていたりすることはない。

そんな風に、日本製品の細やかさを再発見した僕とチャコは、エアB&Bでの貧しい自炊の夕食の際に、キューピーマヨネーズを奪い合い、太い穴からぶにゅーとトマトにかけたり、細い穴からにょろにょろとキュウリにかけたりして楽しんだ。それはそれで、思い出深い食事になった。ありがとう、キューピー!


さらばシドニー!

シドニーには5日滞在したが、試合の合間を縫って一回だけシドニー観光に出かけた。と言っても、ハーバーブリッジの下の現代美術館へ行っただけだが。でも、シドニーは綺麗な街だから、そレだけでも十分甲斐がある。港には大きなクルーズ船が停泊していて、たくさん乗客が乗り込んでいた。クルーズなんて優雅だが、乗り込む乗客はガラガラとスーツケースを引っ張って船まで歩いてくるので、波止場にたくさんいるホームレスの人たちと姿形が変わらない。その周りには、たくさん観光客がいる。中国、日本、ドイツ、アメリカ、インドなどなど。そんな人に混じりながら女房と二人、スタンドで買った寿司を立ち食いしながら海風に吹かれた。

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息子たちのビクトリア州代表チームは、順調に総当たり戦を勝ち進んでいた。うちの鈴吾郎も、コーナーキックをジャンピングキックで受けて、見事一点シュート。我が息子ながら、かっこ良かったなあ! 一番惨めだったのは、海を渡ってやって来たニュージーランドチーム。オーストラリアのどのチームより実力がひと回りもふた回りも下のようで、どことやってもぼろ負け。それでも、みんな明るく楽しそうにプレイしていたのは健気だった。打たれ強いニュージーランド人気質を尊敬してしまった。

幸運にも勝ち進んだ息子のチームは、決戦で強豪クイーンズランドと当たることになった。ところが僕ら夫婦は、時間の関係でその試合は見られそうもなかった。どうしてもその日の朝にメルボルンに向けて出発しなければならなかったからだ。後ろ髪を引かれる思いだったが、仕方ない。

決勝がある日の朝7時、シドニーを出た。エアB&Bのオーナー夫婦も見送りに出て来てくれた。「とても素晴らしい宿でした。お世話になりました」と僕らが言うと、奥さんが「あなたたちも、理想的なゲストでしたわよ」と言ってくれた。エアB&Bのシステムでは、お客は宿のレビューを書くのだが、宿も客のレビューを書くのだ。言ってみれば、客と宿が対等の関係だ。サービスが悪かったりして悪いレビューを書かれた宿はお客が来なくなるだろうが、部屋を汚し放題でチェックアウトしたりすれば客も悪いレビューを書かれる。そうなると、どこにも泊めてもらえなくなる。そこが、商業的なホテルやモーテルに泊まるのとは違うところ。面白いシステムだし、まるで友達の家に泊まっているような感覚がいい。

平日の朝7時、シドニーの道路は渋滞だ。だから、シドニーの中心を通り抜けず、西側を回る環状線を走ることに。シドニーの外側を大回りする環状線は、幸いそれほどには混んでなくて、1時間ほどでシドニーの南側に出れた。そこからは、来たのとは逆にヒュームハイウェーをひた走る。シドニーを出たところで、「メルボルン900キロ」と言う標識。さあ、とにかく走るぞ。

しょぼしょぼ降っていた雨も上がり、太陽が出てくる。と思うと、また雨雲がやってきて、ざあざあ降りになる。その繰り返しの天気。朝ごはんを食べてなかったので、サービスエリアで止まり、朝ごはんを食べる。ここの店はセブンイレブンだが、オーストラリアのセブンイレブンは、日本のセブンイレブンのように何でも売っていると言うわけではない。何でも売っているように見えるが、実は何もろくなものは売っていない。でも、ここのセブンイレブンはやや例外で、パックされた巻き寿司や、各種サンドイッチなども取り揃えて置いてあり、やや驚く。僕は、ここでチキンパイと一杯1ドルのコーヒーを買うが、味はまあまあだった。道理でたくさんトラックが止まっているはずだ。運ちゃんはみんなこの1ドルコーヒーを買っている。


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犬を連れ、全財産持ってヒッチハイクしてたおばさん

さて、また出発。どこまでも続くハイウェーを110キロで走っていると、時間の感覚が薄れてくる。さっきコーヒーを飲んでから2時間経ったような気もするし、10分しか経ってない気もする。時計を見ると12時近くだ。そこで、はたと息子のチームが決勝でクイーンズランド代表と戦っている時間だと気がついた。僕は助手席のチャコに、「プロのサッカーだったら、インターネットのストリーミングで見られるのにね」と冗談で言った。すると彼女はスマホを取り出していろいろ調べ始め、すぐに「あった、あった!」と叫び声をあげた。チャコのスマホを覗くと、驚いたことに息子のチームが戦っている様子が放送されている。「うわあ、すごい。こんなことってあるんだ!」と僕も叫んでしまった。そこで、車のスピードを上げて、次の休憩所まですっ飛ばす。5分も走ると、休憩所が見えてきたので、ここへ滑り込んで、二人で小さなスマホを覗き込んだ。おかげで後半戦をじっくり見ることができた。プロの試合ではないから解説も何もないが、教会リーグのウエブサイトからストリーミングで見られるようになっていたのだ。全く便利な時代になったもんだ。

息子たちのチームは快調にプレイし、2対0でクイーンズランドに勝ち、今年も優勝した。チャコは、早速鈴吾郎の携帯に「優勝おめでとう!」とテキストメッセージを送った。しばらくして、鈴吾郎からも、「やった!やった!」とメッセージが返ってきた。


潜水艦のある街、ホルブルック

午後2時ごろ、ニューサウスウェールズとビクトリアの州境に近いホルブルックと言う町で休憩、遅い昼飯を食べることに。何もなさそうな田舎町なので、カフェかパン屋でサンドイッチでもと思いながら細長い目抜き通りを走っていくと、いきなり公園の真ん中に大きな潜水艦があったので度肝を抜かれた。陸の孤島のようなこんなところに潜水艦というのも唐突であるが、僕はこういう乗り物が大好きなので、見学に寄る。

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潜水艦は100メートルくらいの長さで、上に登ることもできる。その横にカフェがあって、そこに入ると「潜水艦バーガー」、「潜水艦サンドイッチ」などがあった。僕は「スモークサーモンの潜水艦サンドイッチ」を注文した。いわゆるサブマリンサンドみたいな細長いサンドイッチかと予想していたら、丸いハンバーガーのようなサンドイッチだった。どこが潜水艦サンドかいな?と思ったが、食べてしまえば同じだから、ぱくぱく食べた。こういうパサつく食事をしていると、早く家に帰って、米飯を食べたくなる。

お昼を食べてしまうと眠くなる。助手席のチャコは、またこっくりこっくり。いやんなちゃうなあ、と思いつつ30分ほど走るが、本当に耐えきれないくらい眠くなってきたので、州境の辺りで運転を代わってもらう。往路にスピード違反で捕まった場所だ。

女房に運転を任せた途端、僕は小一時間ほど爆睡した。助手席で眠るなんて滅多にないが、気がついたら意識を失っていた。まるで麻酔をかけられたみたいだ。そして、次に目を覚ましたらもうビクトリア州に入っていた。朝から400キロ以上走ったことになる。でもまだ半分。
しばらくして、「また運転代わってもいい?」と女房が言うので、運転を代わる。少し寝ただけで、朝起きた時みたいにスッキリしている。これならメルボルンまで走れそうだ。

走行距離が400キロから500キロになり、500キロが550キロになる。ウォドンガ、ワンガラッタと見慣れた町を通り過ぎて、600キロ、650キロと伸びていく。だんだん外が暗くなってきた。春とは言え、まだまだ日は短い。メルボルンまでまだ250キロ以上ある。

750キロ走り、シーモアの町でまた一休み。今日2杯目のコーヒーを買う。大きなカップのブラックを頼む。いつも早寝の僕は、夕方にこんなにたくさんコーヒーは飲まないのだが、今日は特別、とにかく家まで帰りつかなくてはならない。このブラックコーヒーは、熱くてなかなか飲めない。シーモアからはメルボルンは直線の長い下りが続く。

午後7時、遠くにメルボルンのビル街の明かりが燦然と光る孤島のように見えてきた。間違いなくメルボルンだ。「着いた!」と思わず声に出る。家まであと100キロ、1時間ちょっと。交通量も多くなった。空を見上げると、メルボルン空港に着陸する飛行機の着陸灯が点滅している。帰省本能が働くせいだろうか、心なしから車のスピードも早めになる。危ない、危ない。

やがて空港の横を通る。ここから交通量がぐんと増える。ここからは通い慣れた道だが、シティの中の車線変更の多い箇所を通る時はドキドキする。注意力もかなり落ちている。

距離メーターは900キロを超え、シティも抜けた。やがて高速を降り、うちまで20分。道が暗くなる。さすがに疲れてきて、自分が運転しているのではなくて、自分の中のもう一人の「誰か」が運転しているような気がする。幽体離脱みたいだ。何かが目前に飛び出してきても、きっと止まれないだろう。ゆっくり行こう。

夜8時半、やっと我が家に着いた。エンジンを切ると、しんとした静寂が訪れ、風にそよぐ木の葉の音がする。

鍵を開けて家に入る。潜水艦サンドイッチを食べてからあまり何も食べてないが、空腹感はない。鍵を持つ手が、かすかに震えている。緊張がまだ解けていないからか。頭もボーとして、耳鳴りがする。

車から荷物を下ろす。運転席と助手席の周りは、空のコーヒーカップや、ちり紙やら、ガムの包み紙やら、サングラスやら、携帯電話やら、物がたくさん散らばっている。自分はこのガラクタの中に12時間も座って運転してきたのか。

シドニーとメルボルンの間に時差はないが、なんとなく「場所ボケ」の感覚がある。メルボルンはシドニーより気温が2、3度低いが、体感温度ではもっと寒い感じで、自分の皮膚をシドニーに置いてきたような感じ。これだけ長距離を一気に走ると、そういう違和感がしばらく拭えないのかも。

手の震えは、すぐに収まったが、体の違和感は、布団に入って目をつぶった後も無くならなかった。体がまだ車に揺られているみたいに、ゆらゆらする。疲れているのに、なかなか眠れなかった。鈴吾郎も、今頃はチームのみんなと夜行バスに揺られているのだろう。彼は明日の朝、うちに帰ってくる。一体どんな顔をして帰ってくるのだろう? 彼に会うのが楽しみだ。
posted by てったくん at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年09月20日

オークランド、調布、そして宇都宮まで

2016年9月20日

オークランドの唐揚げ弁当

7月にインドでカレーやピザを食べ、クアラルンプールで北海道ラーメンを堪能した私は、8月の半ばには、ニュージーランド、オークランド中心街のフードコートで、トリ唐揚げ弁当などを食べているのだった。

ここではIBBY国際児童図書評議会という、絵本の世界会議に出席した。唐揚げ弁当を食べたのは、ある日の昼、急いでホテルに戻って自分の発表するポスターの仕上げをする必要があり、昼飯を食い損ねそうになって急いで近くのスタンドで買い求めたのだった。

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世界的な学会に登場、壁新聞同様の私のポスター

でも、これがなかなか当たりで、ご飯も暖かくておいしく(ごま塩がかかっていた)、唐揚げも揚げたて、その上ちゃんとみそ汁付き。今どきの日本の弁当屋よりも気が利いているかもしれない。難を言えば、唐揚げの下に敷いてあったレタスの量が恐ろしく多く、マヨネーズもなくて、食べるに往生したことだ。

ニュージーランドで、他に美味しかったのはビールだった。 IBBY大会に出席していた日本人で、元国会図書館に勤めていたM山さんというおじさんは、「てっちゃんさあ、ニュージーランドのビールって美味しいの?」と聞いたが、僕もよく分からなかったので、「美味しいのは、美味しいでしょうけど、まずいのはまずいですよ」と答えた。答えてから、これは答えになってないと自分で呆れた。滞在中は、毎晩のこのM山さんや他の人たちと飲み歩いたが、ニュージーのビールは種類も多くて、どれも美味しかった。

そう言えば、前に書くのを忘れたが、この間インドで飲んだ「ヘイワーズ5000」というビールは、僕がこれまでの人生で飲んだビールの中で、一番まずかったかもしれない。一緒にこれを飲んだオーストラリア人のディランも、「インド政府のビールっていう味だな」と形容していた。しかし、もうひとつの「キングフィッシャー」という銘柄は美味しかったから、インドのビールが全部まずいということを言っている訳ではない。


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インドのビール、ヘイワーズ5000

オークランドでひとつ度肝を抜かれたのは、オークランド・タワーのバンジージャンプだ。僕が、地上300メートルの展望台からのんびり景色を眺めてると、窓のすぐ外を、「ギェー!」と叫びながら人が落ちていく。飛び降り自殺かと思って、「ヒェー!」と驚愕して下をのぞくと、ムササビのような格好で、さっきの人が下へ落ちていく。そして地上50メートルのところで、ビヨーンと強力なゴムの力で止まったのだ。外には、細いワイヤーが三本張ってあり、ここ伝って落ちていくらしい。自殺でなくて良かったが、まったく恐ろしいことをやる人もあるものだ。一時間くらいのうちに、もう2、3人が落ちていったが、こんなことをして何が楽しいのだろう?(しかも一回飛び降りて250ドルだそうだ!)

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オークランドタワーからの風景

オークランド最後の晩は、上記絵本国際会議に出た日本人のみなさん十名程と、波止場の高級なシーフードレストランでディナーを食べた(自分一人なら絶対入らないような店だ!)国際会議に出るくらいの人たちだから、みんなそこそこ英語ができるのだが、それでもメニューを見て料理を決めて、それから飲み物を注文するのにかなり時間がかかる。魚の種類はいろいろあるし、ワインも赤白、スパークリングと何十種類もある。それに、「あら、あたくし、前菜に生ガキをいただくわ!」なんてことになると、生ガキは10種類くらいあるし、「あら、やっぱり、わたくし、生ガキはあたるといけないから、火を通したのにしましょう!」と気が変わったりすると、料理法も5種類はあるから、カキ料理だけで50通りの選択枝になる。そんなで、全員が料理を注文するだけで50分くらいかかった。(ウエイトレスの女性が、途中で叫び出すんじゃないかと心配になったけど、プロだけあって忍耐強かった)。

食事の方は、高級なレストランだけあってすばらしく美味しくて、みんな大満足だったが、問題は支払いだった。生ガキを1個しか食べなかった人、カキフライを8個食べた人、メイン料理を半物ずつとなりの人とシェアした人、メインはちゃんと一皿食べた人、追加でポテトフライを頼んだ人、ワインをたくさん飲んだ人、水しか飲まなかった人とかいろいろあり、その違いがあまりに細かすぎて、店の方は、個別払いは止めてください、支払いはまとめてお願いしますと言う(当然だ!)。 そこで往生していたら、泣く子も黙るマツイさんという出版社の女社長が、「みんな割り勘です。ただし、たくさん飲み食いした人は、多く払って下さい。以上、終わり!」と支払いをまとめてしまった。割り勘は、かなり不平等だったが、そこで文句を言う人もなく、どうにか支払いを終えて店を出たのだった。絵本の国際会議に出る人たちは、人徳者ばかりなのかもしれない。


調布のジャズカフェに染みついた夜

オークランドからは東京の調布に飛んだ。もちろん成田経由だが、オークランドを朝出ると、夜9時には、友人M城さんのお宅、調布コープに僕は居た。M城さんは、中国出張で留守。飛行機の旅でくたびれたので、その夜はマンション横のコンビニで、冷やし中華、唐揚げ、枝豆、ポテトサラダなどを買ってきて食す。ビールはサッポロ・クラシック。日本は何て便利なんだろう!

今回の帰国は、出版社での 打ち合わせ、雑誌のインタビュー、二年前に亡くなった弟の三回忌、それから最後に宇都宮で、オーストラリアの絵本についての講演(四時間も!)の予定だった。滞在は10日間だから、時間的な余裕はある。しかし、最後の宇都宮講演の原稿をまだ書き終わってなかったので、空いている時間は調布コープにこもって原稿書き。だから、友達と会って酒を飲むなんて用事は全然入れられなかった。

だが、夕方になると、さすがにマンションにこもっているのも嫌で、一人でもいいから外食しようと出歩く。(永井荷風の気分!)調布も賑やかで、駅前には店がたくさんあるものの、一人で入るに適した静かな店は少ない。チェーンの海鮮料理店があったので入ってみたが、メニューの種類が多いだけで、肝心の刺身は味が薄く、何の魚を食っているのか分からない始末で、がっかり。

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調布には「調布ビール」がある。これは旨かった。

別の晩は、能登だか北陸だかの暖簾を掲げた静かめの店に入ったが、ここも期待はずれ。刺身は西友の「お刺身三点盛り¥780」の方がまだ上。焼き魚は解凍ものだから、身がぐずぐず。頭にきたので、それ以上料理の追加もせずに店を出る。気分は不完全燃焼。

帰り道、マンションの近くに「ジャズのお店 XXX」という看板が光っていた。「そうだ、こういう渋いお店で、壁の染みなど眺めつつジャズを聴きながら、 焼うどんを肴に飲むのも悪くない」と思い、狭いドアを開けて中に入る。

これが、さらなる失敗!どうも調布の夜には恵まれていないらしい。店の雰囲気は1980年代の居酒屋バーという雰囲気で悪くない。(よく大学のコンパの二次会でこういう店に行った)。しかし、肝心の音楽はジャズではなくて、クラプトンであった。でも許そう、クラプトンは好きだから。

マスターは70歳くらいの、赤バンダナを頭に巻いた、優しそうな親父さん。でも「いらっしゃい」の声に元気がなく、やる気なさそう。焼酎のロックを注文し、メニューに目を走らす。目当ての焼うどんがない! 仕方なく、シシャモを注文 。

焼酎ロックといっしょに、突き出しの小鉢が出る。これが驚きであった。緑の野菜(ほうれん草?)と、茶色の肉みたいなものが煮込んである。この茶色のものは、ふにゃふにゃで肉の食感もない。トーフでもないしコンニャクでも魚でもソーセージでもない。ダシもきいてなく、塩気もなくて味がしない。不気味すぎて思わず箸を置き、口に入れた分は焼酎で飲み下す。

ところが、この焼酎ロックも大問題。量がめっぽう少ない。小さなコップで、二口で空になってしまう。まったく絶望的だ。その時点で、僕はシシャモを注文したことを心から後悔する。案の上、マスターは冷凍のシシャモ(安くて細い奴)を冷凍庫から出してチンしている。解凍したシシャモからは、冷凍水が垂れている。食欲、一挙にゼロ。しかし、頼んだ以上、シシャモが焼き終わる前に店は出られない。仕方ないから、マスターと会話をすることに。

「マイルス・デイビスの写真がありますねぇ…」と僕。
「ああ、コルトレーンもあるよ。みんな死んじゃったけどね。(ため息…)」
「この間、飛行機の中でマイルス・デイビスの映画をみたんだけど、良かったですよ」と僕。
 マスター、無言。
「…(話題を変えて)このエリック・クラプトンのライブビデオは、カーネギーホールですかね?」
「さあ、分からねえな。クラプトンは、よく日本にきて金稼ぎをして帰るけど、気に食わねえ。息子が死んじゃったのは可哀想だけど」とマスター。気に食わねえなら、ビデオかけるな!

やがてシシャモが焼ける。中まで焼けてなくて半生でまずい。飲み下すにも、もう焼酎もない。
「焼酎、おかわり」。ああ、また量が少ない!

カウンターの向こうでは、女子高生みたいなギャルが二人で、ボーイフレンドの悪口で盛り上がっている。
「すみません、マーボードーフお願いします」と、彼女たちが注文。
酒飲みながらマーボードーフとは、どういう発想だ?
案の定、マーボドーフもまずそうで、酔ってなければ食べられないだろう。(酔ってても食べたくない!)

二杯目の焼酎で生焼けシシャモを流し込み、店を出た。渋いジャズを聞くどころではない。もう二度と来るもんか!

その後数日間、東京滞在中に食べたものを列挙する。

牛タンとろろご飯(青山ネギシ)、にぎり寿司弁当(都内出版社にて)、いずも蕎麦(調布そば屋)、トンカツ定食( 武蔵境ロイヤルホスト)、オムレツカレー(南武線稲田堤駅の近く)、天ぷらうどん定食(巣鴨)、吉野屋牛丼並盛り(調布)、トンカツと海老フライ定食(調布パルコ)、お刺身特盛り四点セット(調布西友、七時以降20%引き)、エビシュウマイ(左に同じ、20%引き)、ハムとレタスのジューシーサンド(セブンイレブン)。

上記の食事については、語るべきことはあまりない。美味しいものもあったにはあったが、どうも食べた気がしない。どうして南武線に乗ったかなんて、めんどうなので説明しない。とにかく今回の東京滞在は、食事に関する限り、冴えなかった。これだけ食材の豊富な多い日本にいたのに、どうしてこんなに味気ないのだろう? 私が悪いのか?


湘南新宿ライナーで「スナフキン」に会い、餃子の宇都宮へ

数日後、いよいよ日本滞在の最後の二日間、栃木県宇都宮市へと向かった。栃木子どもの本連絡会主宰による「オーストラリアの子どもの本」の講演会に講師として呼んでいただいたのだ。この二ヶ月、精魂こめて原稿を書き、最後の一週間は調布コープにこもって仕上げた。よくやった、よくやった。

だから、せめて宇都宮では旨いものを食おう、この週末こそ自分に優しくしよう、そういう心意気で湘南新宿ライナー宇都宮行きに乗った。期待は、大きく膨らむ。

浦和、大宮と車内は混んでいる。と見ると、隣に70代後半くらいのおじいさんが立っている。段ボールやビニール袋に入った着替えと思しき荷物をたくさん持っている。服装は一応きれいだが、風来坊みたいだ。よれよれで、汗が染み付いたつば広帽子が、さらに雰囲気を醸し出している。やがて、おじいさんはビニール袋に入ったコーンフレークを取出してぼりぼり食べ始めた。車中でコーンフレークを手づかみで食べる人も珍しい。

かなりの達人だな!と思いながら老人を眺めていたら、目が合ってしまった。オーストラリアに長くいるせいで、 僕は人と目が合うと、ついニコッと笑ってしまう(オーストラリアではそれが礼儀。)すると、驚いたことにこの老人もニコリと笑い、「いかがな?」とコーンフレークの袋を差し出した。(この人、絶対オーストラリア人!) 僕は後ずさりしそうになったが、「いえ…結構です。どうもありがとう」と、かろうじて答えた。老人は、「旅をして歩いておいでかな?」と、僕の大きなダッフルバッグをみて言った。「いえ、仕事でちょっと宇都宮まで」と僕は答えた。「私は福岡に行って帰ってきたので、足が棒になりましたよ」と老人は言って笑った。

小山でやっと席が空き、老人は「さあ、坐りましょう」と僕を促して坐った。僕は老人の隣に腰を下ろし、夕暮れ近い、広い空を見上げた。やがて老人は、こっくりこっくりと居眠りを始める。風来坊みたいな風体といい、静かで丁寧な話し方といい、 この人は栃木のスナフキンだな、きっと。

宇都宮の街は夕焼けに染まっていた。市内を流れる田川の清流は、きらきら光っていた。(リヨンを流れるローヌ川に比較しようと思ったが、それ程ではなかった。)つかの間の旅情が僕の胸を満たした。

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言うまでもない、宇都宮は餃子の町だ。餃子の店が30軒もあるそうだ。駅前には、餃子の像まであった。それは、餃子の皮をまとった乙女だった。どうして、乙女が餃子の皮をまとっているのか、それは現時点ではまだ謎である。

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餃子の乙女像@宇都宮駅

さあ、餃子の店30軒とどう取り組むか? たった一人では手強い状況である。(餃子好きの息子リンゴロウを連れて来れば良かったが、彼はメルボルンでよだれを流しながら僕の帰りを待っている。)だが、僕はすでに栃木子どもの本連絡会のイガラシさんという女性から、「駅ビル三階のミンミンがおいしいですよ」という貴重な情報を得ている。だから、宇都宮チサン・ホテルに旅装を解くや否や、ミンミンの偵察に出た。

夕食時のミンミンは、列ができるくらい混んでいた。混んでいる店は好きではないので、待つ間、他の餃子屋をのぞきに行った。ホテルの横にあったかなりけばけばしい餃子屋で立ち止まる。メニューを見ると「餃子12種類、サンプル定食」というのが目に入った。

魔が差した。腹が空いていたので、うっかりこの店に入り、12種類の餃子を注文してしまった。壁を見ると、「たかが餃子、されど餃子」の張り紙。これは、「餃子をあなどるな」ということを言っているのか?

待つこと8分、12個の餃子がくる。シソ入り、チーズ入り、ニンニク入り、生姜入りなどいろいろだが、餃子にひとつひとつ名前が書いてある訳ではないから、すぐ何を食べているのか分からなくなる。最後は、みんなお腹の中で混ざってしまった。これは餃子をあなどった罰に違いない。

ゲップをしてこの店を出る。正直言って後悔した。奇をてらった餃子など、うまくない。チーズ入り餃子なんて食べるんじゃなかった! むしろ、きっぱりと、いちばん美味しい正統的な餃子を一種類だけ食べるべきであった。もう迷わないぞと決心し、すたすたミンミンへむかう。

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やっぱりミンミンは偉かった。餃子の中身はきっぱり一種類だけ。僕は、「小さめ六個」定食を頼んだ。ああ悲しいかな、12個食べた後では、もはやお腹はすいていなかったせいだ。回り道せずに、ミンミンに最初から来れば良かった。その晩は、餃子臭いゲップをしつつ、宇都宮チサンホテルで安眠した。

翌朝、ホテルの朝食ビュッフェは、ご飯とみそ汁と納豆がうまかった。栃木とか茨城のホテルで、納豆がまずかったら暴動が起きるだろう。このホテルの納豆は黒豆の大粒で、しっかりとした歯ごたえがあり、大満足である。

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納豆ライスで腹を作ったので、栃木県教育会館へタクシーで乗り込む。天気も晴れ渡り、講演会は満員御礼だ。午前中二時間、話は滑らかに進んだ。お昼は、教育会館の食堂でカレーライスを主催者のみなさん達と食べる。このカレー、教育会館だけであって、昔懐かしいハウスバーモントカレー風の甘くてねっとりしたカレーだった。ご飯もおいしい。あまり美味しくて、インドの人たちにも食べさせてあげたいと思った。

午後も二時間、快調に話をする。準備良ければ憂いなし、話は横道にそれつつも時間内にきっかり終えた。講演会成功の秘訣のひとつは、時間通りに終わらせることである。用意した本もほぼ完売、講演会の後でサイン会。こんな僕でも本にサインを求められるなんて、大感激。でも、調子に乗ってお喋りしながらサインしていたら「わたなべてつた、わたなべてつた」と一冊に二度も書いてしまった。だから「ごめんなさい、ごめんなさい」と二度謝った。そうしたら「いいんですよ、いいんですよ」と、二回慰めてくれた。宇都宮の女性は優しいなあ。

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宇都宮の女性たちが聞き惚れた渡辺鉄太の講演

夜9時、調布に帰還。さすがにぐったり放心状態で、酒も飲まずに寝てしまう。翌日は日本滞在最後の日。もはやすることもないし、調布にいても仕方ないから、吉祥寺をぶらぶら。無印良品で女房に頼まれた台所用品を買い、モンベルで、息子のために羽毛の寝袋を買う。北口商店街を歩き、古本屋を2、3軒冷やかすが、気がつくと手提げ袋一杯の本やらCDやらを買っている。いつの間にか「物欲」と言う悪魔に魂を乗っとられている。

そこで、そそくさと調布に帰還、スーツケースに荷物を詰める。講演会で使った絵本もあるので、そうとう重い。計ってみると33キロ。一応30キロまでは料金を払ってあるが、ジェットスター航空は三キロ超過を見逃してくれるかどうか?(見逃してくれた。サンキュー!)

夜、上海出張から、調布コープの主であるM城さんが帰る。最後の晩だし、M城さんと会うのも久し振りなので、西友で、食べたいものを好きなだけいろいろ買ってきた(しめて1910円!)。飲みながら、食べながら、つもる話をする。「自分の墓をどこに買うか?散骨のメリット、デメリット」という話題で盛り上がる。

こういう時の食事は、西友のお惣菜でもおいしい。そうか、やっぱり友達や家族といっしょに食べる食事が一番おいしいんだな、と当たり前のことに気がついた。

永井荷風は、いつも一人で食事をしていて、孤独ではなかったんだろうか?


晴れ渡った日本の空。この空を羽ばたいて渡辺鉄太はメルボルンへ戻った。
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2016年09月13日

インド、マレーシアへ (インド、その2)

2016年9月12日

この七月から旅行づいているのか、インドにも行ったし、その途中でマレーシアのクアラルンプールにも寄った。その後メルボルンに戻って、二ヶ月たたないうちにニュージーランドのオークランドへ行き、その足で8月の日本に帰国した。日本ではM城さんという友人の好意で、彼の調布のマンションに滞在させてもらい、その間に宇都宮に行った。

(この項では、インドとマレーシアについて書く)。

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インドのピザ

インドで行ったのは、南部ケララ州のコーチンという港町だが、そこは香辛料の輸出で有名な場所で、今でも胡椒やターメリックや生姜や、あらゆる香辛料の問屋が港の通り沿いに軒を並べている。港には大きな船が出入りしている異国情緒あふれる場所だ。そんな所だから、オランダ、ポルトガル、イギリス風の町並みがまだ残っていて、ユダヤ人街まであるのだった。

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コーチンには、二週間ばかりいたが、ほとんど一歩も町から出なかった。それでもちっとも退屈しなかった。僕は、13歳の息子リンゴロウと二人で、町のあっちに行って博物館を見たり、こっちへ行って場末の食堂で、旨いのかまずいのか分からないカレーを食べたり、お洒落なカフェに入り、高くてまずいハンバーガーを食べたりした。

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僕らがサンダルをぺたぺた言わせながら歩いていると、「あんたら、どこから来たの? 中国人? ニイハオ! 日本人? コンニチハ!」などと町の人たちから話しかけられる。半分は物売りや客引きのタクシーの運ちゃんだが、半分は純粋に好奇心をもった人達であった。インドの人は人懐っこい。

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泊まったホテルは、アイスランド人が経営するコロニアル風の古い建物だった。重厚な作りで格好良い。朝は洋風ブュッフェで、日替わりでいろいろなパンケーキが出る。しぼりたてのマンゴー、オレンジ、スイカのジュースも出て、これが旨かった。インドの人は、それほど急がないし、全てが手作業なので、食事をするのにも時間がかかる。それがインド的な時間の流れで良かった。モンスーンの季節だったから雨がよく降ったが、食事を待っている間、大きな雨粒が空からバラバラ降ってくるのを眺めているのは悪くなかった。

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ケララは共産党支持者が多いらしい

結果から言うと、コーチンではカレーを一番たくさん食べたが、その次にたくさん食べたのはピザだった。外見は日本人でも、中身の90%はオーストラリア人であるリンゴロウは、ことあるごとにピザを食べたがる。コーチンでは7、8名のオーストラリア人美術家達と行動を共にしていたので、「じゃあ、今夜はピザを食べることにしましょうか」ということが多かった。カレーばかりだとオーストラリア人は士気が挙がらなくなるからだ。リンゴロウも異存はない。コーチンには幸い二、三軒のピザ屋があったが、チャパティやロティを作るのとピザを作るのは、ほとんど同じ作業であるから、インドのピザ屋は手際がいい。味もなかなかいける。それらピザ屋のうち一軒は、アルコールのライセンスを持ってないくせに、闇でモキートというカクテルを出していた。こっそりアルコールを飲むのは、罪悪の味がして、これも良かった。


クアラルンプールで北海道ラーメン

順番が逆だが、マレーシアのクアラルンプールへは、コーチンへ行く途中で三泊四日ほど立寄った。クアラルンプールを略してKLと呼ぶが、ここは背の高いビルが立ち並ぶ大都会であった。我々も、そんな高層アパートに泊まった。そのアパートは、天井が高くて広々としていたが、家具も最小限しかおいてなく、その部屋でクーラーをつけて寝転がっていると、自分が冷蔵庫の鶏肉(なぜか鶏肉の気がする)になった気がした。だから、あわてて外に出るのだが、そうすると、ボワンという感じの、やけに存在感のある湿った熱気に襲われるのだった。

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KLは、ちょうどイスラム教のラマダンの時期で、午後四時頃になると、会社や省庁が早じまいし、断食して腹を減らしてイライラした人たちがどっと繰り出てくる。そのときは「待ってました!」とばかり、屋台や食堂からもうもうと煙があがり、ものすごい活況だ。

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そんな中では、ひ弱な観光客は、歩道の隅から状況を静観するしかなかった。そのほとぼりも冷めて夕闇が降りてくる頃、ようやく我々も何かを食べようと食堂を探し始めるが、やわなリンゴロウは「きたない屋台の店で食べるのは嫌だ」と、だだをこねる。僕は路上で売っている焼鳥やマレー風魚介類バーベキューに後ろ髪を引かれたのだが、息子は「ゴミ臭くて、匂いを嗅いだだけでも吐きそうだ」と泣き言を言う。

仕方なく我々は、衛生的なショッピングセンターの食堂街に向かうのだった。そこはもはやKLの雑多な街角とは異なり、無印良品、ユニクロ、ルイビトン、ジーンズメイトなど、まるで吉祥寺や渋谷のような店が並ぶ、冷房の効いた楽園なのだった。日本と違うのは、ショッピングセンターが、もっと400%くらいきらびやかなことで、ガラス張りの建物は金や銀で彩色され、加えて何万という豆電球で飾られて目もつぶれんばかり。その真ん中を、まるで極楽へ登るようなエスカレーターで登っていくと、これも日本と同じで、最上階が食堂街。歩いていくとTOKYO STREETと書いてあり、お好み焼きや天ぷらうどんの店なんかが軒を連ねている。息子が「あった!」と歓声をあげた方を見ると「北海道ラーメン山頭火」という暖簾が下がっている。どうして北海道ラーメンの店が「山頭火」なのか分からないが、リンゴロウはどんどんその店に入って席に座ってしまう。

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そんなでKLまできて、北海道ラーメンになる。そう言えば昨年は、この息子とミラノでソースカツ丼を食べたが、うちの息子はB級グルメの日本食を外国で食べるのが特技なのかもしれない。

クアラルンプール、山頭火のラーメン
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(続く)
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2016年07月15日

インドで書いた俳句

2016年7月16日

先週まで10日間ほどインドに行ってきた。インドは初めてだ。行くさきは、南西部のケララ州コーチンという港町。ポルトガル、オランダの植民地色がまだ色濃く残る、香辛料の出荷地である。

なぜこんなところに行ったかと言うと、妻がオーストラリア人芸術家達8名程と、この地で制作を行うことになったからだ。それにくっついて行ったのである。こういう企画をArtist in residenceと言い、日本でもどこでも盛んになってきている。昨年は、これで南仏に行ったが、今年はインドである。

13歳の息子鈴吾郎(りんごろう)も一緒に旅した。13歳の男の子がインドにどんな反応を示すか興味があったのだが、鈴吾郎はインドの状況(貧困、人口密集、非衛生などなど)をいとも簡単に受け入れ、「ここは面白いところだね」と人や風物に興味を持ち、文句などひとこもと言わなかった。僕は感心する一方で、やや拍子抜けしたくらいだ。

さて、我々は、時にはオーストラリア人芸術家達と行動をともにしたり、時には、自分達だけでコーチンの町を歩いたりした。トゥクトゥクというオート三輪や自転車に乗ったりもしたが、大概は徒歩で行き当たりばったり歩いた。ろくな観光もせず、町中を我が物顔で歩くヤギについて行ったり、お土産屋につかまって、欲しくもない物を買わされたり、汚い店で、びっくりするほど美味しいカレーを食べたりした。月並みだが、あんなにたくさんカレーを食べたのは、人生で初めてだった。

僕にとって、この旅行で一番の収穫は、インドを身近に思える様になったことと、それと同じくらい「楽しく退屈」できたことだ。13歳の鈴吾郎も、音をあげずに僕の退屈につき合ってくれた。ちょうど、ラマンダン明けのモンスーンの季節だったから、毎日のように雨に降られ、ホテルで、フェリーの上で、雨宿りした店先で、濃い大粒の雨粒を数えたりした。雨空を長い間見上げていることなど、ついぞなかったことだ。

そうしているうち、この頃ちっとも書いてなかった俳句が頭に浮かんできた。スナップ写真を撮る様に、俳句が浮かんできた。僕の俳句はまったくの我流だから間違いも多いデタラメばかりだが、スナップを見せるよりも、僕の旅行が良くわかるような気がするから、それらを以下に載せる。(横書きですみません。)

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ラマダンや 断食こらえ 高楊枝 

ラマダンや 客待ちリキシャ 昼寝かな

客待ちの リキシャにのった ヤギ親子

自転車も リキシャも急ぐ モンスーン

雨粒の 数だけ祈る モンスーン

雨脚に 追いかけられて 舟を漕ぎ

船頭の 野球帽に 汗の痕 
 
物乞いが 雨だれの数 数えてる

物乞いも 日本人も 雨宿り

夕立や プールの水に 花千個

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ラマダンに 空き腹抱え 漁網引く

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夫婦(めおと)舟 仲良く網を 引いている

ゴミもまた 彩り添える 浜辺かな

フェリー待つ 列で笛吹く 異邦人 

インドでは ブルース歌手も インド人

バスに「天国」とあるのは 行き先か 

魚屋の 足にじゃれつく 野良の猫

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インドでも イワシはイワシ ボラはボラ

路地裏の エビ売る男 のど自慢 

東向き 西向きヤギは どこへ行く 

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牛二頭 路上に座り 仏顔

犬がいて 猫もヤギもいて 人もいる

サッカーの 若者はみな 素足なり

素足でも ワールドカップ 夢ではない
      
アイロンを 持つ老婆の手 皺だらけ 

洗濯を 岩に叩いて  若い妻

サリー着て バイクで人混み 駆け抜けて  

百万本のココナツが 空あおぐ

十万百万のココナツ 静かに腐る

腐るのは ゴミだけでない インドでは 

腐った物を流す川 海に注ぐ

汚濁と腐臭の中にも 平和あり

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極端と 極端の間に 調和あり

祈りと 祈りの間で 暮らしてる

物乞いも スマホ手に持ち 頭垂れ

インドでも ピザを食べたし 我が息子

インドでは 朝昼晩と カレー食い

空港で 最後のカレー 汗をかき

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2016年06月17日

スタマティスいわく、「タスター、人生は短いんだよ」

2016年6月15日

スタマティスが、またメルボルンへ来た

残り物のカレーの昼飯をパソコンの前で食べていたら、「ポン!」とメールが届いた。パソコンの前で昼飯を食べるなんて最低だが、家にいる僕とても、だらだら仕事の区切りがつかない時など、たまにこういうはめになる。


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海は、いつも僕の心にある

メールにはこうあった。「タスター(てつた=僕のこと)、おれだ、スタマティスだ。ルカに会いにメルボルンに来ているからこの番号に電話しろ。パムの家だ。」

スタマティスは、難読症(ディスレキシア)の持ち主で、そのせいか僕の名前の綴りがいくらTetsutaだと伝えても、Tasterと書いてくる。でも、確かにTasterと綴った方が日本語の「てつた」の発音に近いから、こちらに改めようかと思わなくもない。

そのスタマティスのことは前にもちょっと書いたが、もとはダンデノン山の住民で、ヨット乗りで、ものぐさで、女好きのギリシャ人である。ルカは今年20歳になる息子で、パムはルカの母親、別れた奥さんだ。ルカとパムは、メルボルンに住んでいるから、スタマティスは1年か2年に一度、ルカに会いに戻ってくる。今スタマティスは、カナダに住んでいると聞いていたが、本当にそうなのか、本人に確かめないと分からない。(スタマティスは、僕が書いた絵本『ヤギのアシヌーラどこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)のモデルで、絵本では「スタマティスじいさん」として登場するが、実物は、まだじいさんではない。60歳くらいだろうか。)

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『やぎのアシヌーラ どこいった』渡辺鉄太作、加藤チャコ画、福音館書店

パムとはかなり前に離婚したが、その後、スタマティスはルカの同級生の母親のバツイチ・ママとくっついた。けっこう美人のシングルマザーだったから、スタマティスの手の速さにみなは驚いたものだ。しかし、その彼女とも2、3年で別れてしまった。

その時スタマティスは「俺は、40歳くらいのオーストラリア人の女がつくづく嫌になった。高慢で、主張ばかりする。いったい何様だと思ってんだ」とこう言い捨てて、ブリスベンからヨットに乗って、タイのプーケットまで行ってしまった。そして、今度は、そこで知り合った二十台のタイ人ギャルとくっついてしまった。スタマティスはそのタンという名前の女の子と結婚して、それ以来いっしょにいる。

僕は、若い奥さんをもらってニヤニヤしているスタマティスに、「若い奥さんをもらったりして、うかうかしてられないな、色男!」と言ったが、スタマティスは「見当違いも甚だしい。そういう魂胆じゃないんだ。彼女は、俺の世話をする、俺は彼女の面倒を見る。(She looks after me, and I look after her)男と女は、ギブアンドテイクだ。決して、若い女のケツが良いってことじゃない」と真顔で答えた。嘘ばっかりである。

だから、ここら辺りでスタマティスを知る女性たちは手厳しい。「心底スケベエだねえ、あの男!」とか、「あんなニンニク臭い男のどこがいいんだろう? キスするとき目をつぶれば顔は見ないですむけど、あの臭いじゃ興ざめね」と、評判は芳しくない。

だから、スタマティスは今さらメルボルンに戻ってきても、僕か大工のギャリーくらいしか会う相手がいない。大工のギャリーは、奥さんのヘレンがギリシャ系で、天使のように優しい女性だから、スタマティスも優しく受け入れてくれる。


スタマティスとの再会

僕は、さっそくパムの家のスタマティスに電話した。「よう久し振り。別れた奥さんがよく家に泊めてくれたな? どういうことだ? 説明しろ。」

「パムは、親父を連れてイギリス旅行なんだ。だから、その間俺がルカの世話をしにきた」と、スタマティスは答えた。

「そうか、そいつは渡りに舟で良かったな。暇なら、今そっちへ行ってもいいか?」と僕。

「暇なら持て余している。こんな山奥でやることもないからな。コーヒーくらいは出す」とスタマティス。 進まない仕事は中断して、 僕はさっそくパムの家に行った。

パムの家はダンデノン山の奥深い、ササフラス村の谷底にある。彼女は版画家で、美術家同士うちの女房とも仲が良い。だが、僕は彼女の家に行くのは初めてだった。こちらではバンガローと呼ぶ、山荘風の洒落た家だが、中に入ると、あまりの散らかりように驚いた。

「よう、タスター、久し振りだな。お前さん、ほんの少しだが、年をとったか?」とスタマティスが、散らかり果てた居間の真ん中で言った。

「いきなり嫌なことを言うな。年をとったのはお互い様だろ。若い奥さんを可愛がって無理するなよ。卒中なんかおこしたら大変だ。それにしても、お前を捨てた女房の家は汚いな! 」と、僕は思わず本音を言ってしまった。

「お前もそう思うか! 俺はこんなブタ小屋で暮らすルカが可哀想でならないんだ。あの猫を見てみろ!」と、スタマティスが指差す方を見ると、パムの黒い大きな飼い猫が、ガス台の上の鍋に顔をつっこんで、残りをぺちゃぺちゃなめている。躾もへったくれもない。

「まったくひどい家だ。猫だって、このざまだ。俺が思うに、パムの奴は『キーパー』だ。分かるか?何でもかんでも捨てられなくて取っておく人間だ。だから、こんなに散らかっている。これを見みてみろ!」と、スタマティスはそう言うと、机の上の紙くずを床にどさっと投げ落とした。すると、その下から旧式のラップトップパソコンが現れた。

「これは、俺が20年前に使っていたパソコンだ。それも、同じ机にそのまんま置いてあるんだ。信じられるか!」スタマティスは、両手で頭を抱えてそう言った。

「だけど、物が捨てられないんなら、どうしてお前さんは捨てられたんだ?」と、僕。

「勘違いするな、タスター! 俺はこの足で出て行ったんだ、こんなブタ小屋にはいられないからな」とスタマティス。


カナダのスタマティスとタン

「もう、ここにいない人間の陰口は止めよう。ルカだって聞いているぞ。それはそうと、今お前さんは、カナダに住んでいるんだって?」と僕は、現在のスタマティスに話を移した。

「そうだ、バンクーバーの近くのトフィーノという村にいる。良いところだから、一度遊びに来い。バンクーバーからプロペラ機で45分。車なら四時間ドライブと、二時間フェリーで、合計六時間。うちのまん前は海だ。人っこ一人いない入り江がそこら中にあって、魚釣りはし放題。入り江にはアザラシがたくさん泳いでいるし、時にシャチが回遊してくることもある。クジラもいるぞ」とスタマティス。

「すごいな。でも、どうしてそんなところにいるんだ?」と僕。

「俺はな、二十一歳のとき大学を中退したんだが、在学中カナダの女と結婚して、カナダ国籍を取ったんだ。大学を止めて、その女と別れた後も、そのままカナダに残った。で、鮭漁の漁船に乗って金を稼ごうと思ったんだ。それが一番手っ取り早いからな。それでトフィーノに来た。30年以上前の話だ。あの頃トフィーノは観光地じゃなくて、ただの漁村だった。日系移民の漁師がいて、その人たちの漁船に乗せてもらって鮭をとった。だから、トフィーノのことを覚えていたんだ」と、スタマティス。

「あの日系人の漁師達はもう一人もいない。みんな死んだんだろう。たくさんあった漁師小屋も漁船もない。覚えているが、日系人達は、鮭の身を薄く切って干物を作っていたよ。あれを焼くと旨かったなあ。俺は、その時稼いだ金で自分のヨットを買ったんだ。」と、スタマティスは遠くを見る目つきをした。

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小さなヨットで旅をしてみたい


「今はトフィーノで何をしているんだ?」と僕。

「タンが観光客相手の店をやっている。俺はそれを手伝っている。夏の間は良い商売だ。サーフィンとか避暑にくる人間がいっぱいいるからな。タイで仕入れた民芸品とネパールの羊毛のセーターなんかを売っている。」

「タイの民芸品は分かるが、ネパールの羊毛はなぜ?」と僕。

「カナダは寒いだろ?だから、チェンマイから引っ越してきた俺たちは、最初の冬は着るものがなかったんだ。だから、タイに戻ったとき、もうひとっ飛びして、ネパールまで冬服を買いにいったんだ」と、スタマティス。

「ネパールまで?」と僕。

「バンコクからカトマンズまでは安い飛行機があるし、たった二時間だから、買物に行ける。第一、タイにはろくな冬服がないからな」とスタマティス。

「なるほど。それで?」

「カトマンズで冬服をしこたま買いこんだ。手編みのセーターとか、太い毛糸の帽子とか、手袋とか。ほらこれも」と、スタマティスはかぶっていた帽子を脱いだ。なるほど、見たこともない様な立派な毛糸で編んである。

「ナイロンとか、プラスチックとか、ゴアテックスとか、そういうインチキは一切なし。純粋な羊毛だ。カナダの冬にはもってこいだ」とスタマティス。

「じゃあ、少しは儲かっているのか?」

「いや、まだまだだ。どうにか暮らせるくらいだ。だがな、タスター、俺は、また船に乗ることにしたんだ」と、スタマティスは目を輝かせた。

「冬のトフィーノには観光客も来ない。タイ人のタンには、冬のカナダは堪える。だから冬は店を閉めることにした。俺はタイの南かマレーシアにヨットを置いておき、それで東南アジアとか、オーストラリア東海岸をクルーズする。客も乗せれば、少しは金も稼げる。最高だぞ。お前も息子を連れて来い」と、スタマティス。

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うちの息子鈴吾郎は、水が好きである

「タスター、 人生は短いんだよ。いいか、俺たちにとって、次の10年はもう二度と来ないんだぞ。分かるか? 次の10年でできることは、多分その次の10年では、もうできない。だからな、俺は、今また船に乗るんだ。くよくよ考えているのは止めだ。今はあちこち船を探している。買う船は、カタマラン(双胴)で、28から32フィートの船に決めている。安定しているし、操作もしやすい。ずっとそういうのが欲しかったんだ」と、スタマティス。

「そいつは大賛成だ。そう言えば、俺も船を作っている。息子の鈴吾郎(りんごろう)にせかされたんで、二人で釣り用モーターボートを作っているんだ。かなり完成に近い」と僕。

「そいつは、いいぞ、タスター! そうこなくっちゃいけない。よし、明日そいつを見せてくれ」とスタマティスは、膝を叩いて喜んだ。

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息子と作っているボート。何という名前にしようか?


スタマティスにボートを見てもらう


翌日、スタマティスがうちにきた。

「ほほう、ほほう、ほほう。うん、うん」と何度も頷きながら、スタマティスは、しばらく僕のボートの胴をなぜたり、下からのぞいたりしていた。そして言った。「タスター、いいぞ、このボートは。でも、けっこう大きいな!こいつを仕上げるのは、まだちょっとかかるぞ。」

「うん、長さは15フィート、4.9メートルだ」と僕。

「この大きさだと、かなりの重さになる。モーター、燃料、人は四人くらいか? だとすると、胴体の補強が大切だ。胴体に張るファイバーグラスも底は二重にしろ。一重じゃダメだ。舳先も補強が必要。こんな薄い木材だと、一度、バーンとぶつけたら舳先が割れちまう。錨もしっかりしたのを付けろ。安物はダメだ。錨には五メートルの鎖を付けて、その先は50メートルのロープだ。大袈裟かもしれないが、錨に命を助けられることが必ずあるんだ。 錨はデルタというブランドが最高だ、覚えておけ。」とスタマティスは厳しい顔をした。陸(おか)では、女たらしだの、怠け者だのと言われているが、海に出たらさぞ頼りになるだろう。スタマティスは、その後も、小一時間程僕にボートのレクチャーをした。


ヴァルハラへ行け


船の話ばかりして疲れたので、うちの近所を少し散歩することになった。

「話は変わるけど、僕の39歳だった弟が、一昨年急に病死したことを話したっけ? その後片付けをしたり、東京の実家を処分したりしたことなんかも?」と僕は打ち明けた。

「いや、そいつは聞いてない」とスタマティスは、不意をつかれた様に、静かに答えた。

僕はその顛末を話した。弟は、精神と肉体の変調から、何年も生きるのに苦心していた。大学の研究職にあったが、病を得て退職し、その後はリハビリで豆腐屋に勤めたり、東北震災のボランティアをしたり、世界一周のクルーズに出掛けたり、小説を書いたり、最後は好きだった音楽をやったりもしたが、最後は病に負けてしまった。僕は、遠くからそんな彼を心配しつつも、あまり何もできずにいた。だから、今でもときどき、どうして弟が死んだのか自問したり、若くして亡くなって気の毒に思っているとも話した。

「そいつは、当然だ」と、スタマティスは言った。「しかしな、タスター、こう言うとひどく聞こえるかもしれないが、お前の弟は、 今はきっと生きていたときよりも、ずっと素晴らしい場所にいるんだぞ。」

スタマティスは続けた。「むかし子どもの時、俺はサムライとかギリシャの戦士の話を聞くたびに、死ぬと分かっていながら戦に出かけて行き、喜んで死ぬなんてバカみたいだと思っていた。死んだら終わりだからな。でも、そのうち、どうして戦士やサムライが 喜んで命を投げ打つかが分かった。戦士はただ死ぬんじゃない。死ぬとヴァルハラ(戦死者の館)に行くんだ。戦いで死ぬことは、そこへ行く為の切符をもらうことなんだ。
 お前の弟は、いろいろやって、今はヴァルハラにいるんだ。俺たちが、この世で旅をすることも戦に行くことに似ている。旅をしなければ「目的地」に着けないじゃないか。俺はギリシャに生まれて、これまでドイツ、カナダ、オーストラリア、タイに住んだ。今度またカナダに戻ったが、これからまた船に乗るつもりだ。俺は、いつだって旅人だったし、最後まで旅人だ。俺は、ギリシャの島や海は愛しているが、ギリシャ人が嫌いだから、ギリシャには戻らない。だから、最後はどこか旅で死ぬ。そして、最後の最後は、一番素晴らしい、大きな旅をする。この世からあの世へ渡る旅だ。カナダからタイへ行く旅なんか目じゃない。そのために人生はあるのかもしれない。
 実は今、アテネにいるお袋も死にかけている。ベッドに括り付けられ、朝昼晩と、姉やその家族に面倒を見てもらっている。俺は、スカイプでときどき話すが、頭もぼけて、俺のことも分からない。見てられないぞ。アテネの病院で死ぬなんて最悪だ。だから早く死んで、あの世に行けば良いと願っている。」

スタマティスは続ける。「それにな、タスター、死ぬのは自然なことだ。誰だって死ぬ。死ぬのが自然なら、怖いことは何もない。怖いのは、死ぬ時の苦しみ(suffering)だけだ」とスタマティスは締めくくった。
確かに、スタマティスの言う通りだ。だが、こいつは、かなりのほら吹きだから、かなり水で薄めて聞く必要がある。本気でそんなことを信じているかどうか分からない。

そんなことを話しながら、家の前に戻って来た。そこでスタマティスと別れる。

「じゃあ、またな。もう一回くらいは会おう」と、スタマティスは言った。僕たちは握手した。スタマティスは、排気管から青い煙を吐く安っぽいレンタカーを運転して戻って行った。そういう車が実によく似合う男だ。

スタマティスの人間としての評価はさておき、ひとつ確かなことは、この男が、心底旅人であることだ。行きたい場所があれば、どんなに遠くても、そこへ行く。そこに飽きると、また別の場所に行く。船に乗って、風まかせ、潮まかせ、 急ぎもしないが、ぐずぐずもしない。漂えど、沈まずに。そんなところが、とても自然だ。きっと、本当にどこかで、のたれ死にするだろう。幸せな顔をして。

僕も、ゆっくりでいいから、どこか遠くへ行きたくなった。




















posted by てったくん at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記