サイクリング 9日目と10日目
12月5日 八幡浜から松山まで 76.4キロ
僕の四国サイクリング旅行も終盤だ。マジで走るのはあと三日。八幡浜で1日休んだおかげで、お尻もあまり痛くないし、太ももとふくらはぎの筋肉も「もう、大丈夫!」と笑っている (太ももに顔があれば)。どうにか広島尾道までたどり着けそうだ。

ローソンがなければ、僕の四国旅行はもっと過酷であっただろう
高知から、八幡浜まで距離メーターを見ると500キロ。それで分かったのは、僕が1日で快適に走れる距離は80キロくらい。それ以下だと、目的地に早くつきすぎる。それ以上だと疲れる。しかし、いくら80キロがちょうど良くても、一週間も走り続けると疲れが溜まるので、3日か4日ごとに休みを入れなくてはいけない。この点では失敗した。
もちろん、鍛えれば80キロが100キロにもなるであろう。逆に、天気が悪かったり、峠や山地を越えるときも距離は短くなろう。自分の能力を知ることは今後のために有用だが、こればかりは、やってみないと分からない。
朝8時、八幡浜出発。 雨が降りそうで気温も低い。今日の行き先の松山は、今回訪れる最大の都市で人口50万。かねがね、四国へ行くなら松山に行きたいと思っていた。でも、道後温泉に入りたいとか、 一六タルトが食べたいとか、そんな理由ではない。松山には、亡くなった母が戦争中に住んでいたのだ。母はかねがね言っていた。「私は松山が、とても楽しかったんよ。美味しいものがたくさんあってね。戦争中でもアイスクリームが食べられたんだから」。
その一言が、僕の松山に対するイメージを型作ってしまった。どこでどんなアイスを食べたのか、母はもういないから聞けないが、僕のイメージの中で松山は、ハイカラで豊かな、甘い香りのする町になった。 松山出身の女性が目の前にいたら、それだけで恋してしまうかもしれない。

母は松山でどんなアイスを食べたのだろう?
八幡浜から松山までは海沿いを走る。本当は佐多岬などにも寄り道したいが、もう日数がない。長いトンネルを抜けると豊後水道だ。その向こうに九州が見える。こんな近いとは驚いた。景色は絶景だが海峡には黒い雨雲が垂れ込め、風に押されてこちらへ向かってきている。豊後水道と言うより「津軽海峡冬景色」だ。風も強く、海沿いだから水しぶきがかかる。幸い追い風で、時速25キロくらいでどんどん走れる。皮のスニーカーを履いているが、それでも足先の感覚がなくなるほど冷たい。冬が来たんだな。でも、冷たい風は気持ちが良くて、「北風小僧のかん太郎」の歌を大声で歌いながら走る。亡くなった弟が小さいとき好きだった歌だ。きっとどこかで聞いているだろう。

怒涛の378号線を行く
ゆうやけこやけラインと呼ばれる378号線を突っ走っていると、 ついに雨がバラバラ降ってきた。雨合羽を着る。そのうちそれが大粒のヒョウになった。氷の礫が顔にビシビシ当たるから、もう走ってられない。民家の車庫に勝手に飛び込んだ。
そしたら驚いた。もう一人、荷物を満載した自転車少年、すなわちチャリダーがそこで雨宿りしていたからだ。四国へ来てから8日目、初めて出会った本格チャリダーだ。16歳の時の自分に出会ったみたいに嬉しくなった。

少年チャリダーは笑いながら、「寒いっす」と言った
「よう、すごいヒョウだな」と僕。
すると、その桃太郎みたいな少年チャリダーも顔をくしゃくしゃにして笑い、「この雨雲、すぐ通り過ぎますよ」と、スマホを見ながら元気に言った。見れば、このチャリダー、まだ16歳くらいだ。学校行ってないのかな? 乗っている自転車は、ジャイアント社グレートジャーニーというタイプで、ぶっといタイヤがついた本格長距離ツアー用である。日本一周チャリダーたちの御用達だ。
「どこから走ってきたの?」と僕は聞く。
「三重県っす。」
「え、すごいね!」
「八月ごろ出発して、最初は北海道まで行って一周して、一旦家に帰ったんす。それから一ヶ月くらいゴロゴロしてからまた出発して、今度は九州一周したんす。寒くなってきたから、そろそろ帰ろうと思ってるんすよ。」
それだけで積算距離が5000キロくらいある。見れば自転車にはテントと寝袋が積んである。
「この寒いのにキャンプしてるの?」
「そうっす。金ないっすから。」
へぇ、12月にキャンプか! 若いからな。でも、やっぱり学校は行ってないみたいだな。だけど、不登校とか引きこもりとかで家にこもっているよりは、自転車であちこち回っている方がいいだろう。いや、学校に行くより、こっちの方がいいかも。この子の親御さんも肝っ玉が太いこと!なかなかできることじゃない。と、気がついたら、僕はこの子の親御さんの気持ちを考える年齢になっていた。
二人して体から湯気を出して雨宿りしていたら、バチバチ音を立てて降っていたヒョウも止んだ。そろそろ行こうか。
「じゃあ、気をつけてな。ちゃんと、家に帰るんだよ」と、僕。
「はい、そちらも気をつけて」と、少年チャリダーも言う。
僕は西へ、チャリダーは東へ。豊後水道の空が晴れてきた。
チャリダーに会った僕は、さらにスピードに乗って走り、すぐ伊予市だった。伊予市の人たちには悪いが、形容のしようがないほど特徴のない町だ。駅でトイレを借り、昼飯を食べようと見回したが、食堂もレストランもない。コンビニはあったが、もう今朝だけでも5回はコンビニに入っているから、見るのも嫌だ。
そこで走り出したら、やがて道はずんずん太くなり、 国道56号線に交わった。そして、いくらもいかないうち、心の準備も出来てないのに、憧れの松山に入っていた。目を凝らせば、街の真ん中の小高い山の上に、松山城が見える。あれほど憧れた松山なのに、見た感じは、静岡とか宇都宮とか高知とあまり変わらないじゃないか。ちょっとがっかりした。
さて、腹も減ったし、今度こそ飯を食べようと見渡せば、ここはもう大都会だから、ファミレスから何から、選り取りみどり。マック、吉野家 、モスバーガー、うどん、天ぷら、なんでもござれ。伊予市の人たちは、自分の町を見捨てて松山までご飯を食べにくるのだろう。
しかし、 僕はここで決定的な間違いをした。またファミレスに入ってしまった。ファミレス飯はまずいと分かっているのに!同じことを繰り返しつつも違う結果が得られると思うのは、バカの証拠である。おまけに、何を血迷ったか、中華丼を注文してしまった。ファミレスの中華丼がうまいわけないだろう。半分だけ食って店を出た。それ以上食べたら死んだかもしれない
それが、憧れの松山に着いて最初の出来事だ。気を取り直し、松山の中心に向かう。30分ほどでJR松山駅。JR松山駅は驚くほど小さかった。昭和45年くらいから増築されてないみたいだ。駅ビルの中には百円ショップのダイソーがあった。これが東京ならば、クイーンズ伊勢丹とか成城石井とか、もちっと気の利いた店だろう。しかし、これが松山の現状だ。駅前では、タクシーの運ちゃんたちが、シーハーシーハーと爪楊枝を口にくわえて紙コップのコーヒーを飲みながら、和んでいる。 ああ、僕の中で55年間構築されてきた松山の、美しく甘いイメージは、音を立てて崩壊していく。

松山駅でシーハーシーハーするオヤジたち
でも僕はくじけずに、松山城の北側にある一草庵に向かった。一草庵は俳人、種田山頭火の終焉の地だ。山頭火は、全国放浪ののち、最後はここ松山に落ち着いた。そして、1940年、ここで59年の生涯を終えたのである。松山は、何人かの有名な俳人に所縁のある土地であるが、その一人は正岡子規、そしてもう一人が種田山頭火である。この二人の周囲には、夏目漱石や高浜虚子、尾崎放哉など、綺羅星のような俳人や作家がいた。
わが庵は御幸山すそにうづくまり、お宮とお寺とにいだかれてゐる。
(松山市一草庵ウエブサイトより)
山頭火は、一草庵をこう描写しているが、今でもこの文句の通りだった。そこはひっそりとした寺町で、綺麗なせせらぎが流れている。一草庵には誰もいなく、僕はしばし、木漏れ日の中、あちこちに下がっている山頭火の句を読んだり、裏山の梢を見上げたりした。
分け入っても分け入っても青い山
まっすぐな道でさびしい
また見ることもない山が遠ざかる
あの雲がおとした雨にぬれている
(山頭火句集(1)、春陽堂から)

渋いぜ、山頭火

一草庵には松山市民の書いた俳句も展示してある。
俳句ポストがあって、投稿できるから僕も一句入れてきた
山頭火には、旅の句が多い。それらは、575ではなくて破調であるから、こんなものは俳句ではないと言う意見もある。僕にはそんなことは分からないし、山頭火の句が好きだ。ジャック・ケルアックの詩みたいだし、ボブ・ディランの歌詞にも通じる。こうして旅の途中で山頭火の句を読むと、たまらなく切ない。
30分か1時間して、一草庵を後にする。これで、今日の旅は完結した気がする。やはり松山にきて良かった。
夜、居酒屋のカウンターで、山頭火に刺激されて俳句もどきを書く。
コスモスの枯れ野寒々峠かな
どこまでもどこまでもすすき野
トンネルは瞽女(ごぜ)の呪いの潜む闇
峠越えポカリスエット甘露なり
雹に打たれてずぶ濡れ豊後水道
北風小僧に押されて銀輪走る
コンビニのトイレを辿って冬の路
銭湯のタイル冷たし旅の午後
陽だまりの柿の木寂し一草庵
ユーミンの歌声染みるモツ鍋屋
幼少の母に会いたく松山まで来た
12月6日 松山を徘徊。走行21.46キロ
終日松山をうろうろする。 最初に道後温泉に行くが、館内の改築で入れない。温泉に入るつもりもなかったから素通り。アホ面観光客たちが饅頭屋やお土産屋に群れている。

言わずもがなの道後温泉
近くの正岡子規の記念博物館へ。木造平屋の山頭火一草庵に比べると、子規記念博物館は4階建くらいあって立派だ。不公平な気もするが、文句を言っても仕方がない。子規は夏目漱石の友人でもあり、俳句の先生でもあった。野球好きで、数々の野球用語を和訳したのも子規だったらしい。たった34歳で亡くなったが、最後の数年は脊椎カリエスで寝たきりになったままで何百という句を書いた。子規記念館で面白かったことは、食い意地の張った子規が、寝たきりになってからも何をどれだけ食べたかが解説されていたことだ。特に果物が好きで、梨6個、みかん13個、柿8個くらい平気で食べたとある。好物であった柿のことを書いた句にも有名なのがある。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
(『子規句集』岩波文庫から)
子規について詳しいことが分かったので、満足して子規博物館を出る。

立派な正岡子規博物館
次に、近くの四国霊場51番目の石手寺へ向かう。趣のある古い寺だからお参りしたかったが、山門前が狭くて自転車を置く場所が見つからない。油断していたら、お遍路爺さん婆さんを満載した観光バスが到着し、姥捨山状態になってしまった。みんな田舎から来た人たちばかりのようで、僕は思わず、「おお、農協が納経している!」と 叫び、その場を後にした。(同じジョークのリサイクルですみません!)
そのあと、松山城に登る。松山城は山の上にあるのだが、不思議なのは、松山城以外、松山市が平らなことだ。真ん中の松山城だけは高い山の上にある。どうしてなのか? 僕は、うんせうんせ登ったが、 天気も良くて、天守閣からの見晴らしは格別だった。ここのお殿様になりたいくらいだ。伊予美人を横にはべらしてね。

空に聳え立つ松山城
次は、子規が子供時代を過ごした「子規堂」を見に。正宗寺の中にあり、拝観料は八十円だった。子規の友達だった和尚さんが自分の寺の中に復元したという小ぢんまりした展示だった。八十円の拝観料は、取るに足らないというか、せめて200円くらいにすれば良いのにと思ったが、余計なお世話であろう。
そこを出てると、伊予鉄道松山市駅近くの絵本書店コッコ・サンに向かった。分かりにくい場所だったが、スマホの手伝いを借りてたどり着く。東京の出版社の人に、素晴らしい絵本専門店だから寄りなさい、と言われていたのだ。その通り、頑張っているなあ、という感じの綺麗なお店であった。難を言うならば、僕が手がけた本が一冊も店頭になくて、店主の女性が気まずそうだったことだ。僕も気まずかったが、それはお店のせいではなくて、来店を予告してなかった僕が悪い。さらに、売れ筋の本を出してないのはもっと悪い。よし、 売れる本を書こう!店主の女性は、自分がデザインした可愛らしい鉛筆セットをお土産にくださった。どうもありがとう!これでバリバリ書きます。

その女性が、そこから数キロのところにある伊丹十三記念館のことを教えてくれた。そうだ、伊丹も松山の人だ。自転車をシャカシャカこいで行く。伊丹十三記念館は、渋い真っ黒な木造建物で、前には伊丹が乗っていたロールスロイス(映画『タンポポ』にも登場した奴)がどーんと置いてあった。館内には伊丹の製作した映画、コマーシャル、 著書の展示がある。『たんぽぽ』、『お葬式』、『ミンボーの女』などの映画を紹介したビデオも見られる。中でも面白かったのは、味の素マヨネーズなどのコマーシャルビデオだ。それまで見たことがなかったのは、一六タルトという松山地元のお菓子のコマーシャルで、伊丹が登場して伊予弁で宣伝をするのが愉快だった。 一六タルトは、おかげで爆発的に売れたという。ここで2時間ほど時間を過ごしたが、つくづく惜しい映画監督を亡くしたもんだと思う。

伊丹さんのロールスロイス
出ると、もう夕暮れ。ラッシュを縫うようにして宿まで戻った。久しぶりの交通ラッシュが新鮮だった。
夜、松山城下の居酒屋へ。客は僕一人だった。マスターは非常なおしゃべりで、四国の日本酒事情を聞いたら、話がとめどない。とにかく日本酒は西条だ!と言うことだった。水が良いからだと言う。よし、次回は西条に行くぞ。
このマスター、僕がカツオの刺身を食べるのを見て言った。「お客さん、東京でしょ? 東京の人は醤油をたくさん付けるからね。四国の人は、ちょっとしかつけないんだよ。」うるせー奴だが、確かに刺身の食べ方も地方によって違う。四国ではカツオの刺身やタタキには、ニンニクやら塩やらつけて食べるのだ。こういうことも、その土地に行かないと実感として分からない。
さあ、明日で四国の旅も終わり。今治まで走ったら、そこから、しまなみ海道で島を渡り、最後は広島県尾道に至る。そこで、この旅も終わりだ。