2018年01月20日

四国サイクリング旅行(その3)

窪川岩本寺の朝行で般若心経を唱え、日本最後の秘境と言われる四万十川に沿ってひた走った こと: サイクリング4日目、走行距離99.75キロ



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お寺の朝は早い。岩本寺では朝6時が勤行なので、善男善女は暗いうちに起きる。僕はお遍路ではないが、せっかくだから出てみることにした。

朝5時半、布団から出てズボン下をはき、ユニクロのヒートテック長袖下着も着用。さらに、部屋備え付けのドテラも着込む。これだけ着込めば寒くないだろう。今日は11月末日、四国とは言え、山中の朝はキリッと冷える。

天井絵のある大師堂に入って座る。男たち7、8名がすでに座っている。テレビカメラを設置し、勤行の様子を撮影しようとしている一団の男たちがいる。テレビ局らしい 。大体、 テレビカメラマンというのは、誰しもみんなひどい格好をしている。汚いジャンパーに、かかとを踏んづけたスニーカー、頭は半年ほど床屋に行ってないようなもしゃもしゃ頭。いい歳こいてこんな格好で良いと思ってんのか。しかし、この目つきの悪い男たちの中に、一人だけお遍路の白衣を着た30歳くらいの眉目秀麗の男がいる。カメラはその男を追っているので、どうやらこの男は俳優か何かであることが分かる。

しかし、所詮はテレビに魂を売った俗人たちである。僕は、そんな輩とは一切関わりを持つ必要もないから、きっぱりと大師様を見据えて精神集中する。だが、住職とこの俳優らしき男の会話が耳に入ってくる。その会話からすれば、こやつらは神奈川県某テレビ局の撮影班で、お遍路の番組を撮影するために四国霊場を回っているそうだ。お遍路番組は、中高年の視聴者には人気だそうで、視聴率も悪くないらしい。

ほう、そうか、じゃあ今度その番組を見たら、僕も映っているかもな、なんてことを一瞬考えたが、お遍路の番組なんかを見るようになったら人生おしまいだ。絶対見るもんか。

そんな風に朝から邪念と戦っていると、もう一人僧侶が現れて勤行が始まった。朗々たる読経のデュエットだ。ここの住職も後からきた僧侶も若く、二人がお経を読む声はかなりでかい。お遍路の男たちも読経には慣れているようで、配られたプリントなど見ずに唱和している。僕はといえば皆目分からないから、プリントに釘付けになって唱和する。しかし、朝も暗いうちから、声張り上げて読経するのは気持ちがいい。だんだん清々しい気分になってきた 。早起きもいいもんだと思う。

勤行が終わると、和尚が「コーヒーを入れてありますから、飲んでいってください」と洒落たことを言う。 そこで、みんなぞろぞろ宿坊に戻り、ご馳走になる。すると、あの若い俳優のような男が 「自転車で農協されているんですか? 」と質問してきた。

「農協する?」と僕は、一瞬何をたわけたことを聞くのかと思ったが、すぐに「納経」と言う言葉が脳裏に浮かび、漢字の変換間違いであったことに気がついた。そこで「いいえ、お遍路じゃなくてただのツーリングです」と答えると、この男は、人を小馬鹿にしたような顔つきで、「ああ、そうだったんですか」と言った。取材班一同も、「ふーん」とか「へー」とか気の無い返事をし、それ以上の質問はなかった。テレビ局のヤクザ者たちには、孤高のサイクリストの気高さなどは全く理解できないのであろう。哀れなことである。

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このような無粋な者たちと一緒にいても仕方がないので、コーヒーを飲むとすぐに岩本寺を出発。古い街道筋を走って窪川の町を出ると、そこが四万十川だった。川を見下ろすかのように一軒のローソンが僕を待っていた。僕は、吸い寄せられるようにローソンに入り、気がつくとサンドイッチとおにぎりの朝食を食べ、綺麗なトイレで用を足していた。気分は爽快である。さあ今日こそは、日本最後の秘境である四万十川を堪能するぞと、気合いを入れてサドルにまたがった。

四万十川は、「日本最後の秘境」だとか「最後の清流」だとか「四国最大の大河」とか、いろいろな形容語句に飾られて、そこいらの下らない河川とは一線を画している。だから、四万十川を訪れるには、そこに川があるからちょいと堤防沿いに 走ってみようか、などと言う安易な 気持ちではいけない気分になる。野田知佑や夢枕獏と言った日本の代表的アウトドア作家や冒険家たちも四万十川を絶賛し、そのことをあれこれ書いている。また、四万十川は、火振り漁やら、沈下橋、猿猴伝説、川海老やら天然うなぎやなどでも有名であるから、さらっと素通りなどできない。

と言うわけで、盛りだくさんの1日になりそうだった。出がけに、釣り好きの友人M城さんにも、「四万十川行ったらさぁ、渓流釣りやってみたら?」と言われているから、場合によっては2、3日逗留し、竿を振ってみるのも悪くない。それからこの川はカヌー乗りにも有名な川だ。メルボルン近辺でカヌーやカヤックをあちこち漕ぎ回っている僕としては、ぜひこの川を下ってみたい、という野望もなくはない。だから、今日1日、どこでどうなるか?そんなで、泊まる宿も予約していない。行きあたり、ばったりである。さあ来い、四万十川!

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窪川を出て、国道381号線をいくがいくが行くと、水田の向こうに、霧をまとった山が見える。素晴らしい景色だ。脳裏に 「幽玄」とか「山紫水明」などと言う言葉が 浮かぶ。しかし、それらの言葉は、それ以上のまとまった思考になかなか発展しない。「幽玄、山紫水明。だからどうなんだ?」と、そんなことを考えながら走るが、四万十川と言う大きな存在に自分が負けそうになっていることに気がつく。

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そこで、無心になって走らなければいけない、 先入観に惑わされることなく、四万十川の、この瞬間を楽しめばいいじゃないかと自分をなだめながら走っていくと、眼下にあの有名な沈下橋が見えてきた。「ああ、あれが有名な沈下橋か!」と 、興奮し、国道を降りて橋のところまで下りていく。これが四万十の村人の暮らしを支えてきた沈下橋なのかと、感慨深く橋の上に立ち、川面を眺める。川も澄んでいる。しかし、それ以上の感慨は浮かばない。沈下橋と言えど、ただのコンクリートの橋だから、そこにいても、心には芸術的な動機とか、創作意欲を駆り立てるような衝動が生じてくることはなかった。しばらくそこに佇んだが、啓示もインスピレーションも何も感じなく、そこに立っている自分が馬鹿に思えてくる。2、3枚写真を撮って、先に進む。

しかし、景色は素晴らしい。もう明日から12月だ。だのに、まだ秋の色彩が残っている。明け方に降った雨の湿り気がまだ山を覆っているせいで、滝のような霧が山襞を流れ落ちている。まるで水墨画のようだ。すると僕の脳裏に、またもや最後の清流、四国最大の大河などの俗な惹句が浮かんでくる。こう言う美辞麗句を誰が考えるのか分からないが、「四万十川」をインターネットで検索したり、旅行案内書を開くと、このような「ゴミ言葉」が溢れ出てくる。まるで、白いキャンバスに散った汚い飛沫である。

美しい谷間を走っていくが、まだ心は落ち着かない。そんな葛藤のせいか、自転車のスピードがいつもより上がっていることに気がつく。平均時速25キロくらいだ。このままで行くと、四万十川は昼過ぎに通り過ぎ、夕方には足摺岬くらいまで行ってしまう。それでは走りすぎだ。

そこでスピードを落とし、精神を落ち着ける。 ここが四万十川であろうがなかろうが、最後の清流だろうがなかろうが、眼下にある沈下橋が有名であろうがなかろうが、僕は、自分の目に映り、五感に訴えてくるものだけを楽しもう、そう考えながら走って行くと、土佐大正という場所を通り過ぎ、やがて土佐昭和という町もあった。やがて土佐平成という町が現れるかと思ったが、それは考えすぎであった。

窪川ローソンから走り続けて2、3時間、小腹が空いた。山間は気温も低い。何か暖かい物を食べて温まりたいと思う。見れば、ちょっと先の崖の上にうどん屋があった。四国なのだからうどん屋があるのは当然だ。そこに飛び込むと、店内では、おばちゃん達がテーブルに丸くなって座り、テレビのドラマを見ながら、野菜を切っている。

僕は、「すみません、うどんを丼に半分くらいだけ食べたいんだよ。寒いから温まるためにね。でも、まだお昼じゃないから、たくさんは食べたくないんですよ。そういうの、できます?」と尋ねると、おばちゃんたちは、鳩が豆鉄砲食らったように、野菜を切る手を止めて僕を凝視している。

5秒くらいの沈黙の後、「ええ、できますよ、できますけどね、あらあ、どうしたらいいんだろうね。うどんをね、半分、半分のうどんね。ええと、キヨちゃん、半分のうどんって、できるよね?」とか言いながら、リーダー格の女性が厨房に問い合わせる。 すると、厨房のキヨちゃんと言う 女性が、「 だからさあ、半分のうどんってさ、つまり、定食につけるミニうどんじゃないのさあ、ミニうどんよ、菊池さん」と言う。すると、みんな一斉に「そうよ、そうよ、ミニうどんよ、ミニうどん!」と安心したように言う。こう言うのを烏合の衆というのだろう。

待つこと3分、出てきたミニうどんを食べ、心身共に温まった。汁には、大きなゆずの一片も入っており、香りもよく、土佐らしい美味しいうどんであった。満足した僕は、「ごちそうさま。いくら?」と尋ねる。すると、そこでまたおばちゃんたちは鳩首会議なのであった。なぜならミニうどんは、単品メニューではないので、値段が分からないのだ。 キヨちゃんは、「400円かしら? どう菊池さん、400円でいいよね?」と迷う。僕としては400円でもよかったが、菊池さんは、「四百円ねえ…、でもねえ。そう、三百二十円だわよ」とためらった後に言った。すると、キヨちゃんも他の女性も、「三百二十円、そう、そう三百二十円だわよ!」と満場一致なのだった。僕は、 三百二十円払って店を出た。

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四国の道の駅には、柑橘系の素材を生かした食べ物がたくさんあった

僕は、今日初めて 暖かい心持ちになって自転車にまたがった。ところがその時、不快な事実に直面していることに気がついた。それはお尻の痛みだった。それは左側の、サドルに当たってグリグリこすられる箇所で、外側の皮膚の部分ではなく、もっと深部の筋肉と骨がくっついている辺りの痛みだった。深部ということが、僕を少し不安にさせた。

しかし、その痛みは、まだ兆しと言って良いような、微かなもので、まだ「痛い!」と、叫びたくなるような疼痛には至っていない。しかし、まだ 三日目で積算距離も200キロというのに、もう来るものが来てしまったかという落胆 が僕を襲った。お尻が痛いのはサイクリングにはつきものだが、 どうもこのお尻の左側の痛みは、たちが悪い気がした。風邪でも、たちの悪い風邪もあれば良い風邪もあるが、お尻の痛みにも、たちの良いのと悪いのがある。悪い場合は、このまま、後500キロ走ったとしたら、痛みが増していって、最後はひどく悪い炎症に発展し、片足切断に至る可能性だってあるかもしれない。

これは決して杞憂ではない。冒険に関するあらゆる書籍を読んでいる僕は、お尻の炎症でも、それが命取りになる例を知っている。アンドリュー・マコーレーという冒険カヤッカーは、2007年にオーストラリアのタスマニアからニュージーランドまで、世界初単独で渡ろうとして遭難した稀有の冒険家である。彼は、残念なことにゴールまであと65キロというところで海の藻屑となってしまった。彼は何日も海上で 同じ姿勢でカヤックを漕いでいて、海水に濡れ、同じ箇所が こすられて臀部の骨が露出するようなひどい炎症を起こして苦しめられた。僕は、マコーレーの遭難の幾パーセントかは、お尻の炎症のせいではなかったかと推察している。

サイクリングのお尻の痛みも、ひどくなると絶叫ものだ。ひどくなった翌日の朝がとりわけ痛い。若い頃なら2、3日で治ったが、それは18歳の頃の話であって、55歳の今はどうなのか全く未知数である。とにかく、これ以上悪くしてはいけないので、僕はお尻の左側をなるべくグリグリこすらないようにペダルを漕いで、 先へ進んだ。

お尻が少し痛くとも、川の流れに沿って、川下に向かって走るのは快適である。川は幾らかの勾配を持って低い方に流れていくから、 道も概ね下り坂だ。快調に自転車を飛ばし、もはや幾多の沈下橋があろうとも、それに気を取られずに先に進むことができる心持ちになった。四万十川に沿っているのは道路だけでなく、予土線の鉄道も 走っており、時折列車が山肌を走っているのも旅情を誘う。山肌にまとわり付いていた朝霧も太陽が高くなるにつれて霧散し、澄んだ空気の中を、僕は時速30キロで飛ぶように快走した。

そんな僕の腹中では、さっき食べたうどんは瞬く間にエネルギーとして消化され、またもやお腹が空いてくる。道路地図をみると、四万十川沿いでは鰻やら鮎やら川エビが食べられる食堂が目白押しに並んでいるように書いてあるのだが、悲しいかな時は11月末、旅行シーズンとしては閑古鳥が鳴く時期で、どこもそういう店は閉まっている。

空っ腹を抱えていくと、 遠くに景気の良いノボリが見えてきた。それは 「よって西土佐」という、演歌の曲みたいな名前の道の駅だった。いそいそとここでサドルから降りたが、 ここの昼ごはんは素晴らしかった。地元で取れる野菜や米、柑橘類を豊富に取り揃え、そうした農産物を生かした食事を、手頃な値段で提供しているのだった。 「ヘルシー」と言えば安易だが、「よって西土佐」の野菜たっぷりなビュッフェ式食堂の野菜中心の田舎料理は、旅行中の僕の野菜摂取不足を補っても余りあった。難を言えば、腹が減っていたので、年甲斐もなく大盛りご飯を食べてしまい、お腹がタラのように膨れてしまったことだ。

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幸い、お尻の調子もそう悪くない。自転車の距離計をみると、午前中だけで65キロほども走っている。このペースで行くと、どうやら四万十川の河口の町、中村まで軽く行けてしまいそうだ。カヌーに乗るとか、鮎釣りなんかもまだやっていなかったが、何だか道が僕を呼んでいる気がして、とにかく中村まで行ってしまおうという気になった。そこで、その場から中村のビジネスホテルに電話をし、部屋も取ってしまった。宿をとってしまうと、もう山中で路頭に迷う こともなくなったわけだから、さあ、どんと行こうぜ、という、大らかな気持ちになってくる。もう遅いかもしれないが、先入観にとらわれずに四万十川を楽しむ気持ちになってくるのだった。

そんな僕は、少し傾きかけた太陽の投げかける美しい斜光の中、ゆっくりと四万十川を河口に向かって降りて行った。この道、すなわち441号線という道路は、四万十川が有名な割りには、驚くほど狭い。車二台がやっとすれ違う広さしかない所もある。四国の田舎人は、みな軽自動車に乗っているから道路も狭くていいのだろうが、何も知らないうちの弟みたいな都会人がBMWとかレクサスとかで威張って 走ってきたら、たちまち四万十川に落ちてしまうだろう。対向車が危ないので、自転車の僕もそろりそろりと注意して走った。

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初冬の441号線は苔むした道だ

中村の町までよほど近づいた頃、確か佐田の沈下橋の近くだったが、僕は午後のコーヒーを飲みたい欲求に襲われていた。カフェインには強い習慣性がある。だが、幸いと言うべきか、ローソンは見当たらず、僕はむしろ、田舎の自然に囲まれ、じっくりと コーヒー豆を焙煎しているような喫茶店がないだろうかと、眼光を鋭くした。 すると、あるではないか、畑の中の一軒家 が喫茶店であることを発見した。

あった、あった、あるじゃないの、こういう場所に限って美味しいコーヒーを飲ませたりするんだよなあ、と僕は、甘いコーヒーの香りを想像しながらウキウキ近づいた。すると、奇怪なことに店の前には、ママチャリが30台くらい停まっている。そして、そのママチャリは、すべて見事に古びたものばかりである。古びたママチャリに乗っているのは、若い母親でないことは確かだ。ヤンママたちは、 バッテリーアシストのついた、もっとモダンなママチャリに乗っているはずだ。それに若い母親がこんな 畑の中の喫茶店にいるわけもない。恐る恐る店に近づくと、中から「ボワーン」とか「うわーん」とかエコーのかかった音が聞こえる。カラオケであった。 暇なおばあちゃんたちが、この喫茶店でのど自慢大会をやっているのだ。危ないところであった。よさこい節を聞きながらでは、どんなに美味しいコーヒーでも喉を通らない。早々に退散した が、そこから数キロも行くと、もう中村の町が遠景に見えたから、もうコーヒーはもう諦めて宿に向かった。

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河口近くの四万十川

程なく中村のビジネスホテルに到着して自転車の距離計をみると99.75キロだった。その夜、町に繰り出して、四万十料理の居酒屋に行って帰ってくると、 100キロを超えていた。川下りも鮎釣りもしなかったが、100キロ走ったので、非常に満足だった。釣りとかカヌーの川下りは、今度のお楽しみにしようと誓った。心配なのはお尻の 痛みだ。100キロ走った太もももパンパンに腫れ、痛かった。ビジネスホテルの小さな湯船にお湯を張り、ゆっくり筋肉をほぐし、お尻も労わる。疲労もたまってきている気もしたが、明日はいよいよ、四国南端の足摺岬だ。 旅のクライマックスである。

僕は、颯爽と足摺岬の断崖に立つ自分の姿を想像しながら、目を閉じた。

(四国サイクリング一人旅(その3)終わり。続きはまた書きます。この手記は、もっとさらっと書くつもりでしたが、書くことがありすぎて思ったよりも長くなってしまいました。次回から三日分くらいまとめて書きたいと思ってますが、どうなるか?)





posted by てったくん at 08:35| 日記

2018年01月09日

四国旅行サイクリング旅行 (その2)

11月29日、旅行三日目。豚と亀に見送られて出発し、窪川の宿坊で マリリン・モンローの天井絵に観音様の後光を見る: 宇佐から窪川まで( 走行75キロ )

朝5時起床。サイクリングの二日目は、体があちこち痛いという、30年以上前の記憶が寝床の中で蘇った。サドルに1日中蹂躙されたお尻、何千回とペダルをこいだ足の筋肉、ハンドルから衝撃を受ける肩の関節 、日焼けしてヒリヒリする鼻や首筋の痛みなどが、二日目の朝、目覚めと同時に体を襲うという記憶だ。

ところが、国民宿舎土佐のふかふかした布団の中でうとうとしている僕には、そんな痛みはほとんどなかった。昨夜入った温泉の効果か?メルボルンで走り込みをしてきた成果か? なんて考えるが、 昨日はたった50キロ走っただけなのだから大して疲れているはずがない。

「よっしゃ!」と声を出して布団から出て、しばしヨガをする。体と内臓に血が通うのが分かる。外はまだ暗く、朝食までは間があるので温泉に入る。湯船に浸かっていると、外で鶏が鳴く声がして、夜が明けてきたことがわかる。風呂から出て、まだ薄暗い外に散歩。建物の周りを一周すると、裏口の横に小さな豚がつながれていた。豚の横には大きな亀もいる。なぜ豚と亀が?まるでグリム童話みたいだが、亀と豚の話なんてあったかな? ちょうどいいから、今日は自転車をこぎながら豚と亀のお話でも考えよう。

建物に入ると、フロントに眠そうな、メガネをかけた若い男がいた。豚と亀の由来を尋ねる。メガネ男は、「以前のオーナーが飼っていたんですよ。宿の持ち主が変わっても、動物はそのまま居残ったんです。豚はまだ子豚で、名前はマイケルです。下の倉庫のところにいる親豚はもっと大きいんですよ。亀の名前はクッパです。年齢は分かりません」と答えた。「高知の海岸にやってくるウミガメですか?」と聞くと、「いいえ、どこか外国の亀らしいです。だから海に放すわけにいかないし、仕方なく飼っているのですよ」とのことであった。何とも気の毒な亀だ。眼下は雄大な太平洋だというのに、どこにも行けない。それに、クッパとは妙な名前だ。

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豚のマイケルと亀のクッパ

朝ごはんの時間になった。 味噌汁、だし巻き卵、塩鮭、梅干しといった、正当な旅館の朝ごはんだ。美味しくいただき、ご飯はおかわりする。登山やサイクリングの時は、腹が弾けるほど朝飯を食べても、すぐに腹が減るものだ。朝日が雲間から輝いている。 今日は四万十川の入り口、窪川の宿まで75キロほど走る予定だが、ちょっとした峠越えもあるから、気が引き締まる。朝日に向かって旅の無事を祈った。

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いよいよ出発。亀のクッパと子豚のマイケルに 「じゃあね、元気でね」とお別れを言うが、どちらも無言。宿を出ると、そこは横波黒潮ライン、15キロほどの起伏のある海岸絶壁沿いの道だ。車ならほんの30分ほどの道程だが、自転車だと、うんせうんせと登り降りして1時間以上はかかるだろう。急ぐわけじゃないから、ゆっくり走る。カーブを曲がるたびに、眼下に人気のない入江が見え、その向こうは太平洋。高校野球で有名な私立高校のスクールバスが4、5台通り過ぎるが、あとは車も来ない。空と海とその間に自分がいて、一切の雑音はなく、潮騒だけが聞こえる。

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ワインディングロードをゆっくり走っていくと、行先の崖の上に宇宙船のような丸い建物がある。保養所かホテルか?地震がきたら下に墜落しそうな崖っぷちに建っている。奇妙な建物だと思って近づくと、納骨堂だった。よくまあ、こんな場所に納骨堂を建てたものだ 。でも、昨日から気がついていたことだが、ここらでは海沿いの見晴らしの良い所に墓地があるのだ。もしかしたら四国の風習かもしれないし、日本全国、田舎はみんなそうなのかも。とにかく、こういう場所では、祖先の霊を景色の良い、天国に一番近い場所に祀っている。これが東京近郊の、例えば湘南海岸の一等地だったら、納骨堂なんか建てないだろう。ましてやオーストラリアだったら、こんな絶景の場所には何億円もする豪邸が建ってて、ニコール・キッドマンの別荘だったりするはず。ところがここでは、亡くなった人に最も見晴らしの良いところで眠ってもらっているんだから仰天だ。 生きている人よりも祖先を大事にする伝統だ。そう言えば、インドネシアのバリ島でも、海の崖の上の素晴らしい場所にヒンズー寺院があったなあ。そういう価値観と、今自分が生きている社会には、相当大きなギャップがあると言える。

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高知には見晴らしの良い墓地が多い

そんな比較文化的考察をしつつ、横波黒潮ラインを走っていくと、もう終わりに近づいた。崖沿いの道は長い下り坂になるが、路面は朝の雨でまだ濡れているから慎重に下る。それでも時速50キロくらいはすぐ出てしまう。いい調子でビュンビュン走ると、管と言う部落まですぐだった。やっぱり下りは楽しい。

菅を出てとろとろ走ると、小一時間で須坂市 。ローソンでトイレを借り、ついでに百円コーヒーを立ち飲み。日本はコンビニが多いから便利だ。そろそろトイレに行きたいとかコーヒーを飲みたいとか大福を食べたいとか思うと、必ずコンビニが現われる。そして高知の田舎にはなぜかローソンが多い。丸にKと書いてあるコンビニもあり、個人的に「マルケー」と呼んでいたが、あとで店に入ったとき「サークルケー」が正しいと知った。 「あそこのマルケーが…」なんて誰かに言って恥をかく前に正しい名前を知って良かった。高知の田舎の人に、こいつどこの田舎者だ?なんて思われるわけにはいかない。

交通量の多い県道を数キロ走ると、またローソンがあった。あの青い看板を見ると、すでに条件反射的にトイレに入りたくなる。しかし、ほんの20分前にもローソンでトイレを借りたばかりなのだから、ここはぐっと我慢して素通りする。広告とか看板とかは恐ろしいものだ。ここでまたトイレを借りて、明治美味しい牛乳なんか買おうもんなら、奴らの思うつぼである。

さて、そのローソンの先から海沿いの道幅の細い320号と言う絶壁沿いの道に入る。双方通行ができないくらい狭い。車は全然来ないから専用道路だ。時に波しぶきをかぶるくらい海側の道だ から、津波が来たら一瞬でさらわれるだろう。こんな素晴らしい道を自分一人だけで走っているなんて申し訳ないが、たくさん人がいたらこの素晴らしさは半減するから、申し訳なく思うのはやめる。

小さな半島がいくつかあって、その根元の入江には必ずと言っていいほど小さな漁港と集落がある。日本の田舎は走っていて飽きない。景色がどんどん変わるし、 人影こそ少ないが、朽ち果てた家や倉庫が立ち並び、漁網が干してあり、潮の香りの中に生活臭がある。僕は、そんな濃密な、時には腐ったような匂いを嗅ぎながら自転車を走らせる。潮の香りは本当にいいし、こういう海岸沿いのくねくね道は楽しい。オーストラリアだと、50キロずっとまっすぐな道なんかが田舎にいくと結構あるが、自転車でそんなところは走りたくない。また、同じ濃厚な匂いでも、30キロずっと牛とか羊の匂いがする中なんかも嫌である。やっぱ、日本はいいな。

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土佐一本釣りってな感じの釣具屋

ふと見ると、目の前をおじいさんがタバコをふかしながら自転車に乗っている。道のあっち側とこっち側をふらふら行ったり来たりしながら進んでいる。ぶつからないように注意して追い抜き、「おはようございまーす!」と挨拶すると、一呼吸おいて、おじいさんは、僕が言ったのより二十倍くらい大きな声で、「おっはよーございまーす!」と叫んだ。びっくりして、自転車から落ちそうになる。

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自転車じいさん

こうやって自転車で走っていると、せいぜい時速20キロだから、道行く人たちに挨拶ができる。工事現場の旗振りのおじさんたちは礼儀正しく返礼してくれる。畑のおばさん、さっきみたいな自転車で走っているおじさんやおばさんにも挨拶の励行だ。徒歩のお遍路さんには「頑張ってくださーい!」と激励。学校へ登校する子供達なんかは、元気に手を振ってくれるから嬉しい。車やバスの旅だったら、こんなことはできない。道ゆく人同士が挨拶するのはいい風習だ。オーストラリアの田舎道でも、すれ違う自動車同士でも手を振って挨拶したりするけどね。

土佐久礼という、土讃線の駅のある漁村でお昼にすることにした。ところが食堂が見当たらない。駅前に行って見るが、店が一軒もない。店のない駅前と言うのもあるんだなあと驚く。目抜き通り?を行くと、チェーンの持ち帰り寿司の店があったが、あまり食べたくない。さらにうろうろしていたら、土佐久礼町立美術館という綺麗な建物に行きついた。古い土蔵を模した建物で、腹は減っていたが覗いてみた。外はシーンとしていたので誰もいないのかと思ったら、町民主催の展覧会の初日みたいで、中にはたくさん人がいた。 展示されているのは地元の人たちが描いた絵がほとんど。下手とか上手いとか言う前に、今時こういう絵を描く人もいるのかと嘆息してしまうような作品が集結していた。言ってみれば、近代絵画におけるあらゆるジャンルを真似したような絵の集大成だ。油絵の具がゴテゴテ盛り上がっているような風景画、墨絵のような一輪挿しの花の絵、どこかのおじさんの肖像画など。もちろん、そういう絵を趣味で描くのは何も悪いことではない。しかし、こういう絵が、現代の美術に何を貢献しているのかと聞かれたら、僕にはよく分からない。とにかく、そういうたくさんの絵を土佐久礼の民衆たちは熱心に見入っている。奥を覗くと、 有名な画家の絵も数葉飾ってあった。藤田嗣次や黒田清輝などだ。近代絵画の名作を鑑賞するのもたまには良いと思ったが、もう腹がぐーぐーうるさくて集中できない。早々と外に出た。

土佐久礼は、小さくてとても良さそうな町だ。だが、結局手頃な食堂がなかったので、スーパーに入る。驚いたことに、弁当の種類は食堂の不足を補ってもあまりあるほど豊富であった。その理由を土佐久礼の人に尋ねたてみたかったが、変なことを聞く人だと思われても困るので 、おとなしく弁当と大福餅とみかんを買ってスーパーを出た。少し走って、それらを上ノ加江という静かな海辺で食べた。

弁当を食べながら、地球の反対側にいる家族に「無事です」メールを打つ。四国の辺鄙な漁港で弁当を食べている僕がスマホでチョチョっと打ったメールは、一瞬でメルボルンの妻のパソコンに届く。それは、目前の、明治時代とちっとも変わらないような寒村の景色にそぐわない行為だ。かつて一人旅とは、日常生活や家族のいる場所から、一定期間でも姿を消してしまうことだったが、今はそうではない。スマホを持っている僕は、電池が切れでもしない限り、常に家族や友達とつながっている。逆に言えば、 誰かに監視されてると言っても過言ではない。

僕は、メールを打ってしまうと、みかんを剥いて食べた。みかんの皮は、そこらの藪の中に投げ捨てた。すぐに腐ってなくなってしまうだろう。でも、弁当のゴミは割り箸以外は皆プラスチックだから、捨てるわけにはいかない。次のコンビニかスーパーに行き当たるまで持ち歩かなければならない。鬱陶しいが、それが便利であることの代償だ。昔読んだ川端康成の短編か何かに、主人公の学生が汽車の中で駅弁を食べ終えて、そのゴミを窓からぽんと放り投げる場面があった。それはどこか痛快な動作であった。でも、そんなことを今やったら、通報されて罰金を払わされるだろう。そもそも、プラスチックゴミを不法投棄しても、何も楽しいことなんかない。

弁当を食べ終わって身支度をすると、今度こそトイレにいきたくなった。しかし、この漁村にローソンはないし、公衆トイレもない。こういう時は、立ちションである。僕は、憚りなく書くが、実は立ちションが好きである。街中ではやらないが、こういう大自然の中で行うことは快感である。地球から頂いた水分と、その他のミネラルを大地にお返しするという感覚があり、その最中には、自然と一体になった喜びがある。しかし、こうやってそこらの藪で用を足していて、誰もいないと思っても、頭上からは自衛隊やCIAのドローンに監視されて いる可能性はある。現に僕は、黄色の蛍光色のウィンドブレーカーを着て、さらにヘルメットも被っていたから、他に目ぼしい色彩のない漁村にあっては、かなり怪しい人物として監視対象になっていたかもしれないのだ。これが日本海側だったら、着実に北朝鮮のスパイと疑われた であろう。

一人でいると、色々とバカなことを考える。見れば空模様も怪しく、雨も降りそうなので、出発することにする。上ノ加江で海岸線とはお別れで、ここからは上ノ加江窪川線という、さらに細い道路を行く。 上ノ加江の集落をすぎた途端、杉林の中の林道だ。一応舗装されているが、交通量が極端に少ないと見え、落ち葉や、崖から落ちてきた小石で道が覆われている。見たこともないほど大きな紫色のミミズも道路を這っている。勾配は急ではないが、どこまでも登りだ。やがて細かい霧雨のような雨が降ってきた。雨具を着るが、登りなので汗ばんで蒸し暑い。雨具を脱いだり着たりしながら走っていく。しかし、景色は素晴らしい。紅葉の黄色や赤、苔むした山肌の濃い緑、岩陰から清水が湧き出ていて、それが塩ビのパイプから迸っている。海から湿気を含んだ風が吹いてくると、 頭上に霧が降りてくる。自動車は 一台も来ない。風の音、水の流れる音の中を一人で走る 。 霧の切れ目から、ちらっと遠くに海が見える。こういう林道は、サイクリストにとって宝物だ。もう、こういう道は本州の大都市の近くにはないだろう。ここまでしっとりした道というのは、湿気のある気候特有のものだから、僕の暮らしているオーストラリアにはもちろんこんな場所はない。

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暗い杉林の中を走って、やっと峠に出たのは1時間も経ってからだろうか。11月も末というのに、汗をかきかき登ったのでペットボトルのお茶を一本飲み干していた。 上りは平均時速10キロくらいだろうから、1時間で10キロほど走っただけだが、随分遠くに来たような気がする。

今度は下りの、落ち葉や砂利に覆われた道を、あまりスピードを出さないように降りていくと、ポツポツと人家が現れてきた。廃屋もあり、まだまだ山奥という風だ。あるところまで来ると、パーっと視界がひらけて、目の前に青々とした畑や田んぼが現れた。やがて「四万十市」という看板を通り過ぎる。やがて上ノ加江窪川線は国道52号という、新しくてまっすぐな国道に行き当たる。ここには自動車がたくさん走っている。52号に入って数キロ行くと、もっと大きな56号という道に入り、しばらく行くと「あぐり窪川」という道の駅ドライブインが見えてきた。 今日の目的地、窪川の宿はもう目前だ。ここで午後3時。一休みしよう。

ドライブインの喫茶室で、コーヒーとケーキのセットを頼む。こういう小洒落たものは普段は口にしない主義だが、自転車に乗っている時は別だ。サイクリングは甘いものが食べたくなる。コーヒーとロールケーキが出されたが、栗のムースまでサービスで付いてくる。これで四百円とは安い!オーストラリアだったら、四百円はコーヒー一杯の値段だから、こんなことは絶対にありえない。日本は素晴らしい国だ。

道の駅も素晴らしい施設だ。素晴らしすぎと言ってもいい。平均的日本人は、こういうサービスを当たり前と思っているのかもしれないが、とんでもないことだ。こんな施設は、先進国と言えども、他の国には断じてないだろう。オーストラリアの「ロードハウス」と呼ばれるドライブイン兼ガソリンスタンドなど、道の駅に比べれば、掃き溜めである。道の駅の綺麗なトイレ、美味しい食べ物を出す食堂、土地の名産を山と積んである売店、親切な旅行案内所、場所によっては温泉だってある。加えて、四国ではサイクリングを奨励していて、サイクルステーションというコーナーもあって、自転車をぶら下げて停めておくスタンド(あいにく、僕の自転車のような荷物を積んで重たくなった自転車には無用の長物だが)、 空気ポンプや貸し出し工具までおいてあったりもする。過剰と言ってもいい(別に文句を言っているわけじゃありませんがね)。

美味しい栗ムースとケーキに満足して出発。目的地窪川の町までの数キロをだらだらと走る。峠越えもして70キロ以上走ったから、太ももが疲れて痛い。しかし、これが本物のサイクリングだ。白樺湖のような湖畔を、派手な色の貸自転車でキャーキャーいいながら走るのがサイクリングだと思ったら大間違いだ。

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長いトンネルを走るのは好きじゃない

さて、長い窪川トンネルを出ると、そこが窪川の町だった。どことなく裏ぶれた、暗くて古い宿場町という感じ。国道添いに行くと、大きな明るい建物があるからなんだと思ったらパチンコ屋だった。田舎で見たくないものナンバーワンである。 もちろんローソンもある。56号から 土佐街道に折れると、すぐに 岩本寺という四国霊場37番目のお寺がある。お寺のあるあたりは、しっとりとした宿場町の趣だ。岩本寺は575枚もの天井絵が有名だ。また手頃な値段で泊まれる宿坊もあり、そこが僕の今夜の宿である。

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四国霊場37番目 岩本寺

岩本寺の石段を、うんせ、うんせ言って自転車を引き上げた。2、3人のお遍路さんがお参りしている。 宿坊は境内の中の旅館のような建物。「こんにちはー、お世話になりまーす」と言いながら入って行くと、恰幅の良い和尚さんが現れ、「いらっしゃい。すぐに係りの者がご案内しますよ」と、でっかい張りのある声で言う。すぐに、年配のおばさんが現れ、部屋に通してくれた。宿坊には初めて泊まるのでやや緊張していたが、入り口横にはお土産やお遍路グッズを売っている売店があり、大浴場もあり、普通の旅館と変わらない。部屋も個室の和室で、立派な床の間もあるではないか。「お風呂もすぐに入れますよ、洗濯機もありますから、使ってくださいね」と言うことなので、早速お風呂に入り、洗濯物を洗わせてもらう。宿坊とは、もっとスパルタンな場所と思ったが、安くてサービスの良い旅館だ、これは。

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宿坊は、ただの旅館みたいだった

風呂に入ってさっぱりしたので、お寺に詣でてから、575枚の天井絵を見せてもらう。寺院を改築する費用を捻出するために、一般市民が寄進した絵だそうだが、実に色々な作品がある。墨絵、屏風絵、銭湯の書き割りのような風景、動物、人物、花や植物など。モネの絵画を模したものやマリリン・モンローまである。モンローは僕も大好きであるが、こう言う場所で見ていると、観音様のようにも見えてくる。天井のたくさんある絵をずっと見上げていたら首が痛くなった。

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岩本寺では、今夜は食事が出せないそうなので、窪川の町に出て食堂を探す。古びた居酒屋などが2、3軒あるが、居酒屋に行く気分ではない。でも田舎町だから、あまり他には店がない。こういう山間では釣瓶落としのように日が暮れて、11月末の7時はもう真っ暗だ。暗さに目が慣れていなく、その上年をとったせいか、自転車のライトだけでは道がよく見えない。暗闇をうろうろして、ようやく駅前に小さな食堂を発見した。仕事帰りの駅員と市役所の職員みたいな人が、生姜焼きとかトンカツ とか食べている。僕はオムライスと唐揚げ定食を注文した。僕のすぐ後に店に入ってきた人に店のおばちゃんは、「もう今日はご飯がなくなっちゃったから、定食はできないよ」なんて、都会では、ありえないことを言っている。まだ7時過ぎなのに、やる気あるの? お客もお客で、「じゃあ、トンカツ定食、ライス抜きでいいや」と呑気なことを言って席に座り、新聞を広げている。これが高知のペースなんだろうか。こういうことだから、ローソンなどの輩がのさばるのだ。

そうは言っても窪川のオムライス唐揚げ定食は、なかなか美味であった。宿坊に帰り、日記を書くと早々に布団に入った。まだ8時台だが、もう眠い。そう言えば、豚と亀のお話を考えなかったことを思い出す。自転車に乗ってるだけでも、僕のようなインテリの頭の中は様々な考察で結構忙しいのだ。豚と亀は、今後の課題だろう。なんて考えているうちに、意識が遠のいていく。暗闇の奥で、マリリン観音が微笑んでいる。

(四国サイクリング旅行(その2)終わり。続きはまた後日書きます)。


posted by てったくん at 18:36| 日記

2018年01月05日

四国、自転車一人旅  その1    


四国自転車ひとり旅
2017年11月27日から12月9日まで


その1: 計画から出発までと、
     一日目羽田から高知、二日目 高知から宇佐まで


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四国までのこと

四国へ行こう!と思い立ったのは、昨年2017年の頭だったかもしれない。オーストラリアに暮らして22年目。ぼくはこの頃、やや日本恋しのホームシック気味なのだ。考えてみたら日本では行ったことない場所が数多ある。四国がそうだ。行ったことないし、知り合いもあまりいない。だから四国の地理など全く頭に入ってない。坂本龍馬が高知の人であることも、正岡子規が松山の人であることも頭になかった。讃岐うどんが香川県のものであることも、高知ではカツオの刺身をニンニクの薄切りと食べるなんてことも知らなかった。知らなかっただけに、知ってしまうと、今度はどうしたって龍馬の生地を見たくなり、正岡子規記念館にも行きたくなるし、讃岐うどんも食べたいし、カツオの刺身をニンニクの薄切りで食べてみたくなる。

そもそも四国へ行こうと思ったきっかけは、亡くなった弟光太の写真だ。旅行好きだった弟は、亡くなる2、3年前、東京からフェリーで徳島へ渡った。そのとき徳島港で撮ったらしい写真なのだが、写真の弟は、船のロープをもやう英語でボラードと呼ぶ丸っこい柱に、石原裕次郎みたいに片足を載せてカッコよく立っている。それを見ていたら無性に四国へ行ってみたくなった。

僕は、四国を自転車で周ろうと考えた。それは、このブログにも前に書いたように、僕のサイクリング熱が近年再燃していているせいである。そんなで、自転車旅行の本もあれこれ読み、若い時のように長距離ツーリングをしてみたくなった。読んだ本をいくつかあげると、『こぐこぐ自転車』(伊藤礼著)、『道の先まで行ってやれ!』(石田ゆうすけ著)、『自転車日記』(夏目漱石)、Old Man on a Bicycle (Don Petterson) , Pedaling Power (Roy Sinclair), Bicycle Diary(David Byrne) , 『自転車五大陸走破』(井上洋平)、『世界130カ国自転車旅行』(中西大輔)などである。本当はもっとたくさん読んだのだが、面倒なのでこれだけしか挙げない。でも、もう立派なアームチェア・サイクリストである。

しかし、部屋にこもっているアームチェア・サイクリストに甘んじるのは僕の本意ではない。この人たちのように最小限の荷物だけを持ち、道の続く限り、遠くまで走りたい。しかし、いきなりオーストラリア大陸横断や五大陸走破は無理だ。そこで四国、ということになった。

今回の旅行は、仕事の都合で日本に帰国する11月末から12月頭と定めた。 旅行に取れる日数は最大限で12日間。これだけ走れば十分であろう。ただ、東京から四国まで走っていたら、それだけで12日間かかるので、四国への往復は飛行機にした。本当は弟が乗ったフェリーで行きたかったが、時間節約のために断念。あれこれ考えたが、今回は高知と愛媛の海岸線を走って四国半周をすることに。高知から時計回りに海岸線を走り、四万十川に沿って走ったのち、足摺岬を回って宇和島、八幡浜、松山まで走る。それから今治から、島伝いにしまなみ海道を本州へ渡って、最後は広島の尾道まで。 帰路は広島空港から東京へ戻る。二日間の休養日も含めて、全部で12日間のソロツアーという計画だ。距離は600キロ位以上だろう(実際は720キロだった)。

大枠を決めてから2、3ヶ月、今度は走行距離、宿泊先、坂の勾配や長いトンネルの場所(サイクリストにはトンネルは鬼門)などの細かいデータを調べた。ところが、そうしているうちに 頭の中が情報で膨張してしまった。今はGooglemapとか、ブログとか、Youtubeとか、あらゆる手段で調べられるので、すぐにインフォーメーション・オーバーロードになってしまう。昔は、道路地図と、せいぜい国土地理院5万分の1の地図と、交通公社の旅行案内本くらいしかなかったから、当たって砕けろというのがサイクリングの醍醐味だったが、今は情報過多だ。流行っているうどん屋の情報まで調べて一体どうするんだと、あるところから、もうそれ以上詳しく 調べるのは止めた。

そして、いよいよ出発の日が来た。


11月27日、第1日目

「リムジンバスの女性ドライバーが、肩から落ちたセーターを拾って、綺麗に畳んで渡してくれたこと」 : 羽田から高知まで(一日目、走行距離はゼロ)

出発の11月27日、僕は、調布からリムジンバスで羽田に赴き、午後16時5分発、高知竜馬空港へ向かう機上の人となった。エアバス321の荷室には、 輪行袋に入った僕の自転車ものっている。

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夕方5時すぎ、高知空港に降りたった最初の印象は、辺りがもう真っ暗だったことだ。11月末、まだ午後6時前と言うのに、鼻をつままれても分からないような闇が忍び寄っていた。空港ビルから出ると、 「ふるやのもり」という言葉が頭に浮かんだ。それは子供時代に親しんだ絵本の題名で、その中に描かれていた闇が怖かったことが記憶にある。僕は、夕暮れに家路を急ぐ、腹をすかせた子供のような心細さを覚えた。

空港ビルの前には、高知駅行きのリムジンバスがいた。だけれど、そのバスはすでに満員で、自転車の入った輪行袋を抱えた僕が乗れる余裕はなかった。これはしたり!と思ったら、「後ろのバスに乗ってください、空いてますよ」と、声がした。 狐に包まれたように声の主を見ると、それは、ややぶかぶかのユニフォームを着た若い女性ドライバーだった。見れば、後のバスには誰も乗っていない。 急いで販売機で切符を買おうとしたが、慌てて正しいボタンが分からない。若い女性の運転手は横に立って、正しいボタンを押してくれた。そして、僕が自転車を入れた大きな袋を引きずっているのを見ると、冷たい声で「自転車は、バスに自分で乗せてください、壊れても会社は責任が取れませんから」と言った。僕は、冷えていく空気の中で、額に汗をかきながら自転車の袋を大きな青いバスの荷室に詰め込んだ。

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輪行袋の自転車

一番前の席に座ると、すぐにその女性ドライバーも乗り込んできて、ドアを閉めてバスを発車させた。彼女は背が150センチくらいしかなく、まるで子供が運転してるように見えたが、運転は巧みだった。 乗客はやはり僕一人だった。前を行くバスは満員なのに、すぐ後を行くバスに僕はたった一人。「慌てるコジキはもらいが少ない」という諺を思い出す。たった一人の乗客を乗せて、 彼女はあたかも「こんなことは、しょっちゅうあるのよ」とでも言っているように、無表情で ハンドルを握っている。

一方僕は、「もしかしたら、この運転手は女狐が化けていて、山奥に置いてきぼりにされるかもしれない」と、電気がポツポツしかついてない暗い高知市の郊外を眺めて疑った。高知に来るのは生まれて初めてだったから、そんな童話的な想像力がはたらいたのかもしれない。

30分ほどで到着した高知駅は、案の定ガランとしていた(駅のように見えるが、もしかしたら山奥かも!)。寂しいバスターミナルで、僕は自転車を荷室から引きずり出した。女性ドライバーは、唯一の乗客だった僕の横に立ち、社則なのか、手伝おうともしないで眺めている。僕が、かがんで自転車を引きずり出す時、肩にかけていたセーターが地面に落ちた。すると彼女は、それをさっと拾い、綺麗に折りたたんでカバンの上にそっと置いてくれた。それは、やっと自分ができることができて喜んでいるような仕草であり、彼女の本性が滲み出た一瞬だった。「あ、どうも」と僕が言うと、「いいえ」と、彼女はこわばった表情で答えた。

高知の闇、そして、その中に現れた女性ドライバーは、この先の旅をどこか暗示している気もしたが、どう言う暗示なのかはわからなかった。ただ一つ言えることは、今は闇の中にある四国も、朝になればその全貌を晒すだろうということだ。これから走っていく四国は、きっとこの若い女性運転手のように、機会さえあれば、 銀輪の旅人に優しげな本性を垣間見せてくれるであろう。



11月28日 第二日目
「人はどうして一人旅をするのかと、失われていく意識の中で考えたこと」:高知から宇佐まで (走行距離51キロ)

 
旅というものは、終わってしまうと夢を見ていたような心持ちがする。今この文章を書きながら四国で撮った写真を見ても、その光景を本当に見てきたのかどうかもう定かではない。高知と愛媛の海岸線を10日間も自転車で走ったことなど夢の中のことのようだ。

メルボルンの部屋のパソコンで、高知の写真を見ていると、その中に高知駅前Sホテルの駐車場で、自転車を組み立てているところを写した一枚がある。 高知についた翌朝は朝の4時に目覚めた。そんなに早くから活動を始めると一日の行動に差しつかえるから、もう少し寝ていようと試みたが、5時になると完全に目が覚めてしまった。僕は音を立てないように、自転車の入った大袋を石川五右衛門のように担いで、 エレベータに乗って真っ暗な闇へと降りて行った。

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組み立てられる愛車

四国と言えども、11月末の日の出前のコンクリートの駐車場は冷え切っている 。 僕は震えながら、かなり長い時間をかけて自転車を丁寧に組み立てた。走っていてネジが緩んだりしないように締めるところはしっかり締めた。何せ、これが本番なのだ。今年の初めにこの旅を思いついた時から、何度この瞬間を想像したことか。何度この自転車を整備するために解体したり、組み立てたりしたことか。もう目をつぶってもこの自転車を組み立てることができる。僕は、今日から十日間も、この自転車に乗って走っていくんだ。

組み立てが終わる頃、空が白み始めた。組み立て終わると、自転車の調子を見るために車道に出た。自転車は音もなくスーッと走った。まるでスケートの選手が 氷のコンディションを確かるために弧を描いて滑るような感じだ。700c、28ミリのタイヤには、10気圧の空気がパンパンに詰まっている。そのタイヤは摩擦抵抗などないように、素晴らしく滑らかにアスファルトの上を転がっていく。

しばらくして、荷物をくくりつけた僕は、いよいよ高知の街を走り出した。高知の街は、道路も歩道も広くとってある。景色も広々としている。高いビルが少ないせいだろう。朝の8時前というのに、たくさんの学生や通勤人が自転車に乗って息急き切って走っていく。それは大きな流れとなって歩道を埋め尽くし、まるで遡上する鮭のようだ。 僕は、その間を縫うようによろよろと、自転車の乗り方を覚えたばかりの子供のように走る。オーストラリアから来た僕は、まだ日本の道路を走るのに慣れていないのだった。

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遡上する鮭のような高知の高校生たち

僕はゆっくりと、はりまや橋、高知城といった観光名所を回った。高知城址の中の高知県立文学館にも入った。高知の文学者にも色々あることを知るが、あまり興味を持って読んだことのない作家が多い。だが、それは僕の好みの問題であって、そう勝手に思われる作家たちには迷惑な話だ。文章を書くのは大変なことなのだ。僕には、読んだこともない作家のことをとやかく言う筋合いはない。売店には、それら作家たちの本が置かれていて、これを機会に何冊か買いたいところだったが、自転車旅行ゆえ、重たい本を買い込むわけには行かない。題名だけメモして 文学館を去る。

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はりまや橋にて

こうやって観光名所を回っているのも楽しいが、今日中に、3、40キロ西の宇佐の 国民宿舎「土佐」まで行き着かなければならない。だから見物は早々に切り上げて桂浜 に向かう。途中、高知市を見渡せる竹林寺があるので、いくらか山登りになるが、足慣らしに登ってみた。 見晴らし台からの眺めはとてもよかったが、見晴らし台にあるレストランが絵本カフェになっているのは唐突だった。本のセレクションはかなりランダムであったが、珍しい古本も置かれていた。中に私が手がけた絵本などもあって、そのことを言わなくてもいいのに、売り場の若い女性に告白してしまう。すると、「えー、すごーい! どの本ですか?」と驚かれ、さらに一緒に写真を撮ったりもした。それで、少し良い気分になったのだが、だからと言って「今夜、もっと詳しくお話を伺わせてください! 」と言う運びには全く進展しなかったので先に進むことにした。

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絵本カフェにて、そこに置かれた絵本の訳者が目前にいることを知り、女店員が歓声を挙げた

そこから桂浜は、ゆっくり走っても1時間ほどだった。 途中に大きな造船所があって、トラックがたくさん走っている。美しいと言われる桂浜にもさしたる感慨が浮かばなかった。曇り空だったこともあるかもしれないし、空腹を抱えて走っていたせいもある。浦戸湾の河口を渡る橋が自転車は通れず、かなり長い距離を戻って、渡しフェリー乗り場まで戻らなくてはならなくて、うんざりもした。

浦戸湾の渡しフェリー待合所で待っていると、お遍路のおじさんがいた。65歳くらいで最近仕事から引退したばかりと言う年恰好だ。どのお遍路もそうであるように、 「南無大師遍路金剛、同行二人」と背中に書いてある白装束を着て杖を持っていた。 時間があったから、僕は少し勇気を出して、「今日はだいぶ歩かれたんですか?」と尋ねた。お遍路は「20キロばかりは歩いたかな。今日はあと少しだけね」と 笑いながら言った。お遍路と言うと、田宮虎彦の『足摺岬』に登場する昔のお遍路のイメージしかなかったから、現代の普通のおじさん遍路が新鮮だった。モンベルのリュックを背負い、高価そうなハイキングシューズを履き、赤いキャノンのデジカメを持っている。その上、僕の自転車を見て「細いタイヤで、走りやすそう ですね。どれくらいスピードが出るんですか」などと質問もする。そんなで、和やかに会話をした。たった五分だけの渡しフェリーの上でも、お互いの写真を撮り合い、「じゃあ気をつけて。またどこかで」なんて言って別れた。田宮虎彦的なお遍路の世界ではないんだな、全然。

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仁王立ちで行方を眺める遍路おじさん

浦戸湾を渡ると、腹がどうしようもなく減ったので、ドライブインでまずいカツカレーの昼飯を食べる。それから楊枝くわえて、シーハーシーハーしながら土産物を冷やかし、生姜アイスなんてものも食べてしまう。立ち食いしながら、どこか田舎から来た遍路ツアーのおばさんと、「生姜アイスなんて珍しいけど、おいしいねえ。健康にいいのかね?」とか会話してしまう僕は、本当にいつもの自分なのか?

しかし、うかうかしていたら、日が傾いてきたた。 さあ出発だ。宇佐という漁港までの25キロほどは素晴らしくまっすぐ で、滑らかな堤防沿いの道だった。飛ばすというのでもなく、さりとてのろのろ走るのでもなく、几帳面に足に力を入れてコンスタントにこぐ。やっぱり1日目だから、自転車のこぎ方も真面目なんだな。海岸沿いを、太陽を追いかけるようにして走っていると「飛び出せ、青春」ってな感じがしてきた(分かる?) 

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夕日に向かって走れ!

しゃかしゃか走っていると、遠くに見えていた宇佐の半島が、ぐんぐん近づいてきた。いい感じの達成感だ。宇佐の集落まで来ると、にわか雨がパラパラと降ってきた。夏の雨のように暖かくもないが、さりとて冷たくもない雨に濡れながら、国民宿舎までの坂道を、かなりな急坂だったが、一度も休まずに登りきった。登ると、汗びっしょりだった。崖の上の国民宿舎は、エーゲ海にあるような白亜の建物で、今日走ってきた海岸沿いの道が一望できた 。

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白亜の国民宿舎に泊まり、カップルに睨みをきかせた

雨に濡れて汗まみれの僕は、 ピカピカのレンタカーから荷物を下ろしているカップルなんかをちらっと睨みつけながら、チェックインする。チャリダーとしての誇りと言うか、プライドで胸がいっぱいだ。お前らがイチャイチャしながら車で登ってきた坂を、俺はひとりで自転車で登ってきたんだぜ、すごいだろ!なんて言いたくなるが、グッとこらえる(分かったから、 早く温泉に入って、ビールを飲んで気持ちを落ち着けよう!)

部屋に上がると、シーンとした静けさに包まれた。四国サイクリングの1日目は幕を閉じたが、今朝起きた時の興奮はまだ残っていて、まだ夢の続きを見ている ようだ。まだ10日も旅が続くのだ。疲労は心地良く、背骨の髄まで幸福だった。風呂に入った時も幸福だったし、ビールを一杯やりながら、一人で暗い海を見ながら食事をした時も幸福だった。布団に入って、眠くてまぶたがくっつきそうになっている時が一番幸福だったかもしれない。目をつぶって、妻や子供達がここにいて、この幸せを分かち合えればもっと楽しいだろうとも思ったが、同時に、これはたった一人で来たからこそ味わえる幸福であることも確かだと分かった。

幸せとは何だろう? 矛盾しているかもしれないが、ある種の幸せのためには、孤独というエッセンスが不可欠なのかもしれない。だが、そんなのは真の幸せではないと反論する人もあるだろう。では、なぜ人は 一人旅なんかするのだろう? 眠りにつくまでの10秒間ほど、そんなことを考えたが、その答えが出る前に僕の意識は失せていた。

(第一部終わり。続きはまた後日書きます。)
posted by てったくん at 11:46| 日記

2017年08月17日

ロフテッド軌道なこの頃

2017年8月17日

上から、危ないものが降ってきそうな日々である。

北の方に住んでいる将軍様がミサイルを打ち上げ、物議を醸し出している様子が連日ニュースで報道されている。我が祖国日本にも大いなる影響が出始めているし、遠くの、ほとんど危害を受けそうもないオーストラリアの首相まで「ミサイル防衛!」とか言い出してとても物騒になってしまった。私も、そんなで、ついニュースに釘付けになってしまう。

そんな中、北海道の沖合に弾道ミサイルが落ちた時、ニュース解説に 「ロフテッド軌道」(通常より角度をあげて高く打ち上げる方式)という 言葉が出てきた。数学に弱い私は、こういう複雑な物理の概念は自分の日常には全く縁がないだろうと即座に考えた。そう考えつつも、頭上に弾道ミサイルが(例え破片でも)落ちてきたらさぞ恐ろしいことだろうと乏しい想像力を駆使して考えた。

翌朝、メルボルンには強い風が吹いていた。用事で我が家に立寄った大工のギャリーが、大きなユーカリ木の梢を指差し、「あの枝、折れそうだよ」と言った。

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問題のユーカリの木

見上げると、確かに、ある大きな枝の根元の皮がハゲて、生木が表出している箇所が見える。風で揺られてダメージを受けたのか。その枝は地上5メートルの高さにあり、横に3メートル張り出している。根元の太さは15センチもあるだろうか。それだけならまだしも、その張り出した太い枝は、私の愛車スバル・リバティー(日本ではレガシー)2006年型と、娘のトヨタ・カローラ2004年型の上で、強風にゆらゆら揺れているのだ。私と娘の車が製造10年以上たつ中古車であることはこの話の趣旨と全く関係ないが、こういう古い車でも、私たちは大切に日常の足として使っているのだ、ということを主張したいためにあえて付記した。

そして、その太い枝には、さらにもっと 折れそうなボロボロの枝が2、3本ついている。どうして気がつかなかったのだろう、この枝の一本でも折れて下に落ちれば、車の屋根は潰れ、窓ガラスは粉々に砕けてしまう。もし枝の根元から折れたら間違いなく車は廃車となるだろう。

今すぐそこにある危機に突然直面し、私は言葉を失ってしまった。 北の方の将軍様が、色々危険な兵器を製造しているのを知っていながらも、最近まで特に何もしなかった米国の大統領たちも、そんな気持ちなのかもしれない。

実を言えばこの枝については、私がこの家を17年前に買った時点から、気になっていたことは確かだ。ただ、この木は隣家の敷地に立っているので、枝を勝手に切るわけにはいかない。隣には、ニブとケイという退職した夫婦が住んでいる。この二人に、この木のことを相談し、数年前には、実際に枯れ枝を切ってもらったこともある。切ってくれたのは、長男のサイモンである。サイモンはビクトリアのモーイという田舎町の営林署に勤める木こりであるから、スルスルっと木に登って、チャチャッと大きな枝を切ってしまった。

そこで、今回もニブ とケイに相談しに行った。隣家の家のドアベルを鳴らしながら、自分が38度線越しに、北の将軍様に対話を求めている韓国の「文」という名前の大統領に似ているかもしれないと感じた。文大統領と私は、実は同じようなメガネをかけているし、ちょっと顔つきも似てないこともない。ただ、文さんの方が私よりも頭髪はフサフサしているようだ。でも、もしかしたらアデランスかもしれない。しかし、髪はともかく、総合的ルックスでは、私は負けていないと自負している。この間書いたブログにも、バンコクを訪問した際に、私がタイの故プミポン国王に似ていると、日本人女性たちがキャーキャー騒いだことを書いた。自分で書くのも僭越だが、私がここまで世界の指導者たちに似ているということは、単なる外見上の問題ではなく、私の内部から溢れ出てしまう知性や人徳、カリスマ性のせいなのだと疑わざるを得なくなってくる。

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やっぱ、あんまり似てないか?

さて、枯れ枝に話を戻すが、北の将軍様とは違って、ニブはすぐにドアをあけ、即座に対話に応じてくれた。私は言った。「例のお宅のユーカリの枯れ枝なんですが、実は根元から折れそうなんです。枝の根元の皮が剥がれてきているし、この強風だし、切っちゃうわけにはいかないですかね?」

「そりゃあ、いかん、切ってしまおう」とニブも同意した。 その横からケイも、「私なら、あの木の下には車は置かないわ」と言う。「じゃあ、木を見てみよう」とニブが腰をあげたので、外へ出て梢を見上げた。

「ああ、こりゃあいかん。切らないとダメだ。でも、どうしよう、サイモンはちょっと最近忙しくて、すぐにはきてくれないぞ」と、ニブは言う。

私たちは、しばし腕組みをして考えた。ニブはもう72歳の老齢だし、私だって、木登りは得意ではない。木に登らずに枝をはらう方法はあるか?

その時、閃光のように、私の脳裏に「ロフテッド軌道」という言葉浮かんだ。物理の法則を実地に移す機会であること私は認識した。あまり素晴らしい思いつきなので、これを記念し、「8月7日革命」と呼ぶことに決めた。

「ロープを投げて引っ掛けて、枯れ枝を折っちゃいましょう。ロフテッド軌道の応用ですよ。簡単なことです」と、私はニブ将軍に提案した。ニブは即座に、「そりゃあいい考えだ。そのロープを、車に結んで引っ張れば、あの枝はたちどころに折れるだろう」と言った。そこで、翌日か、翌々日、風が弱まった時に、やっちゃいましょう、ということになった。


ロフテッド軌道で弾頭を飛ばす

翌々日に、ようやっと強風が収まったので、私とニブは、件の木の根元に集合した。私は、物置から、15メートルあるナイロンのロープを持ってきた。ただし、これに何か重りをつけなければいけない。私は工具箱から、スパナを取り出して結んだ。北の将軍様も、火星号ロケットの先っぽに何かをつけて飛ばしたらしいが、その弾頭は鋭角で大気圏突入した際に、摩擦熱で燃えてしまったという。だが、 私のスパナは、かなりの衝撃を受けても大丈夫であろう。そういう確信が私にはあった。だが、念のため、スパナはロープに二重固結びで結んだ。

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スパナの弾頭

「では、ちょっと貸してごらんなさい」と、ニブは言うと、スパナの弾頭をつけたローブをヒュンヒュン回し、枝に向けて放り投げた。格好は良かったが、なかなか思ったところには飛んでいかない。

数回やって、ニブは音をあげる。「腕が痛いから、代わってくれ」。そこで、私も放り投げてみる。結構腕力が必要で、何度も投げると、本当に腕が痛くなってくる。10回目くらいで、やっとお目当の枝に引っかかった。ところが、弾頭のスパナが軽すぎて、ロープは枝に引っかかって、下へ滑り落ちてこない。仕方がないので、ロープを 外し、もう一個スパナをつける。

さらに投げること10数回、やっと枝にかかる。今度は、スパナ二個の重さで、ローブが反対側にスーと落ちてくる。ここまでやってわかったことは、ロフテッド軌道で垂直に投げるのは、なかなか思った方角と高さに飛んでくれないので、高度な技術がいるということだ。水平に遠くに投げる方が、よっぽど楽である。きっと、北の将軍様も実験を重ねてきて、このことを痛感しているに違いない。ロフテッド軌道は、文字どおり「一筋縄」ではいかないのだ。

やっとロープが枝にかかったので、ニブと二人で、「えいや!」っと引っ張ってみる。ところが、折れそうだと思った太い枝は、全然折れてくれない。まだ中が生きているらしく、いくら引いても、曲がるだけだ。「こりゃダメだ。見ろ、枝の先っぽ にはまだ緑の葉っぱが少し生えている。まだ 生きているんだよ」とニブが指摘する。

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やっと引っかかったロープ

そこで、確実に枯れている枝だけを落とすことに専念した。おかげで、ロフテッド投げが二人ともうまくなり、大ぶりの枝を2本落とすことに成功した。太さ10センチ、長さ1.5メートルほどもある枝がドスンと落ちてくるのは快感だった。

「やれやれ、大変だったけど、面白かったのう」と言って、ニブは帰って行った。後には、薪にできるような枯れ枝が荷車いっぱいに残った。

こうして、 我が家の「8月危機」は沈静化した 。上から、危ないものが 降ってくるのは本当に困りものだ。北の将軍様にも、矛先を納めてもらって対話に応じて欲しいものだ。

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posted by てったくん at 13:36| 日記

2017年07月20日

ダンデノンのレタス男

2017年7月20日

この間、ダンデノン図書館にノートパソコンを持ち込んで仕事をしていたら、昼時に、僕みたいなアジア系の若い男が(僕は若くないが)、図書館をウロウロ歩きながら、何か丸くて大きな薄緑色のものを食べていた。メロンパンの大きなやつかと思ったが、メルボルンにはメロンパンは売ってない(と思う)。よく見れば、それは生のレタスだった。

僕もレタスはどちらかと言えば好きだが、丸ごと食べたことはない。この男は、マヨネーズも塩も何もつけずに食べていた。帰りがけに、ここで働く 図書館員で、友達のロシュに「この図書館には面白い人がたくさんくるんだろうね。さっきは、レタスを丸ごと食べている若者がいたよ」と言うと、ロシュは「そんな人、毎日くるよ。でも、レタスを食べているのは見たことないな。健康に良さそうだね」と笑っていた 。ちなみに、ロシュはスリランカ系オーストラリア人で、ベジタリアンである。

ダンデノンは、僕が住んでいるダンデノン丘陵の山を降りて、20分ほど車を走らせた大きな街だ。メルボルンの副都心にしようとしていて、官公庁の役所を移転させたりしている。その理由は、ここの土地がまだやや安いからだろう。なぜ安いかと言うと、周囲には工場や倉庫が多く、まだ場末というイメージが残っているからだ。二駅ほどメルボルン方向に戻ると、スプリングベールがあり、ここは昔ベトナム、カンボジア難民の定着支援センター(つまり収容所)があった場所で、今でも大きなベトナム街があり、僕はここへよくフォーという麺類を食べに行ったりする。

だからという訳でもないが、この辺りはすごく庶民的で、雑多で、居心地が良い。僕は大好きである。いつだったか、ダンデノン駅のホームで、昼間から嘔吐している人を見たが、一気に池袋駅の西口公園とか新大久保にいるような感覚が戻ってきて、ある意味ホッとしたことを覚えている。メルボルンは綺麗な街で治安もいいが、清潔で整頓された場所にあんまりずっといると落ち着かなくなる。

ここには移民や難民の人が多く暮らしている。ダンデノンの街を歩くと、ある一角は完全にアフガニスタンである。パン屋、食堂、服、絨毯など。その向こうはインド人街で、「リトル・インディア」と看板にあり、香辛料やサリーの布地を売っている店などが並ぶ。この頃増えているのは、ソマリア、シリア、イエメン、イラク、レバノンなど、中東やアフリカ系難民だ。こういう人たちの行く美容院やら両替屋やら携帯電話屋やら結婚式の引き出物(かな? )を売るような店もある。

そんな中に、すごく立派なモダンなダンデノン図書館があるのだが、利用者には白人なんかほとんどいなくて、みんな上記のような雑多な人たちで占められている。図書館で働いている人も、利用している人もだ。本も、英語の本は三分の一くらいで、あとはベトナム語、クロアチア語、スペイン語、中国語、ペルシャ語、アラビア語、ギリシャ語、ロシア語などだ(ここには日本語はない)。そういう場所だから、東アジア出身の僕にも居心地がよく、ここへきて仕事をしていると、とてもはかどる。

図書館なのに一階にはカフェがあり、可愛いイスラム系のスカーフをした少女がコーヒーを入れてくれる。一階は食事をしても良いことになってるから、昼頃は、ターバンを巻いたシーク教徒の若者が、ハンバーガーを食いながらチェスの対局をしている 。その横では、インド人一家が盛大にタッパーを開けてカレーを食べている。その隣では、ソマリア人の若者たちが大きなテレビスクリーンでサッカーゲームをしながらピザを食べている。メルボルンの他の図書館だったら、それだけでクレームものだろうが、ダンデノンではそんなことで目くじらを立てる人はいない。無法地帯のようでも、不思議な秩序があり、みんな居心地よく時を過ごしている。熱心に仕事や勉強をしている人にも、そう言う雑音や食べ物の匂いは、逆に心地よい刺激になる。言い換えれば、ここには生活の匂いがあり、人がいれば、普通に起こる騒音や臭気があり、それでいて、ピリピリ神経をとがらせている人がいない。

ダンデノン図書館へ行と、僕は原稿用紙で言えば、10枚程度の文章を書くか、論文を一つか二つ読み、それくらいやるとパソコンをぱちっと閉じて、昼飯を食いにマーケットへ行く。ダンデノンマーケットは大きな市場だ。メルボルンでは、市内のビクトリアマーケットが有名で、それ以外にも、3、4箇所、大きなマーケットがある。しかし、この頃、市内のマーケットはヤッピーみたいな人が高価そうなスポーツウェアを着て、小洒落たカフェでカプチーノなんか飲んでいるから、あまり近寄らない。

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だが、ダンデノンマーケットでは、そんな人は全く見かけない。恐らく、ここはメルボルンで一番物価の安いところだろうから、1セントでも安く買い物をしようとしのぎを削る人たちばかりだ。目に入るのは、魚がゴロゴロ入ったビニールを引きずるように下げて歩くインド人のおっさん、ブルカを着たイスラムの女性、甘くて口が曲がりそうなドーナツを歩き喰いする、恐ろしいほど太って大きなポリネシア人のおばさん、ペプシをガブガブ飲んでいる足の長いアフリカの若者とか、ドロドロに汚れた作業着のボスニア人のアンちゃんとか、そう言う人たちばかりである。

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ダンデノンマーケットに行くと、僕はまず八百屋で、シメジとかオクラとか大根とか大豆もやしとか、普通のスーパーでは売ってない野菜を仕入れる。それから、アフガンのパン屋で40センチくらいある平べったいパンを買い、魚屋では、サヨリとかキスとかイカとか、その時に安くて新鮮な魚を仕入れる。ユーゴスラビア人(だと思う)の肉屋では鳥のモモ肉や、衣をつけて揚げるだけになっているシュニッツエル(要するにトリカツ)を買ったりする。シュニッツエルは「5枚で15ドル」くらいで売っているのだが、買ってみたら6枚入っていたりする。わざとなのか、間違いか分からないが、ダンデノンマーケットが好きな理由はこう言う所にもある。(もちろん、逆のこともあるが、そんなことで怒っちゃいけない)。

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買い物を済ますと、いよいよ昼ごはん。マーケットの一角がフードコートになっているので、そこを徘徊して、何を食べるか迷う。はっきり言って洒落た店は一軒もない。質よりは量で勝負だ。だから、何を食べても結果はそう変わらないのだけど、なぜか僕はすごく迷う。

ここよく食べるのは、ベトナム屋台で買うフォー(チキンかビーフ)だ。あっさりとしたスープに、白い麺が入っていて、これはいつ食べてもうまい。レモンを絞り、唐辛子をちょっと入れる。ベトナム風豚肉の炙り焼きと目玉焼きが乗ったご飯も美味しい。スリランカのカレーも辛くてうまいが、いつも行列ができていて待たされる。カレーと言えば、モーリシャスのカレー屋もあるが、ここのチキンカレーもうまかった。(モーリシャスってどこよ?)中東風のシシケバブの羊肉と、パセリのサラダにガーリックソースをかけて、薄いパンで巻いたケバブ・ラップもうまいが、やや胃にもたれる。ニュージーランド・ポリネシア料理の屋台もあって、いつだったか「アサリ・フライのバーガー」という珍しいものを注文したら 、巨大なパンケーキの中にアサリが数粒入っていて、それを巨大な揚げパンに挟んであった。頑張って半分くらいまで食べたが、それ以上は苦しくて食べられなかった。これを食べ切れるのは、 小錦みたいな体格の人だけだろう。日本食の屋台もあるが、キツネうどんとか巻き寿司とかの通常のメニューなので、僕は食べたことがない。

砂糖きびを絞ってジュースにして売っている店もある。ここはロックンロールをガンガンかけ、店のアンちゃんはステップを踏んで踊りながらジュースを絞っている。が、こういう人はやや浮いて見える。この場の雰囲気に合ってない。奇をてらって、という感じだろうか。人間、無理をしちゃいけないと僕は思う。

さて、二周ほど歩いて決心した。今日は、マレーシアの屋台で、チァー・クエイ・ティオという、きしめん焼きそばみたいなものを頼む。ここで食べるのは初めてだ。「辛いのか、辛くないのか?」と聞かれたから、「ちょっとだけ辛いの」をお願いする。 東南アジアの食べ物は、辛いのはめちゃ辛いので、僕には味が分からなくなるのだ。

待つこと5分。焼きそばの入ったプラスチックの箱を持ち、野外に出た。七月のメルボルンは寒いが、外の駐車場の横では、いつも古道具の競りをやっているので、これを見ながら食べるのだ。マーケットが開いていれば、いつもこの競りが出ているが、古い工具、電気器具、スポーツ用品、家具など、山積みになっているものから、やたらに声のでかいおばちゃんが、ランダムに売り物を引き摺り出し、競り売りする。いつも黒山の人だかりで、一日中眺めている人もあるみたいだ。

「さあ、新品のロープ、10メートルで5ドルはどうだ? じゃあ、3ドル、ええい、負けに負けて2ドルだ、さあどうだ、どうだ?」みたいな感じで売っていく。10メートルで2ドルのロープは、スーツを着た銀行員みたいな人が買って行ったが、奥さんの首でも締めるのだろうか?

「さあ、お次はゴルフセット。年代物のアンティックだよ。店で買ったら、50ドルはするかも! さあ、これをまとめて10ドルだ、さあ、どうだ! ええい、8ドル? バカみたいな値段だよ。じゃあ、5ドル?」古びたゴルフ道具なんか、誰も買わないから、おばちゃん、ゴルセットを後ろに放り投げた。きっと、粗大ゴミから拾ってきたに違いない。

僕としては、奥に置いてある70年代のソニーの古いラジカセが売りに出されないかと興味を持つのだが、全然そういうものの順番は回ってこない。買ったとしても、きっと動かないだろうが。見ればちゃんと、 「お買い上げになった電気製品の動作は保証しません」と看板に書いてある。まじかよ、と思うが、まじなんである。

競りの行方は、電気 トースター2ドル、スコップ5ドル、水道の蛇口50セント、天井から剥ぎ取ってきた蛍光灯の電気3ドルってな具合で進行していく。これで商売になるんだろうかと思うが、しのぎを削って生きると言うのは、こういうことを言うのだろう。でも、どこかしらユーモアが感じられるのは救いだ。

僕は、焼きそばの蓋を開けて食べ始める。暖かい湯気が立ちのぼる。熱いやつを口に入れる。ああ、少しだけ辛いどころか、とても辛かった! 赤いソースをドバッとかけて炒めてあり、味付けは甘いのだが、辛いことは辛い。アサリとかイカも入っていて美味しいが、はーはー言いながら食べる。大きな、殻に入ったままのエビも二匹のっかっていて、こういうものが入っているのは値段を考えれば大サービスだが、食べるのが厄介なので、ありがた迷惑と言ってもいい。だが、美味しい食事というのは、作るにも食べるにも、ある程度手がかかるものなのだから、殻付きのエビくらいに文句を言ってはいけない。

僕は手をベトベトにしながら、辛いエビを剝いて食べた。食べながら、もしかしたら、今なら丸ごとレタスも美味しく食べられるかもしれないと考えた。

posted by てったくん at 11:27| 日記

2017年06月16日

タイ、バンコク訪問記(2)

2017年6月17日

紀伊国屋書店で立ち読みをしそこなった初日

バンコクで5月の中旬に開催された、IBBY国際児童図書評議会のアジア大会に出席した私は、その間たくさんの子供の本の作家や翻訳家や編集者や図書館員と言った人たちと行動を共にした。

その中の一人に、売れっ子の児童文学作家で、文学賞の受賞者であるMさんがいた。私は初対面であったが、初日の朝ごはんの後だったか、彼女とホテルのロビーで立ち話をした。そのとき私が、「メルボルンには日本語の書店がないんですよ。だから、私は日本語の本に飢えているんです」というようなことをなぜか彼女に訴えた。するとMさんは、美しい大きな目をさらに見張って、「えー、うそー、本当ですか? ひどーい」というようなことを言った。私は、「本当なんですよ。だから、バンコクでは、ぜひ日本語の本を買いこんで帰りたいんです」と言った。

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タイには金色のお寺がたくさんある

するとMさんは、「それなら、ホテルの向かいの伊勢丹には紀伊国屋書店がありますよ」と親切に教えてくれた。私はそれを聞くと、もういても立ってもいられなくなり、IBBY国際児童図書評議会アジア大会なんてどうでもいいから、紀伊国屋に飛び込んで、読みたくてうずうずしている村上春樹『騎士団長殺人』とか、雑誌カーサブルータスの新しいのとか、新刊の文庫とか、NHK放送の俳句の本とか、DANCHUとか、新しい日本語の本を手にとって立ち読みの喜びに浸りたくなってしまった。

ところが、そうは問屋が卸さなかった。ニュージーランド大会の時も一緒で、スペイン大会の時もインドネシア大会でも一緒だった、泣く子も黙る出版社の女社長M井さんと今回も一緒になった。「さあ、渡辺さん、これから大会のレジストレーションです。それが終わったら今日は基調講演を聞きます。夕方それが終わったら、夜はバンコクの日本交流基金で「児童文学作家の仕事」と言うシンポジウムがあって、MさんとHさん、それからJさんが出演します。渡辺さんも友情出演で出ることになっているから、よろしくお願いします。基調講演が終わったら、すぐタクシーで行きますから、私に着いてきてください」と、M井さんはきっぱりと言うのであった。そればかりか、彼女がエクセルで編集した滞在予定表を渡され、それを見ると、私のバンコクの予定は朝から晩までびっしり詰まっているのだ。

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ホテルのロビーにあった故プミポン国王の祭壇

そんなで、初日の予定が全部終わったのは夜10時過ぎ、夕食を食べたらもう11時過ぎだった。バンコクの街には人がまだ溢れていたが、初日、私はとうとう紀伊国屋書店には行けなかった。

作家のMさんとHさんに本を頂く

翌朝、また朝食の後、児童文学者のMさんに会った。彼女は、美しい大きな目で私の目をしっかり見据えて、いきなりこう言った。「渡辺さんは、河合隼雄を読みますか?」

「えっ?」私は、うろたえてしまった。いきなり、なぜそんなことをMさんに聞かれるのか? 「河合隼雄? 精神分析の? ええ、読んだことはありますが、はあ…」 Mさんは、ちょっとイライラしたように、また聞いた。「河合隼雄は好きですか?」私は、もっとうろたえてしまった。「はあ、好きと言われても、さあ、あはは…」と言いながら、後ずさりしそうになった。

Mさんは、一体どうして河合隼雄のことを私に聞くのだろう? 私が何か変なことを言ったのだろうか? だから、河合隼雄のユング的精神分析の本でも読んで治療した方がいいと、そう言っているのか? そうだ、きっとそうだ。私はとっさに考えた。そして、だから言わんこっちゃない、初対面の児童文学者に「私は日本語の本に飢えているんです」などと言うんじゃなかったと、深く後悔したのだった。

すると、Mさんは、バッグをゴソゴソかき回して一冊の文庫本を取り出した。「これ、河合隼雄の本ですけど、飛行機の中で読んじゃったから、あげます」そう言って、『大人の友情』と題された文庫本をくれたのだった。

なーんだ、そんなことだったのかと、私は胸をなでおろした。私の頭が疑われたのではなくて、心優しいMさんは、私に本を恵んでくれたのだった。

すると、その横でやりとりを聞いていた、もう一人の児童文学者のHさんも、「あら、それなら私も本あげます!」と言って、早速くださったのがご自分の書いた本だった。驚くなかれ、HさんもMさんと同じ文学賞の受賞者なのだ。こんなすごい人たちと一緒にいるなんて、しかも、その二人に本を頂くなんてすごい!と、感激してしまった。

私は結局、二日目も三日目も紀伊国屋に行けなかったので、頂いた二冊をあっという間に読んでしまった。私の日本語に対する飢えもあったし、どちらも、すこぶる面白い本だったので楽しい読書ができた。どうもありがとう、Mさん、Hさん!

象の背中に乗り、「鼻スースー」を買い占めたことなど

三日間続いたIBBY国際児童図書評議会のアジア大会も無事終わった。翌日、私は、女社長M井さん、児童文学者のMさんとHさん、飛行機に乗り遅れて後から加わったJさんという、これまた売れっ子の児童文学者、それからアラビア語、トルコ語、ペルシャ語の通訳翻訳家のKさんというすごい女性陣たちと、バンコク周辺の観光に出かけることになった。M井さんは、気っぷの良い人なので、「車を一台借り切って、ガイドさんもつけましたから」と、景気良く言った。

出発は朝7時。ちょっと早いが、車に乗っていればいいのだから楽だ。ガイドさんは、スリムで、体重が30キロくらいしかなさそうなタイ人女性。「私の名前はバンダです。動物のパンダのPをBに変えると、私の名前です」と言ったのが印象的だった。日本人女性たちは、「バンダさん、体重何キロかしら?きっと私たちの半分くらいね。羨ましいわ」などと噂していた。

高速道路を1時間ほど飛ばし、最初に降り立ったのはココナッツ農園の販売所だった。ココナッツを煮詰めて砂糖にする実演は面白かったが、それ以外はいかがわしい土産屋と言った風だった。

そこを出ると、バンダさんが、「象に乗りたければ、30分だけ停車します。象に乗るには、30分だけ必要です」と言った。象は予定外だったが、一日とか一週間ならまだしも、30分だけなら象に乗るのも児童文学者にとっては良い経験になるだろうと言う結論になり、象に乗ることになった。

象園は、国道脇の、これまたいかがわしい遊園地のような場所だった。そこでは、象に乗るか、首長族の村に行って首の長い人と写真を撮るか、拳銃と自動小銃の射撃をするか選択できるのだった(全部やりたい人は、全部できる)。象と首長族は分かるが、そこにどうして自動小銃と言う選択が加わるのは分からなかった。きっとタイにはタイの理屈があるのだろう。

みんな象に乗ると思ったら、アラビア語通訳のKさんは、首長族に興味を抱いたので、彼女は単独行動になった。リーダーのM井さんは、Kさんが首長族に囚われてしまうと今日の行程に支障をきたすので、待ち合わせ場所と時間をしつこいくらいKさんに復唱させた。

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象に乗る私

象はとても大きいので、首吊り台みたいなところに階段で登ってから、象の背中の椅子に座るのだった。象は、象使いのおじさんが御していて、おじさんは、我々にはわからない言葉で象に話しかけていた。しかし、その間に、時々携帯電話を取り出して、何かを検索したり文字を打ち込んだりした。象使いのおじさんたちは、とにかく非常に胡散臭い感じだったから、麻薬の取引きをしているのかもしれなかった。麻薬の売買なら、それは結構繁盛している様子だった。

象は、インチキなジャングルのようなところを進み、汚いウンチがたくさん浮いている泥水の中を歩いたりして、お客を喜ばせるのだった。インチキなジャングルでも象だけは本物だから、観光客たちはきゃあきゃあ喜んでいた。象の背中はやたらグラグラと揺れて乗り心地は思った以上に悪かった。象に乗る前に、「グラグラ揺れるのは、昔、王様が象に乗っていた頃、鉄砲に狙撃されないように用心したためです」と、もっともらしい説明を聞いたが、これもきっと怪しい作り話に違いないと、私は疑った。

象がインチキなジャングルを一周すると、ツアーはもう終わりだった。終わりに近づくと、象使いのおじさんは、カバンからアルミの弁当箱みたいな箱を取り出した。私はいよいよヘロインを売りつけられるかと思ったが、その中にはぎっしりと、いかがわしいネックレスや指輪(象牙のまがい物?)が入っていた。それを法外な値段で売りつけようとしたが、私が「買わない」と言うと、どすの利いた声でチップをせがまれた。怯んで五十円だけあげたら、おじさんは渋々引き下がった。もしそうでもしなかったら、きっと象の鼻でウンコ池に放り込まれていただろう。

ところが、象を降りると、日本人女性たちは、そのいかがわしいネックレスやら指輪を買っていて、お互いにいくらで買ったかと楽しそうに比べあっている。よくもまあ、こんなにいかがわしい物を買うもんだと思ったが、そう言っている私だって、チップをくすねられたのだから、カモられていることでは変わらない。

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象に乗ったあとは、水上マーケットに行った。バスを降りて、ジェットボートのような舟に乗って狭い水路をマーケットまで行くのだが、あまり早いのでどこかに激突したら即死だろうなと思った。水上マーケットでは、女社長のM井さんと歩いたが、暑くてお腹が空いたので、ビールを飲むことばかり二人で話していた。でも、きっとビールをここで飲んでしまうと、後でヘトヘトになって後悔するだろうから、二人ともぐっと我慢した。

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Chang(象)という名のタイのビール。

水上マーケットのあとは、ローズガーデンという広大なリゾートホテルみたいなところへ行った。ジャングルの中に大きな宴会場やホテルがあって、その先ににはタイの農村みたいな建物がいくつか建っていて、そこで農夫みたいな格好をしたタイ人の人たちがたくさん待ち構えていた。その人たちは観光客を拉致しようとか、身代金を奪おうとかいうのではなくて、陶芸や染色を実演したり、花束を作ったり、タイの伝統音楽を演奏してくれるために待ち構えていたのだった。

私たちは、そこの宴会場のようなところでお昼のバイキングを食べた。バイキングは、好きなものを食べたいだけ食べられるからありがたい制度だ。しかし、だからと言って、やたらにたくさん食べるのは田舎者のすることだ。私はオーストラリアから来た田舎者だと日本の知的な女性たちに思われたくないので、トイレに行った振りをして密かにズボンのベルトをぐっとしめた。

このツアーでは、私は女性たちに混じって一人だけ男性という立場だったから、女性の食いっぷりというものを久しぶりにじっくり見学できた。女性というのは、どこの国でも、絶え間なくおしゃべりをしつつも、不思議なことにその間にもしっかりたくさん食べる技術を有している。このことは、比較人類学的な考察に値するかもしれない。

またどこの女性も、メインの料理は減らしても、デザートだけは全種類食べなければ気が済まないらしい、ということも再確認できた。タイのデザートは、日本のそれと似ていて、みんな一口で食べられるようなプチサイズだったから、それを良いことに、女性たちは山盛りにケーキやプリンやマンゴーを皿に並べて片っ端から食べていく。そればかりか、私が「あっちの方に、タイ風うどんもありましたよ」と、デザートを食べ尽くした女性たちに言うと、「えーっ、それも食べたい!」と言って、さらにその上にどんぶりのタイ風うどんをペロッと食べてしまうのだった。

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蜜のかかった甘いバナナ。美味しい。

そんなで、私もお腹がすっかり重くなったから、その後の農村ショーみたいなタイの文化紹介にはすっかり不熱心になり、げっぷをしながら、ひたすら眠気と戦っていた。女性たちは、熱心にタイ風の生け花やら、竹を踏まないように踊るダンスや、いろいろなことを熱心に学んでいるようだった。これも女性に普遍的な傾向に思えるが、「とにかく元をとる」という精神に私は完全に脱帽したのだった。

ローズガーデンを出ると、あとはもうバンコックに帰るだけなので、私はすっかり油断して車中でうとうとしていた。ところが、トイレ休憩でセブンイレブンに止まると、その店内を徘徊して戻った女社長のM井さんが、「鼻スースーを売ってますよ!」と嬉しそうに叫んだ声で目が覚めてしまった。すると、MさんもHさんもJさんもKさんも、「え? じゃあ買わなくちゃ!」と言いながら、車からまた出ていくのだった。そして、そこのセブンイレブンの「鼻スースー」を全部買い占めてしまった。

「鼻スースー」というのは、私は見たことがなかったのだが、リップバームのような筒の中に薬剤が入っていて、筒先を鼻の中に突っ込むと、鼻がスーとするのだ。どうしてこういうものがタイで流行っているのか分からないが、人気のお土産アイテムらしい。


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女性たちは、さっそく車中で鼻スースーを使用し始めた。皆、筒を鼻に突っ込み、「これがあれば執筆が進みそうだわ!」とか「ああ、癖になりそう」などと言っている。

私は、ここでは「鼻スースー」を買わなかったので、Mさんに「ちょっと、鼻スースーを見せてください」と言ったら、「えっ、鼻には入れないでくださいよ!」と厳しく釘を刺された。例え本はくれても、「鼻スースー」をシェアするほど彼女は私に気を許してない、ということがこれで判明した。

帰ってから調べたら、私が買ったPOY-SIANというブランドの鼻スースーは、成分はユーカリオイル8.5%、メンソール42%、樟脳16.4%、竜脳6.1%だった。害はなさそうだが、使い過ぎで中毒になるのも避けたいものだ。私はメルボルンに帰ってから、執筆が進まない時など使おうと机上においているが、今の所あまり使わないで済んでいる。


プミポン国王と私

「鼻スースー」で気持ち良くなったせいか、帰りの車中、女性陣はみな陽気だった。まるで女子高生のグループと旅行しているような感じすらあった。バンコクに近づくと、路肩に広告看板がたくさん見えてくるが、昨年亡くなったプミポン国王の遺影のある大きなビルボードが特に目を引く。しばし話題も、プミポン国王がどれほどタイの国民に敬愛されていたかとか、それに引き換え、現在のワチラロンコン国王(プミポン国王の息子)は刺青をしているとか、人徳が劣るとか、そういう話になる。

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私、じゃなくて、プミポン国王の写真集

すると唐突にもM井さんが、「渡辺さんって、プミポン国王に似てません?」と言った。実は、私も自分で言うのも何だが、いつか誰かにそのことを指摘されるのではないかと密かに恐れていた。だが、プミポン国王と自分が似てるなんて、そんな不遜なことをタイで言ったら不敬罪で捕まって投獄され、帰国できなくなるから黙っていた。ところが、編集者でジャーナリストでもある怖いもの知らずのM井さんは、言論の自由を盾に、真実をズバリと言ってのけてしまったのだった。

「え、うそー!でも、そう言われて見ると、似てるぅ」とか、女性陣にきゃあきゃあ言われて、嬉しくなかったといえば過言になるかもしれない。私とプミポン国王の類似点だが、それは、少し鉢の開いた広い額、丸っこいメガネ、そして、少し尖った耳かもしれない。もちろん、人徳、人間性、懐の深さ、大らかさ、財力、度量、頭脳、そして総合的なルックスと言った面で、私がプミポン国王に敵うはずがない。広い額だって、私の場合は最近とみに髪が薄くなって、砂漠のように広がってきているだけの話だ。一方、プミポン国王の場合は、子供時代から、その額は大海のように広く、そこに優秀な頭脳を潜ませていることを物語っている。だから、全く比較にはならない。

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ジャズメンでもあったプミポン国王


最後に紀伊国屋で本を買ったこと

翌日は、バンコク最終日。私は、ようやっとホテルの向かいの紀伊国屋書店に足を運ぶことができた。紀伊国屋が入っているのは「船橋ららぽーと」くらいある大きなショッピングセンターの中の伊勢丹デパートの中だ。そのショッピングセンターには、紀伊国屋だけでなくて、タイの書店も二軒入っている。それらの書店を、私は翻訳家のNさんと誘いあって、ゆるゆると巡り歩いていてみた。Nさんは、オランダ語、フランス語、ドイツ語などのマルチリンガルの翻訳家であるばかりか、紙芝居の世界的な権威でもある。そんなすごい人とゆっくり書店巡りをする機会などそうあるものではない。

さて、最初に行ったのは、日本で言うならば、K文堂書店のようなどこにでもあるような書店なのだった。文具売り場もあって、全く日本の書店にそっくりだった。並んでいる本にも、日本人作家や日本で出ている本のタイ語版などもたくさんあった。オーガニック食品やスローライフ的ライフスタイルの本などもたくさんあり、日本とトレンドがよく似ている。オーストラリアから来ている私には、その類似は一種のカルチャーショックだった。

その書店を見てから、もう一軒、別のタイ語書店に入ってみた。ここは、もう少しおしゃれな感じで、デザインや建築の本などが並び、奥には英語本コーナーもあった。タイは、なかなかオシャレな国であることがここでよく分かった。

そこの本屋の出口でNさんを待っていたら、ある書架の前で熱心に本を見ている彼女の姿が見えた。Nさんは、「これ、みんなBLものですよ!」と言った。見れば、美しい男の子たちが二人で抱き合っているような表紙のグラフィックノベルがずらっと並んでいる。「BLって何ですか?」と、トレンドに無知な私がNさんに尋ねる。「ボーイズラブですよ」と彼女が答えた。


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たくさんあるBLの本

なるほど、そう言えば、タイは性転換手術やレイディーボーイと呼ばれる元男の女性?で有名である。バンコクに数日いただけで、随分たくさんそう言う「女性」を見かけた。それだけがBL人気の理由ではないだろうが、書架にずらっと美しい男の子を描いた本が並んでいるのは、圧巻なのであった。あたりを見回すと、BLファンどころか、ゲイ男性が喜ぶような、モッコリ写真のカレンダーなども売っている。これが普通の書店なのだから驚いてしまう。オーストラリアの書店で、こんな本がたくさんずらっと並ぶことはまずないだろう

さて、いよいよ紀伊国屋書店に足を運ぶ。紀伊国屋書店は、伊勢丹デパートの中にある。日本と同じで、書店は最上階にあり、その手前には、レストランがならんでいる。大戸屋、とんかつ伊泉、吉野家など、懐かしい看板が目に入る。(もう数日バンコクにいたら、きっと行っただろうな!)

紀伊国屋書店に入る。手前はタイ語コーナー、奥が日本語コーナー。Nさんは、専門家らしくタイ語コーナーをじっくり吟味しているが、僕は矢のように日本語コーナーへいく。がっかりしたのは、雑誌は全部ビニールがかけてあって立ち読みができない。ビニ本である。まあ仕方がない。カーサブルータス、ビーパル、クロワッサン、ダンチューなどを引っ張り出し、どれを買おうか迷う。値段は日本の倍まではいかないが、1.5倍くらい。やたらには買えない。次に単行本のコーナーへ行く。村上春樹『騎士団長殺人』は絶対に買おうと思っていたが、上下巻を一緒に買うと、八千円近くになる。さすがに痛い。「11月に日本に帰るから、その時にするか…」と諦めた(やっぱ買っときゃよかったと、メルボルンに戻ってから大後悔!)

その分、文庫本をたくさん買うことに。さすがバンコク紀伊国屋だけあって、文庫本はたくさんある。十冊は買おうと思ったが、値段が張るので、迷いに迷って五冊に減らした。これでも清水の舞台から飛び降りるような気持ちだ。(迷って買った割には、高橋源一郎の『恋する原発』はあまり面白くなかった。とほほ。)

名残惜しかったが、Nさんが空港に向かう時間が迫ったので、紀伊国屋から出る。後ろ髪を引かれるというのは、こういうことか。

さよならバンコク

翌朝。シンガポール経由でメルボルンに帰るのだが、午後発の便なのでゆっくりホテルを出る。空港まで他の皆さんはタクシーだったが、私は来た時と同じに電車の駅まで1キロ半ほどスーツケースを引いて歩く。バンコクの街をゆっくり見てから帰りたかったからだ。

仏教国だけあり、オレンジの袈裟を着た僧がいる。途中にインド人街があるが、たくさんいるインド人はタイ国籍なんだろうか?そんなことを考えつつ、汗を拭きふき歩く。

空港に着くとお昼。チェックインまで時間があったので、最後のタイ料理を食べる。タイ料理と言えば辛いと言うイメージがあったが、それほど辛いものには行き当たらなかった。そこで、最後にちょっと辛めのものを食べようと、「野菜とエビのチリ炒め」を注文。これがめっぽう辛く、氷水をガブガブ飲む始末になった。

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路上に干された干し肉。これを食べるのは勇気がいるな。

今回は、ほぼ毎食タイ料理を食べた。感想を言うならば、タイで食べるタイ料理は美味しい。メルボルンの甘くてこってりした、オーストラリア風タイ料理とは一線を画する。タイ料理には全然詳しくないが、食べたものを書くと、カオソーイ(麺類)、トムヤムスープ(辛くて酸っぱいスープ)、春巻き、ロティ(平べったいパン)、焼き鳥、赤カレー、緑カレー、ハイナンライス(蒸し鶏の載った炊き込みご飯)、生春巻き、タイ風鴨ラーメン、焼きそば、チャーハン、鳥の唐揚げ、果物ジュース、ココナッツミルクのご飯、マンゴープリン、各種果物などである。

書いていたら、よだれが垂れてきた。タイ、良かったなあ。また行きたい!

(タイ旅行編、終わり)


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伊勢丹の前のお寺。美人が多い。
posted by てったくん at 13:45| 日記

2017年05月22日

バンコクで、国際児童図書評議会アジア会議に出席の記

2017年5月22日

5月初旬、初冬のメルボルンから晩夏のバンコクに飛んだ。IBBY国際児童図書評議会アジア会議に出席するためだ。大会は三日間、その間アジア諸国や他の国からやって来た児童書関係者による研究発表、事例発表、ワークショップなどが行われる。私も、オーストラリアで過去17年間主宰してきた、日本語児童文庫の軌跡について話すべく、原稿を携えてやって来た。

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出た時は雨のメルボルン

空港から出て電車に乗り、バンコク中心街の駅で降りた。駅からホテルまで2キロほど、スーツケースを引っ張って歩いた。初めてのバンコクだが、「懐かしい」光景が満ち溢れている。夜の10時というのに、狭い歩道に溢れるたくさんの人たち。裸電球の灯る小さなお店。その奥でミシンを踏む女性。路上の屋台。荷物をたくさん積んだ自転車を引く男。たくさんのオートバイ。60年代の日本のどこかの街中を歩いているような錯覚がする。インドネシア、マレーシア、インドでも、そんな既視感に襲われたことがある。

バンコクの街には、貧富の差も数多見受けられた。路地裏のゴミの間に蠢く人影。夜遅いのにそこらを走り回っている浮浪者のような子供。歌を歌いながら物乞いをしている女性。路頭で宝くじを売る人たち。あくびをして客待ちをするトゥクトゥクの男。その間を縫って歩く、ブランド品の名前が書いてある袋を下げた女性。王宮のようなショッピングセンター。人で溢れかえるコンビニストア。私のような裕福な国から来た(あまり裕福ではない)観光客。

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IBBYの国際大会、特にアジア大会は、いつも私に発見をさせてくれる旅だ。初めて訪れた街角に繰り広がる様々な光景の中で私は目を見張る。それだけなら、普通の観光旅行でも起きることだが、IBBYの大会では、ホスト国の人たち、加えてそれ以外のアジア、アフリカ、中近東、東アジア、南アメリカから来た人たちと出会って、子供の本を取り巻くありとあらゆることについて意見を交換し、議論し、物語を聞かせあい、ワークショップで色々なことを教えあったりする。その上、食事を共にし、お酒を飲み、感激して抱き合ったりもする。私はいつもそこで出会った人たちから勇気をもらい、共感し合い、そして新しい使命をもらって帰国する。

大会1日目。

会場となったアノーマグランドホテルには、日本人の知己がたくさんいた。バンコク大会だから、日本からの参加者が多い。JBBY会長の板東さん、マイティブックの松井さん、東京子ども図書館の張替さんと護得久さん、翻訳家の野坂さん、片桐さんなどなど。海外の知己もいる。タイのポルナノンさん、インドネシアのブナンタさん、マレーシアのジャミラーさんなど。この会で会うだけの人も多いが、とても懐かしい。

一日目は、基調講演が主だった。最初は、タイIBBY会長バラバーンさんの話で、タイ支部の発足から現在までの読書推進の問題、伝統的な哲学や倫理を新しい物語として語り、マルチメディア化していく課題などについて話された。IBBYドンカー会長は、子供の本に関する現代の普遍的な問題、紛争、貧困、難民といったことと私たちがどう関わっていかなければいけないか切々と論じた。

続いて、日本の学研プラス社の黒田さんが、教材開発の世界で起きている技術革新について話した。上記二人の話とは全く異なる次元の話であったが、先端的なデジタル技術が絵本や児童文学作品の表現に用いられることがあるとすれば、それはどういう影響を子供たちに及ぼすのか、切実に考えさせられる材料となった。

次は、IBBY朝日賞受賞者、タイ人作家シンカマーンさんの講演。シンカマーンさんは児童文学者でもあり、米作農民でもあるということで、いきなり箱から米を取り出して、参加者に配りだしたのには驚いた。話もかなりの脱線ぶりだったが、最後はタイの米にまつわる神話を披露され、素晴らしい語り口だった。まるで、神話の登場人物が話をしているようであった。

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タイは果物が美味しい

お昼をはさんで、もう一人、英国ペンギン社のメリントン氏が、ピーターラビットのマーケティングについて話した。ピーターラビットは古典文学であると同時に、確立されたブランドなのである。このブランドの版権は、アパレルを始めとし、テーマパークの果てまで200もの企業に売られ、そこから巨大な資本を得ているという話であった。数百部、数千部の自作を売ることに四苦八苦している我々のような作家や出版社から見れば夢物語であったが、絵本の商業的な側面も考えようによっては、社会に大きな還元をする元手にもなり得るのだから、大規模商業出版にも理ありと感じた。

夜は、バンコク国際交流基金において、「児童文学作家の仕事」という座談会に、濱野京子さん、まはら三桃さん、陣崎草子さんという3人の売れっ子作家に混じって出席させていただいた。マイティブック松井紀美子さんの企画である。会場には、60名ほどのタイ人、及び日系人の聴衆が駆けつけ、我々の話を熱心に聴いてくださった。(と言っても、私は上記の3名の丁々発止の発言に圧倒され、時差ぼけもあって、あまり発言できないで終わってしまったのだから情けない。)

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(向かって右から)まはら三桃さん、濱野京子さん、陣崎草子さん
二日目。

二日目は、会場をホテル向かいのTKパーク図書館に移して行われた。TKパークは、大きなショッピングセンターの最上階にある、新しい、明るい図書館である。コンピュータや小さな子供の遊具がたくさん置いてあり、真ん中は、劇場になっている。大小のセミナルームも完備しているから、IBBY大会のような大人数の集まりも開催できる。音楽室まであるのには感心した。

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TKパークからの見晴らし

本日は様々な発表が並行して行われるのだが、私の発表も午後にあるので、心を鎮める意味で、東京子ども図書館理事長の張替恵子さんと同館員の護得久えみ子さんによるストーリーテリングのワークショップに出てみた。多数の参加者が熱心に聞き入っていたが、お二人の素話と絵本の読み聞かせは、もはや常人の域を超えた名人芸であった。こういう人たちが子供の本の普及に従事していれば、どんなデジタルメディアが登場しても、人が人に口伝えで伝えるお話は決して廃れないであろうと確信した。

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護得久えみ子さんが『しょうぼうじどうしゃじぷた』を英語で朗読してくださり、感激

午後、私の発表の順番が回ってきた。ありがたいことに、日本から参加の皆さんがずらっと座っている。私がIBBY大会で、メルボルンこども文庫のことを話すのは3回目である。毎回ちょっとずつ焦点は違うが、基本的には私の経験談だ。文庫は、日本の伝統的読書推進の方法であるが、もはや日本国内にとどまらず、海外各地に飛び火して日系人の子供たちに日本語の読書の喜びを振りまいているというのが今回の趣旨である。また、文庫も紙芝居のような日本発「文化輸出」となりつつあり、現にメキシコには40箇所ほどの、BUNKOが存在するという話もした。

発表の後では、インド、カンボジア、フランス、香港、タイなどの参加者から、「私がインドでやっていることもまさに文庫である」、「誰でもできる小さな活動ということに共感した」、「タイのインターナショナルスクールでもぜひ文庫をしたい」など嬉しい感想を頂いた。自分がやっている小さな活動を通して、このような励ましが諸外国の皆さんから得られることも、この会の素晴らしいところだ。

夜は、カルチャーナイトだった。これはタイ主催者側によるおもてなしで、美味しいタイ料理をたっぷりご馳走になり、その上、タイ伝統舞踊や勇まし戦太鼓なども見せて頂いた。最後はみんなで輪になって踊ったが、気がついたら私もその中に混じっていた。普段はダンスなんてしないのに、よほど開放的な気分になっているのだろう。

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ぞうさんの形をした不思議なサンドイッチ

三日目

三日目午前は、会場を抜け出し、スラム街の保育園と、その地域で活動をするマレットファン(夢の種)というNGOの見学に赴く。アレンジしてくださったのは、攪上久子さんとマレットファンの皆さんだ。

バスに乗り、10分ほどバンコクの渋滞の中を走ると、そこはスラムの地区だ。屋台や小さな店がたくさん並ぶ表通りから裏に入ると、落ち着いた路地が運河沿いに続く。ここにもパラパラとお店が並んでいて、食べ物や雑貨を売っている。ここがスラムとはとても思えないほど綺麗に片付いていて、道ゆく人たちもニコニコと「サワディー」と挨拶してくれる。

路地奥にその保育所があり、園児が整列して迎えてくれた。先生たちはみな頭にスカーフをかぶっているので、イスラム教系の保育所とうかがい知れる。ここで私たちは、マレットファンの人たちに通訳してもらい、日本から来たことや、絵本や読書の普及の仕事をしているとを話すが、どこまで小さい子供に分かってもらえたか。子供達が、大型絵本「ぞうさんのさんぽ」を読んでもらって笑ったり、私たちの携えて来た絵本を見るキラキラした目は、どこの子供たちとも変わらない。グループモコモコ(布絵本を作る会)の野口さんが、自作の縫いぐるみや布絵本を披露すると、わーっと喜ぶ声をあげた。野口さんの布絵本を使った巧みな語りは大人が見ても楽しいのだから、子供にはどれほどに面白く写るだろう。そのあと、教室を一つ一つ見せていただいた。教室はあまり広くないが、それなりに工夫が見られ、子供達が少しでも楽しく、有意義な時を過ごせる努力が見られた。

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保育園で布絵本を披露する野口さん

保育所を辞し、今度はこの地区の公民館へ5分ほど歩く。さっきから我々にくっついて歩いている、サンダルばきの中年のヒゲを生やした男性は、町内会長さんだと判明。保育所で時間をとりすぎたので、公民館では軽食(野菜とひき肉を挟んだロティ)を急いでいただきながら会長さんのお話を聞くが、会長さんはパワーポイントまで用意され、詳しくこの地区の説明をしてくださった。ここの地区はスラムだが、むしろ密集地区と言う方が適切なようだ。今も木造住宅が密集しているが、100年前に入植が始まり、以前は漁業が主な産業だったそうだ。今は市外地化していて、あらゆる職業の人が暮らす。住民のコミュニティ意識は高く、市からの助成金もつき、まちづくりに貢献しているとのこと。小ぎれいな家々の庭にはジャックフルーツ、バナナ、マンゴーなどの果樹が植わり、こんな街に暮らすのも悪くないと思った。


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熱弁を振るう町内会長

急ぎ足で、もう1箇所保育所を回るが、こちらは何かのイベントで人が溢れていた。記念写真だけ写し、マレットファンの事務所に車で移動。事務所近くの食堂で「タイ風鴨肉ラーメン」をいただくが、これが大変美味。真オレンジ色の「アイスティー」を恐る恐る飲むが、味の方は普通のアイスティーだった。

マレットファンの事務所はビルの二階にあり、小さな図書館というか、文庫のようで、日本やタイの絵本がたくさん並んでいる。ここを拠点に、松尾久美さんとタイ人スタッフのギップさん、ムアイさんは、格差の多いタイ社会の中で奮闘する教師、親、保育者などのために、教育支援を行なっている。具体的には絵本を普及させる活動、色々な専門家を招いての教育研修会、ワークショップなどである。少年鑑別所に収容されている子供たちにまで絵本の紹介を行い、効果を上げているそうだ。
ウエブサイト: http://maletfan.org/jp/

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マレットファン本部

マレットファンでもっとゆっくりしていたかったが、またIBBY会場に戻る。午後にも仲間の発表があるからだ。野坂悦子さんは、オランダ語の絵本の翻訳家であるが、紙芝居普及にも熱心だ。「紙芝居文化の会」はこれまで世界各地に紙芝居を普及させることに成功してきたが、今回もこの大会のワークショップで紙芝居の魅力をたっぷりと教えてくれた。紙芝居を演じる時に一番大切なことは、何よりも共感だと言う。野坂さんは「kyoukan」と言う日本語を使って説明していたが、その努力には脱帽してしまった。あまり面白いので、私も今回で「紙芝居文化の会」の会員になった。
ウエブサイト: http://www.geocities.jp/kamishibai/index.html

紙芝居のワークショップを途中で抜け出し、出版社マイティブックの社長で編集者の松井紀美子さんの発表を聞く。松井さんは、JBBYの広報活動をしたり、絵本や児童文学者のネットワークのために奔走したり、タイや中国の作家の絵本を日本で出版したり、大変な貢献をしている人だ。僕は、海外のIBBY大会というと、ほぼいつも松井さんと行動を共にして、夜はビールを飲んだりしている。その松井さんの発表は、「小さな出版社の夢:世界の素晴らしい絵本を子供たちに届けること」で、彼女の奮闘努力の話だ。今は出版不況だし、日本では子供の出生率が下がるし、絵本出版には踏んだりけったりの時代だが、松井さんは諦めずに、自分が出した絵本をスーツケースに詰め、世界中を渡り歩き、講演会やワークショップを開催し、そこで知り合った人たちに直接絵本を渡している。私もいつも松井さんにお世話になり、絵本を売らせてもらっているが、本屋ではあまり売れないのに、講演会やシンポジウムなどをやると、飛ぶように絵本が売れてしまう。人が人に出会って、手渡しで絵本を渡すことがどれほど大切なことか松井さんは教えてくれた。これからも松井さん、頑張れ! ウエブサイト: http://www.mightybook.net

さて、これで大体IBBY大会は終わり。(他にもいくつか発表は聞きましたが、割愛します)。閉会式が行われ、次のアジア大会開催地の中国の代表が挨拶した。中国はやる気満々なので、2年後の大会が楽しみ。

さて、翌日は大会後の見学ツアーがあって、私はDalun Bannalaiという児童図書館を見に行った。ここはタイのIBBYが作った図書館だが、コロニアル風の木造建物を修復し、とても綺麗な、居心地の良い場所になっている。本も選りすぐった本がきちんと整理され、子供にも分かりやすいように並んでいる。庭先にはカフェもあり、子供でなくとも、ここで静かな時を過ごせたら幸せだろう。図書館とは、そういう場所だ。ちょうど私たちがいた時、にわか雨がざあざあ降り出したが、雨の音を聞きながら本をめくっているのも風情のあるものだ。バンコクも、そろそろ夏が終わって、雨季に入る。

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Dalun Bannalai図書館

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私の父(渡辺茂男)のくまくん絵本が貸し出しデスクにあったので、パチリ

最後の日: 上記松井さんのお膳立てで、日系人の加古川さんという音楽家が主宰するサロン・オ・デュタンというスタジオで、自作を読ませていただく。30名ほどの在バンコクの日本人・日系人のみなさんが集まってくださった。最初は、タイの絵本『ニン』を松井さんとタイ人の女性が披露する。「ニン」というのはタイ語で「静かに!」という意味だそうだが、もっと深く、「自分の心をじっと見つめなさい」という意味があるのだそうだ。さすが、信心深い仏教国の人が書いた本と感心する。私は、『ヤギのアシヌーラ どこいった』と『ぱくぱくはんぶん』を読むが、まあまあ受けたので、安心した。それから、松井さんのたってのリクエストだったので、『まきばののうふ』をギターを弾きながら歌った。これはだいぶ恥ずかしかったが、どうにかやってのけられて良かった。

午後は、全くのお客さんだが、サロン・オ・デュタンに居座り、松井さんの主宰した座談会「アジアで育つ帰国子女の幸せ」に出席。松井さん自身がシンガポール育ちの帰国子女、西南大学の帰国子女入学第一号ということなので、ご自身の体験談も面白かったった。また、タイ在住の日系人の皆さんと知り合えたことも有益だった。バンコクには、在住20年や30年という方々がたくさんいるようで、日系人のコミュニティーとしては、大変成熟していることも分かり、興味深かった。

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『ニン どんなときも』(チーワン・ウィサーサ作、竹内より子訳、マイティブック)

というわけで、私の子供の本作家としてのオフィシャルなタイ訪問ブログはここで終わり。観光旅行などについては、また後日書くつもりです。

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posted by てったくん at 11:16| 日記

2017年04月20日

秋の味

2017年4月20日

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クカバラ(ワライカケス)は、バーベキューのソーセージを盗む名人

秋の味と言うと、僕はいやしくも秋刀魚を一番に思い浮かべるが、オーストラリアでは秋刀魚は獲れない。が、輸入の冷凍物なら売っている。でも、高いから買わない。その貴重な冷凍秋刀魚を釣り仲間のK松さんが「到来物ですが」と、一袋くれた。だから、この週末あたり、家族が揃ったら景気良く炭火でじゅうじゅう焼いて食べようと思っている。

先週までは、復活祭イースターの秋休みだった。オーストラリア、メルボルンのこの辺りでは、イースターが来れば、夏が終わった、そろそろ秋だという季節だ。秋休みは、いつも僕がやっている子ども文庫のキャンプで、「どんぐり山」とみんなが呼んでいるUpper Yarra Reservoir Parkというところへ、二泊三日で出かける。もう10年くらい続けているキャンプで、始めた頃は息子がまだ3歳だった。息子は、このキャンプでは朝から晩まで焚き火で合法的に火遊びができ、キャンプ場のすぐ脇には綺麗な小川が流れていて、いつでも好きなだけ水遊びができたから、鼻血が出るくらい楽しいキャンプだった。 その息子も今や14歳で、もう今年はこのキャンプには母親と日帰りでちょっと顔を出しただけだった。

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どんぐり山の秋

大概文庫キャンプは、天気に恵まれるのだが、今年は二晩目から天気が崩れて大雨が降った。二晩目はいつも、参加家族がそれぞれ作ったカレーを持ち寄ってみんなで 食べることになっているから、今年は雨を避けてキャンプ場の集会所に場所を移して、そこでカレーを食べた。今年のカレーは、チキンカレー、マトンカレー、野菜カレー、タイのグリーンカレーなどが並んだが、このカレーの夕べを密かに楽しみにしてキャンプにやってくる家族もいる。うちの息子も、このカレーだけは鱈腹食べて、「ああ、食った、食った」と満足そうに帰っていった。

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カレー宴会

秋休みの間は釣りにも行った。実は、某所で鯵がたくさん釣れていることを、他でもないこの僕が発見したのだ。これに狂喜乱舞したのは、上記釣り仲間K松さん、その師匠のH井さんだ。たまたま日本からこちらへ帰省していたM城さんも釣り部隊に加わった。我々は、車を連ねて2、3回その穴場へ行ったが、いつもは坊主のことが多いM城さんでさえ30センチ以上ある尺鯵をあげて、ニヤニヤ笑いが止まらなくなった。僕は、夜釣りは眠くなってしまうので苦手だが、K松さんとH井さんは、「キ印」の釣り師だから、夜も出かけて行って、ある晩は70匹ばかり釣り上げたらしい。「もう釣堀みたいにうじゃうじゃいましたよ」と、K松さんは言っていた。

釣った鯵は、タタキになり、刺身になり、干物になり、酢締めになり、アジフライになり、棒寿司になったりした。これで、当分魚の供給も安定したと思っていたが、鯵の面白いところは、ある時期になるとぱたっと釣れなくなることだ。一体どこへ行ってしまうのか分からないが、秋が深まってきた途端、もう1匹もいなくなってしまった。

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「だから、釣れる時は、無理してでもたくさん釣らないといけないんですよ」とH井さんは、K松さんに言ったらしいが、 僕自身は、そんなに釣ってどうすんの?と思う。まあ、「キ印」には「キ印」の人の理屈というものがあるのだろう。

そのK松さんが、釣りの合間にうちに家族で泊まりにきて、近所へ栗拾いに行った。他にも3家族ほど参加したから、結構な人出になったが、大きな樹齢40年ほどの大木がある場所だから、それくらい来ても獲りきれないくらいある。というのが、昨年までの常だったが、今年は、なぜか栗が小さくて、それほどたくさん落ちていなかった。見上げると、まだ木にたくさん緑のイガがついていた。だから、栗の熟する時期が遅かったのかもしれない。温暖化のせいだろうか。

それでも、みんなバケツに二杯くらいは拾ったから、満足して帰って行った。後で、K松さんの奥さんをはじめ、参加した家族がメールをくれて、拾った栗は、焼き栗だけでなく、栗−ム(つまり、栗クリーム)、モンブラン、栗ご飯、栗スープ、渋皮煮などになったと教えてくれた。栗を剥くのは大変な作業だが、みんなせっせと美味しいものを作るのにはとても熱心だ。ところが、我が家の栗は、まだ焼き栗にもならず、バケツに入ったままだ。(拾ったばかりの栗は湿り気があるので、少し置いておいた方が、焼いた時にパリッと焼ける気がする。)

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今年は少ない方だったが、それでもたくさんの栗

こうして書いていると、秋はずいぶん食べ物のテーマで書くことがあるなと感じるし、自分は秋が好きなんだな、とも思う。まだもう少し気候の良い時期が続くから、秋ならではの活動をもっと野外でやりたい。
posted by てったくん at 13:17| 日記

2017年03月27日

ドイツからオーストラリア、シーカヤック2万3000キロの旅

2017年3月27日

土曜日の夜、冒険カヤッカーのサンディ・ロブソンの講演に行ってきた。サンディ・ロブソンと言っても知らない人がほとんどだろうが、シーカヤックを漕いで、ドイツからオーストラリアまでの2万3千キロを5年半かけて旅した冒険家だ。オーストラリア、パース出身、48歳の小柄な女性である。  http://www.sandy-robson.com/Home_Page.html
僕が所属するビクトリア・シーカヤック・クラブでの講演会だったが、冒険について、じっくり話を聞くことができた。

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サンディ・ロブソン

ドイツからオーストラリアまで漕ぐということ自体脅威的な冒険だが、この旅はサンディ・ロブソンが初ではない。実はオスカー・スペックというドイツ人カヤッカーが1930年代に行っている。オスカー・スペックは、もっと長い5万キロを、7年かけて漕いでいる。おまけに、オーストラリアに着いた途端に第二次世界対戦が勃発し、敵国人として逮捕され、戦後までオーストラリアの捕虜収容所で過ごし、そのままオーストアリアに帰化したというおまけがつく。
https://en.wikipedia.org/wiki/Oskar_Speck

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オスカー・スペック

スペックの旅をロブソンはそっくりそのまま辿ろうとした訳だが、彼女の旅を要約するとこうなる。

2011年5月14日、ドイツのウルムを出発。ドナウ川を南下し、スロバキア、セルビア、マセドニア、ギリシャを漕ぎ抜け、キプロス島へ渡る。そこから島伝いに 地中海を渡り、黒海を通り抜けてトルコ到着。

トルコ沿岸を漕ぎ、イラン、イラクは、紛争のために部分的にだけ漕ぐ。その後はパキスタン、インド西岸を漕いで、スリランカに渡る。スリランカを一周し(これは史上初)、インド東岸を漕いでバングラディッシュまで至る。

バングラデッシュから、ミャンマー、タイ、マレーシア、インドネシアを漕破。パプアニューギニア沿岸を漕いで、最後にトーレス海峡を横断し、オーストラリアへ到着したのが2016年11月。到着した時、サンディは48歳だった。

1930年代のオスカー・スペックの5万キロの旅と、2010年代のサンデイ・ロブソンの2万3000キロの旅をそのまま比較することはできない。しかし、どちらも大冒険であることは確かだ。

サンデイの話で面白かった点は、冒険という概念について現代の冒険家の意見が聞けたことだ。冒険家は、海や山や砂漠や北極や海底などに出かけていく。そういう場所は、人影もまばらな寂しい僻地である。エベレストを登頂する、北極点を踏破する、ヨットで世界を一周する、そういうことが近代の、あるいはすぐ最近までの冒険だったかもしれない。もちろん、今でも冒険だろう。

しかし、サンデイの冒険はちょっと違う。もちろん自然の脅威は、カヤックでこれだけの距離を旅すればいくらでもある。長さ5メートル、幅80センチのカヤックに命を託し、幅80キロの海峡を渡ったり、3メートルのうねりがある海を1日に100キロ近く漕いだり、人食いワニや、スマトラ虎のいるジャングルでキャンプをするのが危険でない訳がない。

しかし、それだけが冒険なのではないとサンディは言う。肌の色も、宗教も、言葉も、文化も、政治的な信条も違う人たちが暮らす 場所を移動することが、どれほど大変で、どれほど危険で、予期せぬ出来事に満ちているか分からないのだと。

彼女の旅がドイツから始まったことは、そう言う意味で幸運だったかもしれない。西側の、生活水準も高い、安全な国だからだ。しかし、東へ南へと移動するほど、状況は難しくなっていく。例えば、マセドニアとギリシャは仲が悪く、そういう仲の悪い国同士の国境の川を漕いで渡る のはドキドキハラハラだったようだ。インドとパキスタンも同様だ。またヨーロッパの中でも、水上には、マフィアや泥棒がいて、一人旅の女性を拐かそうとする悪漢がいる。イラン、イラクなどは、川の中にはまだ紛争時代の機雷が設置してあるそうだ。また、旅行の許可自体がなかなか降りない国も数多い。港があっても、外国人や漁師以外には使用を禁じている場所もある(日本にもある)。だから、上陸するにも上陸できず、ひたすら漕ぎ続けることもあったという。

それでもサンデイは諦めず、オスカースペックの旅をそのまま辿り続ける。一番大変だったのはインドだったそうだ。特に女性の一人旅は、どこへ行っても黒山の人だかりだったそうで、カヤックで着岸する、あるいは出発することには相当な困難が伴ったようだ。常に何十名、何百名の人たち、それもほとんどが男性の注視する中でキャンプし、炊事し、トイレに行かなければならない。また、インドは軍事的な要所も多く、カヤックなど見たこともない漁師にテロリストと間違われて拿捕されて警察へ突き出されたり、モーターボートに追跡されて轢き殺されそうになったこともあるという。

サンディはそれでも 諦めずに毎日漕ぎ続けたが、やがて、ストレスが溜まり、体力が落ち、食事が食べられなくなる。マラリアにかかり、入院する羽目にもなった。

それでも彼女は言う。「信じられないようなひどい目にもあったけど、ありとあらゆる人々の親切があったから、私は旅を続けられ、完漕できた。私を襲おうとした人もいるけど、それよりも、私を守ってくれて助けてくれた人の方が多かった。だから、ひどいことより、楽しいことの方がずっと多かった。」

こんなことは今だからこそ、笑って言えるのだろう。しかし、自分のコンフォートゾーン(安全で、危険を感じないですむ空間)から、一旦出なければ、決してこんな体験もできないし、こんな人生観を持つこともないだろう。

「次は、どんな冒険をするのですか?」講演の後に、こんな質問が出た。 「分からないわ。人生観がすっかり変わってしまったから。ひとつには、オーストラリアのような裕福な国の生活スタイルというのが嫌になってしまったの。人間が生きるために、こんなにたくさんの物はいらないと思うの。それから、自分だけが幸せなら、困っている人がいても知らんぷりなんて、 本当に冷たい社会ね。でも、そう言っても始まらないから、とりあえずシーカヤックや野外活動のガイドの仕事をしつつ、今回の冒険のことを本に書き上げるのが目標。その後、次の冒険を考えるつもり。これだけの旅をすると、すごくたくさん友達ができるから、その友達をもう一度訪ねて、また同じ道を辿ってもいいわね。」

全く恐るべき冒険家であるが、僕と大して年も違わないわけだし、大いに見習いたい。とにかく何歳になっても、コンフォートゾーンからちょっとでも足を踏み出し、冒険を恐れない人間でありたい。コンフォートゾーンから出ることが冒険であるならば、それは考え方や価値観にも当てはまるだろうし、 仕事にも日々の暮らしの中にもあるだろう。 冒険するためには、必ずしもヒマラヤやアラスカに行く必要はないだろう。

そういう意味で、大いに啓発される講演だった。

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これは私。マレー川400キロのマラソンに初出場したとき。2万3000キロに比べれば、400キロなんてお茶の子であるが、私的にはドキドキものでした。
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2017年02月28日

あるジャズミュージシャンの死

ラリー・コリエルというジャズギタリストが73歳で亡くなったと、インターネット版朝日新聞「おくやみ」欄にあった。僕は、新聞の「おくやみ」欄には、どうしてから分からないが必ず目を通す。おかしな癖だ。

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ラリーコエリル(若い頃)

その癖、僕は直接知らない人の死には、それほど心を動かされないのだけど、ラリー・コリエルが死んだニュースにはちょっと動揺した。彼の音楽を若い時からちょくちょく聞いていたからに間違いないけど、動揺して、改めて彼の音楽に、昔どれほど心を動かされたことか久しぶりに 思い出した。

ジャズは好きじゃないし、よく分からん、というオーストラリア人にたまに会う。この間、駅で車を止めて学校から帰ってくる息子を待っていたら、同じように子供を待っている息子の同級生のお母さんが、「あら、ジャズを聴いているの?日本人ってジャズが好きなのよね。東京の喫茶店とかお店は、いつもジャズが流れているじゃないの?」と、褒められているのか何なのか分からないことを言われた。僕は、たまたま 車のオーディオで、ジム・ホール(ギター)とロン・カーター(ベース)のデュエットアルバム『アローントゥギャザー』を聴いていたのだ。こういう人は、自分ではジャズなんか聞かないんだろう、きっと。

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オーストラリア生まれのうちの息子も、チェロを弾くが、ジャズは好きではない。そのうち、好きになるかもしれないけど。

日本人が、そんなにジャズ好きかどうかなんて考えてことなかったが、言われてみると 、好きなんだろうなと思う。僕が学生の頃は、「ライブ・アンダーザスカイ」とかジャズフェスティバルなんかが日本でもあって、キースジャレットやら、チックコリアやら有名なミュージシャンが沢山来日していたし、それを見にも行った。日本ではジャズのレコードもたくさん出ているし、日本人のジャズミュージシャンもたくさんいる。

でも、オーストラリア人だって、ジャズが好きな人は結構いるだろう。ミュージシャンも沢山いるし、メルボルンにはジャズのクラブもある。だから、日本人がジャズ好きで、オーストラリア人がジャズ嫌いなんて議論は、非常に無為 だろう。好きな人は好き、分からない人には分からない。それがジャズだよ。

コリエルは、60年代にゲーリー・バートンという有名なビブラホン奏者のバンドに入った 頃から 有名になったギタリストで、ジャズとロックのフュージョン音楽の生みの親の一人だと言われている。もちろん60年代半ばから、ジャズとロックはあちこちで融合を始めていたから、マイルス・デイビスを始めとして、あらゆる音楽家がいわゆるフュージョン音楽を演奏していた。フュージョンの一つの要素は楽器の電気化だが、ジャズギタリストたちは、フュージョンの前からとっくにエレキギターを弾いていた。ただ、それは単に音を大きくするための措置でしかなかったが。でも、コリエルは、そうじゃなくて、ロックミュージシャンみたいに、例えば、ジミヘンみたいに、歪んだ音でガリガリとエレキを弾いて見せて、 それがジャズでは非常に新鮮だったわけだ。

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スペイン、サンチャゴ・デ・コンポステーラのバンド。夜中の一時に、じゃんじゃん演奏していた。
(昔撮った写真)

しかし、コリエルはジャズが弾けるロックミュージシャンになったのじゃなくて、やっている音楽は、ずっとジャズそのものだった。小説家が、例えば村上春樹が新しい作品を書くごとに、新しいテーマや言葉のスタイルやボキャブラリーを使ってみせるように、コリエルという音楽家も、積極的に新しいスタイルを彼の音楽を取り入れただけの話だ。そういう新しいスタイルなりを、コリエルは「ボキャブラリー」と呼んでいるから、やっぱり一つの「要素」なんだろうね。

「俺にはさあ、ロックってのは、あまり面白くねえんだよ。和声が単純すぎてさ、広がりがなくて、パッとしないだよね」と、コリエルは1980年代のあるインタビューで言っている。うーん、ロックの人が聞いたら怒るだろうけど、まあそれはそうだ。ロックにもいろいろあるが、ロックの一つの決定的な要素は、単純さだろう。単純なメロディー、単純な和音、 単純なフレーズの繰り返し。ロックは、単純さ故にパワーがあるのかもしれない。

ジャズが分からない人というのは、端的に言ってしまえば、ジャズの不思議なコード進行や、不協和音の多さについていけない 人達だろう 。裏打ちのビートも難解かもしれない。それに比べれば、カントリーや、演歌や、大方のロックも、決まり切ったコードと音階を使っているし、リズムもわかりやすくて軽快だ。悪く言えば、マンネリ、常套句の羅列と言ってもいい。しかし、どちらの音楽が良いとか、悪いとかではなく、そういう違いがある、というだけのことだ。全然違う音楽なのだから。どんな形態の芸術にもそういうジャンルの違いがあるし、複雑だからいいという訳ではない。しかし、ジャズで使う和音で、例えば、Bm7フラット5やCm6というのは、やっぱ気持ちいいし、こういうコードが流れていくことから生まれる緊張感は、カントリーや演歌にはないだろう。

僕がコリエルのギターを聞くようになったのは、大学生の頃だ。バブル経済も後期に近づき、フュージョンブームもやや陰りが出て来た頃かもしれない。ロックもフュージョンも、流行っているものはとても洗練されていたが、手の加えすぎ、スカスカで、味のない綺麗な霧のような音楽みたいな気がしていた。

そんな時、コリエルの 「ヨーロッパの印象」(European Impression)というレコードを聴いた。これは1978年のモントルージャズフェスティバルのライブ演奏だから、出てから数年経ってから聴いたわけだ。でも、これにはぶっ飛ばされた。今でも、レコードに針を落とした時の衝撃は忘れない。ギターの金属製の弦のギラギラした音が、そのままスピーカーから響く。これは、オベーションという生ギター一本で演奏しているレコードだが、ピックが弦に擦れる音、コリエルの吐息や唸り声、膝でリズムをとる音までが、全部録音されている。レコードの最初から最後まで、コリエルは、じゃかじゃかじゃかと、不協和音のたくさん混じった、それでいた澄んだ音色のコードを非常な勢いで持ち上げたり下げたり、叩きつけたりして弾いている。ものすごい早いパッセージを、機関銃のように弾くが、そのうち3分の1くらいの音は、かすれてちゃんと出ていない。でも、そこがライブのいいところで、かえって荒々しい感じでグッと盛り上がる。たった一人の舞台だから、一瞬も気が抜けない。火を吹くような演奏だった。

僕は、しばらくこのレコードを毎日のように聴いていた。ある時など、ステレオででかい音で聴いていたら、二階の書斎で仕事をしていた父が下に降りてきて、僕の部屋をのぞき、「お前、この頃ギターがえらく上手くなったな」と言った。ところが、それがコリエルというジャズギタリストのレコードだと知って、「へえ、こういうギターを弾く人もあるもんだ」と感心していた。

僕は、一度だけコリエルを見たことがある。それは新宿京王プラザホテルのプールでだった。 バンドのメンバーたちとのんびりプールで泳いでいた。コリエルは、ボサボサ頭で度の強いメガネをかけているから、すぐに彼とわかった。僕も(タダ券をもらったので)同じプールで泳いでいたのだが、心臓がドキドキしてとても話しかけることなどできなかった。その代わり、一緒に泳いでいたバンドのメンバーみたいな黒人の男性に、「あれはギタリストのラリー・コリエルですよね?」と聞くことは聞けた。すると、彼は「そうだよ、ラリーだよ。コンサートで日本に来ているのさ」と答えた。僕は、いよいよ感動して、返す言葉もなかった。

「ヨーロッパの印象」(European Impression)以来、僕はコリエルの生ギターの独演の虜になった。上手に弾くとか、洗練されているとか、テクニックが素晴らしいといった類の音楽とは全く違うもので、素の、生の「表現」という感じだ。コリエルの他のレコードも聞いたが、僕には生ギター一本の演奏が、一言で言えば、潔くて好きだった。(もっとハードコアの生粋のジャズファンなら、違うことを言うかもしれないが。)

今僕は、「ヨーロッパの印象」(European Impression)のレコードもCDも持っていない。オーストラリアに引っ越した時、日本に置いてきて失くしてしまった。20歳の時に衝撃を受けたレコードは、55歳の僕は今、どんな風に聞くだろう。

しかし近年も、コリエルの生ギターによる、「ボレロ」や「ラプソディーインブルー」といった演奏をユーチューブなどで聴く機会があった。聞くたびに、やっぱりすごいなあと、ため息をついた。コリエルは、年をとってもあちこちの音楽祭にギター一本背中に担いでいき、「ボレロ」を若い時と同じくらいの勢いで一気に弾いてみせ、僕はそのスタミナに感心していた。というとアンダーステイトメントで、彼のギターには、生きる元気をもらっていたと言ってもいい。彼には「枯れる」という言葉は似合わないと思った。

そのコリエルが、僕の誕生日の一週間後、コンサートツアーの途中にニューヨークのホテルで突如亡くなってしまった。73歳だったという。夏が終わった途端に秋になり、一気に木の葉が落ちてしまったような気がする。

ちょっと早かったんじゃないのか、コリエルさん。もっと、あの火の出るようなギターを聞かせて欲しかった。

冥福を祈る。

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スペイン、サンチャゴ・コンポステーラ・大聖堂
(昔撮った写真)
posted by てったくん at 15:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記