2019年02月03日

網戸をつける

2019年2月3日

メルボルンはまだ夏。冬の日本から戻ってきた女房が、彼女の仕事部屋の扉に網戸をつけてくれとリクエストした。僕は、正月明けから執筆に燃えてパソコンのキーを叩いてばかりいたので(嘘ばかり)、右腕が少々腱鞘炎気味で、あまり仕事もできない。そこで、渡りに舟とばかり、仕事をサボることにして、網戸をつける作業に従事することになった。

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ペンキを剥がしかけの古い網戸

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ペンキが剥がれかけの、醜い表面

網戸をつけるのは、彼女の部屋から庭に出入りするドアだ。ちょうど2、3年前の粗大ゴミの時に拾ってきた古い木製の網戸ドアがあったので、これをリサイクルすることに。ところが、これが思ったより10倍大変だった。網戸を洗うのと汚いペンキを剥がすのに5日、取り付けに2日かかってしまった。

古いペンキは剥がさなくても、そのまま上から塗れば良かったのに、うっかり缶に少しだけ残っていた剥離剤を一部に塗ってしまったことが最大の災いになった。剥離剤を塗ると、わらわらとそこのペンキが剥がれだす。そこで、もう後には引けなくなり、全部剥がすことになってしまった。剥離剤が足りなくなったので新しく買ってきたのだが、今度はエコっぽくて、体にも優しい高級な剥離剤を買ったら、効き目がスローでなかなかペンキが剥がれてくれない。そんなで待ち時間がえらく長くなった。

僕が外でゴソゴソ作業をしていたら、今度は、娘が、布団ソファを作ってくれとリクエストしてきた。彼女は、先週からメルボルンのシティの、大学近くのアパートで暮らすことになったのだが、そこで使うソフアがないのだという。ちょうど使ってない一人用の布団があるので、これを三つに折りたたんでソファにして使えばいいと言うのだ。その布団を支える簡単なフレームを作ってくれと言う。それは良い考えだ。そう言えばイケアでも、そんなソファを売っていたかもしれない。そこで、網戸のペンキが剥がれるのを待つ間に、余っていた木材やら古いキャンプ用テーブルやらを再利用してフレームを作った。3時間ほどで結構洒落た布団ソファができてしまった。

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イケアでも売れそうな布団ソファ

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一方、エコな剥離剤は、効き目が緩やかなので、待てど暮らせど、ペンキが剥がれてくれない。一晩塗っておいて、やっと翌朝ペンキが剥がれてると言う、そんなペースだ。こんなことをしているうちに僕は老人になってしまう。老人がこの剥離剤を使ったら、前期高齢者が後期高齢者になって、寿命が尽きて死んでしまうに違いない。とにかく、そんなで、ペンキをはがすのに都合5日もかかってしまった。最後にサンダーで磨いたら、素晴らしい下地が現れた。そこに、ペンキを塗ったら、せっかく磨いた下地が隠れてしまった。一体何のためにサンダーで磨いたのか分からない。とにかく、ドアのペンキ塗りを済ませ、新しい網も買ってきて張って、ドアを取り付ける段になった。ところが、最初に測ったはずなのに、ドアがまだ2ミリほど長すぎて、枠に付けられない。仕方ないので、ドアをまた外してカンナがけをした。おかげで、外枠のペンキもまた塗り直し。


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素晴らしい仕上がりの網戸のドア

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取り付けも完了

1週間経って、やっと完成。こういう仕事は、やってみると本当に大変だ。その割に、たかだか網戸の取り付けなので、それほどの達成感や満足感があるわけでもない。女房は一応、「とても素敵。ありがとねー!」と褒めてくれたのだが。せめてもの慰めに、自分で、大きなステーキを焼いて食べた。

メルボルンの残暑はまだ厳しい。夜、寝床で久しぶりに夏目漱石『三四郎』を開くが、大して読まないうちに、くたびれてバタンキュー。

幸い腱鞘炎だけはほぼ治った。


posted by てったくん at 14:43| 日記

2019年01月14日

お蕎麦の束について思うこと

2019年1月14日

2019年になってしまった。読者のみなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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庭のブルーベリー

昨12月は東京で過ごした。滞在はいつもの調布M城さん宅である。3週間半ほど滞在し、忘年会の酔っ払いが街に溢れ出す頃、メルボルンに帰ってきた。家族はまだ日本に滞在中なので、1月の半ばまでは一人暮らしだ。

東京の雑踏に比べると、メルボルンは実に静かだ、というのが帰国した第一印象だった。たとえ都下調布であったともしても、駅前に出てざっと180度を見渡した限り、視野に少なくとも400名くらいの人が目に入る。新宿駅の構内ならば常に2000人くらいは視野の中にあるだろう。ところが、私がメルボルンで暮らしているベルグレーブだと、駅に行って見渡しても、視野に入る人は10名くらいのものだ。夏休みの今、学校に通う子どもたちもいないから、もしかしたら2名くらいだ。

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セロリは元気になっているが、一人ではこんなに食べられない

そんな静かさの中で一人暮らしをしていると、3日くらい誰とも口をきかないで済んでしまう。時に、世界に取り残されているのは自分一人なのではないかと錯覚することさえある。過日、SF映画Passengersというのを観たが、これはある男が、遠くの惑星へ旅する宇宙船の中で、自分だけが冬眠から目覚めてしまうという筋だ。目的地へ着くまでまだ90年もかかるから、宇宙船の中で人生が終わることになってしまった。どうにか1年は一人で過ごすが、やがて気が狂いそうになる。そこで、仕方がないから、もう一人の女性を冬眠から覚醒させる。もちろん、この女性はものすごい怒るのだが、やがて二人の間には素晴らしい絆が生まれ、二人で宇宙船の中で人生を終えるという話だ。

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プラムは鳥に食べられないように網をかけた 

美しい話だが、実際こんな目にあったらどうしよう。が、我が家町ベルグレーブは夏の間はとても静かだから、宇宙空間にいるのとあまり違わないかもしれない。映画みたいに美しい女性を眠りから起こせればいいが、うちにいるのは、猫のタマちゃんだけだ。まあ、タマちゃんでもいないよりはマシかもれしれない。

でも、私はフリーの物書きなので、それくらい静かだとさぞ執筆が進むだろうと人は考えるかもしれない。ところが、あまり静かだと逆に書けないのだ。物書きには喫茶店や図書館で仕事をしている人もあるが、私も、けっこうそういうタイプである。

で、勤めをしてない私は、食事も三度三度一人で食べる。外食すればいいじゃないかと人は思うかもしれないが、ベルグレーブにロクな食べ物屋はない。しかも夏休みだから、1月半ばまで閉まっている店が多い。オーストラリアでは、いまだに「1月は休みます!」なんて商売が結構ある。


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もうすぐ食べごろのプラム


だから、自炊である。自炊は好きだから、作るのは苦にならない。しかし、一人だと、どんなに時間をかけて作っても、食べるのは5分か10分で終わってしまう。いささか味気ない。でも、本当に宇宙船で一人になったりしたら、こんなことくらいでめげてる場合ではないから、私も肩のこらない本など読みながら食べる。

日本から帰って、いきなり食べたくなったのはカレーライスだった。しかも、ルーで作った普通の日本のカレーだ。そんなものは、東京にいる間にCCカレーとかココイチとかで食べれば良かったのだが、鴨南蛮とか、寿司とか、和牛ステーキとか食べるのに忙しくて、私はカレーを食べる機会を逃したのだった。

だから、一人暮らしをしている時に何だが、いきなりSBゴールデンカレーを作った。ひとパック全部作ると余るから、ルーは半分だけ使った。それでも多すぎた。3回食べたが、さらに一回分余ったので冷凍した。

次に、パスタが食べたくなった。なんと呼ぶのか分からないが、クリーム味のスモークサーモンが入っているアレである。庭で採れた青ネギやら、インゲン豆などたくさん投入して、最後に黒胡椒とパルメザンチーズをたくさん擦ってかけたら、とても美味しかった。ところが、パスタをたくさん茹ですぎて、一食ぶんくらい余った。これも冷蔵庫行きだ。

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日差しが入り込まないように、日中は日よけを下ろしている

オーストラリアに帰ってきたのだし、オジービーフのステーキも食べたくなった。400グラムの大判のものを焼いたが、3分の1くらいが食べ残しになった。これも冷蔵庫行き。

大晦日にはピザが食べたくなった。そこで、スーパーでラージサイズのベースを買ってきて、これにピーマンやら玉ねぎやらハムやら、美味しそうなものをいろいろ載せて焼いた。ところが、3切れ残った。これも冷蔵庫へ。

他にもいろいろ作ったが、どうしても余剰物が出て、冷蔵庫に蓄積していく。多分20パーセントくらいの食べ物が余り、その多くが捨てられていく。でなければ、冷凍庫に数ヶ月も放置され、電気を無駄にしている。これではサステナブルではない。

だったら、食べる分だけ作ればいいじゃないかと、人は言うだろう。私もそう思う。自炊するたびに「食べる分だけ作ろう」と、肝に命じている。ところが、お米を研いでいると、一人だけなのだから一合だけ研げばいいのに、なぜか一合半研いでいる自分がいる。パスタを茹でる時も、親指と人差指で作った輪に束ねられるだけの量を茹でればいいのに、無意識にその1.5倍くらいの量を茹でている。ステーキだって、私なら250グラムくらいで十分なのに、なぜか400グラムも焼いている。

なぜか?理由はわからない。ただ、これが長年の習慣から来ていることは確かだ。これまでの人生、無自覚にこういうことを続けていた。しかし、家族がいれば、まだわかる。何かを作っておけば、後で誰かが食べるかもしれないからだ。でも、一人しかいなのだから、残ったものを食べるのは自分しかいない。しかも、残り物を食べることなど全く欲してないのだから、できるだけ残り物が出ないように作るべきなのだ。

それがなかなかできない。そこで、昼飯は、こうした残り物を片付けることが主眼になってくる。カレーはまだいい。カレーが残っているのは、どこか嬉しい。しかし、パスタの残りはよろしくない。昨日茹でたパスタなど、美味しくない。朝ごはんが昨晩のピザなのは、全くうんざりものだ。


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トマトは伸び放題だが、あまり実がなってない

さて、昨日は、気温が30度以上あったので、お蕎麦を茹でて、ざるそばにした。食べてから、お蕎麦は食べ残しが出ないことに気がついた。なぜなら、お蕎麦は、束になっているからだ。一人なら1束、二人なら2束という風に。どうして、こんな大事なことを、これまで意識してこなかったのか。まるで、目から鱗が落ちる気がした。

これからの人生は、これで行くことにした。何か余剰が出そうな時は、お蕎麦の束をイメージする。束にできるものは、必要量を束にしてから使う。これが鉄則だ。そうすれば余剰は出ないはずだ。残り物を食べる人生とも、もうオサラバできる。

しかし、そうなってきて危惧するのは、余剰を出したくないばかりに、お蕎麦ばかり食べる余生を過ごしかねないことだ。実は私は、ちょっとそういう性格なところがある。うちの女房は、バーンと、後先のことを心配せずに好きなことを感覚的にやってしまうたちなのだが、私は、後先のことをまず考えてから、ことを起こす傾向がある。

そういうことを考えていたら、「拘束」ということばが脳裏に浮かんだ。私の余生における食生活は、お蕎麦の束に拘束されはしないか? そうなったら、食べたいものも食べられなくなる。しかし、それは嫌だ。カレーだって、パスタだって、焼肉だって、いろいろ食べたい。そういう食品は、必ず残り物が出るに違いない。

何だか、食事の問題は、振り出しに戻ってしまったみたいだ。
posted by てったくん at 10:56| 日記

2018年11月29日

「ポテチ死」という死に方はどうなのか?

2018年11月28日

今年は中盤から、どうも体調が思わしくなくなった。ことの起こりは胃だ。晩秋ごろ(オーストラリア、メルボルンの話だから4月ごろ)から胃の具合が悪くなった。加えて、7月くらいから喉の具合もおかしくなった。腫れぼったくて、スッキリしない。医者は、冬場の風邪が治らずに炎症を起こしているのでしょうと言う。8月、今度は仕事で酷暑の日本に行った。すると、季節の逆変と夏の暑さからくるストレスで、体調はもっとひどくなった。ある時、知人と都心で昼飯を食っていたら、喉が干上がって苦しくなった。

その夜ミニ同窓会があって、中学時代の同級生と青山の蕎麦屋で飲んだ。まだ喉はおかしいし、胃も重い(酒なんか飲んでる場合か!) すると口の悪いU君が、「お前、声が変だぞ。俺の親父は喉頭癌で死んだが、ちょうどそんな感じで声が変になって、最後は声が出なくなって死んだ。早く病院にいけ」と言った。気分は最悪だ。

そこで、とにかく医者に行くことにした。だが、僕は、日本に住んでいないから健康保険もない。でも、手遅れになったらことだから、調布駅前の耳鼻咽喉科に行った。医者はすぐに喉にカメラを入れて診てくれた。すると、「喉はちょっと赤くなっていますけど、腫瘍なんかないし、声帯だって綺麗なものです。多分逆流性食道炎です。オーストラリアに帰ったら、喉よりも胃の具合を診てもらってください」という見立てだった。喉の証拠写真もプリントアウトしてくれた。健康保険がないので診察料が九千円もかかったが、病名が分かって気が楽になった。

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新宿のビルの谷間で浮かない顔の僕

日本の酷暑は、8月終わりにだいぶ収まったが、テレビのニュースで「こういう暑かった夏の後、特に老人には、秋口に体調を崩して病気になる人が多い」と言っていた。それを見ながら、そうだなあ、老人は大変だよなあ、と思った。

ところが、老人だけじゃなくて、僕の体調もなかなか回復しないのだった。胃も喉もすっきりしない。メルボルンに帰ると、すぐ医者に診てもらった。やっぱり逆流性食道炎だろうということだった。そこで胃薬を9月いっぱい飲んだ。そしたら胃は軽快した。酒やコーヒーをやめたことも良かったのかもしれない。喉も全快とは言えないが、大分普通に戻った。やれやれ。10月頭、また医者に行った。医者は「今度は、薬なしで1ヶ月様子を見ましょう」と言った。

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その1ヶ月間、僕はカヌーを漕ぐトレーニングを始めた。11月中旬にマレー川カヌーマラソンに、リレーチームのメンバーとして出場する予定だったからだ。これは、5日間で404キロを漕ぐという過酷なレースだ。今年がこのレースの50周年なので、チームメイトの鼻息も荒かった。チームメイトというのは、50代から70代のおじさん、おばさんの8名だ。僕は過去に一回出場しているが、まだまだ新参者の若造だ。その上、僕はまだあまり体調が思わしくなく、トレーニングを始めても、どうも全力が出せない。よほど頑張らなければいけないと肝に命じた。それから数回、近所の湖で練習した。どうにかいけそうかなと、そんな気がしてきた。ところが突然、我がチームは、カヌーリレーを棄権することになってしまったのだ。なぜなら、チームリーダーのチョーさん(本名ブライアン)が、大怪我をしたからだった。

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マレー川、カヌーマラソンで漕ぐ私(前に座っている)

チョーさんは、71歳の元工務店勤務のオヤジだ。年は食っているが、現場で働いていただけあって、体力と気力はある。雰囲気が、ドリフのいかりや長介に似ているので、僕は密かに「チョーさん」と呼んでいる。その怪我は、チョーさんが、ある夕方、家のベランダでビールを飲みながらくつろいでいるときに起きた。彼がポテチ(厚手の硬いやつ)を口いっぱいに頬張って噛み砕いたら、口の中で割れた切っ先が喉の奥につき刺さったそうだ。そして、悪いことに、それが皮膚のすぐ裏側の動脈を切ってしまったと言う。動脈だから、チョーさんの口からは血が噴水のようにほとばしった。横にいた奥さんは、腰を抜かしたが、気を取り直して救急車を呼んだ。その間チョーさんは、ビール瓶を握りしめながらも、オカルト映画のように口から血をドボドボ滴らしている。救急車は数分で到着し、チョーさんはすぐに病院に担ぎ込まれて処置を受けたが、傷を塞ぐまでだいぶ手こずったらしい。出血がすごいので、途中で輸血もしたらしい。これがどこか人里離れた場所だったら、間違いなく出血多量で死んでいただろうという話だ。そんなことで、傷が癒えないうちは、奥地の川でカヌーなんて漕ぐわけにはいかない。協議の結果、リーダーが出られないのなら今年のレースは棄権ということになったと言う次第。

翌日、チョーさんが電話をしてきた。「俺の怪我のせいでレースに出られなくなって申し訳ない。しかし、俺もとんでもないことで死にかけたもんだ。ポテチ死なんて冗談じゃないよ。孫に、おじいちゃんはポテチが喉に刺さって死んだんだよ、なんて言えるか? 俺はもっとかっこいい死に方をするぜ」と、チョーさんは笑っていた。でも、本人は、さぞビックリしたことだろう。

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マレー川にて、チョーさんの勇姿

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マレー川の景色。こういう何もないところをひたすら400キロ漕ぐのである


日本でも、時どき餅を喉に詰まらせて亡くなる人がいるが、ポテチ死する人も、案外あるのかもしれない。そう言えば、昔知っていた人で、朝食のコーンフレークを喉に詰まらせて亡くなった人があった。笑ってはいけない。どんな死に方でも、事故で人が亡くなるのは大変なことなのだ。

そんなことを、友人の、「調布の賢者」ことM城さんに話したら、「でもさあ、不治の病になって延命処置で長く生かされるより、ポテチ死でいいから、ころっと死にたいよなあ」と言った。それもそうだ。点滴チューブをいっぱいつけて意識不明になってでも生きるのなんて嫌だ。家族には、「最後に意識がなくなったら、ポテチを口いっぱいに詰めこむように」と言っておこう。
 そう言えば、今年早々には、元気いっぱいだった中学の同級生の女性が、突然の動脈剥離で亡くなっている。もう一人、僕と同い年の別の女性も、同じように動脈が破れたが運よく九死に一生を得たと、近況メールに書いてきた。動脈が破裂したり、切れたりなんて予測もできない。しかし、人生何があるか分かったもんじゃない。だから、毎日毎日を大切に生きなければいけない。

昨日、また1ヶ月経ったので医者に行った。喉はほとんど良くなっている。ただ、先週花粉症になった時に鼻水が大量にたれ、その時だけは喉が前のようにおかしくなった。それを医者に伝えたら、「じゃあ、今度は鼻炎スプレーを1ヶ月使ってみましょう」ということになった。早速、薬局でスプレーを買って、シュシュっとやった。そしたら、ほんの数分後に効果が現れ、ここ数ヶ月僕を悩ませていた喉の腫れは、空が晴れ渡るように霧散した。今度こそ完治したと言ってもいい。ステロイドの効果なのか、それとも僕が暗示にかかりやすい性格なのかわからないが、効果は劇的だ。正直いって、とても嬉しい!(もっとも、これでまた1ヶ月様子を見るのだが。)

とにかく、今日からは、新しい気持ちで生きよう! 僕は、これから何か新しい目標を見つけて、それに向かって生きるのだ。(かなりのお調子者なんだよなあ、僕は)。 

それにしても、ポテチを食べるときだけは、重々注意しよう。

 
posted by てったくん at 19:03| 日記

2018年10月08日

ブリスベンまで 。 あるいは、空港ですごす優雅な日曜日


2018年9月30日

息子の所属するサッカーリーグの決勝戦を観戦するため、クイーンズランド州ブリスベンに4泊5日間行くことになった。息子は州代表チームのフォワードとして出場する。ブリスベンまで、息子はチームメイトたちとカンタス航空で飛び、私と女房はタイガー航空という格安会社で行くことになった。2時間半の空の旅。どちらも朝7時ごろ発の便なので、空港に5時半に着くように、まだ暗いうちに起きて、えっさかほっさか家を出た。ところが出たとたん、うす暗い山道で、でっかいカンガルーが、よろよろと道のまんなかに登場。突然だったので、急ブレーキを踏んだが間に合わず、「ドーン!」と接触!「ああ、やっちゃった」と、すぐに車を止めてカンガルーはどこかと見渡したが、姿が見当たらない。どこかにそのまま走り去ったらしい。何とタフなやつ!幸い、車のフェンダーもつぶれてない(みたいだったが、暗くてよく分からない)。これが人間だったらシャレにならないが、急ぐので空港へ。

空港では、長期パーキングへ車を入れ、出発ターミナルへ。もうチームメイトたちが集まっている。息子をチームに預け、私と女房は、タイガー航空のカウンターへ。

さて、カンガルーは轢いたものの、どうにか時間通り空港まで着けた。やれやれ。だが、昨日はオーストラリアン・フットボールの決勝戦がメルボルンであったから、タイガー航空のカウンターは、オーストラリア各地へ帰る人たちで長い行列だ。係員が大わらわで対応している。しかも並んでいたら、「7時のブリスベン行きは、機材の故障でキャンセルです。代替便のご案内は、お客様のケータイにメッセージします」というアナウンス。

「うっそー? がーん!」が私と女房の反応である。私たちはメルボルン空港に足止めだ。幸い、代わりの便の案内はすぐに届いた。午後3時のバージン航空便。ただ、午後3時まで8時間もある。今日中に行ける便があっただけ良いが、8時間待つのは辛いぞ。

いったん家に帰ろうかとも思ったが、車はもう長期パーキングに入れてあって、4日分払っちゃったから、もったいない。高速代ももったいない。ガソリン代ももったいない(最近、すごく高い)。そこで、空港で粘ることに。八時間は長い。でも、愛する女房と二人だから、どうにかなるだろう。だって、私たちはつい先週、結婚29年を迎えた、まだまだ「熱々」のカップルだ。29年経っても、語り合うことはいくらでもある。退屈なんてしないだろう。

さてと、3時起きで家を飛び出してきたから、朝ごはんも食べてない。女房のケータイも「朝ごはん」充電が必要なので、近くのカフェへ。先に飛び立つ息子へ、我々が遅れる旨を連絡。ブリスベンで泊まるエアB&Bへも連絡。一緒にエアB&Bに泊まるチームメイトのお父さんのピーターへも連絡。ブリスベンで借りるレンタカー屋へも連絡。連絡でしばし忙しく過ごす。

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僕は今日一杯目のコーヒーと、スモークサーモンのベーグルサンドイッチで朝ごはん。ベーグルと言っても、ベーグルの形をした普通のパンで、本当のベーグルではない。メルボルン空港の食べ物は、高くてまずい。質も低い。

その上、このカフェには充電ができるコンセントがなかった。とにかく、ここで一時間つぶしたので、電源のあるカフェへ移動。二階の国際線出発ロビーのカフェにコンセントを発見、ここへ入る。ここで本日2杯目のコーヒー。ブラックを頼んだら、女房は「濃くて飲めない」と言う。そして、向かいのマクドナルドのカウンターにつかつか歩み寄り、無料でミルクをせしめてきた。こういう時は女房はしぶとい。

私は、することがないので本屋へ行って立ち読み。空港の本屋には、ろくな本はない。ブロックバスターのペーパーバックばかり。それでも、どうにか15分。トイレに入り、じっくり手を洗う。5分もかからない。

カフェにもどり、フェイスブックに「メルボルン空港で、飛行機がキャンセルになったので、八時間潰す羽目に」みたいなことを書く。日曜日の朝8時、返事なんてこないと思ったら、10分くらいで4、5人からメッセージ。口の悪いオーストラリア人の友達が、「タイガー航空なんて、行っても行かなくても良い所に行くときだけ乗る航空会社だ。別れた妻の結婚式とか」だって。笑えたので、女房にこのメッセージを伝えると、「そうよ、その通り。あんたは、このブリスベンのサッカー観戦には、いまいち乗り気じゃなかったから。可愛い息子の晴れ舞台なのに!」うーん、そんなつもりはちっともないのだが、確かに熱狂しているとまでは言えない。だからと言って、タイガー航空がキャンセルになったのは、私のせいではない。

見れば、乗り換えることになったバージン航空のカウンターが空いている。そのすきに、もっと早い便がないか聞きに行く。受付のおばちゃんは、「ごめんなさいね、今日は混んでいるから3時の便まで空きはありません」だって。言葉は丁寧だが、全然すまなそうではない。

カフェに戻る。ここまでで二時間半。女房は携帯を充電しつつ、パソコンで息子のサッカーの写真を整理している。作業に集中している女房は楽しそうだ。私はすることがない。そこで、あたりを見回して、社会観察をすることに。

いつも思うのは、どうしてオーストラリアには、こんなに太った人が多いのかということだ。太っているのに、マクドナルドなどで、さらに太るための食事を摂っている。マクドナルドは、こうして太った人をさらに太らして、お金儲けをしている。悪いことだ。

メルボルン空港で働いている人には、いろいろな人がいる。でも、ここで働いている人には、ふしぎと太った人が少ない気がする。マクドナルドやカフェやなんかの従業員は、アジア系や中東系の若者がが多い。今わたしたちが、ケータイの充電でお世話になっているカフェで働いているのも、中国系のような兄ちゃんとレバノン系みたいな姉ちゃんだ。二人とも、かなりルックスはいい。働いている間に恋仲になったりする可能性もあるんだろう。しかし、次から次へとお客が来てコーヒーを注文するから、ふたりはコマネズミのように働くばかりで、雑談する暇もなさそうだ。がんばれ、若者!

一方むかいのマクドナルドは、相変わらずたくさんの人間を吸い寄せている。いつだったか、どこか田舎へ行った時、ドライブしていて眠くなり、どうしてもコーヒーを飲まないと事故りそうになった。そこでカフェを探したが、運悪く日曜の午後で、オーストラリアの田舎は店なんか開いてない。仕方なく、マクドナルドへ入って、カウンターでコーヒーを頼んだ。そしたら、ニキビ面の、非常に頭が悪そうな少年が、「あそこの機械で注文してから、カウンターで受け取れ」と、命令口調で喋った。そこで、私は機械みたいなもののボタンをいくつか押して待ったが、待てど暮らせどコーヒーは出てこない。その間にも、田舎人間が後から後からやってきて、見るも恐ろしい、高脂肪の餌のようなものを買って、嬉しそうに食べている。それを見ていると恐ろしくなってきて、もうコーヒーはどうでも良くなり、そのまま出てきてしまった。それが、私の近年限られたマクドナルド体験だ。

メルボルン空港の時計は、今日はゆっくりとしか進まない。仕方がないので、またトイレに行く。年をとるとトイレが近くなるのが剣呑だ。出かけるときは、まずトイレ。到着してもまずトイレ。飛行機に乗る場合も、トイレに行きやすいように通路側の席を取る。3席の真ん中に座るのは自殺行為だ。今日は2時間半のフライトだから、我慢できるだろうか。やや不安だ。今日は、待ち時間が腐るほどあるから、待っている間、頻繁にトイレに行っておこう。

出発まであと5時間半。考えてみれば、8時間もあれば、メルボルンから東京までほとんど行けてしまう。メルボルンを飛び立って八時間といえば、もう小笠原諸島くらいだ。その長い時間、私と女房はメルボルン空港のカフェに座っている。

私は、小笠原諸島にまだ行ったことがない。でも、いつかは行ってみたい。息子も小笠原でダイビングとか釣りとかしたいと言っている。友達で釣り仲間の、調布のマンションで暮らしているM城さんも、小笠原を見てから死にたいと言っている。だから、いつかは小笠原に行きたい。行かなくてはならない。小笠原には、マクドナルドはないだろうし、太った人間もあまりいないだろう。そういう場所こそ、私が本当に行きたい場所だ。小笠原諸島へはタイガー航空は飛んでない。船で何日もかけないと行けない。本気で行こうと思わないと行けない場所、それが小笠原諸島だ。

そういう大事なことが分かったのだから、メルボルン空港に足止めを食った甲斐もある。時計を見る。出発まで4時間。女房は、写真の整理にもさすがに飽きたのか、トイレに行った。オーストラリアのトイレには、ウォッシュレットがない。だから私は、この20年はウォッシュレットなしで暮らしてきた。今の日本人にしたら信じられないことだろう。石器時代のようなものだ。でも、オーストラリアに暮らす2500万人のほとんどは、今日もウォッシュレットなしで暮らしている。これからもなしで暮らすのだろう。どうしてオーストラリアでは、そして、海外の多くの場所では、ウォッシュレットが普及しないのか? それに関してはいろいろな議論があるらしい。でも、その一番の理由は、文化の違い、生活習慣の違いだと、いつだったかメルボルンの新聞に出ていた。決して貧富の差ではないそうだ。現にオーストラリアは豊かな国だし、国民の平均所得は、日本より高いくらいだ。だのにウォッシュレットは普及していない。もちろん中には、日本に旅行したりして、その魅力(魔力?)にとりつかれた人はいる。友人のアランとパトリシアがそうだ。何度も日本へ旅行し、もはやウォッシュレットなしでは生きられなくなってしまった。アランは水道工事屋だから、ウォッシュレットの取り付けなど朝飯前で、日本から取り寄せて、ちゃちゃっと取り付けてしまった。

でも、私は苦節20年、ウォッシュレットなしで生きてきた。ところが今年7月、コペルニクス的転換が起きた。日本から来た友人U君が、携帯式のウオッシュレットを見せてくれたのだ。彼はこれを持って世界中を旅している。これとケータイさえあれば、どんな場所に行っても、たいがいのことは大丈夫だと太鼓判を押した。私は、感動を抑えきれず、U君の携帯式ウォッシュレットを手に取った。U君は、それを僕にくれると言った。しかし、いくら親しくても、使い古いしの携帯ウォッシュレットを友達からもらうのはどんなものだろう。だから「今度、日本に帰ったら買うから」と、遠慮しておいた。

8月、私は日本に帰った。調布のM城さん宅に旅装を解いた私は、すぐさま調布駅前ビックカメラに走った。そこには、もちろん携帯ウォッシュレットが売られていた。2500円だった。もっと早く買えばよかった。とにかく、それを買って帰ってM城さんに自慢すると、M城さんは「そんなの、俺だって持ってるぜ」と、彼の愛用品を見せてくれた。ショックだった。携帯式ウォッシュレットを知らなかったのは、私だけだった。

メルボルンに携帯ウォッシュレット持ち帰ると、予想通り、私のオーストラリア生活のQOL(生活の質)は非常に高くなった。毎朝、白い筒状のそれにお湯を入れ、私は小躍りしてトイレに向かうようになった。家族は、そんな私を怪訝な顔をして見ている。その使い心地にの詳細は、これ以上書かないが、一つ言えることは、携帯式ウォッシュレットに入れるお湯の温度は、熱すぎると火傷をすることだ。これは注意しなくてはいけない。私は一度、魔法瓶のお湯を入れて、それを冷水で薄めるのを忘れたことがある。それだけは重々注意が必要だ。

さて、後3時間。大分フライト時間に近づいてきた。そう思うと腹が減ってきた。メルボルン空港ではあまり食事の選択の幅はない。だが、このカフェのとなりでは寿司らしきものを売っている。日本の飲食店では持ち込みは御法度であるが、オーストラリアでは大丈夫だ。一応このカフェには持ち込み禁止の札があるが、客の半分は向かいのマクドナルドの食べ物を食べているし、何も買わずに、ケータイの充電だけ無料でやっていく輩もある。それでも誰も目くじらを立てない。であるから、私も寿司を買ってきて、カフェに持ち込んで食べた。うん、味もそう悪くない。もとより、メルボルン空港の寿司に期待などしていないからそう思えるのだ。「期待しなければ、絶望もしない。これが悟りというものだ」と、稲荷寿司を食べながら女房がそう言った。

さあ、後2時間。そろそろ荷物を預けて乗り場ゲートへ行く時間が近づいてきた。8時間なんて、あっと言う間だ。私たちは、カフェに広げていたパソコンやiPadを片付け、バージン航空のチェックインカウンターへ向かって、意気揚々と歩いて行った。

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違う航空会社に乗ったので、窓際の席になってしまった。でも景色に見とれたせいで、トイレに行かずに済んだ。

posted by てったくん at 20:12| 日記

2018年08月24日

「調布化」していく私

2018年8月22日

用事ができたので、冬のメルボルンから日航の直行便で飛んで、8月の日本で3週間過ごした。滞在は都下は調布市、いつもお世話になるM城さん宅である。M城さんは古い友人で、彼は単身赴任の身だから、それを良いことにエアビー代わりにお宅を使わせてもらっている。M城さんによると、彼の奥さんより私の滞在の方が、頻度も多く期間も長いらしいというから恐縮してしまう。もはや日本に実家もない「孤児」の私には、彼の親切は本当にありがたい。

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帰国に際し、東京では、仕事(絵本の出版)がどかどか入り、毎日のように昼前ごろから出かけて都内で誰かとランチを取り、午後は打ち合わせや講演会、夜も誰かと食事をしつつ仕事の顔つなぎという日々だった。冬のメルボルンから酷暑の東京は、かなり堪えた。普段は、メルボルンで静かな暮らしなので、東京の雑踏を歩くのにも神経を使う。

そんなだから、仕事の合間に調布のM城さん宅でのんびり過ごすひとときは、癒しの時間だった。過去に私は、調布という場所についてずいぶん手厳しいことも書いたが、実はこの町に愛着を感じてきているからこそであって、決して本当にひどいところだと思っているのではない。長くいればいるほど、調布に愛着を感じる自分を否定できなくなってきている。年に2度は帰国し、合計1ヶ月くらい調布で過ごしているから、一年の12分の1は調布在住であり、だから、私自身も12分の1は「調布化」してきていると言っても過言ではない。

以下に調布の良いところを列挙する。

1. 京王線の特急で新宿からたった15分。
2. 駅前には、成城石井やパルコといった高級店もあるが、庶民的な西友ストアもある。
3. 庶民のための安い床屋や食堂、飲み屋やマッサージ店などが多数ある。
4. 老人や年金生活者が好む、天神様や深大寺植物公園、野川沿いの散歩道といったナイススポットが多い。
5. 公園や多摩川の河原のような緑地が多く、老人や子供、一般市民の健康増進に貢献している。
6. 公園や市民体育館では、老人や年金生活者が気軽に利用できる体操教室やラジオ体操などが常に開催されている。図書館も、充実していて、町の随所には分館がある。
7. 調布飛行場からは、伊豆大島まで飛行機でたった25分で行けてしまう。

他にもたくさん利点はあるが、キリがないのでここらでやめておく。以下で、これらの利点について少しコメントしてみたい。


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まず、京王線で新宿から15分で、しかもこの環境というのがすばらしい。例えば中央線で15分というと、阿佐ヶ谷、高円寺、西荻窪といったまだごみごみした地域を出ない。しかし、調布はすでに空が広がり、多摩川べりの緑が豊かな自然に恵まれている(まあ、田舎ということですが)。また中央線で新宿から西に向かう15分間と言えば、吉祥寺に繰り出すいかれポンチの若者や、田舎からきた騒々しい観光客が多くて剣呑だが、京王線の15分にはそうした俗人が少ないので、実に穏やか、静謐といっても良い(だって、京王線沿いには盛り場がないもの!)。

第2点だが、私は日本に滞在しているときは、仕方がないとき以外はなるべく都心に出ないようにしている。人混みが嫌いだからだ。しかし、都心に出なくとも、調布で大概の用事は済んでしまう。私に会う用事のある人が調布まで来てくれれば、私は調布から出る必要がないくらいだが、私はそこまで偉くないので人に会いに都心に出なくてはならない。買い物も調布で不便は一切なく、美味しそうなお惣菜や刺身なども、成城石井やパルコのデパ地下に並んでいて、私はそこを一巡するのが無常の楽しみだ。しかし、そういう高級店では目の保養をするだけで、実際に買うのは西友だ。この方策は、調布生活が長い、賢者のM城さんに教わった。パルコは見るだけ、買うのは西友。

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庶民の味方、調布西友は、80年代と思うばかりの外装と内装

西友は、刺身でも何でも驚くほど安い。20、30%引きのお買い得品も実に豊富だ。割引商品がまとめて置いてあるコーナーさえある。特に夕方は、年金生活者の先輩方が、タカのような鋭い目つきで、納豆や豆腐やお弁当が、少しでも安くなる瞬間を待っている。割引シールを持って登場した店員に対して年金生活者たちは、「おい、こっちのうなぎ弁当にも貼ってくれよ」などと指図したりもしている。店員も、そういう指図には慣れていて、「いやあ、うなぎ弁当は勘弁してくださいよ」などと、実にフランクに対応している。私も、そういった先輩方に混じって、刺身5点盛り780円がさらに20%引きになるのを待ち、トランプの神経衰弱のように割引商品を奪い取る技を西友で磨いている。

もう一つ、私が調布化している証拠の一つに、馴染みの床屋ができたことがある。いつも行くのは、Sという甲州街道沿いの1000円床屋だ。ここはなかなか繁盛していて、今回も帰国早々、10時の開店時に行ったが、すでに銀髪の紳士たちがずらっと並んでいた。マスターが一人でやっているから、そうなるとじっくりと腰を据えて待たないと順番が回ってこない。仕方なくパルコの中の10分1000円のチェーン店のQに行くが、ここも年金生活者だけでなく、リストラ間近のサラリーマンなども並んでいるから、待っている間に老人になってしまう。老人や庶民が多い調布で床屋に行くには、熾烈な生存競争を乗り越えなければならない。

今回も、そんなで、なかなか散髪ができないから、ぐるっと駅の周りを偵察してくると、少し値段の高い床屋もあるが、そういうところは庶民は来ないから空いている。しかし、私も薄くなってきた頭髪を整えるだけのために何千円も払うのは癪だから入らない。そこで、こんどは思い切って、いつものSへ開店30分前に向かってみた。すると、すでにヨタヨタ歩きの老人が2、3人、Sに向かって移動している。素早く彼らを追い抜いてSまで行ってみると、驚いたことに、もう白髪翁が一人待っている。私はすかさず二番手に並んだ。追い抜いてきた老人たちも、すぐに私の後に並んだ。全く油断ができない。その時は、あまり待たずに刈ってもらえた。このSは、1000円にしては仕事が丁寧で、30分ほどかけてじっくり刈ってくれる。2、3回行ったから、もうマスターは私のことを覚えてくれている。

調布滞在中は、毎朝散歩に行く。現役サラリーマンは調布駅にむかって足早に歩いていくが、老人たちは、それとは逆に、あたかも鮭の遡上のように、多摩川や野川方面にむかって歩いていく。私は、まだ老人ではないが、やはり老人たちに混じって遡上し、野川沿いを歩いたりする。私が世話になっているM城さんは、私よりも若干、心境的にも年齢的にも老人に近いので、さらに深大寺植物公園の向こう側や、三鷹の国立天文台といった奥地まで万歩計をポケットに入れてすたすた歩いていく。調布の野川沿いには調布市場という市場もあり、早朝から新鮮な野菜や、調布飛行場から運ばれてきた伊豆七島のとれたての魚を売っている。またその近くの交差点には、肉屋が三軒もあるのだが、その理由は謎だ。M城さんが、いずれ調布の古老にその訳を尋ねることになっている。

調布飛行場は、広々として気持ちがいい。私は飛行機が大好きで、プロペラのついた飛行機が、のんびりと大空へ舞い上がるのを見ていると恍惚としてしまう。調布飛行場には、そんな風景を眺めるためのカフェもある。まだ乗ったことがないが、ぜひ一度、調布飛行場から大島や三宅島に飛ぶフライトに乗ってみたいものだ。

調布では今回、図書館へも行ってみた。M城さん宅のすぐ裏にある、小さな分館だ。日曜日の朝に、1、2時間ほど仕事の書き物をしに行ったのだが、すでに老人でいっぱいだった。しかも男性ばかりである。この人たちは日曜というのに、他に行くところがないのかと思ったが、よほど読書が好きなのだろうと好意的に考えることにした。その老人たちは、机や椅子を占領し、雑誌や新聞を熟読している。偉いものだと思って、私も席について仕事を始めた。隣の75歳くらいの紳士は、英会話のテキストを広げているから見上げたものだ。そんな年齢になって、外国語を学習するとは尊敬に値する。しかし、しばらくすると、この人は、テキストに顔を突っ伏して、いびきをかきながら眠り始めた。英会話のテキストは、居眠りの導入剤としては最適に違いない。

今回、さらに私の調布体験を深めたのは、耳鼻咽喉科とマッサージ屋へ行ったことだ。耳鼻咽喉科へは、講演会や打ち合わせが続いたせいか、喉の具合がおかしくなったので受信した。すぐに鼻からカメラを入れて喉を診察してくれた医師は、なかなか手際も良かった。私は海外居住者で、日本に住民票がないから、受診料は目の玉が飛び出るほど高い。調布に住民票を入れたら国民保険の適用を受けられるから、そうしようかとも思うが、そうなると住民税を払ったり、確定申告をする必要も出てくるからややこしい。私と、調布の関係は、まだそこまでは深くないから、それは今後の課題だ。

駅前のマッサージ屋へは初めて行った。書店で行われた講演会で喋りまくった翌日、朝起きたらどうしようもない疲れでぐったりしていたら、M城さんが「こんな時は、自分へのご褒美のつもりで、マッサージをやってきたらいいよ」と提案してくれたので、M城さんご贔屓の駅前の店を予約した。私の担当は、カズさんという若いサッカー選手のような施術師で、彼がぐいぐい揉んでくれた。私は、あまりの気持ちよさに恍惚となり、ヨダレを垂れ流しながら眠りこけた。油断して、オシッコを漏らす老人だっているだろう。とにかく、あれだけやってくれて1時間3200円は絶対に安い。店も、新築の駅前ビルにあり、室内も清潔である。癖になりそうだ。

このように、私は調布のリピーターとなり、抜き差しならぬ関係を持つようになってしまった。現に、私の財布は、調布のマッサージ店、床屋、耳鼻咽喉科、飲み屋、食堂などの会員カードで厚みを増している。

さて、次に来るときは、調布でどんな発見があるだろう。とても楽しみだ。

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調布飛行場じゃなくて、成田空港
posted by てったくん at 13:03| 日記

2018年05月25日

親父たちが集う町、ベルグレーブ

2018年5月24日

うかうかしていたら、メルボルンもどんどん寒くなり、僕はヒートテックのズボン下を履いている。ズボン下を履くと、季節が変わったなと感じる。

昔、ズボン下は、股引とも呼ばれていた。子ども時代から青年時代にかけて、どんなに寒くても、股引など履くのは恥辱であって、そんなものを着用するくらいなら死んだほうがマシだと思っていた。ズボンの裾から、白い股引がちらっとのぞくなんてのは死刑宣告だった。しかし、いつの間にか自分も股引が欠かせない親父になっている。今は、死なないために股引を履いているのだ。生きていれば、思想を逆転させなければならない時がきっとくる。

昨年末、同じような話を、四国松山の飲み屋でそこのマスターと話していたら、横で聞いていたアルバイト学生が、「モモヒキって何ですか?」と聞いた。その時、股引が死語であることを悟った。

で、そんな親父の僕は、ほぼ毎日、夕方になるとベルグレーブの町(というか、村だな、ここは)の中心にあるウルワースというスーパーで買い物をする。ここには親父やおばさんが、たむろっている。特に親父が多い。なぜオーストラリアでは、夕方に、多くの親父たちがスーパーで買い物しているか、日本の東京の人なんかには理解できないだろう。でも、それがオーストラリア親父の実態である。

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ベルグレーブのウルワースは、かなりショボいが、地元に根ざしている点ではグーだ

ウルワースで多分一番よく会うのは、息子のサッカーチームのマネージャーだったコリンというお父さんだ。印刷会社勤めだが、PTAの会長やらサッカーのマネージャーやら、町の顔役である。そのうち町会議員にでもなるつもりだろう。コリンは、ほぼ毎日買い物をしていて、僕もほぼ毎日だから、ここのところ3日くらい続けて出会った。するとコリンは、「ウフフ、こんなにしょっ中会ってると、俺たちデキていると疑われるぜ!」そう言ってウィンクした。親父ギャグを飛ばす男は、どこにでもいる。

このスーパーの入り口では、毎日のように金のない若者や失業者がギターを弾いたり歌ったりして小銭を稼いでいる。中にはすごい下手な奴もいる。だからある時、夕食の食卓で「あんなだったら、俺の方がギターも歌も絶対うまい」と家族に言ったら、娘が箸を置いてしばし沈黙した後、「パパ、絶対に、あそこではやらないって約束して」と言った。年頃の娘としては、父親がスーパーの前でギターを引いて歌っているのを知り合いに見られでもしたら、自殺ものだろう。

ところが、2、3日前にウルワースに行ったら、見覚えのある親父が歌っていた。「金をくれ!多くても、少なくとも金をくれ。食事代、ビール代、クスリ代、俺には金がいる!」という最低な歌詞だった。誰だと思ったら、ポールだった。ポールは、息子のクラスメートの父親だ。仕事はフィジオセラピストだが、趣味でミュージシャンもしている。インド音楽が好きで、元ヒッピーであることは一目瞭然の風体だ。食べ盛りの息子が三人いるが、最近2度目の離婚をした。生活だって楽じゃないだろう。「三人息子を食わせるのも楽じゃないな」と言うと、「そんなんじゃないよ。歌の練習だよ、ただの練習。お前も一緒に歌え」と言う。「いやだよ、俺は」と言うと、また歌い始めた。「朝起きて、日が昇って、顔を洗って、死ぬのを思いとどまったぁ!」というデタラメな歌だ。それでも驚くことに金を置いていく人がいる。よっぽど切羽詰まって見えるのだろう。そんな親父に付き合うのはごめんだから、さっさとスーパーに入った。

すると、また知り合いがいた。サンタクロースのようなヒゲを伸ばし、いつもドロドロのつなぎの作業服を着たダーシーだ。値引き商品の、賞味期限が間近なカマンベールチーズの匂いを丹念に嗅いでいる。ダーシーは植物学者で、昔は専門学校の講師だった。今は市役所に雇われ、公園などで雑草除去の仕事をしている。「いやあ、腰を痛めちゃってね」と言うから、「どうしたの?」と尋ねる。「雑草抜きだよ。もう25歳じゃないから、無理に引っ張るとこうだ。歳は嫌だね」と笑う。ダーシーは70歳間近で、好々爺という風。植物相手に仕事をしている人は、健康で幸せそうな人が多い。ダーシーの陽に焼けた、笑うと皺だらけになる顔が好きだ。

そこへさらなる親父、イアンが現れる。イアンは僕と同い年、ヨガのクラスで一緒だ。ヨガはやっても、かなりのマッチョガイで、ホンダのトレールバイクで林道をぶっ飛ばすのが趣味だ。植木鉢を作る工場で働いている。僕と同じく、ティーンエージャーの息子がいる。イアン曰く、「(息子の)チャーリーが今度運転免許の試験を受けるんだが、その前に路上の模擬試験を受けさせたら、1時間の間に、交通違反を12点もやっちゃったよ。絶対に不合格だ。ガハハ!」 オーストラリアでは、親(とか身近な大人)が子どもに運転を教えなくてはならない。しかも250時間も路上教習をする義務がある。ところがイアンは、チャーリーの路上教習を、愛車の四駆パジェロで山の中や林道でやっているから、チャーリーは街中の道路なんか走れないのだろう。縦列駐車なんかとても無理だ。こういう型にはまらない親がオーストラリアにはたくさんいる。(僕も、2年先の息子の路上教習を考えると、今から胃が痛くなる。うちの息子は、ニッサンGTRが欲しいとわめいている。)

さて、立ち話も適当に切り上げ、レジに買い物カゴを持っていくと、レジ打ち担当はアンジェラだ。彼女は50歳台後半だと思うが、若い頃は少しばかりいい女だったに違いない。ちょっと潤んだ切れ長の目が素敵である。ユニフォームじゃなくて、花柄のワンピースや赤いセーターなんか着ていることもある。商品をスキャンして袋に入れ、お金を払う1、2分の間だけだが、色々な話をする。彼女には大工の息子と教師の娘がいて、去年は息子の方に孫ができたことも僕は知っている。「わたし、おばあちゃんになっちゃったのよ、いやあねえ」と、嬉しそうにアンジェラは笑った。去年は、コツコツ貯めたお金で、旦那とニュージーランドまでクルーズ船で旅行したとか、そんなこともチャチャっと話す。僕のことも聞くから、息子はサッカーをやっているが、ティーンエージャーはすごい食欲だの、娘が大学院で法律の勉強をしているからピリピリしているとか、そんなことを話す。彼女とはレジで週に一回くらい遭遇するが、この関係がこれ以上発展することもないだろう。

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ベルグレーブ図書館は居心地はいいが、蔵書が少ないのが難点

買い物をして、ウルワースの隣のベルグレーブ図書館によると、そこにも知っている親父がいた。図書館の勉強机で、iPad, Mac mini、iPhoneをケーブルで繋いで、しかめ面で腕組みしていたのはグレッグだ。グレッグは映像作家で、教育用のビデオを作ったり、子供達に映画作りのワークショップをしたりしている。「うちの通りが、今日は工事で停電なんだよ(メルボルンは、停電が多い)。だから図書館で仕事をしてるんだけど、コンピュータの接続がうまくいかなくて、今日はこれを繋いだだけで終わっちゃったよ。全くうんざりだ」と嘆く。僕は、最近紙芝居をやっているので、その写真を見せると、「いいなあ、こういうの!ローテクが一番だよ」と笑う。

寝る前に読むスパイ小説を2、3冊借りて図書館を出る。図書館の横は古い石造りの建物で、カフェになっている。この建物の離れを借りて住んでいるのは、ジェフリーという画家だ。ベルグレーブの芸術家クラブで風景画を教えている。友達じゃないが、知人を通して顔は知っている。いかにも絵描きという風体で、あごひげを生やし、フランス風のセーターなんかを粋に着こなしている。この中年男、夕方になると白ワインのグラス片手にカフェの前に立ち、知り合いが通るのを待ち構えている。誰彼捕まえて、よもやま話に興じる。それを毎日やっている。部屋で飲めばいいのに、わざわざ外で飲んでいるのは、ヨーロッパ風のつもりなのだろうか?泥臭いベルグレーブには珍しいタイプだ。町の風物詩的な親父である。

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カフェ・アースリープレジャーの外観

このカフェから表通り側に出ると、カメオという映画館がある。昔風の小さな映画館だが、ベルグレーブはこのクラシックな映画館が有名だ。僕は、この映画館に時々カヌー仲間のギャリーと映画を観に行く。親父二人で映画鑑賞だ。いつかは『ロングトレイル』というアメリカの映画を観に行った。これは、初老の男が二人でアパラチア山脈を踏破するという筋だったから、親父二人で見るのに最適だった。その時、切符を買うので並んでいたら、すぐ後ろにグレンがいた。グレンは、うちの息子が行っていたシュタイナー小学校の先生で、やはり60歳台の親父だ。せっかくだから、一緒に見ようということになって、三人でワイン片手にポップコーンをシェアしながら楽しく映画を観た。

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カメオ映画館

ベルグレーブで、一番有名な親父は、恐らく魔術師のババデーズであろう。この人は、ヒーラー(霊能力による治癒者)だ。いつも、インドの行者みたいな格好をして、ウロウロしている(でも、インド人ではない)。 昼間はカフェの野外テーブルにゆるりと座り、道ゆく人に挨拶をする。僕には、ちゃんと中国語で「ニイハオ!」と言う。この人はインチキで、いかさま師だと言う人もいるが、僕は真相を知らない。何だっていいじゃないかと思う。ババデーズはもう80歳以上で、目も白内障で半分くらい見えないが、住民には愛されている風物詩親父だ。


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魔術師ババデーズ氏

ベルグレーブは、そんなで、親父たちが集う町である。僕が、毎日夕方になると買い物に出るのは、オーストラリア親父の習性が身についた証拠かもしれない。

posted by てったくん at 11:50| 日記

2018年05月05日

40年で大木

2018年5月4日
メルボルンも秋。うかうかしていたら、もう五月。今年も3分の1が終わったしまったのか。やれやれ。でも、焦ったって仕方がない。マイペース、マイペース。

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いつも朝30分ほど散歩に行くが、その時、よくすれ違う近所の人たちがいる。ベルグレーブに住んで18年になるが、こちらは田舎でも日本ほど近所付き合いをしないから、あまりたくさんの人は知らない。でも、この頃よくすれ違う60歳後半くらいのおじさんがいて、ある時話しかけられて、それ以来仲良くなった。

名前はクリス、スイス人だった。なぜ話しかけてきたかと言うと、僕の車庫にある制作中のボートに興味を持ったからだ。「あれは、お前が作ってるのか?」「そうですけど、今は一緒に作っていた息子が興味を失っているので中断中。」「ヨットかモーターボートか?」「モーターボート。でも、まだエンジンは買ってないし、免許も持ってない。」「船の材料は何だ?」「合板とファイバーグラス。」「自分で設計したのか?」「とんでもない。イギリスのビルダーから設計図を買ったんだよ」と、こんな会話だった。クリスとは週に一回くらいすれ違う。家も5分くらいしか離れてない。

聞きもしないのに、クリスは身の上話もしてくれた。1970年代にバックパッキングでオーストラリアにきて、そのまま居着いてしまったと言う。仕事は製図で、スイス人だから器用だと思われて、メルボルンの大手の電気会社に雇ってもらえたそうだ。その仕事を7、8年前に定年退職した。仕事をやめたら、しばらく鬱っぽくなり、その上心臓のバイパス手術をしたりして、マジに健康を管理しないと死ぬと医者に言われたから毎朝真剣に散歩をしているのだそうだ。

でも、鬱はもう治ったらしく、クリスは話好きで、話し出すと止まらない(躁病?)。去年は、スイスのお姉さんが亡くなったので、5年ぶりにスイスに帰り、姉さんの遺産整理のために3ヶ月間滞在した。その間に美味しいチーズやらワインやら食べまくって飲みまくったら、10キロも太ったという。だから余計に散歩をする必要があるらしい。

「10キロとは、だいぶ太りましたね」と言うと、「そうだ、スペアタイヤ一個分だ」と、クリスはお腹をバンバン叩いて笑った。クリスは、キャンプとかブッシュウォーキングが大好きらしく、僕もそう言う野外活動は好きな方だから、そんな話をよくする。「このスペアタイヤのお腹を処分できたら、また山歩きをしたいね」とクリス。

家にもちょっと寄らせてもらった。木造のこじんまりした家だが、いかにもスイス人らしいウッディな装飾だ。庭には、白樺や松といった、北方の植物が植わっている。「ユーカリばっかり眺めていると飽きてくるから植えたんだ。40年経ったら、こんな大木になったよ。やっぱり秋は落ち葉を見ないと季節感が出ないから」とクリス。僕も全く同感。ユーカリの木は一年中同じ色だから、季節感がない。僕も庭に楓などの落葉樹が植えたが、やっぱり紅葉はいい。


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ユーカリの大木

「まるでスイスの家みたいですね」と言うと、クリスは顔をくしゃくしゃさせて笑った。「今さらスイスに帰って住もうとは思わないけど、家くらいスイスっぽくなくちゃ落ち着けないよ。」

クリスのは奥さんはオーストラリア人である。しかし、結婚してからスイス国籍もとったそうだ。息子が二人と娘がいて、子供達もやはりスイス国籍とオーストラリアの二重国籍だ。それができない日本人の僕は羨ましい。そして孫が全部で十人いると言う。「お孫さんが十人もいたら、とてもスイスには帰れないですね」と言うと、「うははは! そうだなあ、孫の顔が見られないのは寂しいよなあ」とクリス。

クリスは趣味で、合唱団の指揮者もしている。ヨーデルの合唱団だそうだ。オーストラリアに40年もいるのに、何から何までスイス人だ。でも、分かる気もする。日本人でも、外国に暮らしていると、余計に日本人ぽくなる人がいるから(僕はそれほどじゃないと思うけど、少しはそうかな?)。ヨーデルは、日本人にも馴染み深い音楽かもしれないが、歴史も古く、声の出し方や和声が複雑な上、歌詞のスイス方言のドイツ語が特殊だから、相当年季を踏まないと上手に歌えないのだそうだ。スイスでは4年に一度ヨーデルのコンテストがあるそうだが「すごいシビアなんだぜ。日本から出場したグループもあったけど、おぼつかなくて審査外だったよ。勘所をつかむのが難しいからな。俺たちだって全然入賞できないんだ」。とクリス。

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クカバラ(ワライカケス)はオーストラリアの原生鳥

クリスは、庭に僕を誘い出し、一本のブナのような大木の根元からタネを拾った。「この種を集めているんだ。これもスイスの山に生えているのと同じ木だ。ほら、この殻には種が入ってないだろ?100個拾っても3個くらいしか実が入ってないんだよ。それをもう100個くらい拾ったかな。これを苗に育てて、友達にあげるんだ。そうやって、この木をオーストラリアにも増やしたいんだよ。そしたら、綺麗だろうからな。でも、こちらは気温が高すぎて発芽しないから、いったん冷蔵庫に入れて冷やすんだ。そうすると種は冬が来たと勘違いする。そのあと冷蔵庫から出すと、春だと思って発芽するんだよ。種を騙すんだ。面白いだろ?」とクリス。

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これはどんぐり

「へえー、不思議なもんですね」と僕。スイスの木、日本の木、いろいろな木がオーストラリアには植わっている。もし僕が木だったら、どう思うかな?人みたいに、どうして俺はこんなところに植わっているんだろうと思うだろうか?木は、何十年も同じところに植わっていたら、そう簡単に引っこ抜いて移せない。人もそうだ。僕がオーストラリアに来て22年。外国だろうが、どこだろうが、20年以上も同じところにいれば、そう簡単に引っ越せない事情もできてくる。家族や仕事や交友など。クリスのように孫が10人もできたらなおさらだろう。
散歩でいろいろな人に出会うのも、面白い。
posted by てったくん at 07:08| 日記

2018年03月14日

メルボルンでも、秋は食べ物が美味しい季節

2018年3月14日

メルボルンの夏が去って、秋がきた。秋は食べ物が美味しい季節であるのは、日本でもオーストラリアでも変わらない。日本の食材の豊富さには負けるかもしれないが、オーストラリアでも、旬の魚や野菜が見事に色づく季節だ。

メルボルンから100キロ南へ行くと、ジーロンという街があって、そこに日本人の友人のK松さん一家が住んでいる。そっちの方で、ここのところイカが釣れているというので行ってきた。僕は、イカは釣ったことがなかったから、ぜひこの機会に釣ってみようと目論んだ。K松さんは、海の近くにずっと住んでいる年季の入った太公望だから、一緒に行けば必ず釣れる。

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僕が初めて釣ったアオリイカ

釣りの前夜はK松さんのうちに泊まった。夕食をいただきながら、おでんの話になった。K松さんの奥さんは大阪の人で、僕のような関東の人間とはおでんの作り方が違うのだと言う。大阪と東京のおでんの違いをここで説明するまでもないが、大阪では「おでん」と言わないで、「関東煮(だき)」と呼んだりする。それは薄いコーヒーを「アメリカン」と呼んだり、ジャガイモのフライを「フレンチフライ」と呼んだりするのと似ている。東京と大阪のおでんの一番の違いは味付けで、関東煮の方は、関西だから汁はあっさりと薄味だ。東京のおでんの汁は、濃い味で醤油っぽい色をしている。具も、大阪の方はクジラ肉のスジやサエズリと言った部位なんかが入っているが、東京の方にはそういうものは入っていない。反対に、東京のおでんには、はんぺんや竹輪麩(ちくわぶ)が入っていることが多いが、大阪では、それらは入れないらしい。

そんな話をしていたら、K松さんの中学一年のオーストラリア生まれのお嬢さんが「クジラを食べるのはいけない!」と強い口調で言った。オーストラリアは、捕鯨に反対しているから、日系人であっても、オーストラリア育ちの人間は、大概は反捕鯨の立場をとる。うちの子どもたちもそうだ。

僕の父は静岡の出身であったが、静岡にもおでんがあって、汁は東京と同じで濃いめだが、牛すじが入っているのは大阪っぽい。加えて、静岡特産の黒はんぺんが入っているのも特徴だし、おでんに、鰹節の粉やら青のりをまぶして食べるのも静岡風だ。静岡のおでんも、なかなか美味しい。

そんなで、メルボルンに住んでいる日系人も、出身によってそれぞれ異なったおでんを家庭で食べていることが予想される。昨冬のある夕も、近所の日系人家族とおでんを持ち寄って食べたことがあったっけ。そのH園さんという家族も関西の人だったから、我が家のおでんに比べると、薄味のさっぱりとした関東煮を持ってきてくれた。我が家の子どもたちは、そういうおでんを食べたことがなかったから、やや驚いたような顔をして食べていた。H園家の子どもたちも、我が家のおでんをみて、きっとびっくりしたことだろう。

その我が家のおでんだが、全くの東京風で、濃い味つけだ。メルボルンにおいても、ゴボウ天やハンペンも日系のスーパーに行けばあるが、高いし、そういう店は我が家からは遠いので、まずは入れない。ケチで、面倒臭がりの僕は、そこらにあるもので間に合わせる。我が家のおでんに入っているものは、以下のようなものである。

卵、ジャガイモ、大根、人参、豆腐(焼き豆腐ではなくて普通の豆腐)、油揚げ、こんにゃく、鶏肉や牛スジ肉、練り物(ベトナム料理に使う魚ボールなどで、大概は一種類しか入れない)、タコかイカ、だし昆布。(よっぽど入れるものが足りないときは、ソーセージなんかを入れることもある。)

そんなおでんでも、僕はとても楽しみだ。おでんの日は、かなり早めに、午後の3時か、遅くとも4時には夕食の準備に取りかかり、1時間以上は、おでんを弱火で煮込んでおく。

K松さんのところのイカ釣りの話に戻るが、案の定、立派なアオリイカが釣れた。朝早起きして行ったら、イカさんたちが、僕が来るのを待ち受けてくれていた。竿を入れたら、すぐに「ズン!」と当たりがあって、ビュービュー墨を吐きながら、立派なイカが上がってきた。普通の魚はバタバタ暴れるだけだが、イカは、足をグニャグニャさせながら墨を吐き、さらに釣り上げた時は体が透明なのに、すぐに白くなる。釣っていると、そう言う変化が面白い。普通の魚を釣るのとイカを釣るのと、どちらが面白いかと聞かれたら、答えに困るが、イカ釣りに夢中になる人が多いのも分かる気がする。

というわけで、K松さんの家でおでんの話が出たし、イカも釣れたから、今夜はおでんだ。上記の材料は、だいたい冷蔵庫に揃っている。しかし、釣れたてのイカは、おでんに入れてしまうのはもったいないので、刺身で食べる。そのかわり、タコを入れようと、近所のショッピングセンターの魚屋をのぞいてみたが、あいにくタコは品切れだった。そういうところが、メルボルンの不便なところで、なんでも売っているようで、買いに行くと、売ってないことも多い。

僕が、オーストラリアで食べているおでんは、そんな感じのものだが、それでも我が家の子どもたちは、喜んで食べている。特に、鍋物が好きな娘は、おでんが好きだ。その彼女は、ちゃんと辛い練り辛子をつけておでんを食べる。メルボルン育ちのくせに、そんなことまで、親がしていることを見て覚えるのだから、感心してしまう。

そうだ、練り辛子がないから、買いに行ってこよう。


posted by てったくん at 18:55| 日記

2018年02月22日

今年の誕生日 2018年

2018年2月19日

この間から、また薪を割りはじめた。冬になって急にはじめたのでは間に合わない。メルボルンの2月中旬は、暦の上ではまだ夏だが、風が吹くと落ち葉が落ちてきたりして、もうそこまで秋が来ている感じがする。

幸い薪にする木のストックはたくさんある。一昨年隣家のユーカリの大木が倒れたからだ。しかし、これを割るのは一筋縄にはいかない。木が倒れてから2年目だから、丸太はすっかり乾燥しているのだが、丸太を切り分けてくれた木樵たち(オーストラリアでは、tree loppersと言う)が、あまり小分けに切ってくれなかったせいでなかなか割れない。また、枝が生えていたところは節目になっているから、斧を入れても易々とは割れてくれない。ちなみに、薪を割るには、刃が薄い普通の斧(アックス)ではなくて、刃は鈍くて重さのある、斧とハンマーの合いの子みたいなウッドスプリッターと呼ばれる斧を使う。他の木材の場合は知らないが、ユーカリとかレッドウッドなどは、嵩があって固くて重たいから、そういう道具でないと割れない。

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なかなか割れない石頭の薪

だから、ここらの薪割りというのは、スパン!とパキン!と、小気味好い作業ではなくて、ドスン、バリンと重鈍な作業だ。それでも割れない丸太がたくさんある。そう言うのは、ウェッジという鉄製の楔(くさび)を割れ目に叩き込み、それをバシンバシン打ち込んで、じわじわと割る。僕は薪割りのコツを、ダンデノン山に暮らすようになってからここらの人たちから教わったが、なかなか上達しない。下手だから、ムキになって作業をする。すると時々腰を痛める。

2月14日は僕の誕生日だったが、こんな日に限ってまた腰を痛めた。デスクワークの合間などに1、2個薪割りをするのは 気分転換になるが、欲張ってたくさん割ろうとしたからだ。 割れにくい「石頭」なんか をムキになって割ろうとすると確実に腰にくる。でも、 一旦エンジンがかかると、なかなかやめられない。誕生日に薪割りなんかしなくても良かったのにと思ったが、後の祭りだ。

今年で56歳になった。母が亡くなった年齢である。だから、その年齢を迎えて、何か敷居を超えたみたいな感がある。56歳で人生を終えるのはどんな気持ちだったろうとずっと想像しながら生きてきたが、とうとう56歳になったので想像がつくようになった。なってみると、やはりちょっと早いなと感じる。まだやりたいこともあるし、これから読みたい本もたくさんある。2020年の東京オリンピックだって少しは楽しみだ。母だって、楽しみにしてたことがいくらもあっただろう。

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庭の畑。これは茗荷

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プチトマトもたくさんなった

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サンルームのぶどうは鳥の餌

偶然だが、誕生日の前日、中学の同級生の訃報が入った。彼女も56歳だった。卒業以来ほとんど会った記憶がないが、近年フェイスブックの同窓会ページができて多少やりとりが再開していたから、そのうちまた何かの機会に会えるだろうと信じていた。 ところが、それも叶わなくなった。僕の誕生日がお通夜で、翌日が葬儀だった。メルボルンにいる僕は出席できないから、遠くからご冥福を祈るしかなかった。

同年代の友達が亡くなると、写真アルバムのページがむしりとられたような痛みがある。親しい友達だったとは言えないが、Mさんの死からも鈍いボディブローを喰らったような打撃を受けた。

薪割りで少しムキになったのはそのせいだろうか。誕生日の日とその翌日は腰痛で唸っていたが、お陰で、 冬季オリンピックをテレビで観たり、読みかけだった小説に没頭したりできた。腰が痛いのはうんざりだが、これが誕生日プレゼントだったのかもしれない。

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腰痛のせいで読書がはかどる。村上春樹の長編は、そんな時に最適。

数日して、腰もだいぶ軽くなった。メルボルンのシティの方で日本語の子供文庫をやっている友人が招いてくれたので、紙芝居を持って参上し、子供達相手に紙芝居を一つ二つ演じてみせた。 紙芝居は、この頃始めたことなので、上手になりたいと思う。

そう言えば、亡くなったMさんは、演劇関係の仕事をしていたから、生きていれば少しは稽古をつけてもらえたのに、至極残念だ。合掌。
posted by てったくん at 08:28| 日記

2018年02月13日

四国サイクリング一人旅(その8、最終回)

四国サイクリング一人旅(その8、最終回)


12月7日(11日目) 松山から今治を経て、しまなみ海道の大島まで。走行80キロ

いよいよ今日は、松山を後にし、今治を経てしまなみ海道の大島まで行く。しまなみ海道は、大島、伯方島、大三島、生口島、因島を橋でつなぎ、尾道まで続く全長70キロのルートだ。サイクリストには人気のルートで、外国からわざわざ走りに来る人もあるらしい。

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朝7時40分、松山を出る。朝は自転車ラッシュだ。学生や勤め人が一定方向を目指してすごいスピードで走っていく。松山から脱出する僕は、流れに逆らって走るので、通勤通学の皆さんの足並みを乱さないよう、道のなるべく端っこをこそこそ走る。

そんな僕は、寒いからズボン下を履いている。松山の若い学生さんたちは、そんなものははかないだろう。僕だって若い頃は、どんなに寒くてもズボン下などはかなかった。はいたら人生終わりだと信じていた。親戚に竜さんという叔父さんがいたが、竜さんは、常にラクダの股引を着用していた。いつも人の家にくると、 ズボンがしわにならないように脱いで、股引になってしまうのだった。竜さんはとても良い叔父さんだったが、ラクダの股引をはく人生とは、どれほど屈辱的な人生だろうと僕は想像していた。 しかし、今やその僕もちょっと気温が下がろうものなら、股下がスースーして、もはやズボン下なしの人生など考えられない。人間変われば変わるものだ。しかし、ズボンを脱がなければ、股引をはいていることが他人には分からないから、僕はやたらに人前ではズボンを脱がないことにしている。

松山からは国道196号線を走る。まずは今治までの50キロだ。196号は海沿いで、豊後水道の向こうは山口県。海にはいくつも小島が浮かんでいる。愛媛の瀬戸内側の海岸線は、太平洋側の高知とは趣が違う。高知沿岸は漁村がパラパラとあり、その間は岩場や砂浜が点在するばかり。中浜万次郎のように、そこから流されれば、黒潮に乗ってハワイまで行ってしまうのも分からなくはない。一方、松山から瀬戸内よりの豊後水道には強い潮流があるから、小舟で流されてもすぐに潮に捕らえられ、瀬戸内をぐるぐる回っているうち、そこらの岩場にぶつかって沈没してしまうのではないか。 だから、この辺りからは、ジョン万次郎のような偉人がなかなか輩出されなかったという仮説も立つ(わけないでしょう!)。

愛媛の瀬戸内よりでは、海岸の入江の奥には工場や造船所、石油のプラントなどがどーんと構えている。その周辺の集落には、それらの工場などで 働く人たちの社宅や住宅が建ち 、駐車場にはピカピカした車がびっしり停まっている。勤労者たちは、平日はプラントや工場で働き、週末は、こられの車に家族を乗せて出かけて、青空の下で草野球などして健全に過ごすのだろう。「お父さん、今日はヒットを打てて、かっこ良かったじゃないの。はい、おビールもう一本、今日は特別よ。」そんな光景が 、社宅の中で繰り広げられるのだろう。そうだ、そうに決まっている。

実は、本日の走行ルートを考えた時、今日は今治泊まりにするのか、もっと先まで行くのかで悩んだ。 今治までは50キロだから、昼には着いてしまう。だとすると、午後は今治で時間を潰さなくてはならない。その代わり、翌日一気にしまなみ海道70キロを尾道まで走るのは悪くない。かなりその考えに傾いていた。

そのことを昨晩、松山の居酒屋でマスターに相談した。ところが、マスターは言下に、「今治には、はっきり言って何もないです。町には生気もないし、寄っても仕方がない」と言い切った。この一言に少々驚いた。なぜなら、今治は昔から手ぬぐいやタオルの産地として知られており、だから、きっとその町並みはハイカラでお洒落だろうと想像していたのだ。ところが、どうやらそうではないらしい。そこで、今治は通過することにした。

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そしたら予定通り、昼すぎには今治の外れの来島海峡大橋のたもとに着いてしまった。そのままずんずん橋を渡ってしまっても良かったが、僕はそこで立ち止まった。昼飯をまだ食べてなかったからだ。

くるっと方向転換をして、今治の方へ少し戻ると、道端にセルフうどんの店がある。松製麺所という名だが、製麺所と言うより食堂だ。ここに入る。セルフうどんは、すでに全国を制覇したようだが、オーストラリアに暮らす僕は、あまり体験したことがない。メルボルンにも讃岐うどんがあるが、メルボルンの日本食に関して言うなら、「目黒のさんま」はまずあり得ないので、入ったことがない。だから、セルフうどんと聞くと緊張してしまう。セルフうどん屋 でおかしな挙動をして、四国の人たち笑われたら、東京生まれの名折れだ。

入店すると、数名が列に並んでいる。 さっそく前の人の真似をしてお盆をとり、そのまま50センチ左に移動すると、麺を茹でている人がいる。この人に、麺の大中小の区別と、ひと玉か、ふた玉か、 数も言わなければならない。その上、暖かい、冷たい、汁に入れる、上からぶっかけるなどの指定をする必要もある。それだけのことを、ほんの2、3秒で決断しなければならない。僕のようにお昼のメニューを決めるのに10分以上かかる人間には、かなりのストレスだ。しかし、前の人が普通に、「中玉一つ、汁に入れてね 」という人だったので、全く同じものを頼む。やれやれ。しかし、決断の時は続く。次はトッピング。とろろ昆布、天かす、各種天ぷら、薬味もネギ、生姜、ゴマなどの障害物がカウンターにずらっと並ぶ。僕は、キノコとエビの天ぷらをとって麺の上にのせ、おかかオニギリも一つとり、無事に会計までたどりついた。どうにか昼食をゲットでき、安堵のため息をつく。

お盆を持って、カウンター席に座る。隣の親父が食っているものをみると、もちろんウドンに決まっているが、親父は天ぷらの類を別皿に載せ、それに卓上のタレをかけて食っている。伊予の田舎者は、けったいなことをするものだと思って向かいの夫婦を見れば、この二人も天ぷら類は別皿に置き、それをタレでなく塩で食っている。慌てて店内を見渡せば、ほとんど全ての人が天ぷらは別皿だ。 麺の上に載せているのは僕一人だ。でも、今さら汁で湿った天ぷらを別皿に載せるわけにいかない。そこで隣の親父に見られないように、いの一番でエビ天とキノコ天を食ってしまった。親父は気が付いた気配がない。天ぷらを先に食べてしまって残念であったが、あとは安心してうどんが食べられた。

自らのパフォーマンスに満足し、セルフうどんを出る。これで本当に四国とはお別れだ。来島海峡大橋まで戻り、自転車専用の螺旋状の小道をうんせうんせ、見上げるような橋まで登る。来島海峡大橋は、第一から第三までの三本の橋からなり、全長4150メートルだ。一番高いところが178メートル、橋下は68メートル。サンフランシスコの金門橋は長さが2737メートル、高さは227メートルということなので、これよりも長く、実に堂々たる橋だ。

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橋の上に立ち、景色を眺める。今治側を振り返ると、造船所の白と赤のクレーンが林立しているが、背の高いクレーンがはるか眼下に見える。瀬戸内側は、遠くまで島々が見え 、海上には数多の船が東西南北あらゆる方向に向かって元気よく進んでいる。眼下の馬島という小さな島の紅葉が鮮やかだ。

4キロある橋を、景色が素晴らしいので、ゆっくり走る。しかし、4キロは4キロだから、いくらゆっくり走っても、20分もしないで渡ってしまった。するとまた螺旋状の自転車道があって、そこを降りると、そこはもう大島だ。まっすぐ宿についてしまってもつまらないので、島を周回する。交通量は少なく、ほとんど専用道路だ。ここはサイクリストに人気のルートだが、12月初頭の平日に走っている人は少ない。今治から走ってきて、2、3台ロードバイクにすれ違ったくらいだろうか。昔はチャリダーなら、すれ違いざま手を振ったり、大声で「頑張れー!」と激励したものだが、そういう仁義を切っていく人は少なくなった。昨今ロードバイクの3人に2人は、耳にイヤフォーンを突っ込んで音楽を聴きながら走り、他にチャリダーがいても知らん顔だ。

僕はやや寂しい気持ちで、静かな大島の周回道路を走っていく。この島には生活臭がいたるところにある。あちこちに集落があって、畑、竹林、墓地、漁網小屋、石切場、神社、寺、児童公園などがある。今は橋もできて島外まで働きに行く人も多いだろうが、 ここが完結した、一つの楽園のような場所であった形跡は、あちこちに残っている。

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海賊の暮らしていた能島

島の反対側の大島大橋の下をくぐると、宮窪の集落だ。今夜はここに泊まるが、まだ早いので、通り過ぎて村上水軍博物館へ行く。水軍とか海賊というのは想像力をそそる存在だ。大島の脇には、能島という小さな島があり、ここには昔海賊がいたと言う。能島の海賊は、近くを通る船から通行税をとったり、豊臣秀吉の軍勢と海 で戦ったりしたと言う。そのことは、『村上海賊の娘』(和田竜著)というポピュラー小説の題材にもなり、漫画にもなったから知っている人もあるだろう。 村上水軍博物館は立派な建物だったが、中身はさほど立派とは言えなかった。一応海賊のことを詳しく展示してあるが、展示物は、いささか銭湯の書き割り絵のような感じだった。一階の受付のところには図書室もあり、水軍についての資料が所蔵されていたが、この資料もあまり吟味した感じではない。そこでは、地元の親父が2人、茶を飲みながら無駄話をしていたから、ここで調べ物をしようという雰囲気でもなかった。しかし、地元の人が地元の施設をどのように活用しようと、僕がとやかく言う筋合いではないのかも知れない。

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島の集落

日も傾いてきたので、民宿に向かう。この民宿もまた僕しか泊まる人がいなくて独り占めだ。おかげで、海の見える豪壮な二間続きに泊めてくれた。一人で二部屋をどうやって使おうか悩んだが、一部屋は荷物を散らかし、もう一部屋は散らかさないで寝るだけにした。おばさんはとても愛想の良い人だった。晩御飯は、ご主人が目の前の海で釣ってきたタイやオコゼやイカや色々な魚が何種類も出た。ご主人には悪いが、夕食どきも、このおばさんを僕が独り占めしたから、御飯を食べながら色々な話をした。息子は松山の郵便局勤めで、お嫁さんは松山の生活の方が楽だから、島には引っ越してこないのだと言う。橋ができて便利になったが、今治まで車の通行料が千五百円もかかるから、おいそれとは橋を渡れないのだそうだ。それでも、病院へ行くときなどは涙を飲んでその千五百円を払うと言う。僕のように、遊びで自転車に乗っている者は無料なのだから申し訳ない。だからおばさんは松山に引っ越してもいいと思っているが、おじさんはここで釣りがしたいから、松山には引っ越したくないのだそうだ。そこで、おばさんは民宿をして現金を稼ぎ、同時に世界中から来る人たちとの出会いを楽しんでいるそうだ。人生はなかなか難しいものだが、それぞれの範囲の中で好きなことをして、その幸せを人に分け与えられれば良いのだろう。僕は、このおばさんと、じっくり話ができて嬉しかった。旅の大醍醐味の一つは、 初対面の人とでも、時に深い話ができることかも知れない。

大島の夜は、星がとても綺麗だった。

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民宿の部屋は立派だった


12月8日 (12日目、最終日)大島からしまなみ海道で尾道、そこからさらに広島県三原市まで。走行85キロ

朝食の味噌汁にレモンが入っているのが、爽やかで美味しかった。民宿のおばさんと握手をし、記念写真を撮って別れる。

橋を渡って伯方(はかた)島へ渡り、そのまま大三島まで進んで橋を降りた。 大山まずみ神社へ寄る。大三島は、割に大きな島だから、神社まで往復に1時間以上かかった。大山まずみ神社は立派な神社で、ここが島とは思えない。しまなみ海道のサイクリングコースは、橋の上からの景色ばかり取りざたされているが、僕としては島の田舎道も同じくらい素晴らしいように思える。橋の上からの瀬戸内海の絶景は、ケーキに例えるならば、上に乗っているクリームや飾りのようなものかもしれない。

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大竹伸朗の作品のようなバス

神社からの戻り、山道を走っていたら、道脇のみかん畑にイノシシを捕らえる檻が仕掛けてあった。見れば、柴犬ほどの子イノシシが二匹入っている。可愛いが、どうせ鉄砲で撃たれてしまうのだろうから哀れなものだと思って見ていたが、もしかしたら、近くに子を盗られて腹を立てた母イノシシがいるかもしれないと気がついた。だとしたら危険だ。こんな人里離れたところでイノシシに襲われたらどうしようと、大慌てでその場を離れる。山奥にはどんな危険が潜んでいるかわかったもんじゃない。

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大山まずみ神社の神様は、お酒が好きらしい

次に、多々羅大橋を渡ると生口島。ここで愛媛県は終わり。その次の生口橋を渡っていると、橋の真ん中に広島との県境があった。広島に入った途端に風が強くなり、うんせうんせと向かい風の中を因島に渡る。橋を降りると、大きな道の駅があったので尾道ラーメンというものを食べる。要するに昔風の醤油ラーメンだが、このどこが尾道ラーメンなのだろう?

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この道の駅には、自転車をたくさん置いたレンタルサイクル屋もあったが、お客は誰もいない。客もいないのに、朝夕何十台もある自転車を出し入れするのは大変だ。夏やゴールデンウィークにはたくさん来るだろうが、果たしてこれだけの数の自転車が必要なのか。 確かに、しまなみ海道は、サイクリングに人気の場所だが、このレンタサイクルのように、いろいろなことが、やりすぎに感じられる。まあ、このように整備しないと、より多くの人に来てもらえないのかも知れないが、過剰投資としか思えない。しかし、これが日本のやり方なのかも知れない。

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因島を走りながら、ああ、もうここは四国じゃなくて広島県なのかと思ったら、途端につまらなくなった。広島県が嫌いなわけじゃないが、四国旅行は終わったと言うことだ。道脇に大きな白い恐竜の彫刻があって、そこで記念写真をとるが、はしゃぐ気にもなれない 。おまけに、広島県に入った途端、島特有のひなびた感じも薄れてしまった。道路も広くてまっすぐだし、 交差点には信号機がついたり消えたりしている。おまけに、この因島の重井港からは対岸の広島県三原市までフェリーが出ていて、それに乗れば、たった30分でこの旅が終わってしまうのだ。僕は、今夜は三原市に泊まるのだが、なぜならそこから広島空港へバスが出ているからだ。明日の朝僕はそのバスで空港へ行き、昼には東京行きの機上の人になる。

でも、そんなに早く三原に着くのはつまらない。まだ午後2時だから、もう一つ残っている向島を走り抜け、そこから渡しで尾道まで渡る。そこまでで、しまなみ海道は終わりだが、さらに尾道から三原市までもうひとっ走り、13キロ残っている。最後の最後まで、行けるところまで走って行くのだ。

風はいよいよ強くなり、因島大橋を渡るときは、景色を楽しむどころではなかった。向島に至っては、ここのどこが島なのだろうかという感じだ。しまなみ海道は、愛媛側は田舎でひなびていたが、広島側はどこにでもあるような田舎町の風景だ。尾道に近づくともはや市街地と呼んでいいような町並だからつまらない。その中に尾道へ渡るフェリーへの道しるべがあった。尾道大橋は自動車専用なので、自転車と歩行者は、船で尾道へ渡らなければならない。

フェリー乗り場へ行くと、川と見紛うような細い海峡が見え、たくさんの船が行き来している。反対側に尾道の町並みが見えるが、そこにはもう新幹線だって走っているのだ。

10分ほどでフェリーがきた。船頭に小銭で渡賃を払う。自転車に乗った人、学校帰りの高校生など、10名ほどが乗り込むと出港。ものの5分で尾道だった。

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尾道へ渡るフェリー

尾道は坂の町だ。一番下に港があり、街があり、その真ん中を国道2号が走っている。その向こう側に胸をつくような坂があって、町並みが山の上まで続いている。国道2号には、トラック、バス、乗用車、バイク、自転車が、あっちからもこっちからもやって来る。やはりここは本州だ。僕はしばらく、たくさんの自動車を眺めていた。南を見れば、その向こうに瀬戸内の島々が、午後の斜光の中で緑色に輝いている。その後には四国がある。僕は、そこを走ってきたんだなと思う。

かくして、12日間の四国サイクリングは終わった。国語の先生だったら、最後に感想を書けと言うかも知れない。でも、書きたいことは散々書いたから、もうあまり書くことはない。近年はインドに行ったり、東南アジアに行ったり、ヨーロッパに行ったりもしたが、自分の生まれた国日本の、それもまだ行ったことがなかった土地を時速20キロで移動したことは新鮮な体験だった。もう20年以上もオーストラリアに住んでいる僕には、初めてなのに、とても懐かしい旅でもあった。四国は優しい土地だ。なぜかと言うと、空気が柔らかかった。

おっと、まだ尾道から三原まで最後の13キロが残っていた。 僕は、トラックや自動車が多くて埃っぽい国道を、西陽の方に向かって走って行った。


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自転車担いで東京へ帰る私(三原駅前で)

(僕の、8回に渡った四国サイクリング旅行の記は、これで終わりです。旅自体より長いみたいな文章になってしまったけど、ここまで付き合って読んでくれたみなさん、どうもありがとうございました。またいつか、どこかで、さらなる旅でお会いしましょう!)






posted by てったくん at 20:04| 日記