2015年04月07日

餃子の夕べ

2015年4月9日


「秋深し」のメルボルン。世界ではいろいろなことが起きているが、ここベルグレーブでは、とある晩秋の夕べ、日系家族が集まり、せっせと餃子を作って食べたのだった。4家族、親8名、子ども9名、総勢17名だったが、各家族平均90個程度の餃子を作ったので、全部で400個くらいできた。(もしかしたら、もっとあったかもしれない。)

オーストラリアにあっても、子どもは餃子が大好きである。もちろん、日本のように手軽にスーパーのお惣菜売り場や「餃子の王将」で餃子を買ってくる訳にいかないから、ひたすら自分達で作るのである。

ロシュ.jpeg

我が家では、餃子を割にしょっちゅう作る。息子鈴吾郎の好物であるからだ。鈴吾郎の好物は、スキヤキ、焼き肉、ピザ、スパゲッティミートソース(オーストラリアでは、スパゲッティ・ボロネーズと呼ぶが、さらに「スパグボロ」と短縮する )、それから餃子である。これらを繰り返していれば、鈴吾郎はハッピーなのだ。

その鈴吾郎が待ちこがれているのが「餃子パーティー」である。これは数年前に始まった「行事」だが、私の主催する「メルボルンこども文庫」に参加している2、3の料理好き家族があるとき集まって「餃子をたくさん作って、子どもたちに思い切り食べさせてやろうじゃないの」ということになって始まった。子どもをダシにした飲み会、というだけのことだが。

そんなことで今年は4、5回目だと思うが、餃子パーティは秋の復活祭休みの行事になりつつある。この時期になると、鈴吾郎も「餃子パーティーの季節だな」と言い出すのだ。

毎回出席メンバーは少しずつ違うのだが、いつも必ず張り切って登場するのは韓国人のお父さんフンさんである。フンさんは本職がホテルのケーキ職人だけあって、餃子なんかはお手のものだ。「韓国のギョウージャは、モヤシが入っていてシャキシャキ美味しいのよ」などと言いながら、おいしい餃子を山ほど作ってくる。奥さんのマユミさんはベジタリアンだから、愛妻家のフンさんは家ではなるべく菜食に徹している。だから、餃子パーティとかバーベキューの集まりがあると、肉を思い切り食べられるから大張り切りなのだ。

ぎょーざたくさん.jpeg

それから今回は、スリランカ系オーストラリア人のお父さんロシュさんも登場した。ロシュさんは、何年か前に、文庫でやっているキャンプの「カレーの夕べ」に颯爽とデビューした。ロシュさんのご両親は予約制カレーレストランを経営する。だから、さぞ美味しい「スリランカ野菜カレー」を食べられるとみんなは期待したのだった。ところが、そのときロシュさんは,何と日本のハウスジャワカレーで普通の「和風カレー」を作って男を下げたのだった。「ロシュさん、何でそんなカレー作るのよ?」とみなに聞かれたが、ロシュさんは頭をかきかき、「いやあ、子どもが普通のカレーが良いって言うから…」と答えた。

だから、今回もロシュさんの餃子には期待してなかったのだが、どうしてどうして、インド風キヌア入り野菜餃子は、スパイスのひねりも効いていて美味しかった。(奥さんのジュンさんの力作だったようですが)。

我が家の餃子はというと、「キャベツと白菜入り豚肉餃子」で、餃子としては普通の、ストレートの味。それから、女房のチャコは、トーフ入り野菜餃子を作った。フンさん曰く、「日本人の作るギョウージャは生姜の味がするね。韓国人のつくるギョウージャはニンニクの味」。確かに、僕のも女房のも、たくさんショウガをすって入れたから、そう言える。

餃子を焼くのもフンさんの仕事。三百個の餃子を焼くのもちっとも大変じゃない。鼻歌混じりで、ビールをぐびぐび飲みながらフンさんは、焼けた餃子をつまみ食いしながら焼いて、楽しくてしょうがないという風である。

僕も、フンさんの横で、餃子をつまみ食いしながら、ビールを飲む。ビールも、ビクトリア・ビターとか、フォスターとか、そういう安いビールじゃなくて、こう言う時は、この頃出回るようになったマイクロ・ブルワリー系の極上ビールを飲むのである。だから、いくらでも飲めちゃう。

さて、こんがり焼けた餃子は、先ず子どもたちに食べさす。 ムカイさんの奥さんのヒロコさんが山盛りの餃子をテーブルに運ぶと、待ち構えていた子供達が、「わああ!」と言いながら、いっせいに箸でつつく。すると、2、30個の餃子が一瞬でなくなる。「まるでアリ地獄!」とヒロコさん。

あり地獄子ども.jpeg

9人のアリ地獄は、200個ばかりの餃子をあっと言う間に食べてしまう。息子の鈴吾郎は、ほんの15分で「俺、23個食った」とゲップをしている。子どもたちは食べるだけ食べると、外に遊びに行ってしまった。

やっと、静かになったので親達は、ゆっくりといろいろな餃子を味わいつつ、歓談。飲み食いしながらの話題は、 必然的に、子どもの教育(ここに来ている家族は、全員シュタイナー学校に子どもをやっている)、教師の噂、子どもの国籍の選択といった真面目な話題から始まり、やがて、 政治とか オーストラリア人の批判、日本人の批判、北朝鮮と韓国の歴史、 麻薬、アルコール中毒、密輸など、段々ディープな話題に発展していく。

焼けた餃子.jpeg

しかし、あくまで復活祭の清くてさっぱりした近所付き合いだから、遊び疲れてお腹がいっぱいになった子ども達が、「眠いよう、もううちに帰るよう!」と言い出せば、親達はお皿を洗って、さっさと帰り支度を始めるという潔さだ。

こうして、今年の餃子パーティも無事に終了した。「やっぱ、フンさんの肉がいっぱい入ったギョーザが一番だったなあ。また食べたいなあ!」と、鈴吾郎は、早くも来年の餃子パーティーに思いを馳せている。

posted by てったくん at 20:14| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2015年02月02日

バーベキューと父親の権威

2015年2月1日

公園での金曜日夕方のバーベキューは、夏時間の間は毎週行われる。主に子どもたちの行っている学校の、ベルグレーブ界隈に暮らす家族が集まる。もう15年程続いているだろうか。多いと10家族くらい、少なくても2、3家族はやってくる。

先週に久しぶりに行ったら、いつものメンバーがたくさんきていた。お父さんたちは、ビール片手に肉を焼き、お母さんたちはピクニックのマットを敷いて、その上で井戸端会議。子どもたちは、公園中を走り回っている。

父親たちの焼きたてのソーセージを食べながらの話題と言えば、夏休みはどうだったの、息子と釣りに行って50センチもあるタイを釣ったの、サッカーのアジアカップでオーストラリアが勝ったとか日本が負けたとか、まあそんなところ。

久しぶりに会ったグレン(仮名)という父親は映像作家なのだが、ティーンエージの娘が拒食症で大変だと言う。「やせ細って死ぬんじゃないかと思ったよ。とにかく今は病院の特別プログラムに入れて、看護師監視の元にリハビリしているけど、今後も難題が多くて、困りきっているよ。とにかくカロリーのあるものは何も食べてくれないんだ」と大弱り。どうしてそんなことになったのか分からないが、肥満が多いオーストラリアでは、若い女性の過食/拒食は確かに大問題だ。

「そんなで、うちもいろいろ大変なんだが、こんなことで落ちこんでいちゃいけないと思ったし、息子(14才)の方とも父子の絆を固めなくちゃいけないからね。それで、息子とキャンプに行っていろいろ話してて、環境保護の話題になったわけ。そしたら、うちの、あのやわな息子がだよ、『父ちゃん、田舎じゃ野良猫や野良ブタや野良ウサギなんかの害獣がいっぱいいて、農家が苦労しているらしい。だから、いっちょう俺と父ちゃんで、憂さ晴らしも兼ねてライフルで、そいつらをばんばん撃っちゃおう 』とか言うわけよ。うちの優男の息子がだよ。あいつがそんな気になるのも珍しいなと思ってさ。でも考えてみたら、それもいい教育になるかなって、俺もまじに考えているわけさ」

IMG_3908.jpeg
アジアカップ「日本対ヨルダン戦」会場

そしたら、クリントイーストウッドを崩したような顔つきのイアンという父親が「そいつは面白え! うちの息子も、スケボーばっかりやっててからっきし性根がダメだから、是非やらせたい。俺も乗ったぞ」と張り切って、ビールをグビリと飲んだ。

「だが、人家の近くじゃ危ないし、どっか誰かの牧場みたいな広い敷地でライフルがばんばん撃てる場所がないかな?」とグレン。

すると、黙って紅茶を飲んでいたレンガ職人のビルが言う。(ビルは、筋肉隆々の強そうな親父なのだが、酒は一滴も飲めない)。「おれは毎日ジェンブルック村の向こうの山に仕事で行っているが、あの辺りには野生の鹿がいっぱいいるぞ。あれは害獣だから撃ってもいいはずだ。それに、あの辺りは山だから人もいない。鉄砲なんていくらでも撃てるぞ。ただ、鹿はすばしっこいから、人が来るとすぐ逃げちゃうけどな。」

「何、鹿がいるってか? 鹿とは最高だ。肉がめちゃうまい。鹿を撃って牧場の真ん中でバラバラに切り刻んで、その場で焼いて食っちゃおうぜ。ティーンエージャーの息子たちは、ぶるっちゃうだろうけど、最高の教育だよ。サステナビリティーとか、永続的社会とかいってもさあ、自分たちが食っている肉がどこからきてんのか、ここらで一発教えてやんなきゃ、示しがつかねえよ。それに俺たち父親の権威を回復するには最高の機会じゃないの? ねえ、どう、今度の週末みんなで鹿撃ち行かない?」と、グレンが嬉しそうに言う。かなり酔っぱらっているようだ。

とまあ、バーベキューでのお父さんたちは、こんな風に酔って話が大きくなっていくのが常だが、あながち全くのデタラメを言っているのではなく、この中の一人か二人は本気である。ビルもイアンも、ちゃんと自宅に狩猟用のライフルを持っているし。僕は、銃はあまり撃ったことがないので、遠慮しておくことにして、黙って聞いていた。(でも、僕だってアメリカの大学に留学した時は、ライフル射撃の授業を履修して単位を取りました。22口径の小さなライフルだったけど。)

僕の息子は12歳だから、鉄砲を撃つには早いかもしれない。でも、すでに実は銃オタクで、輪ゴム鉄砲を作ってばかりいる。輪ゴムだから危なくはないけど、見た目は本物の猟銃のようなごつい奴を作る。だから物騒だ。僕は、「作っても良いけど、絶対外に持ち歩かないこと。家からは一歩も出してはいけない」と釘を刺している。どうして、うちの息子がそんなに銃好きなのか分からないけど、好きで仕方がないみたいだ。僕も12歳の頃は、銀玉鉄砲はもとより、癇癪玉とか爆竹とかで、親の目を盗んで爆発遊びをしていたけど。でも、もうそういう時代じゃないし、オーストラリではそういうおもちゃは御法度だから、少しでも、僕はそこから息子の関心をそらそうと努力している。今も、そのために本物のモーターボートを父子で作っているのだけど、それでもやっぱり息子は銃が好き。

じゃあ、銃はだめだからと言って、危ないこと全般から男の子たちを遠ざけて家に閉じこめて、勉強とゲームだけさせておけば良いか?さすがに僕も、そんなことは全然思わない。一度くらいは、猟銃で鹿を撃ち、バラバラに解体して内蔵を処理し、焚き火で焼いて食べる、そんなことをしてもいいじゃないかと思う。そもそも、うちの息子も僕も釣りがだい好きで、2週間に一度は行くし、今までに何百匹も釣り上げ、それをかっさばいて食べている。

IMGP6096.jpeg
息子が釣り上げた立派なシマアジ

IMGP5654.jpeg
父親の私にさばかれるシマアジ

だいたい、釣りと猟のどこが違うんだ?本質的には何も違わない。ただ、銃では人が殺せるけど、釣り竿では殺せないだけだ。多分ね。(しかし、 動物を銃で撃って殺して、それをナイフで解体するのはちょっと怖いなあ。ニワトリくらいならできそうかな? いや、やっぱり可愛そうだな。)

とにかく、オーストラリアのバーベキューでは、でっかいステーキや、子どもの腕程もあるソーセージを焼いて食べながら、それらの肉が一体どこから来ているのか、というような話題で父親たちは盛り上がるのだ。オーストラリアというのは、そういう場所だし、そういう場所であり続けるだろう。そういう場所で子育て、特に男の子を育てているのは、案外幸運なことかもしれない。

IMGP3344.jpeg
バーベキューが息子は大好き

IMG_1121.jpeg
タスマニアデビルは、ニワトリを食べるのが好き(みたい)

一方、お母さんたちと言えば、バーベキューに来てもこの頃はベジタリアン が増え、日本人のお母さん(うちの女房)の作ってきたヒジキの煮物やチラシ寿司に舌鼓をうち、流行しつつある「エダマメ」という食品の食べ方を議論したり、拒食や過食の問題について意見を交換したりしているのである。そんなお母さんたち自身は、決して銃を抱えて鹿を撃ちにいったりはしない。

ところが、オーストラリアのお父さんたちは、菜食主義に傾きつつあるお母さんたちに、全く頭が上がらないのだ。これは一体どういうことなんだろう?

社会の構造というのは、こういう危ないバランスの上に乗っかっているものなのかもしれないですね。

IMG_2555.jpeg
タマちゃんとネズミ















posted by てったくん at 20:05| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2014年12月24日

一人きりのクリスマスイブ

2014年12月24日

家族が日本に帰っているので、今年は一人きりのクリスマスイプだ。明日のクリスマスも一人。考えてみれば、生まれて初めてかもしれない。

午前中はクリスマスのごちそうの買物 。明後日は家族が帰ってくるから、その準備もあるが、今夜は自分一人だけなので、記録的に分厚いステーキを焼いて食べることにした。それも、買ったばかりのウェバーという、アメリカ製の素晴らしいガスバーベキューで焼こうと思っている。ステーキは、骨付きのTボーンで、厚さは3センチくらいで500グラム以上ある。これでたった6ドルであった。物価高のオーストラリアで肉も高くなったが、これは安い。

それにしても、クリスマスのスーパーは、ものすごい人出で殺気だっていた。駐車場に車を入れるのにも、すくんでしまうくらい。駐車場の中に車が溢れていて、空いたらすぐに駐車出来るように虎視眈々と待っている人がたくさんいる。僕は、クリスマスにもめごとも嫌だから、少し遠くに置いて歩いた。中もすごい人。みんな巨大なハムとか七面鳥を買っている。あんなでかいハム、どうして好きなんだろう? オーストラリアのクリスマスは質より量だな。そんなこと考えながら、買うものを買ってレジに並ぶと、こんどは横入りする人がいる。僕の前にちょっと隙間が空いていたからだが、明らかに人が並んでいるのは分かっていたはずだ。でも、面倒だから苦情も言わず。

やれやれと家に帰ると、先週20歳になった娘が、クッキーとケーキを山のように焼いている。今夜はボーイフレンドの家のディナーに呼ばれているとのこと。こうやって娘は、段々父親から離れていく。

「こっちのお皿のやつは、失敗したやつだから食べて良いよ」と、クッキーの失敗作をたくさんいただいた。ボーイフレンドには、ちゃんとしたやつ。父親には欠けたり焦げたりしたやつ。でも甘い物は大好きだから、文句を言わず「ありがとう」と頂く。この頃の僕は、あまり文句を言わなくなった。

お昼になると、 ごはんが無性に食べたくなって炊き込みご飯を作った。干し椎茸でダシをとり、餅米を混ぜて炊いたらすごく美味しく出来た。娘は、「あ、おいしそう!」と歓声をあげて丼一杯食べた。オーストラリア生まれ、そして最近国籍までオーストラリア人になった娘だが、炊き込みご飯は大好きだ。その娘は、クッキーやらプレゼントを山のように抱えてボーイフレンドの家にいそいそと出かけて行った。恋をしている娘は、生き生きとしている。

食後に娘の「失敗クッキー」を食べたが、クリスマスらしくスパイスがきいていて、とても美味しかった。

午後は芝刈りをする。クリスマス明けに妻と息子が日本から帰ってきたら、すぐに10日間ほどキャンプ旅行に行くのだ。これが正しいオーストラリアの夏休み。クリスマスが終わったらキャンプ! だから芝は刈っておかないと延び放題になる。

その後は、畑の水やり。それから、樹木の枝の剪定。それから、畑の雑草抜き。車の洗車。キャンプに持って行く自転車の整備。

IMG_3760.jpeg
畑のほうれん草が食べごろ

やることはいくらでもある。そうしているうちにもう夕方。やれやれ。さあ、シャワーでも浴びて、ビールタイムにするか、と思ったら、友達から「メリークリスマス!」という電話がきて、しばらく話し込んでしまった。

さて、今度こそシャワーを浴びてビール、と浮き浮きしたら、仕込んでおいた自作ビールの一次醗酵が終わっている頃だ、ということにふと気がつく。そこで糖度を測ってみると、もう瓶詰めしなくてはならない瀬戸際にきている。しかし、これからクリスマスイプにビールの瓶詰めもなんだから、明日に延ばすことに。でも明日はクリスマスじゃないか! でも、いいや。どうせ一人なんだから。それに、明日やっておかないと、明後日はもう女房と息子が帰ってくるし、娘も交えて、家族で遅かりしクリスマスディナーを食べる予定だから、やっぱり明日瓶詰めしておかないと、暇がなくなる。

やれやれ、何でこんな忙しいんだろう。さあ、今度こそ本当にシャワーを浴びて、ビールを飲んで、でっかいステーキを食べようっと。

IMG_3771.jpeg
猫のタマちゃんがいるから、一人きりではなかった
posted by てったくん at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年11月24日

11月末、初夏の週末

2014年11月23日

「生きているだけでも幸いだと思わなくちゃね」と、出し抜けにロビンが言った。

先週のヨガのレッスンのときだ。ロビンはヨガの先生で昔からの友達でもあり、息子と娘の幼なじみのお母さんでもある。彼女がそんなことを言ったのは、2、3日前に息子のデブリン(小学校六年)が学校で、友達にまちがって喉元を殴られてショックで呼吸困難になり、救急車で運ばれたからだ。幸いデブリンはすぐ回復し、そればかりか、救急車の中で施された麻酔に酔っぱらってやけに陽気になったというおまけがついた。

IMG_3765.jpeg
チャコの作った、色とりどりの「苔玉」

その日の晩、ロビンはかねてから癌で闘病生活を送っていた友達ローザの家を訪問した。すると、着くなりローザの18歳の娘が玄関に出て来て「お母さんがベッドで死んでるみたい」と言ったそうな。そこでロビンは、またもや看護士を呼ぶやら、身内の人たちに連絡したりで、大わらわだったと言う。

一日のうちに、二度もそんなことがあれば、「生きているだけでも幸いだと思わなくちゃね」と、言いたくもなろう。

そんなで、金曜日はローザのお葬式だった。ローザはまだ51歳、僕もうちの女房も同世代。3、4年前に癌になったが、放射線や抗がん剤は全て拒否、自然の代替医療だけで生存し、死の二ヶ月前まで仕事を続けていた。その分長生きだったのかどうかは分からないが、少なくとも自分の人生は全うしたと意識できただろう。

親しい友人という訳でもなかったが、ローザは、うちの娘と息子が世話になったダンデノン山シュタイナースクールの創設メンバーで、 死ぬまでその事務室に居たし、また 彼女の子どもたちとうちの子どもたちがそこで一緒に大きくなったから、いろいろな意味で「仲間」という感じだった。

ローザの葬式は、メルボルンから1時間ほどのドローインという田舎町で行われた。どこまでも緑の低い山が続くラトローブ渓谷の入り口の町で、ローザはその近くの農場で生まれ育ったと言う。ローザが埋葬された墓地も、見晴らしの良い丘の上にあった。ロビンは、「ここなら良いわね」と、 ローザもここなら安らかに眠れるという意味なのか、 ここになら自分も埋葬されても良いという意味なのか、どちらにもとれることを言った。きれいな田舎だが、 僕だったら、ここに葬られるのはいささか寂しい。

IMG_8185.jpeg
オーストラリアの古い、古いお墓

僕もつい2ヶ月前に日本で39歳の弟を見送っている。だから、よく生や死について考える。どこに骨を埋めるかというのも問題だが、それは死者自身というよりも、残された人たちにとっての問題かもしれない。僕は、メルボルンの近くの海に散骨して欲しいと思っているのだが、あるときそう口に出して言うと、子どもたちも女房も口を揃えて、「お墓がないと会いに行く場所がない」と不平を漏らした。そこで初めて、お墓は生きている人たちのものなのだと悟った。

IMGP2893.jpeg
僕の好きなギップスランドの海

とにかく、11月のメルボルンは気候がいい。初夏と言うか、遅い春と言うか、気温もマイルドだし、盛夏の乾燥もまだ始まらないから、樹木は瑞々しく緑も濃い。ローザの葬式の日も、すこぶるよい天気で、彼女には悪いが、買ったばかりの(2005年型の中古だが)スバルの四駆をすっ飛ばしてドライブ気分だった。これまで愛用していた30万キロ走ったトヨタ・カムリはどうなったかと言うと、8月に弟が昇天したすぐあとくらいに、致命傷のエンジンオイル漏れを起こしてやはり昇天したのだった。

IMG_3686.jpeg
初夏のメルボルン、ボタニカルガーデンで製作中のチャコ

娘と息子をあちこち連れて歩いた自動車を葬るのは寂しかったが、新車がくれば、これはこれで楽しい。このスバルがすばらしいのは、今や「化石」と呼んでも良いようなカセットプレーヤーがまだ付いていて、これで古いカセットを聴けることだ。ドゥービーやらディランやらCSNやらサンタナやらチックコリアやら山下達郎やら陽水やら、70、80年代のカセットがこのスバルの中で見事に復活している。こういうアナログなものは、やっぱりしっくりくる。

週末も良い天気だった。とにかく野外に出ていたくて、土曜は息子とその友達を連れて、息子も僕も好きなフリンダーズまでスパルで釣りに行った。カワハギ、キスなどが上げ潮にのって、ぽんぽんっと10匹程釣れた。潮風に一日吹かれていると、寿命が2、3年確実に延びる。

IMGP5926.jpeg

翌日曜は、ひたすら庭仕事をした。通りぞいの生け垣がジャングルになっていたので切りそろえた。梯子をかけて、ちょきちょきハサミで切っていたら、隣家のお父さんの退役軍人キースが、「とても見ちゃいられない」と言って、電動庭ばさみを貸してくれた。ところが、電気コードが邪魔で、借りておいて悪いが、とても使っちゃいられない。そこで、またもやハサミでちょきちょきした。昔、日本の実家でも、年に2、3回、植木屋の増島さんがハサミでちょきちょき切っていた。 僕は、増島さんが、超スローに樹木に話しかけながら丁寧に植え込みを切りそろえるのを見て育ったから、この作業はハサミじゃないとダメだと信じている。

IMG_3756.jpeg
刈った後の生け垣。虎刈りだが、満足

半日働いたら、すごい量の枝や葉が出た。あと2週間すると「樹木ゴミ」の回収があるから、このとき全部出してしまうつもりだ。夏の始まりの時期には有り難いサービスだ。

IMG_1363.jpeg
これは庭のビワ、初夏の味覚

生け垣が終わると、近所の日本人のお母さんにいただいたヨモギと茗荷を畑に植えた。ヨモギは、ヨモギ団子などに使えるし、茗荷はザルそばや、冷奴の薬味にできる。今からよだれが出そうだ。これを下さったアンナさんは日本人のお母さんだが、うちより、もう少し田舎の農場に、オーストラリア人の家具職人のご主人と三人のお子さんと暮らしている。小柄な可愛いお母さんなのだが、やっていることはまるで「農家のおばさん」。味噌造り、梅干し造り、糠の漬け物、畑では茗荷、ヨモギ、しそ、牛蒡など、何でも作ってしまう。馬や羊も飼っている。日本野菜の種や苗は、「サステナビリティーの会」という日本人農業愛好者の会で交換してくるのだそうだ。オーストラリアの日系人は、きっと地球最後の日も、それも一番最後まで生き延びる人種に違いない。

IMG_3702.jpeg
茗荷とヨモギ

庭と畑で汗を流したあとは、息子と釣った魚を刺身にし、自分で作ったビールを飲んで喉を潤した。

生きていることは非常に幸いなことだと、心から感じた。

IMG_2976.jpeg
ビール作りの様子











posted by てったくん at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年11月10日

駅弁、駅そば

2014年11月8日

10月の終わりから、また二週間ほど日本に滞在した。この8月以来、日本に来る用事が連続したので、落ち着いてメルボルンで薪など割っていられない状態だ。しかし、忙しいときは忙しいのだから仕方がない。8月末に末弟の光太が急逝したので、彼の人生の後片付けという大事な用事もあった。

それと今回は地方の図書館に行って人前で話をする仕事が東京、静岡、姫路であったので、新幹線に乗って行き来した。トールキンではないが「行きて帰りし物語」である。それで駅弁を4回も食べた。駅弁は、たまに食べると心躍るが、4回も食べるとやや飽きる。子供の頃、デパートで「駅弁大会」があると、母が 買って帰ることがあったが、家で食べる駅弁もなぜかうまくなかった。やはり駅弁は、たまに長距離列車の中で食べるのがいい。

IMG_3498.jpeg

最初は静岡へ行って帰ったが、新横浜から12時頃の「ひかり」に乗った。久しぶりの駅弁だから迷いに迷い、最後は決めかねて月並みなシュウマイ弁当800円を買った。しかし、これが意外にうまくて満足した。横浜でシュウマイ弁当とはつまらない選択と思ったが、平凡さの中にこそ幸せがあるという感慨を久しぶりに味わった。
 
IMG_3500.jpeg

その新幹線でだが、横に座っていたイタリア人家族は、新幹線も駅弁も初めてらしく、お父さんが幕の内弁当を一口食べては感想をいちいち語り、息子がそれをiPhoneのムービーに録画していた。富士山が見えてくると皆で立ち上がり、ジュースやビールで乾杯した。イタリア語は皆目分からないが、楽しそうな人たちを見ているのは愉快だった。

でも、ひかり号で新横浜から静岡はたった40分だから、シュウマイ弁当を食べ、伊藤園のお茶を飲み終わらないうちに、もう静岡に着いてしまって、旅情を楽しむ時間はあまりなかった。

静岡は父の故郷である。父は寺町という場所の写真屋に生まれ、兄弟は12人 だったから、静岡には親戚がたくさんいる。僕の講演会にも15人もいとこやおばさんなどがやってきた。会場の一列が全部親戚であった。講演の後、いとこ会をすることになり、スナックを借り切ってみんなで酒を飲んだ。静岡だから、黒はんぺんフライがうまかった。その宴会では、静岡のお墓が草ぼうぼうになっているのはどんなものかとか、祖父母や先祖の位牌がどこにあるのか分からなくなっている、とかいう話題で盛り上がった。経緯は端折るが、僕はその場で「先祖代々の位牌」を受け継ぐことを承諾させられ、メルボルンに渡辺家の先祖全員をひき連れて帰ることになった。帰りの飛行機は、さぞにぎやかなことだろう。それにしても、渡辺家もずいぶん国際化したものだ。

IMG_3526.jpeg
静岡のおでん横町の夜

IMG_3540.jpeg
静岡浅間神社

静岡からの帰りの新幹線も昼時で、いとこ会に駆けつけた弟の光哉と一緒だった。 光哉は「富士山弁当」という三角形の弁当を、僕は「茶飯弁当」にした。どちらも地味目な弁当だが、静岡にはあまり駅弁の種類がないから仕方がない。どちらにも小さなカップに入ったわさび漬けがついていたが、これが辛くてうまかった。茶飯というのは、まるで法事に食べる食事のようだが、 味はけっこう良かった。駅弁の善し悪しは、見かけや値段ではない。

IMG_3545.jpeg
浅間神社にはイノシシが出るらしいが、幸い出会わなかった

東京にもどると、翌日は戸籍をとるため都内の市役所、区役所を回って歩いた。末弟の光太が亡くなって、諸処の手続きのために 戸籍謄本や除籍票が必要なのだ。それも、彼の分だけでなく、 亡くなった両親や僕の分もいるし、もう一人の弟の光哉の分もいる。それらをとるために多摩、立川、西東京、大田区と一日で歩き、くたくたになった。人が死ぬと面倒な手続きがたくさんあるし、 けっこうお金もかかる。でも、どの役所でも、市民課の係はとても親切だった。(親切すぎて、うるさいほど他人の事情を聞きたがる人もあった。)戸籍はこれだけでなく、両親が昔住んでいた静岡、大阪、滋賀県彦根といった場所からも取り寄せなくてはならない。引っ越すたびに戸籍を移す人もあるようだが、死んだときのことを考えると、戸籍はやたらに移すものではない。

戸籍をとるために歩いたその日、昼どきは多摩センターにいた。10月末にしては陽気も暖かく、冷たい蕎麦を食べたくなった。しかし、多摩センター駅の周辺には普通のそば屋が見当たらず、 しかたなく「箱根そば」という駅そば屋に入った。「箱根そば」は確か小田急電鉄の経営だと思ったが、中学、高校時代は小田急で通学していたから、ずいぶん世話になった。鶴川、新宿、小田原の「箱根そば」を何度食べたことだろう。ただ、当時僕が愛好していたのは、蕎麦ではなくて「野菜かき揚げ丼」だった。200円くらいで滅法腹持ちが良かったからだ。

IMG_3562.jpeg
多摩センターの秋はきれいだったが、そばはまずかった

だが、多摩センターのこの日は、冷たいおそばの気持だったので、またもや悩みに悩んだ末選んだのは「野菜かき揚げ丼と冷たいおそばセット」であった。すばらしい選択と思ったが、これが大失敗であった。蕎麦は、割にこしがあったが、タレがやたらと甘かった。僕は甘いタレは苦手である。甘いタレはかき揚げ丼にもいっぱいかかっていて、べちゃべちゃしていてうまくなかった。

「まずったな」と後悔したが、その甘ったるい蕎麦と丼を食べながら、死んだ光太が言っていたことを思い出した。「立ち食い蕎麦では、『富士そば』はうまいが、『箱根そば』はうまくない。」「富士そば」は、どこの会社がやっているのか知らないが、都内の新宿やお茶の水などにたくさんある立ち食いそばだ。光太は以前に中野に住んでいて、そこから新宿の大学病院に勤めていたから、よく富士そばを食べたらしい。

とにかく、どうしてそんな大事なことを先に思い出さなかったのか、自分の迂闊さを呪ったが、きっと記憶の中で、中学高校時代の空腹時に食べた「かき揚げ丼」のおいしさが40年たって結晶化していたせいだろう。あれがうまかったのは、若さ故であろう。

IMG_3574.jpeg
多摩市立図書館本館にある、父渡辺茂男の書斎「へなそうるのへや」
(多摩センターから徒歩8分)

だが、その晩は、フランス料理だった。フォアグラを口にしながら、僕は「箱根そば」のまずいかき揚げ丼に、ざまあみろと言った。フランス料理は、僕の実家があった多摩の図書館員である阿部さんという女性が、わざわざ赤坂まで食べに連れて行ってくれたのだ。 阿部さんは、時折クラシックのコンサートに行った帰りに、ここで一人で贅沢な時を過ごすらしい。図書館員には、そんなおしゃれな趣味の人がいる。僕は、今回の日本では、秋サンマを食べようと意気込んでいたのだが、 計らずともここのコースで、前菜にサンマが出た。このサンマは、キールロワイヤルを飲みながら食べた。炭火で焼いて大根おろしで食べるのとはまた違った趣向だが、これも大変旨かった。(阿部サン、ごちそうさま!)

IMG_3622.jpeg
お化粧直しした白鷺城こと、姫路城(地元の人は「白すぎ城」とも言っていた)

それから二、三日して、姫路へ向かう新幹線上の人となった。そのときも昼時だった。三回目だから今度は張り込んで、新横浜駅構内のトンカツ屋の「盛り合わせ弁当」を買った。トンカツ、海老フライ、チキンカツが入っており、千切りキャベツも別袋に入っていて、カツがべちゃべちゃにならない工夫がしてある。トンカツソースもたっぷりだった。だが、カツはやっぱり揚げたてでないとうまくない。そんなことは明白な訳であって、最初に気がつくべきであった。そんな感想のトンカツ弁当であった。

IMG_3606.jpeg
姫路城には、忍者がたくさんいた

姫路の講演会は、姫路城を見上げる立派な図書館で行われ、聴衆の反応も良かった。お色直しした姫路城も美しかった。唯一失敗したのは、パソコンの接続がうまくいかず、せっかく準備していったスライドがろくに見せられなかったことだ。講演会というのは、最悪の事態も予測して望まなくてはならない。しかし、スライドが映らないというのは最悪の事態という程ではない。逆に、そのせいで少しは話の中身が濃くなったかもしれない。だとしたら、怪我の巧妙というやつだ。自慢ではないが、もう講演会を2、30回はやっているから大分慣れてきたと言える。

IMG_3646.jpeg
仕事中の私

その講演会では、父が昔訳した童話「ミスビアンカの冒険」シリーズのファンだったという清流さんという姫路の住職にお会いした。初めてお会いしたのに、初対面な気がしなかった。それは、しばらく前から清流さんとはFacebookでお友達になっていたからだ。清流さんは、住職なだけでなく、保育園の園長で、ハンガリー仕込みのピアニストで、児童文学はプロ(私の父)を恐ろしがらせる程の知識であり、その上武道の有段者でもあるという人だ。その上清流さんに、夜は豆腐会席をごちそうになった。この豆腐会席が、今回の帰国で食べたものの中で一番豪華だったかもしれない。特に湯葉がおいしかった。遠くまで行って珍しいものを頂く、これが本当の「ご馳走」だろう。

さらに、姫路の講演会には、大学時代同じ登山クラブに所属していた次郎丸君が奈良から駆けつけてくれた。彼とは30年ぶりに会った。次郎丸君は、昔も太陽のように笑顔が明るい青年だったが、現在もニコニコした陽気なおじさんだった。「武道と神道」ということを生涯の研究テーマにしているそうで、そのことを書いた論文や著書をたくさんくれた。神道も武道も僕は知識がないから、読むのが楽しみだ。

IMG_3650.jpeg
姫路の夜景は、けっこうアートだった

姫路から帰る新幹線も、またもや昼時だった。四回目の駅弁ではエキサイトしない。しかし、何も食わないで東京まで帰るのも嫌だから、乗車前姫路の駅前デパ地下に入ってみた。 そこは食べ物のジャングルといった風で、あわや遭難しそうだった。しかし、機転をきかせて幸い早い時点で「穴子飯」に決着をつけたから、新幹線にも時刻通り乗ることができた。11月頭の三連休の最終日だから、乗り遅れて指定席に座れないと、東京まで立ちっぱなしになる。

だが、穴子飯はうまかった。特に飯の横についていた奈良漬けに興奮した。奈良漬けは、子供時代からの好物だが、こんなにうまい奈良漬けを食べたのは40年ぶりかもしれない。穴子飯でうまい奈良漬けが食べられたことは、昔なじみに再会した喜びにこそ勝らないが、特筆すべきものがある。 弟は、2ヶ月前に39歳で死んでしまったが、生きていればこんな喜びもあるのにと、奈良漬けを食べてほろりとした。

IMG_3681.jpeg
新幹線で一人旅していたウッドベース。(光太も旅好きで、ウッドベースも弾いていたから、光太みたいだった。)

東京に戻ると、さらにあちこち用事があって、街中を歩かなければならなかった。とにかく、人の多さと、騒音のうるささに辟易し、「今さら東京では暮らせない」という気持が強くなり、すぐさまメルボルンに帰りたくなった。

IMG_3683.jpeg
「東京暮らしは楽じゃない」、福岡出身のトラフグたち

しかし、帰る直前に、橋さんという友人の女性から「おもしろいカフェが武蔵小金井にできたからいきましょうよ」と誘われ、 のこのこ出かけた。そこは英語で言うと、artist-run-spaceと呼ぶような場所で、芸術家が自分たちが活動しやすいように、自分たちで経営している画廊のような場所だ。そこがカフェもやっているのだ。

ここは、すごく居心地が良かった。本当は、僕が行った晩は営業してなかったらしいのだが、友達のよしみで開いてくれて、食事も出してくれた。食事は、健康に良さそうなご飯と、自分の所で漬けたぬか漬けと、美味しい赤キャベツのスープと、そんなものだったが、ほんわかと優しい味がした。カフェでは近所の母子なども、持参の弁当など食べながら遊んでいて、そこにいた良太くんという6歳くらいの子どもが、自分のお小遣いで買ったというおせんべいを皆にふるまってくれた。だから、僕は大事にオーストラリアからもってきた高級板チョコを良太君にあげた。僕は普段はケチなので、こんなことは滅多にしない。良太くんのお母さんは、「すみませんねえ、エビで鯛をつっちゃったみたいで…」と恐縮していた。でも、僕は、このカフェのリラックスした雰囲気で、それくらい気持がおおらかになっていたのだ。だから、ちっとも損をした気はしていない。このカフェは、アートフルアクションというNPOがやっている。詳しくは、http://artfullaction.net

他にも、今回の帰国ではおいしいものを食べた。滞日の最後の日、横浜の弟光哉の奥さんの智子さんが作ってくれた松茸ご飯のことは、ぜひ書いておかなければならない。この松茸ご飯には、何とトルコ産の松茸が入っていたのだ。トルコからどうやって松茸が日本にくるのか分からないが、トルコ産でも正真正銘の松茸で、酢橘をしぼって食べると、どんな松茸に負けないほどおいしかったし、匂いもぷんとした。

そのトルコ松茸は、僕のおなかに収まったまま、オーストラリアに飛ぼうとしている。
(成田へ向かう成田エクスプレスの中で書く)

IMG_3480.jpeg
ゴールドコースト空港でメルボルン行きを待つ間、日本のコンビニで買ったお握りを食べた。
このジェットスター便ボーイング787に「渡辺家先祖代々」を全員乗せて帰った。


posted by てったくん at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年09月12日

寿司と蕎麦

2014年9月12日

8月の終わりから9月上旬、日本に2週間行って来た。日本に行くと楽しみなのは食べ物だ。僕がまず食べるのは蕎麦だ。冬なら鴨南蛮、たぬき、 天ぷらそば。夏なら、もり、ザル、天ザル、とろろなど。この頃の蕎麦は、味が良くなったと思う。立ち食い蕎麦でも、不味くて食べられないということがない。

今年2014年の3月まで多摩に実家があったのだが、そこに最後まで暮らしていた末弟とは、僕が帰国すると、よく一緒に実家近くの団地の中にあるS屋というそば屋に行ったものだ。S屋は、よくある 団地のそば屋で、近所の人が食べに来たり、出前をしたりするのが主の、地味なそば屋だ。それでも味は悪くないし、値段も安いので贔屓にしていた。末弟は気楽な独り者だったから、しょっちゅうS屋で食べていたらしい。土曜日の午後など、ぶらりとS屋に行くと、団地の老年テニスクラブの親父さんたちが、昼酒に顔を真っ赤にしながら怪気炎をあげていた。そのでたらめな会話を聞きながら蕎麦をすするのも悪くなかった。

団地.jpeg

たまに奮発して行くのは、K屋という蕎麦屋で、ここは超高級で有名だ。多摩と八王子の境にあって、飛騨の古民家を移築して作った豪勢な建物だ。蕎麦の器も、多摩在住だった辻清明という陶芸家が作った器で食べさせる。天ぷらのエビも生きた伊勢エビだ。だから値段は高いが、味も一流だ。ここは、僕の両親がまだ元気だった20年以上前からときどき通っている。両親の墓参りの後など、 僕たち三兄弟はK屋に行くことがよくあった。今年も、実家を売り払い、最後に不動産屋に鍵を引き渡した後、三人でK屋に行って蕎麦を食べた。

末弟は実家がなくなると、 世田谷の千歳烏山にアパートを借りた。南口の商店街をまっすぐ南に歩いて行くと500メートル程で商店が切れる。それでも歩いて行くと郵便局があって、その先を右に入った、モルタル作りの二階建てのアパートだった。

アパーとから.jpeg

この弟の新宅(?)を僕は今年三月に見に行った。弟は、千歳烏山の駅で、大福とみたらし団子の入った袋を下げて僕を待っていた。ちょうど昼だったから駅前のそば屋に入った。

「アパートの大家が、ここが旨いって言ったんだ」と末弟は言った。ジャズが流れる、お洒落なそば屋だった。 隣の夫婦は、昼間からビールを飲んでいた。弟は、鴨南蛮を食べた。僕は、その時何を食べたのか覚えてない。

烏山.jpeg

寿司も日本に帰ると必ず食べる。そんな高級な寿司は食べないが、仕事で顔を出す、巣鴨の近くの出版社の近くの寿司屋には、ときどき寄る。ここではランチしか食べないが、1500円くらいでけっこうなクオリティーな握りを食べられる。ランチで足りない時は、お好みで赤貝や中トロをつまむが、それだけでずいぶん贅沢をした気持になる。

実家がまだあった時は、これまた末弟と、実家近くのファミレス横の回転寿司に行った。ここへは晩飯を食べに行った。所詮回転寿司だから、二人とも値段の事など一切考えず、腹がはじける程食べた。絵皿だろうが金皿だろうが、何だろうが関係ない。 ウニ、トロ、ヒラメの縁側、のどぐろ、鯛、アジの活け造りなど。二人で、支払いは8000円とか一万円を超えることもあった。これが多いか、少ないか分からないが、しばらく寿司を見るのも嫌になるくらい食べた。

今回の帰国は、その末弟の葬儀だった。39歳だった末弟は8月末に急に病気で亡くなったので、僕はあわてて日本に帰った。こういうことは準備しておくことができないから、いつもあわてての帰国だ。父が危篤になったときも、最後に亡くなった時も、大慌てで帰った。こういうとき外国に暮らしているのはすごく不便だ。

さらにこういう時は、成田までの飛行機が辛い。今回も、ケアンズで乗り換えると、周りはオーストラリアで夏休みを過ごした楽しげな家族連れや学生がいっぱいだった。僕は、その真ん中で、沈痛な顔をして何時間も座っていた。爆発しそうな気持だった。

そして、慌ただしく帰国の2週間は過ぎた。葬儀の準備、通夜、葬儀、遺品の整理、事務処理。 真ん中の弟は、 グロッキー気味だった。彼は、弟の死直後から、悲しむ暇もなく、葬儀屋との交渉などの役目を一手に引き受けたのだから。僕も到着するや否や、喪主として活動しなければならなかった。喪主をするのは、父の時と二度目だ。親戚や知人 へ末弟の死を告げる電話を何度もしなくてはならず、これにはうんざりした。

それでも不思議なことに、腹もへれば喉も渇く。飛行機の中のまずい機内食もぱくぱく食べ、成田エクスプレスの車両ではカツサンドを食べた。横浜の、真ん中の弟の家に着くと、二人でエビスビールをがぶがぶ飲んで寝た。久しぶりに飲んだエビスは旨かった。

そして、今回も寿司と蕎麦を何回も食べた。末弟の葬儀の帰国だと言うのに やっぱり好物の食べ物を食べてしまう。

通夜の席では、食べ物がとても喉に通るとは思えなかったが、にぎり寿司が出た。ちょっとつまんでみたら案外きちんとした味だった。 末弟は若くして死んだから、通夜には高校時代や大学時代の友人たちが大挙して訪れた。その人たちと弟の思い出話で盛り上がり、みんなビールや酒を大いに飲み、寿司も足りなくなった。葬儀屋さんが慌てて追加を注文した。みんな、笑ったり泣いたりしながらも、よく寿司をつまんでいた。

末弟のアパートに遺品を整理に行った時は、真ん中の弟夫婦と、僕の妻を誘って、末弟と最後に行った千歳烏山のそば屋に入った。彼と食べた時程、旨いと思わなかったけど。店には前と同じようにジャズが流れていた。

帰国中の最後の晩には、回転寿司にも行った。横浜の真ん中の弟の家の近くだ。こちらはお洒落な加賀風の回転寿司で、味もぐんと良く、値段も高い。味がいいから週末は大混雑で、行くときには携帯電話で予約を入れておかないと入れない。それでも入り口でさらに20分は待たされる。回転寿司は、次から次へと注文して食べるので、せわしない。メニューと首っ引きで食べなければならない。だからあまり会話が弾まない。まあ、これは回転寿司という場所柄仕方がないだろう。

蕎麦は、ここに書いた以外にも、もう二三回食べたので、2週間の帰国中に5回は蕎麦屋に入った計算になる。思い返せば、父が亡くなったときも、もっと前に母が亡くなった時も、葬儀の前や最中や後に、蕎麦や寿司を食べた。悲しみながらも、寿司や蕎麦を美味しいと思ったのは今回も同じだった。

でもどうして なんだろう。僕は、どんなことがあっても、寿司や蕎麦をおいしいと思える人間なのか。それとも、寿司や蕎麦は、どんなことがあっても美味しく食べられる物なのか。試しに、成田空港でメルボルンに帰る飛行機に乗る前に、蕎麦でなく、うどんを食べてみた。

やっぱり蕎麦や寿司ほど、美味しいとは思わなかった。

今年の一月、今はなき実家のベランダで。
(左から、僕、真ん中の弟、末弟)
IMG_1973.jpeg
posted by てったくん at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年07月11日

30万キロの奇跡

2014年7月9日

冬の釣り行き

冬である。息子リンゴロウの学校も冬休み。メルボルンの7月は真冬で、雨が時折は激しく降り、カヤックに乗って海に出たくとも、風速30メートルの風が吹き荒れていたりするので、なかなかそれも叶わない。天気は変わりやすく、晴れていたと思えば雨が降り、土砂降り と思ったら、虹が出てまた晴れたりする。気分的には雨が降っている時の方が多い気がする。

そんなうっとうしい気分を振り払う為、なかなか休みがないリンゴロウのサッカークラブの練習の合間を縫い、男だけで2泊3日の釣り旅行に出た。行く先はメルボルンの東150キロ、ギップスランド南部ポートウェルシュプールという漁港。ここへは僕が2ヶ月程前にシーカヤックの合宿で来て、ここなら魚が釣れそうだと、睨んだ場所である。

ギップスランド.JPG
ギップスランドの平野

2ヶ月前のシーカヤックの合宿とは、ビクトリア・シーカヤック・クラブの親睦合宿で、スネークアイランドという島に漕いで渡り、そこからウイルソンズプロム国立公園までさらに海峡を漕ぐという趣向だった。僕は、まだ新参者なので、島渡りなど大丈夫だろうかと思ったが、クラブの会長さんが「大丈夫、ちっとも心配なし。初心者歓迎!」と太鼓判を押したので、のこのこ出かけて行った。ところがポートウェルシュプール港を出た日は、風速15ノット(28キロメートル)の向かい風、1、5メートルの波とうねりに揉まれ、まるでジェットコースターに乗っているように大波を下ったり、登ったり。自分がどちらを向いているのかも分からず、先輩に「こっちだ、こっちだ」と言われて必死に漕ぐのみだった。

スネークアイランド.JPG
スネークアイランドの合宿

合宿2日目は、 スネークアイランドから海峡を渡ってプロム国立公園の東海岸を漕いだが、波打ち際でちょっと気を抜いたら横波を食らい、 冷たい水に頭からどぼんと沈した。おかげで 水温16度の海で生まれて初めて泳いだ。泳いでいるうちはアドレナリンが出ているせいか寒くないが、陸に上がってからの方が寒くてガタガタ震えた。

今回は、そのポートウェルシュプールに息子と2人でのんびり釣り旅行だ。しかし、着いた日はやはり強風と低温で、ちっとも釣れず。小振りのフラットヘッド(和名はコチ)が少しかかるだけ。2日間でどうにか釣れたと言えるのは、27センチと30センチのコチが二匹とカニ一匹。あまり芳しくない釣行だった。

小コチ.JPG
小さなコチ

しかし、冬の澄んだ空気は美しく、冬雨に閉じ込められて溜まった鬱積はギップスランドの空っ風といっしょにどこかへ飛んでいった。やっぱり広い所に出て、のんびりするに限る。海風はとても爽やか、肺の底の底まですっきりする。


遠浅の海.JPG
遠浅の海岸は車で走れる


30万キロの奇跡

ギップスランドの緑の大地を突っ走ったこの冬の旅行中に、僕の車トヨタ・カムリワゴン(1994年型)がついに走行距離30万キロを突破した。 オーストラリアでは40万キロくらい走る車が決して珍しくないが、僕が一台の車にこれだけ長く乗ったのは初めてだ。2000年に(中古、7万キロ)買ったから、もう15年は乗っている。今11歳のリンゴロウが生まれて時、病院からうちに連れて帰るときもこの車だった。

「パパ、 この車良いよね。でっかくて、何でものせられて」と、リンゴロウは今も言うが、彼にはこの車はゆりかごの様なものだろう。もちろん、金にあかせず最新型のSUVや4WDに替えたらもっと良いだろうけど、この古いワゴンでとりあえず用は足りている。燃費もまあまあ(リッター10から12キロ)、故障知らずだ。また、広い室内、汚れても構わないくたびれたボディには、釣り道具、キャンプ道具、カヤックなど、塩水や泥で汚れたものを満載してもちっとも気にならない。とにかくこれだけ使えば、カーボンフットプリントも最小限にとどめたことになるのでは?

もちろん、乗っていた車が30万キロ走った ことにはあまり深い意味はないだろう。ただ単に、僕がよほど物持ちが良いのか、ケチなのか、たまたま整備を怠らなかったせいか、運が良かったか、この車が「当たり」だったのか、あるいは僕がよほど物事に固執するたちなのか、まあ、そんなことかも知れない。

30万.JPG

しかし、僕はこの車でいろいろな用を足したし、何度も家族と旅行もしたし、息子ともどれだけ釣りに行ったか分からない。だから、 自動車は、所詮ただの「物」かもしれないが、30万キロもの長い距離と時間をつき合ってもらった事を、何かの僥倖(ぎょうこう=おもいがけない幸い)と考える事にした。 そして、今後何かすばらしいことがたくさん起きると考えることにした。

餅つき

そのことを祝うつもりでもないが、7月の文庫では、餅つきをやった(僕は「メルボルンこども文庫」という集まりをもう15年も主催している)。昨年だったか臼と杵を作ったので、ついにそれを使ってみる事にしたのだ。餅つきは準備が大変だからなかなか腰が上がらなかったのだが、近所の日本人の友達に「やりましょうよ!」とそそのかされ、急遽やることになった。

餅つき.JPG
オジーのパパもぺったらぺったら

7キロの餅米を前夜から水に浸けて、朝から強火で蒸した。昼過ぎには、文庫の子どもたちやら親たちが10家族程集まり、ぺったり、ぺったり餅つきが始まった。あんころ餅、ショウユ餅、キナコ餅、大根おろしのからみ餅などだが、7キロの餅米がきれいになくなった。みんな食べること、食べること。オジーのお父さんたちも、あんころ餅やショウユ餅を「おいしい、おいしい」と、はぐはぐ食べていた。

餅つき2.jpg

餅米は、オーストラリアの我が家の近所で売っているのは、タイと中国産の餅米だが、韓国産の餅米を差し入れてくれたご家族があり、その方が断然粘りがあって美味しかった。きっと韓国の餅米は、日本の餅米に似ているのだろう。

餅つきというのは、お祭りみたいで、人が集まってわいわいやるのが楽しい。特に、冬の寒いときに、湯気の出る餅を食べながらやると、心の中がぽっかり暖まる。

春を待つ気持

リンゴロウの冬休みはまだあと2、3日ある。サッカーの練習もあるし、もう泊まりで出かるほどの余裕はない。 今日も朝からまた雨。そこで、リンゴロウを連れて、ビクトリア・シーカヤッククラブの面々が、手作りカヤックを作っているワークショップを覗きに行くことにした。

カヤック作り.JPG
手作りカヤック工房

ミッチャムの教会の裏の作業場がカヤック工房となっていて、クラブのメンバーの有志たちが一週間かけて、昔風のグリーンランド型シーカヤックを作っている。初老の親爺たちがカンナくずだらけになりながら、子どものように喜々としてカヤックを作っていた。僕も、過去にカヌーとカヤックを作った経験があるので、興味津々で見せてもらう。

カヤック作り2.jpg
skin-on-frameのカヤックの骨組み

今回この人たちが作っているのは、skin-on-frameという形式の、昔のグリーンランドの先住民たちが、動物の皮を木製フレームに張って作ったのと同じ形のものだ。ただ動物の皮の代わりに、新素材の繊維と防水のポリウレタン塗料を塗るところが現代的だが。教えているのは、クラブ会長のボブとその義理の息子ブレンダンだ。ボブは、本業は大学教授/牧師であるが、なんだかカヤックの方が本業ではないかと思われる程のめりこんでいる。

「カヤック作りは、本職はだしですね」と僕がお世辞とも皮肉とも取れることを言うと、サンタクロースのような巨漢のボブは破顔し、
「いやあ、こう寒いと、あまり海にも出れないしね。でも、この間は、強風の中、海に出てローリング練習をやったら、自慢の木製グリーランドパドルを折っちゃってね。ウハハ! このワークショップが終わったら、すぐにもう一本作らなくちゃならんのだよ。ワハハハ!」と、大きなお腹を揺すって笑うのであった。こういう福々とした人といると、心の底が暖かくなってくる気がする。

こうやって、みんな春がくるのを着々と準備しながら待っている。僕も、雨が上がったら海に出るぞ。


愛艇にのって.JPG
ウィルソンズ・プロム国立公園で愛艇に乗る
posted by てったくん at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年06月04日

「石井桃子さんのお握り」の真相

2014年6月2日

メルボルンの6月は、もう冬だ。


キノコ.jpeg

冷たい雨に濡れながらポストから郵便を取り出したら、日本から『石井桃子のことば』(中川李枝子、松居直、若菜晃子ほか著、新潮社)が送られてきていた。

IMG_20140604_0002_2.jpeg


さっそく開いてみる。写真がたくさんあって、どこを見ても楽しい本だ。若い頃の石井桃子さんが、とても素敵だ。それに中川李枝子さんや松居直さんなど、石井桃子さんに縁のあった人たちの文章や談話がたくさん載っていて、子どもの本の研究をする人には資料価値も高いだろう。僕の父(子どもの本の作家だった渡辺茂男)が石井桃子さんと懇意にしていたおかげで、僕にも懐かしい人たちや作家がたくさん出てくる。この本をいただいたのは、『ぐりとぐら』の著者である中川李枝子さんの文章が載っているページの写真を、僕が出版社に貸したからだ。その写真とは、中川さん一家(ご主人の宗弥氏とご子息の画太さん)と石井桃子さん、そして我が家の全員(父、母、弟光哉と僕)が一緒に、僕の実家の近くの多摩丘陵を野歩きしている写真だ。1966、7年頃の写真である。

多摩JPG.JPG
多摩丘陵 1966年頃。石井桃子さん、中川李枝子さん、父茂男、弟光哉、白帽子の僕、母一江 (父の後は中川画太さん)


この本を読んでいたら、ぜひ、書いておかなければいけないことがあることを思い出した。それは、石井桃子さんのお握りのことだ。

ことの起こりはこうだ。昨2013年秋、東京子ども図書館の機関誌である『こどもととしょかん』(138号)に僕の一文「石井桃子さんのお握り」を掲載していただいた。短い文だからもう一度以下に掲載する。


=================================
「子ども時代、父(渡辺茂男)の先輩作家であった石井桃子さんには、よくお会いした。石井さんは、僕がおどけたことをすると、細い手を口に当てて、「おほほほ!」と笑うのだった。そうすると僕は、父に「調子に乗るな!」と叱られたものだ。

我が家がロンドンにいた時は、石井さんがうちに滞在した。かなり恥ずかしい思い出だが、シティかどこかへ行くと言った石井さんに、小学四年の僕は、「じゃあ、英語の通訳してあげようか?」と偉そうにいったのだった。石井さんは、また「おほほほ!」と笑い、「じゃあ、てったちゃんにお願いしようか!」と言った。父には「英語の達人に、何て失礼な!」と怒られた。

ほろっとするのは、お握りのこと。高二の夏、友人T君と信州を自転車旅行し、追分の石井さんの山荘に泊めて頂いた。石井さんは、真っ黒に日焼けした僕たちに、「元気そうね!毎日何を食べてるの?」と尋ねた。僕が、「ラーメンとか、カツ丼!」と答えると、石井さんは体を二つに折って、「おほほほ!」と、笑いが止まらなかった。

その晩は、ゆっくりお風呂に浸かり、きれいな布団で寝かして頂いた。翌朝出がけに石井さんが、「ラーメンにカツ丼じゃあねえ」と言い、ずっしり重いお握りを持たしてくれた。

僕とT君は、そのお握りを千曲川の河原で食べた。それは直径が15センチ位あって、万力で締めたように固かった。あの大きなお握りのことはたまに思い出すが、石井さんは、あんなでっかいのを、どうやってあんな固く握ったんだろ?」

===============================

嘘ではない。本当の話である。

伊豆.jpg
石井さんの別荘の前と軽井沢で


今年2014年3月、 石井桃子さんのお宅であった「かつら文庫」(東京子ども図書館の分館)が新装オープンした。僕は、それに合わせて帰国し、それにちなんで、石井桃子さんと父茂男の交流について話をする機会を頂いた。(父の蔵書の主だったものを東京子ども図書館に寄贈させて頂いたということもあったので。父の蔵書は現在かつら文庫に展示されている。)。

講演会当日、 杉並の会場には、光栄にも松岡亨子さん、中川李枝子さんといった児童文学者もお出でになっていた。僕は、子ども時代のエピソードを交えつつ、このお握りのことも含めて話をした。

僕の話が終わると、質問やコメントの時間になった。すると、中川さんが、さっと手を挙げてマイクを持った。そして一言。

「鉄太さん、あの石井先生のお握りの話なんだけど、あれは本当は私が握ったのよ。覚えてない? 石井先生は6人兄弟の末っ子で、大事に育てられたから、お握りなんて握れないの。それで、あんたが高校生の時、サイクリング旅行で石井先生の別荘に泊まるって言うから、あんたのご両親に頼まれて、私がお世話する為に、追分までわざわざ出掛けて行って一緒に泊まったのよ。忘れたの? それどころか、あなたのお友達(T君)とあなたと一緒の部屋に寝たのよ。」

それを聞いて、僕の頭の中は真っ白になった。石井さんが握ったとばかり思っていたお握りが、実は中川李枝子さんが握ったお握りだったとは! 僕は、何てことを書いてしまったのだ!

会場は笑いの渦になった。こんなアホな勘違いが、公衆の面前であばかれることも、そうないだろう。

すると、自分でも驚いたのだが、40年近く前の記憶が、脳裏の奥底からするすると蘇ってきたのだ。そうだ、あの時石井桃子さんのお宅に、もう一人おばさんがいたっけ! それどころか、 そのおばさんが僕らと枕を並べて寝ると聞いて、 僕は「参ったなあ、こりゃあ!」と思ったことさえ思い出した。まさか、あれが中川さんだったとは!

中川李枝子さん、ごめんなさい!

しかし、それで、あのお握りの謎がすっかり解けた。あんなにでかくて(直径15センチ)、しっかり中まで固いお握りを、あの可憐な石井桃子さんが握れたはずがないのだ。そうだ、中川さんなら納得できる。中川さんが可憐じゃない、なんて言っている訳じゃありません! あのお握りが、『ぐりとぐら』に登場する、森の中のでっかい卵みたいだったから。

お握りの謎が解けたので、僕は、講演会のさらし者にされながらも、まんざら悪い気ではなかった。中川さんご自身も、別に腹を立てている風でもなかったし。(ですよね?) 横では、松岡亨子さんもニコニコ笑っていた。

というのが、石井桃子さんのお握りの真相だ。でも、そのおかげで、僕はいよいよあのお握りを食べた思い出を懐かしく思い出すようになった。石井さんのお握りでも、中川さんのお握りでも、どちらでもいいではないか。どちらにせよ、見たことないほど、でっかい、固いお握りだったのだから。

付け加えると、 「大発言」の後、 中川李枝子さんが言い加えたことが良かった。(きっと、僕をいじめすぎたと思われたのだろう。)

「あのとき、あなたと一緒にサイクリングをしていらした青年ね、あの方はどうなさってるの? とても感じの良い方だったわね。」

僕は、答えた。
「ありがとうございます。はい、あの者は中学時代の親友で、Tといいます。彼は、今は台所用品の会社のサラリーマンで、とても真面目な社会人になっております。」

IMG_20140604_0002.jpeg
トノムラと僕  1977年頃、信州サイクリングに出発の朝


Tくんの本名は、「トノムラ・アツシ」と言う。きっとトノムラは、昔ごちそうになったお握りに、そんな裏話があるともちっとも知らず、今日も台所用品を売っているのだろう。(おい、トノムラ、元気か?)

人生には、思いがけない裏があるってことかもしれない。
posted by てったくん at 09:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2014年05月08日

砂利を敷く

2014年5月7日

今日やったことと言えば、地面に砂利を敷いたことだ。それだけである。しかし、それで大いなる達成感を得られたのだから良かったではないかと自賛している。

砂利と言えば、 僕には苦い思い出がある。小学3年生くらいのころ、我が家の近所はまだ道路が舗装ではなくて砂利敷だった。ある日、近所のマーちゃんちで遊んでいたのだが、そのうちマーちゃんちの庭に道路の砂利を敷きつめてきれいにしようということになった。そこで、僕たちは大奮闘して砂利を敷き詰めた。ところが後で、とんでもないことをしでかしたと言って、マーちゃんのお母さんに大目玉を食らった。その上、せっかく運んだ砂利を道路に戻させられて閉口した。

さて、今回なぜ我が家の庭の隅に砂利を敷いたかと言うと、自動車を置く車寄せを作るためだ。なぜ車寄せが必要かと言うと、娘が中古のカローラを買ったからだ。そして、庭で余分な車を置ける場所が、メルボルンが冬になって雨が多くなると、泥が柔らかくなってタイヤが埋まって、車が出しにくくなる場所だったからだ。


砂利を敷くなど、人を呼んでやってもらえば済むと思うだろうが、昨今、世界でも一番人件費が高いと言われているオーストラリアで、いちいち砂利を敷くだけのために人を雇うなどと言うのは最も贅沢なことだ。だが、そう言う僕も、以前は砂利を敷くなんていうのは、この世でもっとも下等な仕事だと信じていた。だから、そんな自分が砂利敷きをするようになるなんて以前なら夢にも思わなかっただろう。しかし、ベルグレーブの山へ越してきてかれこれ14年、この物価高のせいもあって、こんなことは全て自分でするようになった。

予想通り、今日の砂利敷きの作業は実に楽しかった。子どもの時、喜々としてマーちゃんちの庭に砂利を運んで 以来だ。おまけにこの作業は僕に新たな発見をもたらしてくれた。


jari.jpeg

敷いた砂利は、5トンダンプに軽く山盛りに積んできた量で、3立法メートル程だったろうか。これが多いか少ないかは感覚の問題だろう。しかし、重さは3トン以上あるのだから、その量を腕力だけで移動させるには、けっこう体力を使った。作業に用いたのは、大きめのスコップ、小さなスコップ、金属製の熊手、それと畑で使う小さな鋤(すき)だった。

最初は大きなスコップで砂利をすくったが、すぐに腕が痛くなった。これではまるっきりダメだと観念した。それで小さなスコップに持ち替えた。ところが、もっと能率が落ちた。熊手も使ってみたが、表面を馴らすには良いが、大量の砂利を移動するには向いていない。そこで鋤を使ってみたら、これが一番能率良かった。

with shovel.jpeg

30分ほど、鋤を使って砂利を移動させた。すると、能率が良いだけに筋肉の疲労が著しく、腕がどうしようもなくだるくなった。もうこれ以上続けていられない気分だった。だが砂利はいくらも減っていない。このままでは夕方娘が帰ってきても、自動車を停める場所がない。

そこで、しばらく休んだ。そしたら腕のだるさがなくなった。そこで作業を続けた。でも、すぐにまただるくなった。そこで、また大きなスコップに持ち替えた。ただ、今度は大きなスコップに目一杯じゃなくて、半量くらいの砂利をすくって投げた。これが最も効率がよく思えた。しかも、無闇にすくって投げるのではなく、右腕で10杯、次は左腕で10杯という風に、作業を重ねていく。砂利を投げる方向も、撒いた量が少ない所を重点的にねらっていく、という風に戦略的に作業を行った。砂利のすくい方にも、ちょうど良い力の入れ方があることも段々分かってきた。言ってみるならば「砂利の気持になる」ってことかもしれない。

without car.jpeg

そうしているうちに、作業は意外なほどはかどった。途中で優雅にコーヒーブレークなどを入れて3時間程で作業を終えた。結果、見事な車寄せが出来上がった。娘の喜ぶ顔が目に浮かんで嬉しかった。さっそく自分の自動車を停めてみたが、もう泥にタイヤが埋まることもなく、真新しい車寄せの上に僕の車は嬉しそうに君臨してみせた。

with car.jpeg

砂利を敷くという作業も、これまでバカにしていたようなものでは全くなかった。それどころか、立派な作業であることが分かった。一体、自分の生立ちや、受けてきた教育はなんの為だったのだろうと、こういう肉体作業をするといつも感じる。壁にペンキを塗ったり、編み物をしたり、地面に砂利を敷くような単純な作業こそ感覚を鋭くする素晴らしい瞑想の一種だ。それだけでなく、 腕の筋肉の疲れを克服する為にスコップの使い方を工夫したり、 砂利を投げる回数を数えることで、精神的な困難を乗り切れることも分かった。こういったことは、頭で考えているだけでは決して分かり得ない。

今、人類は癌やアルツハイマー症などを克服し、長生きをする為の術を探し求めることに血眼になっている。難病の治療法にこそならないが、砂利を敷くような単純な作業には、日々を健やかに生きられる秘訣があるのかもしれない。

wombat.jpg 
ウォンバットにも苦悩があるらしい


posted by てったくん at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年04月22日

イースター休み

2014年4月21日


復活祭、イースターの日

イースターは北半球では春の訪れと同義かもしれないが、僕の暮らすオーストラリア、メルボルンでは、秋の行事だ。イースターは、子どもの学校の秋休みと重なるが、移動祝祭日なので、休みの真ん中になったり、後になったり。今年は、秋休みの最後の週末だった。
この秋休みは、旅行やキャンプに三回も行ってしまって、全然うちに居なかった。そんなで休みの最後の週末くらい大人しくしていようと思ったら、「そろそろ栗拾いにおいで」と、近所の知人から誘いがきた。そこで友達家族と、たまたまうちにいた娘と娘のボーイフレンドを誘って、モンバルク村の栗林へ向かうために車に乗った。

ところが、車をバックで出す時、前のバンパーの端を庭の石に引っかけてしまった。そしたら「ガリガリ、バリン!」と大きな音を立てて、バンパーが全部とれてしまった。あれまあ、なんてこった!

IMG_2755.JPG

この石は、昨年に免許をとったばかりの 娘も「この石邪魔!」と言って毛嫌いしていた 石だったのだが、無精で動かしていなかった。僕も時々 「ガリガリ」と車を引っ掻いていたが、僕のカムリは古い車なので、全然気にしてなかった。

外れたバンパーを前に唖然。どうしよう…? でも、とにかく栗拾いにいかなくちゃ。気を取り直して、女房の車で出掛ける。
モンバルクの知人宅には、こんなに大きな栗の木が十本程ある。3、40年前に、イタリア系の移民が植えたものらしい。

IMG_2750.jpeg

イタリア人は栗が好きらしい。スイス人も栗が好きらしい。そして、日本人の我々も大好き。でも、普通のアングロのオジーは、あまり栗を食べない。

さて、一時間で、これだけとった。とり過ぎかな。これだけとっても、まだまだある。子どもたちは、とにかく集めるのが大好き。大興奮で栗拾いをしていた。大人も楽しかったけど。とれたての栗は、つやつや。まだ水分が多いので、じっくりフライパンで炒ってから食べないとだめ。

IMG_2751.jpeg

みんなが見上げているのは、枝の上のフクロウ。昼間なのに、フクロウが、木の枝から僕たちを見下ろしていた。

IMG_2749.jpeg

IMG_2748.jpeg

さて、うちに帰ってから、外れた車のフェンダーを検分。試しにはめてみると、すぽっとはまる。見れば、簡単なフックとねじではまっているだけ。よし、自分でつけてみようと決心。娘のボーイフレンドも、「僕も、前に姉の車のフェンダーをケーブルタイで結んでくっつけたことがありますよ」と言う。そうか、ケーブルタイっていう手があったか。

そこで車の下にもぐりこんで、ごそごそ1時間。二カ所ほど穴をドリルで開けてケーブルタイでぎりぎり縛り上げたら、ちゃんとフロントグリルは元にもどった。思ったより簡単だったので、ウハハと笑ってしまった。

IMG_2760.jpeg

でも、バンパーの両側のはじっこのところは、外れたときの衝撃で割れてしまった。これは台所用のシリコンかエポキシでくっつけてしまおう。あと4000キロ走れば、30万キロの大台にのる94年型カムリワゴンは、こんな風にまたもや風格がついてしまった。

IMG_2759.jpeg

 
イースターマンデーにサイクリング

イースターの翌日はイースタマンデーという祝日。これは、ただの休日。いよいよ秋休みも今日で終わり。天気も良いので自転車に乗りに、ウォーバートントレールというサイクリングロードまでドライブ。(バンパーはしっかりくっついたまま)。このサイクリングロードは、我が家から車で30分ほど。昔、鉄道の線路だった道で、リリデールという町からウォーバートンの村まで全長40キロ。今回は、このうち15キロ(往復30キロ)を、女房と息子と僕の三人で走る。

IMG_2775.jpeg

 今日は、三人とも、細いタイヤの軽量バイク 。11歳の息子は、女房のお古の700Cタイヤのロードレーサーで風のように走る。6歳の息子と初めてここに来た時は、16インチのチビチャリだったのに。それでも15キロ走り抜いたので驚いた。今は、ロードレーサーの息子に追いつくのが、とてももう大変。

IMG_2779.jpeg

 三人で30キロを2時間強で走り抜けた。道は、細かい砂利道だけど、固いので細いタイヤでも全然大丈夫。僕が乗っているのは、中学生のときから乗っているブリジストン・ダイヤモンドという名車。40年前のオールド自転車(真ん中の赤いやつ)。

IMG_2764.jpeg

休日なのでたくさんサイクリストがいたけど、こういうエンジン付きのは、かなりチョンボだな。

IMG_2778.jpeg

家に帰ったら、太ももがかなり痛かった。たった30キロでこうなるとは日頃の運動が足らない証拠。
僕は、スピードよりも持久力をつけたい質だ。これからもがんばるぞ。


posted by てったくん at 15:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2014年03月27日

こんなに長くオーストラリアにいる理由

2014年3月26日

オーストラリアに引っ越してから17年は経っている。こんなに長く、とも思うが、振り返ってみればあっという間だった。もう両親もいなし、この3月で東京の実家も処分してしまったので、日本に帰る場所もなくなってしまった。(両親の 墓はあるけど、墓は「帰る場所」って感じじゃないねえ)。
それと、たまたま実家の処分と同時になったが、19歳の娘が、 大学に入ったのをきっかけにオーストラリア国籍を取る事になった。つい昨日その為の「国籍テスト」(citizenship test)というのを受験してきたが、100点だったと喜んでいた。まあ、娘は大学で歴史を専攻しているから、「オーストラリアを最初に発見した西欧人は誰?」とかいう質問は簡単だったに違いない。
娘もオーストラリア国籍を取るし、東京の実家もなくなるし、僕とオーストラリアの関係はいよいよ密接になる一方だ。で、よく聞かれるのは、「ずっとこのまま死ぬまでオーストラリアにいるつもり?」ということだ。答えは「そんなこと、分からないよ」である。
僕は幸運なことに、仕事やらいろいろで、年に2、3回は日本に帰っているから、それほど日本恋しのホームシックにもかからない。「ああ、オーストラリアにいるのも飽きたなあ」と思う頃、ちょうど日本に帰る用事ができる。でも、東京に2週間もいると、オーストラリアに帰りたくなる。というか、オーストラリアの緑と、家族のいる自分の家が恋しくなる。

IMG_2525.jpeg
この間、成田空港でホラ貝を吹いていた男の人

東京の実家がなくなったので、3月初旬に2週間ほど帰国したときは、弟の家と妻の実家と単身赴任中の友達の家に滞在させてもらった。弟も、妻の実家も、友達の家も、どこも気兼ねがいらないので気楽だった。中でも、単身赴任の友達の家が一番気楽だったなあ。男2人で鍋なんか食いながら晩酌したりして。

すきやき.jpeg
実家からメルボルンに持って来た、子ども時代からあるスキヤキ鍋

50面下げて情けないが、実家がなくなったのは寂しい。でも、それ以上に嬉しかったのは、東京の友達や知人が「今度帰った時は、ぜひ我が家にも泊まって下さいね」と口を揃えて言ってくれたこと。これからは、そう言ってくれる友達が僕の故郷なんだなって思った。
オーストラリアに17年もいて、どうしてここにこんなに長くいるんだろうと自分でも不思議に思う。絶対的にここにいなくてはならない理由もなかったし、もし日本にいたら、今頃もっと売れっ子作家になっていたかもしれない(そんなわけないだろうが!)。

IMG_2565.jpeg
ガンジーの真似をしているインド系英国人の友達と、インド人の真似をしているフランス人の友達

で、ここにいた理由の一つは、友達がたくさんできたからだろう。日本人の友達もたくさんいるし、オーストラリア人や他の国籍の友人もたくさんいる。これから新しい土地に行って暮らすのもエキサイティングだとも思うけど、こんなにたくさん友達ができるかな? あるいは、日本に戻ったとしても、昔の友達との間に前と同じような友情が復活するかもどうかも分からないし、東京に限って言うならば、もうあそこで長くは暮らせないなあ。

エキジビションビルディング.JPG
Flower and Garden show会場のエグジビション・ビルディング

関係ないが、2、3日前メルボルンのシティで「Flower and Garden Show」という催しがあったので見て来た。 僕は生け花をやっていて、その仲間とそこに作品を出品したから、それを見に行ったわけだけど、それ以外の展示物もとても面白かった。こういう催しは引退した年寄りのものだと思っていたが、行ってみたらそんなことはなくて、もっとずっと楽しかった。(年寄りも多いは多かったけど。) とにかく、きれいな花や、庭や、農機具やなんかを見ていると、うきうき楽しくなってくるし、それを見ている人たちみんながニコニコしてとても幸せそうなことが一番良かった。
僕は、花とか木とかにそれほど気にかけないでこれまで生きてきたけど、これからは生活の真ん中に植物を置いて、その周りでニコニコしながら生きたいと思ったくらいだ。

こんなオフィスもいいねえ.jpeg
こんなオフィスもいいねえ

Flower and Garden Showを見た後に、天気も良いのでメルボルンの街をぶらぶら歩いていたら、この間日本に帰った時、飛行機でとなりの席に座っていた少年にばったり出くわした。 そのE君は、日系スウェーデン人で、メルボルン大学で工学を勉強している。とてもニコニコで感じの良い若者だったからすっかり意気投合して、フライト中に話しこんでしまったのだった。 E君には、もう二度と会わないだろうと思っていたので、街でばったり会えてとても嬉しかった。それで10分程立ち話をして別れた。

IMG_2589.jpeg
仲間と僕が出品した生け花作品。(材料は、菊と竹)

 その後、電車に乗って家に帰ったのだけど、そうしたらBox Hillという駅で電車が故障で立ち往生した。その間、暇だから前の席に座っていた中国人カップルと話し始めた。2人は北京から新婚旅行でメルボルンに来ていて、我が家の近くのパッフィンビリーという蒸気機関車に乗りに行くところだと言う。あまり英語もできないので、半分は漢字で筆談。でも、漢字の筆談って、けっこう盛り上がるんだよね。
 それで、やっと電車が動き始めたのはいいが、彼らは電車が遅れたせいで、わざわざ我が町ベルブレーブまで来たのに蒸気機関車に乗り遅れるはめに。せっかく北京からきたというのにそれじゃあ気の毒だ。そこで、僕は駅の駐車場に停めてあった自分の車に2人を乗せて、蒸気機関車を大追跡した。もちろん蒸気機関車よりも車の方が早いから、ついに二つ先のエメラルド駅で蒸気機関車に追いつき、新婚旅行の2人を乗せてやった。
 「謝、謝! 北京でまた会いましょう!」そう言って2人は機関車に乗って行ってしまったが、考えてみたら名前も連絡先も聞いてなかったなあ。まあ、それでもどこかでまた会うかも分からない。
その一日は、Flower Garden Showに行ったり、E君にばったり出会ったり、中国の新婚さんと知り合ったりしていて、何だか良い1日だったな。
それで気がついた。僕が、なぜこんなに長くオーストラリアにいる理由を。それは、ニコニコしている人がたくさんいるからだ。そうでなかったら、多分僕はここにそんなに長くいなかっただろうし、これからもここにいようとは思わないだろうね、きっと。
posted by てったくん at 20:01| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2014年02月05日

晴耕雨読とは言うものの

2014年2月5日

IMGP5339.JPG

暮れから正月にかけて一ヶ月ばかり日本に帰って、1月中旬メルボルンに戻った。晴耕雨読の生活に戻ろうと思ったのだが、夏のメルボルンはずっと晴れ、それどころか帰った日は45度の熱波だった。零度から45度はちょっと厳しかった。
 45度もあると思考は停止する。我が家には冷房はないから、部屋を閉め切って薄暗くし、ひたすら忍ぶ。夕闇がせまる午後8時頃になって涼しい風が吹き始めるころ、家中の窓やドアを開け放して冷気を入れる。ところが我が家は銀色トタン屋根だから、昼に吸い込んだ熱気はなかなか抜けきらない。
 45度では外で畑仕事もできないが、風向きが変わって、クールチェンジと言われる南風が吹いてくると一気に25度くらいまで下がり、朝夕は長そででないと寒い。これがメルボルンである。メルボルンの一日には四季がある。

IMGP5335.JPG
春菊の花

 涼しくなると畑の草むしりなどするが、一ヶ月留守にしていた庭や畑はすっかり雑草に覆われて見えなくなり、雑草を山のように抜くとその間から、ようやくニンジンやら、春菊やら顔を出す。春菊は野菜と言うより木のようになって花を咲かせている。食べるのは諦めて生け花にでもするしかない。ぶどうは炎天がうれしそうで、緑色だった実がみるみる濃い紫に変わり、甘くなる先から鳥がついばみにくる。

IMGP5340.JPG

IMGP5341.JPG

 涼しいと楽しみは夜の読書だ。日本で買った本は船便に入れて送ってしまって当分届かないから、待つ間英語の本を読む。オーストラリアに17年も住んでいるのだし、その前は日本の大学で英語の教師をやっていたから英語の本は読むには読むが、日本語を読むのに比べればナメクジがはう速度だ。その上近眼と乱視、加えて老眼も顕著になってきたから、薄暗いスタンドの灯りで細かい英語の活字を読むのは苦労する。 
 昔から日本語の本は小走りのような速度で読んでしまう癖がついている。高校や大学時代、文庫本一冊くらいは一日で読んでいたが、そんな読書はちっとも身にならない。
 反面、英語の本ならどうせゆっくりだからじっくり楽しめる。散歩と同じで、ゆっくり歩けば歩く程気がつくことがある。英語の本でどんな本を読むかと言うと、旅行記やミュージシャンの自伝、オーストラリアの児童文学などである。アメリカの犯罪サスペンスなんかも楽しめる。冗句なども、一読して何がおかしいのか分からないこともあり、その理由を一日考えて、翌日分かることなどもある。日本語に訳されている本もわざわざ英語で読むことがあるが、それは英語の表現自体を楽しむ為だ。カズオイシグロなどは英語で読んだ方が面白い。文学はオリジナルの言語で読むに限る。(と言っても、僕は英語しか分からないが。)
 だから村上春樹なんかも日本語で読むに限る。(椎名誠なんかが英語になってもちっとも面白くないだろうな。なってないけど。)村上春樹は、オーストラリアに来てから読むようになった。近年はこちらでもいろいろな人に「村上春樹は面白かった」と言われるから、自分でも読んでみるつもりになったのだと思う。もう一つ村上春樹を読むようになった理由は、2006年暮れに突然亡くなった大学時代の親友M君の愛読書だったせいもある。彼は勤め先で倒れて亡くなったが、腕利きコピーライターで、しかも読書好きだった彼が、最後に何の本を読んでいたのだろうと気になり、彼の未亡人に「M君は、最後に何の本を読んでいたのですか?」と尋ねた。そしたら「村上春樹でした」という答だった。M君は晩年ランナーで、出社前には毎朝10キロ走っていたと言うのだが、それは同じくランナーである村上氏の影響かなと想像している。(M君、安らかに眠ってくれ。)
 あと、もうひとつ村上春樹を読む理由は、彼がかなり長い小説を書くからだ。僕は、短くてすぐに読めてしまう小説があまり好きではない。だから、村上の最近の長い小説を、長い時間ハラハラしながら読むのはなかなか楽しい。
 11歳の釣り好き、野外活動好きの息子は冒険小説が好きである。だが、彼はオーストラリア育ちで日本語が読めない。だから、長い冒険児童文学を僕は彼に読んでやっている。もうずいぶんたくさん読んでやった。
 ナルニア物語、ミスビアンカの冒険、宝島、ツバメ号とアマゾン号シリーズ、ムーミンシリーズ、冒険者たちシリーズ、誰も知らない小さな国シリーズ、ホビットの冒険、エルマーのぼうけん、オズの魔法使い、ニワトリ号一番のり、西遊記などなど。
 これらの文学に共通しているのは、どれも長いことである。ツバメ号とアマゾン号シリーズなどは12巻もあり、あきれるほど長い。全部読むのに1年以上かかった。よくまあランサムはこれを書いたと思うが、長くとも内容はちっともふやけてないからすごい。アマゾン号を読んでやったおかげで、僕たち二人は船や航海に関して知識がついた。この作品は、もう一度英語で読んでやろうと思っている。

IMGP5343.JPG

 中でも息子が一番愛してやまないのは、スチーブンソン『宝島』だろう。もう何度読まされたか分からないが、本当に好きである。海賊、孤島、航海、秘密の宝、戦いなど冒険の要素の宝庫である。ふたりでキャンプに行く時など持っていく。僕もこの本が大好きである。
 今は、『ドリトル先生』を読んでやっている。これも13巻あってかなり長い。子ども時代にも全部読んだが、今改めて読んでみると、ドリトル先生と言うのは万能であり、人格者であり、争いを避ける博愛主義者だ。まるで神さまのような人だが、きっとロフティングは「神」を念頭に、ドリトル先生という人を創作したのかもしれない。
 ドリトル先生の邦訳者は、井伏鱒二である。僕が中年になってから好きになった作家だ。高校時代『黒い雨』などは教科書で読まされて閉口したが、今読んでいる井伏作品は釣りや旅行に関する古いエッセイである。寝しなにちょっと読むのだが、井伏のエッセイは、どこが始まりで、どこが終わりなのか分からないようなポストモダン的流れのものが多く、何が言いたいのか分からないような奇抜な内容のものもある。そこを考えながら、眠りにつくのも楽しい。

IMGP5331.JPG
古い本は装丁が良い

 僕の持っている井伏の本は母方の祖父が所持していた物で、昭和30年代初期の出版のものだ。まだ旧漢字が使われている。旧漢字は読み難いが、しばらく読んでいると分かるようになってくる。例えば「駅」という字は「驛」であるし、「昼」は「晝」である。こんな文字を眺めているのも楽しい。また裏の方の奥付を見ると、「鱒二」というハンコの検印が押してある。これは井伏鱒二自身が押したんだろうかなどと考えるが、きっとそんなことはないだろう。奥さんや子どもたちが、本が出るたびに総出で押したんだろう。のんびりした時代だった。

IMGP5333.JPG
筑摩書房昭和33年刊の『河鹿』の検印には「鱒二」とある

 今朝は気温が25度くらいで、書斎のパソコンの前に座る前にちょっと庭仕事をした。コンポストの肥料をかき回そうと、上にかけてあった黒ビニールを外したら、下から小さなネズミが二匹飛び出した。畑のニンジンはまだたくさん植わっているが、水をやってなかったのでみな小振りだ。こういうニンジンは今夜バーベキューで焼いたら、かりっとおいしく焼けそうだ。そうだ、冷蔵庫にニワトリが一羽あるから、これもバーベキューで焼こう。という風に、我が家の夕食の菜が決定する。
 そろそろ秋口だが、まだ畑に何か作物を植えられそうな気候だ。トマト、インゲンなどはどうだろうか。ホウレンソウなどの葉ものなら、苗を買ってくればまだまだ育つに違いない。
 
posted by てったくん at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年10月16日

ミルデューラ旅行で、世界遺産のトイレに驚き、 オーストラリアで一番低い山に登ったこと

2013年10月4日


「ミルデューラの私のところに泊まりがけて来ない?」と、僕好みの女性に誘われた。で、誘ったのは僕の女房なので、別に断る理由もなく、ほいほい出かけてきた。息子鈴吾郎の学校も春休みだし、いっちょ遠出をしましょうか、ということだ。
 女房は、ミルデューラには3週間ばかり滞在していた。この町のアートフェスティバルに呼ばれて作品を作ったりワークショップをした。主催者が宿泊のために一軒家を借り上げてくれたので、そこに息子と私も寄せてもらうことになった。そんな美味しい話も滅多にない。
 しかし、息子の鈴吾郎(10才)は浮かない顔だった。なぜならミルデューラには海がないからだ。息子は釣り気違いだから海が好きだ。だが、ミルデューラは内陸で、メルボルンから北へ600キロ入ったところにある。その一帯は平野の農業地帯で、牧場と果樹園ばかり。海どころか、ちょっと行けば砂漠。だから釣り気違いの息子はがっかり。

IMGP4780.jpg
内陸の麦畑

 「いや、ミルデューラにはマレー川という大きな川があって、そこには100キロもある巨大なマレーコッドという大きな魚がうようよ泳いでいる」と、僕は明るく告げた。しかし、息子は「そんなの釣れっこないよ。だいたい100キロの魚を、うちのちっちゃい竿でどうやって釣るのさ? 仮に釣れても、パパなんて腰抜かして座り小便だよ。そもそもマレー川で釣れるのは、鯉とかナマズみたいな変な魚ばっかりだ!」と父親をコケにする。だが、息子の言う通りで、マレーコッドは滅多に釣れない。それに、確かによく釣れる鯉とかナマズはヒゲなんか生えていて変な顔だ。でも、だからと言ってそれを変な魚と決めつけるのは差別だ。変な顔をしている人が必ずしも変な人とは限らない。そうだったら、世の中の半分の人は変な人だ。でも、やっぱり息子の言う通り、巨魚マレーコッドが釣れたら、やっぱり腰を抜かすだろうなあ。
 そこで、マレー川では釣りはしないことにした。息子はむくれている。そしたら友達が、「あら、あそこにはマンゴ国立公園があって、「中国の壁」と呼ばれるすごい岩の隆起とか、化石とか、砂丘とかあって、見に行く価値があるわよ。それにあそこは世界遺産だからちょっとしたものよ!」と教えてくれた。ビクトリア州に世界遺産があるなんて知らなかったから驚いた。息子にも「世界遺産だぞ」と言ったが、全然理解しなかった。(そもそもオーストラリアでは「世界遺産」などという概念はあまり広まっていない)。
 というわけで、僕と鈴吾郎は、春休み2週目に、カルダーハイウェーをぶっ飛ばして、ミルデューラまで600キロをひと走りした。

junk car.jpg
突然こういうものが道ばたに落ちているのもオーストラリア

ミルデューラが都会で驚く

結論から言うと、今回は驚きの旅で、2、3の驚くべきできごとに続けて遭遇した。しかし、これらには何も関連はない。だから、今すぐこれを読んでいる人たちにミルデューラに行った方が良い、と勧めるつもりはない。

 さて、その第一はミルデューラの町が意外に大きかったことだ。というか、すごく都会でびっくりした。しかし、そのことは女房にも聞いていたし、前にこの辺りを通過したときに見て知っていたから、初めて知ったというより、改めて驚いたと言っておく方が正しい。
 すでに分かっていることに再度遭遇して驚くなんてことがあるか?と疑う人もあるかもしれない。もしかしたら僕は老人性痴呆症なのかもしれないが、知っていたってやっぱり驚くこともたまにはある。知っていることと、感じることは、また別のことなのだ。
 さて、メルボルンを出て、カルダーハイウェーを北に向かって30キロも走れば、すぐに景色は田舎になる。それがオーストラリアの特質だ。シドニーでもアデレードでも、少し走ればすぐ田舎。意図しなくても自然に田舎になる。そこが日本と違うところ。日本は、相当走らないと田舎にならない。あるいは、田舎的な場所をピンポイントして目指さないと本当の「田舎」の景色が見られないだろう。例えば、僕の故郷の多摩は東京では田舎の方だが、あまり田舎の景色は残っていない。

IMGP4816.jpg
ミルデューラの街角

 さて、メルボルンは、田舎を1時間ちょっとも走って、ベンディゴといういくらか大きな、昔ゴールドラッシュで栄えた町を過ぎると、もうこれで町らしい町はなくなってしまう。村みたいなところしかない。もう車の制限速度も時速110キロである。110キロでも2車線双方通行だから、大きなトレーラーなんかとすれ違うにはかなりスリルがある。だから、田舎町は、文字通り「あっ」という間に通過してしまう。
 メルボルンを朝の8時に出て、そんな道をひたすら走り、ミルデューラには午後4時に着いた。600キロを8時間かかったということだ。ほとんどは時速110キロで走ったが、停まってお昼を食べたり、トイレに行ったり、アイスを食ったり、携帯で話したり、コーヒーを飲んだりしたから、600キロだとそれくらいの時間がかかる。特に子連れだとそうだ。
 景色はまあ美しかったが、単調だ。信号もメルボルンを出れば全然ないからブレーキを踏む必要もほとんどない。することがないから、息子の鈴吾郎ともいろいろな会話に興ずる。しかし、10才の少年とはあまり深い会話もできない。鈴吾郎との会話のテーマは以下のようなもの:

• サクマドロップでは何味が好きか?(鈴吾郎は、サクマドロップの大缶をドライブ中ずっとなめていた)。
• BMWとアウディとベンツは何が違うか?
• フェラーリを買うのと、海辺に別荘を買うのとどっちがいいか?
• ウルトラマンとドラエモンが闘ったら、どちらが勝つか?
• 焼き鳥は、タレと塩では、どちらがうまいか?
• ラーメンは、豚骨と醤油と、どっちが美味しいか?
• ハンバーガーの具は、多い方がいいか、少ない方がいいか?
• カンタス航空とジェットスター航空はどっちがサービスがいいか?
• エアバスとボーイングでは、どっちの飛行機が速いか?
• 餃子を何個食べたことがあるか?
• ビールとコーヒーでは、どちらが美味しいか?
• 自衛隊は、どうして攻撃できないのか? 
• 焼き肉とスキヤキは、どちらがごちそうか?
• どうして、しゃぶしゃぶの肉を長くスープに浸けていたらいけないのか?
• 機関銃と拳銃は、どちらが危ないか?
• ジャンボジェットにロケットエンジンを付けたら何キロで飛べるか?
• コンコルドでメルボルンからミルデューラに飛んだら、何分で着くか?
• マグロとアジの刺身では、どっちがおいしいか?
 
こういうことを息子と話すのは楽しくなくもないが、5時間も6時間も続けていると苦しい。だから、時間が経つにつれて僕も言葉少なめになってくる。だが相手はあきらめず、「ねえパパ、ねえパパ、聞いているの? ねえパパ!」としつこく聞いてくる。ちなみに鈴吾郎は、オーストラリア生まれのオーストラリア育ちだが、食べ物などは、意外に日本的テイストである。会話も日本語であるから助かる。これが英語だったら、とても長距離ドライブは持たない。
 で、田舎道を延々走ってミルデューラに着くと、いきなり大きな町が現れた。「れれれ?!」と蜃気楼を見ているような感じだ。しかし、ここはオーストラリアだから、そういう町がいくつかある。例えば大陸の真ん中にあるアリススプリングスは、砂漠の真ん中の大都会だ。アメリカのラスベガスも似ているが、遠く離れているという点では比較にはならない。オーストラリアのこうした都市には何百キロも隣町がない。
 ミルデューラもちょっとそんなである。東西南北どっちに行っても、シドニーまで1000キロ、メルボルンまで500キロは、アデレードまで600キロといった具合に離れている。その間には小さな町がぱらぱらあるだけ。そんな場所なのに、ファーストフードのレストランは何でもあるし、立派な屋内プールや大学もあるし、町の真ん中には噴水があるし、アートや音楽のフェスティバルはやってるし、パブやレストランが目抜き通りに並んでいる。市バスも走っているし、電車の駅もある。お洒落なかっこうの人たちが目抜き通りを歩いている。街角にはホームレスだっていて、思わず「すげえー」と言ってしまった。中心街は、東京で言ったら多摩センターくらいの賑わいだ。誰だって、砂漠の真ん中に多摩センターがあったら驚くだろう。ミルデューラには小さいが飛行場だってある。でも多摩には飛行場がないから、ミルデューラは多摩と言うより調布といった方が正しいかもしれない。調布には調布飛行場があるからだ。ここは砂漠の中の調布かもしれない。

ミルデューラは移民の町 

そして、ミルデューラは移民の町である。と言うか、オーストラリア全体がそうなのだから、そんなことは「あたり前田のクラッカー!」(古い?)だ。何もミルデューラだけが特別なのではない。しかし、どんな移民がどんな場所に多いかには地域差が少しあることがここでも分かる。ミルデューラはイタリア系が多い。それで、ぶどう作りが盛んだから、ワインやオリーブの看板が多くて、イタリア料理店も賑わっている。『ステファノ』というレストランが有名で、メルボルンからわざわざ飛行機で食べにくる人がいるらしい。イタリア系は戦後にヨーロッパから来たが、すでにこの土地に根を下ろし、かなり成功している人も多いようだ。
 農産地のミルデューラは、干しぶどうを始めとしたドライフルーツを世界中に輸出している。だから人手も必要だ。最近移民してきたイラク、中東、北アフリカ系の人たちもこういう場所に落ち着いている。この人たちはまだこれからだから、農場の季節労働やスーパーのレジ打ちなんかでしのぎをけずっている。インド系、中国系も多いが、祖国から多少の資本を持ってきている人もあるのか、小さな商店主などにおさまっている。ミルデューラ商店街の、お持ち帰り専門の小さな寿司屋も中国系だった。

先住民アボリジニの人たちの姿

 ミルデューラのような内陸の町に来ると、アボリジニの人たちの姿も多い。もちろん、みんな普通の暮らしをしているが、悲しい光景も目にする。
 女房が作品を制作している画廊に入ると、賑やかに展示作品の制作が進んでいた。ここはラトローブ大学の施設なので、美術学部の院生などがボランティアで手伝っている。今回のアートフェスティバルの為に、女房も含めて50名近いアーティストたちが来ている。私と鈴吾郎も、到着早々女房の制作を手伝った。
 その作業をしていたら、突然外の路上で怒声がし、ばたばた人が走りまわる気配がした。外をのぞくと、若い女性の警察官が中年の男に飛びかかって押し倒している。すぐに私服警官とおぼしき男性もその上に乗っかった。パトカーもすぐきて、中からも2、3名の警官が飛び降りてさらに男の上に乗っかった。やがて下から「助けてくれー、ヘルプミー!」という情けない男の声が聞こえてきた。
 やがて男が手錠されてパトカーで連れ去られた。それは、貧相な格好のアボリジニ男性であった。容疑が何であったか分からないが、こうした光景はミルデューラでは珍しくないのだろう、一時は私も含めて野次馬が少し集まったが、アボリジニの容疑者だと分かると、「ただのアル中か麻薬だろう…」とか言いながら三々五々散らばっていった。それは何とも侘しい光景だった。 
 先住民アボリジニの人たちは、豪社会で長い年月虐げられてきた。今でもアルコールや麻薬、失業などで社会の底辺で喘ぎ苦しんでいる。これは、アボリジニの人たちが無能なのでなく、植民地化の末に、土地も故郷も言葉も家族も失った人たちの断末魔の姿だ。とても悲しいことだ。
 一方、移民や難民できた人たちの多くは、最初苦労しても、やがては社会で仕事を得て、認知され、居場所を確立し、中には成功者となる者もいる。しかし、ここで何千年も暮らしている先住民の人たちは過去200年の間に居場所を失い、今も不安定な暮らしをしている。さっき警官にもみくちゃにされた男には何か事情があったのだろうけど、ぜひ頑張って欲しい。

tokage.jpg
オーストラリアの先住民には頑張って欲しい。これもネイティブのトカゲ。どっちが前?


イギリス風コテージに泊まる

 さて、オーストラリ人はイギリス風なものを好む。昔はオーストラリアで「海外=overseas」というと、イギリスのことであったと言う。それくらい、顔がイギリスの方を向いていた時代があった。今はそれほどでもないが、それでもイギリスを渇望するオーストラリア、みたいな面は、そこらに散見される。僕たちがミルデューラで泊まったコテージ(一軒家の宿)も、イギリスの田舎屋風であった。「オーストラリア風イギリス田舎屋風の家」だ。まあ、気持は分かるが、妙と言えば妙な趣味だ。全然違うかもしれないが、中国人が日本のラーメンとかギョーザを見たらそんな風に思うのかもしれない。あるいは、僕がオーストラリアの水道管のような巻寿司を食べて、「これは寿司と言うより、SUSHIであるな」と思うようなものかも。

yado.jpg
英国風コテージの中

 しかし、なにがどうあれ快適な宿だった。外壁はオレンジ系ピンクでやや派手、室内はカントリー風、アンティック風(あくまでアンティック風ね)の置物や調度でまとめてある。田舎風だが居心地が良い、というのがオーストラリアだ。シャワーのお湯だって、栓をひねれば、どばっと出るし、ガスヒーターも強力だし、ベッドには電気毛布も入っている。イギリスの本物の田舎家は、本当に古いから居心地がちょっと悪い可能性があるが、オーストラリアの田舎家は、近代的で居心地が良い。
 
ミルデューラの一日

よく朝、仕事のある女房は早く出て行ったが、鈴吾郎と僕は、ふかふかのでっかいベッドで朝寝坊し、イギリス風にベーコンエッグとトーストの朝ご飯を食べた。それから、歩いて女房が仕事をしているギャラリーに行き、ひとしきり制作を手伝う。毛糸の玉をほぐし、脚立に登って天井からそれをたらし、床に結びつける。これを何百本もやっていく訳だが、光があたると海中にさしこむ光の束のように見える。ところどころに女房がミルデューラの小学生と一緒に作ったドライフルーツ(地元の物産)のモビールを吊るす。光の束と、ひからびた果物のコントラストが面白い。 

chaco work.jpg
チャコの作品

 隣のアーティストはミルデューラ出身のイタリア系の女性で、ビデオのインスタレーションと繊細なピンク色のドローイングの組合わせの展示だ。ビデオはイタリアから植民してきたイタリア移民のおじいさん、おばあさんのインタビューで、年寄りたちが登場し、イタリア訛の分かりにくい英語で自分たちの経験を話す。その音声の背後には、イタリア語のABCをたくさんの子どもたちが朗読している声が重ねてある。それが呪文のように繰り返される。

chaco work2.jpg
チャコの作品

 しかし、作業をしながら、そのイタリア語ABCの呪文を長時間聞いていたら、何だか頭が痛くなってきた。前からそうなのだが、こういう意味の分からない言語音をずっと繰り返し聞いているのは少し苦手だ。
 他にもたくさんアーティストがいて面白かった。鈴吾郎が大変興奮したのは、流木やそこらのガラクタで、ライフルや機関銃を作っていたアーティスト。武器というと過激だが、作品はとてもほのぼのしている。鈴吾郎は、常日頃、過激なライフル銃や拳銃や弓矢をうちで作っているから、うっとりとこれらの美しい「兵器」に見ほれていた。オーストラリアの社会全体、特に鈴吾郎が通っているシュタイナー学校では、もちろん子どもが銃などの武器で遊ぶことは奨励されていない。しかし、こういうのが好きなのは男の本能かもしれない。
 作業も一段落したので、鈴吾郎と自転車でミルデューラの町を走りまわった。ミルデューラは平らなので楽ちんだ。マレー川沿いには気持のよい砂利道が続いているので、ここをすっ飛ばす。マレー川を観光用の外輪船が行き来していて、どこからかカントリミュージックが聞こえてくる。
 昼は宿に戻り、「出前一丁」のインスタントラーメンを作って食べる。鈴吾郎は、僕とキャンプなんかすると、いつも「出前一丁」を食べたがる。今どきインスタントラーメンという感じだが、僕も息子とネギかなんかパラパラ刻んでのせた出前一丁がけっこう好きである。
 午後、スーパーに夕食の買い出しに行く。僕は外食が好きではない。ひとつは、子ども連れでレストランに入るのが嫌いなのと、昨今のオーストラリアは物価がめちゃ高いからかもしれない。
 宿の近くには、コールズというスーパーがあった。大きな町にコールズはどこにでもある。それとウールワース(セーフウェー)もどこにでもある。オーストラリアの「大きな町」という定義のひとつは、これら二つのスーパーがあるかどうかかもしれない。
 この二つのブランドのスーパーはが激しく競争している。それは、政治で労働党と保守党が入れ替わり立ち替わり政権をとっているのと似ている。自動車会社も、オーストラリアでは、ホールデンとフォードがライバルである(どちらも業績が悪くてつぶれそうだが)。どこでもそうだが、一党独裁は良くない。企業でも、アップル、マクドナルド、東京電力など独占企業は、裏でも表でも、ろくなことはしてない。もちろん二党制だって、それ以外の勢力を阻むところがあるから良くない部分もあるが、一党独裁よりは良い。
 コールズもウールワースも、オーストラリアではどこへ行ってもほぼ同じ場所に同じ品物が置いてある。地域性がない。と言うより、排除している。オーストラリア人は、スーパーというのはどこでも均質であるべき、と思っているようだから、地元の物産を置いて集客するという感覚があまりない。日本では、土地柄が大切だが、オーストラリアでは、ことに食べ物に関してはあまりそうではない。そのせいか分からないが、オーストラリアの英語も驚く程地域的な方言がない。それはアメリカやイギリスと大きく違う。(もちろん、オーストラリア英語自体は、独自の方言と言えるけど。)
 で、スーパーだが、僕は普段ウールワースに行き慣れているので、コールズに入ると迷子になる。それで、買い物に余計時間がかかる。しかし、急ぐ訳でもないから、迷子になりつつ買い物を楽しむ。夕食は、焼き肉とサラダにすることになった。鈴吾郎にメニューを相談すると、「焼き肉かスキヤキかギョーザかピザ!」になってしまう。
 帰りがけ、隣のコールズ系の大きな酒屋に入る。体育館のような広さだ。オーストラリア人は酒飲みだが、田舎の人はよほどたくさん飲む。都会では、飲む酒の男女差はなくなってきているが、このごろは、男でも白ワインとかシャンパンとか飲むようになったが、田舎の「本当の男」はビールしか飲まない。
 で、ここにも「地酒」コーナーはなく、ワインもビールも、機械的に、種類別、銘柄別に置いてあるのみ。情緒も何もない。僕は、ミルデューラの地ビールMildura Breweryという銘柄を探すが、弱小のレーベルだから隅っこの方にやっと見つけた。それも、すごく恥ずかしそうに、ちょっと置いてあっただけ。地元なんだかから、もっと宣伝すればいいのに。でも、全国版大手量販店は、地元の小企業には冷たいのかもしれない。

世界遺産「マンゴ国立公園」

Mungo.jpg

翌日も女房のアート制作を手伝う。一日中、はしごを上り下りして足腰が痛くなった。でも、どうにか目処がついたので、ミルデューラ滞在最後の日は、いよいよマンゴ国立公園に行くことにした。ミルデューラからは110キロ、マレー川を渡ったニューサウスウェールズ州側にその公園はある。オーストラリアの国立公園(National Park)は最低限の施設(公園事務所、トイレ、キャンプ場など)しかなく、お店もホテルも食堂と言った商業施設は全て外にしかない。マンゴの場合は、一番近いお店まで90キロ離れている。

road.jpg
マンゴへの道

 早起きして、お弁当のサンドイッチを作る。車はミルデューラを出て、マレー川を渡り、牧場の中の快適な道を10キロ程ゆく。すると道は突然赤土のダートに変わる。まるで洗濯板の上を走っているようだ。地図上では、実線でなく点線の道路だ。地図には「四輪駆動でなくとも通行可」と書いてあるが、ダートが始まるところの標識には「雨が降ったらこの道は閉鎖」とあった。なるほど、そうだろう。
 ダートでも制限速度は110キロであるが、とてもそんなスードでは走れない。僕の車はもう28万キロも走っているので、サスペンションも無きに等しい。ガタボコ道のショックがダイレクトに伝わってくる。それでも、慣れてくると段々70、80、90キロと速度は上がっていき、平均90キロくらいで飛ばす。後ろには赤い埃が立ち上り、まるでパリ・ダカールラリーみたいだ。
 そんな道を一時間、マンゴ国立公園に到着。さっそくインフォメーションセンターに行き、地図を見る。公園内も車で一周できるようだ。

china wall.jpg
地表の隆起

 それで、まずGreat Wall of China(中国の長い壁)と呼ばれる、地面が壁のように隆起した場所を見に行く。
 マンゴ湖(水は一滴もない)を囲むようにして、地面が隆起している。ここは4万年前以上前の地殻が露出していて、遠い昔に闊歩していた身長3メートルの巨大カンガルーや巨大ウォンバット、あるいはティラシンと言われる肉食虎の化石などが出てくるらしい。マンゴという名前は、マンゴ人という4万年前、一説には6万年前に生きていた人たちの名前からとられている。1969年に発見された化石からその存在が分かったと言うが、この人たちは人類で初めて火葬をした人たちとして知られているそうだ。どうして火葬したのかは良くわかっていないが、死者が生者を脅かすことがないように、という仮説がある。(日本のように人口密度が高い場所で死者を火葬して埋葬するのは利にかなっているが、こんな広くて人口密度が低い場所で火葬するには、よっぽどはっきりした理由がひつようだろうな。)
 
dune.jpg
移動する砂丘の上を移動する息子

emu.jpg
エミュはそこらじゅうにいる。いつもつがいで。

世界遺産のトレイ

  今回の旅行の驚きのもうひとつは、展示物のトイレだった。
 さて、ガタボコ道をさらにぼこぼこ走り、今度は1940年代までこの土地で牧場経営をしていたザンキという家族の牧場跡を見に行く。ここも史蹟として保存してある。古い住居跡のレンガの煙突、地下室、羊の毛刈り小屋などがオリジナルな状態で保存してある。まあ、オーストラリアにいると、こういうものは珍しくないから、「ふむ、ふむ」とさっさと見て歩く。
 これらの展示物の間に古いトタン張りのトイレがあった。まあ、4万年前のマンゴ人に比べれば、60年前の牧場跡といのは、それほど古くないが、このトイレも、見ると背後には配水管がついていたりして、どこか新しい気もする。このトイレはオリジナルか、新しく作ったものか、ちょっと定かでない。そんなことを考えていたら、そのトイレの扉を何気なく開けた鈴吾郎が叫んだ。
 「うへえ、くっせー!」
 「どうした、何が臭い?」と僕は尋ねた。
 「誰かここでウンコをしたんだよ。見てよ、パパ」と、ゲラゲラ笑いながら僕をトイレに引きずりこもうとする。
 怖いもの見たさでのぞくと、本当に黒いウンコがびっしりとトイレに詰まっている。え? 1940年のウンコがいまだに臭いはずがあるか? と、僕は目が点になった。いや、このウンコは、最近のものに違いない。誰かが脱糞したものの、砂漠のトイレだから、水を流すにも流す水がないことに後で気がついたに違いない。何というアホなことだ。
 そして、本当に臭い。本物である。やはりこのウンコは展示物ではない。それにしても、世界遺産の展示物のトイレにウンコをするとは、大した度胸だ。それに、公園のレインジャーは、どうしてこのウンコを掃除しないのだろうか?
辺りを見回すとここらにトイレはない。だが、隠れてウンコをするに適した薮や木はいくらでもある。普通なら、そうした物陰で脱糞するものだ。 
 だが、これは大犯罪だ。しかし、犯人はとうに逃げてしまった。だから、どうしてこんなところにウンコがあったのか、誰がしたのかは分からずじまい。
 とにかく、世界遺産なんだから、はやく片付けて欲しい。

toire.jpg
世界遺産の臭いトイレ

オーストラリアで一番低い山、ウイチェプルーフ山(標高43メートル)登頂

さて、今回の旅行の三つ目の驚きは、僕と鈴吾郎が、オーストラリアで一番低い山に、知らない間に登っていたという事実である。(そう低い山。高い山じゃありません。)

 僕は、もともと山登りが好きである。そういう事実を知らない人もこの文章を読んでいる中にはいるだろうからあえて書いておくが、僕は大学時代にワンダーフォーゲル部に属し、副主将までつとめた筋金入りの山男だ(だった)。南アルプス、磐梯山、八ヶ岳、秩父、奥多摩、丹沢などは、自分の家の裏庭のように知っている(知っていた)今まで登った山で一番の最高峰は、アメリカはワシントン州にあるレイニアー山4300メートルだ。富士山よりも600メートルは高い。(自慢すんな!)
 さて、そんな僕だから山登りにはうるさい。オーストラリアで一番高い山はコジオスコ山で、2228メートル。どうということはない。頂上までリフトもついている。7大陸最高峰を全て登った登山家のディック・ベイスも、ちょっと拍子抜けしただろう。僕も、近くまでいったことはあるが、登ったことはない。わざわざ登る程でもない。
 だから、逆に、オーストラリアで一番低い山に知らないうちに登ってしまっていたというのは、ややびっくりだった。

smalles mountain.jpg
オーストラリアで一番低い山、ウィチェプルーフ山

 事の次第はこうだ。
 四日間のミルデューラ滞在も終わり、五日目にメルボルンに鈴吾郎と僕は戻ることになった。同じ道を、来た時と同じように時速110キロで走った。来たときにも退屈な景色だから、帰る時はもっと退屈だ。鈴吾郎とは話す種も残ってない。しかし、鈴吾郎は、上にリストしたような話題をもう一度おさらいするように繰り返す。
 で、途中1時頃、お昼を食べることになった。お昼は、またもや僕が作ったサンドイッチで、あまりエキサイティングとは言えない。それでも、Wycherproofという、何と発音したら良いのか分からない小さな町が近づいてきたし、天気も良いし、「どこか木陰でも見つけてちょっと一休み」と思ったら、「ウィチャプルーフ山の頂上展望台まで1キロ」という標識が目に入った。展望台とは、お昼を食べるにもってこいだ。
 ウィチャプルーフ山は小高い丘で、てっぺんにテレビや電話のアンテナと、町に水を送る貯水タンクが「でん!」とのっかっていた。鉄道の枕木を地面にとめる釘を溶接して作った、球状の彫刻もあった。なかなかアートしてるな、この町は! 景色は絶景とまではいかないが、まあまあかな。

earth ball.jpg
オーストラリアで一番低い山の頂上にある彫刻

 頂上には、町のライオンズクラブが立てた看板があって、「オーストラリアの地図に登録された一番低い山、ウィチェプルーフ山標高43メートル」とあり。(これ以上低いと、山でなくて丘ってことなのかな?「山」の定義って何?
詳しくは、http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Wycheproof )

 僕と鈴吾郎、とにかくこの低い山の頂上でサンドイッチを食べた。鈴吾郎は、サンドイッチ片手に、近くのひょろひょろしたユーカリの木の根元で立ちションをする。(汚ねえなあ、お前。サンドイッチ持ったまま小便すんな! でも、まあ誰も見てないからいいか。)そして、見るとはなしに、この木の根元を見ると、おお、何か銅板が埋めてある! で、読むとはなしに読むと、「ウィチェプルーフ・ライオンズクラブ交換留学生、セキ・ノブユキ氏が植樹。1972年」と書いてあった。何と、これは由緒ある木なのではないか! そこに立ちションするとは何事かだ! 

seki.jpg
セキさんの銅板

 「りんごろう、セキノブユキさんに謝りなさい」とまで言わなかったけどね。でも、はっきり言ってこのユーカリの木、植樹されてから40年もたつのに、これしか丈がないとは、あまり栄養がよくないんじゃないの?というのが僕の感想だ。
 僕としては、セキ・ノブユキさんに「あなたの植えた木は今でも枯れずに、オーストラリアで一番低い山のてっぺんに立ってますよ」と、お伝えしたい気持でいっぱいだ。誰か、1972年ごろ、ライオンズクラブの奨学金でメルボルンに留学していたセキ・ノブユキさんを知ってたら教えて!
 
 そう言う訳で、驚きに満ちたミルデューラ旅行だった。オーストラリアの田舎は、なかなか良いところだよ!
posted by てったくん at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年08月01日

血圧計のないオーストラリア

2013年8月1日

血圧計を買った。機種はオムロン、オーストラリアドルで29ドルだった。イギリスの会社から買ったので郵送に3週間かかった。日本製だと思ったら「ベトナム製」だった。

オムロン1.jpg
うちの血圧計はシンプル

 なぜ血圧計なんか買ったかと言うと、かかりつけのGP(町医者をオーストラリアやイギリスでは、General Practitionerと言う。普通の病気や怪我は何でも見てくれ、専門医が必要なら紹介状を書いてくれる)に、最近「血圧が高くなってきたねえ」と言われたせいだ。

僕の健康

 僕のGP、イギリス人マイケル医師には、10年程前からかかっている。いろんなことで受診しているから、彼は僕の最近10年間の健康データを持っているのだ。
 僕は、しかし、健康には自信がある。身長170センチ、体重は56−59キロを維持している。コレステロールや血糖値、ガンマGTPなんかも大丈夫だ。運動は、カヤック、カヌーを始め、自転車、ヨガ、薪割り、庭仕事など、毎日やっている。外食はほとんどしないし(この辺には食べる場所もないし)、揚げ物なんかも作らない。肉は好きだが、たくさんは食べない。風邪もほとんどひかないし、早寝早起き。

坂.jpg
最近は、毎朝女房と心臓破りの坂を上り下りしている。汗だくになる。

 しかし、それでも絶対的な運動量が足りなかったのだろう。酒も、深酒はやらないが、晩酌はほぼ毎日やっていた。血圧が高めなのは、遺伝もあるかもしれない。とにかく、もう50才を越えた訳だし、健康には留意せよという警告に受け取った。そんなで、血圧をモニターするために、オムロンを買った。当然の投資だ(たった29ドルで何を言う!)

子どもの血圧

オムロンがうちにくると、子どもたちも大喜びで競って血圧を測りたがった。10才の鈴吾郎(小学4年)も、18才の鼓子(バレリーナ/大学生)も、上が100くらい、下は70台。驚異的な血圧だ。若いってのはいいねえ。ベジタリアンで、酒も飲まなく、もともと血圧が低い女房も、上が90から100の間である。うらやましい。僕は常に130台で、医者に行くと「白衣高血圧症」なのか、すぐ140台になってしまい、マイケル医師を「あれれ?」と慌てさせる。女房曰く、「血圧が130以上あるっていうのは、どんな気分?」 そんなこと言われても分からないよ!
 そう言えば、うちのネコのタマも7才、もう中年なのだ。食べ過ぎでまるまる太っている。タマの血圧も測ってみたいが、どうやって計るんだろうか?しっぽに巻いてみようか?

たまちゃん.jpg
水を飲むタマちゃん


血圧計の見当たらないオーストラリア

 血圧計を買ったもうひとつの理由は、オーストラリア社会では血圧計がそこらに見当たらないからだ。医者にはもちろんあるが、他の場所には置いてない。血圧計るたびに医者に行っていたのでは金がかかりすぎる。
 日本だとあらゆる公共の場所にあるだろう。病院の待合室、薬局、市役所、温泉やプール、飛行場。そう言えば、近所の床屋にもあったなあ。血圧計を見る限り、日本社会は老人に優しく、高齢者を気遣っている気配に満ちあふれている。
 一方、オーストラリアにはそんな気配りはない。移民の国であり、毎年のように何万人も若い移民や難民をインドや中国や東南アジアやアフリカから「仕入れ」て、それで人口と平均年齢を調整してしまうのだ。先週も、120人もイラン難民を乗せたボートピープルが、オーストラリアの領海にやってきたが、そんなのが毎週のように押し寄せてきている。その移民難民から、オーストラリアにとって都合の良い人たちだけを受け入れ、そうでない人は追い返している(まあ、人道的に受け入れている、とは言っているけど、疑わしい。)
 そんなで、老人問題はオーストラリアでは、日本ほど深刻ではない。特に、血圧計の設置を見る限り、その対応は遅れていると言わざるを得ない。僕は、大金を払ってプライベート健康保険にも入っているが(歯医者、マッサージ、眼鏡代、プライベートな病院の入院費などがカバーされる)、驚いたことに、血圧計のお金は出してくれなかった。そんなに血圧を知りたければ自分で買え、という、そんな社会なのだ。
 
オーストラリアで年をとる

 血圧計を買ったと言うことは、客観的にみても、僕はもう若くないと言えよう(当たり前だ、若者が血圧計を買うかい!)。でも、まだ年寄りという程ではないし、末永く元気に生きたい。そこで、血圧もモニターしてみようという考えなのだ。
 死ぬ時はポクッと死にたいと思う人は多いだろう。僕もそうだ。それは逆を返せば、老いても健康でいたい、ということだろう。オーストラリアでは、肥満や食品アレルギーの人がすごく多い。これらは、糖尿や心臓病、ガンなどの重大疾患にもつながるだろう。こういう人は、食事制限にがっちり縛られて生きている。遺伝の人は気の毒だが、多くは生活習慣が原因だ。僕が嫌なのは、これを食べちゃいけない、あれは飲んじゃいけないと制限されることだ。幸い、そういう制限は今のところないから、食べたければ、何だって食べていい。

鈴吾郎.jpg
躊躇なく、ステーキサンドイッチをばくばく食べる鈴吾郎10才

 運動だって、どこも悪いところはないから、激しい運動は控えなさいとかも言われていない。一ヶ月程前には、カヤックでエスキモーロールの猛練習をしたら腰を痛めた。軽いぎっくり腰かもしれないが、オーストラリアには「ぎっくり腰」という言葉がないから分からない。でも、整体の先生は「大丈夫、ちゃんと直せばまたいくらでもできるようになりますよ!」と太鼓判を押してくれた。だから、懲りたわけではない。機運を睨みつつ、着々と準備をしているのだ。 
 
それだからこそ、健康維持のために、朝夕鋭意オムロンの電源を入れて、血圧を測っているのだ。
メルボルンの春はもうそこまでやってきた。今は椿が満開で、梅もちらほらこぼれだした。これからが良い季節だ。
 ここで一句。
 
  血圧計 吸って吐くのは 春の風

かわはぎ.jpg
健康に良いか悪いか分からないが、釣りも好きです(これはカワハギ。オーストラリアにもいます)。
posted by てったくん at 14:26| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2013年07月06日

冬のある日、イベントフルな一日

2013年7月4日

メルボルンのシティで、息子と「カツ丼」と「ラーメン」のお昼を食べる

シティ.jpg

メルボルンの6月末はもう冬だ。ある平日、息子鈴吾郎の学校も冬休みになったので、二人してダンデノン山を降り、メルボルンのシティに出向いた。目的地は日本領事館である。
 領事館には、パスポートの更新以外には滅多なことでは行かない。しかし、今日は無料の日本映画上映会があるという。黒澤明『七人の侍』と、アニメ『ナルト疾風伝』の二本立てなのだ。『七人の侍』は、僕が見たい映画、『ナルト疾風伝』は、鈴吾郎が見たい映画だ。10才の彼は、今は日本のアニメやマンガに目がない。二人の利害が一致したので、「じゃあ、行ってみよう」ということになった。
 シティに行くには電車が良い。メルボルンの電車は東京の電車のように頻繁に来ないし、特急や急行もあまりなくて、のろのろしているが、まあ、たまに乗るには風情があって良い。最近は、マイキーという自動改札になったが、これが難物で、カードを改札のセンサーにべたっと貼付けて、2秒ばかり待たないとちゃんと認知されない。僕は、初めてマイキーを使った時、日本の自動改札のつもりでカードを「軽くかざした」だけで乗車したが、それではだめで、その後、運悪く車内検札にひっかかって無賃乗車と間違われた。そのままでは、300ドル近い罰金をとられる。しかし、それは全くの濡れ衣だったし、その時は、鈴吾郎が証人としていたので、電車会社に手紙を長々と書いて釈明した。そしたら、罰金はとられないで済んだ。しかし、手紙を書くのに2時間もかかってしまい、全く時間の無駄だった。
 メルボルンの電車は、以前メルボルン大学に勤めていたとき、片道1時間、5年間通勤に使った。オーストラリアの通勤電車は田舎くさい。車内で飯を食う奴、大股を広げて新聞を読むオヤジ、化粧をする女性、ケータイで商売の話をしているビジネスマンなどがいる。さらに、隣に座った人がすぐ話しかけてくるのもけったいだ。
 まあ、そんな電車でもたまには良い。そもそも車を運転しないですむのはほっとする。オーストラリアで暮らしていると、移動はいつも車だから、まったくうんざりする。
 で、どれくらいメルボルンの電車が遅いかと言うと、うちのあるベルグレーブの山駅からシティのサザンクロス駅まで40キロ、これに1時間かかる。これが中央特速や京王線特急だったら25分だろう。
 さて、僕と鈴吾郎、一時間も乗ってあきあきしたころサザンクロスに着いた。ここは大きくて立派な駅で、見事な建築である。長距離列車や空港へ行くリムジンバスも出ている。大きなアーチ型の天井は、スポーツ競技場のように高い。
 僕と鈴吾郎、サザンクロスで、駅構内のスーパーマーケットのウルワースに入り、映画を見ながら食べるおやつを買う。『七人の侍』は三時間以上、『ナルト』が1時間半、合計5時間も映画を見る予定だから、僕はともかく、10才の息子には、おやつが必要だ。シティのウルーワースはビジネス客が相手だから、お弁当や軽食の品揃えがいい。うちの近所のウルワースなどは、場末中の場末なので、必要最小限のものしか売ってない。シティのウルワースには、お弁当売り場、デリカテッセンなんかがあるので、「まるで外国へ来たみたいだねえ!」と鈴吾郎が喜ぶ。僕も日本のデパ地下をちょっと思い出す。(まあ、それほどではないが。) 
 ここで、鈴吾郎は、茹で枝豆、キュウリび細巻きを買う。このふたつは、鈴吾郎の大好物だ。僕がメルボルンのスーパーで枝豆とキュウリの細巻きを買ったのは17年間こちらに住んでいてこれが始めてだった。思わずカレンダーに赤丸を付けたくなった。

かいてんずし.jpg
これはオーストラリアの回転寿司のおいなり(美味しくない!)

 さて、枝豆とキュウリ巻に気を良くしてウルワースを出ると、ちょうどお昼時。「ようし、せっかくシティに来たんだ、なんか旨いものを食おう!」と、僕は力強く言った。鈴吾郎も、「よし、何を食べようか?」と弾んだ声で答える。
 賑やかなバークストリートを歩いていくと『鳥xx』という日本語の看板が見えた。「ここで食べようか?」と僕は胸を張って言う。ウインドーのメニューをのぞく。焼き鳥丼、幕の内弁当など、旨そうなものがあるが、値段を見ると、どれも20ドルかそれ以上、昼飯で食べるにはやや高い。膨らんでいた気持がしゅんとしぼむ。しかし、ここはオフィス街だから仕方がない。少し歩くと、中華屋がある。ここらならきっと手頃だろう。
 中華屋をのぞくと、中華に混じって「katsudon=カツ丼」、「ramen=ラーメン」などの文字が見えた。「あるじゃないか、ラーメンにカツ丼!」と、僕は嬉しい声をあげた。鈴吾郎も「じゃあ、ここだね、パパ!」と、期待に鼻の穴を膨らます。
 カウンターで「ラーメンとカツ丼ね」と注文する。やっているのは、広東語を話す中国人家族。店を眺めると、昼時だと言うのに空いている。少し嫌な予感。 
 実は僕は、メルボルンの中華屋における「日本食」には何度か痛い目にあっているのだ。特に、中華屋のカツ丼にはかなり裏切られている。一度うちの近所の中華屋で食べたカツ丼は、一見確かにカツ丼だった。その証拠に、白いご飯の上にカツらしきものがのっていて、それは卵に覆われていた。それで安心していたら、その卵は、日本のカツ丼のような卵とじではなく、オムレツのようなものであった。そして、カツには、びちゃびちゃトンカツソースがかかっていた。「カツ丼にトンカツソースかけるバカがいるか!」と怒鳴りたくなった。そして、カツの下にひいてあったタマネギは、ただの炒めタマネギだった。そして、ご飯は、もちろん中華風ぼそぼそご飯であった。全くのギャフンである。
 しかし、それにも懲りず、僕はそれ以外にも2、3回メルボルンの中華「カツ丼」を食べたことがある。みんな大同小異だった。
 だから、もはや、メルボルンの中華屋が作る「カツ丼」など食べなければいいのに、つい僕は注文してしまう。(だって、カツ丼が好きなんだからしょうがない。)
 さて、待つこと3分、鈴吾郎のラーメンがきた。それを見て、「うん?」と僕は思わず言ってしまった。ラーメンの表面は、タマネギとピーマンの細切りと鶏肉が覆っている。スープはどんより濁っている。僕たちの理解しているラーメンは、ネギ、チャーシュー、ナルト(そう、これからアニメ『ナルト』を見るのだ)、海苔などがのっているはずだ。そしてスープは、澄んでいるはずだ。それが伝統的日本ラーメンである。鈴吾郎は、オーストラリア生まれ、オーストラリア育ち、国籍もオーストラリアのものを持っているが、味覚は立派な日本人である。ラーメンにもうるさい。
 そんな鈴吾郎だから、思わず「パパ、これラーメンじゃないよ!」と叫んでしまったのは致し方ない。
 「まあ、食べなよ、きっと旨いよ」と、僕はあきらめ顔で言う。鈴吾郎は、レンゲでスープを一口飲み、「う、甘い…」と漏らす。そして、浮かない顔でラーメンをすすった。僕も一口食べたが、確かに汁は甘めだ。しかし、麺はラーメンにかなり近いものであった。そこで、「ま、我慢して食べなさい。」と、僕は尊大に言ったのだった。
 だが、これでいよいよ僕の「カツ丼」には期待ができなくなった。ラーメンがこれでは、カツ丼はどんなか?
 さて、待つこともう2分、何が入っているか分からないが、広東人兄ちゃんが運ぶドンブリが、カウンターを発ってこちらへむかってきた。兄ちゃんは、なまった英語で「enjoy!」などと陽気に言って丼をテーブルに置いた。
 見れば、トレイの上には小さな小皿も載っている。そこで、期待をこめてドンブリを覗き込むと、「うう、?????」であった。
 一瞬、自分の目が信じられなかった。2、3度、瞬きをしてから、もう一度見る。幻ではない。白いご飯の上に、カツ様のものが5枚。しかも、紙のように薄い。そして、その下には、マッチ箱ほどの大きさのレタスが一枚。それだけである。タレも何もかかっていない。卵もない。タマネギもない。何もない。カツと小さなレタスのみ。こんなカツ丼、みたことない。名古屋のソースカツ丼だって、もっとちゃんとしている。
 我が目を信じられず、小皿の方を見る。がーん!何と、そこには、トンカツソースとマヨネーズが入っている。たったそれだけ。
 「トンカツにマヨネーズ、これをどうやって、食えっていうんじゃい!」と、僕はうなってしまった。「これは断じてカツ丼ではない!」と、僕は思わずカウンターの方を恨めしげに見たが、広東人たちは笑顔で受け流す。その隙に、鈴吾郎は「あ、そのカツ、おいしそう!」とか言って、あっと言う間に2枚をぱくぱく食べてしまった。ああ、残ったカツはたった3枚!これでどうやって、どんぶり一杯の飯を食えと言うのじゃ?
 しぶしぶ、カツにソースとマヨネーズを付け、大事、大事に食べる。それでも頼みのカツ三枚はすぐになくなり、最後に小さなレタスにマヨネーズを付けて食べる。まだご飯がたくさんあるので、鈴吾郎のラーメンの甘い汁を飯にかけて食うが、半分くらいで文字通り、匙を投げた。
 せっかくシティに出て来たのに、情けない昼飯だった。
 
 日本領事館の映画上映会
 
メルボルンでは、もう二度と中華屋カツ丼は食うまいと決心して店を出る。(でも、きっとまた食べるだろうな。)
 日本領事館はすぐそこだ。きっかり2時から上映会が始まった。やはりここは日本である。鈴吾郎10才には『七人の侍』は難しいかな、と思った。しかし、スターウォーズを作ったスピルバーグが、そのインスピレーションを得たのがこの映画だと、彼には、きっぱり言ってある。鈴吾郎はスターウォーズを何よりも愛するから、スピルバーグは言うならば鈴吾郎の神さまだ。そして、黒澤明はそのさらにその上だから、神さまの神さまということになる。
 鈴吾郎は、案の定、食い入るように画面を見ている。志村喬、三船敏郎、加東大介、木村功、千秋実などが登場し、渋い演技を見せる。三船敏郎の「山猿」の演技には鈴吾郎も声をたてて笑う。黒澤流の物語の盛り上げ方もいい。次に、どんな場面がくるか見ていてよく分かるし、だから、クライマックスに向かってテンションががんがん高くなる。ハラハラのしっぱなし。鈴吾郎も、さっき買って来た枝豆やら、キュウリ細巻きなどを食べながら楽しんでいる。よしよし。
 そんなで『七人の侍』の三時間半は、あっという間に過ぎた。さあ、次はアニメ『ナルト疾風伝』。これはどうかなあ、と思う。昼に食べたカツ丼が脳裏を横切る。僕は、そもそもアニメが好きではない。まあ、今日は息子のお供だから仕方がない、という気持で90分つき合った。
 結論から言えば、『ナルト』はまったく面白くないというほどではなかった。(回りくどい言い方だな。)日本神話がストーリーの下敷きにあり、そこに忍者が加わる。その忍者は、現代の探偵会社みたいなところで働いている。何だか、昔のテレビドラマ『傷だらけの天使』みたいな設定だ。その上、チャクラとか、ヨガとか、そういうインドっぽいものが出てくる。登場キャラクターの姿は、シンプルにマンガ/ギャグ風に描かれているが、一方、情景は極めて写実的にリアルに描くという宮崎駿的なアニメ文法で、もう日本のアニメ作品の定番そのものといった感じだった。でも、ストーリーは全然だめ。黒澤を観たすぐ後に比較するのも何だけど、次の場面がどうなるかまったく予測もつかず、わくわくする間もなく場面が展開してしまう。そして、次々に魔法的な技を使って相手を倒すので、必然性も理由もへったくれもない。最後のクライマックスも原爆の炸裂のような爆発が連続するだけで、何が起きているかも分からないうちに悪者が退治されて話が終わる。いったい何じゃこれ?
 やっと『ナルト』が終わり、領事館を出ると外はもう夜。「パパ、どっちの映画が面白かった?」と鈴吾郎。「七人の侍かな。パパは古い映画が好きだから」と僕。「うん、僕も七人の侍が好きだったよ。あのチャンバラが強いおじちゃん、かっこいいね。きっと忍者だね、あの人!」と鈴吾郎。そして、「でも、ナルトも面白かったよね」と付け加える。「そうだね、思ったよりも良かった」と僕。
 「さて、夕食を食べて帰るか?」と言うが、ずっと座っていたので腹も減ってない。さっきの「カツ丼」がまだ胃の中にある。
 そこで、またサザンクロス駅に歩いていき、帰りの電車に乗る。

さむらい.jpg
りんごろう侍

メルボルンの酔っぱらい「紹興酒男」

やってきた電車は、途中駅リングウッド止まりの各駅停車だった。が、寒いホームで待っているよりは乗ってしまおうということになった。でも、考えてみれば、リングウッド駅でまた次の電車を待つのだから、結局同じことだ。しかし、そこはせっかちな我々父子だから、仕方がない。
 車中、親子仲良く、丸バツのゲームや、あみだくじなどを紙に書いて遊ぶ。それにも飽きると、鈴吾郎はリュックからマンガ『コナン』(英語版)を取り出して読みふける。周りは通勤客だが、メルボルンの夜の電車はそんなに混まないのでリラックスできる。
 見ると、向かいに座っている男は、ビニール袋にしのばせている酒をちびちび飲んでいる。人種、国籍はよく分からない。白人と東洋人の混血のような、南アメリカのような、そんな風体だ。人種は分からないが、着ている服、履いている靴は、まったくのボロだ。大きな、汚いスーツケースも抱えている。ホームレスかもしれない。まあ、そういう人だって電車に乗ることもあろう。
 それはいいが、車内の飲酒はメルボルンでは禁止だ。罰金500ドルくらい取られる。ところがこの男、そんなこと気にしてない風で、ちびちび飲んで楽しんでいる。飲んでいるのは、珍しいことに中国の紹興酒だ。普通こういう手合いは安ビールか安赤ワインだが、案外こいつは違いの分かる奴かもしれない。 見れば、紹興酒の瓶を隠し持っているビニール袋には「亜州食品公社」と漢字で書いてある。ははん、こいつは、チャイナタウンの安いスーパーで買い物をしてきたんだなと分かる。
 この紹興酒男、かなりの酩酊だ。目がとろんとして、体もグニャグニャ。こんな酔っぱらいはメルボルンの公共の場では珍しい。まあ、この人は楽しそうだからいいけど。こいつ、ラッパ飲みでちびちび飲みながら、落ちている古新聞を拾って読もうとするが、電車がゆれて、よたよたする。どうにか拾って読み出すが、今度は視線が定らない。今度は、汚いスーツケースのジッパーを開けにかかる。また体が揺れてなかなか開けられない。それでも、紹興酒の瓶を下に置いたり、思い直して倒さないようにまた持ったりしながら、ようやっとスーツケースを開ける。すると、中には、ボロいノートパソコンやら、着替えが入っているのが見える。そして、「亜州食品公社」のビニール袋がもういくつか入っている。その中には、鶏肉のパックやら、ブロッコリ、キャベツ、インスタントコーヒーや醤油の瓶なども入っている。スーツケースにはプラスチックの皿なんかも入っている。つまり、このスーツケースには、こいつの所持品一切合財が入っているわけだ。僕は、吹き出しそうになるが、スーツケースを引きずって買い物するこの男の哀れな姿が目に浮かび、やや可哀想になる。やはりこいつはホームレスか、あるいはアパートを追い出されて、宿を求めてさまよっている風来坊なのだろう。だとしたら、紹興酒なんか電車の中で飲んでいる場合か!
 さて、紹興酒男は、ボトル片手にスーツケースの中のものをひと通り検分して安心したのか、ジッパーを閉めにかかる。ところが、プラスチック皿が出っ張っていてなかなか閉まらない。皿を押しこんでからジッパーを閉めりゃ良いのに、タコ状態だからそんな簡単な作業もできない。僕は、思わず、手伝ってやろうかと体を乗り出しかけたが、スリと間違われたら困るから、黙って見ていることにした。そのうちどうにか、タコ男、ジッパーを閉めるのに成功した。やれやれだ。
 電車は、そうしているうちにヌナワディング駅に停まった。降りる客はドアの前に群がり、ドアが開いてみんな降りていく。ドアが閉まる瞬間、紹興酒男もここで降りるはずであったことに、はたと気がつく。そこで、紹興酒とスーツケースをひっつかみ、よろよろしながら、ぎりぎりでドアをすり抜けた。後には「亜州食品公社」のビニール袋が一枚と、紹興酒の残り香。果たして無事に帰ったのだろうか?
 
乗換のリングウッド駅で、乱闘騒ぎ

やがてリングウッド駅に着く。この電車は、ここで車庫入りだ。そこで、寒風吹きさらしのホームに鈴吾郎と降り、ベルグレーブ行きを待つことに。「寒い!」と鈴吾郎。場内アナウンスがあり、ベルグレーブ行きは反対側のホームから出発と言う。そこで、陸橋を渡って反対側のホームへ。
 ここリングウッドは、電車が二手に分かれる大きな駅だが、物騒な駅で人相の悪い輩がいつも徘徊している。そんな駅なのに、場内にはいつもバッハやモーツァルトのクラシック音楽が流れる。それは、そういう輩たちがクラシック音楽を嫌うからだと言う。本当に効果があるのだろうか?
 とにかく、いつかもここで電車を待っていたら、線路上でふたりの男が喧嘩を始めた。電車が来ても喧嘩を止めないから、電車の方が、喧嘩が終わるのを待っていた。さすがメルボルン!
 他のあるときは、夜遅くここで乗り換えたら、リングウッドで乗ってきた若い男が刺激臭の激しい薬品を吸い始めた。僕は頭が痛くなったので、席を移った。あれは何の薬品だったんだろう? シンナーみたいな匂いだった。
 今夜は、10才の息子もいることだし、『七人の侍』と『ナルト疾風伝』もみたし、暴力はもうたくさん。早く家に帰って、夕食を食べて寝たい、という気分である。
 と思っていたら、向いのホームの待合室で不穏な動きが見えた。若い入れ墨男が、電気ドリルを手に持って壁をたたいている。「このアマ、ぶっ殺してやる」と叫んでいる。これいは、まずい。
 すると、近くで女の「キャー」という悲鳴がし、若い女が女子トイレに駆けこんだ。その後から、電気ドリル男も女子トイレに駆けこんだ。これは大いにまずい状況だ。
 「パパ、どうしたの、あの人たち?」と息子。息子には流血騒ぎは見せたくない。
 「いいから、他の方をみてなさい」と僕は言うが、もちろん鈴吾郎はその光景に釘付けだ。
 女子トイレから怒声が聞こえる。それを聞きつけて2、3人の若い男女が女子トイレに駆けこんだ。友達らしい。すると、すぐに電気ドリル男、若い女、後から駆けこんだ他の男女たちが一群になってトイレから出てくる。そして、外で輪になって口論を始めた。
 駅職員がやっと出てきて、その口論に加わった。押したり、引いたり、押しくらまんじゅうが始まる。こちら側のホームの乗客からもヤジが飛ぶ。「お前ら、いい加減にして帰れ!」
 別の駅員がケータイを出して警察を呼んだ。3、4分して警官が二人きた。(駅の前は警察署)。
 すると、電気ドリル男は口論の輪をすっと抜け出し、陸橋を渡ってこっちへ近づいてくる。う、まずい。こっちへくるんじゃない!
 ところが、警官や他のみんなも気づき、電気ドリル男を追いかける。電気ドリル男、陸橋の柵を乗り越えて逃げようとする。線路に飛び降りるのか?息子に死人は見せたくない。どうしよう! 鈴吾郎は夢中で騒ぎを見守っている。
 すると、警官二人、すばやく陸橋を駆け上り、あっというまに電気ドリル男を捕まえて、柵の向こう側からこっち側に引きずりあげた。通勤客からどっと歓声が上がる。
 この警官二人、とりまきの女の子のマフラーを借り、電気ドリル男を縛り上げた。さすが警察官。電気ドリル男は、何か怒鳴って騒いでいるが、もごもごよく聞こえない。
 そうしているうちに、僕たちの電車がむこうから来た。やれやれ、どうなるのか最後まで見ていられなくて残念。それでも電車に乗ると、ほっとした。すると鈴吾郎から質問。
 「パパ、あの電気ドリルの人、どうなるの?」
 「さあ、トラ箱に入れられて、おまわりさんにすごく怒られるんだろうなあ。」
 「トラ箱って何?」
 「悪い人を一晩入れておく牢屋のこと。一晩入れておくと、どんなに暴れた人でも大概は大人しくなるからね。それで警察官が次の日にお説教をするんだ。すごく叱られるんだぞ。罰金だってたくさんとられるぞ。」
 「パパもトラ箱、入ったことある?」
 「まさか、パパはないよ。鈴吾郎も、絶対にそんなところに入っちゃダメだぞ!」
 「大丈夫、僕そんなことしないよ。」
そして、父子二人は、アハハと笑った。
 「パパ、ちょっと怖かったけど面白かったね。」
 「そうだな。今日はいろいろなことがあったね。」
 「またシティに行こうね、電車で!」
 「ああ、そうしよう。」

 僕たちは、無事に終点のわが町ベルグレーブまで電車で帰り、さすがにお腹も空いたのでピザ屋でピザを買って帰って食べて、お風呂に入って寝た。
(女房と娘は、出かけていなかった。)
 かくして、僕たち父子のイベントフルな一日は終わった。やはり、シティに行くには、電車に限る。
posted by てったくん at 20:28| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2013年04月22日

秋の日曜日、スタマティスに再び会う

2013年4月21日

蔓草.jpg
忍び寄る秋

日曜日の朝、「スタマティスがベルグレーブに来てるって言うから、一緒にコーヒーを飲もうじゃないの」と、大工で、カヌー仲間のギャリーから電話がきた。僕は、翻訳中のグリム童話を中断し、ベルグレーブのカフェに向かった。

山の景色.jpg
山の風景

 爽やかな秋晴れだ。メルボルンの景勝地であるベルグレーブの町は、こんな日は観光客でいっぱいだ。この古いカフェもガイドブックに載っているのだろうか、中国人の観光客グループがどかどか入ってくる。
 ギャリーが来て、やがてスタマティスも来た。スタマティスは、相変わらずニンニクの体臭がする。そのことで茶化してやろうと思ったが、半年振りに会う友達には失礼かなと思って、とどまった。
 スタマティは、僕の『ヤギのアシヌーラ どこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)という絵本の主人公「ものぐさじいさん」のモデルだ。ギリシャ人で元船乗り、5年程前までベルグレーブの住民だったが、当地で二回離婚を経験し、そんなでオーストラリアに嫌気がさし、ギリシャに戻ってヨットのチャータービジネスをして失敗した。そして、今はタイのチェンマイで、30才も年下のタイ人の奥さんと暮らしている。現在は農業をしていると言うが、風来坊で風まかせの人生を送っている自由人だ。

もみじ.jpg


 「僕のことを覚えていてくれてありがとう」と、僕は感謝とも、皮肉ともつかない挨拶をして、ニンニク臭いスタマティスと握手した。スタマティスはニヤニヤしながら「テツタのことは毎晩寝る前に、いつも思い出しているよ。スイートメモリーだ」と言った。僕はニンニク臭いスタマティスに添い寝されている自分を想像し、「ウゲェ!」と思わず声に出してしまった。
 「今回は、何の用事だい?」とギャリーが尋ねる。
 「息子のルカの18才の誕生日でね」とスタマティス。
ルカは、別れたオーストラリア人の一人目の妻との間の息子だ。
 「そうか、18才の誕生パーティを盛大にやるってわけか?」と 僕が聞くと、「ところが、ルカは、何もしたくないってんだ。人の注目を浴びるのが嫌な性格なんだな。Happy birthdayと言われるのも嫌なんだよ」と スタマティス。
 「じゃあ、何のために来たのかわからんな。でも、安上がりで良いじゃないか」と、ギャリー。
 「全く、息子の考えていることは分からんよ」と、スタマティス。
 「で、タイのチェンマイ暮らしは、どうだい?」と、僕。
 「ああ、ライチー栽培は軌道に乗った。だが、今年はライチーに実が付かなかった」と、スタマティス。
 スタマティスは、昨年チェンマイでライチー農園を義父と始めたのだ。(そのことは以前にブログに書いたのでそちらを参照:
http://makiwarinikki.sblo.jp/article/58139429.html

 「何だ、実が付かないんじゃ、儲からないじゃないか」とギャリー。スタマティスは、ライチーの実を中国に輸出し、大儲けをしようという魂胆だ。
 「そうだ。それが問題だ」スタマティスは、コップの水をぐっと飲んだ。その時、ウエイトレスが来て、スタマティスから注文をとろうとした。早口で、その上なまりのある英語だったので、スタマティスは何を言われたのか分からなかったらしい。2、3回聞き直してから、「ああ、そうか注文ね。カップチーノをお願い。それからちょっと聞くがな、彼女。ずいぶんなまった英語を話すが、どうやらオーストラリア人じゃないだろう? いったいどこの出身?」とぞんざいに尋ねた。
 僕とギャリーは、その乱暴な聞き方にぎくっとしたが、黙っていた。
 「イスラエルよ」と、ウェイトレスは叩き付けるようにいった。言葉は荒いが、ちょっといい女だ。
 「そうか、道理で聞き覚えのある訛だと思った」と、意味ありげな笑いを浮かべたスタマティスが言う。そして、「Welcome to Australia!」と、大げさに両腕を開いて言った。
 ウエイトレスが顔をしかめたので、紳士のギャリーが、「こいつは大バカだからどうか気にしないでくれ(Don’t’ worry about this idiot.)」と ウエイトレスに謝った。ウエイトレスは、さっさと向こうにいってしまった。
 「で、どうしてライチーに実がならないんだ?」と 僕が尋ねた。
 「いいかいテツタ、タイじゃなあ、俺みたいな外人は何をつかまされるかわかったもんじゃない。おれのライチーは、大学の農業試験場に問い合わせたら、ライチーじゃないってんだ。いいか、本物のライチーがリンゴだとしたら、俺のはミカンみたいないものだって言うんだ。ライチーじゃなくて、レイチーって呼んだらいいようなしろものだ。それを植えちまったんだ」。
 スタマティスは、以前「ライチーで大儲けする」と大見得をきったが、そういう「つもり」というのは、大方こんな具合に外れるようだ。
 スタマティスは続ける。「でもな、タイの農業試験場は親切で、無料でいろいろ指導してくれる。タイには偉い王様がいて、その資金でダムはできるわ、灌漑用水は完備するわで、みんな尊敬している。農業試験場も王様の予算で成り立っている。何でもただでやってくれるんだ。いいか、正月になると、金持ちから貧乏人まで、王様の宮殿に、札束のはいった封筒を持って献上にくるんだ。タイってのは、そういう国だ。驚いたよ。
 で、おれのライチーじゃない、レイチーも、農業試験場に言わせると、ある薬品をまけば花が咲いて実をつけるっていうんだ。どうもチェンマイの気温がいけないらしい。この薬品をまけば、レイチーが気温を勘違いして、それで花が咲くって寸法だ。そういう品種らしい。」
 「へえ、何だいそりゃ?つまり、土壌に欠けている物質を補うのかい?肥料かそれは?」と、大学で化学を勉強したギャリーが尋ねた。
 「いや、肥料ではない。とにかく、それを今年撒かなかったら、どうしたと思う? (スタマティスは そこで2、3秒おおげさに間を置いてから言った。)花が咲かずに、いきなり葉が出て来た! それも、見事な、立派な緑の葉がたくさん!」
 僕は、笑っていいのか、気の毒な顔をしていいのか分からなかったが、スタマティスは、「葉っぱは食えないからな。がはは」と笑ったので、一緒に笑った。
 そのとき、さっきのちょっと美人のイスラエル人ウエイトレスが、スタマティスのカップチーノを運んで来た。そして、スタマティスのことを睨みつけながら、「あんたたち、昼ご飯は注文しないの? お腹空いたでしょ?」と、昼飯を食わないなら出て行け、と言わんばかりに尋ねた。なるほど、店は昼の客で混み始めている。 
 僕は、「昼は家に帰って食べるからいいや」と言った。紳士のギャリーは、「じゃあ、僕はケーキを頼もうかな」と言った。スタマティスは、「俺はダイエット中なんだよ」と言った。ウエイトレスが怒り出す前に、紳士のギャリーがまた言った。「このアホのことは無視してくれ(Please ignore this idiot)。」 
 ウエィトレスは、どうしようもない客だ、と言うように、何も言わずに引っ込んだ。
 それから、中国にライチーを売るとどれくらい儲かるかという話をスタマティスが続けた。
 「いいか、ライチーでも、レイチーでもいいが、乾燥させて真空パックにして中国に輸出する。すると、中国人は、正月に友達や親戚を訪問する際、このライチーを手みやげにするんだ。いいかい、10億人の中国人が、全員ライチーを買うんだぞ! すぞいぞ、これは!」スタマティスは また両腕を広げて言った。そして、続けた。
 「中国の景気は天井知らずだ。ユーチューブで見たんだが、中国の建設業は儲けまくっている。富裕階級は、祖父、父親、孫の三世代の貯金をあわせて不動産に投資する。それで、高級マンションが建つ。そういうマンションが各地でばんばん建てられ、町ができる。それに付随するショッピングセンターやなんかも出来る。そこにマクドナルドやKFCの看板が立てられる。そういう都市が毎年12箇所も出来てるんだそうだ。だがな、驚くなよ、みんな無人なんだぞ、そういう都市は。高級マンションにも、ショッピングセンターにも人はいない。マクドナルドやKFCも看板だけ。中国は、余った金でゴーストタウンを建ててるんだ。」
 イスラエル人ウエイトレスがギャリーのケーキを持って来て、スタマティスをじろっと睨んだ。スタマティスはウエイトレスにウインクして、「俺にはケーキないの?」と言った。すると、ウエイトレスは、大きなため息をついて、「ダイエット中じゃなかったの?」と言った。スタマティスは、それには構わず続けた。
 「だがな、いいか、これはバブル経済だ。いまにはじける。俺は、そうなる前の中国にライチーを売りまくるんだ。どうだ、すごいだろ?」
 「だけど、ライチーに実が付かなきゃダメじゃないか?」と、ギャリーがケーキをほおばりながら言った。
 「そうだ、だから来年は例の薬剤を散布する。そうすれば、ライチーはたわわに実をつけ、俺は安泰だ。分かるか?」と、スタマティスは頷いてみせた。僕は、怪しいもんだ、と思ったが、もっともらしくうなずいてみせた。
 「それにしても、世界は問題が絶えない。不安要素で一杯だ。中国と日本の領土争いは、あれはいったい何の為だ?中国と日本は戦争をするのか?」と スタマティスが僕に尋ねた。
 「いや、あの領土問題は政治的なもんで、いつも何だかんだ日本と中国はもめているよ。ロシアも然り、北朝鮮も然りだよ」と、僕が答える。
 「そうか、それならいい。しかし、日本の地震と津波はすごかったな。災害は必ず来る。俺はずっと昔、神戸震災のちょうど一週間前に、神戸に飛行機の乗り換えで一晩だけ滞在したことがある。そのとき神戸の街をうろうろしたんだが、良かったなあ、あの街は。街角で喫茶店に入ってコーヒーを注文したんだが、ミルクが来なかった。だから、言葉を使わずに身振りで説明して苦労したよ。そしたら、ウエイターがじっと俺を見て、最後に笑いながら、「ミルクですか?」って聞くんだよ。あれには恥かいたな。日本人が、ミルクのことを「ミルク」って言うなんて知らなかったよ」スタマティスは笑った。僕も、背の高いスタマティスが、神戸の狭い喫茶店で、体を折るようにしてパントマイムをしている姿を想像して吹き出した。
 「あの喫茶店のウエイターも、神戸の古い街を歩いていたおばあさんも、みんなあの後の地震で死んだかもしれないなあ」と、スタマティスは遠くを見るような目つきで言った。
 「いや、きっと生きてるさ」と、僕は反論した。 
 「それにしても、相変わらずメルボルンは冴えないな。いいかい、今回ここに来て早一週間たったが、俺はもう以前みたいに落ち込んできたんだ。でも、逆にそれが俺は嬉しいんだ。ギリシャに戻って、タイに移って、それが結局正しい判断だったことが分かったからな。息子のルカには、離れて暮らすことになって悪いが、ルカだって、不幸な父親より、ハッピーな父親の方がいいだろう」と スタマティスは結論づけた。
 「ああ、その気持は僕も分かるよ」と、僕は言った。「僕も、日本に帰って、成田空港に降り立った途端、昔の心持ちに戻る。そして、リムジンバスを待つ間、喫茶店に入り、コーヒーを日本語で注文する。誰も、僕がオーストラリアに20年近く住んでいるなんて知らない。で、東京の見慣れた景色を見て、旧友に会い、旨い日本食を食べる。それはそれで楽しい。でも、そんな風景に浸っていると、昔の心持ちに引き戻される。だから、一週間もするとオーストラリアに戻りたくなる。で、飛行機に乗って、メルボルンに戻り、空港にタッチダウンする前、あたりの農場の緑が見えてくると、涙が込み上げてくることもある」と、僕。 
 「おいおい、俺はそんなセンチメンタルじゃないぞ」と、スタマティスが笑った。
 「さて、そろそろ昼飯を食いに家に帰るよ」と、僕は言った。オーストラリアの物価はこのごろ目まぐるしく上昇し、カフェで昼飯を食べただけですぐ2000円くらいかかる。だから、僕はこのごろ財布の紐が固いのだ。
 「ライチー栽培は儲かるぞ」と、スタマティスが別れ際にまた言う。
 「いや、俺ならシイタケの有機栽培にしておこう。メルボルンは寒くて湿ってるからな」と、僕はそう答えておいて、なるほどメルボルンは冴えない、と思う。
 「そうだ、それを中国に売れ」と、景気よくスタマティスは言った。
 「あほ!中国にはシイタケは売る程あるぞ」と、ギャリーが笑う。
 「まあ、そのうち儲かったら、チェンマイのライチー御殿に招待してくれよ」と僕は言った。
 「そうだ、本当に来い。タイはいいぞ。暖かくて、ゆっくりしてて、ストレスがない。そこら中においしい果物が生っている」と、スタマティスは念を押した。
 僕は、スタマティスとギャリーと握手してカフェを出た。

キノコ.jpg
うちの庭のキノコ

 外には、ダンデノン山を背景に、秋晴れの空に風が吹いていた。もしスタマティスのように、どこか知らない場所に移って、そこで暮らしたらどんなだろう、と考えた。それは案外、重くてずんとくる仮説だった。しかし、僕は、その疑問はそれ以上考えないことにして、(心の中で)封筒に入れて、引き出しに仕舞った。そして、「いつか僕にとっての「ライチー(レイチー?)栽培」がみつかったら開けること」と「封筒」にメモした。
 それから、家に帰ったら何を昼飯に食べるか考えながら、カフェの前の坂を歩き始めた。
 
栗拾い.jpg
スタマティスに会った後、栗拾いをした

栗アップ.jpg
イガに包まれたつややかな栗

こんなに拾った.jpg
小一時間でこんなに栗を拾いました
posted by てったくん at 12:31| Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

2013年03月26日

Seize the day --この日をつかめ

2012年3月23日

エスキモーロールができたこと


「今日こそできそうだ」と思う日がたまにある。なぜだか分からないが、突然そんな朝がやってくることがある。

僕は、昨年2012年にシーカヤックを始めたが、年内には必至のテクニック、エスキモーロールができるようにならなかった。エスキモーロールとは、カヤックに乗ったまま水中に逆さまにひっくり返り、そこから復元させる技だ。そのためには逆さまになったまま、水中でパドルを刀の斜め切りのごとく45度に大振りし、その勢いで舟を起き上がらせなくてはならない。これができれば海上でひっくりかえっても人手を借りずに起き上がれる。シーカヤッカーには基本の技だ。

シーカヤック・クラブの練習会にも3、4回参加したが、できるようにならなかった。僕は、逆さになると、自分の状態が分からなくなり、左右ですら混乱してしまう有様だった。子どものとき2、3度溺れたことがあり、その時のトラウマが心の深層にあるせいかもしれない。そんな僕であったが、暮れにはマレー川マラソンに仲間と参加し、無事に404キロ漕ぎ抜いて、そのことに満足しながら2012年を締めくくった。そして、気がついたら、1月も終わり、夏も去ろうとしていた。


ドリューと.jpg
カヤック友達と海を散歩するのは最高の気分だ


俺にはやり残したことがある

2月下旬、メルボルンはまだ暑い日が続いていた。ある水曜の午後、僕は一人で近所のオーラベール湖に出かけ、のんびりカヤックを漕いでいた。すると、もう一人カヤッカーが現れた。機敏にターンする短い川用カヤックで、ミズスマシのように8の字を書いたり、限界までカヤックを倒して引き起こす練習をしたり余念がない。するとこの男、おもむろに水中眼鏡を取り出し、カヤックごとひっくり返り、エスキモーロールの練習を始めるではないか。オーラベール湖にはカヤッカーがたくさん集まるが、ロールの練習をする者は見たことがない。昨今はカヤックブームだが、そもそもロールができる者はあまりいない。

この男、最初の何回かは、ひっくり返っても起き上がれないでもがいていたが、やがて、3回のうち2回は引き起こすようになった。失敗してもあきらめて枕脱したりせずに(カヤックから逆さまの状態で水中に降りてしまうこと)、起きられるまで2、3回試みる。そして、最後は「えいっ!」とばかり起き上がる。やってみれば分かるが、中年オヤジの僕らは、2、3回もやると息が切れてくる。この男も40面で若くはないが、よくやるもんだと感心する。そのうち、ほとんど100パーセント起き上がれるようになった。すごい!

その様子を見ていて、僕も「俺にはやり残していたことがあった」と気がついて、ガンと後頭部をぶたれた気がした。そして、もはやのんびりとカヤックを漕いでいられない気持になった。昨年の宿題がまだ終わっていなのだから。考えてみれば、僕の人生にはこうした課題がいくつも積み残しになっている。あまり古い課題はもう掘り起こしたくないが、エスキーロールは、是非やらなくてはならない。

「よし、次回は、水中眼鏡と、ずぶ濡れになってもいい身支度をして、また来よう」と誓った。そして一人でも、この男のように黙々と練習しようと決めた。

イメージトレーニングの日々

次の日曜が来るまで数日間、僕はイメージトレーニングをした。逆さまになった自分。水越しに、逆さまに見える太陽。ビール瓶をカヤックに、箸をパドルに見立て、自分がビール瓶に座っているつもりになって、ロールのシミュレーションをした。まず、パドルを降ったのと逆回りにカヤックが反転することを覚えることにした。何度も何度も箸を振り、それとは逆方向にビールを瓶を回転させることで回転方向を覚えた。それが迷わず出来るようになると、今度は、舟が起き上がる寸前に体を後ろにそらせて重心を低くして、舟を復元し易くするシミュレーションもした。

水中から.jpg
水中の眺め

この日をつかめ

そして日曜日が来た。「今日こそできそうだ」と、朝起きた瞬間に確信した。その気持は、オーラベール湖に来るまでずっと続いていた。天気が良かったので、僕一人ではなく、息子の鈴吾郎(りんごろう)も、サーフボードを持ってついてきた。

気温は35度。暑いから、水辺には人出がある。カヤックも20隻ほど出ている。だが、どれもおもちゃのような、rubber ducky「ゴムのアヒル」と呼ばれるプラスチックのカヤックばかり。こういう一般人の間で練習するのは、ちょっと気が引け、張りつめていた気持も萎えてきた。だが、鈴吾郎が言った。

「パパ、今日は、エスキモーロールの練習するんでしょ?手伝ってあげようか?」息子は、日差しがまぶしいのか、それとも父親の苦悩がおかしいのか、顔をくちゃくちゃにして笑っている。

水中リンゴ.jpg
水中で笑う息子、鈴吾郎


その息子の笑顔に背中をどんと押された。

「よし、やったるぞ」僕は、パドルを持ち、水深のある沖合まで出た。
鈴吾郎も、サーフボードに腰掛けて、すいすいついてくる。

「まずは ひっくりかえる練習から」僕は、そう言うと、水中眼鏡をかけ、思い切って、カヤックをひっくり返した。

天地が逆になる。水中は静寂だ。顔の周りを水泡が逆に上がっていく。3秒程そのままじっとしていると、体がまっすぐ、垂直にカヤックからぶら下がったまま安定する。水面を見ると、太陽の光が水を通して光っている。でも、だんだん息が苦しくなってきた。僕は、カヤックから滑りでて、水面に出た。

「プハーッ」と息をする。息子がさっきのままの笑い顔で、「溺れたのかと思ったよ」と、ほっとしたように言う。
「起きれなかったらカヤックの腹をこうやって手でばんばん叩くから、その音がしたら助けてくれ」と、僕は言う。

「よし、今度はロールするぞ」と言い、僕はまたカヤックによじ上った。

また水中眼鏡をはめる。
深呼吸。
パドルをカヤックと平行に持つ。
息を止め、カヤックごとひっくり返る。
3秒待って、完全に逆さ吊りになる。
精神統一し、パドルを45度角に大きく降った。

だが、一回目は失敗。半分くらいまで復元したが、ちょっと力が足りなかった。あえなく沈脱。

二度目。何と、二度目は復元できた。しかし、実は、パドルを振ったら、水底が浅くてパドルが水底にあたり、その勢いで復元してしまったのだ。だから、これはチョンボ。

しかし、水上で見ていた息子は、成功したと勘違い。
「パパ、すごい、できたじゃん!」と手を叩いて喜んでいる。

「いや、水底にパドルがあたったから、できただけ。さあ、今度こそ。」
今度は、背の立たない深みに行き、ひっくり返る。逆さの格好でまた精神統一。「えいっ!」と、パドルを水上のお日様に向かって斬りつけた。そして、ぐるっと回り出したなと感じたので、ぐいっと背中をのけぞらせた。

そのとき、コペルニクス的転回が起きた。僕は回転し、それとともに世界も回って、僕は水上にコルクのように浮かび上がった。赤ん坊が、子宮から飛び出る時も、こんなかもしれない。

「やったね、こんどは出来たね!」と、息子は手を叩いた。
「で、で、できた!」と、どもってしまったが、カヤックの上で飛び跳ねたいくらいだった。昨年練習会に3、4回練習して出来なかったことが、たった2、3回のロールで出来てしまったのだから。イメージトレーニングが功を奏したか、息子の笑顔が良かったか。まわりで「ああしろ」、「こうしろ」と口うるさく手出しする先輩カヤッカーがいなかったのも成功した理由かも。

「よし、もう一回」。僕は、二度目にすぐ挑戦した。
二度は見事な失敗。三度目は大成功。四度目は成功したが、勢いが良すぎて、反対側にひっくり返った。

10回くらいやって、成功率は五分五分くらいだったろうか。最後は息が切れてしまい、しばらく休憩することにした。凱旋将軍のような気分で岸辺に戻ると、僕の様子を見ていた、ビール腹のオヤジが、「くるっと起き上がるのは難しいのかい?」と、愛想良く話しかけてきた。

僕は、「いや、それほどじゃないけど、何度か練習が必要かもね」と、軽い調子で答えた。が、本心は、ガハハ、お前なんかにできるもんかい!と言ってから、脳天をぱん!とひっぱたいてやりたかった。ガハハ。

というわけで、興味のない人には、大したことじゃないように思えるだろうけど、僕はエスキモーロールができないカヤッカーから、エスキモーロールができるカヤッカーになったわけだ。どんなもんだい!

しかし、今後の課題はまだいくらもある。例えば、左右どちらからもロールできるようにする。水中眼鏡なしでもできるようにする(海上でひっくりかえるときは、水中眼鏡をする暇はなし)。波風のある海でも起き上がれるようにする、などなど。

生け花.jpg
美しい生け花を生けられるようにする、これも僕の課題。
(もっと難しいかも)。


翌朝、布団から起きようとすると腹筋が痛い。カヤックを引き起こすときに、けっこう腹筋を使ったようだ。やれやれ、もはや22歳じゃないことだけは確かだ。

布団に座って、痛む腹筋をさすっていたら、昔読んだけれど、忘れていた本の題名が突然頭に浮かんだ。Seize the day 『この日をつかめ』(ソール・ベロー作)だ。

パジャマのまま書架に行くと、その本がまだ隅っこにあった。パラパラめくると、角が折ってあるページがあって、そこにこんな言葉があった。

「わからんかなあ、勝利に向かって直線的に進んでゆくことはできないんだよ。波動するコースをとるんだ。」

他にも、確かに読んだことがあると思える文があった。
「ただ現在だけが、『いま・ここ』だけが実在のものなんだよ。この時をーーこの日をつかめ、だ。」

生け花盛り花.jpg
生け花も、その瞬間が勝負だ

僕の脳裏で、ジグゾーパズルのピースがぱちんとはまった音が聞こえた。22才の頃、50才なんかになったら、もう人生は終わりだなんて思っていた。でも、今51才になっても、勝利と言える瞬間は確かにやってくる。(22才の若造に何が分かるというのだ!)

Seize the day!




posted by てったくん at 17:52| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記

2013年02月26日

行きて帰りし物語

2013年2月24日

この週末、息子と一泊のキャンプにいった。モーニントン半島のバルナリングという海浜。鈴吾郎が5才のころから、年に4、5回は、こんな「行きて帰りし旅」に出る。短編小説といった感じの旅。

でも、鈴吾郎は、釣りもしたいし、泳ぎたいし、カヤックもしたいし、スノーケルで素潜りもしたい、やりたことだらけ。僕は、たった一泊なんだから、ただ釣り糸をたれて、ビールを飲んでのんびりしたい。一方鈴吾郎は、いっぱしの戦闘的釣り師だから、釣るならビッグな魚を釣り上げたい。一体誰に似たんだろう、こやつ?

とにかく、1時間で出発準備完了。カヤック二隻を、うんうん言いながら車の屋根に乗せるのは大仕事だった。

車.jpg

出発。家を出て3分、頭の中で忘れ物を検索。
「鈴吾郎、歯ブラシもった?」
「忘れた!」
「虫除けスプレーは?」
「持ってない!」
「日焼け止めクリームは?」
「パパが入れたんじゃないの? 忘れたんなら途中で買えば?」と、鈴吾郎。
虫除けスプレーと歯ブラシ二本と日焼け止め買ったらけっこうお金がかかる。というわけで、忘れ物を取りに、いきなりUターン。

高速をドライブ。車内で鈴吾郎は、日本の漫画『コナン』に読みふける。日本語は読めないくせに、漫画だけはいくらでも見飽きない。僕は、好きなニール・ヤングのCDで鼻歌。

モーニングトン半島のバルナリングまではたった一時間。まずはスーパーで買い物。「晩飯、何にする?」と鈴吾郎に聞く。鈴吾郎が食べたいものは、いつも決まっている。ギョーザかピザかスキヤキか焼き肉。今回は、調理器具はフライパンしか持ってきてない。
「うーん、分かんない。何でも良い」と鈴吾郎。10才の男児に晩ご飯の献立を聞くこと自体、無駄である。
「じゃあ、肉を焼こう。何の肉?チキン、ステーキ? ソーセージ?」と僕。
「焼き鳥!」と言うので、焼き鳥を6本買う。焼き鳥と言っても、日本の焼き鳥の三倍はある串刺し肉。味付けも、ギリシャ風、中華風、メキシカン風などがあるが、どれも旨くない。それとサラダの野菜、その他、細々としたものを買い込み、買い物は終わり。

バルナリングの海辺のキャンプ場は、土曜というのに受付係もいない。携帯番号が書いてあるので電話すると、女性が出て「27番にテントを張ってね。後で代金は取りに行きます」と言った。のだが、ついに彼女は現れなかった。(まじめな僕は後でお金を送ったが。)

27番は、頭上はユーカリの木で、涼しい木陰を作っている。しかし、ユーカリは、夏場は乾くと枯れ枝(それも大きな奴!)が落ちてくるから、注意しなくてはいけない。きっと、ここのユーカリは、枝を落とさない種類なのだろう、と考えることにしたが、そんなユーカリのことは20年近くオーストラリアに住んでいて聞いたことがない。まあ、よっぽど運が悪くなきゃ大丈夫だろう。

キャンプ.jpg

と考えながらテントを張っていたら、鈴吾郎が「ぎゃー!」と叫ぶ。「どうした?」と、走って行くと、ウサギと鳥の死骸が落ちている。「上を見ながら歩いてたら、死んだウサギをふんじゃった!」と、鈴吾郎が気持悪そうに言う。そして、「臭いよう!」と泣き声を出す。僕がユーカリの枝を見上げて落ちてくることを心配してたら、不運な息子は動物の死骸を踏んだという訳。まあ、これで厄払いはできた。それにしても、腐ったウサギは臭い。なぜこんなところで死んでるのか?

テントを立てたので海を見に行くことに。バルナリングは内海なので、波もなく、静かな遠浅。
「ようし、いっちょ、カヤックをやるか」ということになり、車から二隻のカヤック、レインボー丸とハドック船長丸を降ろす。どちらも重さは20キロ。大人二人だと楽に運べるが、子ども相手だと手こずる。鈴吾郎は、「重い!」とすぐ音を上げ、僕一人で砂浜100メートルを引きずり、大汗。

カヤックをようやく海に浮かべて乗り込む。この瞬間が好きだ。ぐらぐらっと揺れるカヤックのバランスを取りながら波頭がくだける波打ち際を越えてしまうと、後は、ゆらゆらと海のうねりに体を任せる。パドルを回転させるとカヤックは、飛ぶように進む。

広い海のあちこちを行ったりきたり。10才のチビ息子は、5メートルのレインボー丸を巧みに操り、どんどん沖へ向かう。父親は、はらはら、「そんな遠くに行ったら戻れなくなるぞ。もっと海岸の近くで乗りなさい」と叫ぶ。

レインボー丸.jpg

風が出て来たので、カヤックは止めて、釣りをする。浜辺からだからどうせ昼間は釣れない。案の定フグばかり。ああ…。

キャンプに戻り、仕切り直し。日も大分傾いて来たので、早めの夕食に。さっき買って来た焼き鳥を、フライパンでじゅうじゅう焼く。いい匂い。焼き鳥をはぐはぐ食べながら、ビールを飲む。この時間は千金の価値あり。

と思いきや、10才の息子、「さあ、今度は夜釣りだ!」と、焼き鳥を食べるが早いか、また釣り支度。
「まだ、日が暮れてないよ」と、ビール片手の僕。
「でも、これくらいから釣れるんだよ」と言い張る。
「じゃあ、早いけどいくか」と言うことになり、また浜へ。
夕暮れの海で、風に吹き上げられた湿った空気を吸うのも気持いい。

しかし、釣りはやっぱりだめだった。
小さなオーストラリア・サーモン(アジみたいな雑魚)が2匹。
小さなコチが一匹。
フグ5、6匹。
持って帰った魚はゼロ。

バルナリング.jpg

夕暮れがしのび寄り、足下が暗くなる頃、テントに戻る。寝る前に息子に本を読んでやる。いや、読んでやると言うより、僕が楽しみにしている本だ。アーサー・ランサム著『スカラブ号の夏休み』(ツバメ号とアマゾン号シリーズの第11巻)。もう一年以上もこのシリーズを読んでいて、あと一冊で終わる。このシリーズは実に読みでがあった。子どもたちが、夏休みごとに小さなヨットにのってあらゆる冒険に出かける物語だ。読み終わってしまうのが惜しい。このお話のおかげで、僕ら親子も完全に海にハマった。面白い本だが、僕はビールと夜釣りのせいで、3ページ読んでダウン。

二日目

朝7時に起きる。キャンプにしては遅い目覚め。ユーカリの木に、大きなコアラが登っている。コアラの朝寝だ。写真を撮るが、どうしても顔は見えず。

コアラ.jpg

海辺に行く。馬を泳がせている人がいる。というか、馬に乗ったまま、じゃぼじゃぼ海中乗馬している。馬も気持がいいだろうね。

バルナリングでの釣りは今日もダメそうなので、車で20分のフリンダーズに行く。ここが僕らの「ホームグラウンド」だ。ここは、外海に面しているので、魚も豊富。ところが、今日はここにも魚がいない。昼まで釣るが、ぜんぜんだめ。

「お腹がすいた」と鈴吾郎が言うので、いつも行くフィッシュ・アンド・チップス屋まで行く。もうここの奴は食べあきたが、フリンダーズには、この店しかない。だから、いつものフィッシュ・アンド・チップスを食べ、いつもの風景を眺める。フィッシュ・アンド・チップスは油が多くて不健康な食べ物だが、食べているのも肥満気味の不健康っぽい人が多い。それでもなぜか食べてしまうフィッシュ・アンド・チップスなんだよ。

チップス.jpg

海岸に戻る途中、崖の上から海を眺める。対岸はペンギンがたくさん棲んでいるフィリップ島。吸い込まれそうな青い静かな海。今日なら、カヤックを漕いで渡れそうだが、帰って来れなくなると困るから、行かない。この崖の上に豪壮なお屋敷を建てるのが僕の夢。それは我が家みんなの夢でもある。三億円くらいあればね。二億でも足りるかもしれない。安いもんだよ、そんなの。

フリンダーズ.jpg

浜に戻り、またカヤック二隻を車から降ろす。鈴吾郎は、カヤックから釣りをしてみるんだそうだ。見れば、釣り用カヤックで釣りをしているおじさん達もいる。でも、僕のカヤックは釣り用ではない。

釣りカヤック.jpg

「そんなの無理だよ。波は来るし、パドルで漕がなくちゃいけないし、ひっくり返ったら、釣り竿とか全部、海に沈んじゃうよ」と僕が言うが、息子には馬耳東風。

鈴吾郎、カヤックに釣り竿一式積んで出撃だ。ところが、やっぱり波をかぶって、釣り道具一式が海水浸しに。僕が日本から大事に抱えて来たシマノのリールもびしょ濡れ。そりゃ、言わんこっちゃない。と思うが、同時に、失敗しなくちゃ前進もなし、と息子の冒険心に感心もする。つべこべ言う父親の僕こそ、心配のし過ぎだ。

鈴吾郎、さすがにカヤックからの釣りは諦めて、桟橋から糸を垂れ、まあまあサイズのキス二匹を釣り上げた。帰りがけの駄賃に、そこらにいた釣り師からも、40センチくらいのベラをただで貰った。子どもって得だなあ!


エイ.jpg
巨大エイ こいつが来ると魚が釣れなくなる。

夕方四時。そろそろ帰る時間だ。カヤックも、釣り道具も、僕の海水パンツも、履いているサンダルも、全部砂でざらざら。ええい、っと全て車に載せて家路に着く。途中で鈴吾郎はアイスクリーム、僕はコーヒーで一服。アイスを食べた途端、鈴吾郎はグニャグニャのタコみたいに、助手席に崩れ落ちて寝込む。

僕は、今度はバート・バカラックのCDを聞きながら、鼻歌でドライブ。CDが終わるか終わらないうちに家に戻った。砂だらけのものを全て車から引き出し、庭に放り投げ、ホースでじゃぼじゃぼ洗う。

かくして、この週末の「行きて帰りし物語」はおしまい。





posted by てったくん at 13:02| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2013年01月18日

悠々として急げ。マレー川カヌーマラソン404キロ出場記

1.jpg

2013年1月

オーストラリアのビクトリア州とニューサウスウェールズ州の州境には、マレー川という全長2575キロの大河が流れている。オーストラリアのミシシッピ川とも呼ばれるが、その理由は、この川が長いことと、昔は交通および流通の要であったからだ。

そのマレー川も、現在は交通や流通にはあまり使われなくなったが、毎年12月27日から31日の5日間、Murray River Canoe Marathonというカヌーとカヤックのレースが行われる。404キロを5日間かけて漕ぐもので、オーストラリア中のカヌー野郎やカヤック気違いが集まり、腕を競い合う。このレースはすでに25年も続いており、腕に覚えのある漕ぎ手であれば、一度は出なければならないレースである。

このレースに、まだカヌー/カヤック歴が浅い私も参加することになり、リレーチームの一員として404キロを完漕した。ことの起こりは、長くなるから省略するが、かいつまんで書くと、我が家の修理をいつも頼んでいる大工で友達のギャリーがこのレースには数回出ていて、今年も出るから、サポートチームに入ってくれと頼んできたのだ。ところが、僕はカヌーは自分で漕ぎたい方だから、「サポートは嫌だ、俺も出る!」ということになった。

4.jpg
我が友ギャリーは孤高のパドラー。404キロを一人で漕ぐ(愛艇C1レーシング)


僕のチーム Push’n Wood

だが、僕は初心者なので、すでに7回出場しているPush’n Woodというリレーチームに入ることになった。彼らはメンバーに欠員が出たので新メンバーを捜していたのだ。「渡りに舟」とはこのことだ。このチーム、隊長のブライアン(建築会社経営)65才を筆頭に、平均年齢60才前後という「還暦」チームなのだ。乗っているカヌーも、真っ赤なカナディアンカヌーで、還暦色そのもの。そこに50才の僕が入って一気にチームは若返った。僕は「チームのベイビー」と呼ばれ、期待の新星となったのだ。

他のメンバー:

ダイアン: ブラアンの奥さん、50台後半、美容師の美人。
ドリュー: 心理学者、59才。優しい怪力男。元サイクリスト。
ジョアン: ドリューの奥さん。小柄で可愛い小学校のイタリア語の先生。
ヘレン:  60才くらいの麻酔医。小柄でもの静かだが、時折すごい大声を出す。
マイケル:  ヘレンの旦那で、ナイジェリア人の工学博士、65才。泳げないので、カヌーには乗らないサポート専門。酒好き。
アンドリュー: 66才、古株カヌーイスト。エンジニア。ただし、メタボ気味で糖尿と高血圧症。みんなの心配の種だが、
本人はやる気満万。
チャコ:  うちの奥さん、40台後半。サポート隊員。
鈴吾郎:  うちの息子、10才。応援団長として大活躍。

3.jpg


チームのカヌー

ブライアンが自分で作った全長5メートルのカナディアンカヌー。寄せ木細工みたいに小さな木片をエポキシでのり付けし、ファイバーグラスをかぶせたもの。船体にはオーストラリア、アボリジニ先住民、ナイジェリア、そして日本の国旗がついている。昨今はそんな古風なカヌーよりも、新素材のケブラーやカーボンでできた軽量俊足カヤックが主流だが、Push’n Woodという名の通り、このチームは、あえて「木製」の重たいカヌーを、うんせ、うんせ、押してでも完漕してやろうじゃないの、という心意気なのだ。遅くても楽しみましょう、という「亀さん」チーム。

2.jpg


トレーニング

トレーニングは、レース3ヶ月前の9月から開始。うちの近くのオーラベール湖に日曜午前に集まり、ひたすら2キロ半の周回を3、4回やる。それだけで汗だく。僕は、最初は2キロ半を休まず漕ぐことはできなかったが、11月頃には休まないでも一周出来るようになり、12月の本番までには10キロ漕いでも大丈夫になった。自分でも驚いた。腕の筋肉もムキムキに。

さあ本番

本番の12月27日はすぐにやってきた。いつもならクリスマス後の夏休みは、キャンプや海辺で過ごすが、今年は暑くて埃っぽいオーストラリア内陸部へ。マレー川ほとりに、クリスマスの翌日僕は立っていた。

5.jpg


一日目 ヤラウォンガからトカムウォル 94km

6.jpg

前日にキャンプ入りし、初日は4時起き。久しぶりに朝日が昇るのを見て興奮。(家族は眠くてぶうぶう。)キャンプから25キロのスタート地点、ヤラウォンガまで車を飛ばす。来るわ、来るわ、屋根に葉巻のような、色とりどりのカヌーやカヤックを乗せた自動車が朝の静寂をやぶって集まってきた。到着するや否や、色とりどりのユニフォームを着たチームメンバーが、「わっせ、わっせ」とカヌーを車から降ろし、7時のスタートには早くも50隻ほどのカヌーが朝靄(もや)の立ちこめるマレー川に浮かんだ。我がPush’n woodの赤いカヌーも堂々と浮かんでいる。しかし、僕の出番はまだ後なので、トップパッターのドリューとジョアンのコンビが出発するのを見守る。

7時が近づく。しーんとあたりは静まり返り、突然「バーン!」とピストルが鳴る。すると、いっせいに水しぶきをあげてカヌーがスタートした。「がんばれー!」、「行けー!」と大歓声が巻き起こる。息子の鈴吾郎も、うれしくてぴょんぴょん飛び跳ねている。

僕は初出場ということで、初日は、第三ステージの一番短い6キロのステージを、出場三回目のドリューとコンビで漕ぐことになった。ドリューは大男の力持ちだから、すごいパワーだ。後ろからぐいぐい押されて漕ぐペースをつかめず、カヌーもジグザクに走り、あまり良い結果ではなかった。それでも、6キロは軽々、およそ40分ほどで漕いでしまって、初日はあっけなかく終わった。でも、川から見るマレー川畔の景色はきれいだった。

9.jpg


二日目 トカムウォルからピクニックポイント 96km

二日目は、全行程でも最長距離の96キロ。距離は長いし、体も慣れていないから、出場者は表情が暗い。ここをのりきれば、三日目以降は楽になると言う。単独出場の大工ギャリーも、前の晩は疲労と緊張で眠れず「最悪のコンディションだ…」と浮かない顔。それでも、スタートのピストルは七時に「バーン!」となり、C−1というレース用のカヌーでギャリーは滑るように川を下って行った。

今日は、サポート組も大変だ。何せ、国立公園の中を川が流れるルートなので、サポート車が走る道路も全てダート。夏は雨も降らないから、前の車が立ち上げる埃の中を、ヘッドライト付けてのろのろ走る。まるでサファリラリーのようだ。

10.jpg

今日は僕の担当は、第四区間の16キロ。16キロは一時間半で漕げる距離だ。相棒はリーダーのブライアン。ブライアンとは練習で何度も漕いでいるから息は合っている。さあ、思いっきり漕ぐぞ、と僕は興奮して交代地点でカヌーを待った。

ところがハプニングが起きた。向かい風が強くて、ドリューとジョアンのペアが予想以上に遅れた。このままでは時間切れで、僕らは最後の区間が失格になる可能性がでてきた。アンドリューが審判に掛け合いにいった。交渉の余地はない、と言って渋い顔でかえってきた。リーダーのブライアンも掛け合いに行く。ところが、やはり首を横に振りながら帰ってきた。「てつた、残念だが、今日はここで終わりのようだ。時間切れで、ここでカヌーを引き上げなければならない。明日また仕切り直しだ」。僕はがっくり落胆した。すると、ダイアンがきっぱりと言った。「私に任せて。絶対だいじょうぶよ」と再度交渉に。

その間に、川の向こうからドリューとジョアンが漕ぐ赤いカヌーが見えてきた。500メートル、300メートル、100メートル、みんなが叫ぶ。「時間切れだ、急げー」「もっと早く漕げ!」目に見えて二人のパドルさばきが早くなる。

同時にダイアンが走ってきた。「大丈夫よ! ほんの5分だけ、審判が時計に気づかない振りをしてくれるって!」やったー、みんなでハイファイブ。

ドリューとジョアンが到着するなり、僕はとブライアンが飛び乗り、漕ぎ始めた。後に続く他のカヌーも、失格させられまじと、すごい勢いで飛ばしてくる。出発時間は4時半、いや、本当は5分遅れの4時35分。何が何でもゴールには6時前に着かなくては、本日分は失格となる。

「さあ、いくぞ!」カヌーの後席のブライアンが、低い声で叱咤する。ブライアンは、顔はいかりや長介みたいだが、声は渋くてかっこいい。「おう、見てろよ!」と、僕もフル回転でパドルを漕ぐ。お日様も傾いてきた。「さあ、夕日と競争だ!」 川面がきらきら光る。魚が跳ねる。先行するカヌーの赤や黄色の船体が時々光る。

川をぐんぐん下る。僕らの鈍足カヌーが、俊足のカヤックを1、2隻追い抜いた。「4キロ通過」、「8キロ通過」と、時折ブライアンがGPSの数字を読み上げる。突然「すごいぞ、てつた、瞬間時速12.5キロ。我がチーム最高スピードだ。お前は大したパドラーだ!」と、叫ぶ。

僕自身は自分がどれほどのペースで漕いでいたか夢中でわからなかった。ただ、10キロ地点を越えた時点から、だんだんすーっと体が気持が良くなってきた。これがランナーズハイってやつか。腕も軽く、最高の気分だ。若いときにも、登山をしているとき時々こんな気分になったっけ。いいぞ、もっとぶっ飛ばしてやれ!

「12キロ」、「14キロ、あと2キロだ」とブライアン。おっと危ない、勢いがつきすぎて、川が曲がっている箇所で岸に近づき過ぎて、倒木に引っかかりそうになった。徐行して難をかわすが、失敗すればひっくり返って沈していたところだ。

「あと1キロ!」ブライアンが冷静に言う。向こうに人の群れが見えてきた。時計を見る余裕もない。6時まであと何分?と思うが、僕はもう蒸気機関車になったつもりで、とにかく漕いだ、漕いだ、漕いだ。

やがてゴールをくぐる。「ブー!」というゴールの印のブザーがなる。パドルを頭のうえで振り回す。観客から歓声が挙がる。

ブライアンがつぶやくようにGPSを読む。「おめでとう、てつた。5時52分だ。あと8分で失格のところだった。お前がチームを救ったんだぞ。ありがとう」と言った。振り向いてブライアンと握手。

岸に着くと、みんなが寄って来た。「良かった、失格にならなくて」と、ドリューがいった。「大丈夫よって、いったでしょ!」と、ダイアンがビデオを回しながらニコニコして言う。みんなと抱き合って喜ぶ。伝説のパドラー、マッド「気違い」ミックも、ニコニコしながら寄ってきて握手してくれた。ミックは、もうこのレースに25回も出ている。今回も単独出場だ。

16キロを1時間20分程で漕いだ。平均時速12キロは出ている。かなりの好成績だ(マレー川は時速2キロ程で流れているので、実際の速度は10キロ程度だが)。

小さなハプニングだが、僕には嬉しい出来事だった。初めて参加したリレーで、チームの危機を救ったのだから。

7.jpg


11.jpg
25回出場、伝説のパドラー、マッド「気違い」ミック



三日目 ピクニックポイントからエチューカ 76km

昨晩は、蒸気船が今も川を登り下るエチューカの町で泊まった。チームの危機が救われたということで、みなでパブでお祝い。

12.jpg


三日目は、昨日のゴールからエチューカの町まで、森の中の原始風景を漕ぎ進む。僕は、第二ステージ12キロをドリューと漕ぐ。昨日の16キロに比べれば楽勝だ。今日は時間の制限も大丈夫。午前の早い時期なので、まだ肌寒い。今年は天候に恵まれ、盛夏とは言え30度そこそこの気温、ビクトリアの内陸としては涼しい。こちらは大助かりだ。ドリューも僕も、今日は漕ぐ息も合って、快調に飛ばす。僕らの乗っているのは昔風のカヌーだが、二人で漕げば、ゆっくり流している細長い現代的なカヤックを追い抜いたりもできる。ドリューがつぶやく。「すげえ、13.5キロだ。最高記録だぞ。」 僕は、このチームの記録をどんどん塗り替えているらしい。どんなものだ!

ところが、あるところで曲がりを曲がると、いきなり「どかん!」と、突風にあおられた。どうにかブレースして体勢を保つが、カヌーはあらぬ方向を向こうとする。懸命にスイープストロークで横漕ぎして方向を修正。ふと見ると、向こうでは女性チームの二人乗りカヤックが沈して、川で泳いでいる。「助けに行こう!」とドリューが言うので、そちらへ漕ぎ寄せる。「Are you all right? 大丈夫かぁ?」と叫ぶと、女性チームも川岸に泳ぎ着いたところで「We are ok! 大丈夫よ!」とにっこり笑って手を振って返答する。大丈夫そうでも一応声をかけるのが水上の掟、スポーツマンシップというものだ。

そうしているうちに12キロは、あっという間に漕ぎ終わる。記録は1時間15分。怪力ドリューとの12キロは、カヌーがぐいぐい進むので、まるで坂道を下るみたいだった。

四日目 エチューカからトランバリー 63km 

朝6時半、今日の出発地点に立つ。僕が「残りはあと二日、早いもんだ」と、川面を眺めながら言うと、一人でここまで300キロ近くを漕いできた友人ギャリーがつぶやく。「いや、俺はとにかく一日、一日を漕ぎ抜くことしか考えない。今日を漕ぎ終えられたら、そのとき明日のことを考える」と言った。やっぱり、一人で孤独に漕いでいる人は気合いが違うなあ。ギャリーは、このレースを終えると、60才になる。60才の記念に単独出場をした。この僕が60才になるときはどうだろうか。一人でカヌーを400キロも漕ぎ抜く体力を持っているだろうか。ギャリーのように、体をいたわりつつも限界に挑戦してみたい。僕も、そんな目標を持って、これからの10年を生きてゆきたいものだ。

7時。また「パーン」とピストルが鳴って、色とりどりのカヌーやカヤックが川に散らばっていった。今日もギャリーもひとりで漕いでいく。がんばれ、完走してくれよギャリーと、僕は祈る。

出発シーンを見終わると、僕と息子の鈴吾郎は、ボランティアが出している店で、熱々のベーコンエッグサンドイッチをほおばる。鈴吾郎の奴は、でっかいサンドイッチを二個も食べた。(大物になるぞ、こいつは!) 鈴吾郎は、まだ10才だから、カヌーマラソンには出られない。でも、色とりどりのカヌーやカヤックを見て、自分が出場しているみたいに興奮して声援している。12才になると出られるから、その時は、僕とタンデムで出てもいいなと思う。実際、親子や兄弟、あるいは夫婦で出ている人もたくさんいる。

8.jpg

父子で400キロ漕ぎ抜くのは、体力的にも精神的にも試練だろう。でも、それはきっと良い思い出になるだろう。振り返ってみれば、僕自身は父親と何かそんなことをした経験はない。でも、それを埋め合わすつもりで、これから自分の息子とやっても遅くはないかもしれない。

13.jpg

さて、今日のコースは、少し先に大きな堰(ダム)があるので、川の流れがひどくゆっくりだ。参加者は、「ちっとも進まない」、「まるで真綿の中を漕いでるみたいだ」と苦戦している。だから、63キロと短い距離でも、ペースが落ちるから苦しい。陸上マラソンなら上り坂という感じだろう。

僕は、二番目の中継地点からの15キロを漕いだ。相手は、またドリュー。ドリューとも息があってきたから、カヌーはぐいぐい進む。多分、今回のチームで最強のコンビだろう。しかし、流れのせいでゆっくりしかすすまない上に、カーブが多い。カーブは、曲がった途端風向きが変わるので注意が必要だ。慎重にカーブをひとつひとつ曲がる。どうして川はこんなにくねっているのだろうとうんざりする。

今はクリスマス後の休暇だから、のんびりと釣り竿を繰り出しながら、カヌーレースを見物している人が両岸にいる。あと三日で新年だ。僕は、見物人に「ハッピーニューイヤー!」と声をかけながら進んで行く。中には、「ビールが冷えてるぞ、寄っていけよ!」と、からかう人もある。早く漕ぎ終わって飲みたいなあ!

ドリューと二人で、15キロを1時間20分程で漕ぎ終えた。早くもなし、遅くもなし。僕の今日の出番は終わり。後は、他のチームメイトを応援して、大いに盛り上がる。

今夜の泊まりは、カフーナという田舎町。本日のゴールで、カヌーを引き上げると、車を連ねて田舎道をひた走り、カフーナまで小一時間のドライブ。店が10軒くらい連なるひなびた町だ。『ミッドナイトカウボーイ』の舞台の町みたいだ。日曜なので開いているのはガソリンスタンドとパブだけ。水タンクを背負った塔が町を見下ろす。町の真ん中にある公園には誰もいない。僕たちの宿は、パブ裏のモテルだ。フロントのおばさんは、これ以上愛想を悪くしようもないほど愛想の悪いおばさん。まるでヒッチコックの映画みたいだ。客室のドアには、「泥靴は脱いでから部屋に入って下さい」と書いた紙が張ってあった。羊毛を刈るシアラーと呼ばれる職人たちが多く泊まる宿だからだそうだ。

14.jpg
カフーナの木賃モーテル


晩は、そのひなびたパブでチームメンバーと夕食を食べる。冷えた生ビールは旨かったが、食事はまずかったの一言。ベジタリアンのチャコは、「これ、食べるところないわ」と、チキンサラダをほとんど残した。僕は奮発してステーキを注文した。焼き加減は「レアに近いミディアム」と言ったはずなのに、ステーキはガチガチに焼きが入っている。おまけにナイフの切れ味も悪くて、食べるのに大往生。

パブの天井には大きな扇風機が回わり、ハエがぶんぶん飛んでいる。がらんとした食堂は、クリスマスの飾り付けの片付けも終わっておらず、ひどく裏ぶれた感じ。まさに、オーストラリアの田舎の典型という雰囲気。オーストラリアに17年も住んでいるから、こんな風景も見慣れたが、それでも思わず、「オーストラリアだなあ、ここは!」などと感心してしまうほどのひどさ。

五日目(最終日) ムラビットからスワンヒル 75km

いよいよ最終日。気合いを入れてまた4時起きだ。車を連ね、出発地点のムラビットに急ぐ。6時到着。7時までにカヌーを水に入れ、出発を見送る。大きなダムも過ぎたから、また川の流れは速やかだ。カヌーマラソンの最終ゴールはスワンヒルという大きな町だ。今夜は大晦日、テレビ局の取材も来ると言う。

15.jpg
出番を待つ僕とマイケル

「てつた、今日はゴールで日の丸の旗を振れよ!」と、リーダーのブライアンが冗談を言う。初出場の僕に花を持たせてくれようと、ブライアンは、僕をアンカーに抜擢してくれた。僕は、日の丸は振らないけど、精一杯がんばるつもりだ。相棒の漕ぎ手はまたブライアン。距離も今回最長の25キロ。燃え尽きてやるぞ、と胸が高鳴る。

第一地点、第二地点、第三地点と、カヌー要員を交代しながら車で移動。内陸の穀倉地帯だから、大地は真っ平ら、視界を遮るものもない。まっすぐの道路を埃をあげて突っ走る。川沿いだけには木が生えているから、そこが川だと遠くからでも分かる。

このマラソンには、高校生のリレーチームが4校ほど出ている。レースも終盤に差しかかり、彼らはかなり盛り上がっている。女子が黄色い声援を送り、二人組のカヤックの男子組は、かっこ良く交代地点に滑り込んでくる。そして、到着するなりカヤックを横倒しにして、乗組員は水に飛び込む。交代要員はほんの数秒でカヤックに飛び乗り、大歓声の中をまた飛び出して行く。

その間を縫うようにして、おじさんおばんさん混成の、我が亀さんチームの赤いカヌーは、のんびりと川面を下る。いや、のんびりと見えるだけで、実はおじさん、おばさんも一生懸命に痛む肩や腰をかばいながら漕いでいるのだ。がんばれー、亀さん、ふれふれ、亀さん!

いよいよ第三地点に赤いカヌーが見えて来た。漕いでいるのは、巨体のアンドリューと小柄な女医のヘレン。カヌーの前後で体重があまりにも違うから、舳先に砂袋を積んでバランスを取っている。アンドリューは、たどり着くと、疲れて立ち上がれない。その巨体をみんなで引っ張り上げる。アンドリューは燃え尽きて、さっぱりした顔をしている。ブライアンは、重りの砂袋をつかむと、「もうこれには用はなし!」と、川にどぼんと放り込む。身軽になったカヌーに僕が飛び乗り、後ろにブライアンが乗ると、すぐに飛び出す。ヘレンが大声で叫ぶ、「さあ、最後に錦を飾るのよ!」マイケルが叫ぶ、「走れ、Push’n Wood!」

16.jpg
燃え尽きたアンドリュー、川に落ちる


僕とブライアンがアンカーだ。いっちょやったるぞと、僕が調子よく漕ぎ出すと、ブライアンがぼそっと言った。「ごめんな、右腕の筋肉がつっちゃった。あまり漕げない。とにかくゴールを目指してゆっくりいこうぜ」。僕は、「無理すんな、舵とりは、まかせた。漕ぐのは俺がやるから座っててくれ」。

17.jpg
リーダーのブライアン、日焼け止めを塗って「さあ、行こう」


最後にこうなるとは思わなかったが、仕方がない。ブライアンは年期の入ったパドラーだが、それでももう65才、もうじき66才。無理はきかない。僕だって無理は禁物だ。僕までダメになったらそこで本当の終わり。アンカーが棄権したら、他のメンバーに面目がたたない。

僕は、はやる気持を抑えて言う。「85%から90%で漕いで、最後の1、2キロはフルパワーだ。」ブライアンが言う。「おう、まかしたぞ。でも、無理はすんなよ。」

しばし、二人とも無言で漕ぐ。今日は暑い。スワンヒルはメルボルンから北に300キロ以上も内陸だから、気温も7、8度は高い。気温は37、8度か。ブライアンが、時折GPSの数字を読み上げる。「5キロ通過、時速11キロ」「7キロ通過、時速10キロ半。この調子を維持してくれ」と冷静な声。

しばらく進んで、後ろに声をかける。「どうだい、腕は?」
「ちょっと痛いが、漕げなくもない」とブライアン。
「無理しないで景色でも見ててくれ」と僕。

「10キロ通過」とブライアン。半分ちかく来た。僕は、ふと思い出したように、ボトルをつかんで水を飲む。生温い水が体を迸り、粘ついていた血液がさらさらになる感じがする。

水を飲むと体が軽くなる。またひたすら漕ぐ。一漕ぎごとに、スワンヒルのゴールに近づく。スワンヒルに行くのは初めてだが、まさかカヌーを漕いでたどり着くとは思わなかった。404キロなんて途方もないと思ったが、毎日みんなで漕げば、到達出来る距離だと分かった。

「さあ、あと5キロだ。最後の5キロだ。楽しく行こう」とブライアン。気がつくと彼も漕いでいる。それでもスピードは乗らないから、足の速いカヤックにどんどん抜かれて行く。「着いたら冷たいビールで乾杯だ!」と言いながら抜いて行ったのは、熟練カヤッカーのリチャードだ。彼は、メルボルンからタスマニア島までの300キロを、島づたいに漕いだこともある強者だ。川下りなどは朝飯前なのだろう。彼は、美人の妹とタンデムだ。

僕が常連のカヤックショップの店長アンドリューも抜いて行った。アンドリューは、すらっと長いオーシャンスキーという種類の俊足カヤックに乗っている。彼は単独参加だ。「アンドリュー、どうだあ?」と、僕が声をかける。「もう、ぼろぼろだよ。早く終わりたいよ!」と、身長190センチの猛者も弱音を吐く。

「あと4キロ、締めていこう」と、またブライアンがいう。僕は、不意にまた体がふわっと軽くなり、幸福感で一杯になる。またランナーズハイだ。僕は、本当にカヌー好きだ。川や海が大好きだ。水上を音もなく漕いで進んで行く感覚が楽しくて仕方がない。今ここにいることが、幸せでたまらない。

18.jpg

「あと2キロ。あのカーブを曲がると、ゴールが見えるはずだ」ブライアンが、少し高揚した声で言う。僕は、そのカーブの手前まで、右できっかり150回漕ぎ、カーブの少し手前でパドルを左に持ち替える。そしてそのまままたきっかり150回漕ぐ。右利きの僕は、当然右で漕ぐのは得意だが、左は疲れやすい。力も、右の8割くらいしか入らない。左を鍛えるのが今後の課題だな、と考えながら漕ぐ。

「見えた。あと1キロ」と、ブライアンが言う。僕は一瞬胸がいっぱいになって、すぐに返事が出来ない。胸にぐっとくるものをこらえて、「本当だ、見えた」と、5秒後に返事した。

ゴールの方でも、僕たちの赤いカヌーが見えるのか、赤いチームユニフォームの人たちが躍り上がって、手を振っているのが見える。色の黒いナイジェリア人のマイケルがすぐ分かる。「左岸に焦点を定めて、そっちへまっすぐ漕げ」と、ブライアンが指示を飛ばす。僕は、パドルを右に持ち変える。さあ、あとは最後まで右腕で漕ぎまくるぞ。

もう仲間がはっきり見える。妻のチャコが見える。ダイアンがビデオを回している。鈴吾郎が飛び跳ねている。僕は、ただ、猛烈にパドルを川に叩き込み、水を炸裂させる。もうすぐ終わりだ。

ゴールをくぐると、「ブー!」とブザーが鳴り、「Push’n Wood team!」とアナウンスがあった。鈴吾郎が水に飛び込み、カヌーまで泳いできた。僕は、漕ぐのを止めて、パドルを頭上に持ち上げた。それでもカヌーは惰性で進み、川の流れに乗って海に向かって進んで行く。ここで終わってしまうのが残念だ。ブライアンがカヌーを操り、僕たちはくるりと回って岸辺に向かった。カヌーの舳先が岸辺の砂地をざくっと噛んだ。それで終わった。最後はあっけなかった。5日間、404キロの水上の旅は終わった。

カヌーマラソンが終わって

今夜は大晦日だ。スワンヒルのイタリアンレストランに集まったPush’n Woodの面々は、ワインやビールで乾杯した。


19.jpg
鈴吾郎、ダイアン、ブライアン


「ねえ、来年ももちろん出るでしょ?」と、ダイアンがにっこり笑って僕に聞いた。「時間を作って出たいなー」と僕。
「そうなのよ、カヌーマラソンって癖になるのよね。つらくて、汚くて、暑くて、埃っぽくて、その上一週間も時間がつぶれるし、お金もけっこうかかるし。でもね、一回やるとまたやりたくなる。2回やると3回やりたくなる。不思議よねえ。」
僕も同感だ。

ところが、よく冷えたギネスビールを飲んでいたギャリーが言った。
「俺は、今のところはこりごりだね。もう一人ではやりたくないよ。」
彼は4回目の出場で、初めて単独完漕したのだった。
「でも、一人で漕ぎ切って、すごいじゃないの。すごい達成感で一杯なんじゃないの?」と、ダイアンが言う。
「いや、そんな感じじゃないなあ。とにかく、やっと終わった、という気持で一杯だよ。来年がどうのこうのなんて、とても考えられない。」
「ねえ、たった一人で400キロ漕いでいる間、ずっと何を考えていたの?」と、ジョアンがギャリーに尋ねる。

「何も考えない。ただ次の一漕ぎのことだけ考える。その次は、また次の一漕ぎのことだけ。その連続さ。とにかく、漕ぐことに集中するのみ」と、ギャリーがギネスの泡を見ながら言った。

20.jpg
404キロ漕ぎ終わっても笑っていたギャリー


マイケルが、赤ワインをどばっと僕のグラスについだ。かなり酔っているみたいだ。マイケルは「俺も、来年はカヌーに乗るからな!」と宣言した。マイケルは、泳げなくて水が怖いのだが、どうやら本当にカヌーに乗ることを決心したようだ。
「この人、本気みたいね」と、奥さんのヘレンもまじめな顔で言う。

ブライアンが言う。
「マイケル、よく決心した。それなら2月から特訓だ。まず救命胴衣を付けて、片足を水に浸ける。それができたら今度は両足を浸ける。それもできたら、今度はみんなでお前さんを川に放り込んでやる。救命胴衣があるから溺れないぞ。それでもお前さんがまだ笑っていたら、カヌーに乗せてやる。いいか?」と、ブライアンがマイケルの背中をばしばし叩きながら言った。マイケルは、涙を流しながら笑っている。65才になって初めて泳げるようになったら、さぞうれしいだろうな。

遠くでのどこかで 花火がはじける音がした。そうだ、今夜は大晦日だった。僕の初めてのマレーマラソンは終わったのだ。404キロを5日間、七人の仲間と漕いで、僕たちの水面のお祭りは終わった。川の流れに乗って僕は悠々と急ぎ、本来の自分にやっと何年ぶりかで追いついた気持がした。

22.jpg
「来年は私もでるかも」と、チャコ
posted by てったくん at 15:33| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2012年10月18日

エスキモーロールことはじめ

2012年10月15日 

僕は水中で逆さまになって、もがいていた。上下左右も分からない。鼻から水が入ってくる。耳にも水が入り、何も聞こえない。隣の人の足が逆さだ。手を振り回すが、体は逆さまのまま。呼吸も苦しくなってきた。

この状態は、今年50才になった僕の心理を、象徴的かつ具体的に表しているのかもしれない。50才になったのをきっかけに、僕は今までと少し違った視点や状況に自らを置いてみることにした。今までやったことのないことをして、凝り固まった考えを変えようということだ。そう決心しておきながら、体が逆さまになり、視点が変わっただけで、僕は戸惑い、混乱し、パニックになっていた。

僕は、シーカヤックのエスキモーロールの練習をしていた。逆さまのカヤックから僕が脱出できないでいるのを見てとったピーター・コステロは、すかさず僕のカヤックをくるりと回して浮上させてくれた。僕は「ブハーッ!」と息をついた。

「アハハハ。何もそんなに慌てないでもいいんだよ。カヤックが転覆したら、まず体の力を抜いてリラックスする。そして深呼吸して(水の中でどうやって深呼吸するんだよ、アホ!)、状況を把握する。それから、こうやってパドルを力いっぱい45度の角度で前から後ろに振るんだ。そうすればカヤックは復元するはず。簡単さ!」と、ピーターは言った。

シーカヤックとは、エスキモーが昔乗っていたような細長いボートで、これを現代的にデザインした手漕ぎ舟だ。船内に水が入らない構造になっていて、かなり波のある海でも漕ぎ回ることができる。これで、オーストラリアからニュージーランドまで漕いだり、北大西洋を横断した人もいる。僕のインストラクターのピーターも、メルボルンからタスマニア島までの300キロを漕ぎ渡った経験を持っている。

手作りヨット.jpg
僕が作ったおもちゃヨット

そしてエスキモーロールとは、ひっくり返ったカヤックを乗ったままでくるりと回転させて復元させる技を言う。スイスロールのようなケーキのことではない。海上で波にあたってひっくり返って沈したとき、この技ができれば、わざわざカヤックから水中に出なくとも、カヤックを復元させて漕ぎ続けることができる。シーカヤック乗りには必至のテクニックだ。

上り坂の先は平坦路

僕は50才になって、当然かもしれないが、これからの人生はこれまでの人生よりも短くなったことに気がついた。短く言えば、折り返し地点を過ぎたということかもしれない。でも、僕は、間違っても、これまでの人生を「折り返し」たり、繰り返したりはしたくない。これからも新しい体験をしたい。が、50才になった感慨は、人によってやや異なるみたいだ。近所の友達で、今年1月に50才になったイアンはこう語った。
 
「50才と言ったって、墓場が近くなったという訳じゃない。まだまだだ。だが、もう登り坂は終わった。これからは、俺は平坦な道を走り続けることになる。なるべく長い間な。だが、気を抜いたり、走り続けるのを止めたら終わりだ。そのとたん下り坂だ。そして、その下り坂は下れば下るほど急になる。転げ落ち出したらもう停まらない。」僕も、イアンの考えに同感だ。前に進むことは止めたくない。

イアンはこう言い残すと、仕事を3ヶ月休職し、やはり50才になった友達と二人で、がたがたのBMWのバイクにテントと寝袋を積んで、北オーストラリアの砂漠を目指した。彼のBMWは満タンでの最大航続距離は400キロ未満だそうだが、北オーストラリアには500キロ以上ガソリンスタンドがない荒野もある。そんな場所では、もちろん携帯電話など通じない。
 「予備タンクもあるし、どうにかなるさ。だがな、人生では、時には賭けに打って出ることも必要だ。まあ、相棒は心配性だから、救助信号用EPirb(遭難救助用発信装置)も持ってるしな。使うこともないだろうが。」
 スティープ・マックイーンを横長にしたような顔のイアンは、こう言ってニヤッと笑った。3月の終わり、彼らは旅立った。

海に出たい

50才になったからと言って、何かを証明しなくてはならない訳ではないだろう。イアンにしても、50才の誕生祝いに、クロスカントリーのバイク旅行に出かけたまでのことだろう。しかし、50才になったことは、何か今までやってこなかったことを始めるきっかけにはなる。

僕は、海に出たいと思った。人生これまで、海とはあまり縁がなかったが、この2、3年、僕は急に海に出たくなったのだ。きっかけは釣りだった。岸壁から息子と釣りをする楽しさをある夏休みに覚えた。それが嵩じてカヌーを始めた。僕は、パドルを漕いで静かに水面を滑っていくことに快感を覚えるようになった。眠れない夜は、水上にいるイメージを浮かべると、すぐに心が休まるようになった。ところが、波をかぶったら浸水するカヌーでは、外海に出られない。息子はモーターボートを買おうと言ったが、僕はエンジンの付いた乗り物は、うるさくて好きではない。

タンタン丸.jpg
僕の作ったカヌー、タンタン丸(釣り仕様)

そうしているうちに僕の読書の傾向も、海洋探検、航海、ヨット、カヌー、カヤックといった関連のものに傾いていった。中でも、オーストラリア人冒険家James CastrissionのAcross the Ditchという本には心揺さぶられた。二人の若者がオーストラリアからニュージーランドへの3000キロを60日かけてカヤックで渡った実話だ。Oscar Speckというドイツ人が、第二次大戦前にドイツからオーストラリアまで折りたたみのカヤックで旅した話にもロマンを感じた。日本人の吉岡嶺二が、長い時間かけて、こつこつ尺取り虫のようにカヤックで日本一周した記録にも敬服した。

シーカヤックの講習会に出て、カヤックを手に入れる

講習会.jpg
カヤックの講習会で

僕も、とにかく始めようと思った。50才になった翌月、清水の舞台から飛び降りるつもりで、二日間のシーカヤック講習会を受けた。ポートフィリップ湾の柔らかいうねりの中で、漕ぎ方の基本、沈した時の再乗艇の仕方、天気、潮流、海図の基本的知識などを学んだ。同級生には中年のオヤジとオバサンが多かった。僕はこれで大分自信をつけた。すぐに、ビクトリア・シーカヤック・クラブという団体にも入会した。

6月になって、いよいよ自分のシーカヤックを買いに出かけた。メルボルンには、3軒ほどシーカヤックの専門店がある。一軒目ではこう言われた。

「いきなり本格的なシーカヤックは、ちょっと背伸びじゃないの? 危ないし。それに、あんただけ一人で海に出たんじゃ、奥さんやお子さんがかわいそうでしょ? だから、とりあえずファミリー向けの二人乗りを買って、それで一夏海岸で慣らしてさ、それでも海に出たければ、本格的なのを買ったら?」
僕は、その店をすぐに出た。

2軒目では、カワイコちゃん店員に、あれでもいいし、これでもいいと勧められ、混乱して終わった。僕に必要なのは、的確なアドバイスであってギャルの笑顔じゃない。

買うのはよそうかと思ったが、気持を奮い立たせて、三軒目に行った。倉庫のようなこの店は、スパルタンなシーカヤックやレース艇を売る店だった。飾り気もなく、僕は店の入り口で二の足を踏みそうになった。しかし、僕の気配を感じて、奥から無愛想な大男の店員がのそっと現れたので、後へは引けなくなった。

無愛想な大男は、僕の話をじっと聞いた。筋骨隆々、腕も長くて手も大きい。気合いの入ったカヤッカーという風貌だ。
「どんな場所でカヤックを乗るんだ?」男は、単刀直入に聞いた。

カヌーはやったことがあるがカヤックは初心者である、海で波と戯れてみたい、海岸沿いに2、3日の旅に出てみたい、僕はそんなことを話した.

大男は、またぼそっと聞いた。「どんなカヤックを買いたいのか?」僕は、ドイツ製P社の名前を挙げた。すると、店員は首を横に振り、「あんたには大きすぎ、重すぎだ」と言った。僕は、スウェーデンS社の名前も挙げた。男はまた首を横に振り、店の片隅にある、細目でスッキリした形のカヤックを指差して言った。

「こう言っちゃ悪いが、あんたにはPもSも無理だ。あんたの体では持て余す(僕は170センチ、57キロ)。静かな水面なら良いが、海では、風、潮流、うねり、低温、疲れとの戦いになる。悪いことは言わない、軽くて細い舟にしておけ。あんたの体に合うカヤックは米国製H社のトレーサーしかない。」

僕は、この男なら信頼出来ると思った。そこで、この店でH社のトレーサーというカヤックを買うことにした。

待つこと2ヶ月、8月頭、アンドリュー(大男の店員)が電話して来た.今度は、うれしそうな明るい声だった。
「お前のトレーサーがアメリカからきたぞ。準備しておくから、早く取りにこい。」

僕の赤いトレーサーは全長505センチ、幅60センチ、重さ20キロ。50才になって、ポルシェを買う男もあるだろうし、若い恋人を持つ奴もいるだろう。だけど、僕の恋人は、この細長いカヤックだ。小学生の高学年になって、初めてギア付き自転車を買ってもらった時のように僕は興奮した。5メートルもあるから部屋には入れられないが、ベッドの横に置いて眠りたいくらいだった。

僕の恋人レインボー丸.jpg
赤いトレーサー、僕のカヤック


エスキモーロール

こうしてカヤックは買ったが、メルボルンの8月は真冬でなかなか海には出られない。

そんな矢先、ビクトリア・シーカヤッククラブから、「冬期エスキモー・ローリング講習会、於ラトローブ大学温水プール、初心者歓迎」という知らせが舞いこんだ。いよいよ来る時がきた。さっそく、「出席」の返信メールを出した。講習会の晩、車の屋根にトレーサーをくくり付け、ラトローブ大学のプールに向かった。「よし、やるぞ!」

エスキモーロール講習会、於ラトローブ大学プール

大学のプールに着くと、、いるいる。15隻ほどのカヤックがすでにプールサイドに並び、周りをさまざまな風情の老若男女が取り囲んでいる。
「よろしく。初参加のテツタです」と、年かさの大ヒゲ男に挨拶した。
「おう、俺はボブだ。よろしくな。初心者だって? エスキモーロールなんて、簡単だ。2、3回やれば、覚えちまう。あんたの今夜のコーチは、あそこのピーターだ。あいつは、おっちょこちょいな顔をしているが、タスマニアまで2、3回は渡っているやり手(old-hand)だ。」
僕は、準備に忙しいピーターに手を振った。

その晩の初心者は、僕ともう一人の中年男ロバートだった。ロバートは、ミラージュ580という、6メートルもある大物カヤックを担いできたが、かなり持て余し気味だった。そこへ、ニールという古参クラブ員が、スリックな黒いカヤックで様子を見に来た.
「ロバート、ミラージュなんか乗って、いきなりニュージーにでも行くつもりか? こういっちゃあ何だが、初心者がそんな大きな舟じゃあ、苦しいぞ。」
きたきた。体育会クラブの初心者いじめは、オーストラリアでも健在だ。ニールは、僕の赤いカヤックもちらっと見てこう言った。
「アメリカ製のプラスチック舟か。それで、どこまで行けるかな?」
僕は、ニールには用心しようと考えたが、顔では笑ってみせた。

それより、エスキモーロールの練習だ。僕は、ピーター方に向かって、カヤックで混み合う50メートルプールを恐る恐る漕ぎ渡った。見ると、60代後半、70代ともおぼしき初老のオヤジ(ジジイ?)たちが、使い込んだカヤックで、くるりくるりとロールを決めている。みんな老人のくせに贅肉のないいい体つきだ。加えて、さざ波ひとつ立てずに、たいして力も入れずに、カヤックをくるりと復元させている。すげえなあ!

さて、僕らの講師役のピーターは50代半ばということだが、どうみても40ちょっとにしか見えない。この若さは何だ?
「いくつか手本を見せまーす!」と言って、ピーターは、僕とロバートの前でロールしてみせる。

それから、「さあ、君たちもやってみようねえ!」と、ピーターは明るく言った。
僕たちは、恐る恐るカヤックを傾けつつ、カヤックを限界まで倒してみる。
それから、体を後ろへのけぞらしてみせる。
パドルをホウキのように、前後に滑らしてみせる。
こういったことを何度も、何度も、練習する。
はっきり言って、ロバートも、僕も、動きがぎくしゃく、ひっくり変えるのが怖くて、及び腰になってしまう。
「だめ、だめ、そんな腰つきじゃ!」と、ピーターは怒鳴る.

僕は実は、エスキモーロールに関しては、ずいぶん書籍を読んだし、Youtubeなどでもフォームは研究してきた。中でも、英国人Derek Hatchinsonの書いたSea Canoeingというテキストは、暗記するくらい読んだ。だから、水に入ったら、すぐにロールをマスターしてみせる、と意気込んでいたのだ。溺れそうな犬だって、もう少しましな様を見せるだろう。

「さあ、じゃあ、君たちも、実際に舟をひっくり返してみようじゃないの。じゃあ、まずテツタから、カヤックをひっくりかえして、これまでやったことを連続してできるか、さあ、やってみよう!」と、ピーターがうれしそうに叫んだ。さっきのニールも、黒カヤックの上からニヤニヤしながらこっちを見てやがる。

ちくしょう、見てろよ! 僕は、深呼吸し、パドルを両手で握って、後ろ向きにカヤックをひっくり返してみせた.「どうだ見たか!」、見事に、カヤックごとひっくり返ってみせた自分に一瞬得意になった。

ところがどうだ、天地が逆になった途端、僕には自分がどっちを向いているのか、両手に握ったパドルをどちらに振るのか分からなくなった。頭の中は真っ白、周りは水泡ばかりになった。

僕は、見事に敗北し、他のクラブ員がゲラゲラ笑う中を、無惨にもピーターに引き起こされたのだった。

仲間と荒海に出る図.jpg
仲間と荒海に出て行く図


エスキーロール講習の二度目、三度目

あれから、講習にもう二回出た。初回で見事な敗北を喫したので、二回目はかなり気負って出た.ところが、二回目は、一回目よりももっとひどい敗北だった。僕があまりひどい様だったので、にやけたニールまでが助けてくれた。「テツタ、もしかして、お前さんのパドルが良くないんじゃないの? 俺のを使ってみな」と、ニールは、高価なケブラー製のパドルを貸してくれた。案の定、僕はパドルを振る向きを間違え、ニールのパドルをプールの底で叩き付けて割りそうになった。ニールは青くなり、それ以降、僕に近づくのを止めた(ざまあみろ!)

「君につき合ってると、僕、自分の練習時間がなくなっちゃうなあ」と、親切だったピーターまでが見捨てるようなことを言った。

三回目は、よっぽど行くのを止めようかと思った。それでも、やはりプールに向かった。僕は、こういうときはいつも心の中で思う。”I have nothing to lose.”(失うものなど、何もない)。ピーターは、僕の姿を見ると、プールの向こうにカヤックを漕いでいってしまった.ニールはニヤニヤして、「また来たの?」みたいにウインクしてみせた(こんにゃろ、見てろよ!)。

僕は諦めない。もう誰も教えてくれないので一人で練習した。カヤックをひっくり返しては、水の中に逆さまになる練習をした。見かねて、ピーターが戻って来てくれた。
「あのね、こうしよう。パドルフロート(浮きのようなもの)を付けて練習してみよう」ピーターは言った。

フロートをパドルの右端に付ける.それでひっくり返る.そうすると、何て事はない、逆さまになっても右側が分かるのだ。単純なことだった。印があればいいのだ。僕は、勢いよくパドルを振った。カヤックが半分持ち上がった。

「おおお!」、ピーターが唸った。僕の練習を見るとはなしに見ていた2、3の観客からも声が上がった。まだロールが出来た訳ではないが、どうにか体を起こすこつが分かりかけたのだ。

「やったよ、やったよ、テツタ、その息だ.それでいいんだ。君は、体が軽いからすぐ出来る!」ピーターが握手してくれた。嬉しかった。こんなに嬉しかったことは、今年は、まだなかった。つまり50才になって、一番嬉しかったことだった。

さて、もう10月。僕はエスキモーロールがまだ出来ない。だが、もう2、3回練習を積めば出来るようになるだろう。目標があるということは素晴らしいことだ。

そして、エスキモーロールができれば、少しは波のあるところにも出て行ける。そうすれば、また、少し違った視点から、自分のいる場所を見ることができるだろう。

メルボルンはもうすぐ夏だ。

カヤック製作中.jpg
今、カヤックも作っている

posted by てったくん at 13:42| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記