2016年10月22日

メルボルン、シドニー往復2000キロのドライブ 

2016年10月20日

春休み、メルボルンの自宅からシドニーの北側ナラビーンという町まで、片道930キロのドライブ旅行に行ってきた。これまで一日で走った最長距離は、南オーストラリアのモーガンからメルボルンまでの830キロなので、今回が自己最長記録となった。

シドニーへ行った訳は、息子の鈴吾郎(りんごろう、13歳)がサッカーのビクトリア州代表チームに入ったので、その観戦だ。こう書くとまるで「甲子園」に出たみたいだが、それほどではなくて、あくまで彼が所属している「教会リーグ」という地域リーグの中でのことで、オーストラリア中学生サッカーの最高峰ということではない。トーナメントは、全部で5日間の総当たり戦。ひとチーム毎日2、3試合を行う。今回出場は、南オーストラリア、ニューサウスウェールズ、クイーンズランド、そしてニュージーランドの各代表だ。

P1060258.JPG

P1060260.JPG

でも、一応州代表だから鈴吾郎の鼻息は荒い。そして、その鈴吾郎のサッカーを支えてきた母親チャコの鼻息も同じくらい荒くなった。だから、ちょっと遠いけどシドニーまで行ってみますか、ということになった。

通常シドニーへ行くには一時間半の飛行機なのだが、今回は現地で宿とトーナメント会場の間の移動もあるし、できればシドニー観光もという魂胆もあったので車になった。飛行機の方が往復2000キロのガソリン代よりも安かったかもしれないが。

メルボルンからシドニーへの往路は、メルボルンを出たのが午後だったので、280キロ先のワンガラッタという町で一泊することになった。だから、一気に950キロ走るのは、シドニーからの帰路ということに。鈴吾郎たちサッカー選手陣は、バスでの移動なので、行きも帰りも別行動だった。


ワンガラッタまで280キロ

午後2時にメルボルンの東側のベルグレーブにある我が家を出発した。シティを抜けて、一回だけ休憩に止まり、ワンガラッタまで三時間弱のドライブだった。これくらいのドライブは楽勝だ。天気は小雨だが、メルボルン空港の横を抜けて北に向かうヒュームハイウエーはシドニーとメルボルンを結ぶ大動脈だから、4車線で速度制限は110キロ。110キロを超えないようにクルーズコントロールを110キロに合わせる。自分でアクセルを踏んでいると、登り道ではスピードが落ち、下り坂ではスピードが出すぎるが、クルーズコントロールだと、ぴったりと110キロを維持できる。オーストラリアで長距離を走るときはこれが便利だ。うちのスバルは燃費があまり良くないが、高速に出ると流石に良くなり、リッター15キロ以上走るので、得をしたような気がする。4車線だと、遅い車は追い抜けば良いし、速い車には好きなように抜いてもらえるから気が楽。多くのオーストラリアの田舎では、一級の国道でも2車線の対面通行が多いから、100キロで走って、抜きつ抜かれつするのはかなり気疲れする。それに比べると、ヒュームハイウェーは天国のよう(だから、退屈でヒュームは嫌だという人も多い。でも道路はレース場じゃないんだからね!)。

P1060240.JPG
ヒュームハイウェーの青い空


夕闇が落ちる頃、ワンガラッタに着いた。人口2万人の町だが、2万というのはオーストラリアの田舎では大きな方に入る。そういう町は周囲数百キロのいろいろな要所も兼ねるから、学校、政府事務所、銀行、商店、自動車屋、空港、病院、スポーツ施設、賭博場などがある。ワンガラッタもそうで、人口の割には店がたくさんあって賑やか。ただし、日没までのこと。日が暮れると、ガラッと人気がなくなる。オーストラリア人は日が暮れるとみんな家に帰ってしまい、店も田舎ではきっかり5時に閉めてしまうところも多い。ワンガラッタもその通り。

「しばらく仕事をする」と言う女房をモーテルに残し(パソコンとWIFIがあれば、どこでも仕事ができる人)、ワンガラッタ見物の散歩に出た。6時過ぎにはもうゴーストタウンで、長さ1キロほどの目抜き通りを歩いている人は数える程。開いている店はピザ屋と中華屋、そして最近増え始めたマッサージ屋くらい。

そんな目抜き通りを歩いて、町の反対側を流れるマレー川の支流であるキングリバーまで歩く。この冬ビクトリアは雨が多く、マレー川はあちこちで氾濫して洪水を起こしている。キングリバーも満々と水をたたえていて、すぐにあふれそう(しばらくして、ワンガラッタも洪水になった)。

偶然だが、今夜は僕ら夫婦の結婚記念日だ。だから、このキングリバーを見下ろすようにして建っている(はずの)フランス料理のレストランを予約しようと言うのが、僕の散歩の魂胆だった。だが、どう言うわけか目当てのレストランがない。同じ住所には、やや雰囲気の違うカフェがあって、そこには普段は農場で働いているような日焼けした若者がぎっしり集っている。みんな刺青をしていて、農機具会社のマークがついたベースボールキャップをかぶっている。そのお相手は、化粧の濃い、金髪やブルネットの女性たち。店内には大きなテレビスクリーンがあって、オーストラリアンフットボールの試合を写し出している。どう見てもフランス料理店ではない。目当てのレストランは潰れたらしい。

ああ残念!結婚記念日に、ワンガラッタでピザか中華か!情けないなあ、俺たち夫婦!と、さえない気持ちでモーテルに戻るが、途中にちょっと洒落たイタリア料理があった。ビクトリア朝風の古い建物、店内にはかっこいいバーもある。ここなら良いかもしれない。

というわけで、仕事を終えた女房を連れて、このイタリア料理におもむく。結果を言えば、味の方は大味、量も多め。ワンガラッタだから仕方がないかも。僕はサーモンのステーキ、女房は、ほうれん草のリゾット。ワインは、この間のニュージーランド旅行以来はまっているピノ・ノワールの赤。

食べながら辺りの人を観察。横に座っていた「農場風」夫婦は、それぞれが500グラムのステーキをペロリと平らげた。500グラムのステーキというのは、半端な大きさではない。厚みは3センチ、直径は大きなお好み焼きほど。日本人なら四人前だろう。その横では、三世代の家族が集まってピザの大判振る舞い。誰かの誕生日らしい。そのさらに横では、すごく太った彼女と、すごく痩せた彼氏というカップルがデート中。

一応イタリア料理店でありながら、雰囲気は西部劇に出てくる居酒屋のようだ。現代のオーストラリアであることと、ここが田舎であることを匂わせるのは、客が白人ばかりで、それも肥満の人が多いこと。服装も地味目、というか野暮ったい。肥満はオーストラリアの社会問題であり、医療や税制、教育にまたがる問題だが、ここらの人が食べているものを見ると、体重を減らそうという積極的な努力はほとんど見られない。だが、そう言うことが例え事実だったとしても、ここにいる人たち一人一人に対して僕が批判的になることは間違っている。この人たちの体重が僕よりいくらか重くても、この人たちが田舎に住んでいていくらか野暮だったとしても、僕がこの人たちの人間性やライフスタイルなりを批判できることにはならない。僕だって、僕の生き様や食べているものを他人からとやかく言われたり、偏見の目で見られるのは迷惑なのだから。


シドニーまであと600キロ

翌朝8時、ワンガラッタを出発。シドニーまでまだ600キロ以上ある。女房の朝飯はヨーグルトにフルーツ。僕はフルーツと紅茶だけ。昨晩の大きなサーモンのステーキがまだお腹に残っている。あのサケだって、軽く250グラムはあっただろう。

ヒュームハイウェーを行くが行くが行くと、ビクトリアとニューサウスウェールズ州境のウォドンガ・オルベリーという町だ。ここにはマレー川の主流が流れる。雨ばかりだから、ものすごい水の量。さらに行くとGundagaiという町。「ここって、確か何かで有名だったな?」と記憶するが、何だったか思い出せない。それでも行くと、Dog on the tucker box(弁当箱に座った犬)と書かれた標識がある。これで思い出した。オーストラリア版忠犬ハチ公の物語だ。昔、ここに牛飼いたちだけが暮らしていた頃、主人の弁当箱に座って主人の帰りを待ち、その中に排便したという犬の物語だ。主人の弁当箱に排便する犬のどこが忠犬なのか分からないが、この犬のことを歌った民謡さえある。Gundagaiではこの犬のフェスティバルが毎年あるというし、道路にも大きな看板はあるし、博物館もあるし、さぞや立派な犬グソだったに違いない。

タラカッタという、カルカッタみたいな名前の村がシドニーとメルボルンのちょうど真ん中にあった。ここでスバルを給油しようと高速を降りると、すぐに110キロから50キロに減速の標識だ。減速しきらないで70キロくらいで走っていると、忍者のように隠れていたパトカーが出現した。「ちゃんと減速しなさいよ」と、きついお叱り。でも、切符は切られませんでした。やれやれ。以後は絶対に捕まらないように気をつけることを肝に銘ずる。

まだシドニーまで500キロある。やれやれ。ヒュームハイウェーはくねくねと、緑の丘と牧場、森や林をぬって続く。昨夜は27年目の結婚記念日だったし、今日は僕の母の命日でもある。僕たち夫婦の会話も、そうした様々な過去を振り返ったり戻ったりするが、やがて話すことも途切れてくる。そう思ったら、チャコは助手席でぐうすか寝ている。昼飯の後だから気落ち良さそうに舟を漕いでいる。俺も寝たいよ、全く。

P1060248.JPG

シドニーには、どうにか午後3時にやっと到着。やっぱり疲れたが、シドニーの町は、はっとするくらい綺麗だ。シドニー湾を囲むように街が広がり、その真ん中にはシドニーハーバーブリッジがそびえ立ち、向かいにはオペラハウスがある。「いいねえ、金持ちになったら、このあたりに家を買いたいね」と、いつもと同じ冗談を言いつつ橋を渡る。そこから目的地ナラビーンまで小一時間、午後4時着。今日は600キロを8時間ほどで走ったことになる。

宿のエアB&Bは小高い丘の上にあった。リタイアしたイスラエル出身のカップルが経営している。母屋の地下に小綺麗なアパートメントがしつらえてあり、ここが私たちの宿だ。地下と言っても丘の斜面だから半地下で、窓から海が見えるという優雅な地下室。広い台所付きの居間に、洗面所、ベッドルームがあり、広々としている。ここが一泊70ドルとは格安だ。


サッカー三昧の日々

翌日からサッカーの試合見物。いくら教会リーグでも州代表だから、子供たちのテクニックもさすが。これくらい上手いと見ていても面白い。応援にも熱が入る。鈴吾郎のビクトリア州チームは昨年優勝したので、今年も優勝を狙っている。今年初参加の鈴吾郎は、補欠扱いで、試合に勝っている時だけは出してもらえる。末席でも、そんなチームに入れてもらって鈴吾郎は本当に嬉しそうだ。彼の取り柄は、走るのがやたらに早いこと。ボールが回ってくると、ミツバチのように猛烈にダッシュする。あの足の速さは誰に似たんだろう?

P1060274.JPG
俊足、鈴吾郎

ビクトリアからは、僕たち夫婦だけでなくて、他にも10家族ほどが応援に駆けつけている。チームメイトの家族の文化背景もいろいろで、うちは日本で、それ以外は、ギリシャ、マレーシア(それともインドネシアかな?)、アフガニスタン、アフリカのスーダンかどこか、オランダ、インドなどなど。オーストラリアにいると、相手の出身などはいちいち尋ねないのが礼儀だし、見ただけでは本当にどこの出身だかわからない。とにかく、みんなで一団となって応援する。

P1060327.JPG
観戦中のチャコ


キューピーマヨネーズは偉い!

正直言って、オーストラリアを旅行していてつまらないのは食事だ。どこに行っても同じようなものしかないからだ。ピザ、イタリア料理、サンドイッチ、フィシュアンドチップス、巻き寿司、中華、ハンバーガー、ミートパイ、サンドイッチなどの繰り返し。

もちろん、その中にも出来不出来もあるし、お金をたくさん出して、それなりの場所で食べれば目の玉が落ちるような素晴らしい料理もあるだろう。それに、肉や野菜や果物といった食材は豊かだ。でも、庶民的な食事のレベルだと、どこへ行ってもあまり変化がない。日本なら、電車で旅行しても車で旅しても、どこかの町へ着けば、その土地の名物が目白押しに並んでいるし、名産品もたくさんある。でもこちらでは名産品なんてないし、スーパーへ行っても、シドニーのウールワースもメルボルンのウールワースも、全く同じような造りで、全く同じ商品が全く同じ値段で売られている。メルボルンでもシドニーでも、チキンの丸焼きは一羽7ドル99セント、デリカテッセンの横の保温ケースの中に並んでいる。(どこのスーパーでも、商品を探す手間が省けるけど。)

だからシドニーへ行っても、(途中のワンガラッタで肩透かしを食らったせいもあるが)食事に関しては期待はしないことにした。そもそもサッカー観戦が目的だから、レストランを探している時間もない。朝は宿でささっと食べ、昼はサッカー場で食べられるようにサンドイッチかお握りを作って持っていく。夕方も遅くまで試合があったりするから、ゆっくり外食というわけにもいかない。シドニーのダウンタウンだったら遅くまでやっているレストランもあるが、ナラビーンのような郊外では、あまり遅くまでやっている店はない。ピザ屋くらいはあるが、僕たちはあまりピザが好きではない。だから、夜も遅くなってから宿に帰り、ご飯をたいて、簡単なおかずで自炊だった。

今回の旅行でも、最初からそのことを予見していたから、もしかして宿にガス台がなかったら困ると思ってカセットコンロと鍋とフライパンを持ってきた。そしたら見事予想が当たって、ガス台がなくて、調理機器はトースターと電子レンジだけだった。オーストアリアでは、「キッチン付き」と書いてあっても、そんなことがある。そこで、カセットコンロでご飯を炊いたり、野菜炒めを作ったりして重宝した。オーナーのイスラエル人夫婦はカセットコンロを初めて見たらしく、「これは便利だ!私たちも買おう!」と言っていた。

調味料も、油、醤油、塩こしょう、ワサビくらいは、僕たちもいつも持って歩いている。ただ、どういうわけか、いつもマヨネーズを忘れる。そこで今回は、スーパーで久しぶりにキューピーマヨネーズを買った(いつもは、キューピーは高くて量が少ないから買わない。)

オーストラリアのスーパーでも、キューピーはどこでも手に入る。今回、久しぶりに買って驚いたのは、その蓋だった。日本でも多分そうだと思うが、キューピーの蓋は二重になっている。最初の赤いプラスチックの蓋を取ると、小さい穴が開いている。そこからマヨネーズを絞り出すと、当然だが、にょろにょろと細くマヨネーズが出てくる。もっとたくさん絞り出したければ、さらにもう一つの赤い蓋を外すと、今度は太い星型の穴が開いていて、そこから太めのマヨネーズが、ぶにゅーっと出てくる。こんなに手が込んでいるのは日本製品だけである。日本に住んでいる日本人は、こういうことを「当たり前田のクラッカー」だと思っているだろうが(古いねえ、僕も!)、一旦日本を出てしまうと、こういうことは非常に珍しいと気がつくであろう。オーストラリア製のどんなマヨネーズを買ったとしても、蓋が二段式になっていたり、太い方の穴が星型になっていたりすることはない。

そんな風に、日本製品の細やかさを再発見した僕とチャコは、エアB&Bでの貧しい自炊の夕食の際に、キューピーマヨネーズを奪い合い、太い穴からぶにゅーとトマトにかけたり、細い穴からにょろにょろとキュウリにかけたりして楽しんだ。それはそれで、思い出深い食事になった。ありがとう、キューピー!


さらばシドニー!

シドニーには5日滞在したが、試合の合間を縫って一回だけシドニー観光に出かけた。と言っても、ハーバーブリッジの下の現代美術館へ行っただけだが。でも、シドニーは綺麗な街だから、そレだけでも十分甲斐がある。港には大きなクルーズ船が停泊していて、たくさん乗客が乗り込んでいた。クルーズなんて優雅だが、乗り込む乗客はガラガラとスーツケースを引っ張って船まで歩いてくるので、波止場にたくさんいるホームレスの人たちと姿形が変わらない。その周りには、たくさん観光客がいる。中国、日本、ドイツ、アメリカ、インドなどなど。そんな人に混じりながら女房と二人、スタンドで買った寿司を立ち食いしながら海風に吹かれた。

P1060307.JPG

息子たちのビクトリア州代表チームは、順調に総当たり戦を勝ち進んでいた。うちの鈴吾郎も、コーナーキックをジャンピングキックで受けて、見事一点シュート。我が息子ながら、かっこ良かったなあ! 一番惨めだったのは、海を渡ってやって来たニュージーランドチーム。オーストラリアのどのチームより実力がひと回りもふた回りも下のようで、どことやってもぼろ負け。それでも、みんな明るく楽しそうにプレイしていたのは健気だった。打たれ強いニュージーランド人気質を尊敬してしまった。

幸運にも勝ち進んだ息子のチームは、決戦で強豪クイーンズランドと当たることになった。ところが僕ら夫婦は、時間の関係でその試合は見られそうもなかった。どうしてもその日の朝にメルボルンに向けて出発しなければならなかったからだ。後ろ髪を引かれる思いだったが、仕方ない。

決勝がある日の朝7時、シドニーを出た。エアB&Bのオーナー夫婦も見送りに出て来てくれた。「とても素晴らしい宿でした。お世話になりました」と僕らが言うと、奥さんが「あなたたちも、理想的なゲストでしたわよ」と言ってくれた。エアB&Bのシステムでは、お客は宿のレビューを書くのだが、宿も客のレビューを書くのだ。言ってみれば、客と宿が対等の関係だ。サービスが悪かったりして悪いレビューを書かれた宿はお客が来なくなるだろうが、部屋を汚し放題でチェックアウトしたりすれば客も悪いレビューを書かれる。そうなると、どこにも泊めてもらえなくなる。そこが、商業的なホテルやモーテルに泊まるのとは違うところ。面白いシステムだし、まるで友達の家に泊まっているような感覚がいい。

平日の朝7時、シドニーの道路は渋滞だ。だから、シドニーの中心を通り抜けず、西側を回る環状線を走ることに。シドニーの外側を大回りする環状線は、幸いそれほどには混んでなくて、1時間ほどでシドニーの南側に出れた。そこからは、来たのとは逆にヒュームハイウェーをひた走る。シドニーを出たところで、「メルボルン900キロ」と言う標識。さあ、とにかく走るぞ。

しょぼしょぼ降っていた雨も上がり、太陽が出てくる。と思うと、また雨雲がやってきて、ざあざあ降りになる。その繰り返しの天気。朝ごはんを食べてなかったので、サービスエリアで止まり、朝ごはんを食べる。ここの店はセブンイレブンだが、オーストラリアのセブンイレブンは、日本のセブンイレブンのように何でも売っていると言うわけではない。何でも売っているように見えるが、実は何もろくなものは売っていない。でも、ここのセブンイレブンはやや例外で、パックされた巻き寿司や、各種サンドイッチなども取り揃えて置いてあり、やや驚く。僕は、ここでチキンパイと一杯1ドルのコーヒーを買うが、味はまあまあだった。道理でたくさんトラックが止まっているはずだ。運ちゃんはみんなこの1ドルコーヒーを買っている。


P1060233.JPG
犬を連れ、全財産持ってヒッチハイクしてたおばさん

さて、また出発。どこまでも続くハイウェーを110キロで走っていると、時間の感覚が薄れてくる。さっきコーヒーを飲んでから2時間経ったような気もするし、10分しか経ってない気もする。時計を見ると12時近くだ。そこで、はたと息子のチームが決勝でクイーンズランド代表と戦っている時間だと気がついた。僕は助手席のチャコに、「プロのサッカーだったら、インターネットのストリーミングで見られるのにね」と冗談で言った。すると彼女はスマホを取り出していろいろ調べ始め、すぐに「あった、あった!」と叫び声をあげた。チャコのスマホを覗くと、驚いたことに息子のチームが戦っている様子が放送されている。「うわあ、すごい。こんなことってあるんだ!」と僕も叫んでしまった。そこで、車のスピードを上げて、次の休憩所まですっ飛ばす。5分も走ると、休憩所が見えてきたので、ここへ滑り込んで、二人で小さなスマホを覗き込んだ。おかげで後半戦をじっくり見ることができた。プロの試合ではないから解説も何もないが、教会リーグのウエブサイトからストリーミングで見られるようになっていたのだ。全く便利な時代になったもんだ。

息子たちのチームは快調にプレイし、2対0でクイーンズランドに勝ち、今年も優勝した。チャコは、早速鈴吾郎の携帯に「優勝おめでとう!」とテキストメッセージを送った。しばらくして、鈴吾郎からも、「やった!やった!」とメッセージが返ってきた。


潜水艦のある街、ホルブルック

午後2時ごろ、ニューサウスウェールズとビクトリアの州境に近いホルブルックと言う町で休憩、遅い昼飯を食べることに。何もなさそうな田舎町なので、カフェかパン屋でサンドイッチでもと思いながら細長い目抜き通りを走っていくと、いきなり公園の真ん中に大きな潜水艦があったので度肝を抜かれた。陸の孤島のようなこんなところに潜水艦というのも唐突であるが、僕はこういう乗り物が大好きなので、見学に寄る。

P1060369.JPG

潜水艦は100メートルくらいの長さで、上に登ることもできる。その横にカフェがあって、そこに入ると「潜水艦バーガー」、「潜水艦サンドイッチ」などがあった。僕は「スモークサーモンの潜水艦サンドイッチ」を注文した。いわゆるサブマリンサンドみたいな細長いサンドイッチかと予想していたら、丸いハンバーガーのようなサンドイッチだった。どこが潜水艦サンドかいな?と思ったが、食べてしまえば同じだから、ぱくぱく食べた。こういうパサつく食事をしていると、早く家に帰って、米飯を食べたくなる。

お昼を食べてしまうと眠くなる。助手席のチャコは、またこっくりこっくり。いやんなちゃうなあ、と思いつつ30分ほど走るが、本当に耐えきれないくらい眠くなってきたので、州境の辺りで運転を代わってもらう。往路にスピード違反で捕まった場所だ。

女房に運転を任せた途端、僕は小一時間ほど爆睡した。助手席で眠るなんて滅多にないが、気がついたら意識を失っていた。まるで麻酔をかけられたみたいだ。そして、次に目を覚ましたらもうビクトリア州に入っていた。朝から400キロ以上走ったことになる。でもまだ半分。
しばらくして、「また運転代わってもいい?」と女房が言うので、運転を代わる。少し寝ただけで、朝起きた時みたいにスッキリしている。これならメルボルンまで走れそうだ。

走行距離が400キロから500キロになり、500キロが550キロになる。ウォドンガ、ワンガラッタと見慣れた町を通り過ぎて、600キロ、650キロと伸びていく。だんだん外が暗くなってきた。春とは言え、まだまだ日は短い。メルボルンまでまだ250キロ以上ある。

750キロ走り、シーモアの町でまた一休み。今日2杯目のコーヒーを買う。大きなカップのブラックを頼む。いつも早寝の僕は、夕方にこんなにたくさんコーヒーは飲まないのだが、今日は特別、とにかく家まで帰りつかなくてはならない。このブラックコーヒーは、熱くてなかなか飲めない。シーモアからはメルボルンは直線の長い下りが続く。

午後7時、遠くにメルボルンのビル街の明かりが燦然と光る孤島のように見えてきた。間違いなくメルボルンだ。「着いた!」と思わず声に出る。家まであと100キロ、1時間ちょっと。交通量も多くなった。空を見上げると、メルボルン空港に着陸する飛行機の着陸灯が点滅している。帰省本能が働くせいだろうか、心なしから車のスピードも早めになる。危ない、危ない。

やがて空港の横を通る。ここから交通量がぐんと増える。ここからは通い慣れた道だが、シティの中の車線変更の多い箇所を通る時はドキドキする。注意力もかなり落ちている。

距離メーターは900キロを超え、シティも抜けた。やがて高速を降り、うちまで20分。道が暗くなる。さすがに疲れてきて、自分が運転しているのではなくて、自分の中のもう一人の「誰か」が運転しているような気がする。幽体離脱みたいだ。何かが目前に飛び出してきても、きっと止まれないだろう。ゆっくり行こう。

夜8時半、やっと我が家に着いた。エンジンを切ると、しんとした静寂が訪れ、風にそよぐ木の葉の音がする。

鍵を開けて家に入る。潜水艦サンドイッチを食べてからあまり何も食べてないが、空腹感はない。鍵を持つ手が、かすかに震えている。緊張がまだ解けていないからか。頭もボーとして、耳鳴りがする。

車から荷物を下ろす。運転席と助手席の周りは、空のコーヒーカップや、ちり紙やら、ガムの包み紙やら、サングラスやら、携帯電話やら、物がたくさん散らばっている。自分はこのガラクタの中に12時間も座って運転してきたのか。

シドニーとメルボルンの間に時差はないが、なんとなく「場所ボケ」の感覚がある。メルボルンはシドニーより気温が2、3度低いが、体感温度ではもっと寒い感じで、自分の皮膚をシドニーに置いてきたような感じ。これだけ長距離を一気に走ると、そういう違和感がしばらく拭えないのかも。

手の震えは、すぐに収まったが、体の違和感は、布団に入って目をつぶった後も無くならなかった。体がまだ車に揺られているみたいに、ゆらゆらする。疲れているのに、なかなか眠れなかった。鈴吾郎も、今頃はチームのみんなと夜行バスに揺られているのだろう。彼は明日の朝、うちに帰ってくる。一体どんな顔をして帰ってくるのだろう? 彼に会うのが楽しみだ。
posted by てったくん at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年09月20日

オークランド、調布、そして宇都宮まで

2016年9月20日

オークランドの唐揚げ弁当

7月にインドでカレーやピザを食べ、クアラルンプールで北海道ラーメンを堪能した私は、8月の半ばには、ニュージーランド、オークランド中心街のフードコートで、トリ唐揚げ弁当などを食べているのだった。

ここではIBBY国際児童図書評議会という、絵本の世界会議に出席した。唐揚げ弁当を食べたのは、ある日の昼、急いでホテルに戻って自分の発表するポスターの仕上げをする必要があり、昼飯を食い損ねそうになって急いで近くのスタンドで買い求めたのだった。

IMGP7565.JPG
世界的な学会に登場、壁新聞同様の私のポスター

でも、これがなかなか当たりで、ご飯も暖かくておいしく(ごま塩がかかっていた)、唐揚げも揚げたて、その上ちゃんとみそ汁付き。今どきの日本の弁当屋よりも気が利いているかもしれない。難を言えば、唐揚げの下に敷いてあったレタスの量が恐ろしく多く、マヨネーズもなくて、食べるに往生したことだ。

ニュージーランドで、他に美味しかったのはビールだった。 IBBY大会に出席していた日本人で、元国会図書館に勤めていたM山さんというおじさんは、「てっちゃんさあ、ニュージーランドのビールって美味しいの?」と聞いたが、僕もよく分からなかったので、「美味しいのは、美味しいでしょうけど、まずいのはまずいですよ」と答えた。答えてから、これは答えになってないと自分で呆れた。滞在中は、毎晩のこのM山さんや他の人たちと飲み歩いたが、ニュージーのビールは種類も多くて、どれも美味しかった。

そう言えば、前に書くのを忘れたが、この間インドで飲んだ「ヘイワーズ5000」というビールは、僕がこれまでの人生で飲んだビールの中で、一番まずかったかもしれない。一緒にこれを飲んだオーストラリア人のディランも、「インド政府のビールっていう味だな」と形容していた。しかし、もうひとつの「キングフィッシャー」という銘柄は美味しかったから、インドのビールが全部まずいということを言っている訳ではない。


P1050564.jpg
インドのビール、ヘイワーズ5000

オークランドでひとつ度肝を抜かれたのは、オークランド・タワーのバンジージャンプだ。僕が、地上300メートルの展望台からのんびり景色を眺めてると、窓のすぐ外を、「ギェー!」と叫びながら人が落ちていく。飛び降り自殺かと思って、「ヒェー!」と驚愕して下をのぞくと、ムササビのような格好で、さっきの人が下へ落ちていく。そして地上50メートルのところで、ビヨーンと強力なゴムの力で止まったのだ。外には、細いワイヤーが三本張ってあり、ここ伝って落ちていくらしい。自殺でなくて良かったが、まったく恐ろしいことをやる人もあるものだ。一時間くらいのうちに、もう2、3人が落ちていったが、こんなことをして何が楽しいのだろう?(しかも一回飛び降りて250ドルだそうだ!)

IMGP7640.JPG
オークランドタワーからの風景

オークランド最後の晩は、上記絵本国際会議に出た日本人のみなさん十名程と、波止場の高級なシーフードレストランでディナーを食べた(自分一人なら絶対入らないような店だ!)国際会議に出るくらいの人たちだから、みんなそこそこ英語ができるのだが、それでもメニューを見て料理を決めて、それから飲み物を注文するのにかなり時間がかかる。魚の種類はいろいろあるし、ワインも赤白、スパークリングと何十種類もある。それに、「あら、あたくし、前菜に生ガキをいただくわ!」なんてことになると、生ガキは10種類くらいあるし、「あら、やっぱり、わたくし、生ガキはあたるといけないから、火を通したのにしましょう!」と気が変わったりすると、料理法も5種類はあるから、カキ料理だけで50通りの選択枝になる。そんなで、全員が料理を注文するだけで50分くらいかかった。(ウエイトレスの女性が、途中で叫び出すんじゃないかと心配になったけど、プロだけあって忍耐強かった)。

食事の方は、高級なレストランだけあってすばらしく美味しくて、みんな大満足だったが、問題は支払いだった。生ガキを1個しか食べなかった人、カキフライを8個食べた人、メイン料理を半物ずつとなりの人とシェアした人、メインはちゃんと一皿食べた人、追加でポテトフライを頼んだ人、ワインをたくさん飲んだ人、水しか飲まなかった人とかいろいろあり、その違いがあまりに細かすぎて、店の方は、個別払いは止めてください、支払いはまとめてお願いしますと言う(当然だ!)。 そこで往生していたら、泣く子も黙るマツイさんという出版社の女社長が、「みんな割り勘です。ただし、たくさん飲み食いした人は、多く払って下さい。以上、終わり!」と支払いをまとめてしまった。割り勘は、かなり不平等だったが、そこで文句を言う人もなく、どうにか支払いを終えて店を出たのだった。絵本の国際会議に出る人たちは、人徳者ばかりなのかもしれない。


調布のジャズカフェに染みついた夜

オークランドからは東京の調布に飛んだ。もちろん成田経由だが、オークランドを朝出ると、夜9時には、友人M城さんのお宅、調布コープに僕は居た。M城さんは、中国出張で留守。飛行機の旅でくたびれたので、その夜はマンション横のコンビニで、冷やし中華、唐揚げ、枝豆、ポテトサラダなどを買ってきて食す。ビールはサッポロ・クラシック。日本は何て便利なんだろう!

今回の帰国は、出版社での 打ち合わせ、雑誌のインタビュー、二年前に亡くなった弟の三回忌、それから最後に宇都宮で、オーストラリアの絵本についての講演(四時間も!)の予定だった。滞在は10日間だから、時間的な余裕はある。しかし、最後の宇都宮講演の原稿をまだ書き終わってなかったので、空いている時間は調布コープにこもって原稿書き。だから、友達と会って酒を飲むなんて用事は全然入れられなかった。

だが、夕方になると、さすがにマンションにこもっているのも嫌で、一人でもいいから外食しようと出歩く。(永井荷風の気分!)調布も賑やかで、駅前には店がたくさんあるものの、一人で入るに適した静かな店は少ない。チェーンの海鮮料理店があったので入ってみたが、メニューの種類が多いだけで、肝心の刺身は味が薄く、何の魚を食っているのか分からない始末で、がっかり。

IMGP7711.JPG
調布には「調布ビール」がある。これは旨かった。

別の晩は、能登だか北陸だかの暖簾を掲げた静かめの店に入ったが、ここも期待はずれ。刺身は西友の「お刺身三点盛り¥780」の方がまだ上。焼き魚は解凍ものだから、身がぐずぐず。頭にきたので、それ以上料理の追加もせずに店を出る。気分は不完全燃焼。

帰り道、マンションの近くに「ジャズのお店 XXX」という看板が光っていた。「そうだ、こういう渋いお店で、壁の染みなど眺めつつジャズを聴きながら、 焼うどんを肴に飲むのも悪くない」と思い、狭いドアを開けて中に入る。

これが、さらなる失敗!どうも調布の夜には恵まれていないらしい。店の雰囲気は1980年代の居酒屋バーという雰囲気で悪くない。(よく大学のコンパの二次会でこういう店に行った)。しかし、肝心の音楽はジャズではなくて、クラプトンであった。でも許そう、クラプトンは好きだから。

マスターは70歳くらいの、赤バンダナを頭に巻いた、優しそうな親父さん。でも「いらっしゃい」の声に元気がなく、やる気なさそう。焼酎のロックを注文し、メニューに目を走らす。目当ての焼うどんがない! 仕方なく、シシャモを注文 。

焼酎ロックといっしょに、突き出しの小鉢が出る。これが驚きであった。緑の野菜(ほうれん草?)と、茶色の肉みたいなものが煮込んである。この茶色のものは、ふにゃふにゃで肉の食感もない。トーフでもないしコンニャクでも魚でもソーセージでもない。ダシもきいてなく、塩気もなくて味がしない。不気味すぎて思わず箸を置き、口に入れた分は焼酎で飲み下す。

ところが、この焼酎ロックも大問題。量がめっぽう少ない。小さなコップで、二口で空になってしまう。まったく絶望的だ。その時点で、僕はシシャモを注文したことを心から後悔する。案の上、マスターは冷凍のシシャモ(安くて細い奴)を冷凍庫から出してチンしている。解凍したシシャモからは、冷凍水が垂れている。食欲、一挙にゼロ。しかし、頼んだ以上、シシャモが焼き終わる前に店は出られない。仕方ないから、マスターと会話をすることに。

「マイルス・デイビスの写真がありますねぇ…」と僕。
「ああ、コルトレーンもあるよ。みんな死んじゃったけどね。(ため息…)」
「この間、飛行機の中でマイルス・デイビスの映画をみたんだけど、良かったですよ」と僕。
 マスター、無言。
「…(話題を変えて)このエリック・クラプトンのライブビデオは、カーネギーホールですかね?」
「さあ、分からねえな。クラプトンは、よく日本にきて金稼ぎをして帰るけど、気に食わねえ。息子が死んじゃったのは可哀想だけど」とマスター。気に食わねえなら、ビデオかけるな!

やがてシシャモが焼ける。中まで焼けてなくて半生でまずい。飲み下すにも、もう焼酎もない。
「焼酎、おかわり」。ああ、また量が少ない!

カウンターの向こうでは、女子高生みたいなギャルが二人で、ボーイフレンドの悪口で盛り上がっている。
「すみません、マーボードーフお願いします」と、彼女たちが注文。
酒飲みながらマーボードーフとは、どういう発想だ?
案の定、マーボドーフもまずそうで、酔ってなければ食べられないだろう。(酔ってても食べたくない!)

二杯目の焼酎で生焼けシシャモを流し込み、店を出た。渋いジャズを聞くどころではない。もう二度と来るもんか!

その後数日間、東京滞在中に食べたものを列挙する。

牛タンとろろご飯(青山ネギシ)、にぎり寿司弁当(都内出版社にて)、いずも蕎麦(調布そば屋)、トンカツ定食( 武蔵境ロイヤルホスト)、オムレツカレー(南武線稲田堤駅の近く)、天ぷらうどん定食(巣鴨)、吉野屋牛丼並盛り(調布)、トンカツと海老フライ定食(調布パルコ)、お刺身特盛り四点セット(調布西友、七時以降20%引き)、エビシュウマイ(左に同じ、20%引き)、ハムとレタスのジューシーサンド(セブンイレブン)。

上記の食事については、語るべきことはあまりない。美味しいものもあったにはあったが、どうも食べた気がしない。どうして南武線に乗ったかなんて、めんどうなので説明しない。とにかく今回の東京滞在は、食事に関する限り、冴えなかった。これだけ食材の豊富な多い日本にいたのに、どうしてこんなに味気ないのだろう? 私が悪いのか?


湘南新宿ライナーで「スナフキン」に会い、餃子の宇都宮へ

数日後、いよいよ日本滞在の最後の二日間、栃木県宇都宮市へと向かった。栃木子どもの本連絡会主宰による「オーストラリアの子どもの本」の講演会に講師として呼んでいただいたのだ。この二ヶ月、精魂こめて原稿を書き、最後の一週間は調布コープにこもって仕上げた。よくやった、よくやった。

だから、せめて宇都宮では旨いものを食おう、この週末こそ自分に優しくしよう、そういう心意気で湘南新宿ライナー宇都宮行きに乗った。期待は、大きく膨らむ。

浦和、大宮と車内は混んでいる。と見ると、隣に70代後半くらいのおじいさんが立っている。段ボールやビニール袋に入った着替えと思しき荷物をたくさん持っている。服装は一応きれいだが、風来坊みたいだ。よれよれで、汗が染み付いたつば広帽子が、さらに雰囲気を醸し出している。やがて、おじいさんはビニール袋に入ったコーンフレークを取出してぼりぼり食べ始めた。車中でコーンフレークを手づかみで食べる人も珍しい。

かなりの達人だな!と思いながら老人を眺めていたら、目が合ってしまった。オーストラリアに長くいるせいで、 僕は人と目が合うと、ついニコッと笑ってしまう(オーストラリアではそれが礼儀。)すると、驚いたことにこの老人もニコリと笑い、「いかがな?」とコーンフレークの袋を差し出した。(この人、絶対オーストラリア人!) 僕は後ずさりしそうになったが、「いえ…結構です。どうもありがとう」と、かろうじて答えた。老人は、「旅をして歩いておいでかな?」と、僕の大きなダッフルバッグをみて言った。「いえ、仕事でちょっと宇都宮まで」と僕は答えた。「私は福岡に行って帰ってきたので、足が棒になりましたよ」と老人は言って笑った。

小山でやっと席が空き、老人は「さあ、坐りましょう」と僕を促して坐った。僕は老人の隣に腰を下ろし、夕暮れ近い、広い空を見上げた。やがて老人は、こっくりこっくりと居眠りを始める。風来坊みたいな風体といい、静かで丁寧な話し方といい、 この人は栃木のスナフキンだな、きっと。

宇都宮の街は夕焼けに染まっていた。市内を流れる田川の清流は、きらきら光っていた。(リヨンを流れるローヌ川に比較しようと思ったが、それ程ではなかった。)つかの間の旅情が僕の胸を満たした。

IMGP0007.JPG

言うまでもない、宇都宮は餃子の町だ。餃子の店が30軒もあるそうだ。駅前には、餃子の像まであった。それは、餃子の皮をまとった乙女だった。どうして、乙女が餃子の皮をまとっているのか、それは現時点ではまだ謎である。

IMGP0008.JPG
餃子の乙女像@宇都宮駅

さあ、餃子の店30軒とどう取り組むか? たった一人では手強い状況である。(餃子好きの息子リンゴロウを連れて来れば良かったが、彼はメルボルンでよだれを流しながら僕の帰りを待っている。)だが、僕はすでに栃木子どもの本連絡会のイガラシさんという女性から、「駅ビル三階のミンミンがおいしいですよ」という貴重な情報を得ている。だから、宇都宮チサン・ホテルに旅装を解くや否や、ミンミンの偵察に出た。

夕食時のミンミンは、列ができるくらい混んでいた。混んでいる店は好きではないので、待つ間、他の餃子屋をのぞきに行った。ホテルの横にあったかなりけばけばしい餃子屋で立ち止まる。メニューを見ると「餃子12種類、サンプル定食」というのが目に入った。

魔が差した。腹が空いていたので、うっかりこの店に入り、12種類の餃子を注文してしまった。壁を見ると、「たかが餃子、されど餃子」の張り紙。これは、「餃子をあなどるな」ということを言っているのか?

待つこと8分、12個の餃子がくる。シソ入り、チーズ入り、ニンニク入り、生姜入りなどいろいろだが、餃子にひとつひとつ名前が書いてある訳ではないから、すぐ何を食べているのか分からなくなる。最後は、みんなお腹の中で混ざってしまった。これは餃子をあなどった罰に違いない。

ゲップをしてこの店を出る。正直言って後悔した。奇をてらった餃子など、うまくない。チーズ入り餃子なんて食べるんじゃなかった! むしろ、きっぱりと、いちばん美味しい正統的な餃子を一種類だけ食べるべきであった。もう迷わないぞと決心し、すたすたミンミンへむかう。

IMGP0012.JPG

やっぱりミンミンは偉かった。餃子の中身はきっぱり一種類だけ。僕は、「小さめ六個」定食を頼んだ。ああ悲しいかな、12個食べた後では、もはやお腹はすいていなかったせいだ。回り道せずに、ミンミンに最初から来れば良かった。その晩は、餃子臭いゲップをしつつ、宇都宮チサンホテルで安眠した。

翌朝、ホテルの朝食ビュッフェは、ご飯とみそ汁と納豆がうまかった。栃木とか茨城のホテルで、納豆がまずかったら暴動が起きるだろう。このホテルの納豆は黒豆の大粒で、しっかりとした歯ごたえがあり、大満足である。

IMGP0017.JPG

納豆ライスで腹を作ったので、栃木県教育会館へタクシーで乗り込む。天気も晴れ渡り、講演会は満員御礼だ。午前中二時間、話は滑らかに進んだ。お昼は、教育会館の食堂でカレーライスを主催者のみなさん達と食べる。このカレー、教育会館だけであって、昔懐かしいハウスバーモントカレー風の甘くてねっとりしたカレーだった。ご飯もおいしい。あまり美味しくて、インドの人たちにも食べさせてあげたいと思った。

午後も二時間、快調に話をする。準備良ければ憂いなし、話は横道にそれつつも時間内にきっかり終えた。講演会成功の秘訣のひとつは、時間通りに終わらせることである。用意した本もほぼ完売、講演会の後でサイン会。こんな僕でも本にサインを求められるなんて、大感激。でも、調子に乗ってお喋りしながらサインしていたら「わたなべてつた、わたなべてつた」と一冊に二度も書いてしまった。だから「ごめんなさい、ごめんなさい」と二度謝った。そうしたら「いいんですよ、いいんですよ」と、二回慰めてくれた。宇都宮の女性は優しいなあ。

DSCN1111.JPG
宇都宮の女性たちが聞き惚れた渡辺鉄太の講演

夜9時、調布に帰還。さすがにぐったり放心状態で、酒も飲まずに寝てしまう。翌日は日本滞在最後の日。もはやすることもないし、調布にいても仕方ないから、吉祥寺をぶらぶら。無印良品で女房に頼まれた台所用品を買い、モンベルで、息子のために羽毛の寝袋を買う。北口商店街を歩き、古本屋を2、3軒冷やかすが、気がつくと手提げ袋一杯の本やらCDやらを買っている。いつの間にか「物欲」と言う悪魔に魂を乗っとられている。

そこで、そそくさと調布に帰還、スーツケースに荷物を詰める。講演会で使った絵本もあるので、そうとう重い。計ってみると33キロ。一応30キロまでは料金を払ってあるが、ジェットスター航空は三キロ超過を見逃してくれるかどうか?(見逃してくれた。サンキュー!)

夜、上海出張から、調布コープの主であるM城さんが帰る。最後の晩だし、M城さんと会うのも久し振りなので、西友で、食べたいものを好きなだけいろいろ買ってきた(しめて1910円!)。飲みながら、食べながら、つもる話をする。「自分の墓をどこに買うか?散骨のメリット、デメリット」という話題で盛り上がる。

こういう時の食事は、西友のお惣菜でもおいしい。そうか、やっぱり友達や家族といっしょに食べる食事が一番おいしいんだな、と当たり前のことに気がついた。

永井荷風は、いつも一人で食事をしていて、孤独ではなかったんだろうか?


晴れ渡った日本の空。この空を羽ばたいて渡辺鉄太はメルボルンへ戻った。
IMGP0033.JPG
posted by てったくん at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年09月13日

インド、マレーシアへ (インド、その2)

2016年9月12日

この七月から旅行づいているのか、インドにも行ったし、その途中でマレーシアのクアラルンプールにも寄った。その後メルボルンに戻って、二ヶ月たたないうちにニュージーランドのオークランドへ行き、その足で8月の日本に帰国した。日本ではM城さんという友人の好意で、彼の調布のマンションに滞在させてもらい、その間に宇都宮に行った。

(この項では、インドとマレーシアについて書く)。

IMGP7351.JPG

インドのピザ

インドで行ったのは、南部ケララ州のコーチンという港町だが、そこは香辛料の輸出で有名な場所で、今でも胡椒やターメリックや生姜や、あらゆる香辛料の問屋が港の通り沿いに軒を並べている。港には大きな船が出入りしている異国情緒あふれる場所だ。そんな所だから、オランダ、ポルトガル、イギリス風の町並みがまだ残っていて、ユダヤ人街まであるのだった。

P1050500.JPG

コーチンには、二週間ばかりいたが、ほとんど一歩も町から出なかった。それでもちっとも退屈しなかった。僕は、13歳の息子リンゴロウと二人で、町のあっちに行って博物館を見たり、こっちへ行って場末の食堂で、旨いのかまずいのか分からないカレーを食べたり、お洒落なカフェに入り、高くてまずいハンバーガーを食べたりした。

P1050483.JPG

僕らがサンダルをぺたぺた言わせながら歩いていると、「あんたら、どこから来たの? 中国人? ニイハオ! 日本人? コンニチハ!」などと町の人たちから話しかけられる。半分は物売りや客引きのタクシーの運ちゃんだが、半分は純粋に好奇心をもった人達であった。インドの人は人懐っこい。

P1050715.jpg

泊まったホテルは、アイスランド人が経営するコロニアル風の古い建物だった。重厚な作りで格好良い。朝は洋風ブュッフェで、日替わりでいろいろなパンケーキが出る。しぼりたてのマンゴー、オレンジ、スイカのジュースも出て、これが旨かった。インドの人は、それほど急がないし、全てが手作業なので、食事をするのにも時間がかかる。それがインド的な時間の流れで良かった。モンスーンの季節だったから雨がよく降ったが、食事を待っている間、大きな雨粒が空からバラバラ降ってくるのを眺めているのは悪くなかった。

P1050683.jpg
ケララは共産党支持者が多いらしい

結果から言うと、コーチンではカレーを一番たくさん食べたが、その次にたくさん食べたのはピザだった。外見は日本人でも、中身の90%はオーストラリア人であるリンゴロウは、ことあるごとにピザを食べたがる。コーチンでは7、8名のオーストラリア人美術家達と行動を共にしていたので、「じゃあ、今夜はピザを食べることにしましょうか」ということが多かった。カレーばかりだとオーストラリア人は士気が挙がらなくなるからだ。リンゴロウも異存はない。コーチンには幸い二、三軒のピザ屋があったが、チャパティやロティを作るのとピザを作るのは、ほとんど同じ作業であるから、インドのピザ屋は手際がいい。味もなかなかいける。それらピザ屋のうち一軒は、アルコールのライセンスを持ってないくせに、闇でモキートというカクテルを出していた。こっそりアルコールを飲むのは、罪悪の味がして、これも良かった。


クアラルンプールで北海道ラーメン

順番が逆だが、マレーシアのクアラルンプールへは、コーチンへ行く途中で三泊四日ほど立寄った。クアラルンプールを略してKLと呼ぶが、ここは背の高いビルが立ち並ぶ大都会であった。我々も、そんな高層アパートに泊まった。そのアパートは、天井が高くて広々としていたが、家具も最小限しかおいてなく、その部屋でクーラーをつけて寝転がっていると、自分が冷蔵庫の鶏肉(なぜか鶏肉の気がする)になった気がした。だから、あわてて外に出るのだが、そうすると、ボワンという感じの、やけに存在感のある湿った熱気に襲われるのだった。

P1050332.jpg

KLは、ちょうどイスラム教のラマダンの時期で、午後四時頃になると、会社や省庁が早じまいし、断食して腹を減らしてイライラした人たちがどっと繰り出てくる。そのときは「待ってました!」とばかり、屋台や食堂からもうもうと煙があがり、ものすごい活況だ。

P1050452.JPG

そんな中では、ひ弱な観光客は、歩道の隅から状況を静観するしかなかった。そのほとぼりも冷めて夕闇が降りてくる頃、ようやく我々も何かを食べようと食堂を探し始めるが、やわなリンゴロウは「きたない屋台の店で食べるのは嫌だ」と、だだをこねる。僕は路上で売っている焼鳥やマレー風魚介類バーベキューに後ろ髪を引かれたのだが、息子は「ゴミ臭くて、匂いを嗅いだだけでも吐きそうだ」と泣き言を言う。

仕方なく我々は、衛生的なショッピングセンターの食堂街に向かうのだった。そこはもはやKLの雑多な街角とは異なり、無印良品、ユニクロ、ルイビトン、ジーンズメイトなど、まるで吉祥寺や渋谷のような店が並ぶ、冷房の効いた楽園なのだった。日本と違うのは、ショッピングセンターが、もっと400%くらいきらびやかなことで、ガラス張りの建物は金や銀で彩色され、加えて何万という豆電球で飾られて目もつぶれんばかり。その真ん中を、まるで極楽へ登るようなエスカレーターで登っていくと、これも日本と同じで、最上階が食堂街。歩いていくとTOKYO STREETと書いてあり、お好み焼きや天ぷらうどんの店なんかが軒を連ねている。息子が「あった!」と歓声をあげた方を見ると「北海道ラーメン山頭火」という暖簾が下がっている。どうして北海道ラーメンの店が「山頭火」なのか分からないが、リンゴロウはどんどんその店に入って席に座ってしまう。

P1050386.JPG

そんなでKLまできて、北海道ラーメンになる。そう言えば昨年は、この息子とミラノでソースカツ丼を食べたが、うちの息子はB級グルメの日本食を外国で食べるのが特技なのかもしれない。

クアラルンプール、山頭火のラーメン
P1050356.jpg

(続く)
posted by てったくん at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年07月15日

インドで書いた俳句

2016年7月16日

先週まで10日間ほどインドに行ってきた。インドは初めてだ。行くさきは、南西部のケララ州コーチンという港町。ポルトガル、オランダの植民地色がまだ色濃く残る、香辛料の出荷地である。

なぜこんなところに行ったかと言うと、妻がオーストラリア人芸術家達8名程と、この地で制作を行うことになったからだ。それにくっついて行ったのである。こういう企画をArtist in residenceと言い、日本でもどこでも盛んになってきている。昨年は、これで南仏に行ったが、今年はインドである。

13歳の息子鈴吾郎(りんごろう)も一緒に旅した。13歳の男の子がインドにどんな反応を示すか興味があったのだが、鈴吾郎はインドの状況(貧困、人口密集、非衛生などなど)をいとも簡単に受け入れ、「ここは面白いところだね」と人や風物に興味を持ち、文句などひとこもと言わなかった。僕は感心する一方で、やや拍子抜けしたくらいだ。

さて、我々は、時にはオーストラリア人芸術家達と行動をともにしたり、時には、自分達だけでコーチンの町を歩いたりした。トゥクトゥクというオート三輪や自転車に乗ったりもしたが、大概は徒歩で行き当たりばったり歩いた。ろくな観光もせず、町中を我が物顔で歩くヤギについて行ったり、お土産屋につかまって、欲しくもない物を買わされたり、汚い店で、びっくりするほど美味しいカレーを食べたりした。月並みだが、あんなにたくさんカレーを食べたのは、人生で初めてだった。

僕にとって、この旅行で一番の収穫は、インドを身近に思える様になったことと、それと同じくらい「楽しく退屈」できたことだ。13歳の鈴吾郎も、音をあげずに僕の退屈につき合ってくれた。ちょうど、ラマンダン明けのモンスーンの季節だったから、毎日のように雨に降られ、ホテルで、フェリーの上で、雨宿りした店先で、濃い大粒の雨粒を数えたりした。雨空を長い間見上げていることなど、ついぞなかったことだ。

そうしているうち、この頃ちっとも書いてなかった俳句が頭に浮かんできた。スナップ写真を撮る様に、俳句が浮かんできた。僕の俳句はまったくの我流だから間違いも多いデタラメばかりだが、スナップを見せるよりも、僕の旅行が良くわかるような気がするから、それらを以下に載せる。(横書きですみません。)

IMGP7363.JPG

ラマダンや 断食こらえ 高楊枝 

ラマダンや 客待ちリキシャ 昼寝かな

客待ちの リキシャにのった ヤギ親子

自転車も リキシャも急ぐ モンスーン

雨粒の 数だけ祈る モンスーン

雨脚に 追いかけられて 舟を漕ぎ

船頭の 野球帽に 汗の痕 
 
物乞いが 雨だれの数 数えてる

物乞いも 日本人も 雨宿り

夕立や プールの水に 花千個

IMGP7351.JPG
 
ラマダンに 空き腹抱え 漁網引く

IMGP7381.JPG

夫婦(めおと)舟 仲良く網を 引いている

ゴミもまた 彩り添える 浜辺かな

フェリー待つ 列で笛吹く 異邦人 

インドでは ブルース歌手も インド人

バスに「天国」とあるのは 行き先か 

魚屋の 足にじゃれつく 野良の猫

IMGP7353.JPG

インドでも イワシはイワシ ボラはボラ

路地裏の エビ売る男 のど自慢 

東向き 西向きヤギは どこへ行く 

IMGP7367.JPG

牛二頭 路上に座り 仏顔

犬がいて 猫もヤギもいて 人もいる

サッカーの 若者はみな 素足なり

素足でも ワールドカップ 夢ではない
      
アイロンを 持つ老婆の手 皺だらけ 

洗濯を 岩に叩いて  若い妻

サリー着て バイクで人混み 駆け抜けて  

百万本のココナツが 空あおぐ

十万百万のココナツ 静かに腐る

腐るのは ゴミだけでない インドでは 

腐った物を流す川 海に注ぐ

汚濁と腐臭の中にも 平和あり

IMGP7371.JPG

極端と 極端の間に 調和あり

祈りと 祈りの間で 暮らしてる

物乞いも スマホ手に持ち 頭垂れ

インドでも ピザを食べたし 我が息子

インドでは 朝昼晩と カレー食い

空港で 最後のカレー 汗をかき

IMGP7387.JPG
posted by てったくん at 12:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2016年06月17日

スタマティスいわく、「タスター、人生は短いんだよ」

2016年6月15日

スタマティスが、またメルボルンへ来た

残り物のカレーの昼飯をパソコンの前で食べていたら、「ポン!」とメールが届いた。パソコンの前で昼飯を食べるなんて最低だが、家にいる僕とても、だらだら仕事の区切りがつかない時など、たまにこういうはめになる。


IMGP6957.JPG
海は、いつも僕の心にある

メールにはこうあった。「タスター(てつた=僕のこと)、おれだ、スタマティスだ。ルカに会いにメルボルンに来ているからこの番号に電話しろ。パムの家だ。」

スタマティスは、難読症(ディスレキシア)の持ち主で、そのせいか僕の名前の綴りがいくらTetsutaだと伝えても、Tasterと書いてくる。でも、確かにTasterと綴った方が日本語の「てつた」の発音に近いから、こちらに改めようかと思わなくもない。

そのスタマティスのことは前にもちょっと書いたが、もとはダンデノン山の住民で、ヨット乗りで、ものぐさで、女好きのギリシャ人である。ルカは今年20歳になる息子で、パムはルカの母親、別れた奥さんだ。ルカとパムは、メルボルンに住んでいるから、スタマティスは1年か2年に一度、ルカに会いに戻ってくる。今スタマティスは、カナダに住んでいると聞いていたが、本当にそうなのか、本人に確かめないと分からない。(スタマティスは、僕が書いた絵本『ヤギのアシヌーラどこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)のモデルで、絵本では「スタマティスじいさん」として登場するが、実物は、まだじいさんではない。60歳くらいだろうか。)

IMG_20160617_0001.jpg
『やぎのアシヌーラ どこいった』渡辺鉄太作、加藤チャコ画、福音館書店

パムとはかなり前に離婚したが、その後、スタマティスはルカの同級生の母親のバツイチ・ママとくっついた。けっこう美人のシングルマザーだったから、スタマティスの手の速さにみなは驚いたものだ。しかし、その彼女とも2、3年で別れてしまった。

その時スタマティスは「俺は、40歳くらいのオーストラリア人の女がつくづく嫌になった。高慢で、主張ばかりする。いったい何様だと思ってんだ」とこう言い捨てて、ブリスベンからヨットに乗って、タイのプーケットまで行ってしまった。そして、今度は、そこで知り合った二十台のタイ人ギャルとくっついてしまった。スタマティスはそのタンという名前の女の子と結婚して、それ以来いっしょにいる。

僕は、若い奥さんをもらってニヤニヤしているスタマティスに、「若い奥さんをもらったりして、うかうかしてられないな、色男!」と言ったが、スタマティスは「見当違いも甚だしい。そういう魂胆じゃないんだ。彼女は、俺の世話をする、俺は彼女の面倒を見る。(She looks after me, and I look after her)男と女は、ギブアンドテイクだ。決して、若い女のケツが良いってことじゃない」と真顔で答えた。嘘ばっかりである。

だから、ここら辺りでスタマティスを知る女性たちは手厳しい。「心底スケベエだねえ、あの男!」とか、「あんなニンニク臭い男のどこがいいんだろう? キスするとき目をつぶれば顔は見ないですむけど、あの臭いじゃ興ざめね」と、評判は芳しくない。

だから、スタマティスは今さらメルボルンに戻ってきても、僕か大工のギャリーくらいしか会う相手がいない。大工のギャリーは、奥さんのヘレンがギリシャ系で、天使のように優しい女性だから、スタマティスも優しく受け入れてくれる。


スタマティスとの再会

僕は、さっそくパムの家のスタマティスに電話した。「よう久し振り。別れた奥さんがよく家に泊めてくれたな? どういうことだ? 説明しろ。」

「パムは、親父を連れてイギリス旅行なんだ。だから、その間俺がルカの世話をしにきた」と、スタマティスは答えた。

「そうか、そいつは渡りに舟で良かったな。暇なら、今そっちへ行ってもいいか?」と僕。

「暇なら持て余している。こんな山奥でやることもないからな。コーヒーくらいは出す」とスタマティス。 進まない仕事は中断して、 僕はさっそくパムの家に行った。

パムの家はダンデノン山の奥深い、ササフラス村の谷底にある。彼女は版画家で、美術家同士うちの女房とも仲が良い。だが、僕は彼女の家に行くのは初めてだった。こちらではバンガローと呼ぶ、山荘風の洒落た家だが、中に入ると、あまりの散らかりように驚いた。

「よう、タスター、久し振りだな。お前さん、ほんの少しだが、年をとったか?」とスタマティスが、散らかり果てた居間の真ん中で言った。

「いきなり嫌なことを言うな。年をとったのはお互い様だろ。若い奥さんを可愛がって無理するなよ。卒中なんかおこしたら大変だ。それにしても、お前を捨てた女房の家は汚いな! 」と、僕は思わず本音を言ってしまった。

「お前もそう思うか! 俺はこんなブタ小屋で暮らすルカが可哀想でならないんだ。あの猫を見てみろ!」と、スタマティスが指差す方を見ると、パムの黒い大きな飼い猫が、ガス台の上の鍋に顔をつっこんで、残りをぺちゃぺちゃなめている。躾もへったくれもない。

「まったくひどい家だ。猫だって、このざまだ。俺が思うに、パムの奴は『キーパー』だ。分かるか?何でもかんでも捨てられなくて取っておく人間だ。だから、こんなに散らかっている。これを見みてみろ!」と、スタマティスはそう言うと、机の上の紙くずを床にどさっと投げ落とした。すると、その下から旧式のラップトップパソコンが現れた。

「これは、俺が20年前に使っていたパソコンだ。それも、同じ机にそのまんま置いてあるんだ。信じられるか!」スタマティスは、両手で頭を抱えてそう言った。

「だけど、物が捨てられないんなら、どうしてお前さんは捨てられたんだ?」と、僕。

「勘違いするな、タスター! 俺はこの足で出て行ったんだ、こんなブタ小屋にはいられないからな」とスタマティス。


カナダのスタマティスとタン

「もう、ここにいない人間の陰口は止めよう。ルカだって聞いているぞ。それはそうと、今お前さんは、カナダに住んでいるんだって?」と僕は、現在のスタマティスに話を移した。

「そうだ、バンクーバーの近くのトフィーノという村にいる。良いところだから、一度遊びに来い。バンクーバーからプロペラ機で45分。車なら四時間ドライブと、二時間フェリーで、合計六時間。うちのまん前は海だ。人っこ一人いない入り江がそこら中にあって、魚釣りはし放題。入り江にはアザラシがたくさん泳いでいるし、時にシャチが回遊してくることもある。クジラもいるぞ」とスタマティス。

「すごいな。でも、どうしてそんなところにいるんだ?」と僕。

「俺はな、二十一歳のとき大学を中退したんだが、在学中カナダの女と結婚して、カナダ国籍を取ったんだ。大学を止めて、その女と別れた後も、そのままカナダに残った。で、鮭漁の漁船に乗って金を稼ごうと思ったんだ。それが一番手っ取り早いからな。それでトフィーノに来た。30年以上前の話だ。あの頃トフィーノは観光地じゃなくて、ただの漁村だった。日系移民の漁師がいて、その人たちの漁船に乗せてもらって鮭をとった。だから、トフィーノのことを覚えていたんだ」と、スタマティス。

「あの日系人の漁師達はもう一人もいない。みんな死んだんだろう。たくさんあった漁師小屋も漁船もない。覚えているが、日系人達は、鮭の身を薄く切って干物を作っていたよ。あれを焼くと旨かったなあ。俺は、その時稼いだ金で自分のヨットを買ったんだ。」と、スタマティスは遠くを見る目つきをした。

P1040491.JPG
小さなヨットで旅をしてみたい


「今はトフィーノで何をしているんだ?」と僕。

「タンが観光客相手の店をやっている。俺はそれを手伝っている。夏の間は良い商売だ。サーフィンとか避暑にくる人間がいっぱいいるからな。タイで仕入れた民芸品とネパールの羊毛のセーターなんかを売っている。」

「タイの民芸品は分かるが、ネパールの羊毛はなぜ?」と僕。

「カナダは寒いだろ?だから、チェンマイから引っ越してきた俺たちは、最初の冬は着るものがなかったんだ。だから、タイに戻ったとき、もうひとっ飛びして、ネパールまで冬服を買いにいったんだ」と、スタマティス。

「ネパールまで?」と僕。

「バンコクからカトマンズまでは安い飛行機があるし、たった二時間だから、買物に行ける。第一、タイにはろくな冬服がないからな」とスタマティス。

「なるほど。それで?」

「カトマンズで冬服をしこたま買いこんだ。手編みのセーターとか、太い毛糸の帽子とか、手袋とか。ほらこれも」と、スタマティスはかぶっていた帽子を脱いだ。なるほど、見たこともない様な立派な毛糸で編んである。

「ナイロンとか、プラスチックとか、ゴアテックスとか、そういうインチキは一切なし。純粋な羊毛だ。カナダの冬にはもってこいだ」とスタマティス。

「じゃあ、少しは儲かっているのか?」

「いや、まだまだだ。どうにか暮らせるくらいだ。だがな、タスター、俺は、また船に乗ることにしたんだ」と、スタマティスは目を輝かせた。

「冬のトフィーノには観光客も来ない。タイ人のタンには、冬のカナダは堪える。だから冬は店を閉めることにした。俺はタイの南かマレーシアにヨットを置いておき、それで東南アジアとか、オーストラリア東海岸をクルーズする。客も乗せれば、少しは金も稼げる。最高だぞ。お前も息子を連れて来い」と、スタマティス。

P1030179.JPG
うちの息子鈴吾郎は、水が好きである

「タスター、 人生は短いんだよ。いいか、俺たちにとって、次の10年はもう二度と来ないんだぞ。分かるか? 次の10年でできることは、多分その次の10年では、もうできない。だからな、俺は、今また船に乗るんだ。くよくよ考えているのは止めだ。今はあちこち船を探している。買う船は、カタマラン(双胴)で、28から32フィートの船に決めている。安定しているし、操作もしやすい。ずっとそういうのが欲しかったんだ」と、スタマティス。

「そいつは大賛成だ。そう言えば、俺も船を作っている。息子の鈴吾郎(りんごろう)にせかされたんで、二人で釣り用モーターボートを作っているんだ。かなり完成に近い」と僕。

「そいつは、いいぞ、タスター! そうこなくっちゃいけない。よし、明日そいつを見せてくれ」とスタマティスは、膝を叩いて喜んだ。

IMGP7291.JPG
息子と作っているボート。何という名前にしようか?


スタマティスにボートを見てもらう


翌日、スタマティスがうちにきた。

「ほほう、ほほう、ほほう。うん、うん」と何度も頷きながら、スタマティスは、しばらく僕のボートの胴をなぜたり、下からのぞいたりしていた。そして言った。「タスター、いいぞ、このボートは。でも、けっこう大きいな!こいつを仕上げるのは、まだちょっとかかるぞ。」

「うん、長さは15フィート、4.9メートルだ」と僕。

「この大きさだと、かなりの重さになる。モーター、燃料、人は四人くらいか? だとすると、胴体の補強が大切だ。胴体に張るファイバーグラスも底は二重にしろ。一重じゃダメだ。舳先も補強が必要。こんな薄い木材だと、一度、バーンとぶつけたら舳先が割れちまう。錨もしっかりしたのを付けろ。安物はダメだ。錨には五メートルの鎖を付けて、その先は50メートルのロープだ。大袈裟かもしれないが、錨に命を助けられることが必ずあるんだ。 錨はデルタというブランドが最高だ、覚えておけ。」とスタマティスは厳しい顔をした。陸(おか)では、女たらしだの、怠け者だのと言われているが、海に出たらさぞ頼りになるだろう。スタマティスは、その後も、小一時間程僕にボートのレクチャーをした。


ヴァルハラへ行け


船の話ばかりして疲れたので、うちの近所を少し散歩することになった。

「話は変わるけど、僕の39歳だった弟が、一昨年急に病死したことを話したっけ? その後片付けをしたり、東京の実家を処分したりしたことなんかも?」と僕は打ち明けた。

「いや、そいつは聞いてない」とスタマティスは、不意をつかれた様に、静かに答えた。

僕はその顛末を話した。弟は、精神と肉体の変調から、何年も生きるのに苦心していた。大学の研究職にあったが、病を得て退職し、その後はリハビリで豆腐屋に勤めたり、東北震災のボランティアをしたり、世界一周のクルーズに出掛けたり、小説を書いたり、最後は好きだった音楽をやったりもしたが、最後は病に負けてしまった。僕は、遠くからそんな彼を心配しつつも、あまり何もできずにいた。だから、今でもときどき、どうして弟が死んだのか自問したり、若くして亡くなって気の毒に思っているとも話した。

「そいつは、当然だ」と、スタマティスは言った。「しかしな、タスター、こう言うとひどく聞こえるかもしれないが、お前の弟は、 今はきっと生きていたときよりも、ずっと素晴らしい場所にいるんだぞ。」

スタマティスは続けた。「むかし子どもの時、俺はサムライとかギリシャの戦士の話を聞くたびに、死ぬと分かっていながら戦に出かけて行き、喜んで死ぬなんてバカみたいだと思っていた。死んだら終わりだからな。でも、そのうち、どうして戦士やサムライが 喜んで命を投げ打つかが分かった。戦士はただ死ぬんじゃない。死ぬとヴァルハラ(戦死者の館)に行くんだ。戦いで死ぬことは、そこへ行く為の切符をもらうことなんだ。
 お前の弟は、いろいろやって、今はヴァルハラにいるんだ。俺たちが、この世で旅をすることも戦に行くことに似ている。旅をしなければ「目的地」に着けないじゃないか。俺はギリシャに生まれて、これまでドイツ、カナダ、オーストラリア、タイに住んだ。今度またカナダに戻ったが、これからまた船に乗るつもりだ。俺は、いつだって旅人だったし、最後まで旅人だ。俺は、ギリシャの島や海は愛しているが、ギリシャ人が嫌いだから、ギリシャには戻らない。だから、最後はどこか旅で死ぬ。そして、最後の最後は、一番素晴らしい、大きな旅をする。この世からあの世へ渡る旅だ。カナダからタイへ行く旅なんか目じゃない。そのために人生はあるのかもしれない。
 実は今、アテネにいるお袋も死にかけている。ベッドに括り付けられ、朝昼晩と、姉やその家族に面倒を見てもらっている。俺は、スカイプでときどき話すが、頭もぼけて、俺のことも分からない。見てられないぞ。アテネの病院で死ぬなんて最悪だ。だから早く死んで、あの世に行けば良いと願っている。」

スタマティスは続ける。「それにな、タスター、死ぬのは自然なことだ。誰だって死ぬ。死ぬのが自然なら、怖いことは何もない。怖いのは、死ぬ時の苦しみ(suffering)だけだ」とスタマティスは締めくくった。
確かに、スタマティスの言う通りだ。だが、こいつは、かなりのほら吹きだから、かなり水で薄めて聞く必要がある。本気でそんなことを信じているかどうか分からない。

そんなことを話しながら、家の前に戻って来た。そこでスタマティスと別れる。

「じゃあ、またな。もう一回くらいは会おう」と、スタマティスは言った。僕たちは握手した。スタマティスは、排気管から青い煙を吐く安っぽいレンタカーを運転して戻って行った。そういう車が実によく似合う男だ。

スタマティスの人間としての評価はさておき、ひとつ確かなことは、この男が、心底旅人であることだ。行きたい場所があれば、どんなに遠くても、そこへ行く。そこに飽きると、また別の場所に行く。船に乗って、風まかせ、潮まかせ、 急ぎもしないが、ぐずぐずもしない。漂えど、沈まずに。そんなところが、とても自然だ。きっと、本当にどこかで、のたれ死にするだろう。幸せな顔をして。

僕も、ゆっくりでいいから、どこか遠くへ行きたくなった。




















posted by てったくん at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年05月18日

パジャマの問題

2016年5月18日

ある女性からパジャマを頂いた。その女性は美しい人妻である。

「私があげたパジャマ、着てくれた?」 マケイラは、いくらか頬を赤らめながらそう僕に言った。彼女が着た薄紫のブラウスの裾が、風をはらんではためいた。場所は、モンバルク村のサッカークラブの練習場である。目前では、男の子たちが広い人工芝のフィールドを走り回っている。うちの息子の鈴吾郎やマケイラの息子たちも走っている。明るい光の射す、土曜日の朝だ。

P1000150.JPG
モンバルクのサッカー場

「え? 君のくれたパジャマ?」僕は、一瞬何のことか分からず、うろたえた。そして、二秒後に思い出した。一昨日、僕の妻のチャコが、ややくたびれた、少し紫色がかった濃灰色のパジャマの上下を持ち帰ったのだ。

「これ、マケイラから預かってきたんだけど、君にだって」と、笑いを噛み殺しながら僕に手渡した。
「なんじゃこりゃ?」と僕。マケイラは息子の級友であるベンのお母さんである。どうして、マケイラが僕にお古のパジャマをくれるのか、まったく理由が分からない。

「どうして、マケイラが僕にパジャマなんかくれるの?」
「そんなこと知らないわよ。マークのお古じゃないの?」と、チャコ。マークはマケイラの旦那である。僕よりも背が高く、体も大きい。マークのお古なんて、大きすぎて着られる訳がない。それにマークのお古のパジャマなんて着るのは嫌である。

だから、そんなパジャマは着ないで放っておいたのだ。しかし、考えてみれば、人妻からパジャマをもらうのは生まれて初めてである。僕としても、心の置き所にやや困る。せっかく貰ったんだから、一回くらいは着ないと悪いかも。もしかしたら、マケイラは僕に気があるのかもしれない。いや、考え過ぎだろう。だとしたら僕の妻にパジャマを託す筈がないし、夫のお古のパジャマを好きな男に渡すだろうか。そんなバカな…。

僕は、二秒間の間にこれだけのことを考え、マケイラに答えた。「ああ、あのパジャマね! ちょっと紫色のあのパジャマね。ええと、まだ着てないんだよ。でも、どうもありがとう。今夜さっそく着てみるよ。それにしても服を貰うなんてうれしいなあ。どうしてパジャマなんかくれたの?」と、僕は尋ねた。

「ウヒヒヒ」マケイラは笑った。マケイラは、チャーミングな女性なのだが、なぜか笑う時は「ウヒヒヒ」と笑う。いつだったか、うちの鈴吾郎が、「おばさんの笑い方は変だよ。どうして『ウヒヒヒ』って笑うのさ?」と、失礼なことを言ったことさえある。マケイラは、「生まれつきなのよ。でも、 人ってみんな笑い方が違うでしょう? 私はウヒヒヒって笑うの」と答えた。

マケイラは、年は40ちょっとくらいで、細い針金縁の眼鏡をかけたやや古風な感じの、知性的な女性である。いつもふわっとした紫色のスカートを着て、上にもやや紫系の色のブラウスを着ている。バイオリンが上手で、息子の学校の音楽の先生も務めている。クラスの親の中では一番の世話好きで、 性格も温厚だから、みんなに愛されている。

「ウヒヒヒ、あれはね、マークが友達に貰ったのよ。だけどマークにはちょっと小さくて着られないの。だから、じゃあテツタにあげようってことになってね。だから、マークは着てないし、洗濯もしてあるから、安心して着てね。ウヒヒヒ」と、マケイラはにっこり笑った。

「そうか、そういう訳だったのか。 僕のことを思い出してくれてありがとう。じゃあ、さっそく今晩着てみるよ」と、僕は答えた。

「どういたしまして。 ウヒヒヒ」と、マケイラは、またちょっぴり頬を赤く染めて答えた。やっぱり、少し僕に気があるのかもしれない。

その晩、その少し紫色がかったパジャマを僕は着てみた。紫色はマケイラの服と一緒だが、それは単なる偶然であろう。ところが、そのパジャマ、貰ったのは良いが、着心地が悪いのである。道理でマークも着たくないわけだ。これをマークに手渡したどこかの誰かも、手放す筈だ。

問題点は、いくつかあった。まず、ズボンのゴムがゆるい。パジャマのゴムがゆるいのは致命的である。きつすぎても良くないが、ゆるいのは本当に良くない。ところが、このパジャマには、ゴムに加えてひもが付いている。だから、締め付けることもできる。しかし、これは最初からゴムがゆるいことを前提にして付けられているように思えるが、とすると、最初からこのズボンが緩いことを認めていることを意味する。どう考えても、ひどいパジャマのズボンだ。

しかも、このひもを締めてしまうと、ほどくのが難しい。これでは夜中に手洗いに起きた時に面倒くさい(僕は必ずトイレに起きる)。それに、寝ている間に蝶結びがほどけて、固結びになってしまったりしたら、もっと面倒なことになる。それからズボンが僕には長過ぎる。これだからオーストラリアの服は嫌だ。ズボンは長過ぎ、シャツも袖が長すぎだからだ。

上着も着てみる。とりあえず、可も不可もない。ただの長そでの丸首シャツである。問題は、ズボンと同様僕にはやや大きい。その上、色がひどい。濃灰色に紫がかった、ぱっとしない色だ。これでは、あまり良い夢も見られそうもない。

それでも、せっかくもらったのだから、一晩マケイラのパジャマで寝てみた。が、やはりダメであった。ズボンはすそからまくれ上がり、すね丸出しになった。ズボンのゴムが緩いので、シャツがはだけてお腹が出てしまう。袖もゆるゆるで、 まくれ上がって七分袖状態だ。まったく具合が悪い。非常に寝心地が悪かった。

でも、折角マケイラがくれたのだから、次の晩もこのパジャマにつき合った。二晩目は、たくしこんだシャツがまくれないように、ズボンのひもを固めに結んで寝たのだが、これが裏目に出た。心配した通り、ひもが固結びになって夜中のトイレの際に往生した。

「だめだよ、このパジャマ。着心地が悪くて失格」と、僕はチャコに言った。「あら、せっかくマケイラがくれたのに?残念じゃないの」と、彼女は薄笑いをして言った。

ともかく、このパジャマはお払い箱行きになった。マケイラには、着心地がどうだったかという報告はしていない。僕としても、真相を告げて、純粋な心の人妻を傷付けたくはないからだ。

こういう機会に考えて見えると、着心地の良いパジャマというものに僕はあまり出会ったことがない。子ども時代には、いろいろなパジャマを着させられた。冬は、風邪をひくからと厚ぼったいパジャマを着せられ、暑くて寝られないこともあった。夏は夏で、ごわごわした木綿のパジャマを着せられ、首筋やお腹の脇の柔らかい皮膚が摩擦して不快だった。旅館でたまに着る浴衣も好きではない。浴衣を着て寝ると、どうしても前がはだけてしまって、寝難くて仕方がない。

だから、大人になってからは、スエットパンツにTシャツかトレーナーである。これが最良である。スエットパンツは、ゴムもきつすぎず、ゆるすぎでもない。すそもゴムですぼまっているので、まくれ上がることもない。トレーナーも同様である。トレーナーは、厚すぎず、薄すぎずのがちょうど良い。

日本に帰ると、何日かは妻の実家に泊まる。そのとき義母が、義父のパジャマを貸してくれることがある。パジャマを忘れた時などは、ありがたくお借りする。が、人のパジャマを着ると安眠できない。生理的な問題と言うより、他人の夢を見そうな気がして不安になるのだ。どうしてそうなのかと言うと、人がいったんでも着たパジャマは、着心地が違う気がするからだ。形状記憶合金のように、本来の持ち主の体の形状をパジャマが覚えている気がする。だから僕が、例えば義父のパジャマを着て寝ると、義父の体のくぼみに体を入れて寝ている心持ちになる。そんな夜は、自分の夢ではなく、義父の夢、あるいは彼の無意識に入ってしまう気がして怖い。

IMGP7105.JPG
眠れない子ども、というテーマの絵本がたくさんある

IMGP7146.JPG
これも眠れない子どもの絵本

安眠というのは非常に大事だろう。幸い、自分は夜中にトイレに起きる以外は眠りが妨げられることはあまりない。ベルグレーブに引っ越したばかりの頃、裏の家が火事で焼け落ちたことがあるが、そのときも目を覚まさなかった。まあ、段々年をとってきたせいか、早朝目覚めたまま寝れなくなることもたまにあるが、そういう時は、数字を27から逆に数える、あるいは、カヤックを漕ぎながら水にできる波紋を見ているのを想像すると、大概はまた寝てしまう。

IMGP6199.JPG
水の波紋は眠気を誘う

あと、この頃していることで眠りに良いことはヨガである。ヨガは、これも息子の学校の美人のお母さんのロビンが教えているので、もう二年程通っている。しかも、僕のクラスは男性は僕一人で、あとは女性ばかりであるが、このことが少しは僕のモチベーションを高めているかもしれない。とにかく、このヨガクラスに行った夜はぐっすり眠れる。

もうひとつは、寝るときにアイマスクをすることである。日本を往復するたびに航空会社が無料でくれるアイマスクをたくさん持っているので、これをはめて寝るのだ。これを始めた理由は、僕の妻が宵っ張りで、なかなか寝ないせいである。一方僕は早寝。だから、妻が寝るときに、真っ暗な寝室に入ってこなくても良いようスタンドをひとつ点けたまましておくのだ。それでも熟睡できるようにと、僕はアイマスクを付けるようになった。おかげで、これをはめると、ぱたっと寝てしまう。

IMGP7016.JPG
鈴吾郎の子守唄はiPad

このことを友人でもあり、人妻であるエリさんに話したら、「てつたさんもそうなんですか? 私もアイマスクを愛用しているんですよ!」と白状した。僕は実は、アイマスクをして寝るのは、はたから見たら、いささか不気味なのではないかと思っていたのだが、麗しき女性であるエリさんも、こういうものをして寝ていると知って、これでアイマスクをしていても晴れた気持で眠れると知って嬉しくなった。

さて、今日は、パジャマや安眠について書いてみたが、その過程で2、3回「美しい人妻」について、話の行きがかり上言及した。しかし、この文章の目的はあくまで安眠についての考察であり、人妻について私が邪念を抱いているせいではないことを、賢明な読者諸兄姉は、たちどころに見抜いたであろう。




posted by てったくん at 15:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2016年05月02日

モンバルクの栗拾いと、バルークのキウイもぎ

2016年4月29日


過日、栗拾いに行った。モンバルクの友人宅である。ここへは毎年寄らせてもらっているが、住民であるララと夫のサージは年配で、悪い事に、ララは今年になってから膝も痛めている。だから、もう栗拾いをしないので、「いくらでもとってね」と言う。全く贅沢な話だ。

ララとサージの家の敷地は5エーカーはあるだろうか。モンバルク村を見下ろす山の斜面にあり、ウォーバートンの山を遠くに眺める日当りの良い斜面に果樹がたくさん植わっている。キウイ、レモン、フィジョア、リンゴ、梨、日本のミカンや柿の木もある。

この家の栗の木は、戦後に移ってきたイタリア系移民が植えたそうだから、もう樹齢50年以上だろうか、見上げるような大木だ。だが、イタリア移民の一世の多くはもうこの世を去り、生きていてももう高齢だから、栗拾いはできない。二世や三世は栗なんか食べない。だから、こうやって日本人の僕たちが21世紀になって、拾って食べているわけだ。

バケツ一杯の栗.jpg
バケツ一杯の栗

今年は、日本からメルボルン駐在でやってきているご家族と、うちの近所のもう一家族を誘って、三家族で拾った。それでも採りきれない。うちはバケツに4杯も拾ったが、当分食べきれない程ある。

栗を拾うのは単純な作業だ。地面に落ちているのを拾うだけだから、上手いも下手もない。毬(いが)に入っているのは足で踏みつけて、ぐりぐり押さえると観念して中から出てくる。そんなことを何百回も繰り返していると、やがてバケツが栗でいっぱいになる。

こういう単純な作業を繰り返していると、不思議と頭の中が空っぽになって、子どものときの記憶なんかが蘇ってくる。子ども時代、東京西部、多摩にも栗林がたくさんあった。でも、厳重に柵がしてあって、僕たち住宅地の子どもは外から眺めるだけだったから、栗林を持っている農家の子どもが羨ましかった。だから、メルボルンに来るまで、ちゃんと栗拾いなぞしたことはない。だから、栗拾いの夢が50年たってやっと実現した訳だ。そういう記憶の隅に焼き付いた光景が、古い写真のネガみたいに蘇ってくる。

ララとサージは、ロシア系移民である。オーストラリアには1970年代にやってきている。移民と言っても、ソ連を追い出されてきたから難民であり、ロシアには帰れない。追い出された理由は、西欧よりの自由主義的インテリ家庭に育ち、反ソ連的だったからだと言う。財産を没収され、身ぐるみ剥がれて逃げ出したから、彼等にとってロシアはもはや記憶の中にしかない。

そんなロシア育ちのララはキノコに詳しい。この時期ララの家に入ると、色とりどりのキノコが干してある。「どうして食べられるかどうか分かるの?」と尋ねても、「うまく説明出来ない。でも、私は知っている。見れば分かる。セントペテルスブルグの近くの森の中で、いつも採っていたから。」

栗拾いをしていると、「おしっこ!」と、日本人家族の小さな女の子のなっちゃんが言う。栗林にトイレはない。「そこらで、しちゃいなさいよ」と僕が言う。お母さんも「そうしなさい、なっちゃん、そこでしなさい」と言う。「できないよ、トイレに行きたい!」となっちゃんは泣き声を出す。

仕方がないから、ララ宅の母屋へトイレを借りに行く。ララは、実は生け花の先生で、僕もしばらく習っていたことがある。そんな日本びいきのララとサージは昨日まで日本に桜を見に旅していた。昨夜遅く帰ってきたばかりだから、あまりお邪魔したくなかったのだが、なっちゃんのためにドアを叩く。

すると、バスローブを着た疲れた顔のララがドアを開けてくれた。「あらー、来てたの? トイレ? どうぞ、どうぞ」と、家にあがらせてくれる。なっちゃんはトイレに駆け込み、僕はしばし立ち話。

「日本は良かったわあ、桜が本当に見事で。奈良が一番良かったわね。沖縄は初めて行ったけど、正直あまりぴんとこなかったわ。どうして沖縄の人は長生きするのかしらね、よく分からないわ」と、日本の印象を話す。

そうか、日本は桜なんだな、と僕も改めて思う。日本の桜なんてもう何年も見ていない。日本の桜。桜と言えば日本。インターネットを眺めていても、この時期は、桜、桜、桜。でも、それくらい見事だってことなんだろう。でも、メディアであまり大騒ぎするのは、興ざめだ。(僕に言わせれば、それが日本の悪いところだ。)それでも、いつか春に帰る機会があったら、桜を思い切り満喫してみたい。亡くなった父もこう言っていた。「春の奈良はいいぞ。いっぺん行ってみろ。」奈良の田舎なんかだったら、良いだろうな。


バルークへ

ララ宅で拾った栗を手みやげに、翌週の週末は、バルークという田舎にある、友人であるリッチとエリさんの別荘に寄せてもらった。メルボルンから東へ200キロ、ラトローブ渓谷のモーウェルという発電所(石炭の火力発電)がたくさんある町まで高速を走り、そこからは山道を40分程登るとバルークだ。

途中「タシー山の頂上見晴し台」という標識があったので、ガタボコ道を500メートルほど登って行くとアンテナが立っていて、そこが見晴し台だった。

車中ではぐうぐう寝ていた13歳の息子の鈴吾郎もむっくり起き上がり、「お、すごい景色だ、写真を撮ろう!」と言い、自慢のiPadを持ち出す。オーストラリアには、あまり高い山がないから、こうした高見の見物ができる場所はうれしい。

タッシー山で.jpg
タッシー山の頂上から

鈴吾郎は、しばらくiPadをあちこち向けて風景写真をとっていたが、「ここは風が吹いたら、すごそうな場所だな」と言う。今日は秋とは言え、穏やかな天気だ。

遠くに発電所の煙が見える。石炭を燃やすので評判が悪いのだが、ラトローブ渓谷自体が石炭の上にあるような場所だから、燃料には事欠かない。オーストラリアは、世界でも一酸化炭素の排出量が最も多い国のひとつだが、 こうした安い燃料があるだけに 、太陽や風や水などの代替エネルギーになかなか移行出来ない問題を抱えている。(でも、どうしてこんなに電気代は高いんだろうね?)

タシー山からバルークはすぐであった。バルークは、タラブルガ国立公園の横の村だが、ここにリッチとエリさん夫婦が田舎屋を買ったのは3年間くらい前だろうか。

僕らが到着すると、作業着を着たリッチが現れた。リッチは普段は会社勤めだが、こういう田舎にいる時は樵のような格好をしている。オーストラリアの男は、スーツよりも作業着が似合う。僕の様な日本人でも、作業着が似合う様になるとオーストラリアに馴染んできた証拠だ。

リッチとエリさんの家の敷地は10エーカー。「ひと山」という感じかもしれない。こういう田舎では、家一軒の敷地はエーカー単位である。家自体もかなり広いが、相当ガタガタである。ぼろい、とは聞いていたが、本当にぼろい。

セドリックじいさんの山の家.jpg
共産主義者セドリックじいさんの山の家

「こうやって友達に来てもらえるようになるまで3年かかりました」とエリさんが笑って言う。「メルボルンに住んでいるから、月に二回来るとしても、ちょっとずつしか片付けられないんです」と、彼女は言う。

「前に住んでいた人は100歳まで生きた老人で、しかも、その人が亡くなってからもう15年もたっている状態の家を買ったから、どれくらいぼろいかわかるでしょ?」とリッチ。この老人は、定年退職してからこの家を買い、40年程をここで過ごしたと言う。

「最初は小さな山小屋だったのを、こちらに一部屋、あちらに一部屋、物置をひとつ、温室をひとつ、という具合にどんどん建て増したらしいんだよ。だから広いんだけど、ほとんど全部違法建築!」とリッチは笑う。

「どうしてこんな山奥に家を買ったの?」と尋ねると、「バルークは、若い頃からよく来ていて、キャンプをしたりしたんだよ。僕は、このギップスランド地方が大好きでね、将来ここに土地を買って、木をたくさん植えて、昔の様な森を復活させていきたいと思っていたのさ。そしたら、こういう物件に出くわしてね。ここは、もうちゃんと森になっているから、じゃあ、この森を守る為にこの家を買おうと思ったわけ」とリッチが答える。森を守るために家を買うと言うのは、本当に見上げた心意気だ。

10エーカーのうち、家屋や物置がある敷地は3、4エーカーで、残りは原野だ。隣はもう国立公園であるが、どこが境界か目印もない。それを知る唯一の方法は、スマホでGoogleマップを開き、それで方位を見ながら歩くことだと言う。便利な世の中になったものだ。

庭を見せてくれる。リッチとエリさんが植えた新しい樹木である原生種のユーカリには赤い印がついている。前の住民であった老人が植えた木は、見上げる様な大木になっている。リンゴや梨やヘイゼルナッツの木もある。温室からはみ出たキウイの蔓はあちこちを這いずりまわり、100坪くらいのジャングルだ。キウイの実がたわわになっていて、市場へ出荷出来るほどの量だ。「あとで、みんなでとりましょうね」とエリさん。

キウイの木に被われそうな家.jpg
キウイに埋もれた家

陽がかげってきたので、家に入る。こういう山奥では日が落ちるのがめっぽう早い。家の中では、薪ストーブがぼうぼう燃えている。僕のベルグレーブの家にも薪ストーブはあるが、薪をけちっているので、こんなに景気良くは燃やせない。「このジャングルには、薪はいくらでもあるからね。それに週末しか来ないから、薪は燃やし放題。トレーラーを引いて来たら、いくらでも薪をあげるよ」とリッチ。薪はメルボルンで買うと、一立方メートル130ドルもする。

この家はとても古い。築70、80年の家だから、本当はそんなに古い訳ではないが、10年以上も手入れをしてなかったから、ぼろぼろの箇所がある。それをリッチたちはこつこつ直しているのだ。それでも、二部屋はあまりにもぼろかったから、あきらめて解体したと言う。「床も壁も腐ってたからね」とリッチ。

「実は、この家に住んでいた老人は、コミュニスト(共産主義者)だったんだよ。共産党のパンフレットがたくさんあってね、ほら」と、リッチは机の上に積んである古ぼけた冊子を見せてくれた。それから「日本の共産党へ書いた手紙の写しも残っているよ」と、カーボン紙の写しをファイルから取出した。

その手紙の日付は1964年で、「日本共産党 書記長様」とある。内容は、日本でそのころあった事件に関することで、労働争議か何かの咎で逮捕された日本人の某の釈放を、オーストラリア共産党も全面的に支持するという内容であった。共産党員は国際的に一致団結しよう、という文章で、日本以外にも、ロシアや東欧諸国の同胞へあてた手紙も何通かそのファイルにあった。オーストラリアも労働者の国だから、共産党や社会主義の人たちの活動は盛んだろう。

ララとサージのように、ソ連から反共的だというかどで追い出されて、オーストラリアに来たと言う人もあれば、そのオーストラリアで、共産主義者の男が、こんなに楽しそうに、山奥で自由に楽しく暮らしていたというのは、皮肉でなくて何だろうか。

「この家を買ったらね、近所の人たちがセドリック(共産主義の老人の名前)のことをいろいろ教えてくれてね。だから僕は、この家の歴史にのめりこんでいるんだよ」と、リッチが苦笑いする。

古い家を買うと、ついでにその家の歴史も買うことになる。過去と未来を同時に手に入れるということだ。オーストラリアには古い家がたくさん残っているから、実際こういう話はよく聞くし、僕も自分の家を買った時、押し入れの奥から、前に住んでいた子どもの描いたスケッチブックを見つけたことがある。庭を掘っていたら、古い木製のおもちゃの自動車が出てきたこともあった。古い家はタイムカプセルなのかもしれない。

「物置にもいろいろ面白いものがたくさん詰まっていてね、まだ全部調べてないんだけど、ほらこんなのもあったよ」と、リッチが見せてくれたのは、産婦人科医が使う手術用具一式だった。「これなんか、胎児の頭をつかむ道具だね」と、薄気味悪いものを取出して見せる。「そのじいさん、変態だったのかもよ」と僕はつぶやく。

セドリックじいさんの作業小屋.jpg
セドリックじいさんの夢の跡

夜のバルークは、耳が痛くなる様な静けさだった。ベルグレーブも静かだが、どこかで自動車の音はするし、夜遅くには駅から電車の汽笛の音も届く。 しかし、バルークには何の音も届かない。風や動物の立てる音がするだけ。

ぐっすり寝たので、 翌朝はみんな寝坊だった。庭でとれたリンゴや梨の朝ご飯を食べ、外に出る。鈴吾郎とトモ君は、庭でエンジン付きのゴーカートに乗っている。アクセルを床まで踏むと60キロは出るという代物だ。こんなものを自分の庭で乗れるのだから、オーストラリアの子どもは幸せだ。

ゴーカートで森を走る.jpg
ゴーカートで飛ばす子ども達

「すげえスピードが出るんだよ。パパ見てて!」と、鈴吾郎は興奮し、家の前の芝生で、ゴーカートで8の字を描いたり、スキッドさせたり、ドリフトさせたりしてみせる。「パパも乗ってみなよ」と言うから僕も挑戦するが、庭をガタボコゆっくり二周しただけで、体中の骨がばらばらになり、首がもげそうになったから、早々に退散した。

「キウイをもぎにいきましょう」と、奥さんたちが言うので、僕もそっちへいく。長男のアキちゃんがもうすでにキウイのジャングルに潜り込み、どこか見えないところで、「あ、大きいのがあった! こっちにも大きいのがある!」と、歓声を挙げながら実をもいでいる。僕も、いっしょになってもいだら、すぐに段ボール箱に四箱とれた。

あまりたくさんあるので、「これを一体どうやって食べるんでしょうね」と、思わず言ってしまった。

キウイの森でキウイをもぐ.jpg
みんなでキウイをもぐ

「キウイジャム、キウイワイン、キウイジュース」と、チャコがアイデアを出すが、あまりレパートリーは考えつかない。僕の多摩の家にも、母が昔植えたキウイがあって、毎年箱一杯くらいとれた。母が亡くなると、子どもの本の作家だった父は、キウイを植えた母を懐かしんで『キウイじいさん』(渡辺茂男作、クレヨンハウス刊)という絵本を書いた。これは、老人がキウイの木に元気をもらって老後を乗り切る物語である。この話には、「キウイ最中」とか「キウイぜんざい」とか、変な食べ物が出てくる。絵はナンセンス画で有名だった長新太さんが描いた。僕は今でもこの絵本が大好きで、これを読むと、父や、今はもうない、キウイの木があった実家が懐かしくなる。

「そういえばさ、キウイが好きなおじいさんが出てくる絵本があったよね」と、ゴーカートを乗り捨ててきた鈴吾郎が言う。「あんた何言ってんの、それは、あんたのおじいさんが書いた絵本なのよ、覚えてないの?」と、チャコがあきれ顔をして言う。

「ねえリッチ、ゴーカートの後ろの車輪をこわしちゃったみたい」と、鈴吾郎が首をうなだれる。「え? そうか、ちょっと見てみよう」とリッチ。ゴーカートを見にいくと、なるほど後のホイールが曲がって、タイヤが外れている。「あれまあ、どこか固いものにぶつけたんだな。仕方ないよ、気にするな」とリッチが慰める。

そんな事をしているうちに、気がつくともう昼。あわてて昼ご飯を食べ、タラブルガ国立公園の森をちょっとだけ歩きに行った。森の奥では、パキスタン人と思しき大家族が、特別に美味しそうなバーベキューをしていたから、森中に香辛料のきいた焼き肉の匂いが漂っていた。その上、僕らにはわからない言葉で、彼らの大きな笑い声が森に木霊していた。

「普段は、もっと静かなんだけどなあ…」とリッチがつぶやく。「パパ、あの人たちのバーベキュー美味しそうだね。ちょっとだけ食べさせてくれないかな?」と、食いしん坊のアキちゃんが言う。「何言ってんだ、お前昼飯食べたばかりだろ!」と、リッチがたしなめた。

僕らは、足早に散歩を終えると、車に山ほどキウイを乗せて、メルボルンへ戻った。短いが、とても愉快な週末だった。

高さ100メートルのユーカリ.jpg
樹齢200年、高さ100メートルのユーカリの巨木
posted by てったくん at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年04月18日

自転車でどこへ行こうか?


2016年4月18日

僕の古い自転車ブリジストン・ダイヤモンド号を直したから、そのことをFacebookに載せた。そうしたら、中学校時代の旧友F君が、ずっと所蔵していた、これも同じくブリジストン・ダイヤモンド号を昨年レストアしたと言って写真をアップして見せてくれた。F君のダイヤモンド号もピカピカだったが、似た様なことを考えるもんだと、全く驚いた。この間書いた、輪友トノムラ君もコメントをくれたが、彼のダイヤモンド号はずっと昔にお釈迦になったそうだ。当然だよな、40年も前の自転車だもの。でも、そのうちまた一緒にサイクリングしようということになったので、Facebookも効用があるのだと嬉しくなった。

サイクリングロード.jpg
サイクリングロードにて

さて、直した自転車でどこへ行こうかと考えつつ、同時に、この間から自転車に関する本をいろいろと読んでいる。今読んでいるのは、米国のDon Pettersonの書いたThe Old Man on Bicycleという本だ。彼は、元外交官なのだが、定年退職後の72歳のとき、突然思い立って、北米大陸の東海岸ニューハンプシャーから西海岸サンフランシスコまで、二ヶ月かけて自転車で横断した。本書では淡々とした調子でその旅の様子を書いているが、同時に老人の健康、老後の生き方についても意見を書いている。 著者は「私にとって老人とは、常に私より15歳年上の人間のことである」と、誰かの言葉を引用して書いていたが、僕も70歳になったら、そう思いたい。こういうことも書いているが、むしろ、老いとは無理に闘うのではなく、上手に折り合いをつければ、アメリカ大陸横断だって決して無理でないことをこの本は教えてくれる。

他にも引っ張り出して読んだのは、伊藤礼著『こぐこぐ自転車』、『自転車ぎこぎこ』、『大東京ぐるぐる自転車』の三冊である。この著者も老人である。伊藤翁は、大学を退職する二年前、やはり突然目覚めて自転車に乗り始め、八十何歳の今も、杉並の自宅から、どこへでも自転車で出かけてしまうというお達者振りである。翁曰く、「自転車なら必ず席に座れるし、必ず時間通りに目的地に到着する。」 僕は、この伊藤先生に大学時代に英語や英文学を教わったのだが、いつも30分くらい授業に遅れてやってきて、出席を長い時間かけてとり、やっと教科書を2ページくらい訳すと、またもや30分くらい早く授業を切り上げるのであった。授業にはあまり熱心ではなかったが、話がとても面白くて、授業の外でも個人的にお世話になったので、「学費泥棒!」とはちっとも思わなかった。

そのころから伊藤礼先生は、エッセイストとして有名で、特に『狸ビール』という訳の分からない本を書いて、世間を騒がせていた。だから、 僕は卒業後もずっと伊藤先生の著作に注目し、ご著書は全部読んでいる。伊藤先生は、お父さまである作家、伊藤整の評伝等が「真面目」な著作だが、上記3冊の自転車エッセイは抱腹絶倒で、自転車に縁のない人もぜひ読むことをお勧めする。『耕せど、耕せど。久我山農場物語』という園芸に関するエッセイも書いておられ、この本でも老境ということについて大いに学ばされる。特に、溲瓶(しびん)の使い方の説明などは、俗人の到達できる領域を越えた記述である。

僕.jpg
パタソンリバー河口にて

そういう本も読みながら、自転車でどこへ行くか考える為に、 僕はベルグレーブの本屋で、メルボルンとビクトリア州自転車地図を買ってきた。当地はかなりの自転車ブームで、メルボルン市内にはかなりの距離の自転車専用道路が整備されつつある。田舎では、元もと鉄道線路だった土地を自転車や乗馬専用に整備している道も大分伸びてきている。

しかし、じゃあ、どこへでもこうした道で行けるかと言うと、そうはいかない。まだまだ自転車は、車道の脇を走らなくてはならないことが多く、ここオーストラリアは自動車の走行速度は普通道路でも70キロ以上だから、路側帯を自転車で走るのは命がけである。僕が住んでいるダンデノン山はけっこう勾配がきつく、路側帯もろくにもなくて、車道を行くのはなかなか手強い。

だから多くの人は、自動車に自転車を積んでどこかまで行き、そこから走り始める。でも、こう言っては何だがキセル乗車をしているようで中途半端だ。しかし、そういうことを言っていたらどこも行くところがないし、結局アームチェア・サイクリストで終わって、地図を眺めて嘆息しているだけで終わってしまう。

田舎道.jpg
ダンデノンクリーク沿いの道

そこである秋晴れの日、僕も車にダイヤモンド号を積み込み、エンデバーヒルズという隣町まで15分程ドライブした。そこからは、自転車道を、パタソン・レイクという海岸の街まで一走りしてきた。ダンデノン・クリークという小川沿いの気持のよい平らな道で、海に近づくと川は太くなり、最後はポートフィリップ湾に注いでいる。その河口まで行ってきた。義弟に前にもらったサイクル速度計もつけてたので、距離や平均時速も分かった。この日走った距離は片道19.5キロ、往復39キロ。平均時速17キロ、走行時間は3時間半くらいであった。

速度計.jpg
速度計は見ていて楽しい

結果から言うと、走ると不愉快になるような幹線道路は走らないで済むので、とても楽だった。難を言うならば、自転車道路というのは走るのが楽すぎるのと、裏道や田舎道を走っている時のような思わぬ発見や意外な景色や光景もなく、やや退屈という面がある。長く苦しい峠道を踏破し、今度は長い下りで快哉を叫ぶクライマックスもない。安全な道はあくまで淡々と続き、過保護なサイクリングと言っても良い。でも、こんな不平を言うのは、贅沢かもしれないから、 今後も、この自転車地図を参考に、あちこち走ってみようと思っている。

イスラム寺院.jpg
ダンデノン市のイスラム寺院

そう言えば、フォーク歌手、高田渡の曲にも『自転車にのって』という曲があった。「自転車に乗って、ちょいとそこまで歩きたいから」というフレーズは言い得て妙だ。自転車の良さは、そいうった手軽さにあるんだと思う。

晴朗なれど、.jpg
ポートフィリップ湾。晴朗なれど波高し
posted by てったくん at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年03月28日

古い自転車のレストア整備

2016年3月26日

今年初頭、Luigi’s Freedom Rideという自転車がテーマの小説を読んでうれしくなり、高校生のときから乗っている古い自転車をレストアすることにした。そのことは、この間書いたが、いっときは、もうこんな古い自転車なんか直すのよそうと思った。でも、この小説の主人公の自転車に対する愛情に感動してモチベーションがぐんと上がり、「古いものは大事にしよう!」と思い直した。

古い自転車2.jpg
きれいになった古い自転車

それから一ヶ月以上、暇さえあれば自転車の整備。一番苦労したのは、錆び落としかもしれない。錆を落とすには、コンパウンドと呼ばれる研磨剤が最も強力である。これを付けたスチールウールでこする。これに勝るものは無い。レモン汁や酢につける、コカコーラに浸けるとかの方法もある(コカコーラは、もう一生飲まないことに決めた)。だが、それでも落ちない錆もある。そういうのは、もうトタン屋根の補修に使う銀色の塗料を塗ってしまった。 コロンブスの卵である。そうすると、一寸見ただけでは新品に見えてしまうくらいきれいになった。(やや誇張気味。)

錆びた部品.jpg
塗ってしまった部品

そんなあるとき、友人のアラン宅に行った。お茶を飲みながら、「40年前の自転車をレストアしているんだよ。錆落としに苦労してね」と僕は言った。

するとアランが、「錆を落とそうと思ううちは、まだ正常。錆たままが良いと思うようになったら、ちょっと異常」と言う。アランは、筋金入りの骨董マニアである。そして、「俺の自転車を見せてやるよ」と、僕を車庫に連れていった。

そこにあったのは、錆だらけの水色の自転車。「これは、パトリシア(アランの奥さん)の誕生プレゼントに買ったんだ。錆びさびだろ。そこがいいんだよ。でも、こういうのが良くなると、かなり気違いだぜ。」

水色の自転車は1930年代のものだそうで、イギリス製のラーレイだか何だか分からないが、鉄製の重たいやつだ。(こんな鉄アレイみたいなもの、よく乗るよ。)
「見てごらん、このライト! アセチレン灯だよ。もちろん点かないけど、かっこいいだろ!」と、アランはうれしそうに言う。

アランは、水道とガスの配管屋で、年齢は60台半ば。若い頃はどもりがひどかったが、オーストラリア南極観測基地のガス水道管理の仕事に志願して、計二年を極地ですごして帰ったら、どもりがすっかり直ったそうだ。 今は温厚な初老の紳士。骨董マニアだが、一番好きなのはクラシックカー。愛車は1964年型ジャガーEタイプで、我が子以上にこれを愛でている。休みとなると、これで奥さんとあちこちドライブ。加えてキャンプ用にと、1970年代のフォルクスワーゲンのバンも持っている。

家の中も骨董だらけ。居間には日本の茶箪笥や掛け軸、竹籠などが置いてあるが、これは奥さんの趣味。家中に古い時計、クラリネットやサックスといった古楽器、自動車の部品、古本なんかがぎっしり。これはアランの趣味。 玄関横の門灯は本当のガス灯がちらちら点いている。庭のあちこちには、日本の灯籠、古い梯子など。統一もへったくれもないが、とにかく古いものだらけの家。

アランが、「もうひとつすごいものを見せてやる」と取り出したのは、自動車の木製ハンドル。もちろんジャガーのもの。「これを手に入れるのは苦労したんだ。アメリカのマニアから譲ってもらったんだけど、本当の1964年型の純正だぞ。見てご覧、木のハンドルに塗ってあるニスがつや消しだろ。これが正真正銘のオリジナル塗装なんだ。普通ジャガーのオーナーは、ハンドルのニスが禿げてくると、艶のあるニスを塗る。きれいだからね。でも、これは間違い。つや消しのニスじゃないとオリジナルじゃないんだよ。これは大発見だ。下手したらスミソニアン博物館ものだ。うははは。」

呆れた僕は、「あんた、本当の気違いだな」と言うと、アランは嬉しそうに、「そうなんだよ、そうなんだよ、うひひひ」ともっと喜ぶ。

僕は気違いじゃないから、古くても、錆びている自転車は嫌だ。きれいにして乗りたい。部品も古いのはかっこいいけど、オリジナルでなくても全然構わない。

緑の自転車.jpg
これは緑化された自転車

でも、アランに刺激されたので、家に帰ると、かなり精魂こめて自転車の整備をした。自転車を完全にバラしてみて思ったのは、パーツ自体はそれほど多くないから、作業は大変じゃない。ただ面倒なのは、真っ黒に汚れた油だらけの部品、特にチェーンに触るのが嫌ということがあるかもしれない。でも、これには使い捨てのシリコン手袋をはめて対処した。汚いチェーンをきれいにするには、お湯をかけたり、灯油に一晩つけておいたりする。他の部品も灯油で磨けば、大概はきれいになる。

それでも、汚い部品やチェーンを磨きながら灯油の匂いをかいでいると、中学生、高校生の頃を思い出す。夏休みや春休み、自転車旅行に行く前に、こうやって自転車を整備したものだ。手先を真っ黒にしながら、心はわくわく。そんな気持を思い出したのは、ずいぶん久し振りだ。

テクニカルなことになるが、長年この自転車の補修が面倒だったもうひとつの理由は、タイヤサイズの問題である。僕の自転車は、650Bの40という特殊なサイズで、このタイヤはオーストラリアではほとんど売ってない。(日本でも、そこらの店にはない。)大概の人は、大人用自転車には26インチか27インチしかないと思っているかもしれないが、これは大間違い。700ミリ、650ミリという径もあり、これらは26インチと27インチと微妙に径が違う。さらに、その中にも、更にこまかい径や幅のバラエティがある。サイズが合わないタイヤは車輪にぴったりはまらないから困る。

今回は、インターネットでそのタイヤを探して海外に発注した。イギリスの店に注文したら、ドイツから送られてきた。届いたのを見ると、アメリカのメーカーだが,製造は中国であった。このタイヤは、地球を一周半してきたわけだ。いったいどうなってんだろう!

さらに、今回のレストアで大問題はフレームの塗装だった。フレームは、傷だらけで目もあてられない状態。もと自転車屋のトニーに相談すると、「いいじゃないの、このままで。古くて傷だらけなのも味だよ、味!」と人ごとだと思っていい加減なことを言う。確かに、少しくらい傷があるのは「味」かもしれないが、 傷だらけでぼろぼろなのは「味」をすっかり通り越している。でも、フレームの塗り直しは目の玉が飛び出るほど高価。オーストラリアだと5万円、日本でも2万円はかかる。新しいフレームが買えちゃう値段だ!

塗装中.jpg
塗装中のフレーム

そこで、思い切って自分で塗り直すことにした。自転車フレームを塗り直すのは、普通はやらない方がいい。上手に塗るのが難しいのと、焼き付け塗装じゃないから、またすぐ傷だらけになるからだ。でも、これもコロンブスの卵。傷だらけになったらまた塗り直せばいい。

そこで、塗料を買いに自動車専門の塗料屋に行った。「自転車のフレームを塗りたいんだけど」と、相談すると、塗料屋が「フレームを持っておいでよ。その色にスプレー缶を調合してあげるから」だって。さすがプロは違う。待つこと一日、オリジナルとほぼ全く同じメタリックレッドのスプレー缶を作ってくれた。うれしいなあ。

古い塗装を落としたり、2日くらいかけてフレームを塗りあげる。我ながら、「ムムム!」と唸りたくなる程きれいに塗れた。

ツリーハウス.jpg
我が家の古びたツリーハウス。アーティスト西川しょう子さんと、文庫の子ども達がきれいに塗り直してくれました。

後は、ブレーキやギアのケーブルやなんかの消耗部品。ここまでくれば楽勝。インターネット時代だから、普通の部品ならどこでも郵送で買える。最後に、すり減って虫食い状態になったクランクのシャフトも替えることにした。寸法を測ると、73ミリという非常にレアなサイズで(普通は68ミリ)、一瞬青ざめた。こんなの今どきあるの? でも、シドニーの自転車屋にちゃんとあった。

でも、部品を探しながらインターネットで見ていると、古い自転車をレストアして乗るのは、けっこう一般的な趣味として広まっていることが分かる。一種の懐古主義だ。メルボルンにもその筋の専門店が2、3軒あることを知る。そのうちの一軒は、「MOTTAINAI Bicycle」と言う名前。 http://mottainaicycles.com/ 

もちろん、日本語の「もったいない」から命名したらしい。街に出たついでにのぞいてみたら、倉庫みたいな場所で、ヒッピー風ひげ面男が三人ほど、古い自転車を組み直していた。 店にはあること、あること、懐かしいオールドバイクがたくさん 。デローザ、ビアンキ、エディメルクス、プジョー、ラーレーなどに混じって、丸石、ミヤタ、フジといった日本車もある。懐かしくて涙が出そう!

インターネットを見てると、日本にも気違いがたくさんいることが分かる。中でも、古い自転車を徹底的に整備して磨き上げるのが趣味のおじさんたちにもつける薬はない。アランみたいな錆びさび派?とは逆で、こちらはピカピカ派だ。そこまでピカピカに磨いてどうすんの?と思うくらいに、ピカピカに磨く。確かに、昔の60年代から80年代くらまでのロードレーサーやランドナーといった自転車はかっこいいから磨きたくなるだろうけど、ここまできれいにしたら、外で乗れないじゃないの?

繰り返すようだが、僕はそこまで気違いじゃないから、古い自転車をきれいに整備して、もう一度走れるようになればハッピー。

三月中旬、ついにダイヤモンド号が完成。さっそく走りに出る。家を出て、モンバルク村、エメラルド村、メンジーズクリーク村と三角に走って40キロ。田舎道、未舗装道路も多いから、きれいだったダイヤモンド号は、すぐに埃だらけ。でも、久しぶりに走ると気持がいい。ところが、54歳の僕には、山坂が意外にきついのも新たな発見。昔はこのギアで奥多摩、秩父、丹沢、日光いろは坂、信州乙女峠なんかを荷物いっぱい積んでがんがん走ったというのに、今はちょっと坂がきついと、一番低いギアで、時速八キロのろのろ走行。

ようし、これからはトレーニングして、あちこち走るよ。

機関車.jpg
近所の森の中を走る100年前の蒸気機関車。これもぴかぴか。
posted by てったくん at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年03月08日

自転車が好き

2016年3月8日

お隣の庭先のユーカリの古木が枯れたので、市が突然伐り倒しにきた。自分の家の庭先でも、道路から二メートルくらいまでは市の土地で、そこにある木も市が管理する。お隣の夫婦はニュージーランドへ旅行中だった。それで、帰ってきたら家の前が伐採した丸太の山になっていて仰天。ご主人は、「伐ったのはいいけど、一番枯れている木を忘れているんだよ」と言った。見ると、一本、枯れ木が丸々残ってた。 これは、次回を待たなくてはならない。

そんなおかげで、我が家も薪のお裾分けにあずかった。ありがたや。まだ薪ストーブを燃やすには早いが、だんだんと秋が深くなってきている。

木を伐る.jpg
樵(きこり)は、高いところが好きでないと勤まらない

秋と言えば、読書だ(でも、何でだ?)。地元ベルグレーブの小さな図書館に週に一回は行くが、図書館で本を借りる良さは、自分では買ったり、選んだりしない様な本が陳列されていることだ。そういう本を読んで面白かったりすると、うれしい。特に、日本語になってないオーストラリアや他の国の作家を知ると、新しい友達ができたような気分だ。

この間読んだ小説、Louigi’s Freedom Ride(Alan Murray、Fourth Estate 2014)に影響されて、僕の中で自転車熱がぶり返している。オーストラリアに来てから、自転車からはやや遠ざかっていたのだが、この本のおかげで再燃した。

これは、オーストラリアの作家の本だが、イタリヤの北部田舎町で生まれ育ったLouigiという自転車少年の物語である。時代背景は、第二次大戦前から現代までである。Louigiは物心がついてからずっと自転車が大好きで、あちこち乗り回していた。親父が鍛冶屋で工具類がうちに豊富にあるから、自転車修理にも詳しくなる。やがて第二次大戦が始まり、ムッソリーニの自転車部隊に入った。ところが戦争が激化してくると、イギリスのスパイと知り合いになり、やがてファシストであるムッソリーニに抵抗するレジスタンス活動に参加する様になる。そうやって、ナチスドイツやイタリヤのファシスト党に抵抗しているうちに戦争がどうにか終わる。そこで今度は、子ども時代からの夢であった「地球の果て」オーストラリアまで、自転車旅行をすることになった。途中でイスラエルに寄ったり、スリランカで酒浸りになったりするが、どうにかシドニーにたどり着く。そればかりか、そこで戦争で離ればなれになっていた友達や恋人に巡りあったり。それから恋人と結婚し、シドニーの裏町で自転車屋を開くと、それが成功して、最後はシドニーの北の海岸沿いの田舎町に引っ越し、そこで幸せに生涯を終えた、というお話。シドニーでイタリヤ時代の恋人に偶然再会したりするくだりは、かなりご都合主義的だが、それでも非常に楽しい物語で、あっという間に読み終えた。

また、この本には、自転車に関する引用があちこちにちりばめられてあって、それがけっこう面白かった。
例えば、こういう引用。

「空気圧ってのは、とても大事だ。例えばトランペット奏者で、このことを分かってない奴は、決して、甘い素敵な音を出せない。自転車のタイヤと同じだ。正しい空気圧は「彼女」をクールに、やすやすと運んでくれる。空気圧がちゃんとしてないタイヤは、ばあさんのオッパイと同じで、ぺったんこで、まるで役に立たない。
ザビエル・ヌガット、パナマ・スター・クインテット1937年」

引用をもうひとつ。

「サイクリングの喜びは、グライダーで空を滑空することに等しい。サイクリングには、心を静かにする何かがある。それは、体と心、精神と肉体の完全な統合の境地である 。きちんと指導しさえすれば、サイクリングは、どんな狂気も、平静で正常な心に戻すことができるだろう。
  ベレッカー・ボルグ、『銀輪とギア、あるいは運動セラピー』1968年」

とのむらと.jpg
トノムラと僕、信州に向かう朝(1978頃)

僕は、中学時代から高校時代、それから大学時代まで、サイクリングが好きで随分いろいろな所を走った。最初のサイクリングは、中学一年の夏休みの初日、中学校の寮があった沼津から、 同級生のトノムラ君と東京の実家へ走って帰った。箱根の山もものとはせず、130キロの道のりを矢の様に走破した。

それからは、箱根、伊豆、富士、東海道、奥多摩、丹沢、秩父、甲州、信州、木曽路、飛騨、伊勢と、休みの度にどんどん足を伸ばした。僕の輪友(懐かしい言葉だ!)は、長いことそのトノムラ君だったが、やがて、大学の同級生だった妻ともあちこち走る様になった。彼女も自転車好きで、卒業後はしばらく『サイクルスポーツ』という雑誌の編集部で仕事をしていたくらいだ。僕は、北海道は二周したが、一周はトノムラ君と、もう一周は妻とした。

ところが、オーストラリアへ引っ越してからは、以前ほど自転車に乗らなくなった。子どもも二人いるし、仕事も忙しいという月並みの理由もあるが、加えて言うならば、オーストラリアはアメリカみたいな車社会だから、案外自転車で走り難いこともある。自転車でのろのろ走っていると、車に弾き飛ばされそうになる。普通の道路でも自動車は、80キロ、90キロで走るから、道路を選ばないとなかなか恐ろしい。

もうひとつ言うならば、町と町の間の距離が非常に長いから、自転車のツーリングとなると、半端ではないということもある。日本やヨーロッパなどでは、どんなに田舎に行っても、4、5キロも走れば、隣村や町があって、そこにはお店もあれば、レストランやコンビニもあるだろうし、キャンプ場や、日本だったら温泉だってある。だから、走っていて飽きないし、休む場所にも事欠かない。


南仏で.jpg昨夏、南仏にて、息子鈴吾郎

 ところが、オーストラリアでは、僕のいるビクトリア州でも、ちょっと田舎に行けば、100キロ、200キロくらい行っても、何もないのが珍しくない。200キロは、自動車なら2、3時間だが、自転車では、頑張っても2日はかかる。
 そんなところを軽い気持でサイクリングなんか出来ない。もちろん、そういうところを走っている猛者も、いるにはいる。何時だったか、田舎を車で旅行していたら、日本人のサイクリストとすれ違った。荷物を満載した自転車に、日の丸をつけて走っていたからすぐ分かった。

その後、四日程して、僕が同じ道を戻ってきたら、またその自転車青年を追い越した。前にすれ違った所から大して前進してなかった。これが、オーストラリアのサイクリングの実情である。

ところがLouigi’s Freedom Rideを読んでいたら、昔のサイクリングの喜びがふつふつ蘇ってきた。峠を越えた時の達成感、その後に長い坂道を下る時の爽快感、丸一日自転車をこいだ後の心地よいけだるさ、知らない町を訪れる旅情、そんな感覚が僕の記憶の底から浮き上がってきた。

僕は、たまらなくなり、物置に突っ込んであった古いサイクリング車を引っ張り出してきた。少年時代は宝物のように大事にしていたが、最近は埃をかぶり、物置で錆だらけになっていたのだ。思えば、15歳のときに買ってもらって以来40年、この自転車と僕は二人三脚で生きて来たと言える。ちなみにこの愛車は、ブリジストン、ダイヤモンドキャンピング、15段変速。当時の自転車としては、かなり高級車だった。うちの親も、よくこんなものを買ってくれたものだ。

自転車.jpg
錆だらけのダイヤモンド号

 そんなで、この自転車をすっかりきれいにして、またサイクリングをしようと、僕は企んでいるのだ。

再塗装をまつフレーむ.jpg
塗装を待つフレーム

サドル.jpg
皮サドルは、ひび割れをお手入れ中

クランク.jpg
パーツ類も磨いている


付記: 

メルボルンも、最近は自転車ブーム、エコブームなので、シティの中は大分自転車道が整備された。それから、田舎にも、レイル・トレイルと言って、昔鉄道が走っていた後を自転車や馬や徒歩で歩ける様にしてある場所がたくさんある。そういった場所を、あちこち走ってやろうと思っている。



posted by てったくん at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年01月31日

1月26日オーストラリアデイは「ギョーザの日」

2016年1月31日

オーストラリアでは、1月26日は「オーストラリアデイ」という祝日、建国記念日のような日である。これが1月最後の週末なので、振替休日がくっついてロングウィークエンドになったり、飛び石連休になったりする。この日が終われば、子ども達の夏休みも終わりで、翌日辺りから学校がはじまる。だからこの週末は、「最後だから、うんと楽しもうぜ」という雰囲気だ。

P1040234.jpg
夏なのに、雨が多くて寒い。

オーストラリアデイの起源は、そもそも1788年1月26日に、イギリスからアーサー・フィリップ総督を乗せた船がシドニー湾に到着し、その旗を立てた日ということである。これが、現在のオーストラリアという国家の始まりということになっている。

もちろん、こういう日をこの国の起源にすることに異議がある人は山ほどいる。大体オーストラリアは、イギリスの流刑地としての植民地で始まった訳であるから、アメリカみたいに、イギリスと袂を分かった人たちが、理想の土地を求めてやってきて住み始めたのとは訳が違う。大体、流刑地だったなんて、かっこう悪過ぎる。

それに、オーストラリアに元々住んでいた先住民であるアボリジニの人たちの立場はどうなるのか? イギリス人に土地を奪われ、 荒野に追い立てられて、イギリス人の牧場を横切っただけで銃で撃たれたり、踏んだり蹴ったりの200年だった。だから、アボリジニの人たちの中には(加えて、アボリジニじゃない人でも)この日を「侵略の日」と呼ぶ人たちもいる。

P1040216.JPG
我が家を侵略してきたエキドゥナ(ハリモグラの様な有袋類)

それに、これまでの200年間には、イギリス人から始まって、いろいろな移民がオーストラリアにやってきている。ドイツ人、ギリシャ人、イタリア人、ロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、オランダ人、ユダヤ人、中国人、ベトナム人、日本人、イラク人、アフガニスタン人、ソマリア人、何だっている。こうした人々の立場はどうなる?

イギリスからだって、1901年に独立しているわけだし、今さら、オーストラリアがイギリスの植民地だなんて思っている人はないだろう。それなのに、イギリスの植民地としてオーストラリアが始まった日を未だに祝っているのはしっくりこない。かなりアナクロ的だと言ってもいい。

だが、国家の起源や建国記念日を、その時代ごとの風潮に照らし合わせてしょっちゅう変えてしまうのも大変だろう。第一、1月26日のオーストラリアデイが無くなったら、夏休みが1日か2日短くなってしまう。そうなったらもっと大変だ。だから、難しいことをごちゃごちゃ言うのは止めて、バーベキューでもして、夏休みの最後の一日を楽しみましょう、というのが大勢の姿勢である。かく言う僕も、そんな一人である。あまり政治的になって、せっかくの休日なのに頭痛持ちみたいな顔で過ごしたくない。

P1040229.JPG
夏なのに寒くて薪ストーブをたいてしまった。

じゃあ、今年のオーストラリアデイは、何をして過ごしたかと言うと、餃子を作って食べて過ごした。息子鈴吾郎(りんごろう、13歳)の同級生のお母さん達が「餃子の作り方を教えてちょうだい!」と言ったからだ。息子らは、しょっちゅう我が家で餃子を食べている。餃子は、鈴吾郎の大好物だから、我が家では週に一度は作って食べている。たまたま遊びに来た友達も、だから餃子を食べる機会がある。で、余った餃子は冷凍にしておき、鈴吾郎は学校へお弁当に持っていく。だから、我が家の餃子は、この辺りではかなり有名なのだ。

だから、オーストラリア人の子どもらも、「うちでもギョーザ作ってよう!」とわめくはめに。ところが、お母さん達は、我が家の餃子を食べたことがないし、作り方も分からない。

それに加えて、今、オーストラリアではちょっとした餃子ブームが起きている(今ごろ?ってな感じですが)。日本で餃子ブームがあったのは、もう随分前だから、その伝播の速度が如何に遅いか良くわかるだろう。オーストラリアなんて、そんなもんである。しょせん地の果て、南半球の離れ島なんである。

餃子の他に、ラーメンも大ブームになっているが、ヨーロッパ、北米でラーメンブームがブレークしてから2、3年はたって、やっとブレークしている。 それくらい、オーストラリアの人たちは遅いのだ。いつも流行に乗り遅れている。(ちなみに、ユニクロも無印も、ようやく昨年あたりようやくメルボルンに進出したが、まだ知名度はそれほど高くない。これからである。)

だから、そんなメルボルンには、今さらのように餃子屋がタケノコのように芽を出しているし、スーパー等でも冷蔵、冷凍の餃子が出回り始めている。だが、餃子は高値で希少である。贅沢品の範疇に入るかもしれない。だから、うちの近所の人たちは餃子が食べたくてしょうがない。

そこで、「よっしゃ、それほど望むなら餃子の作り方をお教えしましょう!」ということになって、2家族(プラスうちの娘の友達三人)が集まった。我が家も入れると、総勢12名ほど。けっこうな人数だ。餃子の皮は200枚程用意した(足りるかな?)

ところが、蓋を開けてみると、このメンバー、いろいろな食事制限やアレルギー持ちがいて困った。これが現代オーストラリアの問題である。例えば、ニッキーというお母さんは、消化不良を起こすのでタマネギ、青ネギ、キャベツや白菜がだめ。グレースちゃんという娘は、小麦粉をはじめとしたグルテン質がだめで、卵ダメ、味の素みたいな調味料なんか食べたら死んじゃう。娘の友達、 21歳のお嬢さんのケイティは、ビーガンのベジタリアンだから、肉はもとより、魚や乳製品、卵も食べない。

もう、いったいぜんたい、 どんな餃子を作ったらいいわけ?と、僕は思わず叫んでしまった。でも、うちのカミさんは、そういうのにとても慣れている人なので、「だーいじょうぶ、だーいじょうぶ、まかせておいて。あんたは、焼き方だけ教えれば良いから」と言う。

かくして、餃子教室を行ったのだが、どうにかなるもんだ。結果として、以下のような餃子ができた。

1)春雨、豆腐、ひじき、ニンジンとショウガ入り餃子、
2)青ネギ、春雨、豆腐、キャベツ、鶏肉ひき肉の餃子(ただし、皮は米粉の春巻きの皮)
3)牛豚の合い挽き肉と、ネギ、キャベツ、ニンニク、ショウガとシソが入った餃子。

P1040235.jpg
鉢植えのシソ

僕は、餃子の焼き方を指南した。「まず、フライパンを熱くしてから油をたっぷりひきます。それから餃子を並べて入れて、コップに半分くらい水を足します。それで、蓋をして蒸し焼きにするのがコツですよ」てな具合。小麦を水に溶かして、かけ回すと焼き上がりがぱりぱりになる。これも、やってみせる。

餃子を蒸し焼きにすると言う感覚が、オーストラリア人にはなかなか分からなかった様子であるが、別に難しいことじゃないので、みんなすぐに上手に焼ける様になった。

味の方は、どれもけっこう美味しかった。僕としては、ベジタリアンのひじきの餃子がけっこう好み。オーストラリア人のお母さんたちは、餃子の具(餡と言うのかな?)をかなりぎゅうぎゅうにつめたので、かなり太めの餃子となったけど。これってオーストラリアっぽい?

彼女たちの感想は? 「思ったよりも簡単だった!」、「こんなに餃子をたくさん食べたの初めて!ゲップ」、「フェタチーズとカボチャなんか入れても美味しいかもね!」

中学生男子の感想は?「けっ、ベジタリアンの餃子なんか食えるかよ。肉が入った餃子が一番うまいに決まってるじゃん!」

とにかく、良かった、良かった。

と言う訳で、オーストラリアデイに餃子というのは、新しい伝統なのかもしれない。

P1040225.jpg
中学生男子である息子がクリスマスプレゼントにくれた手製の木槌と手彫りのスプーン(木箱も手製)
これは嬉しかった。




posted by てったくん at 19:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2016年01月15日

Where are we now? 今どこにいるのだっけ?

2016年1月15日

暮れと正月に日本に行っていた。ほとんどは東京武蔵野市の妻の実家に居たのだが、クリスマス前に2泊3日で息子と伊豆大島に行った。 大島は二人とも初めてだった。

釣り2.jpg

13歳の息子鈴吾郎は、オーストラリアから日本に来ると、朝から晩までテレビを見ているか、吉祥寺などの盛り場で小遣いを全部使ってしまうかなので、少しでもそういう環境から引き離すために大島に行ったわけだ。

ただ、それは建前で、僕が東京にあまりいたくなかったから、三日間だけでもどこかへ行こうと考えた。息子は、ちょうど良い口実だった。僕は、せっかく東京に帰ってきても、東京にはあまりいたくない。用事が終わると、どこかへ行くか、メルボルンへ帰って来たくなる。東京がそんなに嫌いな訳でもないのだが、長くはいられないのだ。

テレビや買物が好きな鈴吾郎も、父親と釣り旅行に行くのは嫌ではない。だから、武蔵野の家をリュックサックを背負って出た二人の足取りは軽かった。 中央線を神田で降り、釣具屋で新しい磯釣り竿を奮発する。僕たちは、二人連れの浦島太郎のように意気揚々と竹芝桟橋に向かった。

大島は東京から意外に近い。距離にすると120キロだが、竹芝桟橋からジェットボートだと二時間かからない。僕たちの乗るジェットボートは極彩色の虹色に塗ってあって、薄曇りの冬空の下では、はしゃぎ過ぎな感じだった。出港するとすぐに時速80キロの高速ですっ飛ばし、羽田空港、横浜、横須賀、観音崎の先をかすめ、1時間程で相模湾の外に出た。荒れた海の上をいくがいくが行くと、45分程で大島の岩壁が見えて来る。

ジェット戦.jpg

大晦日までまだ一週間あるから、大島はひっそりとしていた。泊まった旅館もガラガラだった。「まだ年末のお客さんは来ませんし、島民の忘年会があるくらいですね」と、宿の主人は言った。僕たちは、露天風呂に嫌になるくらい浸かってから元町に出て、ほとんど一軒だけ開いていた居酒屋で、好きな食べ物をデタラメに注文して食べた。それから宿に帰って、大きな和室のふかふかの布団にごろごろし、TVで下らないお笑い番組を見た。息子はテレビを見ながら、島の雑貨屋で買った大きなドラ焼きをぺろりと平らげてみせた。寝る前にもう一度温泉に入ると、空にでっかい月が出ていた。大きな松の木が風にゆさゆさ揺れていた。

居酒屋.jpg

翌日は、穏やかないい天気だった。宿のすぐ前の元町港の桟橋で釣りをした。横にいた地元の釣り師は「冬はちっとも釣れないよ」と言いながらも、80匹ばかり小振りのメジナを揚げていた。僕たちは、フカセ釣りのコツも分からなかったから、あまり釣れなかった。それでも同じ様なメジナを4、5匹釣っただろうか。

魚.jpg

昼飯を港の横のひなびた定食屋で食べ、午後も同じ場所で釣った。やっぱりあまり釣れなかった。でも、釣りをしていると不思議に退屈しない。波に映るいろいろな陰や光を見たり、遠くの伊豆半島や伊豆諸島を眺めたり、その手前を行き来する船を数えてみたり。息子は、大きなカラスを追いかけて、逆に追いかけられたり。

大島の夕日はとても良かった。冬の短い日は四時頃から暮れかかる。やがて雲の間から大きな赤いお日様が降りて来て、最後はストンとばかり海の中に落ちて消える。その後もしばらくは夕日の光の名残がある。こういう時間帯が一番釣れる筈なのだが、僕らの竿にはもう魚はかからなかった。

夕日.jpg

宿に帰り、その夜も最初の日と同じ様に元町で夕食を食べ、温泉に入って寝た。

翌日は、曇って寒い冬の天気だった。大島は東京よりもいくらか暖かいだろうが、それでも外は寒い。宿のおやじさんが車で岡田港まで送ってくれた。午後二時サルビア丸が出るまで、岡田港で釣りをするつもりだ。岡田港では大きなシマアジなんかも揚がると言う情報だったから、鈴吾郎は「大きなのが釣れるかな?」と、期待感に胸を膨らましていた。

釣り竿.jpg

ところが、全くダメだった。横で釣っていた東京から来ているグループにも大した獲物はなかった。鈴吾郎は、そうなると諦めが早く、「僕は船の待合所にいるからね」と、ゲームをして時間をつぶそうと、パソコンを抱えて建物に入ってしまった。僕だけは、もうしばらく桟橋で頑張ったが、エサ取りの小魚に餌を取られるばかりで、釣果はなかった。

寒くていられなくなったので、僕も待合所に退却した。釣りと言うのは、魚が釣れれば楽しい。では、釣れないと楽しくないかというと、そういうこともない。全ては心の持ちようである。

僕と鈴吾郎は、船を待つ間待合所の食堂でラーメンを食べた。 鈴吾郎はラーメンに加えて「あしたば餃子」を注文した。13歳の男の子は、本当によく食べる。

昼過ぎ、大きな観光バスが2、3台やってきて、水兵のような制服を着た高校生がどっさり降りて来た。島にある全寮制の海洋高校がこの日でおしまいなので、帰省する生徒達が 本土の実家にかえるところだった。(道理で、帰りはジェットボートが満席で、僕たちは普通船のサルビア丸で帰るはめになったはずだ。)

200人ばかりの高校生は、あっという間に待合所を埋め尽くし、お土産を買い漁り、アイスクリームを食べ、ラーメンを食べ、缶コーヒーを飲んだ。見ると、生徒の三人に一人は手荷物に釣り竿を持っている。当然かもしれないが、島の高校生は余暇に釣りをするらしい。愉快な発見だった。

「みんな釣りが好きなんだね」と、鈴吾郎も嬉しそうに言った。やがて、 ジェットボートが入港し、高校生たちが乗り込み、東京方向へ消え去った。 待合所はまた静かになった。

入れ違いで、僕たちの乗るサルビア丸も入港した。4000トンの船が、狭い岡田港で向きを変える光景は迫力がある。接岸すると、すぐさまコンテナーをいくつも詰め込み、驚く程少ない乗客を乗せてサルビア丸もさっさと出航した。僕たちはデッキに出て、島が小さくなるまで眺めていた。

サルビア.jpg

室内に入ると、帰省する労働者風の人たち3、4名が自動販売機でビールやタコ焼きを買い、ほとんど口もきかずに酒盛りをしている。黙ったままビールをすすり、テレビで競艇の中継を眺めていたが、やがて毛布をひっかぶって寝てしまった。

鈴吾郎は、パソコンでゲームをしているので、僕はまたデッキに出た。午後3時と言うのに外はもう薄暗い。相模湾はけっこう荒れていて、白波がたっている。4000トンのサルビア丸もけっこう揺れる。デッキの真ん中では、船酔いにならないようにか、何人もの男達が毛布を頭の上までひっかぶって寝ている。まるで死体みたいだ。この寒いのによく外で寝ていられるものだ。

僕は室内に戻り、ゲームに飽きた息子とテレビで女子サッカーの中継を見た。やがて船が揺れなくなり、東京湾に入ったことが分かった。

竹芝桟橋に到着するまで、またデッキに出た。クリスマスを2日後に控えた東京のイルミネーションは、夢の国みたいだった。ゾウリムシのような屋形舟もみな満艦飾に電球で飾り立てている。中では忘年会がたけなわなのだろう。

夜景.jpg

「あ、東京タワーだ!」と、鈴吾郎が叫んだ。東京タワーは、光の洪水のビル街の上に、灯台のように君臨している。「やっぱり、東京タワーはいいなあ、東京に来たっていう感じがするよ」と、オーストラリア生まれの息子が言う。僕はおかしくなって吹き出してしまう。53歳の僕の感慨と同じだからだ。東京タワーを見ていると、僕の中にある日本や東京への愛憎、過ぎていった年月への懐かしさが温泉のようにこみ上げてくる。

タワー.jpg


竹芝桟橋に着いて、僕たちは浜松町まで歩いた。ホームに立つと、あっという間に山手線が来た。神田で中央線に乗り換えて椅子に座ると、 息子は疲れたのか僕にもたれかかってすぐに寝てしまった。電車の中では、 釣り竿の置き場所に困った。

これが、僕と息子の伊豆大島旅行の思い出だ。その後、クリスマスが来て、お正月を賑やかに家族や親戚と過ごし、神社やお寺に初詣し、僕と家族は日本の正月を堪能してから、メルボルンに帰ってきた。

もどって数日。ニュースを見ると、歌手のデビット・ボウイが亡くなったという知らせがあった。彼が最後に歌ったWhere are we now?という曲がバックに流れていた。

ボウイは、昔ベルリンに住んでいたそうだが、Where are we now?は、ベルリンの壁がまだあったその頃を歌った曲だそうだ。何度も耳にしたから、Where are we now? というフレーズが耳に焼き付いてしまった。歌詞の元の意味に関係なく、歌に込められたボウイの気持が僕の感情に共鳴する。歌とはそういうものだ。

「もう、日本には帰ってこないのか?」今回の帰国でも、複数の肉親や友達に尋ねられた。 僕は、今年でオーストラリアに来て20年 になる。昨年大病をして死を垣間見た義父に尋ねられたりすると、本当に答えに困る。

Where are we now? 今どこにいるのだっけ? オーストラリアに決まっている。が、僕は、こうやって、大島とか、日本のことなんかもよく考える。僕(の気持)は、本当にどこにいるんだろう?と思うこともよくある。

ボウイが歌う。
Where are we now, where are we now?
The moment you know, you know, you know.  
As long as there’s sun,
As long as there’s rain,
As long as there’s fire,
As long as there’s me,
As long as there’s you.

今どこにいるのだっけ? どこだっけ? 
でも、すぐ思い出す。思い出す。思い出す。
日が出さえすれば。
雨が降りさえすれば。
火が燃えさえすれば。
僕さえいれば。
君さえいれば。

posted by てったくん at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年12月04日

神様がくれた「38平方メートル」

2015年12月

暦を一枚めくって、2015年も12月になった。師走。

さて、前回のブログにベランダを作る為、土台を埋める穴を掘っていることを書いた。そのベランダが完成した。土台の穴を掘り始めてから二ヶ月。本職の大工なら二週間くらいで仕上げる仕事だろうから、その何倍も時間がかかったことになる。

berannda.jpg

作る上で、どこが一番大変だったかと聞かれても分からない。穴掘りだったかもしれないし、合計410メートル長のデッキ板に、等間隔に穴を開け、そこに5センチのネジを埋め込んでいく作業だったかもしれない。ネジは合計で1300本埋め込んだ。

実はもっとゆっくり仕上げたかったのだが、11月中旬、娘の鼓子(ここ)に期限を付けられた。「パパ、私の二十一歳の誕生パーティーに間に合わせてね。」鼓子は12月18日に二十一歳になる。二十一歳になると、オーストラリアでは成人になったとことを祝う習慣がある。そのときは、友達や親類を呼んで大いに賑やかにやる。(現在、法的な成人は18歳であるが)。

僕は絶句した。「えっ! そんな、間に合わないかもよ」。すると鼓子が言った。「間に合わないなら、パーティーをキャンセルするから、そうなら早く言ってね。」

と言うわけで、娘に甘い父親は、焦ってデッキ作りに精を出す毎日になった。

ところが、土台の穴掘りが終わった頃、ちょっと胃の調子が悪くなり、胃カメラを飲んで検査することになった。人生初めてのイベントだった。幸い、胃は胃酸過多ということで、それほど大事には至らなかった。やれやれ。

土台の埋め込みが終わると、土台の上に桟(さん)を渡す作業だ。これは正確さが問われる作業なので、緊張した 。左右も上下も、寸法がぴったり合い、しかも上板を渡したときに面が水平にならなくてはならない。だから、水準器を片手に、電動ノコで土台の杭を切る時も、切り口が水平になるように気をつかった。ここも、どうにか乗り越えた。

joist.jpg

さあ、次はいよいよ上板を註文して、それを張り付ける段階だ。上板を註文する為に広さを計ると、全部で38平方メートルあった。

近所のホームセンターに行く。店主のグラントの計算によれば、38平米だと、90センチ幅のデッキ材が410メートル分必要という計算だった。しかも、このうち5%は無駄な端材となる言う。上板は硬質で、しかも防水のきく木材だから、一番値の張る材料であることは言うまでもない。無駄は出したくない。

とにかく、410メートルとは驚いた。一体いくらになるんだ? するとグラントは、僕の気持を汲み取って、こう言った。「テツタさんも多分ご存知のように、現在大手XXと〇〇というふたつのホームセンターは、デッキ材料の値段で互いに競っているんですよ。だから、はっきり言うと、XXで買うのが一番安い。でも、当店とテツタさんは、これまで、とても良い関係を築いてきましたから、私としてはぜひ誠意のあるところを見せたい!」

こう言うと、グラントは景気良く計算機をパンパンと弾いた。それは、思っていたより300ドルほど安い値段だった。こうして商談は成立した。僕も、大手ホームセンターを儲けさせるより、地元の個人商店を応援したい。

結局、一メートル5ドルくらいだったので、410メートルで2000ドル以上かかった。しかし、これくらいのデッキを大工に作らせたら2、3千ドルではとても済まないので、文句は言えまい。

また、このデッキ材を張る為には、デッキ用の枕頭ネジが必要だが、何本必要なのか皆目分からなかった。(結局、500本入りの箱を二箱半、1300本程使った。)

それから、デッキ材を切るノコギリもいる。これは普通のノコギリで大丈夫。ただし、切れ味が良くないといけないので、ドイツ製の新品を買った。410メートルのデッキ材(全部で140枚)をぎこぎこ切っても、まだ切れ味はそれほど悪くならなかった。なかなか優れもの。

それから電気ドリル。うちには二つあるので重宝した。ひとつは、穴あけ用、ひとつは枕頭ネジを入れる用。枕頭ネジは、プラスマイナスのネジでなく、四角い穴があいた特殊なものだった。

ほどなく、デッキ材も届いた。いろいろな長さのものが140本。ものすごい量だ。本当にこれを張っていくわけ?

さて、最初の一本。

デッキ材を束から取出して、驚愕。2メートルのもの、3メートルのもの、4メートルのもの、どれひとつとしてまっすぐなものはない。みんな弓形に曲がっている。酷いものは、真ん中で、1センチ以上湾曲している。

「これって不良品じゃないの!」僕は、すぐにホームセンターのグラントに会いに行った。

グラント曰く、「木材ってのは、みんな曲がっているものなんです。だから張るときは、クランプとか、ねじ回しをテコに噛ましてね、ぐっと押さえてまっすぐにして、そのすきにドリルで穴をあけ、そこへネジを入れてやると、まっすぐ張れますよ。思ったよりも簡単、簡単。すぐ馴れますよ。グッドラック!」だって。

でも、こんな長いものを押さえながら、ドリルで穴を開けて、ドリルを持ち替えて、そのままネジなんか入れられるかよ。手が三本必要じゃないの!泣きたい気持だった。

そんなで、最初の一列(約10メートル)を張り付けるのに、午前中いっぱい奮闘。張っても、デッキは、何だか うねうね曲がっている。その上、かがんで作業をするので、腰は痛いし、腕は痛い。ドリルで木ネジを止めるから、腕は腱鞘炎になりそう。これを10メートルかける40列もやるわけ? まったく途方に暮れた。

ところが、そんな調子で初めた割には、二列、三列やるうちに、段々コツが分かってきた。酷く湾曲したデッキ材を矯正するには、車のタイヤジャッキが役に立った。成功した時は、思わず快哉を叫んだ。

こうして、毎日午後になると、毎日二時間ほどデッキを張り続ける生活が続いた。


「目覚めよ! 神様にしてみたい三つの質問」

ある日の午後。デッキ材を計っては切り、ドリルで穴を開け、枕頭ネジでとめる作業に没頭していた。祈る様な格好でひざまずき、夢中で仕事に打ち込んでいた。

すると、頭上で日本語の声がした。「お邪魔しまぁーす! おやおや、お仕事中ですか?」

見上げると、スーツを着た若い男二人が、玄関先からこちらを見てニコニコしている。スーツを着た人なんか、メルボルンのここらで見かける事はまずない。しかも、スーツを着た日本人と言えば、宗教パンフレット配りに来た青年たちに間違いない。

この人たちは、度々我が家を訪れている。あるとき、どうしてメルボルンの果てのこんな所に日本人が住んでいるのか分かるのかと尋ねた。すると、「電話帳を見て、日本のお名前の方を訪問させていただいているんですよ」という答えだった。そう言えば、うちは電話帳に名前と住所がでている。最後に電話帳を見た時点で、メルボルンには「ワタナベ」さんが7、8名掲載されていた。結構いるもんだな。

僕がドリルを下に置いて、近づくと、二人は恐縮して、揉み手をしながらニコニコ笑った。「お忙しい所、申し訳ありません。大工さんですか?」

この人たちは、いつも礼儀正しい。一方、いつも僕はぶすっと答える。
「いいえ、これは自分の家なの。デッキ作りを趣味でやっているだけ。」

すると、「すごーぅい! これ全部自分で作ったんですか?」と、丸顔の男が素っ頓狂な声で言う。やや関西弁だ。

「ええ、全部自分で作ったんだよ。で、何か用事?」と、僕は(分かっているくせに)聞いた。

「お忙しいところ、すみません。このパンフレット置きにきたんです。良いことがいっぱい書いてあるから、ぜひお読み下さい!」と、また丸顔が言う。

「わざわざ、どうも。いつもご苦労様。大変ですね、遠くまで」と、僕は皮肉っぽく 言った。

「うふふふ、大丈夫です」とまた丸顔。こいつは、何を言っても笑っている。けっこう徳をつんでいるのかもしれない。もう一人は、無言でニコニコして立っているだけ。

「こちらには長くお住まいですか?」と丸顔。
「そうねえ、15年以上かな」と僕。
「すごーぅい!そんなに長く?」と丸顔が、ため口で、うれしそうに叫ぶ。

僕は、吹き出しそうになり、「お二人は?」と、尋ねる。
「僕たち、ワーキングホリデーです。うふふ。」と、丸顔。

ワーホリで、布教に来たのかな? だったらよくビザがもらえたな。
「じゃあ、オーストラリア生活を楽しんでね。では、僕はまだ作業があるんで」と、僕はドリルを手に持った。

「そうですよね、そうですよね、お邪魔してすみませんでした。」と二人は、揉み手しながら後ずさって、姿を消した。

しかし、よく来るよなあ、こんなところまでと僕は独り言い、一休みすることにした。コーヒーを入れる間、例のパンフレットを見る。

「祈れば何か良いことがありますか?」とか「目覚めよ! 神様にしてみたい三つの質問」とかある。ぱらぱらめくって読む。なるほど、害になることは書いてないし、良いことがたくさん書いてあると言っても過言ではない。「神様にしてみた三つの質問」とは、

1.(神は)なぜ苦しみを許しているのですか?
2.なぜ宗教は、偽善に満ちているのですか?
3.なぜ人は存在しているのですか?

こりゃあ、どれも深遠な質問だな。その答えは、いちいち書くまでもないが、およそ400字程にまとめられ、分かりやすく書いてある。それ以外にも「宗教と進化論が両立するか」といった解説もある。

pannf.jpg

宗教って言うのは、分かりやすいのがミソなんだな!と僕は、一人納得してしまった。でも逆に、これだけ単純化するのもちょっと怖いかも。こういう、かなり割り切った説明を聞いて、「そうか、そうだったのか!」って、そう簡単に納得できちゃうわけなの、君たちは?と、さっきの丸顔を思い浮かべる。(あいつなら、そうかも。)

コーヒーを飲みながら、「遠くから来たんだから、さっきの二人にもコーヒーくらいふるまっても良かったかな」と思う。でも、それじゃあまるで、落語に出てくる横町のご隠居だ。(まだ、そんなに年とってないよ、俺は)。

IMGP6815.jpg
しゃがんで、デッキを張っていると、宗教の方達だけでなく、鳥もやってくる。これは、キングパロットというオウム。

ところで、去る11月9日は、息子鈴吾郎の誕生日だった。鈴吾郎は13歳になった。いよいよティーンエージャーである。その息子は、あたかも子ども時代に決別する様に、パーティーをプールでやった。クラスメートが全員来た。そして、みんな腰が抜けるくらい、楽しそうに遊んだ。まるで5歳のチビにもどったみたいに。親たちも、大人に変わりつつある思春期前期の子供たちが、声変わりのだみ声で、はしゃぎ回るのを見て笑っていた。

「サイコーだったな!」息子は、帰りの車の中で満足そうにつぶやいた。僕は、子どもの心のままの 息子がいとおしくて、胸が一杯になった。

tannjoubi.jpg

いよいよ、デッキ張りも終わりに近づいた。

最後の4、5列になると、残りの空間の幅が気になり始めた。きっちり90ミリ 幅にしないと、最後の一枚がぴたっと収まらない。

ところが案の定、最後の空間は、苦心して調整したにも関わらず、5センチちょっととなった。9センチのデッキ材だから、半分の幅に切らなくてはならない。しぶしぶ僕は、電動ノコで長いデッキ材を四センチちょっとの幅に切った。最後は、カンナを使ってミリ単位で削った。

そして、デッキは完成した。38平米のデッキ。僕はうれしくて、心もピカピカだった。

「すごいね、よく出来たね!」と、室内で絵本の挿絵を描いていた妻のチャコも外に出てきて、新品のデッキを眺めた。

「38平米だよ」と、僕は言った。

「38平米! すごいじゃないの」と、チャコがニコニコした。

そのとき思い出した。38平米とは、僕たちが結婚してすぐ住んだ2DKの公団住宅の広さだ。狭いアパートだったが、新婚の二人には住めば都だった。

その公団アパートに住んだ理由は、結婚前アメリカの美大に留学していて、なかなか帰国してくれないチャコを、是が非でも日本にひき戻して結婚する為に、僕は公団の空き家抽選に申し込んだからだ。あるとき僕は、住宅整備公団の事務所で、立川市幸町団地に「2DK、家賃3万4千円」の空き家が あるのを見つけ、さっそくダメ元で申し込んでみた。

倍率は137倍だった。ところが、それが当たった。当選のハガキを握りしめ、僕はボストンのチャコに国際電話をかけた。「当たったよ、公団があたったよ! 137倍だ。立川だ!」チャコは、僕が何の話をしているのか、しばらく分からなかったようだ。

まあ、その公団住宅があたったからだけではないが、無事にチャコは3年の留学を切り上げ日本に帰ってきて僕と結婚した。当時、大学の非常勤講師だった僕には、狭くても何でも、家賃の低さがとてもありがたかった。この団地には二年間住んだ。いろいろなことがあった二年間だが、そのことは今は書かない。

でも、あのときはきっと、神様が僕たちを見ていたんだと信じている。

38平米。この一致は偶然かな? いや、偶然じゃない。きっと初心に戻れってことだ。神様がいたら聞いてみたい。「ベランダが38平米なのは、単なる偶然? それとも必然?」


とにかく、いよいよ次は、鼓子の二十一歳のバースデーパーティーだ。

yane.jpg

ベランダは間に合ったのだが、そのせいで、車庫の屋根の高さが足りなくなってしまった。今はこの改修をしている。バースデーパーティーに間に合うかな?



posted by てったくん at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年10月23日

あなは ほるもの おっこちるとこ

2015年10月22日

今、毎日穴を掘っている。

子供の頃もしょっちゅう掘っていた。幼稚園の砂場、自分のうちの庭、空き地、いろいろなところで掘っていた記憶がある。絵本作家モーリス・センダックにも、『あなは ほるもの おっこちるとこ』(わたなべしげお訳、岩波こどもの本)という作品があるが、穴にはいろいろな種類があり、様々な目的の為に掘られる。落とし穴、トンネル、タイムカプセルを埋めた穴、死んだ金魚を埋めた穴、生ゴミの穴、ただの穴、大きな穴、小さな穴、エトセトラ、エトセトラ。子供は穴を掘って大きくなる。

あな.jpg
深さ70センチ、幅30センチ

幼稚園のある時、僕は級友のトクヤマナガオ君と「地球の裏側まで掘ってみよう!」決意した。プラスチックの小さなシャベルを手に掘ること10分、幼稚園生としてはかなり深く掘ったつもりだったが、やがて砂場の底のコンクリートにぶち当たった。

トクヤマ君は、「おお!地球の裏側ってのは、コンクリートだったのか! やっぱりなあ!」と素っ頓狂な声で叫んだ。 地球の裏側は砂場の底30センチのところにあり、それはコンクリートで覆われていた。僕らには大発見だった。

その後、トクヤマナガオ君は大学では工学部に進み、土木工学を専攻した。今では大きな鉄道会社に勤めている。きっとトンネルなんかを掘っているに違いない。

ちいさいころ.jpg
1才10ヶ月にして、すでに穴を掘っている私(左)

さて、今僕が掘っている穴は、深さ70センチ、直径30センチの穴である。これを30ばかり掘らなくてはならない。これは木製デッキの土台の杭を埋める穴である。車庫と家の間の隙間の木製デッキが腐ってだめになったので作り直すことにしたのだ。オーストラリアは大工の人件費も高いし、自分でやることにした

だが、デッキの面積は4X7メートル=28平方メートルばかりあって、けっこう広い。地面からの高さはおよそ80センチと低いが、最低60センチは杭を埋めなくてはいけない。また杭は、1.2メートル四方ごとに打たなくてはならないので、30ほど穴を掘らなくてはならない。

デッキ.jpg
デッキを作っている作業現場

僕の作業工程は、穴を二つか三つ掘るごとに、穴底にコンクリートを流し込む。それが固まると、杭を差し込んで、水準器を使って水平で垂直なことを確かめつつ、さらにコンクリートを流し込んで固める。この繰り返しだが、これまで15本埋めたので、残りは半分である。まだ先は長い。

近所のイアンというお父さんと穴掘りの話をした。彼はこういう日曜大工仕事は大先輩である。本職はプラスチック工場の生産管理だから、工学系の作業はお手の物。「穴掘りみたいな仕事ってのは一度にやると面倒だし、根つめてやると骨だ。だから、毎日仕事から帰ると、夕食前ひと掘り、土曜日の午後にふた掘りってな具合に掘れば、いつかは終わる。急いじゃだめよ、急いじゃ」。なるほど。

これも近所のお父さんで石工のビルは、穴掘りのプロである。石壁を作ったり、暖炉を作ったり、フェンスを直したり、毎日仕事として穴を掘っている。ビルの穴掘りを見ていると、(ちょっと誇張があるが)バレエダンサーが白鳥の湖を踊る様に華麗である。力も入れず、音も立てない。息の乱れも見せずに、あっという間に大穴を掘ってしまう。

ビル曰く、「穴ってのはね、深くなると掘り難くなるでしょ。だから、立ったまま掘るんじゃなくて、こうやってひざまずいて、低い姿勢で丁寧に土を掻き出すように掘る」と言う。やっぱり、年期が入っている。

デッキ作りは、大工事と言えば大工事のようだが、それほど難しい作業ではない。本棚を作るよりは大変だが、家を一軒建てるよりはずっと簡単だ。

IMGP6807.jpg
三種の神器、水準器、巻き尺、深さを計る竹の棒(70センチに切ってある)


でも、僕がデッキを作るのは初めての事。何でも初めての時は知らない事が多い。作業に着工するまでは、本を読んだり、ネットで調べたり、経験者に話を聞いたり、近所のホームンセンターの人に相談したりし、決断まで1年はかかった。それでも「よし、やるぞ!」という気持になかなかならなかった。

でも、考えているだけじゃデッキは出来ない。だから最近、杭に使う木材18メートルを一気に註文してしまった。こうなったら後には引けない。かくして作業が始まった。

そこで穴を掘っている訳だ。イアンが言う様に、毎日二つか三つ穴を掘り、杭を立てている。でも案外難しい。 杭をセメントで埋めてもう一度水準器で調べると、曲がっていたりする。高さが一センチ低かったり。そんなことはしょっちゅうだ。一本として完璧な杭はない。

オーガー.jpg
穴掘りの道具「オーガー」は純粋オーストラリア製

また、掘っていると、地面から何が出て来るか分からない。だいたい、うちの庭は50センチ掘ると黒土が終わって、その下は粘土だ。その粘土を掘ると水が出て来たり。こういうときは、どうすればいいの?

雨水管が埋まっていて、それをスコップでぶち壊してしまったりもする。娘のボーイフレンドのシャノンにそのことを話す。シャノンは庭師なので、こういう仕事を毎日、朝から晩までやっている。だから、雨水管くらいは平気の平左。「あははは。やりましたね!僕だってしょっちゅう水道管を破裂させて水道屋のやっかいになってますよ。ガス管だけではちょっと怖いけどね。水道管があるか、ガス管があるか、60センチ下にあるか、1メートル下か、神様だけがご存知ですよ。」

IMGP6803.jpg
オーガーをぐりぐり回すと、穴が深くなり、土がオーガーの先の筒にたまるので、引き上げて捨てる

本当にその通りだ。地面の中に何があるかは、神様だけがご存知。穴は掘ってみないと分からない。掘っていると、スコップの先にじゃりっと石が当たる。そして、意外にその石が大きかったりする。でも、こんな障害物を掘り出せた時の気分の良さったらない。

だから、不思議と穴掘りは、やればやるほど楽しくなる。掘っていると、だんだん上手になる。良い穴が、すこっと掘れたときの達成感はなかなかだ。最初は面倒だし、腰も痛くなるが、上手になってくると、上記のビルじゃないが、優雅で経済的な掘り方が出来る様になる。冗談でなく、たまに外に出掛けると、早く家に帰って穴が掘りたくなったりする。

子供時代は、純粋に穴掘りが楽しかった。どろどろになって、大きな穴を掘ると、子供なりに「仕事をしたんだ!」という感慨があった。喜びで体が一杯になるような、そんな充実感だった。まあ、今ではそこまでは感じないが、それでも無心に穴を掘るのは悪くない。

さあ、これを書いたら、もうひと穴掘ってこようっと。

IMGP6808.jpg
もうひとつ作業のこつは、整理整頓だ。
posted by てったくん at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年09月23日

バーロン川で、 わらしに戻って蟹と戯むる

2015年9月20日

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」と詠んだのは啄木だが、これは帰郷の念に駆られて詠んだ悲しい歌である。

「バーロン川の桟橋にわれ笑いながら蟹とたわむる」これは、僕が大漁を詠んだ楽しい歌である。

さて9月の中旬のある週、僕と息子の鈴吾郎と妻のチャコは、メルボルンの南、ジーロンに住むK松さん家族に呼んでもらって春休みの2、3日を過ごした。K松さんは、この近くの田舎のシュタイナー学校の幼稚園教諭であるが、休日はほとんど毎日釣りをしている太公望である。ここで今回、ボラ40匹、蟹を40匹とった。

ゆでが二.jpg
茹でたら、オレンジ色に染まったカニ

K松さん曰く、「春がきても、なかなかビクトリア州近辺の水温は上昇しないんですよ。つまりお魚さんたちはまだ冬なんです。だから、9月に気温が暖かくなっても、すぐは 釣れないんですよ 。」

でも、せっかく春休みなんだから「ちょっと様子だけでもみましょうよ」ということになったのである。そこで、僕とチャコと鈴吾郎は、車を飛ばし、K松宅のあるベラリン半島に赴いた。すると、K松さんは春のお日様のような明るい顔で、「そろそろポートアーリントン港のワカメが旬です。さっそくとりに行きましょう。ワカメは、俳句では、春の季語なんですよ」と洒落たことを言う。実は、K松さんの日本にいるお母さんは俳人なのだ。

さて、ポートアーリントンへ着くと、そこはぽかぽか暖かく、湾を隔てた向こうにメルボルンのスモッグと、その中ににょきにょきとビルが見える。

でも、どうしてこんなところに日本のワカメが生えているかと言うと、それは日本のコンテナ船が空荷でくるとき日本の海水を船腹に積んでくる。その海水を荷物を積む前にメルボルンの湾内に捨てる。すると、その海水に含まれていた日本のヒトデやら海草やらが放たれ、そこらで育ち始めるのだ。その結果、ここポートフィリップ湾から、西へ300キロのアポロベイくらいまで、日本のワカメが繁殖しつつあるのだ。これは「侵略的外来種」ということで、駆逐されることが奨励されている。同時に、肥満ばかりのオーストラリア人の一部では、「ワカメは健康に素晴らしいスーパーフードだから、これを食べると日本人のように痩せられる」という情報が広まり、みんな競ってワカメを穫っているという噂もある。

だが、どうしてか今日は、肥満のオーストラリア人がワカメを争ってとっている気配はない。だから、日本人の僕たちだけが、港の外壁の岩の上をよろよろ歩いてワカメをとった。ちょうど干潮時なので、手を伸ばせば水中のワカメの根元のあたりを持って引き抜くと簡単に抜ける。

「根元の固い所が根株です。そこを細かく刻むとネバネバして、おいしいんです」とK松さん。鈴吾郎も、チャコも、とれたてのワカメが大好きだから、すぐにバケツ一杯と、ビニール袋二袋ほどとる。「これだけあれば、一年分あります」とK松さん。一年分と聞くと、ずいぶん得をした様な気持だ。

帰り際に、港の桟橋でムール貝を売っているおばさんがいたので、5キロ買う。一キロたった5ドルだ。ところが、「まだ寒いし、今年はまだ春の雨があまり降ってないから、貝が痩せてるんだよ」と、おばさん。「半分は、釣り餌に使うんです」と言うと、「そんなら、カラが破れているのをサービスするよ」と、一袋余計にただでくれた。ここでも大分得をした気分になる。

その足で、ベラリン半島南端のクイーンズクリフのフェリー乗り場に行って魚を釣る。さっき買ったムール貝を贅沢に撒き餌に使う。天気も良く、ぽかぽか暖か。でも、全然釣れない。どういうことか? この桟橋では、過去には30センチ以上あるシマアジやらメジナやらオバケのようにでかいカワハギなどを釣り上げたと言うのに、今日は10センチくらいのベラが一匹釣れただけ。

釣りに行って釣れないと、「なぜ釣れないのか?」ということを言う人がある。しかし、この質問は間違っている。本当に釣りが上手になりたいなら、「どうしたら釣れるのか?」という質問をするべきなのだ。現に、僕の知り合いの子どもで、「どうして僕は釣れないのか?」ということを必ず投げかけてくる少年がいる。その質問をする時のこの子の顔色は明るくなく、この子の釣り師としての将来も決して明るくない。今度会ったら、「どうやったら釣れるのか?」と、質問を逆転するように教示してやろう。

魚が釣れないということの最大の原因は、魚がいないということにある。あるいは、いても、気温などの関係で、餌を食べないという状況だ。こういうときは、大概は何をしてもダメであり、帰宅するに限る。

K松さんも、「おかしいなあ…。今日は坊主ですね」と言い、いさぎよく帰宅することに。でも、夜は、K松さんが2日前に釣っておいてくれたカワハギを刺身に肴に酒を飲んだ。旨い酒だった。良い釣り師になる秘訣の一つは、釣れなくてもくよくよしないことだ。

さて翌日。絵本の締め切りがあるチャコは、電車でメルボルンに帰る。僕たち男組と、K松さんの娘さんの小四のアイちゃんは、今日も釣をする。でも、 午後4時が満潮なので、昼ご飯をゆっくり食べてから出陣。今日の行く先はバーロン川。

バーロン川は、バーロンヘッズという海岸に流れ込む大きな川で、河口から2、3キロまでは全くの海水。だから満潮時はいろいろな魚が川をさかのぼってくる。そして、干潮時は、その魚たちが川を下って行く(当たり前だ!)。だから、ここは、常に魚が行き来している「魚ハイウェー」 なのだ。これまでも、僕たちはもう何度もここで釣りをし、以下のような魚を釣り上げている。
1.ボラ、
2.「唐揚げくん」(本当はトミーラフというアジのような魚。唐揚げにして食べるので、こういう名まえ)、
3.オーストラリア・サーモン(顔が少し鮭に似ている。味はアジのような魚)
4.その他、キス、シマアジ、コチなどだが、上記ほどはいない。

言うまでもないが、これらはみな、煮て良し、焼いて良し、揚げて良し、刺身でも良しと言う、美味しい魚ばかりだ。だからバーロン川は、とても良い川なのである。

かにかご.jpg
バーロン川にカニカゴを投げる鈴吾郎

ところが、この日も、ほぼ坊主で終わる。小さなボラがぽちぽち釣れただけ。となりの国籍不明のおじさんが、30センチのシマアジを上げたときは、一瞬盛り上がったが、それ以外は音沙汰なし。おまけに空は曇ってきて、寒くて仕方ない。ただ、魚の代わりに釣り針に4匹ばかりカニがかかったことは特筆しておく。

「ちっちゃいカニだけじゃあ、お話になりませんな」と、さすがのK松さんも渋い顔。とりあえず、K松宅に帰って夕食。それでも、料理が得意のK松さんは、いろいろ作ってくれてもてなしてくれた。加えて、偶然釣れたチビガニをダシに「カニのみそ汁」も作った。

ところが、意外や意外、このカニのみそ汁が美味しかった! カニも小さいくせに、身がむっちりと詰まっていて美味。アイちゃんが「もっと食べたい!」と言ったので、「じゃあ、明日は バーロン川でカニ穫りをしましょう!」ということに決定。

翌日。今日は、僕と鈴吾郎が夕方に帰宅しなくてはならないので、早々と午前からの出陣。でも満潮は夕方5時。天気も良くない。「コンディション的には、最悪ですね」とK松さん。

それでも我々は、釣具店に行き、カニ穫り用のカゴを買う。たった8ドル。「これって安くない?」と私たち。それから、カニ穫りの餌になる、ニワトリの骨とガラを肉屋に貰いに行く。これは無料。「これってお得じゃない?」と、私たち。

ところが車に乗ると、今度は冷たい雨と雹が降り出した。「コンディション的には最悪ですね」とK松さん。「でも、まあ、バーロン川に行って、様子だけでもみましょうよ」と、僕。

バーロン川に行くと、さっきの冷たい雨はどこ吹く風、太陽が出てお日様ぽかぽか。「最高のコンディションですよ」とK松さんはニコニコ。

鈴吾郎とアイちゃんは、本格的カニ穫りに大興奮。子どもはカニ穫りが好きだ。二人は、ニワトリのガラをカニ穫りのカゴにゆわえ付けたり大わらわ。

カニか御投げ.jpg
カニカゴを仕掛ける小学生ふたり

僕は、カニ穫りを子らに任せ、一人ゆうゆうと釣り竿を垂れてみる。すると、どうだ、ボラが入れ食いじゃないか! 

さて、ここで言っておくが、ボラと言うのは日本では底辺的な下魚かもしれないが、オーストラリアのボラはちょっと違う。こちらは水がきれいなせいか、新鮮なボラはちっとも臭くなくて美味しい。刺身、焼き魚、いずれも脂が乗っていて旨い。むっちりとした白身が、つやっぽくて色っぽくて悪くない。

僕が、ボラをぽぽーんと釣り上げているのを見て、k松さんもあわてて釣り始め、やはりボラをぽんぽん上げ始めた。子ども達も、カニ穫りカゴをぼちゃんと水に落として、ボラ釣りを始める。

さて、まつこと15分。ためしにカゴをあげてみる。すると、15センチ程のカニが二匹も入っている。「おお、すげえ」と、鈴吾郎が喜んで、大振りのカニをつかみあげた。すると「いでえ、いでえ!」と悲鳴をあげた。カニに指を挟まれたのだ。うちの息子は、カニのつかみ方を知らない。

「カニってのは、甲羅の両横をこうやって持つんだよ」と、カニを捕まえて50年の僕が教示する。が、やはり大きなカニのハサミにはさまれそうになり、カニを取り落として苦笑い。


カニアップ.jpg
カニのアップ

ぼらたくさん.jpg
ボラを並べる鈴吾郎とアイちゃん

とにかく、こんな調子でカゴを2、30分おきに入れたり出したりすると、 必ずカニが2、3匹入っている。そんなですぐにバケツ一杯とれた。ボラの方も、ぽんぽん釣り上げ、こちらもクーラーボックスが一杯。

「いやあ、今日はたくさんとれたなあ!」と、みんな喜色満面だ。では、「そろそろ帰りますか!」と、k松さん。 見ると、向こうから雨を含んだ黒雲がやってくるから、急いで帰路についた。

帰ってから数えると、カニが40匹、ボラも40匹釣れていた。大漁と言ってもいいような快調な釣りだった。

「カニ穫りは楽しかったな。新しい遊びを覚えちゃった感じですね。よし、明日もカニ穫り行くぞ!」とk松さんは、底抜けに明るい顔をして言うのだった。

早めの夕食をいただき、僕と鈴吾郎は、お土産にカニとボラとワカメをたくさんアイスボックスに入れてもらって、高速を飛ばして家路に着いた。

春休みは、まだあと10日も残っているから、僕たちももう一、二回は釣りに行くつもりだ。

ペリカン.jpg
鶏ガラを一羽分飲みこんで、目を白黒させていたアホなペリカン。
それでも、どうにか飲みこんでまた戻ってきたので、追い返した。



posted by てったくん at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年09月10日

  ジャズギターにはまっている

2015年9月10日

今、ジャズギターの練習にはまっている。ギターだけでなく、練習用の小さなアンプも買ってしまったし、もう後には引けない。

もちろん薪割りもしなくてはならないし、仕事もしなくてはならないし、ご飯も作らなくてはならないし、夜がくれば寝なくてはならないけど、心の中はギターのことや、ジャズのコードや音階でいっぱいだ。寝ていても、「えーと、フリジアン・スケールは、ラシドレミファソラで、シがフラット」などと考えているくらいだ。

本当は、先生についてちゃんと教われば良いのだが、僕にあまりにも知識がなくて先生にもあきれられるだろうから、基礎的なことは覚えてからそのうちレッスンに挑もうという計画だ。(そうしないとお金も無駄だし)。

それにしても、僕が高校時代にバンドをやっていた頃と、いろいろなことがうんと違う。僕がもっていたギターのグレコというブランドはもうないが、70年代に作られたグレコギターがネットで「オールド」として、高値で売り買いされているのに驚く。新しいブランドもたくさんあるし、マニアックな手作りギターなどもたくさん出て来ている。ギブソンのギターは相変わらず高値だが、50万、60万のギターなんていったい誰が買うんだろう?(僕は、最近Eastmanという中国製のフルアコを買ったが、これはなかなか評判がよく、アメリカのプロのジャズギタリストもたくさん使っている。)

まあ、それから、ウエブサイトにはいろいろ便利な音楽サイトがあって、ジャズの理論やギターの弾き方も丁寧に教えてくれる。僕も幸い、良い自習用のジャズギターのウエブサイトに出会って、重宝している。これは神戸のギター学校のサイトなのだが、とても親切で分かりやすく、それでいて回り道してでも覚えてなくてはいけないことなんかも、しっかりと教えてくれる。無料で申し訳ないくらい。

ジャズ理論の基本は、コードとスケールと、それらの循環システムと、リズムからなっていると言ってもいい。もちろん、そんなことは昔から頭では分かっていた。僕は、高校時代は、ロックとフュージョン系のバンドを生意気にもやっていたから、理論は別としても、けっこう難しい曲をまあまあ弾いていた。ただ、練習と言えば、カセットプレーヤーが壊れるまで、レコードが傷だらけになるまで何度も聞いての耳コピーのみ。しかし、53歳の今は、そんなに時間も割けないし、少しは知的に効率的に学びたいと思う。

だから今さらながらジャズの理論をかじっている訳だが、恥ずかしいが、コード名の横に付いている7とか9とかの数字とか、さらにその横のフラットやシャープの記号とかの意味をあまり分かっていなかったことを知って愕然としている。ジャズのコードも、たくさん種類のある音階の各音を起点とし、三度ずつ上の音を合計4音重ねたものであることなんかも知らなかった。その二番目と五番目のコードを繰り返して演奏することを、いわゆる「ツー・ファイブ」と言って、その間にギターやピアノが即興演奏するなんて決まりもよく分かってなかった。(いったい、30年もジャズを聴いてきて何だったんだろう?)

というわけで、毎日が発見で、新しいことを学んで喜んでいる。(ただ、あまりに低いレベルのことなので、女房や子どもに自慢したりはできない。うちの子どもは二人ともチェロを弾くし、女房もまあまあのピアノを弾く )。

便利と言えば、インターネットでYoutubeを見れば、どんなスタンダードの曲でも、どこかの誰かが弾き方を教えてくれる時代だ。ジム・ホールでもジョー・パスでもパット・メセニーでもジョン・スコフィールドでも渡辺香津美でも、たいがいの音楽家の映像がある。だから、 何度も穴があくほど見れば、演奏のコツが少し分かる。昔、高校生の頃、コンサートに行くときポケットに録音できるウォークマンを忍ばせて行き、演奏を盗み録りしたりした。時には、レコードになっていない新曲が録音できたりして、まるで鬼の首でもとったような気分だった。もちろん、それを耳コピーして練習したものだ。

でも、今はそんなことまでしなくても、世界中の音楽が、有名ミュージシャンから、果ては世界の果ての街角で演奏しているストリートミュージシャンの演奏までパソコンで見ることができる。そうして知った新しい曲を、書斎で、すぐにその場で 練習し、パソコンに録音して、ガレージバンドなどの音楽ソフトで加工したりすることもできる。(ガレバンはまだあまり使ってないけど、便利そう。これに、はまったらそれこそ仕事どころではないだろう。)

関係ないが、ジャズを齧るようになって読書のレパートリーも増えた。音楽、ジャズ、ロック、楽器ということについて、この頃は以前に増して興味が湧いている。

昔から持っているジャズ関係の本も読み直した。秋吉敏子の『ジャズと生きる』、相倉久人『現代ジャズの視点』などだ。後者は60年代の中頃に書かれたすごく古い本だが、モダンジャズから、新しくコールマンやコルトレーン、マイルズといった新しいミュージシャンがクールジャズやモード奏法などの 手法を編み出した時代のことが書かれていて面白い。ジャズは「感情を表現する音楽だ」などと、面白いことが書いてある。秋吉敏子は渡辺貞男の大先輩だが、50年代の日本の音楽業界が嫌で日本を飛び出し、米国で大成功したジャズピアニストで、この人の人生遍歴もなかなかすごい。

ジャズの歴史は、アメリカや関連世界の政治、文化、ポピュラーカルチャー、芸術と関係があり、シンクロしていることがよくわかる。またジャズの歴史は、構造主義とか、ポストコロニアリズムとか、脱構築とか、クリティカルセオリーとか、環境批評とか、そういう人文系学問の流れともすごくどこかでつながっていて、いよいよ興味はつきない。僕がいま齧っているようなジャズの基本的な理論構造などは、まるで構造主義時代 の記述言語学がやっていた事とそっくりである。音階というのはSVCのような文法構造であり、コード循環はや音節の繰り返しはシンタックスで、7とか9とかの数字で表される度数は、その単語(音)の文法的な役割や品詞を表す指標である。

だが、そうした基本構造を突き崩しているのが60年代後半からのフリージャズやモード奏法なんかであり、今のジャズなんかは、そうした形式はまず脱構築され、その上国境や人種を越え、まったく新しい文化的、政治的なコンテキストで演奏され、ジャズは黒人の音楽なんて固定概念は遥か遠いことになってしまった。そうした意味で、僕のような日系人が、オーストラリアで、日本の例えば「ちびまるこちゃん」のテーマ曲を、アメリカに根ざしたジャズの音階やコードでアレンジしなおし、それを中国製のギターで弾いたとしたら それは一体何なんだろう?(なんだっていいじゃないか!)

さて、これも手元にあって長らく「積んどく」の本だったのだが、David Byrneという、トーキングヘッズというロックバンドのリーダーが書いたHow Music Worksという本も読みふけっている。主にロックについての本だが、ポピュラー音楽の歴史といった内容で、大学のテキストになるくらい中身が濃厚だ。Byrneは非常に現代的で分析的な音楽家だから、彼の本を読むと、現代のポピュラー音楽が、どれほど巧妙に細工され、上手にマーケットされた「商品」であるかがわかる。聞き手は(すなわち消費者)、自分が、ある曲や音楽家を「発見した」ように思ってCDを買ったり曲をダウンロードしたりするが、それは巧妙に張られた音楽マーケティングの網に引っかかっただけなのだ。そういうことが、この本で読むとよく分かる。また音楽家という人種が、どれほど多様であり、音楽家として生きるための方策が、これまた星の数ほどあることも分かる。音楽というのは、テレビやラジオで放送され、 CDやインターネットからダウンロードできるメジャーレーベルだけのものでないと言うことも。

そのByrneには、Bicycle Diariesという自転車についての随筆もあって驚かされる。自転車好きのByrneはコンサートで世界を回る際、必ず自転車を持って行くのだが、その自転車から見えたブラジルやフィリピンなどの各地の文化や音楽のことを語っているのがこの本である。これを読むと、音楽家はこういうことを考えているのか、と驚きもし納得もする。実を言うと僕は、Talking Headsの音楽はあまり好きではないのだが、この人の書く文章は好きである。

これもロックだが、去年読んだNeil Youngの自伝も面白かった。Neilは、音楽家以外にも、身障者の為の学校(自分の息子のために作った)を運営したり、(「鉄ちゃん」だから)鉄道模型の会社を買っちゃったり、アメリカの往年の名車を電気自動車に改造する事業を展開したり、アップルコンピュータを向こうに、昔の真空管アンプとレコードの音をデジタル機器で再生する装置の開発などもやっている。ニールヤングは、言ってみればベンチャー起業家と発明家みたいなところがある。音楽が嫌になると、一年くらいはギターには触りもせず、こういう「趣味」に生きるのだそうだ。言うまでもなく、彼の音楽は出来不出来もあるが、ロックとしては超一流だ。ちなみに、ニールヤングの文章は、非常に下手である。多分自分で書いたのではなくて、編集者が聞き書きしたものに手を入れた程度であろう。こういう所も、人間臭くて面白い。

同様に、エリック・クラプトンの自伝も面白かった。(この本は、娘のボーイフレンドのシャノンに借りた。シャノンはクラプトンに心酔するロッカーなのであるが、実はシャノンのお父さんは、セミプロのロックミュージシャンなのだ。これについては、またそのうち書くこともあるだろうが、今は娘がボーイフレンドのことなど書くと怒るので、これ以上は書けない。)

そう言う僕は、クラプトンのギターは、それほど好きと言う感じじゃなかったし、今でもmy favouriteではない。が、それは別として、クラプトン自伝は面白かった。その極みは、私生児である彼が、自分の母方のおばあさんを、実の母であると信じて育った生立ちの悲劇にあるかもしれない。それから、ドラッグとアルコール中毒から立ち直った経過もすごかった(アル中で酒が止められない人は、クラプトン自伝を読むべし。)その後は、息子が高層マンションから墜落死するという最悪の悲劇に見舞われるのだが、それをTears in Heavenという曲にして歌い、それが大ヒットしたという出来事も尋常ではないだろう。有名なジョージ・ハリスンとの友情(?)のいきさつもまあまあ面白かった。クラプトンが、ジョージの奥さんのパティに恋いこがれ、彼女をモデルにレイラという有名な曲を書いたことはよく知られている。そしてついに、このパティをジョージから譲り受けて(?)無事に結婚したのだが、それまでの思い込みが強すぎたのか、案外早く別れちゃっている。クラプトンは、「まあ、人生なんてそんなもんだ。そんなことで立ち止まるより、先に歩こうぜ」ってな感じでやっている。

クラプトン自伝を読むと、どんな大スターでも人間だし、努力が大切なんだ、という基本的なことが分かる 。(フェラーリで娘に運転の練習をさせているのなんか見ても尊敬する気にはならないが。)

音楽自体とはあまり関係ないが、こういう尋常ではない才能をもったミュージシャンが がどうやって生きたか、というのは小説並みに面白い。

さて、そんなだから、このごろ図書館へ行くと、ジャズの歴史、楽器の図鑑 、ギターの弾き方、ミュージシャンの自伝、音楽評論、楽譜などを片っ端から借りてきている。ついこの間亡くなったアメリカの心理学者で、作家のオリバー・サックスが書いた『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』は借りてきてまだ読んでないが、どうして人間が音楽を発明してこれを愛好しているかという内容なので、読むのがとても楽しみだ。

ミュージシャンのウエブサイトなどにも、けっこうお宝な文章がある。僕が現在もっとも敬愛するジャズギタリストはパット・メセニーだが、彼のウエブサイトには、彼の書いた文章や対談なんかもたくさん載っていて興味深い。ジャズミュージシャンはけっこうインテリだから、文学や芸術などにも詳しくて、それと音楽が交錯するところの話なんかもしてくれて楽しい。

でも、メセニーの文章で一番おもしろかったのは、彼がミズーリ州にある母校(高校)で行った講演録だった。彼はジャズミュージシャンとしては、20回もグラミー賞を受賞して、前人未到の境地の人なのだが、母校でのスピーチは、生立ちの中の音楽の話なので親近感がもてた。彼は、キャンザスシティーの近くの田舎育ちで、お父さんはガソリンスタンドをやっていた。でも、そのお父さんとお兄さんが、けっこうすごいトランぺッターで、父親と兄貴があまりうまいからパット自身はトランぺッターとしては早い時期に挫折している。それでも、高校時代はブラスバンドをやっている。それで、ビートルズがアメリカに上陸し、みんながロックに狂い始めた時、自分はマイルズデイビスを聞いてジャズに走ったことなんかも話していた。マイアミ大学に入ると、19歳で音楽講師になり、さらにボストンのバークリー音楽大学に奨学金をもらって、ゲーリーバートンの助手となる。そこからは、もう流星のごとくジャズ界のスタートなった。僕は、16歳のとき、パットが21歳で出したソロアルバム「思い出のサンロレンゾ」を聞き、正直ぶっ飛んで、3日くらい興奮して眠れなかった。今でも、このアルバムはmy favouriteだ。
(英語だけど、パットのスピーチは以下に。)
http://www.patmetheny.com/writings/full_display.cfm?id=15

それにしても、音楽はやっぱり聞くのが一番だ。Youtubeには、面白いジャズの演奏がたくさんあるけど、最近見たのですごく良かったのが、
Charlie Apicella and Iron City。特にI hear a symphonyという曲が最高。これは、昔シュープリームズが歌った曲のジャズ版カバー。
https://www.youtube.com/watch?v=-X3ZRYpcLRw

このビデオでは、Apicella が口あけて、歌いながら弾くところが、楽しくて仕方ないって感じ。すごくスイングしている。ギターソロは、ウエスモンゴメリーみたいな分かりやすいサウンドだけど、技もあるし、フレーズが歌っている。バックのハモンドオルガンのおっさんも、まるで60年代のままの感じで渋い。加えて、シンバルがやたら騒がしいドラムも賑やか。あとこの バンドで最高にかっこいいのが、真ん中でコンガを叩いているおばちゃんだ。おばちゃんがコンガを叩いているのは初めて見た。髪型も高校の家庭科の先生みたいだけど、ミスマッチなのが最高。でも、有名なパーカッショニストらしい。

今すぐニューヨークに行って、こういうコンサートを聴きたいなあ。でも、メルボルンの近くでも10月の終わりにワンガラッタ・ジャズ・フェスティバルというのがあるから、ぜひ行ってみたいと思っているのだ。
posted by てったくん at 09:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月25日

そして一年、音楽に癒されながら

2015年8月24日

音楽による治癒力を実感したのは、今年6月に行われたカヌーマラソンに出場した時だ。そのときは、歌うことで体の痛みが確実にとれたからだ。

IMGP6342.jpg

Riverland Paddle Marathon(略してRPM)は、南オーストラリアのマレー川で開催される、三日間全長200キロのカヌーマラソンだ。僕は昨年と今年と二度出場した。昨年2014年はリレーチームの一員で、200キロのうち70キロを漕いだ。今年2015年は、自分一人で三日間かけ、カヤックで半分の100キロを漕いだ。 (10、50、100、200キロと距離を選べる)。

100キロを漕ぐ場合、初日は36キロ、二日目は27キロ、三日目は32キロの行程となる。初日の36キロが最長である。これまで一人で一度に漕いだ最長距離は28キロ、2人乗りでも50キロ、だから単独で36キロは未知の世界。体調も良く、トレーニングもして漕ぎ切る自信はあったが、本心は「当たって砕けろ」という気分であった 。
IMGP6278.jpg

初日。案の定30キロ漕いだところで右腕が完全に音を上げた。痛くてパドルが上がらない。しかし、最終チェックポイントはもう過ぎたし、 見渡せば川の両岸はどこも原野。ここで棄権しても助けは来ない。あと6キロ、這ってでもゴールまでたどり着かなくてはならない(水上では這えないけれども…)。

そのとき、ふと昔の記憶が蘇った。大学時代、僕はワンダーフォーゲル部だった。合宿で山に入り、誰かがへたばり始めると、歩きながら歌を歌わされた。縦列で歩きながら、前から順番に大声で歌う。「よし、つぎは、わたなべ!」と先輩に言われると、山の歌でも、アニメの主題歌でも、水戸黄門のテーマでも、大声で喉も裂けよと歌わなくてはいけない。

ところが、大声で歌っていると辛さが軽減し、力が湧いてくる。今でも覚えているが、大学一年の夏合宿で大雪を縦走した時、最後の下りで先輩が足首を捻挫した。そこで一年生男子は、交代で先輩の分と二人分のザックを背負うはめになった。その日は長い尾根を苦しみ抜いて下ったが、歌を歌って乗り切った(まるで軍隊!)。

そんなでRPMのときも歌を歌うことを思いついた。どうせ周りには誰もいない。最初は、ギターで弾くので歌詞を暗記しているサイモンとガーファンクルを2、3曲。それからニール・ヤング、イーグルス、ディラン、続いてビートルズ、ジョン・レノン、ウィングス、トラベリング・ウィルベリーズなどの洋楽。ここらで覚えていた英語歌詞がほぼ枯渇したが、荒井由美、オフコース、山下達郎、佐野元春、井上陽水、RCサクセション、高田渡、吉田拓郎、イルカ、かぐや姫などのJ-POPのレパートリーがけっこうたくさん記憶にあった。やっぱり日本語はしっくりする。それからは、カラオケでよく歌ったペドロアンドカプリシャス、ハイファイセット、寺尾聡なんかも登場。だが、ついにそこらで本当にネタ切れになり、今度は、ためらいつつも松田聖子、森進一、アグネスチャン、西城秀樹、キャンディーズ、小柳ルミ子と、かなり深く、遠い世界までたどり着いてしまった。

だが、効果は絶大で、カヤックを一人漕ぎながら30曲ばかりも歌っていると、あれほど痛かった右腕の痛みは完全になくなり、6キロ先のゴールもすぐに見えてきた。チームメイトたち(僕は、Push’n Woodという中高年カヌーチームの一員)は、首を長くしてなかなか到着しない僕を待ってくれていたが、僕がバート・バカラックの「雨に濡れても」を陽気に歌いながら現れたので、みんな鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をしていた。僕は、「もっと漕いでいたい!」と一人でハイになっていた。

そんなで、音楽の癒す力を、身を以て体験している。

P1010932.jpg
ベニス・ビエンナーレで

ここで、シリアスな話で恐縮だが、ちょうど一年前、弟の光太がぽっくり亡くなった。命日2014年8月22日、39歳だった。

弟が亡くなったとき、僕はオーストラリアにいた。光太は亡くなる直前にオーストラリアの僕と、横浜にいるもう一人の兄弟の光哉に電子メールを送っている。それにはこうあった。

「 こちらは暑い日、涼しい日の繰り返しで夏バテ気味です。あさってライブなので気力をためています。そんなわけで私はまあまあ元気です。」

こう読むと、体調が良くないことを自覚していたことが分かる。その2、3時間後、突然光太は亡くなった。(光太は複数の重篤な持病を抱えて闘病中で、結局そのために亡くなっている。)

このメールにもあるように、光太はライブを2日後に控えていた。このことは、僕にいろいろなことを考えさせる。ひとつは、ライブに出られなかったことは残念だったろうということ。もうひとつは、結局ライブ出演はできなかったものの、人生の最後2、3ヶ月間、大好きな音楽という生き甲斐があったことは大きな喜びであったのではないかということだ。病気を持って生きる辛さを音楽が癒してくれたのではないか。

光太は、中高から大学時代を通してバンド活動をしていた。高校時代の友達とは「D」というロックバンドをやっていた。そのバンドは、つい最近まで活動していた。光太自身は、地方の大学院に行き、その後も仕事が忙しくなって、ずいぶん前に「D」は辞めていた。だが、光太がいない間も「D」は継続し続け、光太が病気になって何年か経った昨年は、そのバンドをやっていた光太の友人たちが、光太の闘病生活からの回復と社会復帰を計って、2014年8月24日にライブを企画してくれたのだ。

もちろん光太自身もその計画に喜び、ベーシストとして参加することになっていた。その練習の映像が残っているが、光太はベースでハードな曲をがんがん弾いている。僕は、それをビデオで見て、光太が本当に復活するかもしれないと期待を抱き、「ひょっとしたら、ひょっとするぞ!」と思って喜んだ。

ところが、ライブ二日前のリハーサルに光太は現れなかった。バンドのリーダーH君は、仕方なく光太の親友M君にベースの代役を頼んだ。ライブ当日も光太は現れなかった。そのときはもう亡くなっていたからだ。

光太亡き後、彼のアパートには、ギターやベースが数本、CDやカセットが数百本残されていた。H君がグレッチのエレキを引き取り、光太の甥であるマア君が白いヤマハのエレキを引き取った。あとは処分した。僕は、光太が演奏していると思われる「D」のカセット数本を形見としてもらった。

IMG_3170.jpg
形見の楽器たち

そうやって、光太は僕たちの前から永遠に姿を消した。

それから一年。今年7月から8月、僕は数年振りに家族と夏のヨーロッパを旅行した。一ヶ月も旅行をするのは何年振りだったろう。僕は、その間全くの風来坊的旅人に徹し、観光の予定もあまり立てず、何も生産的な活動はしなかった。でも、かえってそれが楽しかった。

P1000550.jpg
パリ、ベルサイユ

P1010322.jpg
南仏サン・アントニン
P1010250.jpg
南仏サン・アントニン、妻のチャコの作品
P1000726.jpg
南仏サン・アントニン

その帰り道、日本へも立ち寄った。光太の一周忌をするためだ。横浜の弟の家に泊まった際、甥の部屋に光太の形見の白いヤマハがあった 。白いエレキなんて正直趣味が悪いと思うのだが、懐かしくて僕はそれを抱きかかえ、はっぴいえんどの「夏なんです」という曲の、ちょっと複雑なコードを弾いてみた。それは昨夏光太が亡くなった頃よく聴いていた曲だ。アンプを通さないエレキギターの生(き)の音は、ほとんど聞き取れないほどか弱い乾いた音で、そのせいで、かえって魂に直接響いてくる。

今思えば、そのときのギターの小さな音は、光太がどこからか僕に語りかけた言葉だったに違いない。僕は、そのときから無性にまた音楽がやりたくなった。

光太と以前に、酔っぱらってジャムったことが2、3回ある。まだ光太がかなり元気だった頃だ。僕が一人で日本に帰国した際、夜中に二人でギターやベースを抱えて即興演奏をした。僕が夜更けに成田から多摩の実家に着くと、ふたりで飲み出して(主に僕が)、気がつくと二人でギターを抱えて歌っていたこともある。大概は全くのデタラメ即興演奏で、僕らになじみ深い京王電鉄の駅を新宿から順番に歌ってみせたり、光太が病気のリハビリのために働いていた豆腐屋の仕事をブルースにして歌ったりだった。

IMG_20150531_0001.jpg
15歳の光太、アメリカ、メイン州の友人宅で

そのあるとき、こう光太に言われた。

「てったくんのギターは、まるで白人が無理にブルース弾いているみたいだね」

軽い気持で言っただけだろうが、僕は13才も年下の弟にずばっと言われて返す言葉もなかった。全くその通りだったからだ。僕のギターは全くのまねっこで、気持もそんなにこもってなかったから。一方、光太の弾くギターやベースはすごく荒削りで、気持がこもっていた。そこには喜怒哀楽があった。

それからしばらく僕はギターには触れなかった。まるで弾く気もしなくなった。音楽はもう聴くだけにしようと思った。
 
だが、光太が亡くなってから、何度も音楽に助けられ、その力を信じられるようになった。そして、今度は、今までやらなかったジャズをやろうと考えた。ジャズは聴くのは好きだったが、理論が面倒だから自分には無理だと思い込んでいた。でも、ジャズの真髄はインプロ、すなわち即興演奏であり、ジャズをやることは、一定のスケールやコード進行は守りつつも、あくまで自分の表現をすることだ。真似はあり得ない。誰かがやっている演奏を真似ても、それはジャズとは言えないだろう。また気持が込もっていなければ、良い表現にならない。(それはどんな音楽や芸術でも同じだ)。だから、僕が最終的に目指したいのは、上手に楽器を弾けるようになることだけでなく、何かを音楽で表現できるようになることだ。どんな稚拙であってもだ。音楽は、人によって定義が違うだろうが、今の僕にとってはそういうものだ。

P1020268.jpg

IMGP6731.jpg
ベニスでは、街のざわめきの向こうから、いつも生の音楽が聞こえてくる

実は、光太が亡くなったとき、僕は驚きや混乱で、ほとんど涙を流すことさえできなかった。こんなこと書くと不謹慎かもしれないが、あのときひと思いに号泣できていれば、どんなにか気持がすっきりしただろう。

そんな僕であったが、今は、渾身のジャズの即興演奏を聞いて「おお、すげえ!」と興奮もし、時には感情が緩んで涙ぐんだりすることもある(ちょっと危ない?)ギターもまた弾き始めていて、難しいと思っていたジャズのスケールを練習したり、とても覚えられないと思っていたコードを覚えるのに苦心したりしている。まだ、山の麓を歩いている様なものだが、楽しくて仕方がない。そして、今度こそ「お前のギターはまねっこだ」などと言われないようになりたい。

そんなで、ひょっとしたら、これが自分にとっての癒しのプロセスなのかなと思ったりもしている。

P1020352 2.JPG
ダブルベースは大きいから、誰かがかついでいると、ベースが一人で歩いているみたいだ(東京、五反田で)
posted by てったくん at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年05月20日

木で作る、自分で作る

2015年5月20日

この間、日本から来た女性が我が家に遊びにきて、僕と息子の鈴吾郎が作っているボートを見て、「こういうのを作るのが仕事なんですか?」と言った。いろいろなものを作るのが趣味だが、「仕事ですか?」と言われたのは初めてだ。悪い気はしなかった。

IMG_4579.jpeg

でも、僕にとって木工とかボート作りはあくまで趣味だから、仕事にしたいとは思わない。そもそも僕は職人的な木工が不得意で、 作る物と言えば寸法もきっちり計ってないから、歪んでいたり、隙間があいていたりする。決して売り物なんかにできない。

それでも、この間作った仏壇はなかなか良い感じに仕上がった。姫路のお寺の和尚さんである友人が、オーストラリアで仏壇を作っていると聞いて、高価なお曼荼羅と仏具をわざわざ郵送して下さった。感謝感激である。幸い関税も取られなかったが、オーストラリアの税関の人たちだって、仏具に課税したら罰があたると思ったに違いあるまい。

IMG_4572.jpeg

僕が作る物は概ね材料は木であるが、高価な材木は使わず(使えない!)、合板やホームセンターで手に入る松材や廃材を使うことが多い。結婚して公団の団地に住んだ時は本当にお金がなくて、家具の殆どは手作りであった。その時のダイニングセットは、女房がアメリカ留学から帰ったときの引っ越し荷物が入っていたクレートで作った。でも、そんなことをするのが、昔から好きなのだ。

そんなで、これまで、ずいぶんいろいろな物を作ったが、ふと思いついて作るだけなので、それほど長持ちしない物も多く、失敗作もある。でも、ただ同然の材料だから、失敗したって 壊れたってどうってことない。

mIMGP4254.jpeg
息子の学校のピザ・オーブンはみんなで作ったが、この扉は僕の作(これも廃材)

僕の現在の趣味は、カヤック/カヌーである。海や湖を漕いでまわる小さな細長い舟だ。今は4隻持っているが、2隻は自分で作った。(現在、息子とモーターボートを作っている)。中でも、最初に作った2人乗りのカヌーには一番愛着がある。でも、一番性能が良いのは値段の張るプラスチック製のシーカヤックである。これはいかにも「プラスチックでこざい」といった風情のもので、木製の優雅さがない。色もデザインも過激だ。でも、海に出るときは命を預ける訳だから、丈夫で安定性が優先する。だからいくら過激でも、買ったもので我慢している。本当は、シーカヤックも木で作りたいのだが、僕の技術ではまだちょっと無理だ。

IMG_7103.jpeg
自作第一号タンタン丸

IMG_8944.jpeg
作った二隻と買ったシーカヤック(赤いやつ)

でもカヌーとカヤックのパドルは作ってみた。最初に作ったのは、 カヌー用の「ビーバーテイル」という形のパドルで、これは2人乗りのカヌーを静かな湖などで漕ぐとき使う。それでも昨年は、南オーストラリアで開催されたカヌー200キロのリレーレースに出た時はこの自作パドルで出場したが、ちゃんと完漕できた。自作パドルで出場しているのは僕一人だけだったから、少し鼻が高かった。

昨年もう一本作ったのは「グリーンランドパドル」と言われるシーカヤック用パドルだ。棒みたいなので、スティックパドルとも言われる。これはホームセンターで売っている安いツーバイフォーの松材を使ったので、材料費は1500円くらいしかかかってない。完成品を買ったら2万円以上はするだろう。カーボンなら5、6万する。

IMGP6251.jpeg
自作パドルと買ったパドル、僕のギター

僕だってカーボン/グラスファイバー製のカヤックパドルを一本持っている。ワーナー社製(アメリカ製)の5万円のパドルだ。800グラムしかなく、羽のように軽い。二年前に買ったが、値段だけあって素晴らしい使い心地だ。海に出て行く時は、主にこれを使ってきた。

ところが、最近、制作費1500円のグリーンランドのお株がぐっと上がっている。グリーランドパドルは細身なので、海で潮風が吹いているときでも風にあおられないので、漕ぎやすい。細いから、漕ぎ始めはなかなかスピードが上がらないが、いったん巡航速度(時速6キロくらい)になってしまうと、 細身ゆえ肩に優しく、長時間漕いでも疲れにくい。一方、カーボン製のワーナーで漕ぐと、ブレードの幅が太いので初速から早いのだが、その分肩の負担が重くて、疲れやすい。それに風があるときは、水の外に出ているブレードが風にあおられて舟がぐらぐらしやすい。まあ、こういうものはすべて一長一短あって、万能のものはない。

そこで、試しに友達にGPSを借りて、手作りパドルとカーボンパドルを湖で漕ぎ較べてみた。すると驚いたことに、1500円の自作木製パドルも5万円のカーボンのパドルも、一周二キロの湖を漕いでまわる速度はほとんど同じなのだった。(ということは、松材でなくて、檜や柳などのもっと良い木材を使って、軽くてしなるパドルを作れば、カーボンより早いかもしれない。やってみよう!)

IMGP6243.jpeg
これはいつも漕ぎに行く湖の柳の木


とにかく、ハイテク製と木製とどちらが良いかと聞かれたら、木製が好きだ。

もうひとつ、(自分で作った物ではないが…)僕の宝物は、古いヤマハのフォークギターである。昨年東京の実家を処分したので、引っ越し荷物に入れてオーストラリアまで持ってきた。さすがに捨てるに忍びなかった。

中学一年のときに両親に買ってもらったギターだから40年前のオールド・ギターである。当時2万5千円だったことも覚えている。ずっと実家に置き去りにしてあって、手入れもしてなかったから、すごくぼろぼろだった。こっちに持って来てから塗り替えようかと思ったが、試しに家具用の油で磨いてみたら、渋くて良い色になった。塗り替える必要などなかった。ボディに小さな穴も開いていたが、これもパテで埋めてきれいにしてやったら、昔よりはるかに良い音で鳴るようになった。奮発して、エリック・クラプトンも使っているマーチンの弦を張ったら、最高に良くなった。

僕がもう一本持っているギターは、オベーションというアメリカのメーカー製で(韓国製だけど)、ボディの表は木だが、裏と側面はファイバーグラスで出来ている。いわゆるエレアコと呼ばれるギターで、アンプに通して電気ギターとして演奏することもできる。軽くて、しゃかしゃか澄んだ音がするが、古いヤマハみたいな、しっとりと深い良い音はしない。

きっと、プラスチックのギターは1000年たっても同じ音がするのだろう。でも、木製の物は、壊れてもかなりのところまで直すことができる。そこがケチな性分の僕に合っている。それに、直せない程壊れたら、燃やして灰にしてしまえばいい。あるいは、そこらの薮にでも放り投げておけば、いずれ腐って土にかえるだろう。

DSC_3565.jpeg
これは息子のリンゴロウが8歳くらいのときに作った自動車

それが木製の潔さだろうし、ものの道理であろう。木製のものは、たとえそれが「物」であっても、生き物みたいな手触りと親しさを感じる。鉄製のものもそう悪くないかもしれない。でも、プラスチックやカーボンとなると、そんな親しみは全くなく、使っているうちはまだしも、いったん壊れてしまうと、どれほど愛着のあった道具だったとしても、ただのゴミと化す。それどころか、プラスチックやカーボンは燃やせないし、朽ち果てないから、本当に始末に悪い。









posted by てったくん at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年04月27日

仏壇作り

2015年4月20日

初冬。今、仏壇を作っている。

IMGP6197.jpeg
製作中の仏壇

両親があの世に行って何年もたち、昨年東京の実家も処分した。そのとき、実家にあった古い大きな仏壇も処分せざるを得なくなった。そこで、中に入っていた位牌の行き先が問題となった。僕のすぐ下の横浜に住んでいる弟は、「親父とお袋の位牌はおれが引き取るよ」と言ってくれた。末弟は、「じゃあ、おれは『渡辺家先祖代々の霊』の位牌を受け持つよ」と言ってくれた。 独り者の末弟は、実家に住んでいたのだが、家を処分することになって世田谷に引っ越していた 。オーストラリアに住む僕は、海外と言うことで、位牌の引き取りは免除され、密かに「ああ、良かった」と思った。

IMG_2166.jpeg
実家にあった仏壇

ところが、「渡辺家先祖代々の霊」の位牌を引き取ってくれた末弟が、実家を処分して半年後の昨夏に病気で急死してしまった。思わぬ事態であった。

もちろん、亡くなった弟の位牌も作った。彼も両親と一緒に、横浜の弟の家の仏壇に入った。ところが、「渡辺家先祖代々の霊」の位牌の行き場がなくなってしまった。どうしてそんなことになったかと言うと、横浜の弟の家にあるのは、小さくて新しい、モダンな仏壇なのだ。この仏壇は、両親二人の位牌にちょうどの大きさなので、亡くなった弟の位牌も入れると、もうギュウギュウの満員なのである。これには困った。

「大きな仏壇に買い替えてよ。お金は出すから」と僕が言うと、横浜の弟は、「嫌だよ、そんな大きな仏壇をリビングに置きたくないよ」と言う。弟の家は、かっこいいモダンな新築の家なのだ。それに横浜の弟は、名古屋かどこかの仏壇屋さんと、もうすでに一門着起こしていたのだった。どういう経緯かと言うと、最初に仏壇を注文した時、父の位牌(かなり背が高い)の大きさを測り間違えてしまったのだ。だから、送られてきた仏壇に、父の位牌が入らなかったのだ。まさか、父の位牌をノコギリで切って、背丈を短くする訳にはいかない。そこで、仏壇屋に取り替えてもらおうと連絡したら、「ちゃんと大きさを測ってから注文して下さいって、ウエブサイトに赤字で大きく書いてあるでしょ! 位牌の大きさを間違えるなんて、不信心にも程がある」と、こっぴどく叱れたのだった。弟は、平謝りに謝り、それでやっと 取り替えてもらったのだ。だから、今更その仏壇を「下取り」に出して、さらに大きな仏壇に変えて下さいなどと、とても言えないのだった。

そういう経緯だったから、僕もそれ以上の事は言えなく、昨暮、「渡辺家先祖代々の霊」をスーツケースに入れ、メルボルンに連れ帰ったのである。渡辺家の先祖の霊たちは、ジェットスター航空の成田−メルボルン直行便、最新型ボーイング787ドリームライナーで、オーストラリアへ移住したのだった。

IMG_3482.jpeg

そんな訳で、仏壇を作っている。いくらオーストラリアにいたって仏壇くらい買えばいいじゃないかと言う人もあるだろうが、ご先祖様も、子孫が心を込めて作った手作りの仏壇に入れば、悪い心持ちではない筈だ。(断じて仏壇代をケチっている訳ではない。)ちなみに、父の実家は12人兄弟姉妹で大家族だったから、渡辺家の先祖はいったい何人になるのだろうか。それに、この位牌を、いつ誰が作ったかも分からないので(かなり古そう)、本当にどれだけのご先祖様がここに入っておられるのか分からない。しかし、そんなことを気にしたって仕方ないがないから、暇を見て作業を進めている。

その仏壇の材料だが、息子と製作中のモーターボートの残りの耐水ベニアである。ボート用の最高品質のベニアだから、ご先祖様にも異存がないことを祈っている。失礼のないように丁寧に作っているが、何分素人仕事なので、格調高くなどとはとても望めない。それどころか、ぴちっと寸法が合わなくて、隙間があったりする。 でも、僕のご先祖は、きっと物わかりの良い人ばかりだから、大丈夫な筈だと信じ、真心込めて仕事にかかっている。

IMGP6198.jpeg
ボートはなかなか完成しないが、仏壇作りは意外に早く終わりそうだ











posted by てったくん at 10:50| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2015年04月07日

餃子の夕べ

2015年4月9日


「秋深し」のメルボルン。世界ではいろいろなことが起きているが、ここベルグレーブでは、とある晩秋の夕べ、日系家族が集まり、せっせと餃子を作って食べたのだった。4家族、親8名、子ども9名、総勢17名だったが、各家族平均90個程度の餃子を作ったので、全部で400個くらいできた。(もしかしたら、もっとあったかもしれない。)

オーストラリアにあっても、子どもは餃子が大好きである。もちろん、日本のように手軽にスーパーのお惣菜売り場や「餃子の王将」で餃子を買ってくる訳にいかないから、ひたすら自分達で作るのである。

ロシュ.jpeg

我が家では、餃子を割にしょっちゅう作る。息子鈴吾郎の好物であるからだ。鈴吾郎の好物は、スキヤキ、焼き肉、ピザ、スパゲッティミートソース(オーストラリアでは、スパゲッティ・ボロネーズと呼ぶが、さらに「スパグボロ」と短縮する )、それから餃子である。これらを繰り返していれば、鈴吾郎はハッピーなのだ。

その鈴吾郎が待ちこがれているのが「餃子パーティー」である。これは数年前に始まった「行事」だが、私の主催する「メルボルンこども文庫」に参加している2、3の料理好き家族があるとき集まって「餃子をたくさん作って、子どもたちに思い切り食べさせてやろうじゃないの」ということになって始まった。子どもをダシにした飲み会、というだけのことだが。

そんなことで今年は4、5回目だと思うが、餃子パーティは秋の復活祭休みの行事になりつつある。この時期になると、鈴吾郎も「餃子パーティーの季節だな」と言い出すのだ。

毎回出席メンバーは少しずつ違うのだが、いつも必ず張り切って登場するのは韓国人のお父さんフンさんである。フンさんは本職がホテルのケーキ職人だけあって、餃子なんかはお手のものだ。「韓国のギョウージャは、モヤシが入っていてシャキシャキ美味しいのよ」などと言いながら、おいしい餃子を山ほど作ってくる。奥さんのマユミさんはベジタリアンだから、愛妻家のフンさんは家ではなるべく菜食に徹している。だから、餃子パーティとかバーベキューの集まりがあると、肉を思い切り食べられるから大張り切りなのだ。

ぎょーざたくさん.jpeg

それから今回は、スリランカ系オーストラリア人のお父さんロシュさんも登場した。ロシュさんは、何年か前に、文庫でやっているキャンプの「カレーの夕べ」に颯爽とデビューした。ロシュさんのご両親は予約制カレーレストランを経営する。だから、さぞ美味しい「スリランカ野菜カレー」を食べられるとみんなは期待したのだった。ところが、そのときロシュさんは,何と日本のハウスジャワカレーで普通の「和風カレー」を作って男を下げたのだった。「ロシュさん、何でそんなカレー作るのよ?」とみなに聞かれたが、ロシュさんは頭をかきかき、「いやあ、子どもが普通のカレーが良いって言うから…」と答えた。

だから、今回もロシュさんの餃子には期待してなかったのだが、どうしてどうして、インド風キヌア入り野菜餃子は、スパイスのひねりも効いていて美味しかった。(奥さんのジュンさんの力作だったようですが)。

我が家の餃子はというと、「キャベツと白菜入り豚肉餃子」で、餃子としては普通の、ストレートの味。それから、女房のチャコは、トーフ入り野菜餃子を作った。フンさん曰く、「日本人の作るギョウージャは生姜の味がするね。韓国人のつくるギョウージャはニンニクの味」。確かに、僕のも女房のも、たくさんショウガをすって入れたから、そう言える。

餃子を焼くのもフンさんの仕事。三百個の餃子を焼くのもちっとも大変じゃない。鼻歌混じりで、ビールをぐびぐび飲みながらフンさんは、焼けた餃子をつまみ食いしながら焼いて、楽しくてしょうがないという風である。

僕も、フンさんの横で、餃子をつまみ食いしながら、ビールを飲む。ビールも、ビクトリア・ビターとか、フォスターとか、そういう安いビールじゃなくて、こう言う時は、この頃出回るようになったマイクロ・ブルワリー系の極上ビールを飲むのである。だから、いくらでも飲めちゃう。

さて、こんがり焼けた餃子は、先ず子どもたちに食べさす。 ムカイさんの奥さんのヒロコさんが山盛りの餃子をテーブルに運ぶと、待ち構えていた子供達が、「わああ!」と言いながら、いっせいに箸でつつく。すると、2、30個の餃子が一瞬でなくなる。「まるでアリ地獄!」とヒロコさん。

あり地獄子ども.jpeg

9人のアリ地獄は、200個ばかりの餃子をあっと言う間に食べてしまう。息子の鈴吾郎は、ほんの15分で「俺、23個食った」とゲップをしている。子どもたちは食べるだけ食べると、外に遊びに行ってしまった。

やっと、静かになったので親達は、ゆっくりといろいろな餃子を味わいつつ、歓談。飲み食いしながらの話題は、 必然的に、子どもの教育(ここに来ている家族は、全員シュタイナー学校に子どもをやっている)、教師の噂、子どもの国籍の選択といった真面目な話題から始まり、やがて、 政治とか オーストラリア人の批判、日本人の批判、北朝鮮と韓国の歴史、 麻薬、アルコール中毒、密輸など、段々ディープな話題に発展していく。

焼けた餃子.jpeg

しかし、あくまで復活祭の清くてさっぱりした近所付き合いだから、遊び疲れてお腹がいっぱいになった子ども達が、「眠いよう、もううちに帰るよう!」と言い出せば、親達はお皿を洗って、さっさと帰り支度を始めるという潔さだ。

こうして、今年の餃子パーティも無事に終了した。「やっぱ、フンさんの肉がいっぱい入ったギョーザが一番だったなあ。また食べたいなあ!」と、鈴吾郎は、早くも来年の餃子パーティーに思いを馳せている。

posted by てったくん at 20:14| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記