(2019年10月13日から26日)
「結婚ってのは全く素晴らしい発明だが、パンク修理セットだってそうだ」
(ビル・コノリー、スコットランドのコメディアン)
第4話 四日目と五日目 中学時代の恩師T屋先生と高知を走る
南国市ホテルにおける宿泊客の生態「明日は、7時起床、7時半朝食、8時半出発だな」とT屋先生は、昨夜そう言った。T屋先生は79歳であり、立派な後期高齢者である。その割に、それほどの早起きでないことがこれで判明した。人はこの年齢になると鳥のように日の出と共に目覚めるのかと思ったら、そうでもないらしい。
ところが、朝7時半にホテルの食堂にいくと、先生はすでに朝食を半ば終えている。やはり油断はできない。「おめっちは、昨夜はすぐ寝ちまっただか?俺は、あれからサウナに入ったよ。やっぱ、サウナに入って汗を流すと気持ちいいねえ」と、けろっとおっしゃる。
僕とT村が恐れていた通り、T屋先生は元気いっぱいだ。今日はロードバイクで思いっきり走るぜー、青春だぜー、という精力にみなぎっている。昨日先生は、沼津から東京まで電車で移動し、そのまま羽田から高知まで飛んできたものの、自転車で走ったのは空港からの8キロだけだから体力が余っているのだ。一方僕とT村は、室戸岬から高知まで82キロを走ったから、寝る前にサウナどころではなく、バタンキューで寝てしまった。二人とも、今日はできるだけ負担の少ない走りで体を休めようぜ、と密かに打ち合わせてあるが、T屋先生は、そうはさせまいと意気ごんでいる。
「この近くのゴルフコースでベテラン・コンペが開催されていて、400人ばかり参加しているから、このホテルにもシニア・ゴルファーが百人くらい滞在しているらしいよ」と、T屋先生はまわりを 見渡しながら、うれしそうにおっしゃった。見れば、食堂はご老人ばかりだ。日本は高齢者が増えているから、どこも老人が多いですね!なんて油断していると、周囲を完全に老人に包囲されてしまう。このホテルなど、老人純度が100%近い。
しかし、ゴルフのコンペに出る老人ばかりだから、みんな元気だ。入れ歯をもごつかせて、トーストや茹で卵を喉につまらせているような人は一人もいなく、みんな元気に朝ごはんを咀嚼している。慶賀の至りである。
僕たちは、本日の行程を打ち合わせると、朝食をさっさと済ませて、出発の準備をした。
下田川の亀を見て、五台山を征服したことなどホテル前に三台の自転車が揃い、三人の男たちが出陣したのは8時40分である。予定より10分遅れだが、まずは合格であろう。何せ朝出かける前は、着替え、薬を飲む、歯磨き、トイレ、忘れ物チェック、再度のトイレ、再度の忘れ物チェックなど、障害物競走のようにやることが多いのだから。

いざ出陣の三名
さて、ここで三人の自転車を比較する。細かい点は、読者を退屈させるだけだから勘所だけを列挙しよう:
T屋先生の自転車:国産ブランド(純国産)、オーダーメイド、カーボンフレーム、高級パーツ、22段変速、重量8キロ
T村:英国ブランド(英国製は名ばかり、実は日本製)、既製品、鉄フレーム、普及品パーツ、16段変速、重量10キロ
私:米国ブランド(実は中国製)、既製品、鉄フレーム、16段変速、重量11キロ
野暮だから値段は書かないが、自転車に詳しい読者には、これら三台の違いは一目瞭然だろう。先生のは高級品、我々のは普及品。まず先生のフレームはカーボン、すなわちNASAなどが用いる新素材、21世紀テクノロジーの賜物だ。一方我々のは鉄製、すなわち鉄器時代、せいぜいが産業革命の時代の素材だ。ここにもう数世紀の開きがある。また先生の自転車は特注オーダーで、フレームは先生の体型に合わせて手作ってあり、注文から完成まで数ヶ月かかったと言う。一方我々の自転車は既製品。背広に例えるならば、先生のはテーラー仕立ての手縫い、我々のは紳士服アオキの吊るしである。先生のギアは22段。我々のは16段で全く勝負にならない。重量も先生のは8キロ、我々のは10キロ以上と、決定的に違う。T屋先生の愛車はすぐにでもツールドフランスの実戦に登場できるサラブレッドだが、我々のは「狼の皮をきた羊」と言った程度である。
そういう違いはあるものの、所詮は自転車、三台並んで高知方面に向かった。最初の目的地は五台山だ。五台山は、高知市の東側にある小高い山で標高146メートル。眼下には浦戸湾、西に高知市、南に太平洋を望む。頂上には四国霊場三十一番目の竹林寺や牧野富太郎植物園がある。
国道を少し走り、裏道にハンドルを切る。そこはサイクリスト好みの田舎道だ。田んぼの間の農道、古い農家や納屋の連なる古い街道、その間を大きな浦戸湾に連なる下田川がゆっくりと流れている。
とある橋上から川面を見ると、大きなボラのような魚がウネウネ泳いでいる。「見える魚は釣れないんだよな」と、T屋先生が呟く。亀がたくさんいる。ぱっと見渡しだけでも30匹はいるだろうか。みんな岩や岸辺で甲羅干しをしていたが、我々が大きな声で喋っていると、警戒してぼちゃぼちゃ潜ってしまった。亀は老人のような顔をしているが、耳は良いらしい。新しい発見だ。とにかく朝からたくさんの亀を見たことは、めでたいことの予兆だ。

下田川の亀
T村はiPadの地図を見ながら走っているので、我々は迷わず五台山への登り口に行きついた。その急坂を登るにあたり、二つの問題点に留意しなくてはいけないことに気がついた。一点は、T村と私がその急坂で79歳のT屋先生に出し抜かれたらどうしようかという点だ。先生と我々の年齢差は20歳プラス。20歳も年上の老人に上りで負けたら、我々の沽券に関わる。それで、もし負けたら乗っている自転車のせいにしようと私は考えた。T屋先生のは高級車で、我々のは普及車だから、性能の差は歴然であり、勝敗に疑問の余地はない。二点目は、T屋先生が急坂の途中で心臓麻痺か卒中を起こして倒れたらどうするかという点だ。いくら健脚を誇る先生でも、不慮の出来事はあるかもしれない。僕は、先生をあまり張り切らせず、高齢者らしい節度を持って走るように、それとなく目を配ろうと考えた。その上で何かあったときは、慌てず119番連絡ができるよう、密かに携帯電話を胸ポケットに入れた。T村もiPadsで武装しているから、万全であろう。

登坂するT屋先生
しかし、心配することはなかった。先生は、我々を出し抜くこともなく、卒中を起こして倒れることもなかった。ただ、T屋先生ご自身には、その登坂はいささか苦難の道であったようだ。先生はのっけから、「いやー、急な坂だなここは、坂はできれば登りたくないよ、坂は嫌だなあ、だから坂はできるだけ避けてるんだよ」と、そんなことを大声で言いながら、這うように坂を登った。私は、その後ろから「先生、この坂は2キロちょっとですよ、すぐですよ。ほんの15分程度ですよ、ファイト!」と、優しく励ましながらゆっくり登った。
一方でT村は、一昨日から自分の健脚に良い気になっているので、どんどん一人で登っていく。そして、先の方のカーブで止まっては、先生が苦渋の表情で登坂している様子を写真に写し、「しっかりしろ!倒れたら、すぐに救急車を呼ぶから、一生懸命こげ!」などと、叱咤激励している。同じ教え子でも、人格者とそうでない者の違いが、こういう場面で明らかになるのだ。

恩師をあおり走行で脅かすT村
登坂は20分ほどだっただろうか。先生は「もうだめだ、足がつりそうだ、登り坂と向かい風は、サイクリングの敵だぁ!」とか悪態をつきながら、どうにか五台山の頂上についた。

五台山から浦戸湾を望む
それだけに展望台のからの眺めは格別であった。我々は絶景に見惚れて、長い間そこで過ごした。いや、長居した理由は絶景のせいだけではない。そこにもう一人の地元サイクリストが現れたせいでもあった。
そのサイクリストは、軽そうな自転車に乗って風のように登場した。聞けば、北海道出身の元自衛隊員で、高知市役所観光課勤務の人であった。「どちらからいらしたんですかー?」と、観光課だけあって、愛想よく展望台の下から声をかけてきた。T村もT屋先生も話好きだから、この青年と展望台の上と下で話しこむことになった。特にT屋先生は、自衛隊ということに深く関心を抱いたようだった。
会話の要点は、以下の通り:
T村「我々は、教え子と先生の三人連れで、サイクリング旅行をしている。」
青年「自分は北海道から移住し、高知市観光課に勤務している。元自衛隊千歳基地勤務。サイクリングが趣味。高知にはサイクリングの見どころが多いですよ」
T屋先生「自衛隊の退職金は多い。富士山の陸上自衛隊訓練に参加したことがある。」
青年「自衛隊の規律の厳しさに比べて、地方公務員は楽。四国は温暖で暮らしやすい場所です。」
T屋先生「富士の訓練で戦車に乗ったが、戦車は見かけによらずスピードが速い。」
青年「私も自衛隊時代に戦車に乗ったことがある。」
T屋先生「戦車はスピードが速いばかりでなく、乗り心地も素晴らしい。」
青年「そろそろ行かないといけません。じゃあ、皆さんお元気で。」
T屋先生「戦車は乗用車並みに中が静かで、椅子も座り心地が良い。」
青年「本当に行かないといけません。じゃあさようなら(青年、立ち去る)」
T屋先生「戦車は、本当に良くできている。」
私とT村「先生、さあいきましょう。」
T屋先生「戦車には、ぜひまた乗りたい。戦車は素晴らしい…」
私とT村「先生、早くいきましょう。」
桂浜の観光食堂で、T村愚問を放つ展望台での会話が長引いたので、我々は竹林寺にも牧野富太郎植物園にも寄らずに五台山を降り、次の目的地である桂浜へ向かった。T屋先生は、五台山の上りでは苦悩したが、下りは高級ロードレーサーの性能を十二分に生かし、華麗なフォルムで坂を下った。
桂浜は太平洋岸にあるので、当たり前だが、我々は海の方へ向かった。途中、浦戸湾を市営の渡し船で渡ったりしたので、時間がかかった。そんなで三人ともお腹が空いたが、桂浜まで造船場ばかりでお昼を食べる食堂が見当たらなかった。

桂浜の龍馬像
腹を減らした我らは桂浜にようやく行き着いたが、果たしてそこには数軒の食堂があった。それらは観光食堂と呼んだらいいような食堂だった。要するに、土産屋の二階にある食堂だ。そう言う食堂では、うどん、カツ丼、カレーライス、豚生姜焼き定食など、その土地とは関係のない食いものを出すのが常だ。
我々は、ひとまず「月の名所、白砂青松、龍馬像の立つ」と言う桂浜を歩き、1時間後、ようやく一軒の観光食堂に入り、遅めの昼ごはんを食べた。その観光食堂でだが、T村は、ある愚問を投げかけた。それは、水の入ったコップを持って我々のテーブルに接近してきたウェイトレスに対して放たれた質問だった。
それはこういうものであった。
T村「あのー、お姉さんさあ、ここのウドンってのは、讃岐(さぬき)うどんみたいな、そう言ううどんなわけ?」
お姉さん「あのねえ、お客さん、ここは土佐なんだから、讃岐じゃないの。だからここのうどんは讃岐うどんじゃないの。讃岐うどんは、香川県のもの!」
そういうやりとりだったが、讃岐と土佐を混同したT村の疑問は、高知県民のその女性からすれば、聞き捨てならないものであっただろう。坂本龍馬が聞いていたら、T村は叩き斬られていたに違いない。ただ私は、東京人として少しはT村に同情する。なぜから我々関東人からすれば、土佐も讃岐も同じ四国の田舎なのだから、高知のうどんなど、きっと讃岐うどんみたいな代物であろうと考えても仕方ない。それにしても、「讃岐うどんみたいな、そう言ううどん」とは一体どんなうどんを指すのか?
まあ、そう言うわけで、我々はうどんはやめて、三人ともかき揚げ丼を食べた。なぜ三人とも同じになったかには理由がある。僕とT村は昨日安芸市で食べた「じゃこかき揚げ丼」があまりにも美味しかったので、その流れで「今日もかき揚げ丼にしよう」となったのだ。もちろん、二人とも昨日ほどのかき揚げ丼に今日も出会えるとは思っていたわけではないが。ではT屋先生が、なぜ我々と同じかき揚げ丼を注文したのか?それは簡単だ。先生は、五台山の登坂で疲労していたので、面倒だったからだ。
言うまでもないが、ここのかき揚げ丼は、特に言及するほどの味でなかった。小田急線の立ち食いそば店「箱根そば」のかき揚げ丼と、どっこいどっこいだったと言えば、想像がつくだろう。
奇跡の仁淀川を走ってから、スーパーでおやつを食べたこととにかく、かき揚げ丼で腹も作ったので、次に「奇跡」と呼ばれる仁淀川に向かった。誰がそう呼んだのか、奇跡とは大袈裟だが、確かに仁淀川の流れは美しい。桂浜から仁淀川河口までは、太平洋岸を走るが、どこまでも真っ直ぐな道は爽快だ。
四国へ来ると驚くのは、海岸の見晴らしの良い一等地に墓地がたくさんあることだ。もしかしたら四国だけではないかもしれないが、先祖を大切にするという意味で、日本人の国民性を表している気がする。これが私の住むオーストラリアなら、このような海浜の一等地は、有名スターや実業家が買い占め、何百万ドルもする豪邸や一流ホテルが立ち並んでいる。ところが、ここ高知県ではお墓が林立しているのだから驚くべきことだ。
「お墓ばっかりで、もったいないですよ!」と、不敬にも僕がそう言うと、T屋先生は、「それなら、てっちゃんがここの土地を買い占めて、それをT村君が造成して売れば、二人は大金持ちになれるずらよ」と賢明にもおっしゃる。T屋先生は元は数学の先生だから、数字に明るい。そう言う先生の言うことだから、きっとその通りだ。私は、それを聞いて明るい気持ちになった。

太平洋岸を走る
そんなことを話しながら走行していると、じきに仁淀川の河口だった。ここを川沿いに数キロ北上する。仁淀川は川沿いの村落で和紙の生産などが行われている清流で、一説には四万十川よりも水が澄んでいると言う。我々はしばし路肩に立ち止まってその清流に見惚れた。こんな場所に暮らしている人たちはどんな人たちであろうかと思うだろうが、それについては宮尾登美子著『仁淀川』などの名著に筆を譲ろう。

仁淀川
さて、しばらく行くと高速道路の大きな橋があり、そこから私たちは高知市方面にハンドルを切った。しばらく行くと、ちょっとした峠があり、ここでもT屋先生のスピードは低迷を見せた。「もう少し行ったら、おやつでも食べましょう!」とT村がそそのかすと、T屋先生は突然元気を取り戻した。少し先に大きなスーパーがあったので、そこで一休みした。
T先生は愛妻家である。だから、このスーパーで、郷里沼津で先生を待っている奥さんにお土産を買うことを思いついた。先生は店を一巡したが、「あまり買いたいものはないね」と無念そうであった。我々は、イートインコーナーに座し、コーヒーを飲みながら、おまんじゅうや羊羹を食べた。サイクリングに行くと甘いものが美味しい。T屋先生は大きな柿を一つ買って、ナイフで剥いてくださった。恩師に柿を剥いてもらって食べるというシチュエーションは、私が正岡子規だったら、まさに俳句的モーメントだろう。でも、その時の私は、何か別の思索にふけっていたので、うかつにも好機を逃してしまった。
そこで、今一句捻ってみた。
さあ食えと 恩師が固き 柿を剥き
鉄沈
自分で書いておきながら、何を言っているのか分からない句である。
さて、おやつを食べて、自転車のところに戻ると、驚いたことにT屋先生の自転車がパンクしている。先生は動揺を隠せず、「おお、パンクしている!」と、大きな声で叫んだ。そこで僕もT村も、「先生、落ち着いてください。パンクくらい、すぐに直せますよ」と冷静に、先生がパンクを直すのに手を貸した。麗しき師弟愛だ。

パンクを直すT屋先生とT村
特にT村は、買ってからまだ使ったことがない炭酸ボンベの空気入れを使ってみる好機が到来したので、嬉しそうであった。炭酸ボンベの空気入れとは妙な物だが、普通の空気入れはシュコシュコ押して空気を入れる手動ポンプなのに対し、T村の新式ポンプは圧搾炭酸が入った小型ガスボンベなので、シュコシュコしなくても一瞬にしてタイヤが膨れ上がる新兵器なのだ。案の定、その炭酸ボンベでT屋先生のタイヤは瞬時に膨れ上がった。ただ、タイヤには空気ではなくて炭酸ガスが入っているのだが、走行に支障はない。
パンク事件のせいか、T屋先生は突如帰巣本能を強くしたようだった。先生は、帰心矢の如しで先頭を切って走り出し、瞬く間に我々を高知市へと導いた。そのまま我々は、はりまや橋も高知城も見物せず、最短距離で国道を走り続け、南国市のホテルに舞い戻った。到着したのは夕闇迫る5時だったので、脇見も振らずに走ったのは正解だった。先生のすることはいつも正しい。
同窓会サイクリング、無事終了翌朝私たちは、また7時に食堂で落ち合った。今日で同窓会サイクリングは終わりだ。二人は午後の羽田行きの便で帰宅し、僕はそのまま四国サイクリングを継続する。
久しぶりに友達と恩師とサイクリングをした感想は、とても楽しかったことに尽きる。近年ずっと独りで走っていたから、その自由さもまた良し、と信じてきた。でも、人と一緒に走ると、誰かが励ましてくれたり、面白いことを言ったりするので、楽しいムードが持続する。一人でも楽しい時は楽しいが、自分のムード次第で、憂鬱になったり、うんざりしたりすると、ムード挽回が難しかったりもする。だから、これからもこうして、T村やT屋先生と一緒に走る機会をできる限り作ろうと考えた。
さて私は、ここから後免と言う駅で自転車を畳んで、阿波池田まで輪行する。その後は香川を巡り、小豆島に渡って一周し、高松から鳴門、徳島へと旅が続く。
T屋先生は、ホテルでちょっとのんびりとしたら、まっすぐ空港へ向かって、そこで奥様へのお土産でも見繕いながらフライトを待つと言う。T村は、飛行機が出る午後までまだ時間があるので、寸暇を惜しんでもう一周、高知の田舎を走ってくるのだと張り切っている。
三人は「それじゃあ、またな」と握手してから、ホテルの前で分かれた。台風など、いろいろなことがあったが、あっという間の四日間であった。
(私の四国の旅は、まだ続く)