第8話
11日目 高松から鳴門まで走り、 うどん屋の女性の讃岐弁がブルースに聞こえたこと
「その土地の起伏を知りたかったら自転車で旅するのが一番だ。汗かいて坂を登ったり、飛ぶようにして下ったりして。」 アーネスト・ヘングウェイ
県道10号線と11号線を行く
高松のビジネスホテルを6時半ごろ出発。外は、ぶるっと震えるほど寒い。秋の長旅は、だんだん冬に近づく旅でもある。
今日は高松から鳴門まで90キロほどを走るのだが、海沿いの11号線は交通量が多そうなので、内陸の県道10号「東さぬき街道」を行くことにする。こういう古い街道を走るのもまた味があるだろう。

県道10号はまっすぐ続く
と思ったのだが、地図で見るのと実際に走るのでは違っていた。高松郊外の県道は、ずっと真っ直ぐで、いささか退屈だった。車も多い。高松の郊外は、日本の地方都市ならどこでもそうなように、広大な駐車場のある大型商店、学校、倉庫、工場、物流センター、病院、レストラン、コンビニと言った建物が脈絡なく、どこまでも並んでいる。殺風景と言う他ない。大体、10日以上も自転車に乗って旅していると、最初の頃のキラキラしたような感受性は薄れ、何を見てもあまり感激しなくなってくる。疲れも溜まってきているからだろう。その上今朝は、ウインドブレーカーを通して寒気が入ってくる。着られるものは全部着ているので、しばらく我慢するしかない。
走り出して4、50分、ようやく体も温まってきた。街道沿いのコンビニでコーヒーと三角サンドイッチの朝ごはんを食べる。このコンビニは、かなり裏ぶれた感じで、店員は疲れ切ってレジの前に立って仕方なく接客している。店も乱雑で、トイレの掃除も行き届いてない。こういう店に入ると貧乏くじを引いたような気持ちになるが、コンビニの経営も大変なのだろうと思うと、気の毒だ。しかし、こちらはお陰様で、コーヒーを飲んで朝ごはんを食べると元気が出て、気分も上向きになった。外をみれば青々と晴れ渡り、素晴らしい天気だ。コンビニ、がんばれ!
もうしばらく、平らな県道10号を走っていくが、高松の街並みが切れるあたりから道も変化し始め、くねくねと蛇行したり、緩やかに登ったり降りたりして面白くなってきた。香川の南側は四国山地の高い峰が屋根のようにそびえ立ち、それを右側に見ながら走っている。
道路の反対の左側、すなわち北側は平地でありながら、ぽこぽこと小さな山があちこちに隆起している。こう言う小さな山は、せいぜい標高100メートルくらいだから、植林などの用途に使えるほど大きくはないだろう。でも、きっとてっぺんには祠や神社のようなものがあって、神様や仏様の住処として役立っているはずだ。だから山の麓には寺や神社が建っている。何百年も前からあるのだろう。このあたりには古墳もいくつかあるみたいだから、弥生時代、もしかしたら縄文時代から人が住んでいた証拠だ。

神様のおうち
このあたりの街道わきには貯水池がたくさんある。レンコンを栽培しているのか、びっしりと蓮が植えてある池もある。休耕田には秋らしくコスモスが咲き乱れている。日本の田舎の素晴らしいところは、どこもかしこも人の手が加わっていて、神様がいて仏様がいて、家があってお墓があってお地蔵様がいて、岩には文字が掘ってあって、山には道標があって、どこを見ても風景に変化があることだ。僕は、オーストラリアの手付かずで荒々しく、そして寂しい光景をこの20年見ながら生きてきたから、こういう日本の田舎を見ると、とても嬉しくなる。


堰堤に並ぶ由来不明の石碑。
三本松の町を抜けてしばらくすると、また瀬戸内の海沿いに出た。ここからは11号線を行く。11号線は高松と徳島を結ぶ幹線で交通量も多い。その癖、通り沿いの街並みは埃っぽくて、ひなびている。引田というところで寄り道をして、古い街並みに入る。大きな醤油屋の建物は江戸時代そのままで、中からは強烈な醤油の匂いが漂ってくる。中を覗いたが全然人気がない。この町自体とても静かで、路地をしばらく縦横に走ったが、僕以外に街を歩いていたのは一人旅の女性だけであった。唯一人たくさん人を見たのは町の小さなスーパーでトイレを借りた時だけで、それは軽自動車に乗って買い物にきている老人たちだった。

引田の醤油屋
また海沿いを走っていくと淡路島が見えてきた。もうすぐ徳島県だ。この旅のスタート地点に戻ってきた訳だ。海岸の眺めは素晴らしいが、どこもゴミだらけで、サビた鉄骨の廃墟や骸骨みたいな建物がたくさんある。味のある風景とも言えるが、もう少しきれいにできないものか。
ハスキーボイスのうどん美人
香川県と徳島の県境あたりの海岸沿いに讃岐うどん屋があった。トラックや配達のバンなどが止まっているのは、安くてうまい証拠だ。讃岐ともお別れだから、少し早いが昼飯にすることにした。
ここもセルフ店であるが、チェーン店のような虚飾はなく、あくまで質素な店だ。店内は、だし汁とうどんを茹でる湯気の香りが立ち込めている。老夫婦とその娘みたいな中年女性の三人だけでやっている。爺さんと婆さんは、口を一文字に結んで無愛想にカウンターの奥で仕事し、娘みたいな女性は、馴染みの客と大きな声で喋りながら、空の器を片付けたり、レジを打ったりしている。見れば、うどん屋に置いておくには、ちょっともったいないような美人だ。そのハスキーボイスも耳に心地よい。途端に、しばらくこのうどん屋で働きながら暮らしたらどんなものだろうか、などと考えるが、その発想がどこから来るのか自分でもよく分からない。
雑念を振り払い、うどんは「ぶっかけ」の小に決める。360円である。様々な天ぷら類がバットに入って並んでいるが、これは三つで100円だ。ソーセージとイカとシメジとナスの天ぷらを取り、これで510円であった。

たくさんの天ぷらを揚げるのは重労働だろう
ハスキーボイスのうどん美人は、馴染みの夫婦客と大きな声で話をしている。週末に飲みに行ったが、日本酒から焼酎にスイッチしたら二日酔いしなくなったとか、たわいもない話だ。讃岐弁なのだろうが、彼女の方言は実に心地良い。うどんをすすりながら、その会話を聞くともなしに聞いていたが、こういう話にカントリーかブルースのメロディーをつければ、それなりの曲になってしまう感じだ。
うどん屋を出てしばらく走ると、すぐに徳島県鳴門市の境を越えた。その先で11号から大鳴門橋に至る鳴門スカイラインに折れると看板があり、ここらに第一次大戦中にドイツ人の捕虜が収容されていた収容所があったと書いてある。道脇の海岸は、そのドイツ兵たちが遊びにきた海岸とのことだ。僕は、お腹に入れたうどんが重たいので、その海岸で一休みすることにした。
ところがそこは、ひどくゴミだらけの汚い海岸だった。魚網か何かをしまっておく倉庫があり、その周りの汚れた水溜りが生臭い。その傍には税金で建てた思しき真新しい東屋があって、そこの看板にも、ドイツ捕虜たちがこの海岸で遊んでいる様子が描いてある。ふんどし姿のドイツ兵たちのイラストがあり、彼らは、この浜で村人たちと相撲をとったり、魚釣りをしたと説明にある。それが縁で、鳴門市とドイツの間には今でも友好関係があると言う。そんな大切な場所ならば、もう少しきれいにすれば良いだろうに。これではドイツ兵の霊も浮かばれない。

だから、ゴミでアートを作る人もいる
いささか薄汚い場所だが、お腹が重たくて、そのせいでまぶたも重たくて仕方がないので、ベンチに腰掛けた。ゴミくさい潮風にうたれながまぶたを閉じたら、そのまま熟睡してしまった。夢には、ふんどし姿のドイツ兵たちが出てきて、浜で戯れていた。
鳴門スカイライン、鳴門の渦潮と大鳴門橋
午睡をして元気を取り戻した僕は、鳴門スカイラインにとりついた。「スカイライン」と言うだけに景色は良かった。片側は瀬戸内海が太平洋に注ぐ鳴門海峡を望み、反対側は小舟をたくさん浮かべた鏡島を見下ろす山上の道である。しかし、その登りは険しく、最後は10%の急勾配に汗みどろになり、息も絶え絶えで頂上の展望台に到着した。
景色は素晴らしかったが、感想を言うならば、「スカイライン」と言う名称の道路は、サイクリストにとっては鬼門である。この類の道路は自動車やオートバイですっ飛ばすには良いが、自転車や歩行者が人力で通行することは全く考えられていない。
淡路島方面を望む


鳴門スカイラインの終点まで走ると、そこは大鳴門橋を見下ろす展望台だった。有名な鳴門の渦潮もここから見える。だから観光バスがたくさん止まっていて、人が仰山いるのだった。僕はそこで10分だけ立ち止まり、遠くの渦潮を眺めると、すぐに山を降りた。渦潮は、間近で見れば迫力があるのだろうが、山上から見ると、ただの波だっている海面だ。大鳴門橋も立派な橋であるが、たくさんの自動車が唸りを上げて走っているだけである。
鳴門でボンカレーの大看板を見上げ、餃子の王将を食べて昭和にタイムスリップ
展望台の山をものの3分で駆け降り、寂しい海岸をしばらく走ると、そこは埃っぽい鳴門市街だった。この町は大塚製薬の町だそうで、道理で工場や倉庫が多く、トラックがいっぱい走っている。倉庫の壁面は、ボンカレー、ポカリスエット、オロナミンC、カロリーメイトなどの大看板だ。なぜ製薬会社がカレーを作っているのか不思議に思ったが、それは大塚食品という小会社の製品なのだそうだ。あの銀色のレトルトのパウチは、なるほど製薬会社が考えつきそうな容れ物だ。
僕にとってボンカレーは、もはや食べることのない絶滅食品だが、中高時代、そして大学のワンゲル時代には山で時々食べた。ボンカレーのせいなのか、あるいはカップヌードルかもしれないが、僕の時間感覚の中で「何かを待つ」行為のデフォルトは三分間である。

ボンカレーの女優さんは、なぜ和服なのか?
オロナミンCはけっこう好きだった。子ども時代、まず滅多に飲ましてもらえず、こっそり隠れて飲むその味は麻薬的だった。あれをコップに入れて飲むと薬品めいた黄色が気持ち悪いが、茶色の小瓶に入っている限り美味しい飲み物である。大村崑の出てくる傑作C Mも良かった。若い頃、輪友T村とサイクリングに行って峠越えなどで疲労困憊した際に飲むと、魔法のように元気が出たから不思議だ。ヒロポンなど、昔の麻薬の経験がある人が開発したのかもしれない。今は、同じ大塚製薬でもポカリスエットの方が健康的で美味しいと思うが、オロナミンCが廃れないのは、あの薬品ぽさ、不気味さ故であることは間違いない。(ただ、あれに卵や牛乳を入れて飲むのは気持ち悪すぎる。それに子どもが飲むには、カフェインや糖分が多すぎるに違いない)。
とにかく、懐かしかったので、その感動を共有するために、ボンカレーとオロナミンCの看板を撮影し、その場でT村に送った。
その晩は、鳴門のビジネスホテルに滞在した。鳴門駅前にはこれと言った食べ物屋が見当たらなくて、一番近くの「餃子の王将」で食べた。疲れていたので異存はない。これだって懐かしい味だ。大学時代によく江古田駅前の汚い店で食べたが、一体あの餃子の中身の具は何だったのだろう?昔も今も謎だ。鳴門の餃子の味は、昔のよりは飛躍的に向上した気がした。店員も、ひたむきに仕事をしている中国の女性であったから、より美味しく感じたのかもしれない。
大塚製薬といい、餃子の王将といい、昭和にタイムスリップした心持ちがした。「あの頃」は一体どこへいったのだろう?
これで僕の四国一周の旅はほぼ終了だ。明日と明後日は、何かあったときの予備日であるが、せっかくだから吉野川を遡ってもうひとっ走りするつもりだ。
(最終回に続く)