2020年01月03日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第7話  

9日目 高松から小豆島に渡り、時計回りに一周。アナゴ丼を食べ、ヤマンバの宿に泊まったこと、
10日目 放哉の南郷庵を詣でてから、高松に戻ったことなど。


「すべての旅には、旅人自身ですら気がついてない秘密の行先がある」 
マルチン・ブーバー(イスラエル、宗教家)


IMG_2434.jpeg

九日目 高松から小豆島へフェリーで渡る

今日は小豆島を一周する予定だ。小豆島と言っても一周すれば最低でも80キロ、丹念に回ればもっと長くなる。

朝7時高松発、小豆島の土庄行きのフェリーに乗る。早朝なのにほぼ満席、みんな瀬戸内トリエンナーレという美術展に行く人たちのようだ。この美術展は、瀬戸内の直島、犬島、女島、男島、豊島などを会場に、世界有数の現代美術家の作品を展示している。数年前見にいったが、素晴らしく見応えがあった。うちの女房は美術家なので、彼女とまた一緒に来たら楽しいだろうが、そうなるとゆっくりサイクリングどころではなくなるかもしれない。

これまで走ってきた田舎では老人が多かったが、美術展に行く人は若い人が多い。当然都会的な雰囲気になって華やかだ。心なしか、フェリーも元気に真っ直ぐ小豆島に進んでいる。向かいの席にはドイツ人らしい夫婦が座っており、向こうには折り畳み自転車を持った台湾人らしいグループがワイワイ楽しそうある。きれいに着飾った可愛い女の子二人は韓国から来ているみたいだ。小豆島へ向かうフェリーはたくさんの喜びを乗せて瀬戸内を走っている。

フェリーの中で、コンビニのサンドイッチで朝ごはんにする。見れば船中にもうどん屋があり、レースのスカートをまとった美術展行きのギャルが立食いをしている。うどんの汁の匂いが立ち込める室内を抜け出し、デッキに立つ。行く手には大きな島が見え、高くそびえた寒霞渓があるから小豆島とわかる。

なぜ四国旅行に小豆島を含めたか、その理由を書こう。小豆島は最初の計画には入っていなかったが、吉村昭の小説『海も暮れきる』を読んで断然行きたくなった。この本は、俳人の尾崎放哉(1885−1926)が小豆島で過ごした最後の2年間について詳述したものだ。放哉は、種田山頭火(1882−1940)とほぼ同時代に生きて、五七五に囚われない自由律俳句の秀作を多数残した。放哉は、これまた山頭火と同様、仕事や家族を捨てて放浪し、最後は小豆島で病没している。人生最後の1、2年に集中して優れた俳句をたくさん書いたことでは、正岡子規にも似ている。放哉は、小豆島の土庄町の西光寺にある、南郷庵という小屋を終の住処としたが、ここに住んだのは、海が見えて、酒が飲めて、何より静かに俳句が書けるからだった。だから放哉の句の背景には小豆島の海がある。僕は、その海がどんな海なのか、ぜひ見てみたくなった。


小豆島で放哉が書いた句をいくつか:


いつも寂しい村が見える入江の向ふ

庭をはいてしまってから海をみている

足の裏洗へば白くなる

海が少し見へる小さい窓一つもちたる

いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞

自分をなくしてしまって探している

縁の下から猫が入って来た夜

ごそごそ寝床の穴に入っておしまひ


小豆島を一周する

どんな島でも一周するのは楽しい。時計回りなら、海を左側に見て走っていくと、元いた場所に戻ってくる。何だか狐に化かされたようだ。「行って戻ってくる」というのは一つの物語形式であるが、そんな絵本に『パナマってすてきだな』(ヤーノシュ作と絵、矢川澄子訳、あかね書房)という作品がある。これは、仲良しのトラとクマが、「楽園の国パナマ」を探しに行く物語だ。二人は、そこらを一周して元の家に帰ってきて、そこが結局楽園パナマであったことを発見する。「旅」の定義は色々あるだろうが、行って帰ってきてこそが旅なのかもしれない。だったら放哉や山頭火のように、放浪した挙句、最後に異国で野垂れ死にするのは、果たして旅なのだろうか。でも、死がどこかへ戻っていくことならば、それも旅なのかもしれない。

IMG_2458.jpeg

万国旗のような人々をのせたフェリーは、土庄に朝8時過ぎに到着した。ここでフェリーを乗り換える人たちは下船する。たくさんの人が次のフェリー乗り場まであたふた走って移動しているが、どうしてあんなに急ぐ必要があるのだろうか? 

まず、今日泊まるMという民宿に荷物を預けに行く。Mは土庄港からすぐだった。ガタガタした扉を開けると、200歳くらいの、前歯がすっかり抜け落ちた婆さんが奥から出てきた。ヤマンバだ!と、僕は声をあげそうになった。「予約した渡辺です。今夜泊まるのですが、とりあえず荷物だけ置かせてください」と言うと、「ヒャア、二階に部屋を用意ひてあるからヒャア、ひょこに置いておけばいいヒャア」と言う。「ヒャア」と言うのは、歯ぐきから空気が抜ける音だ。婆さんは急な階段を登って二階に案内してくれたが、階段を上がるのもやっとのようだ。僕は、転がり落ちてきたら抱き抱えるつもりで後から両腕を広げて登ったが、幸い、その必要は生じなかった。

荷物を部屋に放り込んで身軽になった。尾崎放哉の西光寺はこの土庄にあるが、見学するにはまだ時間が早過ぎるので、まずは島を一周することに。

土庄の町は迷路のようで、びっしりと古い家が立ち並び、その軒先をかすめるようにくねくねと道が走る。背のびしたような路地の間から、背後の山を見上げながらゆっくり走っていくと、運河があって町を二分している。運河を渡り1、2キロも行くともう町は終わりで、あとは、ひなびた海岸が続いている。島の南側、つまり香川県側は開けていて町がいくつかあるが、北側の本州側は寂れた村落がいくつかあるだけだ。

まずはその寂れた側を走っていく。車も滅多に来なくて、誰も歩いていない。海の向こうには島がいくつも見える。瀬戸内は静かだが、狭い海峡だから早くて複雑な海流が流れているはずだ。もちろん、地上から見ても分からない。

緩やかに登ったり下りたりする海沿いの道を走っていく。見れば道端にピラミッドがある。もしかしたら例の美術展の作品だろうかと思って近づけば、墓石を積み上げたものだった。足元の一列は古い地蔵である。後で調べたら「無縁さん」と呼ばれるもので、役目の終わった墓石を積み上げたものらしい。縁がなくなった墓石であるから無縁さんと呼ぶのだそうだ。古い墓は面倒を見る人がいなくなると始末に困る。我が家でも、父方の先祖の墓をそろそろ始末しないといけない時期に来ていて、親類が集うとその話になる。でも、墓をしまうにも手間や金がかかるからなかなか話が進まない。そういう墓が全国にどれだけあるだろう。小豆島ではこうやって古い墓を積み上げても、せいぜい5メートくらいだが、都会でこれをやったら相当な高さになるだろう。地震の時には危険極まりない。海に沈めて魚礁にでもしたら良いが、墓石が沈んでいる海も不気味だろう。

IMG_2465.jpeg

その先の集落には、小さな道の駅があった。ここで地みかんを買って食べていたら、反対側からサイクリング旅行のおじさんが来た。みかんを2、3個お裾分けして、しばし話をする。

「小豆島の一周は、それほどきつくなさそうですね」と、僕。
「いや、この先の福田港は、入るにも出るにも、結構な登りがあるから注意が必要だよ」と、おじさん。

この人は関西のどこかから来たらしく、小豆島も初めてではないらしい。見れば、イタリア製の値の張る自転車に乗っている。その癖、宿代がもったいないから今日は野宿だと言う。何だか矛盾しているが、考えてみれば、自転車なんて自動車ほど値が張るわけではないから、いくら高級車に乗っていても金持ちとは限らない。

みかんを食べながら、そう考えてちょっと安心した。実際その人は、僕のあまり高級でもない自転車に感心し、「これは珍しい自転車だから、写真を撮らせてください」と言ってパチパチ写していった。僕は、ザマアミロと誇らしい気持ちになった。出来の良くない息子が褒められたような気分だ。褒めてくれたお返しに、「僕も写真を撮らせてください」と言って、高級自転車の写真を写させてもらったが、それは単なる義務感からであった。自分で言っておいて気分が良くなかったから、そういうお愛想は言わないことに越したことはない。

みかんを食べると「大阪のカエルと京都のカエル」みたいに、僕とサイクリングおじさんは右左に別れた。しばらく走ると福田港だった。福田港に入る前には、確かに長い下り坂があった。ここは、小さいながらもフェリーが出入りする港だから店や食堂が少しある。ちょっと早いが、昼飯を食べようと港の食堂をのぞいた。すると、すでにロードバイクの若者十名ほどが占領していて、「腹減ったなあ、早くアナゴ丼を食いたいなあ」と、アホ面をして座っている。それを聞いて、僕もそのアナゴ丼を食べたくなったが、小さな店だから、この集団の後となると、かなり待たされる。どうしようか?

すると今度は、大きなピカピカの岡山ナンバーの黒塗りワゴンがやってきて、中から、人相も服装も非常に良くない親父たちが七名降りてきた。この親父たちも店をのぞいたが、ほぼ満席で座る場所はない。この男たちがどれくらい人相が悪いかと言うと、ビートたけしの『アウトレイジ』と言うヤクザ映画に登場する男たちを想像してもらえばぴったりだ。この親父たちは、「おっ、山ちゃん、ビールも冷えてるぜ、ビール、ビール!ビールでアナゴ丼!」とか騒いでいる。やばい状況になってきた。

そこで僕はハンカチ落としの要領で、ひとつ空いていた席に電光石火の如く座った。そして間髪を入れず、「アナゴ丼ひとつね!」と注文した。

IMG_2481.jpeg

ヤクザ的七人は、粘り強く諦めず、店の外のベンチで待つことにしたようだった。僕のアナゴ丼は案外すぐにやってきた。それはおいしいアナゴ丼だった。穴子は柔らかくさっぱりした味で、ご飯もすまし汁もおいしい。親父たちは、店の外でよだれを垂らさんばかりにして人々がアナゴを咀嚼している姿を見ている。僕は、親父たちからもっとよく見えるように座り直すと、ことさらゆっくり美味しそうに食べた。食べ終わってもそうすぐに席を立たず、悠々と爪楊枝を使い、お茶を飲んだ。そして勘定をすますと、さっさと自転車にまたがって福田港を後にした。

福田港を出ると、登り坂だった。それは確かに急な登りだった。それでもサイクリングおじさんが言うほどではなかった。サイクリングおじさんは高級自転車に乗っていたくせに、案外見かけ倒しだったのかもしれない。登り坂がどれくらい大変かは、主観によるところも大きい。傾斜はパーセントで測れる。例えば8%の登りは結構きつい。しかし、それだって一つの目安にすぎない。その時僕のお腹にはアナゴ丼が入っていたから、それが燃料になって急坂をスイスイ登れたのだろう。


IMG_2476.jpeg
美しい廃屋

とか考えながら走っていると、いつの間にか小豆島の賑やかな側に到達していた。とたんに自動車が多くなってきたから、そう分かった。小豆島なんて小さな島だと思って見下していると大間違いで、ここには実に色々なものがある。その証拠に、しばらく行くと「オリーブの丘」と言う観光地があった。その時は、ちょうど目の前を仮面ライダーみたいな(悪く言えばゴキブリみたいな)黒いウェアに身を包んだ親父が、これまたイタリア製高級ロードバイクに乗って走っていた。僕は、捕まえてとっちめてやろうと意識していたわけではないが、正直に言えば、いささかしゃくな気分で、こいつを追いかけていた。だから普段ならばこう言う観光地は素通りするのだが、ゴキブリ親父にくっついて、自然とオリーブの丘に来しまったわけだ。でも、ちょうど午後3時くらいのコーヒータイムだったから、結果論的にはそれで良かったのだ。

オリーブの丘には、オリーブの木がたくさん植っている。オリーブの木なんて、僕が住んでいるメルボルンには、ギリシャ人がたくさんいるから珍しくもないが、香川県民やその他の民衆には目新しいのだろう。オリーブの丘には、どう言うわけかオランダ風車なども建てられている。その上『魔女の宅急便』にも何か関連があるようで、この物語の主人公の魔女の子が乗っているホウキをタダで貸してくれるようになっている。ここに集まっている人たちは、そのホウキに乗ってセルフィーを撮ろうと辛抱強く列をなしている。

IMG_2508.jpeg
ホウキに乗って飛ぶ人たちを眺める

僕は、そのような幼児的退行現象を眺めつつも、おおらかな気分でソフトクリームをなめた。それだけでは足りず、抹茶コーヒーなるケッタイなものまで飲んでしまった。真面目に80キロばかり走り、疲れて喉も乾いて、甘いものとカフェインを欲していたからだろう。そしたら気持ち良くなってベンチで30分ほど眠ってしまった。目を覚ますと僕はすっかり元気になっており、ゴキブリ親父もいなくなっていたので、土庄の宿まで最後のひとっ走りすることにした。

そこから宿まではたった30分ほどだった。これで小豆島一周は完結だ。走った距離は80キロだった。もう夕方だし、民宿の部屋でくつろいでいたら、ヤマンバがやって来てた。「今日はお客ヒャンが多いからヒャン、4畳半の小部屋へ移ってくれヒャア」と言う。

「え、今から?面倒だなあ」とか言いつつも、ついお人好しの顔をしてしまい、荷物を抱えてトイレ横の四畳半に移った。移ってから、トイレの横とは失敗だったと後悔した。仕方なくお茶を飲んでいたら、またヤマンバがやって来た。「狭い部屋に移ってもらって悪いからヒャア、これだけおまけしとくヒャン」と言って500円玉をくれた。3000円の宿代が2500円になった。本当は、性根の良いヤマンバなのかもしれない。しかし、油断させておいて、後でとって喰う算段かもしれない。C I Aとか陸軍中野学校がよくとる戦略である。

さて、そろそろお風呂に入りたかったが、「お風呂は、まだ入れてないヒャア」とヤマンバ。やはり一泊2500円の宿だ。そこで近くの高級ホテルの大浴場に行くことにした。昔話では、風呂から出てくると、ヤマンバが待ち構えていて、包丁で輪切りにされて食べられてしまうのだから、用心に越したことはない。

高級な大浴場にゆったりつかった後、カルピスを飲みながら港で涼んだ。見れば、港にもオリーブの木が植っている。もうすぐ暮れていく空を背景に、木に梯子をかけて実を収穫しているおじさんがいた。

「うちにも小さなオリーブの木があるんだけど、どうやったらそんなに実がなるのかな?」と、僕。
「雄の木と雌の木を植えてやるんだよ。そうすれば実がなるさ」と、おじさん。
「これだけ木があったら収穫も大変ですね」と、僕。
「今日はここにある数本をやったから、もうおしまいね」と、おじさん。

一句浮かぶ:

オリーブの 枝に輝く 星の粒

宿では、買ってきたコンビニ弁当を食べ、ヤマンバよけにガッチリ鍵をかけてから早くに寝た。

IMG_2583.jpeg


10日目 尾崎放哉の庵を詣でて、また高松へ

朝8時に民宿Mを出る。阿波池田の3700円の駅前旅館では、ショートヘアの可愛らしい女将に心がときめいた。小豆島の2500円の宿にはヤマンバがいて、何度も部屋にやってきた。1200円の差額で、この違いとは驚きだ。出がけにヤマンバが見送ってくれたが、一緒について来たら大変だから、さっさと飛び出した。

まだ朝は早い。とりあえず、土庄の近くの弁天島に行く。この小さな島は、エンジェルロードと名付けられた砂州で小豆島とつながっている。この砂州を恋人と渡ると、二人は永遠の愛で結ばれるのだそうだ。だから縁結びの妖精にちなみ、この砂州をエンジェルロードと名付けたと、そんなことらしい。

IMG_2555.jpeg
弁天島とエンジェルロード

IMG_2559.jpeg
赤いマジックで永遠の愛が記されている

エンジェルロードの砂州を渡ってみると、手をつないで歩いているカップルもいる。老人も多い。すると僕の脳裏には、なぜか民宿のヤマンバが想い浮かんだ。もし彼女が追いかけてきて、僕の手を取ってエンジェルロードを渡ってしまったら、永遠の愛をヤマンバに誓う羽目になる。まるでホラー映画だ。僕には、こうなったら困るということを、つい想像してしまう癖がある。強迫性障害か? そういう人の中には、強迫観念を振り払うために異常な行動をする人があるらしい。例えば、過度の手洗いなどである。幸い、僕にはそういう癖はない。でも、念のため、トイレで丁寧に手を洗った。もう大丈夫、ヤマンバは追ってこないだろう。僕はそう確信してトイレを出で、弁天島を後にした。

そこから、名前は知らないが、弁天島の先から小さな半島がコブのように飛び出ているので、そこを一周した。12、3キロだったろうか、海辺をすっ飛ばした。瀬戸内のこのあたりは高波も来ないのか、海辺ギリギリまで家が建っている。こういう家の縁側で寝っ転がったら、頭の高さに海が見えるのだろう。そんな家に一度でいいから住んでみたい。


IMG_2519.jpeg
尾崎放哉の墓

IMG_2526.jpeg
放哉が晩年を過ごした南郷庵

お昼前土庄に戻る。西光寺の南郷庵を詣でた。海辺の明るさに比べると、ここは何と寂しい場所だろう。町外れの、すり鉢のように窪んだ土地にびっしりと墓が並んでいる。「放哉さんのお墓→」という看板があったので、辿っていくと、墓地の上の方にその墓があった。 墓の前に立ち、どこかユーモラスな、それでいて寂しげな俳句を放哉がここで書いている姿を想像しようとした。この場所は、僕が想像していた通りとも言えるし、全然違っていたとも言える。放哉がここにいた90年前は、もっと寂しい場所であったに違いない。南郷庵は思ったよりも立派な建物だった。中は記念館になっていて、資料が展示してある。放哉直筆の手紙や俳句、知己や友人からの手紙や関連書籍などがびっしりと置いてある。一つ一つ手にとって読んでみたい気持ちにも駆られたが、なぜか、そうすることがためらわれた。むしろ、そんなことはせずに、南郷庵の寂しい印象を抱いたまま、この場を立ち去るべき心境だった。まるで、放哉さんに、そうしなさいと言われたような心持ちだ。帰ったらもう一度、南郷庵と小豆島の印象が風化しないうちに、また放哉の句を読んでみよう。

その後、僕は高松までフェリーで戻った。その日の残りは休息にして高松見物と洒落込み、菊池寛記念館、香川県立美術館をゆっくり覗いた。

さあ、旅もいよいよ終盤である。明日は高松から徳島の鳴門まで戻る。そして、締めくくりに吉野川を遡って走り、それでこの旅も終わりだ。

IMG_2551.jpeg

(続く)

放哉の俳句は以下から引用: 
『尾崎放哉全句集』村上譲著、ちくま文庫
『尾崎放哉句集』池内紀編、岩波文庫



















posted by てったくん at 14:30| 日記