2019年11月27日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

「その先に何があるか知りたくて、私はずっとペダルをこいできた」
(ハインツ・シュトケ、50年間世界を自転車で旅し続けたドイツ人旅行家)


第3話  三日目、室戸岬から高知まで

私とT村は、昨日は徳島から牟岐まで列車移動し、その後60キロをサイクリングしたわけだが、T村は60キロを難なく走れたことで、大分気を良くしたらしい。何せ、昨年35年振りに自転車を新調して以来、走った最大距離が25キロだったから、彼にとって60キロは大躍進であろう。

しかし、問題はむしろ今日だ。今日の走行は、室戸岬から高知までの90キロ。90キロというのは、なめてはかかれない距離である。J Rに乗ったら1680円も取られる。歩いたら二日かかる。25キロから60キロは大きな躍進だが、60キロから90キロは、更なるジャンプである。さて、丁と出るか、半と出るかだ。

90キロ先の高知では、我々の恩師で79歳のT屋先生と待ち合わせしている。T屋先生は、空路で羽田から高知入りし、夕方にはホテルには入っている手筈だ。到着が遅くなって先生をあまりお待たせしてはいけない。なぜなら老人は、ちょっと遅くなっただけであれこれ心配するし、その心労で具合が悪くなったりするからだ。そうなっては一大事だ。

だから賢い私は、高知の少し手前、高知龍馬空港近くの南国市を今日の到達地にした。そうすれば走行距離は82キロに減る。T屋先生にしても、空港から近いホテルの方が便利であろう。それに南国市から高知まではたった8キロだから、翌日高知の自転車巡りをするにもそう遠いわけではない。


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室戸岬の朝日

80キロ以上の道のりを控えて、T村と私は朝6時に起床した。そして、室戸岬の突端まで歩いて朝日を拝んだ。これは我々の意気込みが非常に強かったことの証である。それがとても素晴らしい朝日であったらもっと良かったのだが、ちょうど朝日が上がってくる場所に雲がかかっていて、かなり劇的さ加減に欠ける朝日であった。旅に何ら影響が出るわけではないから、それはそれで良し。

旅館の前で記念写真を撮ってから出発する。T村は、昨日の60キロ走行の疲れも見せず、池に放った金魚のようにスイスイと走っていく。室戸岬の東側は荒涼とした断崖であったが、西の高知側は明るく平らな道である。青春を謳歌したくなるような道だが、50代後半の我々は何を謳歌すればいいのか?長寿? T村は時々携帯電話を取り出して、走りながらセルフィー撮りなどをしているが、この男は間違いなく、今を楽しんでいると言えよう。


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自撮りしながら走るT村


吉良川でコーヒーをご馳走になる

しばらく行くと、吉良川と言う宿場町に差しかかる。国道は車の往来が多いので、旧道を見つけると我々はすかさずそちらにハンドルを切る。吉良川は古い街並みを道沿いに保存してあり、軒の低い木造建築が並び、海岸から拾ってきた石を積み上げた塀が連なる、趣のある街並みだ。そこらの有名な観光地のように、これ見よがしな感じではなく、自然に歳を経て古くなったままをそのまま保存してある。歳をとっても、魅力がますまずにじみ出てくる人がたまにいるが、そういう人物のような町である。

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吉良川の街並み

建築に関心のあるT村は、興奮気味にその街並みを撮影しながら進む。僕は、そろそろモーニングコーヒーを飲みたくなったので喫茶店を探すが、まだ10時前でどこも開いてない。僕が「コーヒー飲みたいなあ」とぼやきながら、1キロばかりの古い街並みを行ったり来たりしていると、T村が向こうから、「おーい、コーヒー飲めるよー!」と手を振っている。そこは古い旅館のような建物だった。入り口に「いこいの家」と看板がある。

そこは旅館でも喫茶店でもなく、公民館のように使われている旧家の建物だった。中は広い座敷で、奥が縁側、その向こうは手入れの良い中庭である。T村はさっさと靴をぬいで座敷に上がり、そこにいた品の良い年配の男性と女性と喋っている。


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いこいの家にて

「この女性はね、吉良川で二番目に美人の女性ですよ。一番美人の女性はこれから現れます!」と、その男性は言った。二番目に美人と言われた女性は、「あらー、うふふ、嫌だわー。でも、私が二番目なのは本当ですよ」と、まんざらでもなさそうに笑いながら、コーヒーを入れてくれた。すると、5分もしないうちに「一番美しい女性」、ミス吉良川が登場した。僕は幾らかの期待をして待っていたことをここに素直に記す。現れた女性は、確かに30年前は吉良川で一番だったかもしれないという感じであった。人生には、あまり期待しすぎない方が落胆が少なくて良い場合が時たまあるが、まさにこの時がそうであった。

とは言え、僕たちは吉良川のナンバーワンとナンバーツーにかしずかれて、淹れたてのコーヒーをご馳走になったので、朝から運が良かったと言わなくてはいけない。しかもコーヒーは無料だと言う。でも、そこまで幸運にあぐらをかくと、この先悪いことが起きそうなので、この建物の保存のために500円の寄進をしてからここを出た。ところがナンバーツーが駆け出してきて、「これじゃあ多すぎますよ」と、300円のお釣りをくれたので、結局コーヒーは一杯100円と言うことになった。だから、全くの無料ではなくなったが、地元の民と交流ができたことは、私たちのサイクリングも、旅の本質に迫ってきていると言えるだろう。


岩崎弥太郎生家を訪れ、ジャコ揚げ丼を食べたこと

さて、こう寄り道ばかりしていたらなかなか高知につかないので、海岸沿いを飛ばす。しばらく行くと安芸市であった。ここは、三菱グループ創始者の岩崎弥太郎の生家がある町だ。ここには、何かの作物のビニールハウスがたくさん並び、どこまでも農地が広がり、眼前には海を抱き、奥には山を抱いている美しい山里だ。

「岩崎弥太郎さんに会いにいきましょう!」と、歴史学科卒業のT村が言うので、またもや寄り道になる。こういうのを「鶴の一声」と言うのかも知れないが、思い起こせば、T村は昔から鶴の一声が得意な男であった。昔、北海道一周した時は、クッチャロ湖かどこかで、「焼きホタテ」という看板にT村がつられて寄り道することになったが、その時は遠回りはするは、にわか雨には降られるは、一本道をまた何キロも戻るはで、えらい目にあった。

だから、T村の鶴の一声には用心しなければいけないのだが、この寄り道は、全てが順調にいった模範的な寄り道であった。それと言うのも、今や彼はiPadやグーグルマップで武装しており、走りながらも大統領専用機エアフォースワン並に情報収集を行っているから、寄り道にも間違いが少なくなってきているのだ。

美しい農村地帯を2、3キロばかり山間に向かって走ったが、そこは畑の中でありながら、舗装も良い真っ直ぐな道だった。傍を豊かな川も流れている。車も少なく、我々サイクリストにとっては天国のようだった。その奥の、さらに奥に、岩崎弥太郎さんの家があった。弥太郎さんは、とっくの昔に亡くなっているので、お会いすることはできなかったが、銅像が立っていた。生家は藁葺き屋根の割に小さな家だが、敷地には立派な土蔵があった。今はどんなに金持ちでも、例えば孫正義のような人でも流石に土蔵は建てないだろうが、昔の金持ちにはやはり土蔵が必要だったことがわかる。弥太郎さんの土蔵には、当然ながら三菱の家紋がついている。U F J東京三菱銀行も昔はこんなだったかのかと、僕は感慨にふけった。横でT村が、「日本の歴史の中でも、幕末はいろいろな人物や事件が交錯していて、調べれば調べるほど面白いんだよ。岩崎弥太郎もね、龍馬や勝海舟ほどは知られてないけど、実は明治維新の際には財政面で土佐藩と龍馬を助けて、実業家として維新を推し進めた重要な仕掛け人であるんだなあ」と、嬉しそうに話す。もしかしたら、これも走りながらiPadで仕入れた知識かも知れない。

岩崎弥太郎さんの家の前には、小さなカフェがあった。そこには、原宿のカフェにいるような、おしゃれな女性が店番をしていた。営業マンのT村は誰にでも愛想よく話しかけるが、特に、これはという女性には必ず声をかける。その女性にも、「ここはさー、岩崎弥太郎さんの家なわけよねー。立派なもんですなあ。やっぱ三菱銀行の人なんかも来るわけ? へー、来るんだ? だって、創始者だもんねー。すごいよねー」とか、調子良く連発している。カフェの女性によれば、三菱銀行の人は確かに時々くるし、三菱と大きな取引をする会社の人なんかもやってくるらしい。だが、三菱社員は必ずここに詣でなければいけないという社則はないはずだと言う。でも、そんなことを知っているなら、この女性も三菱の社員かも知れない。訳あってこんな土佐の田舎にいるが、本当は、青学の経営学科なんか出ているのだろう。どおりでおしゃれなはずだ。だとしたら、このカフェだって密かに三菱系のアンテナショップという可能性だってある。いや、そうに違いない。

T村はこのカフェで、「茄子プリン」という珍妙なものを食べていた。何でも、地元の農業高校の生徒が考案したものらしい。そう言えば、畑にずらっと並んでいるビニールハウスは茄子栽培のためであった。あれだけの茄子は、プリンにでも何にでもして売りつくさなければならないだろう(その農学校だって、茄子畑だって、三菱系列かもよ)。

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岩崎弥太郎生家

さて、もう昼である。我々はここで、さっきの吉良川ナンバーツーと、ナンバーワンが推奨してくれた「ジャコかき揚げ丼」を食べに行くことにした。畑の中の道を若干迷ったが、そこではまたもやT村のiPadが活躍し、たちどころにその食堂を探し当てた。「ジャコかき揚げ丼」は、ナンバーワンとツーが推奨しただけあり、サクサクしていて非常に美味であった。これを食べにまた高知に戻ってきても良いくらいだ。こういう素晴らしい味に出会うためには、インターネットやガイドブックに頼るのでなく、地元の人に口づてに教えてもらうに限る。食後に食べた「柚子ソフトクリーム」も美味だった。僕は以前からソフトクリームという食べ物は、馬鹿が食うものだと思っているのだが、これは例外だ。

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美味ジャコかき揚げ丼

どんどん高知に近づき、南国市のホテルでT屋先生に邂逅したこと

さて、我々は海岸の道をさらにひた走り、みるみるうちに高知に近づいた。穴内という場所からは海岸沿いに自転車道もあり、我々は50代後半の普通のおっさんとしては考えられないペースで快進撃を続けたのである。

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海岸沿いをラーレー号で快走するT村

しかし、高知の市街地まで通じているバイパスに入った途端にガタっとペースは落ちた。市街地は走っていても面白味に欠ける上に車も多い。車道を走ったり歩道に上がったりしてペースがつかみにくい。歩道に乗り上げるときは段差があるので、その度にボコンと衝撃もあり、お尻も痛くなってくる。とかく東京の人間は、四国など、ど田舎だと思って馬鹿にしているのだろうが、どうしてどうして、こういう地方都市は車社会だから、東京の青山とか渋谷並にたくさん自動車が走っている。しかも土佐だけあってみんな気性が荒っぽいから、そこを自転車で縫うように走るには十分な安全確認が必要なのだ。

そうしているうちに、ようやく目指すホテルが見えてきた。そこまで走った距離は82キロ、やはり二人ともそれなりに疲れている。T村も、35年ぶりに80キロという長大な距離を走りぬいた喜びにひたりつつも、完走できた安堵感にいくらか虚脱している感じがぬぐえなかった。

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穴内付近の海岸から室戸岬を望む

多少へたりこみつつも、T村はフロントで「T屋っていう人は、もうチェックインしてますかね?」と尋ねることは忘れなかった。
「はい、もうおいでになっています。X X X号室ですよ」とフロントの男性が教えてくれた。我々は自転車を片付けて荷物を部屋に置くと、さっそくT屋先生の部屋に挨拶に行った。

「おー、おめえら無事についただか?ずいぶん早かったじゃん」と、T屋先生は軽やかに登場した。先生は、東京から飛んできたものの、まだ自転車には乗ってないから全然疲れていない様子だった。それにしても、懐かしい先生に、しかも四国の高知で会えるとは格別な気分であった。


45年前のT屋先生と僕たち

その晩は、ホテル近くの土佐料理を食べさせる居酒屋に繰り出し、昔話に花を咲かせた。T屋先生と僕たちの間で一番思い出深いことは、僕らが中学一年生の夏休みの出来事だ。

僕とT村の通った中学は、静岡の沼津にあるKという中学校だ。僕たちはその学校の寮に入っていた。どうして僕とT村が、沼津の学校なんかに通っていたかの理由は省く。中学で寮に入るのもずいぶん怪しい感じがするだろうが、別に怪しいことは何もないことを名誉のために断っておく。

T屋先生は僕らの担任だった。僕とT村は、当時からサイクリングに狂っていて、中学最初の夏休み、他の寮生はみな両親の運転する自動車か電車で帰省したのだが、我々二人だけ自転車で帰省することにしたのだ。

それに関して、両親や他の教員からは、東京まで中学生が国道1号を走って帰るなど危険極まりないという声も上がったが、担任のT屋先生は、「いいじゃんか、やってみたら良いっけよ」と、許可してくださった。我々はその言葉に勇気百倍を得て、周到にその準備をし、沼津警察などの関係機関にもおもむいて道路事情を細かく調査した上で、完璧な計画書を書いた。

そして夏休み初日、僕とT村は沼津を出発した。僕の実家は東京の多摩市、T村の家は川崎市だった。どちらも沼津から130キロは離れている。中学一年生が一日に走る距離としては相当長い。僕たちもそんな遠くまで自転車で走るのは初めてだった。

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永遠の中学生、私とT村

T屋先生は、もちろん担任として我々の行動をモニターしておられた。そればかりか、我々の後をこっそり自動車で追いかけたのである。それは、我々の預かり知らぬことであった。ところが僕とT村は、予定よりずっと早く、朝の4時に沼津を出発していたのである。二人とも興奮してろくすっぽ寝られなかったからだ。

だが、T屋先生は、我々が予定通り朝6時ごろ出発したものと思い込み、箱根の頂上まで車で追いかけて来たのだが、我々はとっくに小田原まで行っており、T屋先生をすっかり出し抜いた形になった。そのまま二人は真夏の太陽の照りつける中を疾走し、もう午後の2時には、それぞれの実家に着いてしまった。13歳の時である。我々は元気な若者だった。

それは、もう45年も前の話だが、つい昨日のことのように思い出せる。涼しかった早朝の箱根越え。箱根で僕の自転車のギアが壊れ、小田原で自転車屋を叩き起こして直してもらったこと。ギラギラ照りつける夏の太陽。路肩で飲んだミツヤサイダーの味。あの最初のサイクリングが忘れられないから、こんなおじさんになってもまだ自転車に乗っているのだ。

T屋先生も、「俺が箱根まで追いかけて行ったら、もうお前たちが行った後だったんだよなあ。お前ら、ずいぶん足が早いんで驚いたっけよ」と、目を細めて笑う。
「先生、本当に申し訳ありませんでした! 携帯もなかった頃だから、連絡もできなかったし」と、T村がお詫びする。

T村とT屋先生が楽しそうに話している横で、僕は二人を眺める。もう45年も経っているのに、どうして人はこんなに変わらないのだろう。T村も僕も今はおじさんだし、T屋先生は白髪のおじいさんだ。我々の肉体の細胞は絶えず入れ替わっているはずだけど、命が続く限り、こうやって同じ人間でい続けられる。人の関係はもろいから、時として形なく壊れてしまうこともあるが、逆に長いこと続くこともある。子供時代に作ったマッチ棒でできた繊細な模型でも、大事にすれば壊れないように。この二人が、きっとその証だ。

「さあ、そろそろいきますか! いやー、楽しかった、楽しかった」と、T村が営業マンらしい、景気の良い声で言う。(昔から声がデカかったよな…)。

明日は、その三人で高知を歩く。楽しみだ。

(続く)














posted by てったくん at 20:00| 日記