2019年11月23日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第二話: 二日目、十月十四日、牟岐線で牟岐まで行き、室戸岬まで人気のない海岸線を走ったこと

「そりゃあ、自転車で行けるんだったら、自転車で行くに決まってるさ!」
(デービット・アッテンボロー、英国の映画監督)

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僕とT村は、畳んで袋に入った自転車を担いで徳島発9時半の牟岐線に乗った。本当は徳島から走り出すはずだったが、台風のせいで予定が一日遅れたので、輪行して距離を稼ぐことになった。(自転車を担いで列車に乗ることを「輪行」と呼ぶ)。

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先を急ぐのは本意ではないが、本当は三日で行く距離を二日で走らなければならない。そのためには、今日中に室戸岬まで行かなくてはならない。明後日には中学校の恩師であるT屋先生がわざわざ静岡は沼津から飛んできて、高知で我々と「同窓会サイクリング」をする予定だからだ。

徳島から高知までは、室戸岬経由で230キロある。健脚サイクリストであったら、もしかしたら一日、少なくとも二日あれば鼻歌まじりで走ってしまう距離だ。しかし鈍足の我々には、二日でも無理かもしれない。しかも、昨年サイクリングに復帰したばかりのT村の実力は、実際あまり当てにならない。これまで彼が一日で走った最高距離はせいぜい25キロだと言う。僕は、「25キロ走れるなら、60キロくらい絶対大丈夫だよ!」と太鼓判を押しておいたが、正直言って、全く期待してなかった。それどころか、場合によってはT村は、足がつって走れなくなり、途中でタクシーを呼ぶ可能性もあると踏んでいた。だが、列車で牟岐まで行けば、室戸岬まであとは60キロだから、仮にどこかの地点でタクシーを呼んだとしてもそれほどの出費にはならないだろう。それに、彼がダウンしてタクシーを呼ぶなら、その出費は当然彼の支出になろう。でも、そのことはあえてT村には言わず、僕の胸中に留めておいたことは言うまでもない。

さて牟岐線の車中、35年ぶりに輪行をしている僕たちは、まるで中学生のようにはしゃいでいた。特にT村のはしゃぎぶりは、行き過ぎの一歩手前と言っても過言ではない。五分たりとも座席に座っていられず、列車の中をあちこちを歩き回る。自撮り棒に携帯電話を括り付けたものを振り回しながら写真を撮ったり、ナレーション入りでローカル線が進んでいく光景をビデオ録画しているのだ。「えー、只今、列車は阿波冨田の駅を出発し、二軒屋に向かって進行中であります。えー、素晴らしい田園風景の中を進んでおります。あっ、今トンネルに入りました!」とか話している。ピチピチの自転車ジャージを着たおっさんがそんなことをしているのだから、かなり妙である。だが、子犬のようにはしゃぎまわっている男(子犬と呼ぶには、ちょっとふけ過ぎているが…)と一緒にいると、こちらも楽しくなってくるから許してやることにする。

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牟岐線内で童心にかえるT村

そんなローカル線の2時間はあっという間に過ぎ、11時半に牟岐に着いた。すぐに駅の軒下で自転車を組み立てる。昔取った杵柄、二人とも苦労せずに20分ほどで組み立て終わった。

さて、二人は、いよいよ銀輪にまたがり、国道55号線を西に向かって走り始めた。台風が去った後だから気温が高く、十月なのに夏のようだ。ちっぽけな牟岐の町はすぐに走り抜けた。もう昼だから腹が減ってくる。この先室戸岬までの50キロはほとんど町もなく、昼飯を食べさせる場所もあまりない。牟岐の先の海部という町には、うまい魚を食べさせる店があるらしいので早速行ってみたが、評判の良い店だけに人であふれかえっていて当分は昼飯にありつけそうもない。

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仕方がないので先へ行くと、国道沿いに民宿兼食堂があった。「生きアジあります」とあったから、釣宿だろう。「ふー、やれやれ」と汗を拭きながら店に入り、僕はカマスフライ定食、T村はアジフライ定食を食べた。味は悪くなかったが、ご飯の量が少ない。物足りなさそうな顔をしていたら、店の腰の曲がったばあさんが、「もうちょっとでご飯が蒸しあがるから、待ってろ」と言う。昼の書き入れ時なのにご飯を炊いてなかったとは、相当迂闊な店だ。しかし、四国ではこんなでも商売が成り立つらしい。一昨年の時も、夕食を食べに入った高知の山奥の食堂では、夕方七時なのに「もうこれで、今日のご飯は終わり!」と、店のおばさんが宣言した。だから、僕の後から来た客はご飯なしの定食を食べていた。東京だったらこんな店はすぐに潰れるが、それでも成り立っているところが四国の不思議なところだ。

さて、僕もT村もさほど大食ではないし、先も急ぐので、小さな茶碗いっぱいのご飯で足りたことにする。勘定を済まし、さて出発と思ったら、そこからが長かった。腰の曲がったばあさんも、外で生きアジの世話をしていたじいさんも意外に話し好きなのだ。牟岐線の将来的な展望についてひとくだり、ここいらで釣れる魚についてのレクチャーなどが始まった。ここでは浜からでも、生きたアジをくっつけた仕掛けを海に投げ込むと、でっかいイカがじゃんじゃんとれると言う。すごいことだ。いつか釣り好きの息子を連れて戻ってこよう。

もう昼過ぎなのにまだ10キロくらいしか走っていない。あまり旅情に浸り過ぎていては、室戸岬に着く前に日が暮れる。先は、まだ50キロあるのだ。そろそろ気合を入れて走ろう。


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T村、自撮り棒を振り回す

公衆トレイの民営化

二人はシャカシャカ走りだし、おかげでこの辺りにあったはずの「種田山頭火句碑」を見過ごす。しばらく行くとコンビニがあった。T村は、iPadを自転車のハンドルにくくりつけて走っているので、刻一刻と色々な情報を走りながら教えてくれる。便利な時代になったと思うが、便利すぎて、逆に我々は頭が悪くなっているのだろう。きっとそうだ。

さて、T村の情報によれば、このコンビニを見逃すと、かなりの間店がないらしい。そこで僕は、ここで「ガリガリくん」と言うアイスを食べることにした。その理由は、ここが最後のコンビニなのだから、何か食べておかなくてはいけない気がしたからだ。実際そんなものを食べる必要は全くなかったのだが、複数のサイクリングのブログに、自転車に乗って汗をかいた後「ガリガリくん」を食べると最高だと書いてあったから、日本に帰ってサイクリングをしたら、ぜひ食べてみたいと思っていたのだ。こんな好機到来は、またとないだろう。

しかし、そう言う客は、実はコンビニの思う壷なのだ。僕は社会のことをあれこれ批判しつつも、実は商業主義の奴隷になっていることがこれで明白になった。コンビニというのは、食品会社の作った餌で獲物を待つ漁師のようなものだ。で、その餌食となった僕が「ガリガリくん」を食べた感想はどうだったかと言うと、「なんだこんなものか…」と言う程度のものであった。その上、急いで食べたので頭痛になった。いささか馬鹿馬鹿しい気分だ。

それで、しゃくになり、買い物もしたので、堂々とトイレを借りておくことにした。そこで考えたのだが、コンビニが増えたおかけでトイレに困ることは少なくなったが、コンビニのトイレが増えた分だけ公衆便所が減ったに違いない。つまりそれは、公衆便所が民営化したと言うことではあるまいか?民営化はこれまで郵便局や鉄道などの諸機関で起きてきたが、その度に国民は大騒ぎをした。しかし、トイレの民営化は隠密に進み、国民がうかうかアイスや肉マンなどを食べているうちに政府の目論見は見事に達成されてしまったのだ。これを一体どう考えたら良いのだろう。このトイレの民営化で一番得をしたのは誰か?

僕はこの最果てのコンビニの、「キレイなトイレ」に座りつつ鋭意考えたが、納得できる回答には、ついにたどり着けなかった。

室戸岬における建築学的な考察

さて、コンビニを出ると、もう室戸岬まで30キロほどの道なりには本当に何もなかった。僕たちは、そういう人気のない海岸線の崖っぷちの道をひた走った。とにかく、ひた走るしかないような何もない道なのだ。

その海岸には大きな石がゴロゴロ落ちている。時たま道端にある漁師小屋の壁には、荒波で飛んできたごろた石で穴が空いている。よく台風情報で、「室戸岬は、風速50メートルで大荒れです」とかやっているが、そんな時にここにいたら、本当にこの世の終わりみたいだろう。


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荒涼とした海岸線で感慨にふける男

そんな寂しい海岸沿いの道を走っていると、T村も「弘法大師がここを歩いた時は、もっと荒涼としていただろうな」と、感慨深そうに言う。そして、室戸岬の方を指差し、「きっとあちらから、弘法大師もこの海岸をとぼとぼ歩いてきたのだろう」と言う。彼は、K大学の歴史学科を卒業しているので、時代の物差しをぐっと何百年も戻したような、こんな味のある発言を時々する。そこは尊敬に値するのだが、確か弘法大師は四国を時計回りに回ったはずだから、室戸岬から徳島じゃなくて、徳島から室戸岬の方角に歩いたはずだよなあ、とすかさず僕は気がついた。でも、せっかく深い感慨に浸っているT村の気持ちを傷つけたくなかったので、そのことは黙っていた。

さて、見ればその寂しい道をお遍路が2、3名歩いている。実に四国らしい光景だ。自転車で追い抜きざまに手を振って声をかけてみると、外国からきた人たちのようであった。まだ室戸岬まで20キロ以上はある。あの人たちは無事に今日の宿に着けるのであろうか?そんなことを心配しつつ走る。やがて日が傾く頃、室戸岬の灯台や山上のアンテナが見えてきた。

我々の宿は「岬観光ホテル」と言う立派な名前の、小ぢんまりした旅館であった。ここは70年ほど前に、徳島のお金持ちが別荘がわりに建てた宿らしい。昭和初期の匂いのするシックな洋館である。


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建築学的な考察対象となった旅館

さて、ここでまたT村は、歴史的な考察を行った。前回も述べたが、T村は台所キャビネットを売るのが仕事だから建築に詳しい(と本人は言う)。だから、この建物に入るや否や、「うーん!」とか「いや、これはこれは!」とか関心しまくっている。僕は軽く聞き流していたのだが、夕食どきにはビールの酔いがまわったせいもあり、T村は女将を捕まえてレクチャーを始めた。

「奥さんねー、この建物は立派なものですよ。うん、僕には分かるんだなあ。実は私はね、これでも建築関係の仕事をしておりまして、うん、仕事がら色々な建物を見て歩くんですよ。この建物はね、多分日本では、一番初期の時代のツーバイフォーの建築ですな。これは、まず間違いはない。うん、きっとそうでだ。奥さんねー、ツーバイフォーわかる? それについては、何か聞いたことがありますか?えっ、聞いたことがない?そうか、じゃあ今度調べてみてください。実はね、これと全く同じような建築が鎌倉にあるんですよ。私はね、一眼見ただけで分かったんだ、この建物がね、それと同じツーバイフォーってことがね。ねっ、おもしろいでしょ?とにかくね、これは大発見ですよ、奥さん」と延々と続くのである。相手は、旅館の女将さんだから、決してお客をないがしろにはしない。ニコニコ笑顔でT村の学説を聞いている。僕は、T村の学説よりも、むしろ女将さんの態度に感心していた。

その夜は、室戸岬に砕ける波音を聞きながら、久しぶりに旧友と枕を並べて寝た。40年近い月日が一挙に後戻りし、僕は17歳に戻ったような新鮮な気持ちでT村の寝息を聞きながら眠った。

(続く)















posted by てったくん at 19:10| 日記