2019年01月14日

お蕎麦の束について思うこと

2019年1月14日

2019年になってしまった。読者のみなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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庭のブルーベリー

昨12月は東京で過ごした。滞在はいつもの調布M城さん宅である。3週間半ほど滞在し、忘年会の酔っ払いが街に溢れ出す頃、メルボルンに帰ってきた。家族はまだ日本に滞在中なので、1月の半ばまでは一人暮らしだ。

東京の雑踏に比べると、メルボルンは実に静かだ、というのが帰国した第一印象だった。たとえ都下調布であったともしても、駅前に出てざっと180度を見渡した限り、視野に少なくとも400名くらいの人が目に入る。新宿駅の構内ならば常に2000人くらいは視野の中にあるだろう。ところが、私がメルボルンで暮らしているベルグレーブだと、駅に行って見渡しても、視野に入る人は10名くらいのものだ。夏休みの今、学校に通う子どもたちもいないから、もしかしたら2名くらいだ。

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セロリは元気になっているが、一人ではこんなに食べられない

そんな静かさの中で一人暮らしをしていると、3日くらい誰とも口をきかないで済んでしまう。時に、世界に取り残されているのは自分一人なのではないかと錯覚することさえある。過日、SF映画Passengersというのを観たが、これはある男が、遠くの惑星へ旅する宇宙船の中で、自分だけが冬眠から目覚めてしまうという筋だ。目的地へ着くまでまだ90年もかかるから、宇宙船の中で人生が終わることになってしまった。どうにか1年は一人で過ごすが、やがて気が狂いそうになる。そこで、仕方がないから、もう一人の女性を冬眠から覚醒させる。もちろん、この女性はものすごい怒るのだが、やがて二人の間には素晴らしい絆が生まれ、二人で宇宙船の中で人生を終えるという話だ。

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プラムは鳥に食べられないように網をかけた 

美しい話だが、実際こんな目にあったらどうしよう。が、我が家町ベルグレーブは夏の間はとても静かだから、宇宙空間にいるのとあまり違わないかもしれない。映画みたいに美しい女性を眠りから起こせればいいが、うちにいるのは、猫のタマちゃんだけだ。まあ、タマちゃんでもいないよりはマシかもれしれない。

でも、私はフリーの物書きなので、それくらい静かだとさぞ執筆が進むだろうと人は考えるかもしれない。ところが、あまり静かだと逆に書けないのだ。物書きには喫茶店や図書館で仕事をしている人もあるが、私も、けっこうそういうタイプである。

で、勤めをしてない私は、食事も三度三度一人で食べる。外食すればいいじゃないかと人は思うかもしれないが、ベルグレーブにロクな食べ物屋はない。しかも夏休みだから、1月半ばまで閉まっている店が多い。オーストラリアでは、いまだに「1月は休みます!」なんて商売が結構ある。


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もうすぐ食べごろのプラム


だから、自炊である。自炊は好きだから、作るのは苦にならない。しかし、一人だと、どんなに時間をかけて作っても、食べるのは5分か10分で終わってしまう。いささか味気ない。でも、本当に宇宙船で一人になったりしたら、こんなことくらいでめげてる場合ではないから、私も肩のこらない本など読みながら食べる。

日本から帰って、いきなり食べたくなったのはカレーライスだった。しかも、ルーで作った普通の日本のカレーだ。そんなものは、東京にいる間にCCカレーとかココイチとかで食べれば良かったのだが、鴨南蛮とか、寿司とか、和牛ステーキとか食べるのに忙しくて、私はカレーを食べる機会を逃したのだった。

だから、一人暮らしをしている時に何だが、いきなりSBゴールデンカレーを作った。ひとパック全部作ると余るから、ルーは半分だけ使った。それでも多すぎた。3回食べたが、さらに一回分余ったので冷凍した。

次に、パスタが食べたくなった。なんと呼ぶのか分からないが、クリーム味のスモークサーモンが入っているアレである。庭で採れた青ネギやら、インゲン豆などたくさん投入して、最後に黒胡椒とパルメザンチーズをたくさん擦ってかけたら、とても美味しかった。ところが、パスタをたくさん茹ですぎて、一食ぶんくらい余った。これも冷蔵庫行きだ。

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日差しが入り込まないように、日中は日よけを下ろしている

オーストラリアに帰ってきたのだし、オジービーフのステーキも食べたくなった。400グラムの大判のものを焼いたが、3分の1くらいが食べ残しになった。これも冷蔵庫行き。

大晦日にはピザが食べたくなった。そこで、スーパーでラージサイズのベースを買ってきて、これにピーマンやら玉ねぎやらハムやら、美味しそうなものをいろいろ載せて焼いた。ところが、3切れ残った。これも冷蔵庫へ。

他にもいろいろ作ったが、どうしても余剰物が出て、冷蔵庫に蓄積していく。多分20パーセントくらいの食べ物が余り、その多くが捨てられていく。でなければ、冷凍庫に数ヶ月も放置され、電気を無駄にしている。これではサステナブルではない。

だったら、食べる分だけ作ればいいじゃないかと、人は言うだろう。私もそう思う。自炊するたびに「食べる分だけ作ろう」と、肝に命じている。ところが、お米を研いでいると、一人だけなのだから一合だけ研げばいいのに、なぜか一合半研いでいる自分がいる。パスタを茹でる時も、親指と人差指で作った輪に束ねられるだけの量を茹でればいいのに、無意識にその1.5倍くらいの量を茹でている。ステーキだって、私なら250グラムくらいで十分なのに、なぜか400グラムも焼いている。

なぜか?理由はわからない。ただ、これが長年の習慣から来ていることは確かだ。これまでの人生、無自覚にこういうことを続けていた。しかし、家族がいれば、まだわかる。何かを作っておけば、後で誰かが食べるかもしれないからだ。でも、一人しかいなのだから、残ったものを食べるのは自分しかいない。しかも、残り物を食べることなど全く欲してないのだから、できるだけ残り物が出ないように作るべきなのだ。

それがなかなかできない。そこで、昼飯は、こうした残り物を片付けることが主眼になってくる。カレーはまだいい。カレーが残っているのは、どこか嬉しい。しかし、パスタの残りはよろしくない。昨日茹でたパスタなど、美味しくない。朝ごはんが昨晩のピザなのは、全くうんざりものだ。


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トマトは伸び放題だが、あまり実がなってない

さて、昨日は、気温が30度以上あったので、お蕎麦を茹でて、ざるそばにした。食べてから、お蕎麦は食べ残しが出ないことに気がついた。なぜなら、お蕎麦は、束になっているからだ。一人なら1束、二人なら2束という風に。どうして、こんな大事なことを、これまで意識してこなかったのか。まるで、目から鱗が落ちる気がした。

これからの人生は、これで行くことにした。何か余剰が出そうな時は、お蕎麦の束をイメージする。束にできるものは、必要量を束にしてから使う。これが鉄則だ。そうすれば余剰は出ないはずだ。残り物を食べる人生とも、もうオサラバできる。

しかし、そうなってきて危惧するのは、余剰を出したくないばかりに、お蕎麦ばかり食べる余生を過ごしかねないことだ。実は私は、ちょっとそういう性格なところがある。うちの女房は、バーンと、後先のことを心配せずに好きなことを感覚的にやってしまうたちなのだが、私は、後先のことをまず考えてから、ことを起こす傾向がある。

そういうことを考えていたら、「拘束」ということばが脳裏に浮かんだ。私の余生における食生活は、お蕎麦の束に拘束されはしないか? そうなったら、食べたいものも食べられなくなる。しかし、それは嫌だ。カレーだって、パスタだって、焼肉だって、いろいろ食べたい。そういう食品は、必ず残り物が出るに違いない。

何だか、食事の問題は、振り出しに戻ってしまったみたいだ。
posted by てったくん at 10:56| 日記