2015年08月25日

そして一年、音楽に癒されながら

2015年8月24日

音楽による治癒力を実感したのは、今年6月に行われたカヌーマラソンに出場した時だ。そのときは、歌うことで体の痛みが確実にとれたからだ。

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Riverland Paddle Marathon(略してRPM)は、南オーストラリアのマレー川で開催される、三日間全長200キロのカヌーマラソンだ。僕は昨年と今年と二度出場した。昨年2014年はリレーチームの一員で、200キロのうち70キロを漕いだ。今年2015年は、自分一人で三日間かけ、カヤックで半分の100キロを漕いだ。 (10、50、100、200キロと距離を選べる)。

100キロを漕ぐ場合、初日は36キロ、二日目は27キロ、三日目は32キロの行程となる。初日の36キロが最長である。これまで一人で一度に漕いだ最長距離は28キロ、2人乗りでも50キロ、だから単独で36キロは未知の世界。体調も良く、トレーニングもして漕ぎ切る自信はあったが、本心は「当たって砕けろ」という気分であった 。
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初日。案の定30キロ漕いだところで右腕が完全に音を上げた。痛くてパドルが上がらない。しかし、最終チェックポイントはもう過ぎたし、 見渡せば川の両岸はどこも原野。ここで棄権しても助けは来ない。あと6キロ、這ってでもゴールまでたどり着かなくてはならない(水上では這えないけれども…)。

そのとき、ふと昔の記憶が蘇った。大学時代、僕はワンダーフォーゲル部だった。合宿で山に入り、誰かがへたばり始めると、歩きながら歌を歌わされた。縦列で歩きながら、前から順番に大声で歌う。「よし、つぎは、わたなべ!」と先輩に言われると、山の歌でも、アニメの主題歌でも、水戸黄門のテーマでも、大声で喉も裂けよと歌わなくてはいけない。

ところが、大声で歌っていると辛さが軽減し、力が湧いてくる。今でも覚えているが、大学一年の夏合宿で大雪を縦走した時、最後の下りで先輩が足首を捻挫した。そこで一年生男子は、交代で先輩の分と二人分のザックを背負うはめになった。その日は長い尾根を苦しみ抜いて下ったが、歌を歌って乗り切った(まるで軍隊!)。

そんなでRPMのときも歌を歌うことを思いついた。どうせ周りには誰もいない。最初は、ギターで弾くので歌詞を暗記しているサイモンとガーファンクルを2、3曲。それからニール・ヤング、イーグルス、ディラン、続いてビートルズ、ジョン・レノン、ウィングス、トラベリング・ウィルベリーズなどの洋楽。ここらで覚えていた英語歌詞がほぼ枯渇したが、荒井由美、オフコース、山下達郎、佐野元春、井上陽水、RCサクセション、高田渡、吉田拓郎、イルカ、かぐや姫などのJ-POPのレパートリーがけっこうたくさん記憶にあった。やっぱり日本語はしっくりする。それからは、カラオケでよく歌ったペドロアンドカプリシャス、ハイファイセット、寺尾聡なんかも登場。だが、ついにそこらで本当にネタ切れになり、今度は、ためらいつつも松田聖子、森進一、アグネスチャン、西城秀樹、キャンディーズ、小柳ルミ子と、かなり深く、遠い世界までたどり着いてしまった。

だが、効果は絶大で、カヤックを一人漕ぎながら30曲ばかりも歌っていると、あれほど痛かった右腕の痛みは完全になくなり、6キロ先のゴールもすぐに見えてきた。チームメイトたち(僕は、Push’n Woodという中高年カヌーチームの一員)は、首を長くしてなかなか到着しない僕を待ってくれていたが、僕がバート・バカラックの「雨に濡れても」を陽気に歌いながら現れたので、みんな鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をしていた。僕は、「もっと漕いでいたい!」と一人でハイになっていた。

そんなで、音楽の癒す力を、身を以て体験している。

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ベニス・ビエンナーレで

ここで、シリアスな話で恐縮だが、ちょうど一年前、弟の光太がぽっくり亡くなった。命日2014年8月22日、39歳だった。

弟が亡くなったとき、僕はオーストラリアにいた。光太は亡くなる直前にオーストラリアの僕と、横浜にいるもう一人の兄弟の光哉に電子メールを送っている。それにはこうあった。

「 こちらは暑い日、涼しい日の繰り返しで夏バテ気味です。あさってライブなので気力をためています。そんなわけで私はまあまあ元気です。」

こう読むと、体調が良くないことを自覚していたことが分かる。その2、3時間後、突然光太は亡くなった。(光太は複数の重篤な持病を抱えて闘病中で、結局そのために亡くなっている。)

このメールにもあるように、光太はライブを2日後に控えていた。このことは、僕にいろいろなことを考えさせる。ひとつは、ライブに出られなかったことは残念だったろうということ。もうひとつは、結局ライブ出演はできなかったものの、人生の最後2、3ヶ月間、大好きな音楽という生き甲斐があったことは大きな喜びであったのではないかということだ。病気を持って生きる辛さを音楽が癒してくれたのではないか。

光太は、中高から大学時代を通してバンド活動をしていた。高校時代の友達とは「D」というロックバンドをやっていた。そのバンドは、つい最近まで活動していた。光太自身は、地方の大学院に行き、その後も仕事が忙しくなって、ずいぶん前に「D」は辞めていた。だが、光太がいない間も「D」は継続し続け、光太が病気になって何年か経った昨年は、そのバンドをやっていた光太の友人たちが、光太の闘病生活からの回復と社会復帰を計って、2014年8月24日にライブを企画してくれたのだ。

もちろん光太自身もその計画に喜び、ベーシストとして参加することになっていた。その練習の映像が残っているが、光太はベースでハードな曲をがんがん弾いている。僕は、それをビデオで見て、光太が本当に復活するかもしれないと期待を抱き、「ひょっとしたら、ひょっとするぞ!」と思って喜んだ。

ところが、ライブ二日前のリハーサルに光太は現れなかった。バンドのリーダーH君は、仕方なく光太の親友M君にベースの代役を頼んだ。ライブ当日も光太は現れなかった。そのときはもう亡くなっていたからだ。

光太亡き後、彼のアパートには、ギターやベースが数本、CDやカセットが数百本残されていた。H君がグレッチのエレキを引き取り、光太の甥であるマア君が白いヤマハのエレキを引き取った。あとは処分した。僕は、光太が演奏していると思われる「D」のカセット数本を形見としてもらった。

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形見の楽器たち

そうやって、光太は僕たちの前から永遠に姿を消した。

それから一年。今年7月から8月、僕は数年振りに家族と夏のヨーロッパを旅行した。一ヶ月も旅行をするのは何年振りだったろう。僕は、その間全くの風来坊的旅人に徹し、観光の予定もあまり立てず、何も生産的な活動はしなかった。でも、かえってそれが楽しかった。

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パリ、ベルサイユ

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南仏サン・アントニン
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南仏サン・アントニン、妻のチャコの作品
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南仏サン・アントニン

その帰り道、日本へも立ち寄った。光太の一周忌をするためだ。横浜の弟の家に泊まった際、甥の部屋に光太の形見の白いヤマハがあった 。白いエレキなんて正直趣味が悪いと思うのだが、懐かしくて僕はそれを抱きかかえ、はっぴいえんどの「夏なんです」という曲の、ちょっと複雑なコードを弾いてみた。それは昨夏光太が亡くなった頃よく聴いていた曲だ。アンプを通さないエレキギターの生(き)の音は、ほとんど聞き取れないほどか弱い乾いた音で、そのせいで、かえって魂に直接響いてくる。

今思えば、そのときのギターの小さな音は、光太がどこからか僕に語りかけた言葉だったに違いない。僕は、そのときから無性にまた音楽がやりたくなった。

光太と以前に、酔っぱらってジャムったことが2、3回ある。まだ光太がかなり元気だった頃だ。僕が一人で日本に帰国した際、夜中に二人でギターやベースを抱えて即興演奏をした。僕が夜更けに成田から多摩の実家に着くと、ふたりで飲み出して(主に僕が)、気がつくと二人でギターを抱えて歌っていたこともある。大概は全くのデタラメ即興演奏で、僕らになじみ深い京王電鉄の駅を新宿から順番に歌ってみせたり、光太が病気のリハビリのために働いていた豆腐屋の仕事をブルースにして歌ったりだった。

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15歳の光太、アメリカ、メイン州の友人宅で

そのあるとき、こう光太に言われた。

「てったくんのギターは、まるで白人が無理にブルース弾いているみたいだね」

軽い気持で言っただけだろうが、僕は13才も年下の弟にずばっと言われて返す言葉もなかった。全くその通りだったからだ。僕のギターは全くのまねっこで、気持もそんなにこもってなかったから。一方、光太の弾くギターやベースはすごく荒削りで、気持がこもっていた。そこには喜怒哀楽があった。

それからしばらく僕はギターには触れなかった。まるで弾く気もしなくなった。音楽はもう聴くだけにしようと思った。
 
だが、光太が亡くなってから、何度も音楽に助けられ、その力を信じられるようになった。そして、今度は、今までやらなかったジャズをやろうと考えた。ジャズは聴くのは好きだったが、理論が面倒だから自分には無理だと思い込んでいた。でも、ジャズの真髄はインプロ、すなわち即興演奏であり、ジャズをやることは、一定のスケールやコード進行は守りつつも、あくまで自分の表現をすることだ。真似はあり得ない。誰かがやっている演奏を真似ても、それはジャズとは言えないだろう。また気持が込もっていなければ、良い表現にならない。(それはどんな音楽や芸術でも同じだ)。だから、僕が最終的に目指したいのは、上手に楽器を弾けるようになることだけでなく、何かを音楽で表現できるようになることだ。どんな稚拙であってもだ。音楽は、人によって定義が違うだろうが、今の僕にとってはそういうものだ。

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ベニスでは、街のざわめきの向こうから、いつも生の音楽が聞こえてくる

実は、光太が亡くなったとき、僕は驚きや混乱で、ほとんど涙を流すことさえできなかった。こんなこと書くと不謹慎かもしれないが、あのときひと思いに号泣できていれば、どんなにか気持がすっきりしただろう。

そんな僕であったが、今は、渾身のジャズの即興演奏を聞いて「おお、すげえ!」と興奮もし、時には感情が緩んで涙ぐんだりすることもある(ちょっと危ない?)ギターもまた弾き始めていて、難しいと思っていたジャズのスケールを練習したり、とても覚えられないと思っていたコードを覚えるのに苦心したりしている。まだ、山の麓を歩いている様なものだが、楽しくて仕方がない。そして、今度こそ「お前のギターはまねっこだ」などと言われないようになりたい。

そんなで、ひょっとしたら、これが自分にとっての癒しのプロセスなのかなと思ったりもしている。

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ダブルベースは大きいから、誰かがかついでいると、ベースが一人で歩いているみたいだ(東京、五反田で)
posted by てったくん at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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