
メルボルン郊外の秋。まだ緑が濃い
先日の夕方、僕は、焼売を蒸していた。なぜ?と問われたら、それは焼売を作ったからに他ならない。なぜ焼売を?と問われたら、それは17歳の息子が食べたいと言ったからだ。
焼売など買ってくれば良いと思う人もあるだろうが、メルボルンの町外れの我が家から焼売を買いに行くには、かなりの遠出になる。電車で1時間、車でも45分ほどかけて、中国系の住民が多く暮らすボックスヒルくらいまで出ないと焼売は手に入らない。
だから焼売は作る。作ってみれば意外に簡単だ。玉ねぎを多めにみじん切りにし、それを豚ひき肉と混ぜる。エビを包丁で叩いて練り込んでも美味しい。それを焼売の皮に包み込むのだが、包み方も、2、3回やれば結構慣れてくる。こうやって作った焼売を蒸し器で蒸すのだが、白菜やレタスの葉っぱを下に敷けばくっつかないし、蒸し器の隙間に人参やズキニやサツマイモを入れて蒸せば、蒸し野菜も同時にできる。
焼売が蒸しあがる10分ほどの間、テレビのニュースをみる。オーストラリアでも、2月中旬現在、コロナウイルスのニュースがトップだ。正月明けごろまでは、ブッシュファイヤーのニュースがトップだったが、それと入れ替わった形だ。ブッシュファイヤーは未曾有の規模で燃えた。僕が住んでいるビクトリア州とニューサウスウェールズ州を合わせると、日本全土と同じくらいの面積の林野が燃えたらしい。家や牧場、店や工場などの建物が燃え、野生動物も数億匹が犠牲になったと予測もされている。大変な惨事であった。
それで今度はコロナウイルスだ。毎日中国では罹患者の数は増え、犠牲者も増加している。武漢や湖北省の人たちは大変な災害の中にある。日本でも、特に横浜港に着岸しているクルーズ船に乗ったまま隔離されている人たちなどは、さぞ不安なことだろう。オーストラリアでは幸いまだ罹患した人は少ないが、そう安心はしていられない。3月には大学の新年度が始まるが、10万強の中国系学生が、渡航許可が出次第、中国から戻ってくる。その頃は、ウイルスには収まっていて欲しいものだ。中国で、渡航できるのを今か今かと待っている学生諸君の心持ちを考えると本当に気の毒である。ウイルスにはきて欲しくないし、学生や渡航者の都合を考えると気の毒でもあり、ジレンマである。
で、さらに詳しくニュースを読もうと、テーブルの上のiPadに手を伸ばす。すると、用事でブリスベンに行っている娘から、メッセージが着ている印がスクリーンにある。それを見ようとすると、Facebookが「パスワードを変えてください」と自動メッセージを送ってきた。この間ウイルスに感染してパスワードを一度変えたのだが、それ以来何かと調子が悪い。またパスワードを変えなくてはならないとは面倒だ。


近くの農場でブラックベリーを摘んで食べた。夏の終わりの味覚。
しかし、娘のメッセージを読みたいから、パスワードを変えることにする。そのためにiPadとパソコンと携帯電話の間を行ったり来たりする羽目になる。3台も機器を使っていると面倒だ。
うんざりしながら、iPadや携帯をガチャガチャやっていると、台所のタイマーが鳴った。焼売が蒸しあがった知らせだ。ガス台の蒸し器の蓋をとると、焼売が美味しそうに蒸しあがっている。息子の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。息子は、この頃いよいよ父親のことを疎んじるようになってきて会話らしい会話もない。息子がやっているサッカーのことを聞いても学校のことを聞いても、「うん」とか「まあまあ」とか、そんな返事しか返ってこない。たまに勉強のことなど口出ししようものなら、さらに関係は険悪化だ。僕としては父親の権威をそれほどさらけ出しているつもりもないのだが、17歳の息子からすれば、父親は近くにいて欲しくない存在ナンバーワンだろう。そんなだから、何を言っても逆効果、父親の愛情を示す方法もなく、せめて機会を見つけて焼売などを作って懐柔しようと言う魂胆だ。早くこの時期が終わってもらいたいのだが、もうしばらくは父親と息子の関係はギクシャクし続けるだろう。全くこの時期は災難のようなものだ。
出来上がった焼売を皿に取ろうとすると、今度は猫のタマがベランダでニャーと鳴く。家に入れろと言う催促だ。扉を開けて入れてやる。iPadに戻り、どうにかパスワードを変えて、やっと娘のメッセージを読む。「お誕生日おめでとう」と言うメッセージだった。そうか、今日は僕の誕生日だった。思わず頬が緩む。今25歳の娘もティーンエージャーの頃は色々と難しかったが、この頃はずいぶん父親にも優しくしてくれるようになった。待っていれば、必ずそう言う時期がくる。

猫のタマ13歳
おっと、焼売を忘れていた。ガスを止めて焼売を皿に取り出す。テレビのニュースでは、武漢から帰国し、クリスマス島に隔離されている家族たちが元気で暮らしている様子を報道している。その中に、オーストラリアにそんなに急いで帰国する気はなかったのに、夫に説得されて嫌々帰ってきたと話す女性がいる。夫とは、そのせいですごい夫婦喧嘩になったが、その後のウイルスの蔓延を考えると、今は夫の判断に感謝していると言う談話だった。
それを聞いて思い出したが、10年くらい前鳥インフルエンザが流行したとき、ちょうど我が家も日本に帰国していたことがあった。その時は、日本についた途端になぜか娘が発熱し、病院に行ったら、鳥インフルの可能性があるから、1週間は家から出るな言われた。幸い娘は陰性だったが、おかげで、せっかく帰国したのにしばらくは用事ができなくなった。そして今度は、オーストラリアへ戻る段になったら息子が発熱した。もし息子が鳥インフルエンザだったら出国出来ないから、仕方なく帰国を1週間伸ばした。そんなで、この時は子どもたちの病院通いのために日本に帰ったような形になった。それほど大事にならずに済んだから良かったが。

メルボルンでもマスクをしている人が増えた
しかし、今度のコロナウィルスはもっと深刻だから、隔離された人や罹患した人たちは、もっと不便だろうし不安だろう。オーストラリアでは罹患した人はまだ少ないものの、中国系の住民の中には、出歩くことを控えている人も多いらしい。だからボックスヒルやシティの中国人街は、風評のせいもあって閑古鳥が鳴いており、有名な中華レストランも潰れそうだとニュースでやっていた。電車やバスの中で中国系の人を罵倒したり、アジア系の学生が下宿先から閉め出しを食らったりとか、そう言う人種差別的な事件も起きていると言う報道もある。
自分は、オーストラリアにもう20年以上も暮らしていて、これまでアジア系であることで嫌な目にあったことはほとんどない。僕の友人や知人には、そんなくだらない差別をするような嫌な人間はいないから心配もしてない。
そう考えながら焼売を皿に取っていたら、背後で「ゴボッ、ゴボッ!」と妙な音がする。ふりかえると、餌を食べていた猫のタマが居間でゲロを吐いている。居間の絨毯は毛足が長いから、ゲロを吐かれると掃除が面倒だ。
「こんなところでゲロを吐かないでよ!」と、猫に苦言を言うが、タマには通じない。タマは13歳の老猫だが年齢の割には元気だ。それでも時には、食べたものを吐いたりすることもある。絨毯に染み込まないうちに、慌ててキッチンペーパーと洗剤で猫ゲロを掃除するが、なかなか綺麗になってくれない。タマはソファの上で、そしらぬ顔でヒゲの掃除をしている。人間がゲロを吐いたら、しばらくはショックでへこたれるだろうが、猫はあっけらかんとしたものだ。
うかうかしていたら、もうすぐ家族が帰ってくる時間だ。日頃のんびりと暮らしている僕でも、夕方は忙しい。いろいろな用事をマルチタスキングしなくてはならない時間帯だ。買い物に行き、ご飯を作り、ゴミを捨て、ニュースを見て、メールを読んだりと、いっぺんに用事を済まそうとする。でも、いろいろなことを一挙に片付けようとすると小さな危機が訪れることもある。でも、慌てても仕方がない。平常心を保つことが大事だ。
規模の大小はあるにしても、危機は、どんな人にも訪れる。どこかで読んだが、困難は、人生において、どんな人にも平等に同じだけやってくるのだそうだ。本当にそうかは分からないが、少なくともそう心がけて生きるべきなのかもしれない。幸に、どんな困難も、必ず過ぎ去っていくものであることも事実だ。
この焼売を、今いろいろな目にあっている人たちに届けられれば良いのだが、それは叶わないから、せめて今日まで幸せに生きてこられたことに感謝して食べることにしよう。