2020年01月23日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第9話 最終回
12日目 雨の徳島見物をして、
13日目 最後に貞光まで輪行し、雨上がりの吉野川沿いを徳島、鳴門まで走ったこと


「But it’s all right  歳をとって髪が白くなっても、
 But it’s all right まだ言ってないことがあっても、
 But it’s all right やってないことがあっても、
 But it’s all right 生きたいように生きられれば、
 But it’s all right せめて許してやれるなら、
 But it’s all right 風の中をすっ飛ばせるなら、
 But it’s all right 自分が満足できる人生を送れるなら、
 But it’s all right 太陽が輝かなくたって、
 But it’s all right 俺たちゃ、みんな終点に向かって走っているんだから」

(トラベリング・ウィルベリーズ、The End of the Lineから。
 ジョージ・ハリソンが歌っている箇所)


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吉野川のどこかで

雨で停滞し、徳島見物で北条民雄の文学に出会う


鳴門には、結局三泊した。鳴門がそれほど気にいった訳ではないのだが、天気が崩れたので停滞したのだ。着いた翌日は大雨で、仕方ないから鳴門線で徳島まで行って町をぶらついた。

雨で停滞したことは以前にもあるが、そう頻繁にあることでもない。一泊や二泊の短い旅行では、停滞している時間的余裕がないからだ。大概は、雨が降っても雨具を着て走るか、あるいは、思い切って帰宅するしかない。

しかし、長い旅ではそういうこともある。思い出深いのは、北海道の網走でのことだ。結婚した翌年の夏休み(僕はそのころは学校の先生だったので、夏休みがちゃんとあったのだ。)、女房と僕は自転車にキャンプ道具を積んで、北海道を二週間ばかり旅行していた。ところが、網走のあたりで台風がきてしまった。夏の北海道は旅行者が多いから、天気が崩れるとたちまち宿が満杯になってしまう。インターネットもない時代だから、網走駅の旅行案内所で紹介してもらい、ようやく町外れの商人宿に泊まった。トイレも風呂も共同、部屋はドアも壁も薄っぺらなベニヤ張りで、わざわざ泊まりたいような宿ではなかった。それでも雨に追い立てられた客で満杯だった。

その中に、「丸ケン興業」の御一行がいた。「興行」と言うのがどんなビジネスを指すのか分からないが、この一行は、服装から髪型から物腰から、明らかに「ヤ」から始まって「ザ」で終わる名称の業種の方達と分かった。珍しいことに、総勢二十名ほどの丸ケン御一行は、家族連れの慰安旅行で、旦那衆だけでなく、オカミさんとガキどもも連れていた。

僕も女房も、こう言う筋の方達と袖振り合う仲になるのは初めてだった。網走という土地柄ではあったが、これを機会に親しくなりたいとは思わなかった。だから僕たちは、「触らぬ神に祟りなし」であることを肝に命じ、彼らとは距離をおくことにした。丸ケンの皆さんも、親分の部屋で酒盛りをしていたから、接触はせずに済みそうだった。開いたドアから見えたが、「大五郎」という焼酎の大瓶が部屋の真ん中にドスンと置いてあり、湯飲みでガブガブ飲んでいる。酒焼けした強面が円陣になって座る様子は、鬼ヶ島の酒盛りのようであった。僕は、その時までこういう安い焼酎のマーケティング上の意図を理解してなかったが、「ああ、こういうシチュエーションで飲むわけね!」とその時納得した。

触らぬ神に祟りなしであったが、丸ケンさんたちと夕食時に食堂で一緒になってしまった。彼らは、酩酊して赤黒くなった顔でドカドカ食堂に入ってくると、ものすごい物音をたてて飯や汁を咀嚼し始めた。その間、僕たちカタギ客は恐ろしさのあまり、凍りついたようになり、食堂は静寂になった。従業員たちは、給仕をすますとさっさと姿をくらました。もはや何の助けも見込めず、僕たちは食事を続けた。丸ケンさんたちは、斜めにテーブルに座ってひたすら食い、3分くらいで親分が食い終わると、全員が一斉に席を立ち、酒盛りを続けるために、ドカドカと部屋に戻っていった。僕は、緊張のあまり食べたものが胃からこみ上げてきそうだった。翌朝は天気も回復したので、早々に退出した。それが網走での停滞の思い出だ。

徳島出身の作家、北条民雄

僕は、鳴門線に乗り、雨に煙る田園風景を眺めながら、そんな昔のことを思い出していた。雨の中、知らない町を一人でぶらぶらするということもあまりない。まず徳島文学書道館を見学に行く。書道には興味がないのでほぼ素通りしたが、文学の展示は面白かった。徳島で有名な作家と言えば瀬戸内寂聴であるが、それまで読んだことがなかった北條民雄(1914−1937)という作家を知ったことが大きかった。北条は、ハンセン氏病にかかり、たった23歳で亡くなってしまったが、北条のハンセン氏病の一連の闘病記は川端康成を驚愕させたと言う。そして、川端の尽力で北条の作品は世に知られることになり、『いのちの初夜』はベストセラーになった。北条は、ハンセン病のサナトリウムの生活の様子を写実的に、しかし、時にはユーモアさえ交えて描いた。その全く冷静な筆致は見事である。

*北条の作品は、以下で読むことができる。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000997/card398.html

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鳴門線の車窓から

徳島は、山を背に抱き、前は太平洋、側には吉野川が流れる美しい町だ。その気になりさえすればいくらでも見物するものがあるのだろうが、雨のせいか、欲張って見物をする気になれない。その上、僕は小学生時代から予習をするのが苦手で、旅も行き当たりばったりなので、何をどう見物していいか分からない。だから昼飯を駅地下で食べ、コーヒー店に座って北条民雄の資料を読んでしまうと、後はすることも思い付かず、また鳴門へ戻る列車に乗ってしまった。


13日目(旅行の最終日): 貞光まで輪行し、吉野川の堤を徳島まで走る

最終日、朝5時に起きるが、まだ雨だ。しかし、昼には上がるはずだ。昨夜のうちに自転車を畳んで輪行袋に入れておいたから、それを担いで始発の鳴門線に乗る。始発だから空いていると思ったら、途中駅からどんどん勤め人や学生が乗ってきて満員になった。徳島の手前の佐古という小さな駅で阿波池田行きの徳島線に乗り換えるために降車する。雨はいよいよ本降りで、ホームが狭くてどこにいても濡れる。惨めな気持ちで10分ほど待つと、阿波池田行きがきた。

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雨は激しく降ってた

徳島線は空いていた。雨はまだ激しく降っている。本当にこれが止むのだろうか。携帯で天気レーダーを見ると、南から晴れ間が広まってきているから、列車に乗っているうちにどこかで晴れ間にぶつかるはずなのだが。

朝食を食べていないので、自転車バッグの中のロッテアーモンドチョコを食べる。この箱入りチョコは小学校の時から食べている。サイクリングの時も必ずこれだ。きっと80歳のおじいさんになっても食べ続けるだろう。チョコレートなど、世界で起きている色々なことに比べれば些細な存在だが、僕は、これがあるだけで少しは元気が出る。幸せとは、こういう小さいことの積み重なりかもしれない。


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貞光の駅で

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雨と晴れの境目の吉野川

貞光という無人駅で降りる。そこは、見事に雨雲と晴れ間の境目だった。みるみるうちに雨雲は遠ざかり、晴れ間が広まってきた。途端に気分も明るくなり、さっさと自転車を組み立てて、吉野川沿いに走り始めた。今列車で来た道をまた戻っていくのだから、満期になった定期預金をすぐに使い始めるような豪勢な気分だ。

さっきまで雨が降っていたし、まだ上流では降っているのだから、吉野川は満々と水をたたえている。満杯の一歩手前くらいだ。台風19号の記憶も新しいし、川沿いの人は冷や冷やものだろう。しかし、不埒なことを言うようだが、枯れた川を見るよりは、水がたくさん流れている川を見る方が豊かな気持ちになれる。

川が流れている景色は、日本には、都会にも田舎にもどこにでもある。しかし、僕が住んでいるオーストラリアには、滅多にない。山と呼べるような起伏も少ないし、内陸は乾いた荒野や砂漠だから、オーストラリアには数えるほどしか川が流れていない。メルボルンを流れているヤラ川やビクトリア州北部を流れるマレー川は長さから言えば大河だが、水量は日本の山から流れ落ちる豊富な水に比べれば、大した嵩ではない。僅かな水にしがみつくようにオーストラリアの人たちは暮らしている。

だから、そんな乾いた場所に住んでいる僕にとって、日本の川沿いを自転車で走ることほど楽しくて、豊かで、変化に富んだ旅はない。川沿いの旅は優しく、それほどきつくもない。どんな山中でも川は一定の傾斜で流れていくから、川沿いの道は勾配も緩やかだ。川を遡れば小さな町があり、村があり、橋があり、堰がある。川には歴史があり、農業があり、林業や工業などの産業があり、交通があり、食べ物があり、独自の暮らしがある。それを自転車でゆっくり見て歩くのは楽しい。吉野川は、色々な橋がたくさんかかっていることで有名らしい。と言うことは、橋のあちら側とこちら側の往来が盛んであることを意味する。僕は、今日は概ね徳島に向かって川の左側を下っていくことにするが、そちら側の方が川堤の道が自転車で走るのに良さそうだからだ。

貞光の駅を出て、大きな赤い、少し錆びついた美馬橋を渡る。川の堤のすぐ足元まで水がきている。昔だったら、これくらいで洪水になっただろう。山を見れば、湿気で山肌から雲が湧いている。雲は普段は空高く浮いているものだが、湿気が多いと地面から湧き出てくる。これもまた、僕が暮らすオーストラリアではまず目にすることのない光景だ。しばらくそんな光景に見惚れて走る。

うだつの上がらない私と巡礼

川沿いの自転車道を下っていくと、穴吹という町があった。「うだつの町並み」が保存してあると看板にある。さっそく寄り道だ。国道に並行して、美しい木造建築が連なる1キロばかりの古い街並みがそこにあった。

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ボンカレーの看板が似合う穴吹の街並み

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背伸びした路地の向こう、空がのぞいている

「うだつ」とは、もちろん「うだつ上がらない」の語源である。僕は、うだつというのは木か竹の垣根だとずっと信じていたが、実は、漆喰で出来た、屋敷と屋敷を隔てる防火壁なのだった。うだつの付いた家を建てるには相当のお金が必要なことから、「うだつが上がらない」と言う表現が生まれたらしい。見れば、うだつのある屋敷は立派な家ばかりだ。僕などは、税務上まず間違いなく「うだつが上がらない」カテゴリーだろう。

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日が照り出して、少し蒸し暑くなってきた。貞光から買ってきたポカリスエットを飲みながら堰堤を走っていく。セイタカアワダチソウがたくさん生えている。雑草だが、僕には懐かしい光景だ。川沿いの畑の中に倉庫のような建物がある。お遍路のための接待所と宿泊施設を兼ねた施設らしい。その中から、お遍路たちがぞろぞろ出てきた。外国人もたくさんいる。最近はお遍路にも外国からの巡礼が増えたらしいが、考えてみれば、巡礼にはどこの国でも外国人がたくさん混じっているのが普通だろう。巡礼の行為自体が、遠い国の寺院やモスクや霊場へ歩いていくことだから、外国人のお遍路がいること自体に不思議はない。メッカ、エルカミーノ、タジマハール、チベット、ネパール、イエルサレム、そう言う場所にいるのは皆外国人ではないか。どこか遠くへ歩きながら祈り、罪を清め、救いや答えを求めるのは普遍的な行為だろうし、その行先が遠ければ遠いほど、大変であれば大変であるほど、功徳も増すのかもしれない。

僕のやっている自転車旅行は巡礼ではないけど、長い時間自転車に乗っていると、瞑想をしているような気持ちになることがしばしある。それはマラソンや登山やカヌーなど、長時間の運動に伴う現象かもしれない。ちゃんと道を走っているのだが、いつの間にか意識だけがスーッと遠のいていく。それでいて、事故も起こさずにちゃんと走り続けている。そして、気がつくと20分も経っていたりする。その間、何を考えていたのかも覚えていない。

村上春樹の著書『走ることについて語るときに僕の語ること』には、彼がマラソンをすることについて書いてある。なぜ走るのか、走るとはどんなことなのかなど、一言では言えないから、一冊の本が書けてしまうわけだ。アラン・シリトーという作家も『長距離走者の孤独』という小説を書いている。他にも似たテーマの本はたくさんあるだろう。

マラソンと自転車旅行、それから巡礼は、いろいろなことが違う。しかし、共通点もある。例えば、村上は、こんなことを書いている。「自動操縦のような状態に没入してしまっていたから、そのままもっと走っていろと言われたら、100キロ以上だっておそらく走っていられたかもしれない。変な話だけれど、最後のころには肉体的な苦痛だけでなく、自分が誰であるとか、今何をしているだとか、そんなことさえ念頭からおおむね消えてしまっていた。(中略)我走る、故に我あり。」

肉体を使って長時間移動することは、もはや我々の普段の生活にはあまりないことだ。でも、登山やマラソンや自転車旅行をしていると、移動することが自分の存在理由みたいに思えてくることが確かにある。

村上春樹は、毎日走ったり、マラソンをしていると人に言うと、よく褒められると書いている。自転車で旅をしていても同じように褒められることがある。一日に100キロ走ったとか、10日間で700キロ走ったとか言うと驚かれる。でも、やっている本人としては、それほどのことをしている意識はない。やりたいからやっているだけだ。そもそも一日100キロなど、自転車乗りの中ではヒヨッコである。一日で300キロ走る人などざらだし、アメリカ大陸5000キロを16日間で横断してしまった人だってある。

ただし、それほど大変じゃなくても、何かしら精神に影響を及ぼすことだけは間違いない。頑張る、と言うことだけでもない。それ以外にも、何らかのポジティブな影響があるから、やるのだと思う。(ランナーズハイもそれに含まれるかもしれないが、それはまた別の次元の生理学的な現象なのだと思う)。

でも、こんなことをぐだぐだ書いていると、僕も『自転車旅行について語るときに僕の語ること』という本を書いてしまいそうだから、吉野川に戻ろう。

あえて道に迷う喜び

川沿いの道を走っていくと、どんどん吉野川の水量が増えていくのが分かる。支流から流れこむ水が加わるからだ。支流があると川幅も広くなり、遠く迂回しないと前に進めなくなることがある。農道を走ったり、大きな街道に出たりして迂回して、また川沿いの道に戻るわけだ。道もだんだんややこしくなってきた。

2時間くらい走ると、確実に腹が減る。国道のコンビニでお握りを買い、また堰堤の道に戻るが、どこにも座る場所がない。ベンチくらいあるかと思ったが何もない。河原へは増水で降りれない。しょうがないから、停めてあったパワショーベルのキャタピラに座って昼飯を食べた。こんなこと初めてだが、絵本の一場面になりそうな出来事なので、心に留めておくことにしよう。

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一人ぽっちのシャベルカーのお膝で昼ごはん

鳴門まで迷いつつ走る

昼飯を食べて1時間ばかりも走ると、川幅がさらに広くなり、徳島に近づいてきたことが分かる。田舎の風景が消え、高速道路が走っている。河口が海に注ぎ込むところまで行くつもりだったが、もう難儀な気分になってきたから、名田橋と言うところから鳴門に向かって戻ることにした。これで吉野川ともお別れだ。

国道をまっすぐ鳴門に戻るのもつまらないから、地図を見ないで、適当に裏道を戻ってみることに。意図的に迷子になるわけだ。15キロくらいだから、どうと言うことはない。農地と宅地が入り混じった土地を、細っこい道が縦横無尽に走っている。

ところが、こういう農道というのはまっすぐではないから、あっちで曲がり、こっちで曲がり、気がついたら逆を向いていたりで一筋縄ではいかない。交通量も意外に多くて、しかも地元の人ばかりだから、車が狭い道を飛ばしてくる。ちっとも気が抜けない。

そうやって、うねうね走っていたら結構くたびれた。鳴門に着いたら、午後3時。曇り空がどよんとしていて、2週間の旅が終わったというのに、ファンファーレが鳴るでもなし、立派にゴールインしたと言う晴々とした気分でもない。高校時代、時々午後の授業をふけって悪友と喫茶店にしけこんだが、その時のような中途半端な気分だ。

そんな、ぼんやりとした気分のまま、コンビニでいつもの100円コーヒーを買い、おやつを買い漁る高校生たちに混じって、店の前で立ったまま飲んだ。100円コーヒーもこれで最後と思ってガブっと飲んだら、熱くて唇に火傷した。

ビジネスホテルに戻ると、「お帰りなさいませ!」と、フロントの兄ちゃんが威勢よく言う。三泊も同じホテルに泊まっていると、すっかり自分の家のような気持ちだが、今夜寝たら、もう明日は空港まで走るだけ。その後は東京だ。

旅の終わりはあっけない。旅を始めた時の興奮はすっかり使い果たし、僕は空気の抜けた風船みたいになっている。そして、そのまま空気の抜けたまま、元来た場所に戻っていく。

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陽水の「チエちゃん」みたいな空を飛んで帰ってきた

でも、旅は終わった時、一冊の本、一遍の物語になる。訪れた場所は、本の中の物語、言葉や文字だ。昔読んだ本を再読すれば、懐かしくもあり、新しい発見もある。昔訪れた場所を再訪すれば、知っているはずの場所なのに全く違った印象を受けたりもする。それは、その場所が変わったからなのか、自分が変わったからなのか。再訪には、そのことを発見する喜びもあるだろう。僕も、またいつか四国に来てみたい。

二年越しの二回の自転車旅で四国をほぼ一周したわけだが、走った距離は両方合わせると1400キロ、平均時速は18キロくらいだった。このスピードが、僕には実にちょうどいい気がするし、そんなようなペースで、これからも生きていきたい。

私の旅に付き合って読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。また、どこかの旅で会いましょう!

(四国の自転車旅Version 2、これで全部終わり)














posted by てったくん at 16:33| 日記

2020年01月07日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第8話  
11日目 高松から鳴門まで走り、 うどん屋の女性の讃岐弁がブルースに聞こえたこと


「その土地の起伏を知りたかったら自転車で旅するのが一番だ。汗かいて坂を登ったり、飛ぶようにして下ったりして。」 アーネスト・ヘングウェイ


県道10号線と11号線を行く

高松のビジネスホテルを6時半ごろ出発。外は、ぶるっと震えるほど寒い。秋の長旅は、だんだん冬に近づく旅でもある。

今日は高松から鳴門まで90キロほどを走るのだが、海沿いの11号線は交通量が多そうなので、内陸の県道10号「東さぬき街道」を行くことにする。こういう古い街道を走るのもまた味があるだろう。


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県道10号はまっすぐ続く

と思ったのだが、地図で見るのと実際に走るのでは違っていた。高松郊外の県道は、ずっと真っ直ぐで、いささか退屈だった。車も多い。高松の郊外は、日本の地方都市ならどこでもそうなように、広大な駐車場のある大型商店、学校、倉庫、工場、物流センター、病院、レストラン、コンビニと言った建物が脈絡なく、どこまでも並んでいる。殺風景と言う他ない。大体、10日以上も自転車に乗って旅していると、最初の頃のキラキラしたような感受性は薄れ、何を見てもあまり感激しなくなってくる。疲れも溜まってきているからだろう。その上今朝は、ウインドブレーカーを通して寒気が入ってくる。着られるものは全部着ているので、しばらく我慢するしかない。

走り出して4、50分、ようやく体も温まってきた。街道沿いのコンビニでコーヒーと三角サンドイッチの朝ごはんを食べる。このコンビニは、かなり裏ぶれた感じで、店員は疲れ切ってレジの前に立って仕方なく接客している。店も乱雑で、トイレの掃除も行き届いてない。こういう店に入ると貧乏くじを引いたような気持ちになるが、コンビニの経営も大変なのだろうと思うと、気の毒だ。しかし、こちらはお陰様で、コーヒーを飲んで朝ごはんを食べると元気が出て、気分も上向きになった。外をみれば青々と晴れ渡り、素晴らしい天気だ。コンビニ、がんばれ!

もうしばらく、平らな県道10号を走っていくが、高松の街並みが切れるあたりから道も変化し始め、くねくねと蛇行したり、緩やかに登ったり降りたりして面白くなってきた。香川の南側は四国山地の高い峰が屋根のようにそびえ立ち、それを右側に見ながら走っている。

道路の反対の左側、すなわち北側は平地でありながら、ぽこぽこと小さな山があちこちに隆起している。こう言う小さな山は、せいぜい標高100メートルくらいだから、植林などの用途に使えるほど大きくはないだろう。でも、きっとてっぺんには祠や神社のようなものがあって、神様や仏様の住処として役立っているはずだ。だから山の麓には寺や神社が建っている。何百年も前からあるのだろう。このあたりには古墳もいくつかあるみたいだから、弥生時代、もしかしたら縄文時代から人が住んでいた証拠だ。

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神様のおうち

このあたりの街道わきには貯水池がたくさんある。レンコンを栽培しているのか、びっしりと蓮が植えてある池もある。休耕田には秋らしくコスモスが咲き乱れている。日本の田舎の素晴らしいところは、どこもかしこも人の手が加わっていて、神様がいて仏様がいて、家があってお墓があってお地蔵様がいて、岩には文字が掘ってあって、山には道標があって、どこを見ても風景に変化があることだ。僕は、オーストラリアの手付かずで荒々しく、そして寂しい光景をこの20年見ながら生きてきたから、こういう日本の田舎を見ると、とても嬉しくなる。

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堰堤に並ぶ由来不明の石碑。

三本松の町を抜けてしばらくすると、また瀬戸内の海沿いに出た。ここからは11号線を行く。11号線は高松と徳島を結ぶ幹線で交通量も多い。その癖、通り沿いの街並みは埃っぽくて、ひなびている。引田というところで寄り道をして、古い街並みに入る。大きな醤油屋の建物は江戸時代そのままで、中からは強烈な醤油の匂いが漂ってくる。中を覗いたが全然人気がない。この町自体とても静かで、路地をしばらく縦横に走ったが、僕以外に街を歩いていたのは一人旅の女性だけであった。唯一人たくさん人を見たのは町の小さなスーパーでトイレを借りた時だけで、それは軽自動車に乗って買い物にきている老人たちだった。

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引田の醤油屋

また海沿いを走っていくと淡路島が見えてきた。もうすぐ徳島県だ。この旅のスタート地点に戻ってきた訳だ。海岸の眺めは素晴らしいが、どこもゴミだらけで、サビた鉄骨の廃墟や骸骨みたいな建物がたくさんある。味のある風景とも言えるが、もう少しきれいにできないものか。


ハスキーボイスのうどん美人

香川県と徳島の県境あたりの海岸沿いに讃岐うどん屋があった。トラックや配達のバンなどが止まっているのは、安くてうまい証拠だ。讃岐ともお別れだから、少し早いが昼飯にすることにした。

ここもセルフ店であるが、チェーン店のような虚飾はなく、あくまで質素な店だ。店内は、だし汁とうどんを茹でる湯気の香りが立ち込めている。老夫婦とその娘みたいな中年女性の三人だけでやっている。爺さんと婆さんは、口を一文字に結んで無愛想にカウンターの奥で仕事し、娘みたいな女性は、馴染みの客と大きな声で喋りながら、空の器を片付けたり、レジを打ったりしている。見れば、うどん屋に置いておくには、ちょっともったいないような美人だ。そのハスキーボイスも耳に心地よい。途端に、しばらくこのうどん屋で働きながら暮らしたらどんなものだろうか、などと考えるが、その発想がどこから来るのか自分でもよく分からない。

雑念を振り払い、うどんは「ぶっかけ」の小に決める。360円である。様々な天ぷら類がバットに入って並んでいるが、これは三つで100円だ。ソーセージとイカとシメジとナスの天ぷらを取り、これで510円であった。


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たくさんの天ぷらを揚げるのは重労働だろう

ハスキーボイスのうどん美人は、馴染みの夫婦客と大きな声で話をしている。週末に飲みに行ったが、日本酒から焼酎にスイッチしたら二日酔いしなくなったとか、たわいもない話だ。讃岐弁なのだろうが、彼女の方言は実に心地良い。うどんをすすりながら、その会話を聞くともなしに聞いていたが、こういう話にカントリーかブルースのメロディーをつければ、それなりの曲になってしまう感じだ。

うどん屋を出てしばらく走ると、すぐに徳島県鳴門市の境を越えた。その先で11号から大鳴門橋に至る鳴門スカイラインに折れると看板があり、ここらに第一次大戦中にドイツ人の捕虜が収容されていた収容所があったと書いてある。道脇の海岸は、そのドイツ兵たちが遊びにきた海岸とのことだ。僕は、お腹に入れたうどんが重たいので、その海岸で一休みすることにした。

ところがそこは、ひどくゴミだらけの汚い海岸だった。魚網か何かをしまっておく倉庫があり、その周りの汚れた水溜りが生臭い。その傍には税金で建てた思しき真新しい東屋があって、そこの看板にも、ドイツ捕虜たちがこの海岸で遊んでいる様子が描いてある。ふんどし姿のドイツ兵たちのイラストがあり、彼らは、この浜で村人たちと相撲をとったり、魚釣りをしたと説明にある。それが縁で、鳴門市とドイツの間には今でも友好関係があると言う。そんな大切な場所ならば、もう少しきれいにすれば良いだろうに。これではドイツ兵の霊も浮かばれない。

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だから、ゴミでアートを作る人もいる

いささか薄汚い場所だが、お腹が重たくて、そのせいでまぶたも重たくて仕方がないので、ベンチに腰掛けた。ゴミくさい潮風にうたれながまぶたを閉じたら、そのまま熟睡してしまった。夢には、ふんどし姿のドイツ兵たちが出てきて、浜で戯れていた。


鳴門スカイライン、鳴門の渦潮と大鳴門橋

午睡をして元気を取り戻した僕は、鳴門スカイラインにとりついた。「スカイライン」と言うだけに景色は良かった。片側は瀬戸内海が太平洋に注ぐ鳴門海峡を望み、反対側は小舟をたくさん浮かべた鏡島を見下ろす山上の道である。しかし、その登りは険しく、最後は10%の急勾配に汗みどろになり、息も絶え絶えで頂上の展望台に到着した。

景色は素晴らしかったが、感想を言うならば、「スカイライン」と言う名称の道路は、サイクリストにとっては鬼門である。この類の道路は自動車やオートバイですっ飛ばすには良いが、自転車や歩行者が人力で通行することは全く考えられていない。


淡路島方面を望む
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鳴門スカイラインの終点まで走ると、そこは大鳴門橋を見下ろす展望台だった。有名な鳴門の渦潮もここから見える。だから観光バスがたくさん止まっていて、人が仰山いるのだった。僕はそこで10分だけ立ち止まり、遠くの渦潮を眺めると、すぐに山を降りた。渦潮は、間近で見れば迫力があるのだろうが、山上から見ると、ただの波だっている海面だ。大鳴門橋も立派な橋であるが、たくさんの自動車が唸りを上げて走っているだけである。

鳴門でボンカレーの大看板を見上げ、餃子の王将を食べて昭和にタイムスリップ

展望台の山をものの3分で駆け降り、寂しい海岸をしばらく走ると、そこは埃っぽい鳴門市街だった。この町は大塚製薬の町だそうで、道理で工場や倉庫が多く、トラックがいっぱい走っている。倉庫の壁面は、ボンカレー、ポカリスエット、オロナミンC、カロリーメイトなどの大看板だ。なぜ製薬会社がカレーを作っているのか不思議に思ったが、それは大塚食品という小会社の製品なのだそうだ。あの銀色のレトルトのパウチは、なるほど製薬会社が考えつきそうな容れ物だ。

僕にとってボンカレーは、もはや食べることのない絶滅食品だが、中高時代、そして大学のワンゲル時代には山で時々食べた。ボンカレーのせいなのか、あるいはカップヌードルかもしれないが、僕の時間感覚の中で「何かを待つ」行為のデフォルトは三分間である。

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ボンカレーの女優さんは、なぜ和服なのか?

オロナミンCはけっこう好きだった。子ども時代、まず滅多に飲ましてもらえず、こっそり隠れて飲むその味は麻薬的だった。あれをコップに入れて飲むと薬品めいた黄色が気持ち悪いが、茶色の小瓶に入っている限り美味しい飲み物である。大村崑の出てくる傑作C Mも良かった。若い頃、輪友T村とサイクリングに行って峠越えなどで疲労困憊した際に飲むと、魔法のように元気が出たから不思議だ。ヒロポンなど、昔の麻薬の経験がある人が開発したのかもしれない。今は、同じ大塚製薬でもポカリスエットの方が健康的で美味しいと思うが、オロナミンCが廃れないのは、あの薬品ぽさ、不気味さ故であることは間違いない。(ただ、あれに卵や牛乳を入れて飲むのは気持ち悪すぎる。それに子どもが飲むには、カフェインや糖分が多すぎるに違いない)。

とにかく、懐かしかったので、その感動を共有するために、ボンカレーとオロナミンCの看板を撮影し、その場でT村に送った。

その晩は、鳴門のビジネスホテルに滞在した。鳴門駅前にはこれと言った食べ物屋が見当たらなくて、一番近くの「餃子の王将」で食べた。疲れていたので異存はない。これだって懐かしい味だ。大学時代によく江古田駅前の汚い店で食べたが、一体あの餃子の中身の具は何だったのだろう?昔も今も謎だ。鳴門の餃子の味は、昔のよりは飛躍的に向上した気がした。店員も、ひたむきに仕事をしている中国の女性であったから、より美味しく感じたのかもしれない。

大塚製薬といい、餃子の王将といい、昭和にタイムスリップした心持ちがした。「あの頃」は一体どこへいったのだろう?

これで僕の四国一周の旅はほぼ終了だ。明日と明後日は、何かあったときの予備日であるが、せっかくだから吉野川を遡ってもうひとっ走りするつもりだ。

(最終回に続く)
posted by てったくん at 13:14| 日記

2020年01月03日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第7話  

9日目 高松から小豆島に渡り、時計回りに一周。アナゴ丼を食べ、ヤマンバの宿に泊まったこと、
10日目 放哉の南郷庵を詣でてから、高松に戻ったことなど。


「すべての旅には、旅人自身ですら気がついてない秘密の行先がある」 
マルチン・ブーバー(イスラエル、宗教家)


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九日目 高松から小豆島へフェリーで渡る

今日は小豆島を一周する予定だ。小豆島と言っても一周すれば最低でも80キロ、丹念に回ればもっと長くなる。

朝7時高松発、小豆島の土庄行きのフェリーに乗る。早朝なのにほぼ満席、みんな瀬戸内トリエンナーレという美術展に行く人たちのようだ。この美術展は、瀬戸内の直島、犬島、女島、男島、豊島などを会場に、世界有数の現代美術家の作品を展示している。数年前見にいったが、素晴らしく見応えがあった。うちの女房は美術家なので、彼女とまた一緒に来たら楽しいだろうが、そうなるとゆっくりサイクリングどころではなくなるかもしれない。

これまで走ってきた田舎では老人が多かったが、美術展に行く人は若い人が多い。当然都会的な雰囲気になって華やかだ。心なしか、フェリーも元気に真っ直ぐ小豆島に進んでいる。向かいの席にはドイツ人らしい夫婦が座っており、向こうには折り畳み自転車を持った台湾人らしいグループがワイワイ楽しそうある。きれいに着飾った可愛い女の子二人は韓国から来ているみたいだ。小豆島へ向かうフェリーはたくさんの喜びを乗せて瀬戸内を走っている。

フェリーの中で、コンビニのサンドイッチで朝ごはんにする。見れば船中にもうどん屋があり、レースのスカートをまとった美術展行きのギャルが立食いをしている。うどんの汁の匂いが立ち込める室内を抜け出し、デッキに立つ。行く手には大きな島が見え、高くそびえた寒霞渓があるから小豆島とわかる。

なぜ四国旅行に小豆島を含めたか、その理由を書こう。小豆島は最初の計画には入っていなかったが、吉村昭の小説『海も暮れきる』を読んで断然行きたくなった。この本は、俳人の尾崎放哉(1885−1926)が小豆島で過ごした最後の2年間について詳述したものだ。放哉は、種田山頭火(1882−1940)とほぼ同時代に生きて、五七五に囚われない自由律俳句の秀作を多数残した。放哉は、これまた山頭火と同様、仕事や家族を捨てて放浪し、最後は小豆島で病没している。人生最後の1、2年に集中して優れた俳句をたくさん書いたことでは、正岡子規にも似ている。放哉は、小豆島の土庄町の西光寺にある、南郷庵という小屋を終の住処としたが、ここに住んだのは、海が見えて、酒が飲めて、何より静かに俳句が書けるからだった。だから放哉の句の背景には小豆島の海がある。僕は、その海がどんな海なのか、ぜひ見てみたくなった。


小豆島で放哉が書いた句をいくつか:


いつも寂しい村が見える入江の向ふ

庭をはいてしまってから海をみている

足の裏洗へば白くなる

海が少し見へる小さい窓一つもちたる

いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞

自分をなくしてしまって探している

縁の下から猫が入って来た夜

ごそごそ寝床の穴に入っておしまひ


小豆島を一周する

どんな島でも一周するのは楽しい。時計回りなら、海を左側に見て走っていくと、元いた場所に戻ってくる。何だか狐に化かされたようだ。「行って戻ってくる」というのは一つの物語形式であるが、そんな絵本に『パナマってすてきだな』(ヤーノシュ作と絵、矢川澄子訳、あかね書房)という作品がある。これは、仲良しのトラとクマが、「楽園の国パナマ」を探しに行く物語だ。二人は、そこらを一周して元の家に帰ってきて、そこが結局楽園パナマであったことを発見する。「旅」の定義は色々あるだろうが、行って帰ってきてこそが旅なのかもしれない。だったら放哉や山頭火のように、放浪した挙句、最後に異国で野垂れ死にするのは、果たして旅なのだろうか。でも、死がどこかへ戻っていくことならば、それも旅なのかもしれない。

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万国旗のような人々をのせたフェリーは、土庄に朝8時過ぎに到着した。ここでフェリーを乗り換える人たちは下船する。たくさんの人が次のフェリー乗り場まであたふた走って移動しているが、どうしてあんなに急ぐ必要があるのだろうか? 

まず、今日泊まるMという民宿に荷物を預けに行く。Mは土庄港からすぐだった。ガタガタした扉を開けると、200歳くらいの、前歯がすっかり抜け落ちた婆さんが奥から出てきた。ヤマンバだ!と、僕は声をあげそうになった。「予約した渡辺です。今夜泊まるのですが、とりあえず荷物だけ置かせてください」と言うと、「ヒャア、二階に部屋を用意ひてあるからヒャア、ひょこに置いておけばいいヒャア」と言う。「ヒャア」と言うのは、歯ぐきから空気が抜ける音だ。婆さんは急な階段を登って二階に案内してくれたが、階段を上がるのもやっとのようだ。僕は、転がり落ちてきたら抱き抱えるつもりで後から両腕を広げて登ったが、幸い、その必要は生じなかった。

荷物を部屋に放り込んで身軽になった。尾崎放哉の西光寺はこの土庄にあるが、見学するにはまだ時間が早過ぎるので、まずは島を一周することに。

土庄の町は迷路のようで、びっしりと古い家が立ち並び、その軒先をかすめるようにくねくねと道が走る。背のびしたような路地の間から、背後の山を見上げながらゆっくり走っていくと、運河があって町を二分している。運河を渡り1、2キロも行くともう町は終わりで、あとは、ひなびた海岸が続いている。島の南側、つまり香川県側は開けていて町がいくつかあるが、北側の本州側は寂れた村落がいくつかあるだけだ。

まずはその寂れた側を走っていく。車も滅多に来なくて、誰も歩いていない。海の向こうには島がいくつも見える。瀬戸内は静かだが、狭い海峡だから早くて複雑な海流が流れているはずだ。もちろん、地上から見ても分からない。

緩やかに登ったり下りたりする海沿いの道を走っていく。見れば道端にピラミッドがある。もしかしたら例の美術展の作品だろうかと思って近づけば、墓石を積み上げたものだった。足元の一列は古い地蔵である。後で調べたら「無縁さん」と呼ばれるもので、役目の終わった墓石を積み上げたものらしい。縁がなくなった墓石であるから無縁さんと呼ぶのだそうだ。古い墓は面倒を見る人がいなくなると始末に困る。我が家でも、父方の先祖の墓をそろそろ始末しないといけない時期に来ていて、親類が集うとその話になる。でも、墓をしまうにも手間や金がかかるからなかなか話が進まない。そういう墓が全国にどれだけあるだろう。小豆島ではこうやって古い墓を積み上げても、せいぜい5メートくらいだが、都会でこれをやったら相当な高さになるだろう。地震の時には危険極まりない。海に沈めて魚礁にでもしたら良いが、墓石が沈んでいる海も不気味だろう。

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その先の集落には、小さな道の駅があった。ここで地みかんを買って食べていたら、反対側からサイクリング旅行のおじさんが来た。みかんを2、3個お裾分けして、しばし話をする。

「小豆島の一周は、それほどきつくなさそうですね」と、僕。
「いや、この先の福田港は、入るにも出るにも、結構な登りがあるから注意が必要だよ」と、おじさん。

この人は関西のどこかから来たらしく、小豆島も初めてではないらしい。見れば、イタリア製の値の張る自転車に乗っている。その癖、宿代がもったいないから今日は野宿だと言う。何だか矛盾しているが、考えてみれば、自転車なんて自動車ほど値が張るわけではないから、いくら高級車に乗っていても金持ちとは限らない。

みかんを食べながら、そう考えてちょっと安心した。実際その人は、僕のあまり高級でもない自転車に感心し、「これは珍しい自転車だから、写真を撮らせてください」と言ってパチパチ写していった。僕は、ザマアミロと誇らしい気持ちになった。出来の良くない息子が褒められたような気分だ。褒めてくれたお返しに、「僕も写真を撮らせてください」と言って、高級自転車の写真を写させてもらったが、それは単なる義務感からであった。自分で言っておいて気分が良くなかったから、そういうお愛想は言わないことに越したことはない。

みかんを食べると「大阪のカエルと京都のカエル」みたいに、僕とサイクリングおじさんは右左に別れた。しばらく走ると福田港だった。福田港に入る前には、確かに長い下り坂があった。ここは、小さいながらもフェリーが出入りする港だから店や食堂が少しある。ちょっと早いが、昼飯を食べようと港の食堂をのぞいた。すると、すでにロードバイクの若者十名ほどが占領していて、「腹減ったなあ、早くアナゴ丼を食いたいなあ」と、アホ面をして座っている。それを聞いて、僕もそのアナゴ丼を食べたくなったが、小さな店だから、この集団の後となると、かなり待たされる。どうしようか?

すると今度は、大きなピカピカの岡山ナンバーの黒塗りワゴンがやってきて、中から、人相も服装も非常に良くない親父たちが七名降りてきた。この親父たちも店をのぞいたが、ほぼ満席で座る場所はない。この男たちがどれくらい人相が悪いかと言うと、ビートたけしの『アウトレイジ』と言うヤクザ映画に登場する男たちを想像してもらえばぴったりだ。この親父たちは、「おっ、山ちゃん、ビールも冷えてるぜ、ビール、ビール!ビールでアナゴ丼!」とか騒いでいる。やばい状況になってきた。

そこで僕はハンカチ落としの要領で、ひとつ空いていた席に電光石火の如く座った。そして間髪を入れず、「アナゴ丼ひとつね!」と注文した。

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ヤクザ的七人は、粘り強く諦めず、店の外のベンチで待つことにしたようだった。僕のアナゴ丼は案外すぐにやってきた。それはおいしいアナゴ丼だった。穴子は柔らかくさっぱりした味で、ご飯もすまし汁もおいしい。親父たちは、店の外でよだれを垂らさんばかりにして人々がアナゴを咀嚼している姿を見ている。僕は、親父たちからもっとよく見えるように座り直すと、ことさらゆっくり美味しそうに食べた。食べ終わってもそうすぐに席を立たず、悠々と爪楊枝を使い、お茶を飲んだ。そして勘定をすますと、さっさと自転車にまたがって福田港を後にした。

福田港を出ると、登り坂だった。それは確かに急な登りだった。それでもサイクリングおじさんが言うほどではなかった。サイクリングおじさんは高級自転車に乗っていたくせに、案外見かけ倒しだったのかもしれない。登り坂がどれくらい大変かは、主観によるところも大きい。傾斜はパーセントで測れる。例えば8%の登りは結構きつい。しかし、それだって一つの目安にすぎない。その時僕のお腹にはアナゴ丼が入っていたから、それが燃料になって急坂をスイスイ登れたのだろう。


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美しい廃屋

とか考えながら走っていると、いつの間にか小豆島の賑やかな側に到達していた。とたんに自動車が多くなってきたから、そう分かった。小豆島なんて小さな島だと思って見下していると大間違いで、ここには実に色々なものがある。その証拠に、しばらく行くと「オリーブの丘」と言う観光地があった。その時は、ちょうど目の前を仮面ライダーみたいな(悪く言えばゴキブリみたいな)黒いウェアに身を包んだ親父が、これまたイタリア製高級ロードバイクに乗って走っていた。僕は、捕まえてとっちめてやろうと意識していたわけではないが、正直に言えば、いささかしゃくな気分で、こいつを追いかけていた。だから普段ならばこう言う観光地は素通りするのだが、ゴキブリ親父にくっついて、自然とオリーブの丘に来しまったわけだ。でも、ちょうど午後3時くらいのコーヒータイムだったから、結果論的にはそれで良かったのだ。

オリーブの丘には、オリーブの木がたくさん植っている。オリーブの木なんて、僕が住んでいるメルボルンには、ギリシャ人がたくさんいるから珍しくもないが、香川県民やその他の民衆には目新しいのだろう。オリーブの丘には、どう言うわけかオランダ風車なども建てられている。その上『魔女の宅急便』にも何か関連があるようで、この物語の主人公の魔女の子が乗っているホウキをタダで貸してくれるようになっている。ここに集まっている人たちは、そのホウキに乗ってセルフィーを撮ろうと辛抱強く列をなしている。

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ホウキに乗って飛ぶ人たちを眺める

僕は、そのような幼児的退行現象を眺めつつも、おおらかな気分でソフトクリームをなめた。それだけでは足りず、抹茶コーヒーなるケッタイなものまで飲んでしまった。真面目に80キロばかり走り、疲れて喉も乾いて、甘いものとカフェインを欲していたからだろう。そしたら気持ち良くなってベンチで30分ほど眠ってしまった。目を覚ますと僕はすっかり元気になっており、ゴキブリ親父もいなくなっていたので、土庄の宿まで最後のひとっ走りすることにした。

そこから宿まではたった30分ほどだった。これで小豆島一周は完結だ。走った距離は80キロだった。もう夕方だし、民宿の部屋でくつろいでいたら、ヤマンバがやって来てた。「今日はお客ヒャンが多いからヒャン、4畳半の小部屋へ移ってくれヒャア」と言う。

「え、今から?面倒だなあ」とか言いつつも、ついお人好しの顔をしてしまい、荷物を抱えてトイレ横の四畳半に移った。移ってから、トイレの横とは失敗だったと後悔した。仕方なくお茶を飲んでいたら、またヤマンバがやって来た。「狭い部屋に移ってもらって悪いからヒャア、これだけおまけしとくヒャン」と言って500円玉をくれた。3000円の宿代が2500円になった。本当は、性根の良いヤマンバなのかもしれない。しかし、油断させておいて、後でとって喰う算段かもしれない。C I Aとか陸軍中野学校がよくとる戦略である。

さて、そろそろお風呂に入りたかったが、「お風呂は、まだ入れてないヒャア」とヤマンバ。やはり一泊2500円の宿だ。そこで近くの高級ホテルの大浴場に行くことにした。昔話では、風呂から出てくると、ヤマンバが待ち構えていて、包丁で輪切りにされて食べられてしまうのだから、用心に越したことはない。

高級な大浴場にゆったりつかった後、カルピスを飲みながら港で涼んだ。見れば、港にもオリーブの木が植っている。もうすぐ暮れていく空を背景に、木に梯子をかけて実を収穫しているおじさんがいた。

「うちにも小さなオリーブの木があるんだけど、どうやったらそんなに実がなるのかな?」と、僕。
「雄の木と雌の木を植えてやるんだよ。そうすれば実がなるさ」と、おじさん。
「これだけ木があったら収穫も大変ですね」と、僕。
「今日はここにある数本をやったから、もうおしまいね」と、おじさん。

一句浮かぶ:

オリーブの 枝に輝く 星の粒

宿では、買ってきたコンビニ弁当を食べ、ヤマンバよけにガッチリ鍵をかけてから早くに寝た。

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10日目 尾崎放哉の庵を詣でて、また高松へ

朝8時に民宿Mを出る。阿波池田の3700円の駅前旅館では、ショートヘアの可愛らしい女将に心がときめいた。小豆島の2500円の宿にはヤマンバがいて、何度も部屋にやってきた。1200円の差額で、この違いとは驚きだ。出がけにヤマンバが見送ってくれたが、一緒について来たら大変だから、さっさと飛び出した。

まだ朝は早い。とりあえず、土庄の近くの弁天島に行く。この小さな島は、エンジェルロードと名付けられた砂州で小豆島とつながっている。この砂州を恋人と渡ると、二人は永遠の愛で結ばれるのだそうだ。だから縁結びの妖精にちなみ、この砂州をエンジェルロードと名付けたと、そんなことらしい。

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弁天島とエンジェルロード

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赤いマジックで永遠の愛が記されている

エンジェルロードの砂州を渡ってみると、手をつないで歩いているカップルもいる。老人も多い。すると僕の脳裏には、なぜか民宿のヤマンバが想い浮かんだ。もし彼女が追いかけてきて、僕の手を取ってエンジェルロードを渡ってしまったら、永遠の愛をヤマンバに誓う羽目になる。まるでホラー映画だ。僕には、こうなったら困るということを、つい想像してしまう癖がある。強迫性障害か? そういう人の中には、強迫観念を振り払うために異常な行動をする人があるらしい。例えば、過度の手洗いなどである。幸い、僕にはそういう癖はない。でも、念のため、トイレで丁寧に手を洗った。もう大丈夫、ヤマンバは追ってこないだろう。僕はそう確信してトイレを出で、弁天島を後にした。

そこから、名前は知らないが、弁天島の先から小さな半島がコブのように飛び出ているので、そこを一周した。12、3キロだったろうか、海辺をすっ飛ばした。瀬戸内のこのあたりは高波も来ないのか、海辺ギリギリまで家が建っている。こういう家の縁側で寝っ転がったら、頭の高さに海が見えるのだろう。そんな家に一度でいいから住んでみたい。


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尾崎放哉の墓

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放哉が晩年を過ごした南郷庵

お昼前土庄に戻る。西光寺の南郷庵を詣でた。海辺の明るさに比べると、ここは何と寂しい場所だろう。町外れの、すり鉢のように窪んだ土地にびっしりと墓が並んでいる。「放哉さんのお墓→」という看板があったので、辿っていくと、墓地の上の方にその墓があった。 墓の前に立ち、どこかユーモラスな、それでいて寂しげな俳句を放哉がここで書いている姿を想像しようとした。この場所は、僕が想像していた通りとも言えるし、全然違っていたとも言える。放哉がここにいた90年前は、もっと寂しい場所であったに違いない。南郷庵は思ったよりも立派な建物だった。中は記念館になっていて、資料が展示してある。放哉直筆の手紙や俳句、知己や友人からの手紙や関連書籍などがびっしりと置いてある。一つ一つ手にとって読んでみたい気持ちにも駆られたが、なぜか、そうすることがためらわれた。むしろ、そんなことはせずに、南郷庵の寂しい印象を抱いたまま、この場を立ち去るべき心境だった。まるで、放哉さんに、そうしなさいと言われたような心持ちだ。帰ったらもう一度、南郷庵と小豆島の印象が風化しないうちに、また放哉の句を読んでみよう。

その後、僕は高松までフェリーで戻った。その日の残りは休息にして高松見物と洒落込み、菊池寛記念館、香川県立美術館をゆっくり覗いた。

さあ、旅もいよいよ終盤である。明日は高松から徳島の鳴門まで戻る。そして、締めくくりに吉野川を遡って走り、それでこの旅も終わりだ。

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(続く)

放哉の俳句は以下から引用: 
『尾崎放哉全句集』村上譲著、ちくま文庫
『尾崎放哉句集』池内紀編、岩波文庫



















posted by てったくん at 14:30| 日記