第9話 最終回
12日目 雨の徳島見物をして、
13日目 最後に貞光まで輪行し、雨上がりの吉野川沿いを徳島、鳴門まで走ったこと
「But it’s all right 歳をとって髪が白くなっても、
But it’s all right まだ言ってないことがあっても、
But it’s all right やってないことがあっても、
But it’s all right 生きたいように生きられれば、
But it’s all right せめて許してやれるなら、
But it’s all right 風の中をすっ飛ばせるなら、
But it’s all right 自分が満足できる人生を送れるなら、
But it’s all right 太陽が輝かなくたって、
But it’s all right 俺たちゃ、みんな終点に向かって走っているんだから」
(トラベリング・ウィルベリーズ、The End of the Lineから。
ジョージ・ハリソンが歌っている箇所)

吉野川のどこかで
雨で停滞し、徳島見物で北条民雄の文学に出会う
鳴門には、結局三泊した。鳴門がそれほど気にいった訳ではないのだが、天気が崩れたので停滞したのだ。着いた翌日は大雨で、仕方ないから鳴門線で徳島まで行って町をぶらついた。
雨で停滞したことは以前にもあるが、そう頻繁にあることでもない。一泊や二泊の短い旅行では、停滞している時間的余裕がないからだ。大概は、雨が降っても雨具を着て走るか、あるいは、思い切って帰宅するしかない。
しかし、長い旅ではそういうこともある。思い出深いのは、北海道の網走でのことだ。結婚した翌年の夏休み(僕はそのころは学校の先生だったので、夏休みがちゃんとあったのだ。)、女房と僕は自転車にキャンプ道具を積んで、北海道を二週間ばかり旅行していた。ところが、網走のあたりで台風がきてしまった。夏の北海道は旅行者が多いから、天気が崩れるとたちまち宿が満杯になってしまう。インターネットもない時代だから、網走駅の旅行案内所で紹介してもらい、ようやく町外れの商人宿に泊まった。トイレも風呂も共同、部屋はドアも壁も薄っぺらなベニヤ張りで、わざわざ泊まりたいような宿ではなかった。それでも雨に追い立てられた客で満杯だった。
その中に、「丸ケン興業」の御一行がいた。「興行」と言うのがどんなビジネスを指すのか分からないが、この一行は、服装から髪型から物腰から、明らかに「ヤ」から始まって「ザ」で終わる名称の業種の方達と分かった。珍しいことに、総勢二十名ほどの丸ケン御一行は、家族連れの慰安旅行で、旦那衆だけでなく、オカミさんとガキどもも連れていた。
僕も女房も、こう言う筋の方達と袖振り合う仲になるのは初めてだった。網走という土地柄ではあったが、これを機会に親しくなりたいとは思わなかった。だから僕たちは、「触らぬ神に祟りなし」であることを肝に命じ、彼らとは距離をおくことにした。丸ケンの皆さんも、親分の部屋で酒盛りをしていたから、接触はせずに済みそうだった。開いたドアから見えたが、「大五郎」という焼酎の大瓶が部屋の真ん中にドスンと置いてあり、湯飲みでガブガブ飲んでいる。酒焼けした強面が円陣になって座る様子は、鬼ヶ島の酒盛りのようであった。僕は、その時までこういう安い焼酎のマーケティング上の意図を理解してなかったが、「ああ、こういうシチュエーションで飲むわけね!」とその時納得した。
触らぬ神に祟りなしであったが、丸ケンさんたちと夕食時に食堂で一緒になってしまった。彼らは、酩酊して赤黒くなった顔でドカドカ食堂に入ってくると、ものすごい物音をたてて飯や汁を咀嚼し始めた。その間、僕たちカタギ客は恐ろしさのあまり、凍りついたようになり、食堂は静寂になった。従業員たちは、給仕をすますとさっさと姿をくらました。もはや何の助けも見込めず、僕たちは食事を続けた。丸ケンさんたちは、斜めにテーブルに座ってひたすら食い、3分くらいで親分が食い終わると、全員が一斉に席を立ち、酒盛りを続けるために、ドカドカと部屋に戻っていった。僕は、緊張のあまり食べたものが胃からこみ上げてきそうだった。翌朝は天気も回復したので、早々に退出した。それが網走での停滞の思い出だ。
徳島出身の作家、北条民雄
僕は、鳴門線に乗り、雨に煙る田園風景を眺めながら、そんな昔のことを思い出していた。雨の中、知らない町を一人でぶらぶらするということもあまりない。まず徳島文学書道館を見学に行く。書道には興味がないのでほぼ素通りしたが、文学の展示は面白かった。徳島で有名な作家と言えば瀬戸内寂聴であるが、それまで読んだことがなかった北條民雄(1914−1937)という作家を知ったことが大きかった。北条は、ハンセン氏病にかかり、たった23歳で亡くなってしまったが、北条のハンセン氏病の一連の闘病記は川端康成を驚愕させたと言う。そして、川端の尽力で北条の作品は世に知られることになり、『いのちの初夜』はベストセラーになった。北条は、ハンセン病のサナトリウムの生活の様子を写実的に、しかし、時にはユーモアさえ交えて描いた。その全く冷静な筆致は見事である。
*北条の作品は、以下で読むことができる。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000997/card398.html)

鳴門線の車窓から
徳島は、山を背に抱き、前は太平洋、側には吉野川が流れる美しい町だ。その気になりさえすればいくらでも見物するものがあるのだろうが、雨のせいか、欲張って見物をする気になれない。その上、僕は小学生時代から予習をするのが苦手で、旅も行き当たりばったりなので、何をどう見物していいか分からない。だから昼飯を駅地下で食べ、コーヒー店に座って北条民雄の資料を読んでしまうと、後はすることも思い付かず、また鳴門へ戻る列車に乗ってしまった。
13日目(旅行の最終日): 貞光まで輪行し、吉野川の堤を徳島まで走る
最終日、朝5時に起きるが、まだ雨だ。しかし、昼には上がるはずだ。昨夜のうちに自転車を畳んで輪行袋に入れておいたから、それを担いで始発の鳴門線に乗る。始発だから空いていると思ったら、途中駅からどんどん勤め人や学生が乗ってきて満員になった。徳島の手前の佐古という小さな駅で阿波池田行きの徳島線に乗り換えるために降車する。雨はいよいよ本降りで、ホームが狭くてどこにいても濡れる。惨めな気持ちで10分ほど待つと、阿波池田行きがきた。

雨は激しく降ってた
徳島線は空いていた。雨はまだ激しく降っている。本当にこれが止むのだろうか。携帯で天気レーダーを見ると、南から晴れ間が広まってきているから、列車に乗っているうちにどこかで晴れ間にぶつかるはずなのだが。
朝食を食べていないので、自転車バッグの中のロッテアーモンドチョコを食べる。この箱入りチョコは小学校の時から食べている。サイクリングの時も必ずこれだ。きっと80歳のおじいさんになっても食べ続けるだろう。チョコレートなど、世界で起きている色々なことに比べれば些細な存在だが、僕は、これがあるだけで少しは元気が出る。幸せとは、こういう小さいことの積み重なりかもしれない。

貞光の駅で

雨と晴れの境目の吉野川
貞光という無人駅で降りる。そこは、見事に雨雲と晴れ間の境目だった。みるみるうちに雨雲は遠ざかり、晴れ間が広まってきた。途端に気分も明るくなり、さっさと自転車を組み立てて、吉野川沿いに走り始めた。今列車で来た道をまた戻っていくのだから、満期になった定期預金をすぐに使い始めるような豪勢な気分だ。
さっきまで雨が降っていたし、まだ上流では降っているのだから、吉野川は満々と水をたたえている。満杯の一歩手前くらいだ。台風19号の記憶も新しいし、川沿いの人は冷や冷やものだろう。しかし、不埒なことを言うようだが、枯れた川を見るよりは、水がたくさん流れている川を見る方が豊かな気持ちになれる。
川が流れている景色は、日本には、都会にも田舎にもどこにでもある。しかし、僕が住んでいるオーストラリアには、滅多にない。山と呼べるような起伏も少ないし、内陸は乾いた荒野や砂漠だから、オーストラリアには数えるほどしか川が流れていない。メルボルンを流れているヤラ川やビクトリア州北部を流れるマレー川は長さから言えば大河だが、水量は日本の山から流れ落ちる豊富な水に比べれば、大した嵩ではない。僅かな水にしがみつくようにオーストラリアの人たちは暮らしている。
だから、そんな乾いた場所に住んでいる僕にとって、日本の川沿いを自転車で走ることほど楽しくて、豊かで、変化に富んだ旅はない。川沿いの旅は優しく、それほどきつくもない。どんな山中でも川は一定の傾斜で流れていくから、川沿いの道は勾配も緩やかだ。川を遡れば小さな町があり、村があり、橋があり、堰がある。川には歴史があり、農業があり、林業や工業などの産業があり、交通があり、食べ物があり、独自の暮らしがある。それを自転車でゆっくり見て歩くのは楽しい。吉野川は、色々な橋がたくさんかかっていることで有名らしい。と言うことは、橋のあちら側とこちら側の往来が盛んであることを意味する。僕は、今日は概ね徳島に向かって川の左側を下っていくことにするが、そちら側の方が川堤の道が自転車で走るのに良さそうだからだ。
貞光の駅を出て、大きな赤い、少し錆びついた美馬橋を渡る。川の堤のすぐ足元まで水がきている。昔だったら、これくらいで洪水になっただろう。山を見れば、湿気で山肌から雲が湧いている。雲は普段は空高く浮いているものだが、湿気が多いと地面から湧き出てくる。これもまた、僕が暮らすオーストラリアではまず目にすることのない光景だ。しばらくそんな光景に見惚れて走る。
うだつの上がらない私と巡礼
川沿いの自転車道を下っていくと、穴吹という町があった。「うだつの町並み」が保存してあると看板にある。さっそく寄り道だ。国道に並行して、美しい木造建築が連なる1キロばかりの古い街並みがそこにあった。

ボンカレーの看板が似合う穴吹の街並み

背伸びした路地の向こう、空がのぞいている
「うだつ」とは、もちろん「うだつ上がらない」の語源である。僕は、うだつというのは木か竹の垣根だとずっと信じていたが、実は、漆喰で出来た、屋敷と屋敷を隔てる防火壁なのだった。うだつの付いた家を建てるには相当のお金が必要なことから、「うだつが上がらない」と言う表現が生まれたらしい。見れば、うだつのある屋敷は立派な家ばかりだ。僕などは、税務上まず間違いなく「うだつが上がらない」カテゴリーだろう。

日が照り出して、少し蒸し暑くなってきた。貞光から買ってきたポカリスエットを飲みながら堰堤を走っていく。セイタカアワダチソウがたくさん生えている。雑草だが、僕には懐かしい光景だ。川沿いの畑の中に倉庫のような建物がある。お遍路のための接待所と宿泊施設を兼ねた施設らしい。その中から、お遍路たちがぞろぞろ出てきた。外国人もたくさんいる。最近はお遍路にも外国からの巡礼が増えたらしいが、考えてみれば、巡礼にはどこの国でも外国人がたくさん混じっているのが普通だろう。巡礼の行為自体が、遠い国の寺院やモスクや霊場へ歩いていくことだから、外国人のお遍路がいること自体に不思議はない。メッカ、エルカミーノ、タジマハール、チベット、ネパール、イエルサレム、そう言う場所にいるのは皆外国人ではないか。どこか遠くへ歩きながら祈り、罪を清め、救いや答えを求めるのは普遍的な行為だろうし、その行先が遠ければ遠いほど、大変であれば大変であるほど、功徳も増すのかもしれない。
僕のやっている自転車旅行は巡礼ではないけど、長い時間自転車に乗っていると、瞑想をしているような気持ちになることがしばしある。それはマラソンや登山やカヌーなど、長時間の運動に伴う現象かもしれない。ちゃんと道を走っているのだが、いつの間にか意識だけがスーッと遠のいていく。それでいて、事故も起こさずにちゃんと走り続けている。そして、気がつくと20分も経っていたりする。その間、何を考えていたのかも覚えていない。
村上春樹の著書『走ることについて語るときに僕の語ること』には、彼がマラソンをすることについて書いてある。なぜ走るのか、走るとはどんなことなのかなど、一言では言えないから、一冊の本が書けてしまうわけだ。アラン・シリトーという作家も『長距離走者の孤独』という小説を書いている。他にも似たテーマの本はたくさんあるだろう。
マラソンと自転車旅行、それから巡礼は、いろいろなことが違う。しかし、共通点もある。例えば、村上は、こんなことを書いている。「自動操縦のような状態に没入してしまっていたから、そのままもっと走っていろと言われたら、100キロ以上だっておそらく走っていられたかもしれない。変な話だけれど、最後のころには肉体的な苦痛だけでなく、自分が誰であるとか、今何をしているだとか、そんなことさえ念頭からおおむね消えてしまっていた。(中略)我走る、故に我あり。」
肉体を使って長時間移動することは、もはや我々の普段の生活にはあまりないことだ。でも、登山やマラソンや自転車旅行をしていると、移動することが自分の存在理由みたいに思えてくることが確かにある。
村上春樹は、毎日走ったり、マラソンをしていると人に言うと、よく褒められると書いている。自転車で旅をしていても同じように褒められることがある。一日に100キロ走ったとか、10日間で700キロ走ったとか言うと驚かれる。でも、やっている本人としては、それほどのことをしている意識はない。やりたいからやっているだけだ。そもそも一日100キロなど、自転車乗りの中ではヒヨッコである。一日で300キロ走る人などざらだし、アメリカ大陸5000キロを16日間で横断してしまった人だってある。
ただし、それほど大変じゃなくても、何かしら精神に影響を及ぼすことだけは間違いない。頑張る、と言うことだけでもない。それ以外にも、何らかのポジティブな影響があるから、やるのだと思う。(ランナーズハイもそれに含まれるかもしれないが、それはまた別の次元の生理学的な現象なのだと思う)。
でも、こんなことをぐだぐだ書いていると、僕も『自転車旅行について語るときに僕の語ること』という本を書いてしまいそうだから、吉野川に戻ろう。
あえて道に迷う喜び
川沿いの道を走っていくと、どんどん吉野川の水量が増えていくのが分かる。支流から流れこむ水が加わるからだ。支流があると川幅も広くなり、遠く迂回しないと前に進めなくなることがある。農道を走ったり、大きな街道に出たりして迂回して、また川沿いの道に戻るわけだ。道もだんだんややこしくなってきた。
2時間くらい走ると、確実に腹が減る。国道のコンビニでお握りを買い、また堰堤の道に戻るが、どこにも座る場所がない。ベンチくらいあるかと思ったが何もない。河原へは増水で降りれない。しょうがないから、停めてあったパワショーベルのキャタピラに座って昼飯を食べた。こんなこと初めてだが、絵本の一場面になりそうな出来事なので、心に留めておくことにしよう。

一人ぽっちのシャベルカーのお膝で昼ごはん
鳴門まで迷いつつ走る
昼飯を食べて1時間ばかりも走ると、川幅がさらに広くなり、徳島に近づいてきたことが分かる。田舎の風景が消え、高速道路が走っている。河口が海に注ぎ込むところまで行くつもりだったが、もう難儀な気分になってきたから、名田橋と言うところから鳴門に向かって戻ることにした。これで吉野川ともお別れだ。
国道をまっすぐ鳴門に戻るのもつまらないから、地図を見ないで、適当に裏道を戻ってみることに。意図的に迷子になるわけだ。15キロくらいだから、どうと言うことはない。農地と宅地が入り混じった土地を、細っこい道が縦横無尽に走っている。
ところが、こういう農道というのはまっすぐではないから、あっちで曲がり、こっちで曲がり、気がついたら逆を向いていたりで一筋縄ではいかない。交通量も意外に多くて、しかも地元の人ばかりだから、車が狭い道を飛ばしてくる。ちっとも気が抜けない。
そうやって、うねうね走っていたら結構くたびれた。鳴門に着いたら、午後3時。曇り空がどよんとしていて、2週間の旅が終わったというのに、ファンファーレが鳴るでもなし、立派にゴールインしたと言う晴々とした気分でもない。高校時代、時々午後の授業をふけって悪友と喫茶店にしけこんだが、その時のような中途半端な気分だ。
そんな、ぼんやりとした気分のまま、コンビニでいつもの100円コーヒーを買い、おやつを買い漁る高校生たちに混じって、店の前で立ったまま飲んだ。100円コーヒーもこれで最後と思ってガブっと飲んだら、熱くて唇に火傷した。
ビジネスホテルに戻ると、「お帰りなさいませ!」と、フロントの兄ちゃんが威勢よく言う。三泊も同じホテルに泊まっていると、すっかり自分の家のような気持ちだが、今夜寝たら、もう明日は空港まで走るだけ。その後は東京だ。
旅の終わりはあっけない。旅を始めた時の興奮はすっかり使い果たし、僕は空気の抜けた風船みたいになっている。そして、そのまま空気の抜けたまま、元来た場所に戻っていく。

陽水の「チエちゃん」みたいな空を飛んで帰ってきた
でも、旅は終わった時、一冊の本、一遍の物語になる。訪れた場所は、本の中の物語、言葉や文字だ。昔読んだ本を再読すれば、懐かしくもあり、新しい発見もある。昔訪れた場所を再訪すれば、知っているはずの場所なのに全く違った印象を受けたりもする。それは、その場所が変わったからなのか、自分が変わったからなのか。再訪には、そのことを発見する喜びもあるだろう。僕も、またいつか四国に来てみたい。
二年越しの二回の自転車旅で四国をほぼ一周したわけだが、走った距離は両方合わせると1400キロ、平均時速は18キロくらいだった。このスピードが、僕には実にちょうどいい気がするし、そんなようなペースで、これからも生きていきたい。
私の旅に付き合って読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。また、どこかの旅で会いましょう!
(四国の自転車旅Version 2、これで全部終わり)