2019年12月14日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第6話  
7日目 阿波池田から山越え、観音寺を経て善通寺まで、
8日目セルフうどんを食べ、金比羅宮を詣でてから高松まで行ったこと


「楽しいことならなんでもやりたい
笑える場所なら何処へでもいく
悲しい人とは会いたくもない
涙のことばで濡れたくはない
青空 あの日の青空ひとりきり」
  
   (井上陽水、青空ひとりきり)


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池田にて、濃霧の吉野川

心残りな濃霧の池田を後にする

7時前、阿波池田の宿を出る。ショートヘア女将にお別れを言いそびれたのが心残りだ。旅は、いつもどこかへ、心残りを置いて先へ進むもの。

予報では雨だったが、濃霧だった。池田は来た時も霧、帰るときも霧。ウィンドブレーカーを羽織って出るが、うすら寒い。コンビニで、三角サンドイッチとコーヒーの朝ごはん。日曜なので、これから野球やテニスへ行く格好の人々が切れ目なしにやってくる。

ここで一句。

    「コンビニの 赤いポストで 朝ごはん」  
                  
                    鉄沈

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吉野川に沿って2、3キロ北上し、池田大橋を渡って192号線の阿波街道に入る。田舎の県道。トンネルもあるが、交通量も少なく、濡れた道を快走する。濡れた道を走るのは、筆で文字を書くように滑らかなテクスチャーがある。英語のテクスチャー=textureという語は訳すのが難しい。「感触、肌触り、きめ、歯応え」などの意だが、自転車のタイヤが路面を転がるときの感じを何と言えばいいんだろう。

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佐野という村から旧道の山道に折れる。途端に急登だ。狭い山道をうんせうんせ登ると、若い頃奥多摩、秩父、信州などの峠を走った記憶が蘇る。登っていくと突然スポッと霧の上に出て、青空に頭が出た。井上陽水「青空ひとりきり」のメロディーが心に浮かぶ。

  「楽しいことならなんでもやりたい
   笑える場所なら何処へでもいく
   悲しい人とは会いたくもない
   涙のことばで濡れたくはない
   青空 あの日の青空ひとりきり」


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阿波と讃岐国境の空

気を良くして、陽水メドレーを歌いながら走っていくと、曼陀トンネルという幽霊でも出そうな古いトンネルがあった。そこを出ると阿波(徳島)と讃岐(香川)の国境の峠だった。

何もない峠はひっそりしている。もう40年も前、T村と二人、長野と岐阜の境の野麦峠を越えた。峠では、山猿の一軍が道を塞いでいた。先へ進めないので、自転車の空気入れを振り回して大声を出したら、猿たちは呆れたような顔をして山の中に消えていった。頭のおかしい人間だと思ったのだろう。幸い今日は、そんな出迎えもない。ちょっと休んで山を下ると、また霧の中だった。道は濡れている上、落ち葉や砂利に覆われているから、スピードが出せない。しばらく行くと、五郷ダムと言う小さなダムがあったが、死体を捨てるのにちょうど良さそうな寂しいダムだ。

五郷ダムから、瀬戸内の観音寺の町境まで10数キロ、うんざりするほど真っ直ぐなだらだら下り。晴れていれば青い瀬戸内海が目前にバーっと広がるのだろうが、曇りだから、どよんとした灰色の塊があるだけ。

こういう時は、頭もぼんやりしてくる。田舎の交差点で信号を待っていたら、突然自転車ごとひっくり返った。荷物を荷台に積んでいるので、ちょっとバランスを崩しただけで倒れてしまう。実際、自転車旅行では、走っていて転ぶより、止まっていてひっくり返ることの方が案外多い。

倒れたまま自転車に足が絡まって、なかなか起き上がれない。逆さまになった亀みたいに、しばらくは、もぞもぞとうごめいている。ようやく起き上がると、肘から血が出ている。

こういう時は身体的なダメージよりも精神的な動揺の方が大きい。仲間がいれば、起こしてくれたり、励ましてくれたり、あるいは逆に思いっきり笑われたりもする。それでも、自分だけでふてくされているよりも良い。幸い田舎道の信号だったので、誰にも見られなかったのは幸いだ。

ついてないな、と思いながら行くと、祭囃子が聞こえてきた。秋祭りだ。見れば、向こうから道幅いっぱいに山車がやってくる。山車はハッピを着た住民が引いている。しばらくは交通遮断だけど、こういう交通遮断は楽しい。山車には、猿の子みたいな子どもたちが群がっている。さっき転んだときはひどく損した気分だったが、これで機嫌が良くなった。きっと氏神様が、慰めてくれたんだろう。

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観音寺の巨大砂絵「寛永通宝」のご利益は?

今日の行く先は、観音寺、善通寺と、お寺の町。観音寺市の手前で、ついに雨が降り出した。今回初めて上下に雨具を着る。雨は降りはじめが嫌なものだが、いったん濡れてしまえば、どうと言うこともない。雨の中を走る。

走ること30分、観音寺の市街に着く頃雨がやんだ。海岸にある琴弾公園でも秋祭りの屋台が出ている。この浜辺には、銭形砂絵という寛永通宝のコインを模した巨大砂絵があって、山上から眺めることができる。直径120メートル、周囲350メートルほどの砂絵で、1600年代に作られて以来、400年近く続いているんだそうだ。これを眺めると、長生きできてお金にも困らないそうだから、老後は観音寺へ引越すのが良かろう。僕も、困ったら観音寺に引っ越すことにしよう。

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銭形砂絵の全容

ご利益があるように、目が痛くなるほど寛永通宝の砂絵を見た。今日の予定は、この先、瀬戸内に突き出ている荘内半島をぐるっと回って善通寺に向かうつもりだったが、また雨が降ってきた。迷いながら、とりあえず荘内半島の付け根の仁尾まで来たが、ざあざあ降りになった。荘内半島はパスだ。荘内半島からは、しまなみ街道の橋やら、本州の山並みやら見えたかもしれないのに、全ては灰色の壁の向こうにけぶっている。


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灰色のカーテンに覆われた瀬戸内海

雨の中を善通寺に直行だが、昼飯の問題があった。もう昼はとっくに過ぎている。途中、山の上に道の駅が見えたので、2キロほど坂を登る。雨の中、汗だくになって坂を登るのは結構こたえる。

やっと着いたら、この道の駅、驚くほどろくな食い物がない。ハンバーグ定食、カレーライス、ホットケーキ、ソフトクリーム、たこ焼き。マジですかい?と文句の一つも言いたくなるが、ロボットのような茶髪店員が二名、遠くを見るような眼差しでカウンターに立っているだけ。仕方なくハンバーグ定食にしたが、これがまた絶望的に不味かった。純粋に「燃料」、ないしは「餌」と考えて口に入れる。

とにかく血糖値だけは上がって人間らしい気持ちになった。雨も止んでいる。自販機のアイスを食べていたら、ロードバイクに乗ったお遍路青年がやってきた。

「やあ、こんにちは。雨に降られませんでした?」と僕。
「いや、車の中にいたんで大丈夫でした」と遍路。
「え? だって、自転車でしょ?」と僕。
「はい、でも車で徳島から来て、お寺へのアプローチだけ自転車なんですよ。会社員なんで時間もないし、こんな風に、もう三十箇所ほど回りました」と遍路。
「そういうお遍路もあり?」と僕。
「はい、ありです。でも、全部を自動車で廻るよりはましでしょ?」と遍路。

確かに、どんな形式であれ、お遍路をしているだけでも良しとするべきか。


お寺や神社の階段数と平均寿命の統計的関係に関する一考察

そこから善通寺市まで小一時間。今日は善通寺のビジネスホテルで泊まりだが、雨も止んだし、善通寺を見学することにした。

善通寺は立派で、広大なお寺だ。大きな休憩所やトイレや駐車場もある。駐車場から歩いて本殿に行くには、長い距離を歩かなくてはいけない。そこを全国から集まった善男善女がてくてく歩いている。

子供時代に抱いていた疑問が一つある。それは、寺とか墓地とか神社の「休憩所」についてだ。寺や神社へ行くと、必ず休憩所があるが、そこではお年寄りたちがトレイに行ったり、饅頭や弁当を食べたりして休憩している。それを見て幼い僕は、寺や神社を詣でるのに、そんなに体力が必要なのか?と、疑問を持った。僕からすれば、学校で勉強したり、体育の授業で走らされたりすることの方がよっぽど体力を使うように思えた。だのに、どうして学校には「休憩所」がないのか?墓参りなんて、歩いて、お線香を上げて、念仏を唱えるだけだ。それなのに墓には休憩所があり、そこではお茶も出れば、お菓子やうどんや団子だって供される。全く解せなかった。

しかし、今や僕も老人にぐんと近い年齢になったので、休憩所の必要性はひしひしと感じるようになった。老人にとって、寺や神社の参拝は大チャレンジ、そのために残りの人生を捧げているお年寄りだって少なくないだろう。だが、寺や神社は広くて階段が多い。100段の階段など珍しくない。この近くの金比羅様に至っては、785段もある。

これはなぜか?端的に考えるならば、寺や神社詣は、お年寄りに課せられた一つの試練であるからに違いない。老人は、得手して安楽に過ごしがちである。しかし、人生はいかなる時も、安楽に過ごしてはいけないのだ。人生は修行であり、苦行であるからして、多少のストレス、負荷があって当然なのだ。

さらに類推するならば、日本の老人が抜きん出て長寿なのは、お寺や神社を詣でる負荷が幾らかでも寄与しているからではないか?考えてもみよ、フルフラットで階段無し、バリアフリーの神社やお寺があるか?あまり見たことがない。そんな物を作ったら、日本の平均寿命はたちまち数パーセント短かくなるに決まっている。きっと、お寺の石段数と平均寿命の関係には、統計的有意性があるに違いない。

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僕も、無事に善通寺参拝を終え、今日の宿に赴く。善通寺駅前ビジネスホテルはのっぽな鉛筆ビルだった。受付の女性はニコニコと、自転車を部屋に入れても良いと言った。こう来なくてはいけない。しかし、狭いエレベーターに自転車を入れるには技がいる。すなわち、サーカスのごとく、「エイっ!」とかけ声をかけ、自転車を一気に立ててエレベーターに入る。かけ声をかけると、不思議にも自転車は訓練された動物のようにスッと垂直に立つ。気合を入れずに適当にやるとうまくいかず、自動ドアに車輪が挟まって、ちょっとした惨事になる。

どうにかうまく自転車や荷物を部屋に入れて、ほっとする。雨に濡れたせいで、体がふやけている。ユニットバスの小さな湯船で長湯して疲れをとり、「アンメルツヨコヨコ」を太腿やふくらはぎに塗る。圧倒的な快感にしばし恍惚とする。

今日走った距離は72キロだった。あまり長い距離とは言えない。しかし、その割には、霧にまかれたり、雨に降られたり、巨大砂絵を見たり、お寺に行ったりして変化のある一日だった。

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自転車はホテル室内に持ち込む


8日目、セルフうどんの朝食を食べ、金比羅さんを詣でて高松まで走ったこと

香川県は讃岐、讃岐と言えば讃岐うどん。今日こそ讃岐うどんを食べてみよう。それが本日の大きなテーマだ。

讃岐うどんは、朝の5時からやっているらしい。だから香川県の人は早起きして、うどんを食べると聞いている。でも、それは香川県民が早起きだからなのか、うどん屋が朝5時からやっているから香川県民が早起きになったのか分からない。きっと香川県民にも分からないのであろう。讃岐うどんは、朝だけでなく昼も夜も食べるらしい。一日に五回食べる人もあるというが、よく意味が分からない。だから、流行っているうどん屋は、午後には売り切れるらしく、2時でも3時でも早々に店じまいするらしい。となると、夜やっているうどん屋は流行らない店なのか? 他国の食文化には疑問点が多い。

讃岐うどんの名声は国際的に広まっていて、メルボルンにもセルフうどん屋がある。ならば、ロンドンやパリやロスにもあるだろう。以前ミラノでソースカツ丼を食べたことがあるが、今やどこに何があるのか分からない時代になった。

これだけの事前知識で武装した私は、讃岐うどんを食べる期待感に満ちあふれてビジネスホテルを出た。時は朝6時45分、順風満帆の気持ちで、本日第一の目的地、金比羅さんのある琴平市に向かった。


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国道に現れたるセルフうどん屋

すると、国道を2キロも行かないうちに、すぐさまセルフうどん店が出現した。普通ならローソンやセブンイレブンが登場することが多いのに、その前にうどん屋が現れたので感動した。讃岐うどんを食べることが、本日の大きなテーマだったのに、朝7時前いきなりその大テーマが目前に現れてしまったから、正直慌てもした。

だから私は、「まあ、待て」と、すぐにでもその店に入らんとする自分を制した。香川で讃岐うどんを食べるには、それなりにきちんとした作法で食べたいと思ったからだ。私は東京人であるから、普段朝からうどんは食べない。他にも朝から食べないものは多々あるが、面倒なのでここには列挙しない。でも、今ここにいる私は、朝からセルフうどんを食べてみようという気持ちになっている。それは、私の人生においてほぼ初めてのことだ。

しばらく店の前に立って観察したが、店内にはすでにたくさん客がいる。男性が多い。さらに近づいて覗くと、長いカウンターがあり、お盆を持った香川県民たちが左から右へスライドしていく。まず麺を注文し、移動しながらトッピングのイカ天やかき揚げ、サイドオーダーのお握りやお稲荷をピックアップしていく。最後にお勘定を済ませ、思い思いの席でそれらを摂取する仕組みだ。簡単そうだ。

実は私は、2年前に愛媛の今治で、セルフうどんのデビューをしている。しかし、ここでは失敗した。別皿に載せてタレをかけて食べるべきイカ天を、うどんに載せて食べてしまい、すぐさま東京人であることを露見させてしまった。が、今日はそういう屈辱は絶対に繰り返さない決意だ。

私はいよいよ決心して入店した。まず、前に並んでいる親父にぴったり接近し、同じうどんを注文した。暖かいぶっかけうどん、中盛りである。それから、かき揚げを別皿にとった。もう一度書くが、別皿に、である。

今回は朝ごはんなので、あまりたくさん食べる必要はない。載せるものは、これだけにしてお金を払って席につく。ところが見渡すと、客の多くは、トッピングなど買わずに、無料サービスの揚げ玉を山盛りにうどんにかけて済ませている。迂闊であった。かき揚げなどを食べていると、田舎者だと思われるに違いない。

とにかくカウンター席に座って食べ始めた。すぐに隣に男が座った。その人は、席に斜めに座り、丼に顔を突っ込むような、いわゆる犬食の姿勢で、すごい音をたててうどんをすすり始めた。うどんをすすりつつも、片目は携帯電話から離さない。観察するに、この男性にとってうどんを朝食に食べることは、全く自然な行為であるようだ。フランス人が、もう無意識に朝からバゲットをカフェオレに浸して食べるようなもので、別におしゃれとか、シックとか、そんなことでは全然ない。だから私も、すかさず斜め座りに姿勢を直し、うどんを朝食べるなんて全然珍しくないんだぜ、前からこんなこといくらでもやってるぜ、と言う顔でずるずる食べた。

ところが、悲しいかな、やはり失敗をした。中盛りうどんは量が多すぎた。かき揚げと食べると、いささか持て余してしまう。ああ、小盛りでも良かったと後悔した。うどんネイティブになるには、修行がいるのだ。


金比羅さんの785段を登ったことなど

善通寺から金比羅さんまでは30分もかからなかった。まだ朝の8時過ぎと言うのに、結構な人出だ。金比羅さんは何せ785段ある石段が有名で、これを制覇せんと民衆が集まっている。自転車を担いでこの石段は登れないので、自転車は下に置いて、えっさえっさ登り始めた。沿道の土産屋では竹の杖を100円で貸してくれるので、これを突いて登っている人もある。

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サイクリングで走っていて、さらにこんな石段を登るのは二重に体力を使うが、ゆっくり登れば大したことないだろう。案の定、3、40分で頂上まで行けた。先に、お年寄りのお寺や神社詣では修行であり、チャンレジであると書いたが、金比羅さんでは、そういう光景が至るところにあった。お年寄りたちは、はあはあ息を荒くして登り、至る所に設置されている休憩所やベンチなどで、赤くなったり青くなったりして、休んでいる。中には階段の途中で、チベット寺院の五体投地のように、亀のようにへたり込んでいる人もある。金比羅さんは、そう言う意味で、老人のエベレストなのかもしれない。下の方の茶屋には籠担ぎの人もいたが、いちばん上まで乗せてもらうと5300円、往復だと6800円だ。高いのか安いのか分からないが、乗る人もいるからこう言う商売もあるのだろう。

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お年寄りのエベレスト、金比羅宮の石段

金比羅さん詣も無事終えた。ここから高松までは30キロ少し。信号が結構たくさんある田舎の県道をどこまでも走っていく。ぽこん、ぽこんと、あちこちに突き出た小山の景色が愉快だ。どの山も高さはせいぜい100メートルだろうが、ひょっこりひょうたん島のようでもある。それ以外の土地は平らな畑や田んぼで、所々にはコスモそが一面に咲いている空き地なんかもあって、秋なんだあと感じ入る。

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香川の小高い山々、その向こうの瀬戸内海

眠たげな県道をうんざりする程走ると、そこが高松だった。町の中心に向かう国道には、場外馬券場、ユニクロ、マック、ファミレスと言った店舗などが無秩序に並んでいる。金比羅さんとは別世界だ。とにかく高松港まで行ってしまえと、もう一踏ん張りし、瀬戸内海を眺める岸壁に出た。高松の港は、今も昔も瀬戸内の交通の要であり、あちこちへ向かうフェリーや連絡船が行き来する。白い船が青い海と空の間を行き来しているのは美しい。

遅くなったが、昼めしだ。今日は、じっくり讃岐うどんと向き合うつもりである。やや邪道かもしれないが、どうせ僕は観光客だから、高松の中心街にある、高級そうなうどん屋に入った。もちろんセルフではない。壁には、アベノミクスのあの首相も来て食べたと写真が貼ってある。シャクな気分であったが、どうせならと、アベちゃんと同じやつを食べたが、これは大層美味であった。揚げたての天ぷらはサクサク、うどんはシコシコモチモチ、お汁は澄んだ薄味なのに出汁はしっかり効いている。やっぱり高級店は違うねえと言う結論。


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讃岐うどんを食べるアベちゃん

今日の走行距離も70キロと軽めだった。だが、明日は早朝フェリーで小豆島に渡り、ファイト一発、島を一周する予定だから、今日はこれで打ち止めだ。午後3時に高松の栗林公園を見下ろすビジネスホテルにチェックインし、洗濯したり昼寝したり、ゆるゆる過ごす。

(続く)

出典:
陽水の歌詞は『井上陽水』成美堂出版から





posted by てったくん at 15:34| 日記

2019年12月09日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第5話  五日目と六日目:
高知から阿波池田まで輪行し、大歩危小歩危、かずら橋と祖谷渓を走る


「咳をしても一人」(尾崎放哉)

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大歩危渓

土讃線で高知の後免から阿波池田まで輪行する

ついに一人になった。尾崎放哉の句を借りるなら、「咳をしても一人」という境地。

これまで4日間、旧友T村と恩師T屋先生との同窓会サイクリング旅行だったのだが、この先9日間は一人旅である。今までは修学旅行のような楽しいノリだったが、これからはワビサビの境地、寂寥感も胸に溢れてくる。秋を追いかけて、愛車フジコちゃんと共に、予定通り四国山地を抜けて讃岐に向かって進んで行くのだ。

朝、T村とT屋先生と南国市のホテルで別れた後、後免という駅で自転車を畳み、阿波池田へ向かう土讃線車中の人となる。目的地の阿波池田は山間の町だ。輪行したのは、今日は体を休ませたいからだ。2年前高知と愛媛を周った際、最初五日間、調子に乗って飛ばし続けたら疲労が溜まり、そのあと回復できなかった苦い経験がある。だから今回は、少なくとも3、4日毎には休息日をとることにした。今回は、頑張らない、いたずらに距離を稼がないで旅を楽しむのがモットーだ。


長閑な土讃線鈍行列車

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土讃線の青春

2両編成の鈍行列車は、後免の駅をカラスの群れみたいな高校生をたくさん乗せて走り出した。鈍行だからしょっちゅう駅に止まるが、そのたび、カラスたちは何羽ずつか降りていき、仕舞いには4、5名だけになった。その中に女子二名と男子一名の仲良し組がいる。三人は頭を寄せ合って数学の宿題を解いている。おじさんはそれをチラチラ眺め、いいなあ、青春だなあ、と思う。やがて、ある無人駅で女子のうち一名が降りて、男子一名女子一名になってしまった。おじさんは、なぜかドキドキする。二人きりになって、何か起きるだろうか?ところが何も起きない。外は秋めいた山で、素晴らしい景色なのに二人はお構いなしに宿題をやっている。もしかしたら、親しげに手を握ったりとかしないのか?と、おじさんは期待する。が、何も起きない。そして、嗚呼!ついに最後の女子はどこかの、ムジナでも出そうな無人駅で降りてしまった。男子学生は一人取り残された。お前それでも男か!チャンスをつかめ、チャンスを!と、おじさんは憤る。おじさんは考え過ぎなのかもしれない。

後免から阿波池田までたっぷり2時間以上かかったが、全く退屈しなかった。と言うか、退屈を楽しんだ。特急なら1時間だが、なぜ人は倍の料金を払ってまで、かくも素晴らしい旅を半分に短縮してしまうのか。

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駅前旅館の女将の憂い

阿波池田に着いたのは2時ごろだ。小雨が降っていた。山に囲まれているから、霧のような小雨が降るだけで、昼なのにもう暗い。駅前のセブンでお握りを食べ、ゆっくりコーヒーを飲む。昨日まではT村とT屋先生と一緒だったから上等の宿に泊まっていたが、今日からは「放浪詩人」なのだから、安宿に泊まることに。かと言って、若者が集まるライダーズインとかバックパッカーとかは騒がしいから、私が泊まるのは商人宿、民宿、ビジネスホテルの類だ。

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池田駅前商店街

今夜は駅前旅館、素泊まり3700円。ここに今夜と明日2泊する。旅館の玄関には「すぐ戻りますから、X X X Xまで電話ください」と貼ってある。電話すると、女将がすぐ裏から出きた。若いお母さん、ヤンママみたいな女将で、服装もスポーツウエアみたいなものを着ている。

古い建物のくせに、なぜか玄関は自動ドア。だが、トイレと風呂は共同だ。「今日はお客さんと、もう一名だけです」と女将が言った。女将さんが、ショートヘアでちょっと可愛いいのが救いかもしれない。池田高校陸上部出身という感じ。さっきから僕の自転車に興味があるらしく、輪行袋に入った自転車をチラチラ盗み見ている。僕がその視線を捉えると、いたずらを発見された少女のように照れながら、「私も、実はロードバイクを持っているんです。B社のアンカーってやつ。あまり乗らないんですけど…」と言った。

「それって、オーダーメイドのすごくいい奴でしょ?」と褒める。偶然だが、T屋先生の愛車と同じだ。女将は頬を少し赤くして、「ええ、でも旅館をやっているから、あまり乗る暇がないんです…」と、言葉に憂いがある。旅の妙味の一つは、こうして出会う女性が、みんな素敵に見えてしまうことかもしれない。

「そうか、そうなんだあ、いや、もったいないなあ。僕は明日、大歩危小歩危、かづら橋、祖谷渓を自転車で回るんです」と言い、「一緒にいきませんか?」と喉まで出かかった。しかし、出会ったばかりの人妻(に決まっている)にそんなことを言うのは、調子が良すぎないか。これがオーストラリアで、英語で冗談っぽく言うなら済まされただろうけど。

そこで、「どこで晩ご飯を食べたらいいかな?」と話題を変えると、いくつか居酒屋や料理屋を教えてくれ、「近くで主人も洋食屋をやっているので、良かったらどうぞ」と言って店の名前を言った。やはり人妻である。

午後もまだ早いので、宿の傘を借りて小雨降る池田の町をぶらぶら歩いた。宿の裏に郵便局があり、荷物の中のいらない服を東京の女房の実家に返送することを思いつく。客のいないお土産屋でウイロウを買った。ウイロウは亡くなった母の好物だった。これを小包に入れて、妻の両親に送った。でも、老人はいきなり小包を送ったりすると驚くから携帯から電話をして、小包とウイロウのことを伝える。すると、義父が「ウイロウは名古屋だったろう?」と言った。そうだったが、「もう送ってしまったのだから、食べてください」と言う。

宿に戻り、宿の玄関先で自転車を組み立てた。すると、またショートヘア女将が出てきた。「あら、黄色い自転車なんですね、すごくかわいい!私もこう言うのが欲しいなあ」と、高校生みたいにはしゃぐ。

もしかしたら彼女、本当に誘ってくれるのを待っているのかもしれない。だから僕は、ちょっと期待を込めて「大歩危小歩危の方は、道路はどんなかな?」と尋ねた。「一度、ずっと前にみんなで走りに行ったけど、国道だから結構車が多いんです。でも、川の対岸に旧道があるからそっちなら静かですよ」と言う。

「かずら橋まではどうかな?登りは急かな?」などと、あたりがないかさらにチェック。一緒に行きたそうな素振りを見せたら即座に誘おうと決心したが、結局そんな素振りは見せなかった。 考えてみれば、宿の客と仕事をほったらかしてサイクリングというわけにもいくまい。

その夜は、近所のスーパーで弁当を買ってきて、電子レンジで温めて食べた。女将の旦那がやっている洋食屋へ行っても良かったが、旦那がいい男であれ、不細工であれ、どちらにしても幻滅するに決まっている。安宿の4畳半で大胡座をかき、テレビのニュースを見ながら弁当を食うのも気楽なものだ(と、自分に言い聞かせた)。

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質素な部屋も悪くない

池田の夜は静かだった。小雨が降っているせいもあるだろう。こういう夜は露天風呂にでもつかりたいが、駅前の安宿でそんな贅沢はできない。ステンレスの浴槽に入ってから寝た。


小歩危、大歩危からかずら橋まで

6時起き。買っておいたパンを食べたが、このパンが不味くて閉口した。そのせいか分からないが、池田の町を出て、高知方面に向かって小歩危、大歩危に行くつもりが、逆の高松方面に向かってしまった。4、5キロ走って気がつき、舌打ちしてUターン。T村のiPadがあればこんなことはなかっただろう。携帯くらいは持っているが、そんなものを見ながら走ろうとは思わない。僕のハンドルバッグの上には昔ながらの透明の地図入れが付いていて、これに14万分の1の道路地図がはさんである。若い頃はこれを見ながら走れたが、今は停車し、メガネを外してから地図に顔を近づけないと読めない。ならば何のためにここに地図があるのかと言うと、ただの意地である。

幸い、昨日の小雨は上がって曇り空だ。徳島、香川を自転車で回ると友人に話すと、複数の人が大歩危小歩危にはぜひ行かないとだめだと言った。行ったことのない者までがそう言うのだから、行かない訳にはいかない。大歩危渓は天然記念物であり、国定公園の一部でもあると言う。僕は、渓谷が好きだから、とても楽しみだ。ガイドブックの写真を見れば、吉野川のコバルトブルーの水に渓谷の緑が映り、ゴツゴツした岩の間を遊覧船やカヌーが漂う様子は素晴らしい。

ただ、この様に「ここは秘境ですよ、すごいですよ、見にこないとダメですよ!」と喧伝される場所は、まずは人が多くて車や観光バスだらけの場合が多くて、いささか閉口するのが常だ。

そして、その予想通りだった。景色は素晴らしく、山肌から降りてくる低い雲の間に見える、紅葉の始まりかけた山肌は美しかった。が、コンビニ、ガソリンスタンド、道の駅、蕎麦屋、けばけばしい看板などが後からあとから並んでいる。仕方がない。これが日本なのだから。

トラックや観光バスにおあられながら、国道を走る。狭いところは崖っぷちの歩道を走る。歩道から崖下を見るとクラクラするほど高い。僕は高いところが得意じゃない。自転車に乗っていると、柵の上に上半身が半分出てしまうので、バランスを崩すと転落間違いない。だから、落ちない様に気を入れて走った。


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イスラエル人の旅人との出会い、かずら橋でヨシコさんを見捨てたこと

1時間ばかりで大歩危についた。コンビニでトイレ、それからコーヒーを買う。横で西欧人の青年が地図を指差して道を店員に尋ねているが、会話が通じない。そこで話しかけると、イスラエルからの旅人であった。これからかずら橋まで歩くと言う。まだ18キロあるから、3時間はかかるだろう。

イリアス君と言う名前だったが、「18キロ、全然大丈夫!」とニコニコしている。日本に来て二ヶ月、あちこち放浪しているらしい。なかなか好人物なので、しばらく話した。彼はベジタリアン、それもビーガン(乳製品も食べない)だと言う。加えてユダヤ教だから食事に相当な制限がある。聞けば、コンビニの「昆布お握り」やナッツ類、果物で生きていると言う。「大変だね」と言うと、「慣れているから、そんなでもない」と笑っている。偉いものだ。

イリアス君は、先が長いので、さっさと歩き出した。僕は、再度トイレを借りたり、写真を撮ったりとかしてゆっくり出発。それでもすぐにイリアス君を追い抜いた。

大歩危橋を渡ると、奥祖谷へ向かっての急登だ。荷物は宿に置いてきたが、それでも坂はきつい。大汗をかきながら登る。だが、グングン標高を稼ぐのが気持ちよく、カーブを曲がると、大歩危や吉野川がはるか下に見える。

かずら橋までの18キロ、1時間半だった。かずら橋は、シラクチカズラのツルで作った45メートルの橋である。3年ごとに掛け替えると言う。深山の趣がたっぷりで、素晴らしい谷間だ。素晴らしくないのは、すぐ横に建っている、国立競技場と見紛う様な建物だ。ここに土産屋やらレストランが入っている。しかし他に選択の余地もないので、ここでお昼に祖谷蕎麦を食べる。案の定あまりおいしくなかった。祖谷蕎麦のせいではなく、この食堂が良くないのだ。分かりきったことだ。

さて、かずら橋を渡ろうと谷底の河原へ降りる。見れば向こうで、盛んに手を振ってい西欧人がいる。イリアス君であった。おかしいな、彼はまだ山道を歩いているはずだが。僕が「?」と言う顔をすると、イリアス君は「ヒッチハイクしたんだ」と、ケラケラ笑う。なるほど、それなら分かる。天狗みたいに空を飛んできたのかと思った。

かずら橋は、渡り賃が500円だ。その上一方通行なので、一回渡ってしまえば終わり。だからじっくり渡ってやろうと思って渡川に挑む。見れば、橋の中程で手すりにつかまって、川面に見入っている女性もいる。きっと深山の景観を心ゆくまで楽しんでいるに違いない。

恐怖のかずら橋
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しかし、さっきも書いた様に、僕は高いところが苦手である。渡り始めた途端、これは早く渡ってしまうに限ると、考えを変えた。何せ、高さが15メートルもある橋である。足元も藤蔓だから隙間だらけ、踏み外せば15メートルの空中に宙吊りだ。欄干も藤蔓で隙間だらけだから、うまくつかまって歩くことが難しい。バランスを崩して倒れれば、藤蔓の隙間から15メートルを落下して、全身打撲で死亡することも不可能ではない。一応、旅行傷害保険には入っているが、落ちれば痛いに決まっている。また橋の上を常時二十名くらいが歩いているから、常にゆさゆさ揺れ、まるで大地震だ。非常に恐ろしい橋である。僕は、両手を前にした幽霊歩きの、中腰のみっともない格好で、下を見ないように移動した。橋の真ん中に差し掛かるが、景色を見ていると思った女性は、実は蒼白になっていて、そこから動けないでいるのだった。対岸では、先に渡った夫と思しき中年男性が、「ヨシコー、早く来いよ、バスが行っちゃうよー!」と叫んでいる。だが、哀れなヨシコさんは、そこから一歩も動けない。気の毒だったが、下手に手を出したりすると彼女と二人、もつれたまま落下することは避けられない。こんなところで、他人と心中するのは御免だ。申し訳ないが、ヨシコさんは見捨ててさっさと渡ってしまった。

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15メートル下がスケスケに見える

どうにか、かずら橋を渡り終えた。500円払ってこんな目に遭うなら、渡らずに写真だけ撮っても良かったとも思うが、人生、経験であろう。

祖谷渓の小便小僧

ここから、昔の山道を走って祖谷渓谷を降りて池田に戻る。距離は30キロほどだから大した距離ではないが、山道なので飛ばせないし、何もない原始的な渓谷を走るのだから、ゆっくり景色を楽しみながら戻ることにしよう。

それにしても祖谷渓は山奥だ。道は狭くて車がやっとすれ違える幅しかない。交通量は少なく、自転車で走るにはうってつけだ。山肌に作られた道からは、遥か下に祖谷川が見える。ここを走っていくのは至福である。

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そんな、くねくねした山肌に作られた道を、くねくね走っていくと、あった、あった小便小僧の像である。それにしても、なぜこの素晴らしい渓谷の、もっとも切り立った険しい場所に、小便小僧がいるのか?後で、インターネットで調べたが、祖谷渓谷の道路工事をした際に、この場所で度胸試しに工事関係者が立ち小便をしたのだそうで、それを讃えて?小便小僧の像を立てたんだそうな。そんなアイデアに反対した人もありそうなものだが、そういうことはどこにも書いていない。宇都宮駅前の「餃子の像」も奇怪であったが、こちらも負けてはいない。

そもそも小便小僧とは何か? これもウィキペディアの情報だが、ベルギーはブラッセルに、オリジナルの小便小僧像があるという。その由来には諸説あるらしいが、一番面白いのは、反政府軍が仕掛けた爆弾の導火線におしっこをかけて消した勇敢な子供を称えて作られたという説だ。でも、どうしてその子は、導火線を足で踏んで消さなかったのかと私は疑う。よほどおしっこがしたかったのだろうか。ブラッセルには小便娘の像もあるらしいが、こちらの由来はまだ調べていない。

祖谷のこの像は、崖っぷちの切り立った場所にあるので、絶対にここでは立ち小便をしてはいけないと観光案内書に書いてある。(若い頃のT村なら、きっとやっただろう。)

さて、ここから池田までは、ずっと下りだった。時々ひどくひなびた集落があり、旅愁にひたっていたせいか、山頭火の句が頭に浮かぶ。
    
     「また見ることもない山が遠ざかる」
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     「へうへうとして水を味わう」
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池田へ帰り着くと3時半だった。駅のセブンでコーヒーを買い、待合室のベンチで菓子パンを食べる。一人ぼっちでこんなことをしていると、永井荷風になったような気分だ。

明日は山超えで瀬戸内へ出て、観音寺、善通寺と走る。天気予報は曇り時々雨だが、気温は低くないから、雨のサイクリングも乙だろう。だがその前に身ごしらえをしなくてはいけない。池田のダイソーへ走り、靴カバーを買う。以前に雨の中を走り、レインコートを着ていて体は濡れなかったが、足がびしょ濡れになったことがあるからだ。

ここで大失敗。ダイソーの前に自転車にロックをかけて駐車しておいたが、ロックは、細い自在に伸びるワイヤー形式だった。ところが帰る際、このロックをつけたまま自転車を引いて2、3メートル歩いてしまった。すると後輪にロックの針金がギチギチに絡まって外せなくなった。慌てて引っ張ったら余計ひどく絡まった。仕方がないのでまたダイソーに入り、ペンチを買った。そして店の前でワイヤーをペンチで切ろうとしたが、案外丈夫でなかなか切れない。10分も格闘してようやっと切れたが、下手したら車輪のスポークを折るところだった。うっかりしているとこんな失敗をして、もしかしたら旅を中断しなくてはならなくなる。

宿へ帰ると、風呂を勝手に入れて入った。ワイヤーロックのせいで、くたくただった。風呂から出たらいくらか気分が良くなったので、また弁当を買ってきて部屋で食べた。これが今回の旅の習慣になりそうな気がする。気楽で良いが、安い弁当は、ご飯ばかり多くて、おかずが少ないのが難点だ。

さあ、明日は香川県に入る。秋は、もうあちこちに来ている。

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(続く)


出典:
種田山頭火の句は、『山頭火句集(1)』春陽堂から
尾崎放哉の句は、池内紀編『尾崎放哉句集』岩波文庫から









posted by てったくん at 16:49| 日記

2019年12月03日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

「結婚ってのは全く素晴らしい発明だが、パンク修理セットだってそうだ」
(ビル・コノリー、スコットランドのコメディアン)


第4話  四日目と五日目 中学時代の恩師T屋先生と高知を走る

南国市ホテルにおける宿泊客の生態


「明日は、7時起床、7時半朝食、8時半出発だな」とT屋先生は、昨夜そう言った。T屋先生は79歳であり、立派な後期高齢者である。その割に、それほどの早起きでないことがこれで判明した。人はこの年齢になると鳥のように日の出と共に目覚めるのかと思ったら、そうでもないらしい。

ところが、朝7時半にホテルの食堂にいくと、先生はすでに朝食を半ば終えている。やはり油断はできない。「おめっちは、昨夜はすぐ寝ちまっただか?俺は、あれからサウナに入ったよ。やっぱ、サウナに入って汗を流すと気持ちいいねえ」と、けろっとおっしゃる。

僕とT村が恐れていた通り、T屋先生は元気いっぱいだ。今日はロードバイクで思いっきり走るぜー、青春だぜー、という精力にみなぎっている。昨日先生は、沼津から東京まで電車で移動し、そのまま羽田から高知まで飛んできたものの、自転車で走ったのは空港からの8キロだけだから体力が余っているのだ。一方僕とT村は、室戸岬から高知まで82キロを走ったから、寝る前にサウナどころではなく、バタンキューで寝てしまった。二人とも、今日はできるだけ負担の少ない走りで体を休めようぜ、と密かに打ち合わせてあるが、T屋先生は、そうはさせまいと意気ごんでいる。

「この近くのゴルフコースでベテラン・コンペが開催されていて、400人ばかり参加しているから、このホテルにもシニア・ゴルファーが百人くらい滞在しているらしいよ」と、T屋先生はまわりを 見渡しながら、うれしそうにおっしゃった。見れば、食堂はご老人ばかりだ。日本は高齢者が増えているから、どこも老人が多いですね!なんて油断していると、周囲を完全に老人に包囲されてしまう。このホテルなど、老人純度が100%近い。

しかし、ゴルフのコンペに出る老人ばかりだから、みんな元気だ。入れ歯をもごつかせて、トーストや茹で卵を喉につまらせているような人は一人もいなく、みんな元気に朝ごはんを咀嚼している。慶賀の至りである。

僕たちは、本日の行程を打ち合わせると、朝食をさっさと済ませて、出発の準備をした。


下田川の亀を見て、五台山を征服したことなど

ホテル前に三台の自転車が揃い、三人の男たちが出陣したのは8時40分である。予定より10分遅れだが、まずは合格であろう。何せ朝出かける前は、着替え、薬を飲む、歯磨き、トイレ、忘れ物チェック、再度のトイレ、再度の忘れ物チェックなど、障害物競走のようにやることが多いのだから。


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いざ出陣の三名

さて、ここで三人の自転車を比較する。細かい点は、読者を退屈させるだけだから勘所だけを列挙しよう:

T屋先生の自転車:国産ブランド(純国産)、オーダーメイド、カーボンフレーム、高級パーツ、22段変速、重量8キロ

T村:英国ブランド(英国製は名ばかり、実は日本製)、既製品、鉄フレーム、普及品パーツ、16段変速、重量10キロ

私:米国ブランド(実は中国製)、既製品、鉄フレーム、16段変速、重量11キロ

野暮だから値段は書かないが、自転車に詳しい読者には、これら三台の違いは一目瞭然だろう。先生のは高級品、我々のは普及品。まず先生のフレームはカーボン、すなわちNASAなどが用いる新素材、21世紀テクノロジーの賜物だ。一方我々のは鉄製、すなわち鉄器時代、せいぜいが産業革命の時代の素材だ。ここにもう数世紀の開きがある。また先生の自転車は特注オーダーで、フレームは先生の体型に合わせて手作ってあり、注文から完成まで数ヶ月かかったと言う。一方我々の自転車は既製品。背広に例えるならば、先生のはテーラー仕立ての手縫い、我々のは紳士服アオキの吊るしである。先生のギアは22段。我々のは16段で全く勝負にならない。重量も先生のは8キロ、我々のは10キロ以上と、決定的に違う。T屋先生の愛車はすぐにでもツールドフランスの実戦に登場できるサラブレッドだが、我々のは「狼の皮をきた羊」と言った程度である。

そういう違いはあるものの、所詮は自転車、三台並んで高知方面に向かった。最初の目的地は五台山だ。五台山は、高知市の東側にある小高い山で標高146メートル。眼下には浦戸湾、西に高知市、南に太平洋を望む。頂上には四国霊場三十一番目の竹林寺や牧野富太郎植物園がある。

国道を少し走り、裏道にハンドルを切る。そこはサイクリスト好みの田舎道だ。田んぼの間の農道、古い農家や納屋の連なる古い街道、その間を大きな浦戸湾に連なる下田川がゆっくりと流れている。

とある橋上から川面を見ると、大きなボラのような魚がウネウネ泳いでいる。「見える魚は釣れないんだよな」と、T屋先生が呟く。亀がたくさんいる。ぱっと見渡しだけでも30匹はいるだろうか。みんな岩や岸辺で甲羅干しをしていたが、我々が大きな声で喋っていると、警戒してぼちゃぼちゃ潜ってしまった。亀は老人のような顔をしているが、耳は良いらしい。新しい発見だ。とにかく朝からたくさんの亀を見たことは、めでたいことの予兆だ。

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下田川の亀

T村はiPadの地図を見ながら走っているので、我々は迷わず五台山への登り口に行きついた。その急坂を登るにあたり、二つの問題点に留意しなくてはいけないことに気がついた。一点は、T村と私がその急坂で79歳のT屋先生に出し抜かれたらどうしようかという点だ。先生と我々の年齢差は20歳プラス。20歳も年上の老人に上りで負けたら、我々の沽券に関わる。それで、もし負けたら乗っている自転車のせいにしようと私は考えた。T屋先生のは高級車で、我々のは普及車だから、性能の差は歴然であり、勝敗に疑問の余地はない。二点目は、T屋先生が急坂の途中で心臓麻痺か卒中を起こして倒れたらどうするかという点だ。いくら健脚を誇る先生でも、不慮の出来事はあるかもしれない。僕は、先生をあまり張り切らせず、高齢者らしい節度を持って走るように、それとなく目を配ろうと考えた。その上で何かあったときは、慌てず119番連絡ができるよう、密かに携帯電話を胸ポケットに入れた。T村もiPadsで武装しているから、万全であろう。

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登坂するT屋先生

しかし、心配することはなかった。先生は、我々を出し抜くこともなく、卒中を起こして倒れることもなかった。ただ、T屋先生ご自身には、その登坂はいささか苦難の道であったようだ。先生はのっけから、「いやー、急な坂だなここは、坂はできれば登りたくないよ、坂は嫌だなあ、だから坂はできるだけ避けてるんだよ」と、そんなことを大声で言いながら、這うように坂を登った。私は、その後ろから「先生、この坂は2キロちょっとですよ、すぐですよ。ほんの15分程度ですよ、ファイト!」と、優しく励ましながらゆっくり登った。

一方でT村は、一昨日から自分の健脚に良い気になっているので、どんどん一人で登っていく。そして、先の方のカーブで止まっては、先生が苦渋の表情で登坂している様子を写真に写し、「しっかりしろ!倒れたら、すぐに救急車を呼ぶから、一生懸命こげ!」などと、叱咤激励している。同じ教え子でも、人格者とそうでない者の違いが、こういう場面で明らかになるのだ。

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恩師をあおり走行で脅かすT村

登坂は20分ほどだっただろうか。先生は「もうだめだ、足がつりそうだ、登り坂と向かい風は、サイクリングの敵だぁ!」とか悪態をつきながら、どうにか五台山の頂上についた。

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五台山から浦戸湾を望む

それだけに展望台のからの眺めは格別であった。我々は絶景に見惚れて、長い間そこで過ごした。いや、長居した理由は絶景のせいだけではない。そこにもう一人の地元サイクリストが現れたせいでもあった。

そのサイクリストは、軽そうな自転車に乗って風のように登場した。聞けば、北海道出身の元自衛隊員で、高知市役所観光課勤務の人であった。「どちらからいらしたんですかー?」と、観光課だけあって、愛想よく展望台の下から声をかけてきた。T村もT屋先生も話好きだから、この青年と展望台の上と下で話しこむことになった。特にT屋先生は、自衛隊ということに深く関心を抱いたようだった。

会話の要点は、以下の通り:

T村「我々は、教え子と先生の三人連れで、サイクリング旅行をしている。」
青年「自分は北海道から移住し、高知市観光課に勤務している。元自衛隊千歳基地勤務。サイクリングが趣味。高知にはサイクリングの見どころが多いですよ」
T屋先生「自衛隊の退職金は多い。富士山の陸上自衛隊訓練に参加したことがある。」
青年「自衛隊の規律の厳しさに比べて、地方公務員は楽。四国は温暖で暮らしやすい場所です。」
T屋先生「富士の訓練で戦車に乗ったが、戦車は見かけによらずスピードが速い。」
青年「私も自衛隊時代に戦車に乗ったことがある。」
T屋先生「戦車はスピードが速いばかりでなく、乗り心地も素晴らしい。」
青年「そろそろ行かないといけません。じゃあ、皆さんお元気で。」
T屋先生「戦車は乗用車並みに中が静かで、椅子も座り心地が良い。」
青年「本当に行かないといけません。じゃあさようなら(青年、立ち去る)」
T屋先生「戦車は、本当に良くできている。」
私とT村「先生、さあいきましょう。」
T屋先生「戦車には、ぜひまた乗りたい。戦車は素晴らしい…」
私とT村「先生、早くいきましょう。」


桂浜の観光食堂で、T村愚問を放つ

展望台での会話が長引いたので、我々は竹林寺にも牧野富太郎植物園にも寄らずに五台山を降り、次の目的地である桂浜へ向かった。T屋先生は、五台山の上りでは苦悩したが、下りは高級ロードレーサーの性能を十二分に生かし、華麗なフォルムで坂を下った。

桂浜は太平洋岸にあるので、当たり前だが、我々は海の方へ向かった。途中、浦戸湾を市営の渡し船で渡ったりしたので、時間がかかった。そんなで三人ともお腹が空いたが、桂浜まで造船場ばかりでお昼を食べる食堂が見当たらなかった。

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桂浜の龍馬像

腹を減らした我らは桂浜にようやく行き着いたが、果たしてそこには数軒の食堂があった。それらは観光食堂と呼んだらいいような食堂だった。要するに、土産屋の二階にある食堂だ。そう言う食堂では、うどん、カツ丼、カレーライス、豚生姜焼き定食など、その土地とは関係のない食いものを出すのが常だ。

我々は、ひとまず「月の名所、白砂青松、龍馬像の立つ」と言う桂浜を歩き、1時間後、ようやく一軒の観光食堂に入り、遅めの昼ごはんを食べた。その観光食堂でだが、T村は、ある愚問を投げかけた。それは、水の入ったコップを持って我々のテーブルに接近してきたウェイトレスに対して放たれた質問だった。

それはこういうものであった。

T村「あのー、お姉さんさあ、ここのウドンってのは、讃岐(さぬき)うどんみたいな、そう言ううどんなわけ?」
お姉さん「あのねえ、お客さん、ここは土佐なんだから、讃岐じゃないの。だからここのうどんは讃岐うどんじゃないの。讃岐うどんは、香川県のもの!」

そういうやりとりだったが、讃岐と土佐を混同したT村の疑問は、高知県民のその女性からすれば、聞き捨てならないものであっただろう。坂本龍馬が聞いていたら、T村は叩き斬られていたに違いない。ただ私は、東京人として少しはT村に同情する。なぜから我々関東人からすれば、土佐も讃岐も同じ四国の田舎なのだから、高知のうどんなど、きっと讃岐うどんみたいな代物であろうと考えても仕方ない。それにしても、「讃岐うどんみたいな、そう言ううどん」とは一体どんなうどんを指すのか?

まあ、そう言うわけで、我々はうどんはやめて、三人ともかき揚げ丼を食べた。なぜ三人とも同じになったかには理由がある。僕とT村は昨日安芸市で食べた「じゃこかき揚げ丼」があまりにも美味しかったので、その流れで「今日もかき揚げ丼にしよう」となったのだ。もちろん、二人とも昨日ほどのかき揚げ丼に今日も出会えるとは思っていたわけではないが。ではT屋先生が、なぜ我々と同じかき揚げ丼を注文したのか?それは簡単だ。先生は、五台山の登坂で疲労していたので、面倒だったからだ。

言うまでもないが、ここのかき揚げ丼は、特に言及するほどの味でなかった。小田急線の立ち食いそば店「箱根そば」のかき揚げ丼と、どっこいどっこいだったと言えば、想像がつくだろう。


奇跡の仁淀川を走ってから、スーパーでおやつを食べたこと

とにかく、かき揚げ丼で腹も作ったので、次に「奇跡」と呼ばれる仁淀川に向かった。誰がそう呼んだのか、奇跡とは大袈裟だが、確かに仁淀川の流れは美しい。桂浜から仁淀川河口までは、太平洋岸を走るが、どこまでも真っ直ぐな道は爽快だ。

四国へ来ると驚くのは、海岸の見晴らしの良い一等地に墓地がたくさんあることだ。もしかしたら四国だけではないかもしれないが、先祖を大切にするという意味で、日本人の国民性を表している気がする。これが私の住むオーストラリアなら、このような海浜の一等地は、有名スターや実業家が買い占め、何百万ドルもする豪邸や一流ホテルが立ち並んでいる。ところが、ここ高知県ではお墓が林立しているのだから驚くべきことだ。

「お墓ばっかりで、もったいないですよ!」と、不敬にも僕がそう言うと、T屋先生は、「それなら、てっちゃんがここの土地を買い占めて、それをT村君が造成して売れば、二人は大金持ちになれるずらよ」と賢明にもおっしゃる。T屋先生は元は数学の先生だから、数字に明るい。そう言う先生の言うことだから、きっとその通りだ。私は、それを聞いて明るい気持ちになった。

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太平洋岸を走る

そんなことを話しながら走行していると、じきに仁淀川の河口だった。ここを川沿いに数キロ北上する。仁淀川は川沿いの村落で和紙の生産などが行われている清流で、一説には四万十川よりも水が澄んでいると言う。我々はしばし路肩に立ち止まってその清流に見惚れた。こんな場所に暮らしている人たちはどんな人たちであろうかと思うだろうが、それについては宮尾登美子著『仁淀川』などの名著に筆を譲ろう。

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仁淀川

さて、しばらく行くと高速道路の大きな橋があり、そこから私たちは高知市方面にハンドルを切った。しばらく行くと、ちょっとした峠があり、ここでもT屋先生のスピードは低迷を見せた。「もう少し行ったら、おやつでも食べましょう!」とT村がそそのかすと、T屋先生は突然元気を取り戻した。少し先に大きなスーパーがあったので、そこで一休みした。

T先生は愛妻家である。だから、このスーパーで、郷里沼津で先生を待っている奥さんにお土産を買うことを思いついた。先生は店を一巡したが、「あまり買いたいものはないね」と無念そうであった。我々は、イートインコーナーに座し、コーヒーを飲みながら、おまんじゅうや羊羹を食べた。サイクリングに行くと甘いものが美味しい。T屋先生は大きな柿を一つ買って、ナイフで剥いてくださった。恩師に柿を剥いてもらって食べるというシチュエーションは、私が正岡子規だったら、まさに俳句的モーメントだろう。でも、その時の私は、何か別の思索にふけっていたので、うかつにも好機を逃してしまった。

そこで、今一句捻ってみた。

   さあ食えと 恩師が固き 柿を剥き 

                鉄沈 

自分で書いておきながら、何を言っているのか分からない句である。

さて、おやつを食べて、自転車のところに戻ると、驚いたことにT屋先生の自転車がパンクしている。先生は動揺を隠せず、「おお、パンクしている!」と、大きな声で叫んだ。そこで僕もT村も、「先生、落ち着いてください。パンクくらい、すぐに直せますよ」と冷静に、先生がパンクを直すのに手を貸した。麗しき師弟愛だ。


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パンクを直すT屋先生とT村

特にT村は、買ってからまだ使ったことがない炭酸ボンベの空気入れを使ってみる好機が到来したので、嬉しそうであった。炭酸ボンベの空気入れとは妙な物だが、普通の空気入れはシュコシュコ押して空気を入れる手動ポンプなのに対し、T村の新式ポンプは圧搾炭酸が入った小型ガスボンベなので、シュコシュコしなくても一瞬にしてタイヤが膨れ上がる新兵器なのだ。案の定、その炭酸ボンベでT屋先生のタイヤは瞬時に膨れ上がった。ただ、タイヤには空気ではなくて炭酸ガスが入っているのだが、走行に支障はない。

パンク事件のせいか、T屋先生は突如帰巣本能を強くしたようだった。先生は、帰心矢の如しで先頭を切って走り出し、瞬く間に我々を高知市へと導いた。そのまま我々は、はりまや橋も高知城も見物せず、最短距離で国道を走り続け、南国市のホテルに舞い戻った。到着したのは夕闇迫る5時だったので、脇見も振らずに走ったのは正解だった。先生のすることはいつも正しい。


同窓会サイクリング、無事終了

翌朝私たちは、また7時に食堂で落ち合った。今日で同窓会サイクリングは終わりだ。二人は午後の羽田行きの便で帰宅し、僕はそのまま四国サイクリングを継続する。

久しぶりに友達と恩師とサイクリングをした感想は、とても楽しかったことに尽きる。近年ずっと独りで走っていたから、その自由さもまた良し、と信じてきた。でも、人と一緒に走ると、誰かが励ましてくれたり、面白いことを言ったりするので、楽しいムードが持続する。一人でも楽しい時は楽しいが、自分のムード次第で、憂鬱になったり、うんざりしたりすると、ムード挽回が難しかったりもする。だから、これからもこうして、T村やT屋先生と一緒に走る機会をできる限り作ろうと考えた。

さて私は、ここから後免と言う駅で自転車を畳んで、阿波池田まで輪行する。その後は香川を巡り、小豆島に渡って一周し、高松から鳴門、徳島へと旅が続く。

T屋先生は、ホテルでちょっとのんびりとしたら、まっすぐ空港へ向かって、そこで奥様へのお土産でも見繕いながらフライトを待つと言う。T村は、飛行機が出る午後までまだ時間があるので、寸暇を惜しんでもう一周、高知の田舎を走ってくるのだと張り切っている。

三人は「それじゃあ、またな」と握手してから、ホテルの前で分かれた。台風など、いろいろなことがあったが、あっという間の四日間であった。

(私の四国の旅は、まだ続く)






posted by てったくん at 12:28| 日記