2019年11月27日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

「その先に何があるか知りたくて、私はずっとペダルをこいできた」
(ハインツ・シュトケ、50年間世界を自転車で旅し続けたドイツ人旅行家)


第3話  三日目、室戸岬から高知まで

私とT村は、昨日は徳島から牟岐まで列車移動し、その後60キロをサイクリングしたわけだが、T村は60キロを難なく走れたことで、大分気を良くしたらしい。何せ、昨年35年振りに自転車を新調して以来、走った最大距離が25キロだったから、彼にとって60キロは大躍進であろう。

しかし、問題はむしろ今日だ。今日の走行は、室戸岬から高知までの90キロ。90キロというのは、なめてはかかれない距離である。J Rに乗ったら1680円も取られる。歩いたら二日かかる。25キロから60キロは大きな躍進だが、60キロから90キロは、更なるジャンプである。さて、丁と出るか、半と出るかだ。

90キロ先の高知では、我々の恩師で79歳のT屋先生と待ち合わせしている。T屋先生は、空路で羽田から高知入りし、夕方にはホテルには入っている手筈だ。到着が遅くなって先生をあまりお待たせしてはいけない。なぜなら老人は、ちょっと遅くなっただけであれこれ心配するし、その心労で具合が悪くなったりするからだ。そうなっては一大事だ。

だから賢い私は、高知の少し手前、高知龍馬空港近くの南国市を今日の到達地にした。そうすれば走行距離は82キロに減る。T屋先生にしても、空港から近いホテルの方が便利であろう。それに南国市から高知まではたった8キロだから、翌日高知の自転車巡りをするにもそう遠いわけではない。


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室戸岬の朝日

80キロ以上の道のりを控えて、T村と私は朝6時に起床した。そして、室戸岬の突端まで歩いて朝日を拝んだ。これは我々の意気込みが非常に強かったことの証である。それがとても素晴らしい朝日であったらもっと良かったのだが、ちょうど朝日が上がってくる場所に雲がかかっていて、かなり劇的さ加減に欠ける朝日であった。旅に何ら影響が出るわけではないから、それはそれで良し。

旅館の前で記念写真を撮ってから出発する。T村は、昨日の60キロ走行の疲れも見せず、池に放った金魚のようにスイスイと走っていく。室戸岬の東側は荒涼とした断崖であったが、西の高知側は明るく平らな道である。青春を謳歌したくなるような道だが、50代後半の我々は何を謳歌すればいいのか?長寿? T村は時々携帯電話を取り出して、走りながらセルフィー撮りなどをしているが、この男は間違いなく、今を楽しんでいると言えよう。


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自撮りしながら走るT村


吉良川でコーヒーをご馳走になる

しばらく行くと、吉良川と言う宿場町に差しかかる。国道は車の往来が多いので、旧道を見つけると我々はすかさずそちらにハンドルを切る。吉良川は古い街並みを道沿いに保存してあり、軒の低い木造建築が並び、海岸から拾ってきた石を積み上げた塀が連なる、趣のある街並みだ。そこらの有名な観光地のように、これ見よがしな感じではなく、自然に歳を経て古くなったままをそのまま保存してある。歳をとっても、魅力がますまずにじみ出てくる人がたまにいるが、そういう人物のような町である。

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吉良川の街並み

建築に関心のあるT村は、興奮気味にその街並みを撮影しながら進む。僕は、そろそろモーニングコーヒーを飲みたくなったので喫茶店を探すが、まだ10時前でどこも開いてない。僕が「コーヒー飲みたいなあ」とぼやきながら、1キロばかりの古い街並みを行ったり来たりしていると、T村が向こうから、「おーい、コーヒー飲めるよー!」と手を振っている。そこは古い旅館のような建物だった。入り口に「いこいの家」と看板がある。

そこは旅館でも喫茶店でもなく、公民館のように使われている旧家の建物だった。中は広い座敷で、奥が縁側、その向こうは手入れの良い中庭である。T村はさっさと靴をぬいで座敷に上がり、そこにいた品の良い年配の男性と女性と喋っている。


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いこいの家にて

「この女性はね、吉良川で二番目に美人の女性ですよ。一番美人の女性はこれから現れます!」と、その男性は言った。二番目に美人と言われた女性は、「あらー、うふふ、嫌だわー。でも、私が二番目なのは本当ですよ」と、まんざらでもなさそうに笑いながら、コーヒーを入れてくれた。すると、5分もしないうちに「一番美しい女性」、ミス吉良川が登場した。僕は幾らかの期待をして待っていたことをここに素直に記す。現れた女性は、確かに30年前は吉良川で一番だったかもしれないという感じであった。人生には、あまり期待しすぎない方が落胆が少なくて良い場合が時たまあるが、まさにこの時がそうであった。

とは言え、僕たちは吉良川のナンバーワンとナンバーツーにかしずかれて、淹れたてのコーヒーをご馳走になったので、朝から運が良かったと言わなくてはいけない。しかもコーヒーは無料だと言う。でも、そこまで幸運にあぐらをかくと、この先悪いことが起きそうなので、この建物の保存のために500円の寄進をしてからここを出た。ところがナンバーツーが駆け出してきて、「これじゃあ多すぎますよ」と、300円のお釣りをくれたので、結局コーヒーは一杯100円と言うことになった。だから、全くの無料ではなくなったが、地元の民と交流ができたことは、私たちのサイクリングも、旅の本質に迫ってきていると言えるだろう。


岩崎弥太郎生家を訪れ、ジャコ揚げ丼を食べたこと

さて、こう寄り道ばかりしていたらなかなか高知につかないので、海岸沿いを飛ばす。しばらく行くと安芸市であった。ここは、三菱グループ創始者の岩崎弥太郎の生家がある町だ。ここには、何かの作物のビニールハウスがたくさん並び、どこまでも農地が広がり、眼前には海を抱き、奥には山を抱いている美しい山里だ。

「岩崎弥太郎さんに会いにいきましょう!」と、歴史学科卒業のT村が言うので、またもや寄り道になる。こういうのを「鶴の一声」と言うのかも知れないが、思い起こせば、T村は昔から鶴の一声が得意な男であった。昔、北海道一周した時は、クッチャロ湖かどこかで、「焼きホタテ」という看板にT村がつられて寄り道することになったが、その時は遠回りはするは、にわか雨には降られるは、一本道をまた何キロも戻るはで、えらい目にあった。

だから、T村の鶴の一声には用心しなければいけないのだが、この寄り道は、全てが順調にいった模範的な寄り道であった。それと言うのも、今や彼はiPadやグーグルマップで武装しており、走りながらも大統領専用機エアフォースワン並に情報収集を行っているから、寄り道にも間違いが少なくなってきているのだ。

美しい農村地帯を2、3キロばかり山間に向かって走ったが、そこは畑の中でありながら、舗装も良い真っ直ぐな道だった。傍を豊かな川も流れている。車も少なく、我々サイクリストにとっては天国のようだった。その奥の、さらに奥に、岩崎弥太郎さんの家があった。弥太郎さんは、とっくの昔に亡くなっているので、お会いすることはできなかったが、銅像が立っていた。生家は藁葺き屋根の割に小さな家だが、敷地には立派な土蔵があった。今はどんなに金持ちでも、例えば孫正義のような人でも流石に土蔵は建てないだろうが、昔の金持ちにはやはり土蔵が必要だったことがわかる。弥太郎さんの土蔵には、当然ながら三菱の家紋がついている。U F J東京三菱銀行も昔はこんなだったかのかと、僕は感慨にふけった。横でT村が、「日本の歴史の中でも、幕末はいろいろな人物や事件が交錯していて、調べれば調べるほど面白いんだよ。岩崎弥太郎もね、龍馬や勝海舟ほどは知られてないけど、実は明治維新の際には財政面で土佐藩と龍馬を助けて、実業家として維新を推し進めた重要な仕掛け人であるんだなあ」と、嬉しそうに話す。もしかしたら、これも走りながらiPadで仕入れた知識かも知れない。

岩崎弥太郎さんの家の前には、小さなカフェがあった。そこには、原宿のカフェにいるような、おしゃれな女性が店番をしていた。営業マンのT村は誰にでも愛想よく話しかけるが、特に、これはという女性には必ず声をかける。その女性にも、「ここはさー、岩崎弥太郎さんの家なわけよねー。立派なもんですなあ。やっぱ三菱銀行の人なんかも来るわけ? へー、来るんだ? だって、創始者だもんねー。すごいよねー」とか、調子良く連発している。カフェの女性によれば、三菱銀行の人は確かに時々くるし、三菱と大きな取引をする会社の人なんかもやってくるらしい。だが、三菱社員は必ずここに詣でなければいけないという社則はないはずだと言う。でも、そんなことを知っているなら、この女性も三菱の社員かも知れない。訳あってこんな土佐の田舎にいるが、本当は、青学の経営学科なんか出ているのだろう。どおりでおしゃれなはずだ。だとしたら、このカフェだって密かに三菱系のアンテナショップという可能性だってある。いや、そうに違いない。

T村はこのカフェで、「茄子プリン」という珍妙なものを食べていた。何でも、地元の農業高校の生徒が考案したものらしい。そう言えば、畑にずらっと並んでいるビニールハウスは茄子栽培のためであった。あれだけの茄子は、プリンにでも何にでもして売りつくさなければならないだろう(その農学校だって、茄子畑だって、三菱系列かもよ)。

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岩崎弥太郎生家

さて、もう昼である。我々はここで、さっきの吉良川ナンバーツーと、ナンバーワンが推奨してくれた「ジャコかき揚げ丼」を食べに行くことにした。畑の中の道を若干迷ったが、そこではまたもやT村のiPadが活躍し、たちどころにその食堂を探し当てた。「ジャコかき揚げ丼」は、ナンバーワンとツーが推奨しただけあり、サクサクしていて非常に美味であった。これを食べにまた高知に戻ってきても良いくらいだ。こういう素晴らしい味に出会うためには、インターネットやガイドブックに頼るのでなく、地元の人に口づてに教えてもらうに限る。食後に食べた「柚子ソフトクリーム」も美味だった。僕は以前からソフトクリームという食べ物は、馬鹿が食うものだと思っているのだが、これは例外だ。

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美味ジャコかき揚げ丼

どんどん高知に近づき、南国市のホテルでT屋先生に邂逅したこと

さて、我々は海岸の道をさらにひた走り、みるみるうちに高知に近づいた。穴内という場所からは海岸沿いに自転車道もあり、我々は50代後半の普通のおっさんとしては考えられないペースで快進撃を続けたのである。

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海岸沿いをラーレー号で快走するT村

しかし、高知の市街地まで通じているバイパスに入った途端にガタっとペースは落ちた。市街地は走っていても面白味に欠ける上に車も多い。車道を走ったり歩道に上がったりしてペースがつかみにくい。歩道に乗り上げるときは段差があるので、その度にボコンと衝撃もあり、お尻も痛くなってくる。とかく東京の人間は、四国など、ど田舎だと思って馬鹿にしているのだろうが、どうしてどうして、こういう地方都市は車社会だから、東京の青山とか渋谷並にたくさん自動車が走っている。しかも土佐だけあってみんな気性が荒っぽいから、そこを自転車で縫うように走るには十分な安全確認が必要なのだ。

そうしているうちに、ようやく目指すホテルが見えてきた。そこまで走った距離は82キロ、やはり二人ともそれなりに疲れている。T村も、35年ぶりに80キロという長大な距離を走りぬいた喜びにひたりつつも、完走できた安堵感にいくらか虚脱している感じがぬぐえなかった。

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穴内付近の海岸から室戸岬を望む

多少へたりこみつつも、T村はフロントで「T屋っていう人は、もうチェックインしてますかね?」と尋ねることは忘れなかった。
「はい、もうおいでになっています。X X X号室ですよ」とフロントの男性が教えてくれた。我々は自転車を片付けて荷物を部屋に置くと、さっそくT屋先生の部屋に挨拶に行った。

「おー、おめえら無事についただか?ずいぶん早かったじゃん」と、T屋先生は軽やかに登場した。先生は、東京から飛んできたものの、まだ自転車には乗ってないから全然疲れていない様子だった。それにしても、懐かしい先生に、しかも四国の高知で会えるとは格別な気分であった。


45年前のT屋先生と僕たち

その晩は、ホテル近くの土佐料理を食べさせる居酒屋に繰り出し、昔話に花を咲かせた。T屋先生と僕たちの間で一番思い出深いことは、僕らが中学一年生の夏休みの出来事だ。

僕とT村の通った中学は、静岡の沼津にあるKという中学校だ。僕たちはその学校の寮に入っていた。どうして僕とT村が、沼津の学校なんかに通っていたかの理由は省く。中学で寮に入るのもずいぶん怪しい感じがするだろうが、別に怪しいことは何もないことを名誉のために断っておく。

T屋先生は僕らの担任だった。僕とT村は、当時からサイクリングに狂っていて、中学最初の夏休み、他の寮生はみな両親の運転する自動車か電車で帰省したのだが、我々二人だけ自転車で帰省することにしたのだ。

それに関して、両親や他の教員からは、東京まで中学生が国道1号を走って帰るなど危険極まりないという声も上がったが、担任のT屋先生は、「いいじゃんか、やってみたら良いっけよ」と、許可してくださった。我々はその言葉に勇気百倍を得て、周到にその準備をし、沼津警察などの関係機関にもおもむいて道路事情を細かく調査した上で、完璧な計画書を書いた。

そして夏休み初日、僕とT村は沼津を出発した。僕の実家は東京の多摩市、T村の家は川崎市だった。どちらも沼津から130キロは離れている。中学一年生が一日に走る距離としては相当長い。僕たちもそんな遠くまで自転車で走るのは初めてだった。

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永遠の中学生、私とT村

T屋先生は、もちろん担任として我々の行動をモニターしておられた。そればかりか、我々の後をこっそり自動車で追いかけたのである。それは、我々の預かり知らぬことであった。ところが僕とT村は、予定よりずっと早く、朝の4時に沼津を出発していたのである。二人とも興奮してろくすっぽ寝られなかったからだ。

だが、T屋先生は、我々が予定通り朝6時ごろ出発したものと思い込み、箱根の頂上まで車で追いかけて来たのだが、我々はとっくに小田原まで行っており、T屋先生をすっかり出し抜いた形になった。そのまま二人は真夏の太陽の照りつける中を疾走し、もう午後の2時には、それぞれの実家に着いてしまった。13歳の時である。我々は元気な若者だった。

それは、もう45年も前の話だが、つい昨日のことのように思い出せる。涼しかった早朝の箱根越え。箱根で僕の自転車のギアが壊れ、小田原で自転車屋を叩き起こして直してもらったこと。ギラギラ照りつける夏の太陽。路肩で飲んだミツヤサイダーの味。あの最初のサイクリングが忘れられないから、こんなおじさんになってもまだ自転車に乗っているのだ。

T屋先生も、「俺が箱根まで追いかけて行ったら、もうお前たちが行った後だったんだよなあ。お前ら、ずいぶん足が早いんで驚いたっけよ」と、目を細めて笑う。
「先生、本当に申し訳ありませんでした! 携帯もなかった頃だから、連絡もできなかったし」と、T村がお詫びする。

T村とT屋先生が楽しそうに話している横で、僕は二人を眺める。もう45年も経っているのに、どうして人はこんなに変わらないのだろう。T村も僕も今はおじさんだし、T屋先生は白髪のおじいさんだ。我々の肉体の細胞は絶えず入れ替わっているはずだけど、命が続く限り、こうやって同じ人間でい続けられる。人の関係はもろいから、時として形なく壊れてしまうこともあるが、逆に長いこと続くこともある。子供時代に作ったマッチ棒でできた繊細な模型でも、大事にすれば壊れないように。この二人が、きっとその証だ。

「さあ、そろそろいきますか! いやー、楽しかった、楽しかった」と、T村が営業マンらしい、景気の良い声で言う。(昔から声がデカかったよな…)。

明日は、その三人で高知を歩く。楽しみだ。

(続く)














posted by てったくん at 20:00| 日記

2019年11月23日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第二話: 二日目、十月十四日、牟岐線で牟岐まで行き、室戸岬まで人気のない海岸線を走ったこと

「そりゃあ、自転車で行けるんだったら、自転車で行くに決まってるさ!」
(デービット・アッテンボロー、英国の映画監督)

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僕とT村は、畳んで袋に入った自転車を担いで徳島発9時半の牟岐線に乗った。本当は徳島から走り出すはずだったが、台風のせいで予定が一日遅れたので、輪行して距離を稼ぐことになった。(自転車を担いで列車に乗ることを「輪行」と呼ぶ)。

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先を急ぐのは本意ではないが、本当は三日で行く距離を二日で走らなければならない。そのためには、今日中に室戸岬まで行かなくてはならない。明後日には中学校の恩師であるT屋先生がわざわざ静岡は沼津から飛んできて、高知で我々と「同窓会サイクリング」をする予定だからだ。

徳島から高知までは、室戸岬経由で230キロある。健脚サイクリストであったら、もしかしたら一日、少なくとも二日あれば鼻歌まじりで走ってしまう距離だ。しかし鈍足の我々には、二日でも無理かもしれない。しかも、昨年サイクリングに復帰したばかりのT村の実力は、実際あまり当てにならない。これまで彼が一日で走った最高距離はせいぜい25キロだと言う。僕は、「25キロ走れるなら、60キロくらい絶対大丈夫だよ!」と太鼓判を押しておいたが、正直言って、全く期待してなかった。それどころか、場合によってはT村は、足がつって走れなくなり、途中でタクシーを呼ぶ可能性もあると踏んでいた。だが、列車で牟岐まで行けば、室戸岬まであとは60キロだから、仮にどこかの地点でタクシーを呼んだとしてもそれほどの出費にはならないだろう。それに、彼がダウンしてタクシーを呼ぶなら、その出費は当然彼の支出になろう。でも、そのことはあえてT村には言わず、僕の胸中に留めておいたことは言うまでもない。

さて牟岐線の車中、35年ぶりに輪行をしている僕たちは、まるで中学生のようにはしゃいでいた。特にT村のはしゃぎぶりは、行き過ぎの一歩手前と言っても過言ではない。五分たりとも座席に座っていられず、列車の中をあちこちを歩き回る。自撮り棒に携帯電話を括り付けたものを振り回しながら写真を撮ったり、ナレーション入りでローカル線が進んでいく光景をビデオ録画しているのだ。「えー、只今、列車は阿波冨田の駅を出発し、二軒屋に向かって進行中であります。えー、素晴らしい田園風景の中を進んでおります。あっ、今トンネルに入りました!」とか話している。ピチピチの自転車ジャージを着たおっさんがそんなことをしているのだから、かなり妙である。だが、子犬のようにはしゃぎまわっている男(子犬と呼ぶには、ちょっとふけ過ぎているが…)と一緒にいると、こちらも楽しくなってくるから許してやることにする。

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牟岐線内で童心にかえるT村

そんなローカル線の2時間はあっという間に過ぎ、11時半に牟岐に着いた。すぐに駅の軒下で自転車を組み立てる。昔取った杵柄、二人とも苦労せずに20分ほどで組み立て終わった。

さて、二人は、いよいよ銀輪にまたがり、国道55号線を西に向かって走り始めた。台風が去った後だから気温が高く、十月なのに夏のようだ。ちっぽけな牟岐の町はすぐに走り抜けた。もう昼だから腹が減ってくる。この先室戸岬までの50キロはほとんど町もなく、昼飯を食べさせる場所もあまりない。牟岐の先の海部という町には、うまい魚を食べさせる店があるらしいので早速行ってみたが、評判の良い店だけに人であふれかえっていて当分は昼飯にありつけそうもない。

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仕方がないので先へ行くと、国道沿いに民宿兼食堂があった。「生きアジあります」とあったから、釣宿だろう。「ふー、やれやれ」と汗を拭きながら店に入り、僕はカマスフライ定食、T村はアジフライ定食を食べた。味は悪くなかったが、ご飯の量が少ない。物足りなさそうな顔をしていたら、店の腰の曲がったばあさんが、「もうちょっとでご飯が蒸しあがるから、待ってろ」と言う。昼の書き入れ時なのにご飯を炊いてなかったとは、相当迂闊な店だ。しかし、四国ではこんなでも商売が成り立つらしい。一昨年の時も、夕食を食べに入った高知の山奥の食堂では、夕方七時なのに「もうこれで、今日のご飯は終わり!」と、店のおばさんが宣言した。だから、僕の後から来た客はご飯なしの定食を食べていた。東京だったらこんな店はすぐに潰れるが、それでも成り立っているところが四国の不思議なところだ。

さて、僕もT村もさほど大食ではないし、先も急ぐので、小さな茶碗いっぱいのご飯で足りたことにする。勘定を済まし、さて出発と思ったら、そこからが長かった。腰の曲がったばあさんも、外で生きアジの世話をしていたじいさんも意外に話し好きなのだ。牟岐線の将来的な展望についてひとくだり、ここいらで釣れる魚についてのレクチャーなどが始まった。ここでは浜からでも、生きたアジをくっつけた仕掛けを海に投げ込むと、でっかいイカがじゃんじゃんとれると言う。すごいことだ。いつか釣り好きの息子を連れて戻ってこよう。

もう昼過ぎなのにまだ10キロくらいしか走っていない。あまり旅情に浸り過ぎていては、室戸岬に着く前に日が暮れる。先は、まだ50キロあるのだ。そろそろ気合を入れて走ろう。


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T村、自撮り棒を振り回す

公衆トレイの民営化

二人はシャカシャカ走りだし、おかげでこの辺りにあったはずの「種田山頭火句碑」を見過ごす。しばらく行くとコンビニがあった。T村は、iPadを自転車のハンドルにくくりつけて走っているので、刻一刻と色々な情報を走りながら教えてくれる。便利な時代になったと思うが、便利すぎて、逆に我々は頭が悪くなっているのだろう。きっとそうだ。

さて、T村の情報によれば、このコンビニを見逃すと、かなりの間店がないらしい。そこで僕は、ここで「ガリガリくん」と言うアイスを食べることにした。その理由は、ここが最後のコンビニなのだから、何か食べておかなくてはいけない気がしたからだ。実際そんなものを食べる必要は全くなかったのだが、複数のサイクリングのブログに、自転車に乗って汗をかいた後「ガリガリくん」を食べると最高だと書いてあったから、日本に帰ってサイクリングをしたら、ぜひ食べてみたいと思っていたのだ。こんな好機到来は、またとないだろう。

しかし、そう言う客は、実はコンビニの思う壷なのだ。僕は社会のことをあれこれ批判しつつも、実は商業主義の奴隷になっていることがこれで明白になった。コンビニというのは、食品会社の作った餌で獲物を待つ漁師のようなものだ。で、その餌食となった僕が「ガリガリくん」を食べた感想はどうだったかと言うと、「なんだこんなものか…」と言う程度のものであった。その上、急いで食べたので頭痛になった。いささか馬鹿馬鹿しい気分だ。

それで、しゃくになり、買い物もしたので、堂々とトイレを借りておくことにした。そこで考えたのだが、コンビニが増えたおかけでトイレに困ることは少なくなったが、コンビニのトイレが増えた分だけ公衆便所が減ったに違いない。つまりそれは、公衆便所が民営化したと言うことではあるまいか?民営化はこれまで郵便局や鉄道などの諸機関で起きてきたが、その度に国民は大騒ぎをした。しかし、トイレの民営化は隠密に進み、国民がうかうかアイスや肉マンなどを食べているうちに政府の目論見は見事に達成されてしまったのだ。これを一体どう考えたら良いのだろう。このトイレの民営化で一番得をしたのは誰か?

僕はこの最果てのコンビニの、「キレイなトイレ」に座りつつ鋭意考えたが、納得できる回答には、ついにたどり着けなかった。

室戸岬における建築学的な考察

さて、コンビニを出ると、もう室戸岬まで30キロほどの道なりには本当に何もなかった。僕たちは、そういう人気のない海岸線の崖っぷちの道をひた走った。とにかく、ひた走るしかないような何もない道なのだ。

その海岸には大きな石がゴロゴロ落ちている。時たま道端にある漁師小屋の壁には、荒波で飛んできたごろた石で穴が空いている。よく台風情報で、「室戸岬は、風速50メートルで大荒れです」とかやっているが、そんな時にここにいたら、本当にこの世の終わりみたいだろう。


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荒涼とした海岸線で感慨にふける男

そんな寂しい海岸沿いの道を走っていると、T村も「弘法大師がここを歩いた時は、もっと荒涼としていただろうな」と、感慨深そうに言う。そして、室戸岬の方を指差し、「きっとあちらから、弘法大師もこの海岸をとぼとぼ歩いてきたのだろう」と言う。彼は、K大学の歴史学科を卒業しているので、時代の物差しをぐっと何百年も戻したような、こんな味のある発言を時々する。そこは尊敬に値するのだが、確か弘法大師は四国を時計回りに回ったはずだから、室戸岬から徳島じゃなくて、徳島から室戸岬の方角に歩いたはずだよなあ、とすかさず僕は気がついた。でも、せっかく深い感慨に浸っているT村の気持ちを傷つけたくなかったので、そのことは黙っていた。

さて、見ればその寂しい道をお遍路が2、3名歩いている。実に四国らしい光景だ。自転車で追い抜きざまに手を振って声をかけてみると、外国からきた人たちのようであった。まだ室戸岬まで20キロ以上はある。あの人たちは無事に今日の宿に着けるのであろうか?そんなことを心配しつつ走る。やがて日が傾く頃、室戸岬の灯台や山上のアンテナが見えてきた。

我々の宿は「岬観光ホテル」と言う立派な名前の、小ぢんまりした旅館であった。ここは70年ほど前に、徳島のお金持ちが別荘がわりに建てた宿らしい。昭和初期の匂いのするシックな洋館である。


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建築学的な考察対象となった旅館

さて、ここでまたT村は、歴史的な考察を行った。前回も述べたが、T村は台所キャビネットを売るのが仕事だから建築に詳しい(と本人は言う)。だから、この建物に入るや否や、「うーん!」とか「いや、これはこれは!」とか関心しまくっている。僕は軽く聞き流していたのだが、夕食どきにはビールの酔いがまわったせいもあり、T村は女将を捕まえてレクチャーを始めた。

「奥さんねー、この建物は立派なものですよ。うん、僕には分かるんだなあ。実は私はね、これでも建築関係の仕事をしておりまして、うん、仕事がら色々な建物を見て歩くんですよ。この建物はね、多分日本では、一番初期の時代のツーバイフォーの建築ですな。これは、まず間違いはない。うん、きっとそうでだ。奥さんねー、ツーバイフォーわかる? それについては、何か聞いたことがありますか?えっ、聞いたことがない?そうか、じゃあ今度調べてみてください。実はね、これと全く同じような建築が鎌倉にあるんですよ。私はね、一眼見ただけで分かったんだ、この建物がね、それと同じツーバイフォーってことがね。ねっ、おもしろいでしょ?とにかくね、これは大発見ですよ、奥さん」と延々と続くのである。相手は、旅館の女将さんだから、決してお客をないがしろにはしない。ニコニコ笑顔でT村の学説を聞いている。僕は、T村の学説よりも、むしろ女将さんの態度に感心していた。

その夜は、室戸岬に砕ける波音を聞きながら、久しぶりに旧友と枕を並べて寝た。40年近い月日が一挙に後戻りし、僕は17歳に戻ったような新鮮な気持ちでT村の寝息を聞きながら眠った。

(続く)















posted by てったくん at 19:10| 日記

2019年11月14日

四国サイクリング旅行 version 2 (2019年10月13日から26日)

前置き:

2017年11月中旬から12月上旬にかけ、僕は一人で自転車に乗り、高知を皮切りに、四万十川、足摺岬、宇和島、八幡浜、松山、今治、しまなみ海道を通って広島の尾道まで、時計回りに四国を半周した。十二日間かけて走った距離は800キロ。そして今回はその第二弾として、2019年10月中旬から下旬にかけて十二日間、徳島市から時計回りに、高知、阿波池田、香川に入って、善通寺、高松、小豆島を走り、また徳島県に戻り、鳴門の渦潮を見て徳島市に戻る自転車旅行を行った。前半4日間は、中学の同級生であるT村君と我々の恩師であるT屋先生が同行した。彼らとは230キロばかり走り、僕自身は730キロ走った。これで四国をほぼ一周したことになる。その今年の旅行について、以下に書く。

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小豆島にて

第一話: 一日目、徳島まで

「始まりの前には混沌がある」(易経)

十月十二日、台風19号は、関西地方から日本に上陸して関東地方に向かった。その過程では、千葉と長野に重大な被害を及ぼしたことは我々の記憶にまだ生々しい。台風は去っても、被災地の皆さんはまだ復興の最中にある。

さて、旅の始まりは、仕事で和歌山に滞在していた僕の頭上を台風19号が通り過ぎた十月十三日朝だった。東海道および山陽新幹線をはじめとしたJ R各線はまだ止まっていたが、関西空港へ向かうリムジンバス、そして関西空港から徳島を繋ぐバスは、始発から動き始めていた。台風のせいで一日長く缶詰になっていたホテルを早朝抜け出し、僕は関西空港へ向かう車中の人となった。

友人T村君のことなど

その頃横浜市緑区では、今回のサイクリング旅行の最初4日間を同行するT村君が自宅で天気が回復するのを待っていた。彼は中学の同級生だ。中学高校時代二人は、一緒に日本中銀輪を駆って走ったものだ。

サイクリング友達T村との旧交が復活したのは昨年2018年だった。僕は、普段オーストラリアに住んでいるのだが、近年はメルボルン近郊を自転車で走り回っている。そのことを時々Facebookに載せていたのだが、それに対して、あるときT村が「昔はよく一緒に走って楽しかったなあ」と述懐した。僕は、「そんなこと言ってないで、また一緒に行こうよ」と返答した。Facebook上の会話はさらに続いた。「でももう自転車がないよ」、「また買えよ、5万も出せば今は良いのが買えるぜ」。そして、僕が昨冬帰国した際、試しに二人はレンタサイクルを借りて、T村の住む横浜近郊を走った。T村の自転車熱はそれで赤々と再燃し始めた。それから間もなく、T村は英国の名車ラーレー号を購入し、鶴見川の土手道などを走りはじめた。少し後の話だが、そのせいで彼の体脂肪率は5%ほど下がったと言う。まさにサイクリングの素晴らしき効用と言うべき他はない。

そのT村は、僕が2年前から計画していた四国サイクリングversion 2の計画を聞くに及ぶと、忙しい仕事の合間に休みをとって、最初の数日同行することを決意した。サイクリングは、古い友情の復活に見事に寄与したのだった。

79歳のT屋先生、「俺も行きたいずら」と言う

ところが、四国サイクリング計画にのってきたのは、T村だけではなかった。我らの中学校の恩師である、沼津市在住のT屋先生も、本計画を聞き及んで「俺も行きたいずら」と言い出した。T屋先生は79才である。そんな高齢者に四国サイクリング旅行はできるのか?登り坂で心臓麻痺をおこして死んだら?そんな疑問がいくつも浮かび、僕は心配した。そこで僕とT村は、近年のT屋先生を知る同級生など各方面にそれとなく様子を聞いたが、その結果T屋先生は、我々よりもはるかに健康であることが判明した。そればかりか、T屋先生の家は長命で知られていて、T屋先生の御母堂は、現在100歳を超えても伊豆の山で畑仕事に勤しみ、自給自足の生活をしているという。T屋先生曰く、「俺の心配は、お袋みたいに長生きしちゃうことずら」。長寿国日本、恐るべしである。

79歳とは言え、T屋先生はゴルフの腕前はシングル、自転車について言えば、日頃はお住まいの沼津から静岡や伊豆に向かって100キロほどを飛ばすだけでは物足りず、実業団の選手などと一緒に全国津々浦々を走り回っていると言う。「琵琶湖一周200キロなんて、二日あれば十分だら」と、涼しい顔でおっしゃる。となれば、問題はT屋先生ご自身よりも、T屋先生に我々がついていけるかどうかである。

そんなT屋先生であったが、スケジュールがお忙しいと言うことで、一日だけ高知で合流することになった。そのために、わざわざ沼津から羽田へ自転車抱えて電車で移動し、さらにそこから飛行機で高知まで飛んで来るとおっしゃる。こうなったらT村と僕は、石にかじりついてでも高知まで行かなくてはならない。

四国サイクリング旅行 version2の旅程について

さて、T村と僕は、最初の予定では、和歌山で合流し、そこから南海フェリーで徳島へ渡り、時計回りに海岸線を西に向かい、牟岐町、室戸岬を経て高知まで、200キロ強の行程を三日かけてゆっくり走る予定だった。そして高知でT屋先生と合流し、高知周辺をゆるりと三人で自転車で歩き、美味しいものでも食べながら昔話でもして大いに笑おうという算段だった。その後は、T村とT屋先生は高知から空路帰宅し、僕だけ四国旅行を続ける予定だった。

その僕自身のソロツーリングの予定だが、高知の後は四国山地を超えて大歩危小歩危を廻り、阿波池田から山越えで香川に抜け、善通寺や金比羅さんに詣でてから高松に入る。そこからフェリーで小豆島に渡って一周し、また高松に戻り、鳴門の渦潮を見てから徳島までという手筈だった。さらに余裕があれば、吉野川沿いを走って初秋を満喫し、その後東京に戻るという合計12日間の急がない旅程だ。

ナポレオンのごとく諦めないT村

T村と僕が一緒に走るのは、実に35年ぶりだ。そこへ 担任だったT屋先生も加わるのだから、僕たちの鼻息は大いに荒くなった。

ところが、そこへ台風19号だ。その結果、徳島へ渡るフェリーは荒波で欠航、J R西日本も新幹線もことごとく不通、T村が乗ってくるはずだった羽田発の関西行きフライトも12日は全便欠航、高速道路も交通止めと、我々の出発は尽く阻まれた。

そこでT村と僕は、12日に合流する予定を13日に繰り下げ、僕は和歌山のホテルで、T村は横浜の自宅で待機し、一晩中天気予報と交通情報のウエブサイトを睨んで夜明かしした。

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嵐の前の静かな空(和歌山にて)

十二日晩であるが、僕はホテルでテレビの天気予報とニュースを睨んでいたが、その間もT村からのアップデート情報が携帯に次から次へと飛び込んでくる。あまりに状況が過酷なので、僕はいったんは、みんなで一緒に四国を走るのを諦めようと考えた。そこで代替案を考え、東京から遠く離れた四国を走るより、もう少し近くの伊勢志摩とか琵琶湖周辺を走ったらどうかと、T村にも相談した。

ところがT 村は諦めない。彼は筋金入りのセールスマンである。それも、女性に台所のキャビネットを売る仕事を30年もしているのだ。T村は、財布の紐が固い女性に高価な商品を売ることで、逆境に強い、強靭な人間に成長していた。少年時代の彼は、精神的に柔なところがあって、自転車で急な峠を登ろうものなら、すぐに顎を出した。挙句に自転車ごとヒッチハイクをして、大いに男を下げたこともある。しかし、30年の女性相手の営業生活で彼は大いに鍛えられていた。そんなT村は、まるで冬のモスクワを攻略するナポレオンか、砂漠の虎と言われたロンメル将軍のように、最後まで希望を捨てず、天気予報を血眼で分析し、どうすれば明日中に四国徳島まで辿り着けるか交通情報をくまなく検索して余念がないのだった。


鷲は明日の夜飛び立つ!

でも、誰がどう見ても、明日中に僕たちが徳島で合流できる望みは薄かった。望みも尽き、そろそろ寝ようかと思った頃、T村から最後のメッセージがきた。「鷲は明日の夜飛び立つ! 明日夕刻の徳島行きフライトが予約できた。」天は我らを見捨てなかったのだ。思わず携帯電話を握り締め、ホテルの部屋で小躍りしてしまった。

翌朝、僕は早起きして走りはじめたバスに飛び乗った。まずは和歌山から関西空港まで、そこで乗り継いで大阪、神戸、淡路島をひた走った。そして昼すぎにはもう徳島入りし、駅ビルでうどんを食べていた。

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折りたたんだ自転車を担いで四国へ向かうバスに乗る

ホテルにチェックインし、ぽかっと空いた午後の時間、僕は徳島の町外れの眉山という山に登った。台風一過で青空が広がり、山頂からは太平洋沿いの山並みが見えた。その向こうは室戸岬、そして高知だ。気分は坂本龍馬だ。待ってろよ、俺たちは明日そちらへ行くぞと、僕は高知の方を見据えて呟いた。

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徳島、眉山からこれから向かう太平洋岸を望む

夜の帳が降りた頃、T村が徳島阿波踊り空港にタッチダウンした。空港バスから、折りたたんで袋に入った愛車ラーレー号を抱えて降りてきたT村は、満面の笑みを称えながら、「ついに来たぞ!」と吠えるように言った。二人は堅い握手を交わした。

その夜、日本対スコットランドのラグビー戦が行われた。我々は、その試合をホテル一階のカフェで観戦した。カフェの客が固唾を飲んで見守る中、日本勢は、強豪スコットランドを堂々うち負かし、ベストエイトに進出した。

ラグビーのお陰もあって、我々の士気もこれ以上ないくらい高くなった。いよいよ旅が始まる!

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日本を旅する僕の相棒「フジコちゃん」(Fuji Feather CX+)
(続く)



posted by てったくん at 09:16| 日記