2011年12月13日

クリスマスツリーを買いに行った

クリスマスツリーはもっと前に買わなくてはいけなかったのだが、この間まで日本に行っていたので仕方がない.

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そんなで息子リンゴロウにせかされて、近くのツリー農場に買いに行った.これは、我が家の年中行事で、行ってみれば正月のお飾りを買いに行く気分。前は娘のココもついてきたのだが、2、3年前この農場をやっているイタリア人のオヤジに「アジア人の女の子は頭がいいから、さぞあんたも勉強ができるだろう」と言われ、「アジア人だから頭がいいと言うのは逆差別であり、言ってみれば侮蔑」と憤慨し、それ以来ついて来なくなった。褒められてそんなに怒ることもないが、彼女が怒る気持も分からなくもない。多民族社会オーストラリアでは、この種の人種がらみの発言は良くても悪くても禁句である。

さて、もみの木はオーストラリアでは原生樹ではなく、ユーカリの淡い緑の中で、この濃い常緑樹の緑は異質な感じだ。こんなものを買わされるのは、クリスマスの商業主義に乗せられているせいだが、まあ「縁起物」(?)だからいいだろう。しかし、そう言って納得してしまうのは僕が日本人だからかもしれない。(まったく、故国のクリスマス時のデパートはすざましいよね。)それにしても、縁起物は値段が高い。30センチ毎に20ドル。リンゴロウが気に入った木は73ドル! (懐が痛い!) 

これを車に載せて帰るのだが、うっかり車の中に入れてしまうと、そこら中がもみの木の尖った葉だらけにになってしまうので、屋根に載せる。
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そうやって持って帰ったら、家のドアからやっと入るような大きな木だった。外だとどれくらいの木なのか大きさが分からない。「来年は、もっと小さくて安い木にしたら!」と、チャコに怒られたが、まあ、縁起物だからねぇ。いいでしょ、これくらい。

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2011年12月07日

帰ふるさと記: 一年半ぶりの日本(東京、大阪、京都、静岡)

11月後半、一年半ぶりの日本帰国だった。オーストラリアにもう15年もいる身としては、「帰国」という言葉を使うのが適切かどうかは別としてだが。

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一年半ぶりというのは、僕としてはずいぶん久しぶりだった。東北の震災、福島原発の事故などが、僕のささやかな予定にも多少の揺さぶりをもたらし、5月帰国だった予定が11月に延びてしまったのだ。

11月9日夜、成田に降り立った。空港はガラガラだ。空港もきっと放射能に汚染されているのでは、と一瞬身構えたが、すぐにそんな警戒心は吹き飛んだ.とにかく、僕の心は、まだ半分メルボルンに置いてきてあっても、成田に降り立ったとたん、もう体が「帰ってきた!」と騒ぎ出すのだ。それくらい、故郷の気温、湿度、人の話す日本語、見慣れた風景は、僕の身の内の奥底にある記憶や感覚を呼び起こす。

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僕は、そんな風に日本に帰ってくると、大概は3週間ほどの滞在なのだが、この最中は、僕は、たえず急加速と急減速を繰り返しながら時間を過ごし、結果としてかなり疲労するのだ。もちろん、時にはのんびりと、それこそ温泉にでも浸りながら鼻歌を歌ったり、故郷のおいしい食事に舌鼓を打ち、旧友や兄弟と夜明かしで語らうときもある。しかし、もはや日本で生活をしていない僕にとって、日本という場所は、概ねは過去の場所であり、この場所で時間を過ごすのは、どこかへ置いてきてしまった過去と再び出会うことの連続なのだ。それは、かなり心が重くなる体験でもある。

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そのままになっている父(渡辺茂男)の書斎

それは、僕が育ち、亡くなった両親の形見が依然としてぎっしりと詰まった実家に足を踏み入れることで始まる。実家に足を踏み入れたとたん、現在から急に過去へと引き戻され、突然に溢れ出る膨大な記憶の中で溺れそうになるのだ。実家の、何が入っているのか分からない父の寝室の引き出しを開けると、またさらに別の過去へと引き戻され、古い仏壇の扉を開けると、またさらなる過去へ踏み込んでいく。

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帰国して3日目、新幹線「のぞみ」で大阪、京都へ行った。のぞみは、東京駅で「プシュー」と扉を閉めると、軽やかにスピードを上げ、数分で品川、それからまた新横浜に停まる。その後は、本気になって加速し、小田原、三島、静岡を、まるで紙芝居の一ページ程度の感覚で飛び越えて行く。三島は、僕が中学時代を過ごした沼津への玄関口だし、静岡は父の故郷だ。でも、のぞみは、そんなことまるっきり無視して、陽気なスピードで名古屋まですっ飛ばす。お茶を一杯飲んで、オーストラリアから抱えてきた英語の小説を読んでいたら、もう京都だった。

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京都、大阪は、中学生の時以来ほとんどきたことがないという意味では、僕にとっては外国同然だ。高槻で阪急電車を降りると、インド人夫婦が、日本語で「お昼何を食べようか?」と話しながら前を通り過ぎた。今の日本では、インド人も日本語を話しているのに驚いたが、オーストラリアでだって、日本人同士が英語で話すこともあるから驚くに値しないだろう。

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説教師ののような僕: 講演会場がキリスト教会というのはよくある

今回は、大阪の高槻と吹田の二カ所で講演を頼まれ、オーストラリアの子どもの本や僕の生活について話してきた。その中で、「オーストラリアには、大阪や関西、それから九州、四国の日本人が多い気がする」と、僕の印象を述べた。すると、「東京の人は、東京に満足しているから外に出たがらないが、大阪の人も含めて、東京以外の人は故郷に満足せず、だから、東京でもオーストラリアでも面白そうな場所に出ていくのだ」と、説明してくれた人があった。

僕は、東京出身だが、決して東京には満足出来ず、アメリカへ行ったり、オーストラリアへ行ったりして、結局オーストラリアを住処にしている。そういう僕は、よほどの不満分子なのだろう。

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さて、大阪の後、一日京都を回った。自転車を1000円で借りて、三十三間堂、清水寺、銀閣、西本願寺などを訪れた.三十三間堂の千体観音の前では、圧倒的なその存在に打ちのめされた。千体の観音は、1000年近くそこに立ち、やってくる人を赦し、癒してきた。僕は、そこにしばし立ちすくみ、これらの観音が、僕を1000年待っていてくれたことに感謝した。

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夕方、さあ東京へ帰ろうと決心し、京都駅のホームに出たが、やってきたのは各駅停車の「ひかり」だった。そんなで、午後七時には、父の故郷である静岡に降り立っていた。関西弁を2、3日聞いていたら、父の方言である静岡弁にも身を浸したくなったのだ。

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駅南(えきなん、と静岡では言う)のビジネスホテルに荷物を放り投げ、呉服町の寿司屋に飛び込んだ。ここはもう間違いなく静岡だった。食べ物も言葉も。焼津の酒で生しらすをつまみ、それから呉服町はずれの「おでん横町」に足を向けた。ここには、静岡おでんのちいさなスタンドが軒を連ねる。流行っている店は月曜だと言うのに満席だ。僕は、年寄りが一人で酒を飲んでいた店に入る。老人は、天竜川の出の工務店主か何かで、「静岡は、世界でいちばんいいところじゃん」と言ってはばからない.待ってました、僕が聞きたかった言葉はこれですよ! 静岡は、世界で一番良いところ、故郷は、世界で一番良いところに決まってるぜ。その主観的な、独善的な、無知であるが故に確信に満ちた言葉。大阪でも、むろん東京でも、そんな言葉は滅多に聞かれない。でも、静岡では、ちょっと場末のこんな店に行けば、臆面もなく人はそう言ってくれる。

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老人は言う。「俺が、若かった時は、本当に静岡が良かったときだっけよ。秋田から女工さんがいっぱい集団就職で出てきてよ、島田や浜松の紡績工場で8時間交代のシフトで働いてたっけよ。で、シフトが明けると、静岡のダンスホールに来たっけじゃん。それで、俺らもめかしこんで出かけていってよ、いっしょにダンスを踊ったじゃんよ。そんなで、いっしょになって静岡に落ち着いちゃった人も多いっけじゃん」と、老人は話す。

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「そうよねえ、静岡が良いところなのは静岡の女の人はすごく働き者だからよ。昔から静岡は、共働きの夫婦が多くて有名なのよねえ」と、おでん屋のママも言う。

僕は、その赤い提灯がたくさん点いたスタンドで、おでんを2、3くし食べ(静岡おでんは、くしの数で代金を払う)、静岡サワーを2杯のんだ。これは、焼酎を緑茶で割った飲みもので、静岡ではみんなこれを飲む。僕はだめ押しに、黒はんぺんのフライも食べて満腹。耳の方も、静岡弁で満腹(耳?)だった。

静岡では親戚には寄らなかった。急に訪ねても、歓迎する方も、される方も、心の準備がない。商売をする従兄弟には、急な訪問は迷惑だろう。今回会わなければ、また別の機会に会うだろうと考え、東京に戻った。

今度は故郷多摩で、子どもたちを集めて「手作り絵本ワークショップ」を行った。一回は、「道草の楽しみ」という題で、もう一度は「オーストラリアの動物が私の町にきたら」という題で行った。道草は、今の子どもには、いささか抽象的で、なじみのないテーマだったようだ。「道草なんてしたことないもん!」と言った子もいた。大人には好評だった。大人は、子どもの時の記憶や思い出を愛おしむように、小さな絵本を宝物のように作っていた。

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東京に滞在中、小規模の同窓会があった。沼津の中学の同窓会だ。帰国する旨を2、3の友達にメールで書いたら、いつの間にかフェイスブックで知らせが回り、同窓会になった。(僕の帰国はあくまで口実。)ケンタロウ、サツキ、シンイチロウ、ナオミ、キンイチ、ユウスケといった面々が12名ほど銀座の中華屋で円卓を囲む。急ピッチで酒を口に運ぶ者もあり、すぐに座が乱れた。話題は、同窓会の常、失敗談、武勇談、恋愛、先生や友達の消息など。自分が覚えていないことも、しっかり他人が覚えていることに驚く。やがて座の乱れは頂点に達し、不参加の者も携帯やスカイプで呼び出され、韓国や北海道にいる者も会話に参加する。やがて同窓会の座は帝国ホテルのカフェに移り、そこが閉店になると、有楽町のスペイン酒場に移動。深夜2時、やっとお開きになり、予約しておいたビジネスホテルに、どう帰り着いたのかも分からず。そんな時間でも銀座は人で一杯だった.

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滞在最後の週末、新百合ケ丘の貸ホールで、「手作り絵本ワークショップ」をもう一回国際文庫協会の子どもたちのために行った。20名ばかりの子どもたちが集まり、絵本を作った。この子どもたちは、英国やフランスやオーストラリア、その他の外国に暮らした経験のある子どもで、その多くは、また将来日本を出て行くだろう。そうして、今の僕がそうであるように、「今」をどこか遠くで過ごし、故郷に帰ると、またそこで「過去」に引き戻される人生を送るのかもしれない。

僕の日本滞在も終わりに近づいた。2週間ほどで、講演二回、手作り絵本ワークショップを四回行い、京都や静岡に遊び、毎日2、3組の仕事の打ち合わせがあって気がついたら疲労困憊だった。気は張っていても、心の芯は重く、夜も熟睡できず、メルボルンに帰る以外の治療法はないと思われた。



最後の二日ほどは実家の整理を弟と行い、滞在中に買った本やこまごまとした土産を別便でオーストラリアに送る作業に費やした。そこでやっと、急加速していた心の張りが、やや普通に近い速度にもどった。

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オーストラリアに帰る前日、F社編集者Uさんと、時間の都合で西国分寺駅で落ち合った。僕は、そこまで自転車で行った。鎌倉街道、甲州街道、府中街道と、たくさんの車の後を排気ガスを吸いながら走った。西国分寺には都立府中病院がある。ここで、母が20年前亡くなった。その時は、僕は結婚したてで立川の団地にいた。その団地から重病の母を見舞う為、自転車で何度もここを訪れた。夜中など、結局自転車で来るのが一番早かったからだ。母は短い入院の中で、瞬く間に意識がなくなり、3ヶ月で亡くなった。しかし、その母の最後の頃の記憶は、僕の中に生き続けていることに気がつく。

オーストラリアに帰る日、昼食を弟と実家近所のソバ屋で食べる。いつも行く「ふさよし」が休みなので、「天ざる」へ行く。天ざるは、店も小さいのでいつも出前しか取らない。珍しく、その天ざるまで弟とぶらぶら歩き、町内の家の表札を見ながら知人の消息を話したり、思い出したり。この町内は、もはや老人ばかりだ。僕らの幼なじみの大多数は、もはやここにはいない。多摩に育った人間がこの町に居着かない理由は何だろう、と考える.

天ざるへ入る。どうしてもっと店をきれいにしないのか、いぶかるような店内だ。大きなお屋敷の立ち並ぶ住宅街の中という独占的地理的条件なのに。お品書きの方もぱっとしない。気の利いた手打ちソバでも出したら、さぞ流行るだろうに。そうしない理由は何か? そんなことを考えながら、選ぶ価値もないような品書きから、「とろろそば」を選ぶ。弟も同じものを選び、二人とも言葉少なく食べる.

店を出て、裏通りを歩く。作家、故山田風太郎のお屋敷がある。氏は数年前に亡くなったが、「山田風太郎」の表札がある。我が家も亡父の表札がまだかかったままで、この町内のあちこちに亡霊がいる。300坪ほどあった山田邸敷地は、相続税を払うためか半分ほどに減り、売った土地には小さな住宅が二軒建っている。しかし、山田邸にはまだ潤沢な印税が入り続けているようで、庭師が2、3人で、立派な庭木に霜よけの藁の覆いをかぶせている。「いいねえ、流行作家は。渋いねえ、この屋敷」と、弟がつぶやく。弟も、小説をこのごろ書いているが、山田風太郎のようになれるかどうかは、神のみぞ知る。とにかく、晩秋の陽を楽しみながらゆっくり家に戻る。

午後2時。空港へ発つ時間だ。夜の飛行機に乗れば明日の今頃はメルボルンだ。出る前、父母の仏前に線香をあげ、手を合わせて祈る。父母に、何かを語ろうと思うが、心はカラッポだ。とにかく、「ありがとう、またね」と、心の中で言う。

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駅まで、弟がでっかいグロリアで送ってくれた。彼は、ちまちまとしたことが嫌いで、こういう車を平気で乗り回す。荷物を下ろすと、弟は、「じゃあな、湿っぽい言葉は抜きにしてお別れだ」と、さよならも言わず、握手もせず、グロリアでブロロロと走り去った。僕は、弟の態度にあっけにとられながらも、帰国中に想起した諸々の、重たくて心の底が変形してしまうような記憶は全てここに置き去りにすることにした。

やがて、空港へ向かうバスがやってきた。バスは、人と、細々とした物が詰まったスーツケースを載せてしまうと定刻に出発し、あっと言う間に多摩川を渡って国立府中インターから中央高速に入り、軽快に飛ばし始めた。僕は、オーストラリアの英語の小説を膝に開いて読み始めた。そうやってバスの振動を楽しみながら、呼吸を「いち、にい、さん、しい…」と、27まで数えることを何度か繰り返した。

そうやって、僕はまたゆっくり減速していった。

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遠くなって行く故郷、多摩
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2011年09月29日

フッツクレイ図書館にての新作読み聞かせ

フッツクレイ図書館にての新作読み聞かせ

2011年9月24日

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メルボルン西部フッツクレイ図書館で、新作『やぎのアシヌーラ どこいった』(わたなべてつた作、かとうチャコ画、福音館書店 こどものとも2011年10月号)を読んできました。英語と日本語で。それから、「うらしまたろう」の紙芝居を英語で。それと『もけら もけら』(山下洋輔文、元永定正え、福音館書店)の朗読。これは日本語で。

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この会を企画して下さったのは、メルボルンの日本語書店バーニングブックスhttp://www.burningbooks.com.au/store/?language=jp の田部井紀子さんと、フッツクレイ図書館のSue Barnardさんです。これまでも、僕は、バーニングブックスで年に一回くらい絵本を読んできましたが、今回はメルボルンの公共図書館でもやってみよう!という試み。

フッツクレイの街は,従来ベトナム人街として有名でしたが、最近はスーダン、エチオピアといったアフリカ系の人たち、それからインド出身の人たちもたくさん住むようになった街です。言ってみれば庶民の街。アジア/アフリカ市場、面白いお店、安くて美味しい食堂がたくさんあります。(詳しくは、紀子さんのブログを参照のこと。 http://www.gogomelbourne.com.au/columns/kenja/

で、こんな街なのに、何で日本人の私が日本語と英語での読み聞かせを? まあ、多文化多言語なんだから、いいじゃありませんか!

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開催11時になると、図書館にはけっこうな人出が。出席者は日系人がほとんどでしたが、全然そうでない人も聞いていました。

読み聞かせだけでなく、バーニングブックスの紀子さんも、「むすんでひらいて」などの手遊び歌をやってくれました。日本語がわからなくても、これならできる! お話のあとは、浦島太郎にちなんで、お魚の折り紙作りもしました。

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私の息子の鈴吾郎もついてきたのですが、父親が熱演している間、たまたま図書館で無料でやっていた焼きソーセージを二本食べながら、マンガコーナーで「風の谷ナウシカ」(英語版)のマンガを熱心に読んでいました。まあ、一緒についてきてくれただけ、めっけもんですけど。

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日本の紙芝居は、ここら辺り(オーストラリア全般?)では全く知られてないようで、図書館員のスーザンも珍しいそうに見ていました。なかなかみなさんたのしんでくださいました。『もけら もけら』は、ジャズのオフビートで、「ぶんちゃ、ぶんちゃ」とリズムをつけて読んでみたら、体をリズムで揺らしながら聞いてた人もいました。

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で読み聞かせも無事終わり、フッツクレイの街を散策して、ベトナム料理店でお昼を紀子さんにごちそうになりました。バーミセリの肉団子汁のつけ麺みたいのと揚げ春巻きを食べました。うま、うま。
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満腹して、シーハシーハしながら店を出ると、なんと日本の工務店の作業服を着たオジーのおっちゃんが街角に立って、こちらに手を振っていました。「オーイ、のりこ!」といったので、紀子さんのお友達が偶然徘徊していたようです。作業服には「本山建設」とありました。「シンガポールの古着屋で買ったんだよ。渋いだろ?」と、このオヤジさんは言ってました。(僕もこういうの欲しい!できれば、黄色いヘルメットも。)

という、のどかな土曜日の外出でした。

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2011年08月17日

薪が減った

 8月に入って庭の薪も大分減ってきた。薪置き場の向こう側がすっかり見えるくらい。でも、そろそろ暖かくなってきたし、今年はまだ残っている分で大丈夫だ。

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 来年の薪も確保できている。こうやって、少なくとも少し先の蓄えさえあれば、大丈夫という気になれる。一年分の蓄えさえあれば、その間に、その先の準備もできるだろうから。こうしてみると、薪と言うのは、貯蓄みたいなものだ。でも、最低一年分の蓄えがあれば大丈夫という気分だ。それ以上はあっても余剰という感じ。
 来年分の薪は、うちの前の道路っぱたの5メートルほどのユーカリを役所が切り倒したからだ。これはうちの木じゃなくて、公共の木。ある日僕は、この木の幹がアリに食われていたのを発見し、役場に連絡した。倒れて、通行中の自動車にあたったり、電線を切ったりしたら大変だから。「うちの前の木がシロアリに食われているみたいだから調査をして下さい」と言っただけだが、役所は大して調べもせずに切り倒してしまった。「あれれ!」と、木には気の毒だったけど、全部薪になった。

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 今この薪を斧で割って積み上げているのだけど、幹の真ん中が見事にアリの巣になっていて、ここからいくらでもアリが湧き出てくる。心配していたシロアリではなくて普通の黒アリだったけど。巣からは強烈な酸っぱい匂いがする。 アリが巣食っている間は薪を積上げられないから、日向の地面に並べて乾かしている。アリの巣になっているところは空洞になってスポンジ状になっている。段々、アリは引っ越しを始めて、卵を抱えてどこかに移動していく。アリにとっては天災みたいなものかもしれないが。

ポッサムの歯

 そしたら、夜になってから腹を空かしたポッサムがやってきて、この丸太のアリの巣を齧っていった。まったくポッサムと言うのは、すごい歯と、すごい胃袋をしているもんだ。アリを食べるために、丸太を齧るとは!アリってのはそんなに美味しいもんだろうか? でも、アリを食べる動物はたくさんいるから、きっと美味しいんだろう。あの酸っぱい匂いがいいのかな?

食べたり飲んだりしているもの

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 さて、僕がこのごろ食べているもので美味しいのは、愛妻チャコが作ってくれる自然酵母パン。いわゆるサワドーと言うパンだ。彼女は醗酵ということに凝っていて、それでパン種も醗酵させて焼いている。醗酵が進むと、酸っぱさがちょっときつくなるけど、食べごたえのある立派なパンだ。(黒アリもこんな風に酸っぱくて美味しいのかな?)
 それから、このごろは、水道の水を飲むのを止めて、雨水を飲むようにしている。雨水は美味しい。うちの猫も、水道水は避けて通り、雨水を飲む。メルボルンの水道水がそんなにまずい訳ではないが。
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 雨水は、以前からタンクに貯めて樹木や畑に撒いたり、車を洗ったりに使っていたけど、飲み水にはしてなかった。でも、飲んでみたら美味しいし、お腹もこわさないのでそのまま飲んでいる。雨水は屋根から雨樋で集めているので、屋根に落ちた埃や落ち葉や鳥やポッサムの糞も入り込むけど、一応網で濾しているし、タンクの中に入った異物は下に沈んで、蛇口からは出てこない。本当は、細かい除菌フィルターで濾すべきだけど、そういうことをしている人はあまりいない。

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ちびヨット

 冬はあまり釣りにも行けないし、寒くてカヌーにも乗れないから、りんごろうと一緒に、晩ご飯の後に模型のヨットを作った。これがけっこうすいすい風を受けてよく走る。天気の良い日、近くの湖でこのチビヨットを浮かべたら、すごく早く走って驚いた。もっといろいろな船を造ろうかと考えているが、目下僕が一番作りたいのは、本物のシーカヤック。これが、今年の夏に向けてプロジェクトになるかも。

ビワの木

 今日は、庭にビワの木を植えるのだと、チャコが近所の植木屋さんからビワの苗木を買ってきた。ビワの木は、健康にとてもいい。葉っぱは解毒効果が高く、お茶にしてもいいし、お風呂に入れても良い。実がとれるまでには8年くらいかかるらしいが、実はもちろんおいしい。
 ポッサムは、ビワの実を食べるだろうか。アンズとかレモンとかスモモを食べるから、きっとビワも食べるだろうな。でも、ポッサムはきっとそのせいで健康だから、アリの巣が入っている木の切り株だって、ガリガリ齧って食べちゃうんだろう。
 
春の準備

木々は、芽を出し花を咲かせ、着々と春への準備をしている。そこで、僕もかねてから懸案だったコンポスト(堆肥)作りの囲いを作っている。地面に杭を打ち、トタン屋根の廃材で囲っただけのものだが、肥料を作るには最適だ。
 こうして、我々人間も春から夏に向けて、着々と準備をしている。
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2011年06月21日

祝祭としての粗大ゴミ回収と、持続可能アート

2011年6月

今年の粗大ゴミの質は高いか、低いか?

「今年の粗大ゴミの質は高いか、低いか?」という話題で、メルボルンのお父さんたちが盛り上がる時期がある。うちの近所では、年に一回、4月が粗大ゴミ回収の時期だ。この時期、大小様々色とりどりの粗大ゴミが道路端に積み上げられて回収を待つ。この2、3週間、オーストラリアのお父さんたちは色めき立ち、皆が集まる週末の公園バーベキューでも、ビール片手に、あれを拾っただの、これを拾っただの、お互いの「業績」の比較に余念がない。

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 「今年は、ガーデン用家具一セット、まるで新品同様の優れものをしとめた。」
 「おー、それはよくやった。おれは、まだ使えるトタン板を50枚ほどだ。これは、物置を増築するのに役立つ。」
 「すばらしい!トタン板を拾うとは考えつかなかった。」
 「俺は、同じ形の皿洗い機を二台拾った。どちらも壊れていたが、ばらして修理したら、使えるのが一台できた。これをeBayで売れば500ドルのもうけだ。」
 「いやあ、おぬし抜け目がないな。」
 「俺は、卓上サッカーゲーム台と、穴の開いたカヌーだぞ。どちらもちょっとの修理で使える。ティーンエージャーの息子が大喜びうけあいだ。」
 「今年のクリスマスプレゼントを買わなくてすむじゃないか。おめでとう!」 

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 近年はオーストラリアの景気も良いせいか、粗大ゴミの質もとみに向上しつつある、というのが一般的な見解のようだ。
 そう、オーストラリア第二の都市メルボルンと言えども、未だに粗大ゴミの回収という美しい伝統は廃れていない。このご時世、粗大ゴミを埋め立てに使っているオーストラリアもかなりアナクロ社会だが、「サステナビリーティー」とか「エコ」とかの空虚な標語が、ゴミのような製品を製造して利潤を上げ、倫理観もへったくれもない企業の宣伝文句に使われる嘆かわしい時節柄、一庶民にとって粗大ゴミは素晴らしい時代的逆行だ。
 一方、私の故郷である東京近郊のニュータウンには、とっくにその伝統はないし、他の日本の各地でももはや「粗大ゴミ」という言葉は実体を失った死語であろう。(粗大ゴミ語?)私の子ども時代には、年末になると粗大ゴミ回収があり、私は捨てるより、多くのものを拾い集め、そこから新しくて使える物を再生することに大いなる喜びを感じたものだ。捨てるなんて、とんでもない!

粗大ゴミ回収は、時期外れのクリスマス

「捨てる神あれば拾う神あり」の諺通り、粗大ゴミは宝の宝庫である。メルボルンの行政側としては、いったん家庭外に出て道路端に積み重ねられたゴミを拾うことは違法であると定めている。が、ゴミは、ゴミ、みんな堂々と拾っていく。
 そして、私もその一人。そして、私の妻も8才の息子鈴吾郎も、粗大ゴミが大好きである。我が家で粗大ゴミを拾わないのは、ティーンエージャーの娘と、ネコだけである。
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 そんなで、粗大ゴミの季節は、一種の祝祭時、時期外れのクリスマスだ。みな、散歩をするたびに、思わぬ出物に出くわして小躍りする。この時期になると、好機を逃さない強者のお父さんたちやお母さんたちは朝早起きし、人の目のないうちに、そして、他のスカベンジャーたち(粗大ゴミ漁り)が来ないうちに、目ぼしい出物を探して徘徊するのだ。ある者は犬の散歩やジョギングを装い、ある者は自転車に乗り、ある者は自家用車で、ある者は堂々と自動車にトレーラーを付けて(私です)、ある者はレンタルのトラックを奮発して近所を回る。
 だから、新品同様のガーデン家具のような、誰が見ても使えるようなものは、あっという間になくなる。そのままではゴミだが、手を入れれば使えるようなものもすぐなくなる。素材的なもの、例えば、古いレンガやトタン板、枕木など、建材になりそうなものも、時間がかかるが、大概はなくなる。最後に鉄材は、どんなに錆びていても、プロの鉄くず屋が集めにくるから、これもなくなる。スポーツ用品、スケートボード、おもちゃなどは、学校帰りの子どもたちが拾っていく。
 先も書いたように、これはあくまで違法行為なのだが、行政側も、しばらくゴミを放っておけばかさが減るから、ほとんどはお目こぼしである。
 だから、うちの鈴吾郎などは、粗大ゴミが出始めると、毎日のように「パパ散歩に行こうよ。出物を見つけに行こうよ」と、うるさい。一度、段ボール箱いっぱいのミニカーを拾ってから病み付きである。僕だって、日中堂々と拾って歩くのは気が引けるが、やはり、面白そうなものがあれば、拾って来てしまう。
 こうやって、さまざまなゴミをじっくり吟味していると、ほとんどは使える物ばかりが捨てられていることが分かる。しかし、人間は欲望のまま、流行やメディアに踊らされ、買いたい物を好きなだけ買い、地球のことや、未来のことなど考えずに使える物をどんどん捨て、資源を無駄にしていることが分かる。その事実の前に、「リサイクル」や「サステナビリティー」、「持続可能な発展」(略してSD)などという標語は、いかに空虚で中身のない題目であることか。私たちが、こんな消費生活をしている以上、サステナブルな社会など来るわけがない。

持続可能なアート



 さて、今そんな粗大ゴミを使ったアートの展覧会、ワークショップがメルボルンで行われている。4人のアーティストと周囲の人間(私もその一人)たちが集めて手を加えた粗大ゴミが見事に生き返り、メルボルンはモーランド市公営クーナハン画廊に展示されている。
 ここでアーティストたちは、ゴミや路上に落ちていた物をアートに変え、新しい価値を付けて展示し、一般に向けて新しいものの見方や考え方を提示している。そうやって、白一色だった無機的な画廊の中に、カラフルで有機的な環境を構築している。このイベントは7月まで6週間行われ、その間は毎週いろいろなアーティストがイベントを行う。
 それを行っているのはSlow Art Collectiveというアート集団で、うちの女房の加藤チャコもそのメンバーである。以下が今回のエグジビション、ブランズウィック・プロジェクトの光景だ。

瞑想小屋(ディラン・マートレル制作)
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会場内の畑(トニー・アダムズ、加藤チャコ、アッシュ・キーティング制作)
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ソニックギター(ディラン・マートレル制作)
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(ちゃんと音も出て、演奏できる。)

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空き箱ギター(ディラン・マートレル制作)
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ソニック風呂桶瞑想装置(ディラン・マートレル制作)
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空き瓶育成有機もやし各種(トニー・アダムズ、加藤チャコ制作)
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移動コンサート自転車(ディラン・マートレル制作)
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有機菜食自前野菜主義的キッチン(トニー・アダムズ制作
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生活排水循環浄化ポンプ自転車(私、渡辺鉄太制作)
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エキジビションの開会スピーチをするモーランドの市長
(市内の路上に落ちていた粗大ゴミが、公営の画廊を飾っていることの是非については特に触れてなかった。さすが市長、懐が深い!)
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こういうアートは、遊びの要素がたくさんで、アーティストたちも楽しんで作っているが、本音の部分ではみな真剣だ。だからこそ人に見せられるものを作れると言えよう。
 しかし、こういうプロジェクトに参加してみると、路上には本当にいろいろな物が落ちていること、どんなものもゴミになることが分かる。流行に踊らされて、新しいもの(ゴミの素)を買うなんて、何てばからしいことか!

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Slow Art CollectiveのBrunswick Projectについて詳しくは
http://brunswickproject.blogspot.com/



 
 
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2011年05月08日

できますものは、納豆

2011年5月8日

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メルボルンの紅葉

晩秋のメルボルン

 メルボルンは今年は寒く、秋なのに気候はもう冬と言って良い。僕はもう若者ではないから、冬になると股引を穿く。若い頃は、股引を穿くくらいなら生きていたくないと思っていたが、今は股引を穿くと寒くないので、がんばろうという気持ちになれる。若い頃はがんばろうなんて思わなくてもがんばれたが、今は、股引の助けを借りないと冬はがんばれない。でも助かるのは、今は股引を穿いてもちっとも恥ずかしくないことだ。晴れ晴れした心でがんばれる。でも、どこか、昔は忌み嫌っていた奴に助けられて生きているようで釈然としない。しかし、今は、日本中が「がんばろう」と言っているらしいから、オーストラリアにいる僕だって「がんばろう」と思わなくてはならない。でも、日本とは季節が逆のオーストラリアにいる僕が、その為に股引の助けを借りるのは、致し方のないことだ。

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我が家のサンルーム、室内もブドウの落葉でいっぱい

 さて、この二ヶ月は日本の震災と原発事故のニュースばっかりであった。仕方のないことだが、オーストラリアもその影響で、いつもの浮かれ気味も停滞気味だった。日本からの震災のニュースで一番じんとしたのは、知っている人からの「生」のニュースだろう。例えば、茨城は水戸の大学に勤める友人が、水戸も地震の被害が甚大であったと、崩れた書棚から溢れた本で一杯の研究室の写真を送ってくれた。そういうのはテレビのニュース映像や新聞記事の写真に負けないくらいのインパクトがあった。いやあ、大変なことだったんだろうなと思うが、僕の貧弱な想像力では、そこまで考えるのがやっとだ。

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ダンデノン山の案山子

 僕は、大きな被害でも、小さな被害でも、ひどい目にあった日本の人たちみんなに、心から「がんばってください」と言いたい。僕は滅多に「がんばろう」とは言わないけど、この言葉が今日本人を一番元気づけるみたいだから、あえて言おう。また、僕の友達の多くのオーストラリア人たちも、「どうか元気を出して、早く普通の生活に戻れることを祈っています」と言っていることを特にここに大書きしておく。

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ダンデノン山の案山子 その2

冬は納豆の仕込み

 さて、水戸と言えば納豆だ。納豆は栄養満点だし、こういった発酵食品にこそ放射能を遮る力があると聞いたこともある。これまでも納豆は日本人の大事な食べ物だったし、今こそ納豆の時代だ。僕はそう信じている。何かを信じていると、不思議と力がわく。
 実は、僕は冬になると納豆が作りたくなる。なぜか分からないが、多分、夏の暑いときに鍋で大豆をぐつぐつ煮るのがやっかいだからだろう。今年も寒くなってきたので納豆を作った。作るのは冬だが、食べるのは夏でも冬でも好きだ。夏も冬も、納豆を咀嚼しながら鼻で息をすると、あのつんとした納豆臭が鼻を駆け抜ける。それは、僕にはとても快い感覚なのだが、あの匂いが好きでない人が日本の関西にはたくさんいるらしい。だから僕は、関西にやや距離を感じるのかもしれない。

謎の噂

 もう5、6年前だが、僕に関して、このメルボルンでまことしやかな噂が流れたことがある。それは僕が納豆を作って売って生計を立てている、という噂だ。そんな噂が流布していることを聞いて、思わずのけぞってしまったが、あんまり面白い噂なので、つい「うへへへ!」と笑ってしまった。
 が、これは、あながち事実無根の噂でもなかった。噂にはある程度の事実が含まれているものだが、この噂の中では、僕が納豆を作るというのは事実だ。僕は時たま趣味と実益を兼ねて納豆を作り、ときどきそれを友達の日系人にあげたりもしている。それはメルボルンの日系人の間では、案外知られている事実である。
 しかし、この噂で事実でなかったのは、僕が「(納豆を)売って生計を立てている」という部分だ。ただ、誰か知らないが、この噂を流した人は、僕の身辺の動きをいくらか知っていたことも確かだ。僕はこの噂が流れたころ、専任講師として勤めていたメルボルン大学を辞めたばかりだった。だから、「あの渡辺鉄太は大学を辞めたと思ったら、食うに困って、ついに納豆売りになったらしい」と、類推されても不思議はない。

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最近やっていること。ベランダに石を敷くこと

 さらに、この噂に信憑性を与えた大きな理由に、この頃僕の家族が『ぽかぽか地球家族:メルボルン編』(テレビ朝日)という、けっこう視聴率も高かったドキュメンタリー番組に出演したことが挙げられる。日本人の多くは、テレビに映ったことは事実だと信じてしまう。それが、オーストラリア人と違うところで、オーストラリア人は、テレビでやっていることの大体は作り物であると疑ってかかっている。
 で、『ぽかぽか地球家族』は数多くのメルボルン在住日系人に視聴されたようだ。どうやって日本の、しかも民放の番組をメルボルンで見られるのか分からないが、かなりの人が「見ましたよ!」と連絡してきた。
 この番組のシナリオの中では、僕が大学を辞めたのは、家族との時間を増やしたかったから、ということが大きな骨子になっていた。そのことは嘘とも言えないが、それが大学を辞めた唯一の理由ではない。しかし、テレビでは、番組にとって都合の良いことが強調されるものだ。加えて、番組の中には僕が納豆作りを実演するシーンもあったから、早とちりな視聴者が、「大学退職>時間の余裕>家計の逼迫>納豆作り>納豆の行商」という公式を導き出しても不思議ではない。
 そして、これこそ決定的だったことは、全くの偶然だが、僕が大学を退職して、テレビに登場して納豆作りを披露したのと同じ頃、メルボルンの複数の日本食材店で、手作り納豆が売り出されという事実だ。こんな偶然もあろうかと思うが、今でもその納豆は、然るべき日系食材店で売られている。もちろん、この納豆と僕とは、全く関係がない。
 これだけの「状況証拠」が整えば、「渡辺鉄太、元メルボルン大学専任講師(言語学博士)、納豆売りとなる」という噂が流布してもまったく不思議ではない。僕は、今でも納豆を作るたびにこの時のことを思い出して笑ってしまう。そして、小遣い稼ぎに、いっちょやったろうか、と思わないでもないが、納豆の単価は安いから、納豆売りで利益を得るのは並大抵ではない。メルボルンに何千人の日系人がいるか分からないが、その全員が毎日納豆を食べでもしない限り、当地で納豆売りとして独立することは無理であろう。また悪いことに、メルボルンの日系人には関西人や九州人が多いから、納豆売りの未来は明るくない。生きることはなかなか一筋縄ではいかないのだ。

<<鉄太風、納豆の作り方(と言うより、増やし方)>>

• 普通の納豆をお店で買ってくる(メルボルンなら、冷凍の日本製納豆)。
• 有機農法の大豆500グラムを一晩水につける(有機でなくても良いが、この方が絶対うまい)。
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有機納豆500グラム

• ふやけた大豆を一時間半ほど、指で簡単につぶせるほど柔らかく煮る。(圧力釜ならもっと早いと聞いた。)。
• 煮上がった大豆をザルにあけて水を切り、ボールに入れて熱いうちに既成の納豆ひとパックを混ぜこむ。
• 混ぜ合わさった大豆と納豆を、弁当箱ほどのタッパーに入れる。三つか四つのタッパーに入る分量が出来るはず。ぎゅうぎゅう詰めはダメ。空気が通るようにふわりと入れる。
• タッパーにはふたをせず、代わりにサランラップを巻き、ラップに爪楊枝などでプチプチたくさん空気穴を空ける。
• 納豆入りタッパーを三段(か四段)重ねにし、オイルヒーターに載せて45度くらいになるように保温する。タッパーが直接ヒーターに触れると熱くて解けるかもしれないので、タッパーとヒーターの間に積み木などを敷いて断熱材にする。

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醗酵中の納豆

• 納豆タッパーの上にバスタオルをかけて、熱が逃げないようにする(ヒーターが火災にならないように注意)。

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ヒーターの上の納豆(博士論文を書いた言語学の専門書も、
今はこうして納豆を置く台として立派に活用されている。)

• 数時間置きにタッパーを上下入れ替え、均等に熱が行き渡るようにする。
• 24時間後、納豆の出来上がり(のはず)。

*オイルヒーターを使って火事になっても、私の責任ではありません。もっと安全なのは、アイスボックスに熱湯を入れたペットボルを入れて保温する方法やコタツを使う方法だが、みな一長一短がある。

納豆三博士

 こんな事をしてまで、納豆を作る/増やすことは、安くて美味しい納豆が手に入る日本本土の住人には不必要なことだろう。しかし、メルボルンでは納豆の値段が日本の三、四倍なので、育ち盛りの子どもを二人抱える僕はこんなことをしているのだ。
 実は、この納豆製造法は、メルボルン日系人の大先輩M川医学博士から教わった。M川博士は生化学が専門で、醗酵とか醸造はお手の物だ。現在は日本に帰国して京都にいるが、M川博士はメルボルンにいた頃、濁酒やビールを醸造し、ウナギの蒲焼きや辛子明太なども自作していた趣味人である。M川博士の納豆は、日本から取り寄せた納豆菌を用いて作られる正統派でもあった。
 しかし、納豆菌はオーストラリアでは、おいそれとは入手できない。M川博士に分けてもらうのも申し訳ないと感じた僕は、当時国立の研究所で狂牛病を研究していた弟に送ってもらおうかと考えたが、弟はおっちょこちょいなので、まちがって納豆菌よりも強力な菌を送ってきたら困るから、弟には頼めないでいた。そしたら、「市販のパック入り納豆をそのまま混ぜてもできちゃうよ」と、伝授してくれた人がいる。それは、当時メルボルンの近所に住んでいた日系人の友達、M城博士(教育学)であった。M城博士は、M川博士ほどの趣味人ではないが、メルボルン生活が長く、いろいろなことを知っている便利人だ。ただ、M城博士は理科系の学者ではないので、M川博士ほどの厳密さで納豆を作っていなかった。でも、そのおかげで、統計とか微積分が苦手な僕でも納豆作りに着手できたのだった。いずれにせよ、このふたりの博士のおかげで、メルボルンにあっても我が家は納豆に事欠かないのだから、二人は我が家の恩人と言える。そして、この納豆作りの伝統は、今はこの僕を通してメルボルンの日系人には連綿として受け継がれていると言っても過言ではない。(いや、過言だ!)
 そして、これは蛇足でであるが、僕も博士号(言語学)をもっているので、メルボルンにおける手作り納豆の伝統は、三人の博士たちによって継承されたと言っても誇張にならない。だから、メルボルンの「納豆三博士」と言ったら私たちのことである。(誰もそんなこと言ってない!)
 ともかく、この納豆作りはとても簡単なので、納豆が高嶺の花となっている海外諸地域にお住まいのみなさんにはぜひお勧めする。大豆500グラムと、ひとバックの納豆で、1キロほどの納豆が作れる。お金にして3ドル(300円弱)ほどだ。1キロあれば、毎日食べ続けても2週間は持つ。

たくさん作るな、欲張るな!

 ひとつだけ言っておくと、この納豆作りで注意しなくてはいけないことは、あまり大量に作ってもうまくいかないことだ。私の知人の親日派オジーで、納豆大好き元コックのジェリーが大量製造を試みて大失敗した。ジェリーは、5キロほどの大豆を大釜で茹でて、ドラム缶のようなバケツで醗酵させたが、酸欠になったのか、納豆菌が足りなかったのか、雑菌が入ったのか、ネバネバの足りない、臭いだけのネトネト大豆が大量に出来た。そんなものは、さすがに関西人でなくとも旨くも何ともないので、ジェリーは全部犬の餌にしてしまった。僕自身も何度か失敗して、大量ネトネト大豆を持て余したことがある。しかし、今はまず失敗することはない。 
 というわけで、我が家で出来ますものには、手作り納豆がある。最近は、妻のチャコがぬか漬に凝っているので、旨いタクアンもある。たまに息子の鈴吾郎と釣りに行くと、鈴吾郎は釣りの達人だから、アジやコチをばんばん釣りあげる。そのおかげで、とれとれの刺身にもありついている。僕はお酒を止めているので、甘いものに目がなく、自分で、おからクッキーなんかを焼いたりもしている。娘の鼓子は、器量良しなだけでなく、ケーキを焼くのなんかも上手である。でも、これ以上書くと、自慢ばかりになるのでもう止めよう。
 しかし、そんなで、メルボルン田舎暮らしの我が家には、旨いものがたくさんあるが、どれも店で売っているものではない。「日本の食材が手に入らないで不便じゃないですか?」と、聞かれることもあるが、そういう不便はあまり感じたことはない。

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鈴吾郎と僕がPort Albertで釣ったアジ。オジーはあまり食べない。

 
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2011年03月17日

「悪夢はバクに食わせろ」

2011年3月16日

Labour Dayの連休、息子鈴吾郎と二人、メルボルンから300キロ、東ギップスランドのノワノワ(Nowa Nowa)という名前の村へ釣とカヌー漕ぎに行った。ノワノワとは、「日が昇る場所」という意味のオーストラリア先住民のことばらしい。何だか日本人に縁のある場所みたいだ。

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 嬉しかったのは、ここで泊まったキャラバンパークの入り口に大きな林檎の木があったことだ。木には、たわわに林檎がなっていた。車から荷物を下ろしていると管理人のおばさんが、林檎を4、5個もいできて持って来てくれ、「いくらでも木からとってお食べ」と言った。鈴吾郎は歓声をあげた。息子は名前が「りんごろう」と言うくらいだから、林檎が大好きだ。ちょっと虫喰いだったが、もいで食べる林檎ほど美味しいものもない。僕は、林檎の木が植えてあると、植えた人に「どうもありがとう!」と言いたくなる。

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 僕のベルグレーブの家の庭にも果樹がある。杏、プラム、レモン、梨、洋梨、ぶどう。杏とプラムとレモンは、この家の前の住人が植えたものだが、今年もたくさん実を付けた。梨と洋梨は僕たちが近年植えたもので、まだ実はならない。いつ実をつけるかとても楽しみだ。
 林檎の木も、今冬あたりは植えたいと思っている。実をつけるまで何年かかるか分からない。キャラバンバークの大きな林檎の木を見ながら、この木を植えた人は、もうき生きてないかもしれないと考える。でも、木は生き続けて実をつけ、僕や鈴吾郎を喜ばせてくれる。だから僕も子どもたち、孫たちのために植えるような気持だ。

 翌日、僕らは広大なLake Tyersの湖をカヌーで漕いで回り、釣をした。コチ、黒鯛などが釣れた。夕方、素晴らしい一日を過ごしたその幸福な気持ちを伝えようと、メルボルンの留守宅に電話した。すると、娘の鼓子が電話に出て、「日本が地震とか津波で大変だよ」と言う。心が早鐘のように鳴ったが、詳しいことは電話では分からない。

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 翌朝、Lake Tyersのたった一軒の雑貨屋で新聞を見た。信じられない光景、がれきの山の中をさまよう人の写真が一面に大きく掲載され、JAPAN、TSUNAMIという文字が横に大きくあった。
 レジで新聞を買おうとしたら、店のおばさんが、「あなた日本人?」と尋ねる。そうだと答えると、「本当にひどいみたいよ。息子さんが怖がるから新聞は買わない方が良いわよ。悪いこと言わないから、週末が終わって家に帰るまで新聞は読まないこと。こういうのを小さな子どもに見せるのが一番心配よ」と言った。

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 僕は、好奇心のかたまりの息子が、一昨年の山火事騒ぎ、避難騒ぎの際にどれほどメディアに翻弄され、興奮し、あげくに悪夢を見てうなされたりしたことを思い出し、雑貨屋のおばさんの親切なアドバイスに従うことにした。これだけ甚大なできごとは、息子の心に大きな影をつくることになる。事実を遮蔽するつもりもないが、これを鈴吾郎に見せても彼の理解は完全に超えている。
 翌日、日曜日も僕は心を落ち着けようと、鈴吾郎と釣りをし、カヌーを漕ぎ、ひたすら肉体を疲労させた。そのことはある程度成功したが、夜はあまり安眠できなかった。

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 月曜日は帰宅する日で、僕は日本がどうなっているか気もそぞろ、「帰心矢のごとし」だった。ガソリンスタンドでちらっと見た新聞の一面は、さらにひどい写真で、その横にHellとかApocalypseとかの言葉が太字で印刷されている。その新聞が飛ぶように売れている。
 僕はまっすぐ帰るつもりだったが、「もっと釣をしたい」と鈴吾郎は言う。そこで午前中だけ途中の海辺の景勝地Lakes entranceの波止場で、休暇を楽しむ釣り人に混じり、僕らも釣り糸を垂らした。悪い知らせはもう少しの間だけ頭から追い出し、風、雲、水面、そして釣り糸に神経を集中する。

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 すると、驚いたことにこういうときに限って釣れるものだ。神様が微笑んでくれたのかもしれない。しばらくすると、はち切れんばかりの太ったシマアジがバーンと針にかかった。ブルブルブルと命の振動が釣り竿を震わせる。すぐ横で鈴吾郎も一匹釣り上げる。「やったー!」と、二人ともニンマリ得意顔だ。二人で、すぐさま三匹、四匹、五匹と続けて釣り上げ、大きなのを7匹釣った。そろそろ帰途につこうかと考えていると、八匹目がかかった。これが、これまでで一番でかい。ところが針が小さすぎて、口元が柔らかい横綱シマアジを支えきれず、銀色お月さまみたいな太っちょ魚はあと少しというところで海に落ちた。僕の肩越しに見ていたギリシャ人のおっさんが、「残念、でかすぎだ!」と、残念そうに叫び声をあげたほどだ。僕は全身が沸騰し、心は完全に解き放たれた。もう悔いはなし。
 魚をアイスボックスに詰め、あとはメルボルンまで300キロ、4時間ひた走った。アクセルを踏み続け、弓矢のように走った。
  
「悪夢はバクに食わせろ」

 家に帰ると、机の上には一昨日、昨日、今日と、恐ろしいニュースを伝える新聞がうずたかく積んであった。チャコも鼓子も沈んだ顔だ。仙台のチャコの叔父さんは無事だったとのこと。他の親戚にもとりあえず負傷者なし。とりあえず、やれやれ。
 パソコンにスイッチを入れると、メールがたくさん来ている。オーストラリア国内、日本から、加えてフランス、ブラジル、米国からも来ている。みんな僕の日本の親戚の安否を気遣っている。
 夜、メルボルン在住の日本人の友人から電話が来た。「何か僕らでできることないですかね?」、正義漢の彼が言う。僕も、ずっとそのことを考えている。みな、そういうことを話さないではいられない。 
 メールがさらに届く。「義援金」、「援助バザー」などの文字が目に入る。海外にいても動きが速い人たちはもう行動している。僕も、募金活動をしているオーストラリア赤十字、Oxfamなど団体のホームページを覗いてみる。「クレジットカード決済の募金ができます」とか、「本団体は、募金の10%以上は、決して事務費用に用いません」とか但し書きがある。賢い消費者は、寄付をするときも賢く寄付先を選ぶのか。
 僕には何ができるだろう? もちろん、義援金は寄付するし、募金活動やバザーに参加するかもしれない。でも、それから?
 長いドライブで体が疲れているのにインターネットから目が離せない。Youtubeで津波の映像を見る。灰色の濁流が町を飲み込む。町民の叫び声、子どもの泣き声も録音されている。煙を上げる原子力発電所の映像も見た。まるで地獄絵だ。
 翌朝、寝不足の頭でベルグレーブの町へ用を足しに出た。スーパー、郵便局、街頭で隣人に会う。会う人、会う人、「日本の親類は大丈夫か?」「怪我をした人はいないか?」と尋ねる。
 日本人の知人にも出くわした。立ち話は、津波、地震、発電所、家族の消息。彼女の東京の姉さんは、都内の職場から徹夜で歩いて帰宅したとか。僕の義理の弟も、地震直後電車が止まったので、新宿から武蔵野市までスーツと革靴で走って帰ったという話をする。どこの家にもこうしたエピソードがあり、皆それを話さないではいられない。
 東京の弟に電話してみる。すんなり通じて安心する。地震のとき下田の民宿で温泉に入っていたと言う。(こんな時に! と思うが、自分だって遊びに行っていたことを思い出す。)伊豆も地震が多い場所だから、ぐらぐらっときたら、すぐ津波警報、避難勧告が出たらしい。ところが、民宿を営む年寄りたちは慣れっこで、「元禄の津波のときは、あそこのお宮さんまで水に浸かったらしいが、そんなでっけえ津波は滅多にこねえずら」と言って、逃げもしなかったと言う。弟は、老人を置いて自分だけ逃げる訳にもいかず、怖い思いをしながら海辺の民宿で眠れぬ一夜を過ごしたらしい。
 夜はまたインターネットでニュースを見てしまう。宮城、岩手、福島の被害を見て息をのむ。美味しい魚を食べた気仙沼は泥地獄。義理の父が赴任していた釜石では冷たい川で山からこぼれてくる鮎を釣ったが、あの川もきっと泥の中だろう。悪夢だ、悪魔に違いない。
 メディアで増幅された恐怖に交感神経が反応し、心臓が早鐘のように打ち始め、耳鳴がひどくなり、血圧が上がってきたことが分かる。パソコンを切り、気持ちを鎮めようと、詩の本を手に取る。
 東北と言えば宮沢賢治だ。憲治詩集を開くと、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の文字が目に飛び込んできた。東北の人たち、負けるなよ! 寒い中で凍えているみなさん、春はもうすぐそこだ。憲治が生きていたら、今どんな詩を書いただろうか。
 俳人、種田山頭火の俳句もいくつか読む。
 「はるがきた いちはやく虫がやってきた」。
 「生き残ったからだ掻いている」
 自然は、時には恐ろしいこともするが、命の源泉だ。虫も、僕たちもその一部だ。春には、木が芽吹き、緑が萌える。とにかく、東北地方が早く暖かくなって欲しいと願う。
 山之口貘という詩人も面白い着想があって好きだ。この人は、絶望をユーモアで希望に変えてしまう錬金術師だ。

 「悪夢はバクに食わせろと むかしも云われているが
  夢を食って生きている動物として バクの名前は有名なのだ。  
  ぼくは動物博覧会で はじめてバクをみたのだが
  ノの字みたいなちっちゃなしっぽがあって 
  鼻はまるで 象の鼻をみじかくしたみたいだ
  ほんのちょっぴりタテガミがあるので 馬にも少しは似ているけれど
  豚と河馬とのあいのこみたいな図体だ 
  まるっこい眼をして口をもぐもぐするので 
  さては夢でもくっていたのだろうかと
  餌箱をのぞけばなんとそれが 
  夢ではなくてほんものの 
  果物やにんじんなんかを食っているのだ
  ところがその夜ぼくは夢を見た
  飢えた大きなバクがのっそりあらわれて
  この世に悪夢があったとばかりに原子爆弾をぺろっと食べてしまい
  水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと 
  ぱっと地球が明るくなったのだ」

  (『山之口貘詩文集』講談社文芸文庫)

そうだ、山之口が書くように、バクを連れてきて放射能を吹き上げている原子力発電所を食わせよう。それで、悪夢は消えてなくなる。そして、子どもたちはみんな安眠できるようになるはずだ。
 疲れて頭がしびれてきた。布団に入る前に、この週末の目まぐるしい変化について考える。楽しかった釣りとカヌーの旅。一転、日本の大惨事の知らせ。天国と地獄。今この世界は、幸せな場所なのか、不幸な場所なのか?僕にはよく分からない。
 布団に入ると、鈴吾郎が横で「くの字」になって熟睡している。枕元に、開高健著の釣り写真エッセイ『オーパオーパ』が落ちている。釣気違いの鈴吾郎は、この本を僕の本棚から見つけて以来、日本語は読めないくせに、寝る前にこの本の釣りの写真を眺めて飽きない。僕もパラパラとページをめくりながら、名言家だった開高が好きだった言葉を思い出す。
 
 「明日世界が滅ぶとも、今日あなたは林檎の木を植える」

 「林檎の木を植える」は比喩であり、だから、この句はいろいろな意味に取れる。しかし、林檎の木は実際素晴らしい。ノアノアの林檎も、植えた人がいなくなった後でも実をたくさんつけて人に喜ばれている。言葉や詩も「林檎の木」かもしれない。
 詩は、(回転の遅くなったコマのように)振らつく僕の心の中心をぐっと捉えて安定させてくれる。芸術は、決して直接の問題解決にならないし、原子力発電所の火災を消してはくれない。しかし、心を慰め、その後に人が進むべき方向を指差してくれる。
 横から鈴吾郎の寝息が聞こえる。僕のまぶたも重たくなってきた。気がついたら、胸の動悸も収まっていた。
 僕はスタンドのスイッチを切り、バクの間の抜けた顔を思い浮かべながら、眠りについた。
 
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2011年02月22日

カヌー「タンタン丸」のお披露目式

2011年2月14日
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1月某日、僕が自作したカヌー「タンタン丸」は無事に進水した。「水が漏らなかった?」と、意地悪な友達は聞いたけど、舟底と内側とも二重にファイバーグラスを貼ってあるのだから、そう簡単に浸水するはずがない。
 さて、進水式は鈴吾郎とチャコと僕の三人だけでしたので、その数日後、今度は鈴吾郎の仲良しクラスメートを2、3人呼んでお披露目をした。折しも、気温が35度の夏日だったので、お披露目をした近所のオーラベール湖は、けっこうな人出だった。
 手作りで木目も鮮やかなタンタン丸は人目を引くようだ。案の定、車の屋根から降ろしているときから、「自分で作ったのか?」「どれくらい時間がかかった?」「費用は?」「ファイバーグラスの作業は大変だったろう?」「設計図はどうした?」とか、質問しにくる人がある。
 ベニヤ製ファイバーグラス船体のタンタン丸は、予定より重量オーバーで、重量は40キロくらいある。だから、車から降ろすのは一苦労だ。しかし、舟だけあって水に浮かべると、軽くすうっと滑る。パドルで一漕ぎすると、軽く10メートルは進む。ところが、鈴吾郎といっしょだと、なかなかまっすぐ進まない。鈴吾郎がでたらめに漕ぐから、タンタン丸はジグザグに進んだり、ぐるぐる回ったり。「いったい、どこへいくつもりなんだ?」「あそこの高い木を目印に進め!」「パドルは、漕がないときは水から上げておけ!」と、僕の叫び声が飛ぶ。ところが、そういう僕だってカヌーは初心者だ。自分が何をやっているのか、よく分かっていないこともある。
 鈴吾郎は、カヌーの前の特等席に座ってご満悦。その上、水面を見ていると気持ちが良くなるらしく、カヌーの進行は無視して、パドルを水に入れてかきまわして水泡が出る様子を見て楽しんだり、垂直にパドルを入れて、水底を触ろうとしたりして遊び出す。これじゃあ前に進まない。  
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 かと思えば、ばしゃばしゃ、あらぬ方向に急に漕ぎ出したりもする。だから、オーラベール湖を一周するだけでも、僕は汗まみれ。他のカヌーやカヤックは、すいすいとアメンボウのように水面を滑っていると言うのに、僕らはグルグル、ジグザク、グルグル、ジグザク。ああ恥ずかしい!
 でも、次第に父子の呼吸は合ってくるものだから不思議だ。二人の息がぴたりと揃うと、まるで自転車のような快適さでタンタン丸は水面をサーッと滑っていく。自転車の滑走感も気分良いが、カヌーには機械部品が全くないから、聞こえるのは水の音のみ。もっと気持ちがいい。
 汗まみれになって一周してくると、岸辺に鈴吾郎の友達の父子がやってきたのが見えた。ウイルとダーシー、それにお父さんのビル。
 さっそくタンタン丸を岸辺に漕ぎ寄せ、ビルと代わる。ビルが座ると長男のウイルも飛び乗る。次男のダーシーは、「ちょっと見てから、後で乗るよ」と、やや怖がっている様子。
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 ビルも、昔カナディアンのカヌーを持っていたとかで、漕ぎ方は堂に入っている。ゆっくり湖を一周してきて一言。「いいねえ、これ! 俺も作っちゃおうかな。」
 「カナディアンは、どうしたの?」と尋ねると、
 「いやあ、盗まれちゃったよ」とビル。僕も盗難には気をつけよう。
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 そうこうしていたら、ジョンとエティエンヌの父子も来た。ジョンはフランス人建築家で、元ヨットマン。建築家らしく、タンタン丸を仔細にチェック。「いやあ、お見事。初めてにしては素晴らしい出来だよ。」と、お褒めの言葉。うれしい一言。
 僕が、「これはカヌーじゃなくて、ピローグという種類の舟なんだよ」と言うと、フランス人のジョンは笑って言った。
 「あははは! フランス語では、カヌーのことをピローグと言うんだよ。」
 なるほど、知らなかった!
ジョンは昔、双胴のカタマラン型のヨットを作ったことがあると言う。「いやあ、こういうの見ると、僕も血が騒いじゃうなあ。またカタマラン作っちゃおうかな。でも、暇ないからなあ。」と、ジョン。
 オーストラリアにいると、舟でも家でも、自分で作ったと言う人が山ほどいる。そう言えば、ビルもジョンも、自分の家は自分で作っている。そして、面白いのは、そういう愛着のある自作の家や舟を、何かの機会には、ぱっと手放してしまうことだ。そうやって、大きな家に買い替えたり、換金したりしてしまう。僕なら、自作の舟は絶対に手放したくないが、彼らは、そういうことには意外にこだわらないところがある。
 そのジョンも、早速タンタン丸に乗って湖を一周する。息子のエティエンヌはと言うと、カヌーよりも湖畔で小魚を捕まえるのに夢中で、水に入ったきり出てこない。「遊泳禁止」と立て札にあるのに、おかまいなし。鈴吾郎も、じゃぶじゃぶ入って泳いでいる。そこら中、みんな泳いでいる。夏日の今日は無礼講ということか。
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 チャコも一足遅れてやってきた。片手にお握りのたくさん入った風呂敷を下げている。さっそく、木陰にピクニックブランケットをしいて、みんなでピクニック。その間も、子どもたちは水辺で大はしゃぎ。大人も、ときどきカヌーで湖を一回りしてくる。あとは、日陰に座りこんでおしゃべり。日差しは強いが、湖面に出れば、水面を渡る風の涼しいこと。なんてのどかで、静かで、楽しいんだろう。
 カヌーを作って良かった。これからも、ときどき友達を集めて、こうやって水辺のピクニックをしよう。

 その夜遅くの飛行機で、娘の鼓子がフランス滞在から帰って来た。この冬パリは厳冬で、とても寒かったと言う。地球の反対側メルボルンは真夏。鼓子は、車庫に置いてあるタンタン丸を見るなり、「あたしも乗りたい!」
 そこで、鼓子と鈴吾郎を連れ、数日後またオーラベール湖へ。この姉弟は、とても仲が良い。8才年上の姉は少し弟に威張ったところがあるが、利かん坊の弟は姉の言うことは従順に聞く。
 その二人がタンタン丸に乗り込む。ところが、この日は風があって、あっという間に二人は風下に流された。「大丈夫かな?」と、僕は少し心配になる。姉がカヌーの後ろに座り、弟にいろいろ指図しているのが水面を渡って聞こえてくる。やがてカヌーは、ゆっくり風上に向かって進んできた。姉弟のパドルさばきも呼吸が合っている。
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 「もっと風のあたらないところで乗りなさい!」僕は口に手をあてて叫び、風の穏やかな対岸を指差す。すると、タンタン丸は向きを変えて、そちらへと進んで行く。
 ああ、子どもたちも、自分たちだけでカヌーに乗れる年になったんだ、と、僕はうれしくなる。
 夢がいろいろ膨らんでくる。このカヌーを車の屋根に載せて、鈴吾郎とまだ見たことのないオーストラリア北部や西部を旅したい。そして、良さそうな水辺を見つけたら、そこにテントを張り、カヌーで漕ぎ出て、釣りをしたい。
 いや、決して夢じゃない。来年の夏の休暇は、きっとそうすることにしよう!
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カヌーを岸に着けてブラックベリー狩りをする鈴吾郎
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ブラックベリーの実
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2011年01月19日

カヌーを自作して、新しい世界に漕ぎ出すこと



2011年1月

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僕が鈴吾郎のために作ったタンタン丸 (アメリカ、ルイジアナ州に伝わる川舟、cajun pirogueというデザイン)

カヌーを作った。生まれて初めてのことである。ほとんど衝動的に。しかし、そこには隠れた動機もあった気がする。僕は、舟やカヌーが出てくる物語がけっこう好きだった。ヘミングウェー『老人と海』、山本周五郎『青べか物語』、ヘンリー・デビット・ソロー『メインの森』、ケネス・グレアム『たのしい川べ』などだ。
 カヌーやボートは、文学の中では何かの比喩であり、象徴である。ただの道具ではない。舟は、人が渡ることのできないもの、水面、川や海を越えて行くためのものである。舟は「旅」でもあり、遡上でいろいろな人間と出会うためのきっかけを作る。日本の神話のスサノオの物語にあるように、舟はこの世と冥府をつなぐものでもある。
 カヌーを作ることで、僕も何かを乗り越え、新しい場所へ行ってみたいと考えたのかもしれない。
 また直接の動機と言えば、息子の鈴吾郎(8才)が、昨年釣りを始めて以来、「ボートを買え」と、しつこく言い続けて来たことにある。オーストラリアはボート大国だ。ちょっとした釣り好きなら、みんなボートを持っている(と言っても過言ではない)。しかし、だからと言って何千ドル、何万ドルもするボートを衝動買いするほど、僕は親ばかでもないし、そんな金もない。
 しかし、鈴吾郎の攻撃は日を追って激しくなる。二人して波止場や岸壁から雑魚を釣っていると、豪儀なクルーザーや、比較的庶民的な小型モーターボートなどが、景気の良いエンジン音を響かせながら沖釣りから戻ってくる。そして、ビール腹のオヤジたちが、真鯛や大振りのコチなんかを抱えて降りてくる。
 そういうのを見ていると、僕だって「ちくしょう、ボートがあったらなあ」と思う。先日も、旧友ミヤギ氏父子に、フランクストン沖での釣りに誘われ、貸しモーターボートを奮発して出かけたら、コチや小鯛やサヨリが、たくさん釣れた。やっぱボートは違う。

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フランクストン沖で、ミヤギ氏と釣り

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オーストラリア生まれで、オーストラリア育ちの日本男児二人、大海原を行く(左は、ミヤギ氏の長男のジュン君)

 しかし、文学好きなインテリな僕は、もっと上品に、もっと優雅に、もっと知的に、ボート釣りに移行したい。ビール腹オヤジが、ガソリンをじゃんじゃん消費しながら轟音をたてて走り回るモーターボートなんかではなく、山本周五郎の持っていた和船「青べか」や、ソローがメインの湖水を逍遥するのに使った川舟のようなものがいい。そして、文学や芸術や人間を愛するのと同じように、舟にのって釣りをしたい。
 だから、カヌーを作ったのは、ただカヌーをやってみたいとか、もっと釣りをしたいから、という単純な心理ではないのである。
 (でも、本心では、ああ、真鯛の大物なんか釣ってみたい!) 
 そんな僕が、ボートかカヌーを自分で作ろうと心に抱いたのは、さかのぼること昨年の7月頃だったろうか。でも最初は、「まさか、本当に作れるわけないよね」と、あきらめていた。そしたらある時、鈴吾郎の同級生のお父さんで、高校で科学や技術を教えるマークが、「いや、作れるよ、作れる。木を切ってさ、乾かして、板に削って、作ったらいいんだよ。うちのおじいさんはそうしてたよ、ハハハ!」だって。簡単に言うなよな、もう!
 マークは、うちの娘の鼓子(16才)が通うシュタイナー学校の卒業生、奥さんも同級生、子どもたちもみんなシュタイナー学校、というシュタイナー家族。シュタイナー学校の卒業生は、マジでいろいろな物を自作してしまう人が多い。家を建てる、ギターやバイオリンを作る、古い自動車を電気自動車に改造して乗っている人だっている。ボートビルダーも多い。

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シュタイナー学校のカヌーキャンプでの鼓子

 「そんな、木を削ってなんて、まさか!?」と、僕は絶句したが、マークの「作れるよ、作れる」という一言は、どこかガツンときた。 
 そうこうしているうちに、ウォーバートン村のカネ村さん(宮大工の息子)と餅つきの臼を作ろうと試みて、二人して挫折したことは前回書いた。しかし、臼を作る檜のブロックを削りつつ、爽やかなおがくずの匂いを嗅いでいるうち、心はだんだん高揚してきた。そして、ある日決意したのだ。
 「よし、僕もボートかカヌーを作るぞ!」
 早速インターネットでリサーチした。日本語でも調べたが、あまりバラエティーがない。そこで、英語でオーストラリア、カナダ、米国のビルダーについて調べた。北米のボートビルディングは裾野が広く、設計図もたくさん売られていることがすぐに分かった。初心者用のキットなどもたくさんある。写真入りのブログも多々あり、「初めてだが、満足なできだった」とか「こんなに簡単に、しかも美しいカヌーが作れて夢のようだ」とある。You Tubeにもカヌー作りの映像がたくさんアップされている。俄然やる気が湧いてくる。
 そのうち、アメリカ、ルイジアナ州のUncle John’s General Store(ジョンおじさんの雑貨屋) http://www.unclejohns.com/default.htm という不思議な名前のビルダーに行き当たった。「6時間で作れるカヌー風ボート、ケージャン・ピローグ」とある。写真を見ると、見たことない舟だが、直線的で実にシンプルなデザイン。しかも美しい。ルイジアナの湿地で、ザリガニ漁や魚釣り、カモ狩りなんかに使う川舟のデザインらしい。
 さっそく、電子メールで30ドルという破格に安い設計図を取り寄せた。これも単純、明快。
 「ようし、作るぞ!」僕は、鈴吾郎に宣言した。
 「本当? やろう、やろう、やろう!」鈴吾郎は、万歳三唱である。

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早朝から作業する鉄太氏

 さて、結果から言うならば、宣伝にあった「6時間」はとても無理であった。実働40時間、期間にしてほぼ3ヶ月かかった。早朝、夕方、週末、自分でも信じられない集中力で作業した。鈴吾郎も、木を切ったり、グラスファイバーの塗布を手伝ったり、紙ヤスリをかけたりして手伝った。そして、満足できるピローグが出来上がった。マークの、「作れる、作れる」は、本当だった。
 舟の名前は、鈴吾郎が、大好きな絵本キャラクターから取って、「Tintin(タンタン丸)」とした。冒険好き、という意味合いである。
 以下が制作のダイジェストである。

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設計図をじっくり研究。部品によっては実物大の設計図を書く。

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ベニヤ板から側板、底板を切り出す。(材料はほとんど全部近くのホームセンターで入手。工具も、ドリル、丸鋸など、手元の工具だけで足りた。)

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舳先の軸となる部品。これだけは特殊な工具が必要で、友人の木工家リントン氏に切り出してもらった。

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あれよあれよという間に舟の形が出来ていく。自分でもびっくり。

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接着剤が乾くのを待つ時間が惜しく、端切れでパドルも作ってしまう。こんなマニアックなものでも、失敗さえ恐れなければ、できてしまう事実に驚き。

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舟の内枠を付ける。舟の形がこれで決まるので、位置決めに苦心。

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外枠を付ける。細い木材をぎゅっと曲げて貼付ける工法も初体験。

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底板を貼付ける。底板は適当な大きさに切って、側板に合わせて切るだけ。接着は重しをたくさん置いて。

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舟の形が完成。ここまで出来れば完成近し、と、思ったら大間違い。

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ファバーグラスの施工。A剤とB剤を混ぜたら、20分で塗らないと乾いてしまうという恐怖の体験。最初はパニック、慣れると難しくない。

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乾いたら、はみ出したファイバーグラスの端をカッターで切り、ヤスリで整形。

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水漏れがないように、隙間をエポキシで塞ぐ。クモさん、接着剤で張りついちゃうよ!

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カヌー作りも山を越した観もあり、鈴吾郎と釣りへ行って一息。キスやカワハギが釣れ、刺身と焼き魚で一杯。庭でとれた空豆も夏の味。ビールが旨い。

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ファイバーグラス完成。見よ、この光沢。

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仕上げに入る。内側に手すりを付けたり、前後にデッキを貼付けたり、細かい偽装を施す。この辺りのデザインは、Uncle Johnのサイトにある過去の制作例の写真からアイデアをもらう。

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いよいよ塗装。ファイバーグラスは紫外線に弱いので、舟用ニスや外壁用ペンキで塗装。

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木目を生かした塗装で完成。どうじゃあ、この名人芸!(写真ではアラが分からない?)

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椅子やパドルなどの備品も作る。お茶の子さいさい。

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庭に持ち出し、写真撮影と、陸上でイメージトレーニング。
(鈴吾郎を座らせて写真を撮っていたら、うれし涙が湧いてきた。)

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思ったより重い舟になったので、搬送用の車輪も作った。荷車の車輪を流用。

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最後に、Tintinと船名を入れる。手書きで入魂。

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車に積み込むのも初体験。手順が分からず、大汗で2時間。

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近所のオーラベール湖で、ビールを船首にかけて無事の航海を祈る。

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鈴吾郎とタンタン号の処女航海。

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静かに水面を走るカヌーのなんと滑らかなこと。この感覚は、とても陸上では味わえない。

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カヌー、絶対お勧め。特に自作のカヌーを漕ぐのは、最高の気分!













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2010年12月10日

臼(うす)作りが、カヌー作りへと発展

2010年12月10日

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初夏の我が家の裏庭

二月ほど前か、メルボルンからさらに70キロの山奥、ウォーバートン村に住むカネ村さんがメールしてきて、「てつたさん、たまには会ってコーヒーでも飲みましょう」と言った。カネ村さんは、メルボルンで活動するクカバラ文庫という児童文庫のリーダーをやってきた人で、僕と同じ日系移民である。うちの息子鈴吾郎(りんごろう、8才)と同じ年の息子もいる。

 さて、シティーのカフェで落ち合ってコーヒーを飲んでいると、カネ村さんは、どん!とテーブルを叩いて宣言した。「てったさん、クカバラ文庫とメルボルンこども文庫(僕はこの文庫を主催している)の合同で、今年の暮れに餅つき大会をしましょう!」
  餅つき大会、これぞ僕の恐れていたことである。これこそ僕が、オーストラリアに移住し、日本語児童文庫を10年も主催しながら、いつかはやりたいと思いつつも、言い出せないでいたイベントなのだ。それを僕よりも年齢が一回り近くも若く、児童文庫歴も僕の半分にも満たない、言ってみれば若造であるカネ村さんが、いとも簡単に言い出してしまったのである。
 なぜ餅つき大会に僕がちゅうちょしていたかと言うと、それが一大事業に発展してしまう恐れがあったからである。
 餅つき大会は、僕も子ども時代、故郷の町内会において経験している。この餅つき大会は、町内会の会長、副会長、役員のおばさんの肝いりで始まり、町内出入りの米屋や酒屋、肉屋や八百屋をスポンサーに迎え、商店街の外れにあったクリーニング店の駐車場を会場として行われた。餅つきに心覚えのあるおじさんたちが杵(きね)を振り上げて大量の餅がつかれ、僕たち子どもは、腹の皮が裂けそうになるまで、からみ餅、醤油餅、あんころ餅、きな粉餅を食べまくり、その後は興奮して空き地で走り回って遊んだ。確か、三矢サイダーも飲み放題だったと思う。おじさんたちは、酒屋の差し入れの酒樽を割って、冷や酒に顔を赤くしていた。
 餅つき大会というのはそんな風な無礼講であり、かなり熱のこもったイベントであった。そんな餅つき大会を、いつかはメルボルンでやりたいと思っていたのだが、しかし、それには、臼や杵も必要である。大量の餅米を蒸す蒸し器もいる。場所はどうしたら良いか。そして、そんなイベントを開催したら、どれほど人が押し寄せるだろうか。故郷日本の味を求めて、やってくる可能性がある日系人は、メルボルンには何千人もいる。メルボルンこども文庫だってメンバーは25家族、合計100名の大所帯。そんな餅つき大会をするには、どれだけの餅米が必要か。臼だって、一つや二つではとても足りないだろう。
 だから、餅つき大会なんて、とても出来やしないと、長年僕は思っていた。だから、絶対に実施できるという自信ができるまで、言い出すまいと思っていた。
 「カネ村さん、気持ちは分かるけど、臼や杵はどうするんだい?」と僕は、わざと難しい顔をして言った。ところが、カネ村さんは、「そんなもの、作っちゃいましょうよ!きっとできますよ」明るい顔でこう言い放った。(実は、臼を作るという結論にいたるまで、もっと、いろいろな議論があったのだが、長くなるので省く。とにかく、最後は、カネ村氏の情熱に僕が押し切られた、ということだけは言っておく。)

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手前が、作りかけの餅つき用の臼

 聞いてみると、カネ村さんの日本の実家は工務店で、お父さんは神社などを作る宮大工だったそうだ。そう知ると、僕もいっぺんに気持ちが明るくなった。臼くらい、カネ村さんには朝飯前に違いない。「よし、やってみるか!」と僕も乗り気になり、積年のこだわりに終止符を打ったのだった。
 それから、実はまたいろいろあったのだが、書くのが面倒なので省く。とにかく、その後、僕とカネ村さんは、ある土曜日の午後、息子二人を連れてウォーバートン村近くの製材所までおもむき、檜の木材を買い求め、山奥のカネ村家まで運んだ。檜のブロックは50センチ四方あり、どっしりとした良い木材である。木に詳しいカネ村さんも木材を眺めつつも満足そうである。そして、おもむろに道具箱から、宮大工だったお父さんから譲り受けたという、秘伝の黒光りしたノミを取り出した。そして、「やっと、これを使うときがきましたよ」と、カネ村さんは不敵な笑いを浮かべたのだ。
 僕たちは、赤鉛筆で檜のブロックに直径30センチほどの円を描いた。そして、「さあ、掘りましょう。臼作りの始まりです」と、僕は宣言した。 
 
カネ村さんの挫折

 檜の角材は、およそ2週間カネ村家に「滞在」した。ところが、結果から言うと、カネ村さんはいとも簡単に臼作りを諦め、放棄したのだった。そして今度は、我家で作業を続行するために、僕は臼を引き取りに山奥のカネ村家まで車を飛ばした。
 会ってみると、カネ村さんは浮かない顔だった。「てったさん、ダメですよ、とても掘れませんよ。2週間でこれだけ。」見ると、臼の穴はいくらも掘り進んでいない。
 僕は言った。「カネ村さん、あきらめちゃいけないよ。こういうものは焦っちゃいけないんだ。今度は、僕にまかしてくれ。うちにはチェーンソーもあるから、思い切って機械でがーんと掘ってみよう。」 と、僕は慰め顔で言った。
 という訳で、あれからずっと臼は我が家に置かれている。ところが、チェーンソーを使っても、なかなか掘り進まない。だから、いつ完成すかも分からない。しかし、臼はどーんと、そこに座ったまま、自分が主役になる餅つき大会を夢見ながら、そこで眠っている。暮れの餅つき大会は、当分延期である。

全てカネ村さんのお陰であるということ。

 しかし、この出来事で、僕は不思議と木工に目覚めてしまったのだ。そして、他のものを作り始めてしまったのだ。それは、臼から少しでも遠ざかっていたい、しかし、責任は放棄したくない、という深層意識の現れかもしれない。

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私の作業場

 作ったものは、一つは鈴吾郎のクラスの担任の先生に頼まれた、足が12本あるテーブルである。よく分からないのだが、かけ算を教える道具に使うのだと言う。これはまさに朝飯前であった。担任の先生にも非常に感謝されて、僕は気を良くした。

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足が12本あるテーブル

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製作中のカヌー

 そして、カヌー。鈴吾郎が、釣りに使うボートを買えと前からしつこくわめいていたのだが、ボートは高い。大金を出してボートを買うのもしゃくだから、自分で作ることにしたのだ。これには、かなり手こずっているが、同時に楽しんでもいる。ノコギリ、ドリル、トンカチ、カンナなどを使いながら、子ども時代の工作の時間の興奮を再体験している。もちろん、ボート作りなんて人生始めての体験である。カヌーだって一、二度しか乗ったことがない。一体、この先どうなるか分からない。が、僕の「人生」という小部屋に、新しい窓が開いたような新鮮な心持ちがしている。

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鈴吾郎が書いたカヌーの設計図

 カヌー作りについてはまた書こう。とにかく、今後の人生のかなりの部分を、おがくずまみれになって過ごす予感がしている。言うまでもないが、こうなったのは、ひとえにカネ村さんのお陰である。
 
posted by てったくん at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記