2020年02月18日

危機は訪れ、去っていく

2020 2月14日 (58歳誕生日)


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メルボルン郊外の秋。まだ緑が濃い

先日の夕方、僕は、焼売を蒸していた。なぜ?と問われたら、それは焼売を作ったからに他ならない。なぜ焼売を?と問われたら、それは17歳の息子が食べたいと言ったからだ。

焼売など買ってくれば良いと思う人もあるだろうが、メルボルンの町外れの我が家から焼売を買いに行くには、かなりの遠出になる。電車で1時間、車でも45分ほどかけて、中国系の住民が多く暮らすボックスヒルくらいまで出ないと焼売は手に入らない。

だから焼売は作る。作ってみれば意外に簡単だ。玉ねぎを多めにみじん切りにし、それを豚ひき肉と混ぜる。エビを包丁で叩いて練り込んでも美味しい。それを焼売の皮に包み込むのだが、包み方も、2、3回やれば結構慣れてくる。こうやって作った焼売を蒸し器で蒸すのだが、白菜やレタスの葉っぱを下に敷けばくっつかないし、蒸し器の隙間に人参やズキニやサツマイモを入れて蒸せば、蒸し野菜も同時にできる。

焼売が蒸しあがる10分ほどの間、テレビのニュースをみる。オーストラリアでも、2月中旬現在、コロナウイルスのニュースがトップだ。正月明けごろまでは、ブッシュファイヤーのニュースがトップだったが、それと入れ替わった形だ。ブッシュファイヤーは未曾有の規模で燃えた。僕が住んでいるビクトリア州とニューサウスウェールズ州を合わせると、日本全土と同じくらいの面積の林野が燃えたらしい。家や牧場、店や工場などの建物が燃え、野生動物も数億匹が犠牲になったと予測もされている。大変な惨事であった。

それで今度はコロナウイルスだ。毎日中国では罹患者の数は増え、犠牲者も増加している。武漢や湖北省の人たちは大変な災害の中にある。日本でも、特に横浜港に着岸しているクルーズ船に乗ったまま隔離されている人たちなどは、さぞ不安なことだろう。オーストラリアでは幸いまだ罹患した人は少ないが、そう安心はしていられない。3月には大学の新年度が始まるが、10万強の中国系学生が、渡航許可が出次第、中国から戻ってくる。その頃は、ウイルスには収まっていて欲しいものだ。中国で、渡航できるのを今か今かと待っている学生諸君の心持ちを考えると本当に気の毒である。ウイルスにはきて欲しくないし、学生や渡航者の都合を考えると気の毒でもあり、ジレンマである。

で、さらに詳しくニュースを読もうと、テーブルの上のiPadに手を伸ばす。すると、用事でブリスベンに行っている娘から、メッセージが着ている印がスクリーンにある。それを見ようとすると、Facebookが「パスワードを変えてください」と自動メッセージを送ってきた。この間ウイルスに感染してパスワードを一度変えたのだが、それ以来何かと調子が悪い。またパスワードを変えなくてはならないとは面倒だ。

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近くの農場でブラックベリーを摘んで食べた。夏の終わりの味覚。

しかし、娘のメッセージを読みたいから、パスワードを変えることにする。そのためにiPadとパソコンと携帯電話の間を行ったり来たりする羽目になる。3台も機器を使っていると面倒だ。

うんざりしながら、iPadや携帯をガチャガチャやっていると、台所のタイマーが鳴った。焼売が蒸しあがった知らせだ。ガス台の蒸し器の蓋をとると、焼売が美味しそうに蒸しあがっている。息子の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。息子は、この頃いよいよ父親のことを疎んじるようになってきて会話らしい会話もない。息子がやっているサッカーのことを聞いても学校のことを聞いても、「うん」とか「まあまあ」とか、そんな返事しか返ってこない。たまに勉強のことなど口出ししようものなら、さらに関係は険悪化だ。僕としては父親の権威をそれほどさらけ出しているつもりもないのだが、17歳の息子からすれば、父親は近くにいて欲しくない存在ナンバーワンだろう。そんなだから、何を言っても逆効果、父親の愛情を示す方法もなく、せめて機会を見つけて焼売などを作って懐柔しようと言う魂胆だ。早くこの時期が終わってもらいたいのだが、もうしばらくは父親と息子の関係はギクシャクし続けるだろう。全くこの時期は災難のようなものだ。

出来上がった焼売を皿に取ろうとすると、今度は猫のタマがベランダでニャーと鳴く。家に入れろと言う催促だ。扉を開けて入れてやる。iPadに戻り、どうにかパスワードを変えて、やっと娘のメッセージを読む。「お誕生日おめでとう」と言うメッセージだった。そうか、今日は僕の誕生日だった。思わず頬が緩む。今25歳の娘もティーンエージャーの頃は色々と難しかったが、この頃はずいぶん父親にも優しくしてくれるようになった。待っていれば、必ずそう言う時期がくる。

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猫のタマ13歳

おっと、焼売を忘れていた。ガスを止めて焼売を皿に取り出す。テレビのニュースでは、武漢から帰国し、クリスマス島に隔離されている家族たちが元気で暮らしている様子を報道している。その中に、オーストラリアにそんなに急いで帰国する気はなかったのに、夫に説得されて嫌々帰ってきたと話す女性がいる。夫とは、そのせいですごい夫婦喧嘩になったが、その後のウイルスの蔓延を考えると、今は夫の判断に感謝していると言う談話だった。

それを聞いて思い出したが、10年くらい前鳥インフルエンザが流行したとき、ちょうど我が家も日本に帰国していたことがあった。その時は、日本についた途端になぜか娘が発熱し、病院に行ったら、鳥インフルの可能性があるから、1週間は家から出るな言われた。幸い娘は陰性だったが、おかげで、せっかく帰国したのにしばらくは用事ができなくなった。そして今度は、オーストラリアへ戻る段になったら息子が発熱した。もし息子が鳥インフルエンザだったら出国出来ないから、仕方なく帰国を1週間伸ばした。そんなで、この時は子どもたちの病院通いのために日本に帰ったような形になった。それほど大事にならずに済んだから良かったが。

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メルボルンでもマスクをしている人が増えた

しかし、今度のコロナウィルスはもっと深刻だから、隔離された人や罹患した人たちは、もっと不便だろうし不安だろう。オーストラリアでは罹患した人はまだ少ないものの、中国系の住民の中には、出歩くことを控えている人も多いらしい。だからボックスヒルやシティの中国人街は、風評のせいもあって閑古鳥が鳴いており、有名な中華レストランも潰れそうだとニュースでやっていた。電車やバスの中で中国系の人を罵倒したり、アジア系の学生が下宿先から閉め出しを食らったりとか、そう言う人種差別的な事件も起きていると言う報道もある。

自分は、オーストラリアにもう20年以上も暮らしていて、これまでアジア系であることで嫌な目にあったことはほとんどない。僕の友人や知人には、そんなくだらない差別をするような嫌な人間はいないから心配もしてない。

そう考えながら焼売を皿に取っていたら、背後で「ゴボッ、ゴボッ!」と妙な音がする。ふりかえると、餌を食べていた猫のタマが居間でゲロを吐いている。居間の絨毯は毛足が長いから、ゲロを吐かれると掃除が面倒だ。

「こんなところでゲロを吐かないでよ!」と、猫に苦言を言うが、タマには通じない。タマは13歳の老猫だが年齢の割には元気だ。それでも時には、食べたものを吐いたりすることもある。絨毯に染み込まないうちに、慌ててキッチンペーパーと洗剤で猫ゲロを掃除するが、なかなか綺麗になってくれない。タマはソファの上で、そしらぬ顔でヒゲの掃除をしている。人間がゲロを吐いたら、しばらくはショックでへこたれるだろうが、猫はあっけらかんとしたものだ。

うかうかしていたら、もうすぐ家族が帰ってくる時間だ。日頃のんびりと暮らしている僕でも、夕方は忙しい。いろいろな用事をマルチタスキングしなくてはならない時間帯だ。買い物に行き、ご飯を作り、ゴミを捨て、ニュースを見て、メールを読んだりと、いっぺんに用事を済まそうとする。でも、いろいろなことを一挙に片付けようとすると小さな危機が訪れることもある。でも、慌てても仕方がない。平常心を保つことが大事だ。

規模の大小はあるにしても、危機は、どんな人にも訪れる。どこかで読んだが、困難は、人生において、どんな人にも平等に同じだけやってくるのだそうだ。本当にそうかは分からないが、少なくともそう心がけて生きるべきなのかもしれない。幸に、どんな困難も、必ず過ぎ去っていくものであることも事実だ。

この焼売を、今いろいろな目にあっている人たちに届けられれば良いのだが、それは叶わないから、せめて今日まで幸せに生きてこられたことに感謝して食べることにしよう。
posted by てったくん at 08:44| 日記

2020年01月23日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第9話 最終回
12日目 雨の徳島見物をして、
13日目 最後に貞光まで輪行し、雨上がりの吉野川沿いを徳島、鳴門まで走ったこと


「But it’s all right  歳をとって髪が白くなっても、
 But it’s all right まだ言ってないことがあっても、
 But it’s all right やってないことがあっても、
 But it’s all right 生きたいように生きられれば、
 But it’s all right せめて許してやれるなら、
 But it’s all right 風の中をすっ飛ばせるなら、
 But it’s all right 自分が満足できる人生を送れるなら、
 But it’s all right 太陽が輝かなくたって、
 But it’s all right 俺たちゃ、みんな終点に向かって走っているんだから」

(トラベリング・ウィルベリーズ、The End of the Lineから。
 ジョージ・ハリソンが歌っている箇所)


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吉野川のどこかで

雨で停滞し、徳島見物で北条民雄の文学に出会う


鳴門には、結局三泊した。鳴門がそれほど気にいった訳ではないのだが、天気が崩れたので停滞したのだ。着いた翌日は大雨で、仕方ないから鳴門線で徳島まで行って町をぶらついた。

雨で停滞したことは以前にもあるが、そう頻繁にあることでもない。一泊や二泊の短い旅行では、停滞している時間的余裕がないからだ。大概は、雨が降っても雨具を着て走るか、あるいは、思い切って帰宅するしかない。

しかし、長い旅ではそういうこともある。思い出深いのは、北海道の網走でのことだ。結婚した翌年の夏休み(僕はそのころは学校の先生だったので、夏休みがちゃんとあったのだ。)、女房と僕は自転車にキャンプ道具を積んで、北海道を二週間ばかり旅行していた。ところが、網走のあたりで台風がきてしまった。夏の北海道は旅行者が多いから、天気が崩れるとたちまち宿が満杯になってしまう。インターネットもない時代だから、網走駅の旅行案内所で紹介してもらい、ようやく町外れの商人宿に泊まった。トイレも風呂も共同、部屋はドアも壁も薄っぺらなベニヤ張りで、わざわざ泊まりたいような宿ではなかった。それでも雨に追い立てられた客で満杯だった。

その中に、「丸ケン興業」の御一行がいた。「興行」と言うのがどんなビジネスを指すのか分からないが、この一行は、服装から髪型から物腰から、明らかに「ヤ」から始まって「ザ」で終わる名称の業種の方達と分かった。珍しいことに、総勢二十名ほどの丸ケン御一行は、家族連れの慰安旅行で、旦那衆だけでなく、オカミさんとガキどもも連れていた。

僕も女房も、こう言う筋の方達と袖振り合う仲になるのは初めてだった。網走という土地柄ではあったが、これを機会に親しくなりたいとは思わなかった。だから僕たちは、「触らぬ神に祟りなし」であることを肝に命じ、彼らとは距離をおくことにした。丸ケンの皆さんも、親分の部屋で酒盛りをしていたから、接触はせずに済みそうだった。開いたドアから見えたが、「大五郎」という焼酎の大瓶が部屋の真ん中にドスンと置いてあり、湯飲みでガブガブ飲んでいる。酒焼けした強面が円陣になって座る様子は、鬼ヶ島の酒盛りのようであった。僕は、その時までこういう安い焼酎のマーケティング上の意図を理解してなかったが、「ああ、こういうシチュエーションで飲むわけね!」とその時納得した。

触らぬ神に祟りなしであったが、丸ケンさんたちと夕食時に食堂で一緒になってしまった。彼らは、酩酊して赤黒くなった顔でドカドカ食堂に入ってくると、ものすごい物音をたてて飯や汁を咀嚼し始めた。その間、僕たちカタギ客は恐ろしさのあまり、凍りついたようになり、食堂は静寂になった。従業員たちは、給仕をすますとさっさと姿をくらました。もはや何の助けも見込めず、僕たちは食事を続けた。丸ケンさんたちは、斜めにテーブルに座ってひたすら食い、3分くらいで親分が食い終わると、全員が一斉に席を立ち、酒盛りを続けるために、ドカドカと部屋に戻っていった。僕は、緊張のあまり食べたものが胃からこみ上げてきそうだった。翌朝は天気も回復したので、早々に退出した。それが網走での停滞の思い出だ。

徳島出身の作家、北条民雄

僕は、鳴門線に乗り、雨に煙る田園風景を眺めながら、そんな昔のことを思い出していた。雨の中、知らない町を一人でぶらぶらするということもあまりない。まず徳島文学書道館を見学に行く。書道には興味がないのでほぼ素通りしたが、文学の展示は面白かった。徳島で有名な作家と言えば瀬戸内寂聴であるが、それまで読んだことがなかった北條民雄(1914−1937)という作家を知ったことが大きかった。北条は、ハンセン氏病にかかり、たった23歳で亡くなってしまったが、北条のハンセン氏病の一連の闘病記は川端康成を驚愕させたと言う。そして、川端の尽力で北条の作品は世に知られることになり、『いのちの初夜』はベストセラーになった。北条は、ハンセン病のサナトリウムの生活の様子を写実的に、しかし、時にはユーモアさえ交えて描いた。その全く冷静な筆致は見事である。

*北条の作品は、以下で読むことができる。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000997/card398.html

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鳴門線の車窓から

徳島は、山を背に抱き、前は太平洋、側には吉野川が流れる美しい町だ。その気になりさえすればいくらでも見物するものがあるのだろうが、雨のせいか、欲張って見物をする気になれない。その上、僕は小学生時代から予習をするのが苦手で、旅も行き当たりばったりなので、何をどう見物していいか分からない。だから昼飯を駅地下で食べ、コーヒー店に座って北条民雄の資料を読んでしまうと、後はすることも思い付かず、また鳴門へ戻る列車に乗ってしまった。


13日目(旅行の最終日): 貞光まで輪行し、吉野川の堤を徳島まで走る

最終日、朝5時に起きるが、まだ雨だ。しかし、昼には上がるはずだ。昨夜のうちに自転車を畳んで輪行袋に入れておいたから、それを担いで始発の鳴門線に乗る。始発だから空いていると思ったら、途中駅からどんどん勤め人や学生が乗ってきて満員になった。徳島の手前の佐古という小さな駅で阿波池田行きの徳島線に乗り換えるために降車する。雨はいよいよ本降りで、ホームが狭くてどこにいても濡れる。惨めな気持ちで10分ほど待つと、阿波池田行きがきた。

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雨は激しく降ってた

徳島線は空いていた。雨はまだ激しく降っている。本当にこれが止むのだろうか。携帯で天気レーダーを見ると、南から晴れ間が広まってきているから、列車に乗っているうちにどこかで晴れ間にぶつかるはずなのだが。

朝食を食べていないので、自転車バッグの中のロッテアーモンドチョコを食べる。この箱入りチョコは小学校の時から食べている。サイクリングの時も必ずこれだ。きっと80歳のおじいさんになっても食べ続けるだろう。チョコレートなど、世界で起きている色々なことに比べれば些細な存在だが、僕は、これがあるだけで少しは元気が出る。幸せとは、こういう小さいことの積み重なりかもしれない。


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貞光の駅で

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雨と晴れの境目の吉野川

貞光という無人駅で降りる。そこは、見事に雨雲と晴れ間の境目だった。みるみるうちに雨雲は遠ざかり、晴れ間が広まってきた。途端に気分も明るくなり、さっさと自転車を組み立てて、吉野川沿いに走り始めた。今列車で来た道をまた戻っていくのだから、満期になった定期預金をすぐに使い始めるような豪勢な気分だ。

さっきまで雨が降っていたし、まだ上流では降っているのだから、吉野川は満々と水をたたえている。満杯の一歩手前くらいだ。台風19号の記憶も新しいし、川沿いの人は冷や冷やものだろう。しかし、不埒なことを言うようだが、枯れた川を見るよりは、水がたくさん流れている川を見る方が豊かな気持ちになれる。

川が流れている景色は、日本には、都会にも田舎にもどこにでもある。しかし、僕が住んでいるオーストラリアには、滅多にない。山と呼べるような起伏も少ないし、内陸は乾いた荒野や砂漠だから、オーストラリアには数えるほどしか川が流れていない。メルボルンを流れているヤラ川やビクトリア州北部を流れるマレー川は長さから言えば大河だが、水量は日本の山から流れ落ちる豊富な水に比べれば、大した嵩ではない。僅かな水にしがみつくようにオーストラリアの人たちは暮らしている。

だから、そんな乾いた場所に住んでいる僕にとって、日本の川沿いを自転車で走ることほど楽しくて、豊かで、変化に富んだ旅はない。川沿いの旅は優しく、それほどきつくもない。どんな山中でも川は一定の傾斜で流れていくから、川沿いの道は勾配も緩やかだ。川を遡れば小さな町があり、村があり、橋があり、堰がある。川には歴史があり、農業があり、林業や工業などの産業があり、交通があり、食べ物があり、独自の暮らしがある。それを自転車でゆっくり見て歩くのは楽しい。吉野川は、色々な橋がたくさんかかっていることで有名らしい。と言うことは、橋のあちら側とこちら側の往来が盛んであることを意味する。僕は、今日は概ね徳島に向かって川の左側を下っていくことにするが、そちら側の方が川堤の道が自転車で走るのに良さそうだからだ。

貞光の駅を出て、大きな赤い、少し錆びついた美馬橋を渡る。川の堤のすぐ足元まで水がきている。昔だったら、これくらいで洪水になっただろう。山を見れば、湿気で山肌から雲が湧いている。雲は普段は空高く浮いているものだが、湿気が多いと地面から湧き出てくる。これもまた、僕が暮らすオーストラリアではまず目にすることのない光景だ。しばらくそんな光景に見惚れて走る。

うだつの上がらない私と巡礼

川沿いの自転車道を下っていくと、穴吹という町があった。「うだつの町並み」が保存してあると看板にある。さっそく寄り道だ。国道に並行して、美しい木造建築が連なる1キロばかりの古い街並みがそこにあった。

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ボンカレーの看板が似合う穴吹の街並み

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背伸びした路地の向こう、空がのぞいている

「うだつ」とは、もちろん「うだつ上がらない」の語源である。僕は、うだつというのは木か竹の垣根だとずっと信じていたが、実は、漆喰で出来た、屋敷と屋敷を隔てる防火壁なのだった。うだつの付いた家を建てるには相当のお金が必要なことから、「うだつが上がらない」と言う表現が生まれたらしい。見れば、うだつのある屋敷は立派な家ばかりだ。僕などは、税務上まず間違いなく「うだつが上がらない」カテゴリーだろう。

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日が照り出して、少し蒸し暑くなってきた。貞光から買ってきたポカリスエットを飲みながら堰堤を走っていく。セイタカアワダチソウがたくさん生えている。雑草だが、僕には懐かしい光景だ。川沿いの畑の中に倉庫のような建物がある。お遍路のための接待所と宿泊施設を兼ねた施設らしい。その中から、お遍路たちがぞろぞろ出てきた。外国人もたくさんいる。最近はお遍路にも外国からの巡礼が増えたらしいが、考えてみれば、巡礼にはどこの国でも外国人がたくさん混じっているのが普通だろう。巡礼の行為自体が、遠い国の寺院やモスクや霊場へ歩いていくことだから、外国人のお遍路がいること自体に不思議はない。メッカ、エルカミーノ、タジマハール、チベット、ネパール、イエルサレム、そう言う場所にいるのは皆外国人ではないか。どこか遠くへ歩きながら祈り、罪を清め、救いや答えを求めるのは普遍的な行為だろうし、その行先が遠ければ遠いほど、大変であれば大変であるほど、功徳も増すのかもしれない。

僕のやっている自転車旅行は巡礼ではないけど、長い時間自転車に乗っていると、瞑想をしているような気持ちになることがしばしある。それはマラソンや登山やカヌーなど、長時間の運動に伴う現象かもしれない。ちゃんと道を走っているのだが、いつの間にか意識だけがスーッと遠のいていく。それでいて、事故も起こさずにちゃんと走り続けている。そして、気がつくと20分も経っていたりする。その間、何を考えていたのかも覚えていない。

村上春樹の著書『走ることについて語るときに僕の語ること』には、彼がマラソンをすることについて書いてある。なぜ走るのか、走るとはどんなことなのかなど、一言では言えないから、一冊の本が書けてしまうわけだ。アラン・シリトーという作家も『長距離走者の孤独』という小説を書いている。他にも似たテーマの本はたくさんあるだろう。

マラソンと自転車旅行、それから巡礼は、いろいろなことが違う。しかし、共通点もある。例えば、村上は、こんなことを書いている。「自動操縦のような状態に没入してしまっていたから、そのままもっと走っていろと言われたら、100キロ以上だっておそらく走っていられたかもしれない。変な話だけれど、最後のころには肉体的な苦痛だけでなく、自分が誰であるとか、今何をしているだとか、そんなことさえ念頭からおおむね消えてしまっていた。(中略)我走る、故に我あり。」

肉体を使って長時間移動することは、もはや我々の普段の生活にはあまりないことだ。でも、登山やマラソンや自転車旅行をしていると、移動することが自分の存在理由みたいに思えてくることが確かにある。

村上春樹は、毎日走ったり、マラソンをしていると人に言うと、よく褒められると書いている。自転車で旅をしていても同じように褒められることがある。一日に100キロ走ったとか、10日間で700キロ走ったとか言うと驚かれる。でも、やっている本人としては、それほどのことをしている意識はない。やりたいからやっているだけだ。そもそも一日100キロなど、自転車乗りの中ではヒヨッコである。一日で300キロ走る人などざらだし、アメリカ大陸5000キロを16日間で横断してしまった人だってある。

ただし、それほど大変じゃなくても、何かしら精神に影響を及ぼすことだけは間違いない。頑張る、と言うことだけでもない。それ以外にも、何らかのポジティブな影響があるから、やるのだと思う。(ランナーズハイもそれに含まれるかもしれないが、それはまた別の次元の生理学的な現象なのだと思う)。

でも、こんなことをぐだぐだ書いていると、僕も『自転車旅行について語るときに僕の語ること』という本を書いてしまいそうだから、吉野川に戻ろう。

あえて道に迷う喜び

川沿いの道を走っていくと、どんどん吉野川の水量が増えていくのが分かる。支流から流れこむ水が加わるからだ。支流があると川幅も広くなり、遠く迂回しないと前に進めなくなることがある。農道を走ったり、大きな街道に出たりして迂回して、また川沿いの道に戻るわけだ。道もだんだんややこしくなってきた。

2時間くらい走ると、確実に腹が減る。国道のコンビニでお握りを買い、また堰堤の道に戻るが、どこにも座る場所がない。ベンチくらいあるかと思ったが何もない。河原へは増水で降りれない。しょうがないから、停めてあったパワショーベルのキャタピラに座って昼飯を食べた。こんなこと初めてだが、絵本の一場面になりそうな出来事なので、心に留めておくことにしよう。

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一人ぽっちのシャベルカーのお膝で昼ごはん

鳴門まで迷いつつ走る

昼飯を食べて1時間ばかりも走ると、川幅がさらに広くなり、徳島に近づいてきたことが分かる。田舎の風景が消え、高速道路が走っている。河口が海に注ぎ込むところまで行くつもりだったが、もう難儀な気分になってきたから、名田橋と言うところから鳴門に向かって戻ることにした。これで吉野川ともお別れだ。

国道をまっすぐ鳴門に戻るのもつまらないから、地図を見ないで、適当に裏道を戻ってみることに。意図的に迷子になるわけだ。15キロくらいだから、どうと言うことはない。農地と宅地が入り混じった土地を、細っこい道が縦横無尽に走っている。

ところが、こういう農道というのはまっすぐではないから、あっちで曲がり、こっちで曲がり、気がついたら逆を向いていたりで一筋縄ではいかない。交通量も意外に多くて、しかも地元の人ばかりだから、車が狭い道を飛ばしてくる。ちっとも気が抜けない。

そうやって、うねうね走っていたら結構くたびれた。鳴門に着いたら、午後3時。曇り空がどよんとしていて、2週間の旅が終わったというのに、ファンファーレが鳴るでもなし、立派にゴールインしたと言う晴々とした気分でもない。高校時代、時々午後の授業をふけって悪友と喫茶店にしけこんだが、その時のような中途半端な気分だ。

そんな、ぼんやりとした気分のまま、コンビニでいつもの100円コーヒーを買い、おやつを買い漁る高校生たちに混じって、店の前で立ったまま飲んだ。100円コーヒーもこれで最後と思ってガブっと飲んだら、熱くて唇に火傷した。

ビジネスホテルに戻ると、「お帰りなさいませ!」と、フロントの兄ちゃんが威勢よく言う。三泊も同じホテルに泊まっていると、すっかり自分の家のような気持ちだが、今夜寝たら、もう明日は空港まで走るだけ。その後は東京だ。

旅の終わりはあっけない。旅を始めた時の興奮はすっかり使い果たし、僕は空気の抜けた風船みたいになっている。そして、そのまま空気の抜けたまま、元来た場所に戻っていく。

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陽水の「チエちゃん」みたいな空を飛んで帰ってきた

でも、旅は終わった時、一冊の本、一遍の物語になる。訪れた場所は、本の中の物語、言葉や文字だ。昔読んだ本を再読すれば、懐かしくもあり、新しい発見もある。昔訪れた場所を再訪すれば、知っているはずの場所なのに全く違った印象を受けたりもする。それは、その場所が変わったからなのか、自分が変わったからなのか。再訪には、そのことを発見する喜びもあるだろう。僕も、またいつか四国に来てみたい。

二年越しの二回の自転車旅で四国をほぼ一周したわけだが、走った距離は両方合わせると1400キロ、平均時速は18キロくらいだった。このスピードが、僕には実にちょうどいい気がするし、そんなようなペースで、これからも生きていきたい。

私の旅に付き合って読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。また、どこかの旅で会いましょう!

(四国の自転車旅Version 2、これで全部終わり)














posted by てったくん at 16:33| 日記

2020年01月07日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第8話  
11日目 高松から鳴門まで走り、 うどん屋の女性の讃岐弁がブルースに聞こえたこと


「その土地の起伏を知りたかったら自転車で旅するのが一番だ。汗かいて坂を登ったり、飛ぶようにして下ったりして。」 アーネスト・ヘングウェイ


県道10号線と11号線を行く

高松のビジネスホテルを6時半ごろ出発。外は、ぶるっと震えるほど寒い。秋の長旅は、だんだん冬に近づく旅でもある。

今日は高松から鳴門まで90キロほどを走るのだが、海沿いの11号線は交通量が多そうなので、内陸の県道10号「東さぬき街道」を行くことにする。こういう古い街道を走るのもまた味があるだろう。


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県道10号はまっすぐ続く

と思ったのだが、地図で見るのと実際に走るのでは違っていた。高松郊外の県道は、ずっと真っ直ぐで、いささか退屈だった。車も多い。高松の郊外は、日本の地方都市ならどこでもそうなように、広大な駐車場のある大型商店、学校、倉庫、工場、物流センター、病院、レストラン、コンビニと言った建物が脈絡なく、どこまでも並んでいる。殺風景と言う他ない。大体、10日以上も自転車に乗って旅していると、最初の頃のキラキラしたような感受性は薄れ、何を見てもあまり感激しなくなってくる。疲れも溜まってきているからだろう。その上今朝は、ウインドブレーカーを通して寒気が入ってくる。着られるものは全部着ているので、しばらく我慢するしかない。

走り出して4、50分、ようやく体も温まってきた。街道沿いのコンビニでコーヒーと三角サンドイッチの朝ごはんを食べる。このコンビニは、かなり裏ぶれた感じで、店員は疲れ切ってレジの前に立って仕方なく接客している。店も乱雑で、トイレの掃除も行き届いてない。こういう店に入ると貧乏くじを引いたような気持ちになるが、コンビニの経営も大変なのだろうと思うと、気の毒だ。しかし、こちらはお陰様で、コーヒーを飲んで朝ごはんを食べると元気が出て、気分も上向きになった。外をみれば青々と晴れ渡り、素晴らしい天気だ。コンビニ、がんばれ!

もうしばらく、平らな県道10号を走っていくが、高松の街並みが切れるあたりから道も変化し始め、くねくねと蛇行したり、緩やかに登ったり降りたりして面白くなってきた。香川の南側は四国山地の高い峰が屋根のようにそびえ立ち、それを右側に見ながら走っている。

道路の反対の左側、すなわち北側は平地でありながら、ぽこぽこと小さな山があちこちに隆起している。こう言う小さな山は、せいぜい標高100メートルくらいだから、植林などの用途に使えるほど大きくはないだろう。でも、きっとてっぺんには祠や神社のようなものがあって、神様や仏様の住処として役立っているはずだ。だから山の麓には寺や神社が建っている。何百年も前からあるのだろう。このあたりには古墳もいくつかあるみたいだから、弥生時代、もしかしたら縄文時代から人が住んでいた証拠だ。

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神様のおうち

このあたりの街道わきには貯水池がたくさんある。レンコンを栽培しているのか、びっしりと蓮が植えてある池もある。休耕田には秋らしくコスモスが咲き乱れている。日本の田舎の素晴らしいところは、どこもかしこも人の手が加わっていて、神様がいて仏様がいて、家があってお墓があってお地蔵様がいて、岩には文字が掘ってあって、山には道標があって、どこを見ても風景に変化があることだ。僕は、オーストラリアの手付かずで荒々しく、そして寂しい光景をこの20年見ながら生きてきたから、こういう日本の田舎を見ると、とても嬉しくなる。

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堰堤に並ぶ由来不明の石碑。

三本松の町を抜けてしばらくすると、また瀬戸内の海沿いに出た。ここからは11号線を行く。11号線は高松と徳島を結ぶ幹線で交通量も多い。その癖、通り沿いの街並みは埃っぽくて、ひなびている。引田というところで寄り道をして、古い街並みに入る。大きな醤油屋の建物は江戸時代そのままで、中からは強烈な醤油の匂いが漂ってくる。中を覗いたが全然人気がない。この町自体とても静かで、路地をしばらく縦横に走ったが、僕以外に街を歩いていたのは一人旅の女性だけであった。唯一人たくさん人を見たのは町の小さなスーパーでトイレを借りた時だけで、それは軽自動車に乗って買い物にきている老人たちだった。

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引田の醤油屋

また海沿いを走っていくと淡路島が見えてきた。もうすぐ徳島県だ。この旅のスタート地点に戻ってきた訳だ。海岸の眺めは素晴らしいが、どこもゴミだらけで、サビた鉄骨の廃墟や骸骨みたいな建物がたくさんある。味のある風景とも言えるが、もう少しきれいにできないものか。


ハスキーボイスのうどん美人

香川県と徳島の県境あたりの海岸沿いに讃岐うどん屋があった。トラックや配達のバンなどが止まっているのは、安くてうまい証拠だ。讃岐ともお別れだから、少し早いが昼飯にすることにした。

ここもセルフ店であるが、チェーン店のような虚飾はなく、あくまで質素な店だ。店内は、だし汁とうどんを茹でる湯気の香りが立ち込めている。老夫婦とその娘みたいな中年女性の三人だけでやっている。爺さんと婆さんは、口を一文字に結んで無愛想にカウンターの奥で仕事し、娘みたいな女性は、馴染みの客と大きな声で喋りながら、空の器を片付けたり、レジを打ったりしている。見れば、うどん屋に置いておくには、ちょっともったいないような美人だ。そのハスキーボイスも耳に心地よい。途端に、しばらくこのうどん屋で働きながら暮らしたらどんなものだろうか、などと考えるが、その発想がどこから来るのか自分でもよく分からない。

雑念を振り払い、うどんは「ぶっかけ」の小に決める。360円である。様々な天ぷら類がバットに入って並んでいるが、これは三つで100円だ。ソーセージとイカとシメジとナスの天ぷらを取り、これで510円であった。


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たくさんの天ぷらを揚げるのは重労働だろう

ハスキーボイスのうどん美人は、馴染みの夫婦客と大きな声で話をしている。週末に飲みに行ったが、日本酒から焼酎にスイッチしたら二日酔いしなくなったとか、たわいもない話だ。讃岐弁なのだろうが、彼女の方言は実に心地良い。うどんをすすりながら、その会話を聞くともなしに聞いていたが、こういう話にカントリーかブルースのメロディーをつければ、それなりの曲になってしまう感じだ。

うどん屋を出てしばらく走ると、すぐに徳島県鳴門市の境を越えた。その先で11号から大鳴門橋に至る鳴門スカイラインに折れると看板があり、ここらに第一次大戦中にドイツ人の捕虜が収容されていた収容所があったと書いてある。道脇の海岸は、そのドイツ兵たちが遊びにきた海岸とのことだ。僕は、お腹に入れたうどんが重たいので、その海岸で一休みすることにした。

ところがそこは、ひどくゴミだらけの汚い海岸だった。魚網か何かをしまっておく倉庫があり、その周りの汚れた水溜りが生臭い。その傍には税金で建てた思しき真新しい東屋があって、そこの看板にも、ドイツ捕虜たちがこの海岸で遊んでいる様子が描いてある。ふんどし姿のドイツ兵たちのイラストがあり、彼らは、この浜で村人たちと相撲をとったり、魚釣りをしたと説明にある。それが縁で、鳴門市とドイツの間には今でも友好関係があると言う。そんな大切な場所ならば、もう少しきれいにすれば良いだろうに。これではドイツ兵の霊も浮かばれない。

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だから、ゴミでアートを作る人もいる

いささか薄汚い場所だが、お腹が重たくて、そのせいでまぶたも重たくて仕方がないので、ベンチに腰掛けた。ゴミくさい潮風にうたれながまぶたを閉じたら、そのまま熟睡してしまった。夢には、ふんどし姿のドイツ兵たちが出てきて、浜で戯れていた。


鳴門スカイライン、鳴門の渦潮と大鳴門橋

午睡をして元気を取り戻した僕は、鳴門スカイラインにとりついた。「スカイライン」と言うだけに景色は良かった。片側は瀬戸内海が太平洋に注ぐ鳴門海峡を望み、反対側は小舟をたくさん浮かべた鏡島を見下ろす山上の道である。しかし、その登りは険しく、最後は10%の急勾配に汗みどろになり、息も絶え絶えで頂上の展望台に到着した。

景色は素晴らしかったが、感想を言うならば、「スカイライン」と言う名称の道路は、サイクリストにとっては鬼門である。この類の道路は自動車やオートバイですっ飛ばすには良いが、自転車や歩行者が人力で通行することは全く考えられていない。


淡路島方面を望む
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鳴門スカイラインの終点まで走ると、そこは大鳴門橋を見下ろす展望台だった。有名な鳴門の渦潮もここから見える。だから観光バスがたくさん止まっていて、人が仰山いるのだった。僕はそこで10分だけ立ち止まり、遠くの渦潮を眺めると、すぐに山を降りた。渦潮は、間近で見れば迫力があるのだろうが、山上から見ると、ただの波だっている海面だ。大鳴門橋も立派な橋であるが、たくさんの自動車が唸りを上げて走っているだけである。

鳴門でボンカレーの大看板を見上げ、餃子の王将を食べて昭和にタイムスリップ

展望台の山をものの3分で駆け降り、寂しい海岸をしばらく走ると、そこは埃っぽい鳴門市街だった。この町は大塚製薬の町だそうで、道理で工場や倉庫が多く、トラックがいっぱい走っている。倉庫の壁面は、ボンカレー、ポカリスエット、オロナミンC、カロリーメイトなどの大看板だ。なぜ製薬会社がカレーを作っているのか不思議に思ったが、それは大塚食品という小会社の製品なのだそうだ。あの銀色のレトルトのパウチは、なるほど製薬会社が考えつきそうな容れ物だ。

僕にとってボンカレーは、もはや食べることのない絶滅食品だが、中高時代、そして大学のワンゲル時代には山で時々食べた。ボンカレーのせいなのか、あるいはカップヌードルかもしれないが、僕の時間感覚の中で「何かを待つ」行為のデフォルトは三分間である。

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ボンカレーの女優さんは、なぜ和服なのか?

オロナミンCはけっこう好きだった。子ども時代、まず滅多に飲ましてもらえず、こっそり隠れて飲むその味は麻薬的だった。あれをコップに入れて飲むと薬品めいた黄色が気持ち悪いが、茶色の小瓶に入っている限り美味しい飲み物である。大村崑の出てくる傑作C Mも良かった。若い頃、輪友T村とサイクリングに行って峠越えなどで疲労困憊した際に飲むと、魔法のように元気が出たから不思議だ。ヒロポンなど、昔の麻薬の経験がある人が開発したのかもしれない。今は、同じ大塚製薬でもポカリスエットの方が健康的で美味しいと思うが、オロナミンCが廃れないのは、あの薬品ぽさ、不気味さ故であることは間違いない。(ただ、あれに卵や牛乳を入れて飲むのは気持ち悪すぎる。それに子どもが飲むには、カフェインや糖分が多すぎるに違いない)。

とにかく、懐かしかったので、その感動を共有するために、ボンカレーとオロナミンCの看板を撮影し、その場でT村に送った。

その晩は、鳴門のビジネスホテルに滞在した。鳴門駅前にはこれと言った食べ物屋が見当たらなくて、一番近くの「餃子の王将」で食べた。疲れていたので異存はない。これだって懐かしい味だ。大学時代によく江古田駅前の汚い店で食べたが、一体あの餃子の中身の具は何だったのだろう?昔も今も謎だ。鳴門の餃子の味は、昔のよりは飛躍的に向上した気がした。店員も、ひたむきに仕事をしている中国の女性であったから、より美味しく感じたのかもしれない。

大塚製薬といい、餃子の王将といい、昭和にタイムスリップした心持ちがした。「あの頃」は一体どこへいったのだろう?

これで僕の四国一周の旅はほぼ終了だ。明日と明後日は、何かあったときの予備日であるが、せっかくだから吉野川を遡ってもうひとっ走りするつもりだ。

(最終回に続く)
posted by てったくん at 13:14| 日記

2020年01月03日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第7話  

9日目 高松から小豆島に渡り、時計回りに一周。アナゴ丼を食べ、ヤマンバの宿に泊まったこと、
10日目 放哉の南郷庵を詣でてから、高松に戻ったことなど。


「すべての旅には、旅人自身ですら気がついてない秘密の行先がある」 
マルチン・ブーバー(イスラエル、宗教家)


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九日目 高松から小豆島へフェリーで渡る

今日は小豆島を一周する予定だ。小豆島と言っても一周すれば最低でも80キロ、丹念に回ればもっと長くなる。

朝7時高松発、小豆島の土庄行きのフェリーに乗る。早朝なのにほぼ満席、みんな瀬戸内トリエンナーレという美術展に行く人たちのようだ。この美術展は、瀬戸内の直島、犬島、女島、男島、豊島などを会場に、世界有数の現代美術家の作品を展示している。数年前見にいったが、素晴らしく見応えがあった。うちの女房は美術家なので、彼女とまた一緒に来たら楽しいだろうが、そうなるとゆっくりサイクリングどころではなくなるかもしれない。

これまで走ってきた田舎では老人が多かったが、美術展に行く人は若い人が多い。当然都会的な雰囲気になって華やかだ。心なしか、フェリーも元気に真っ直ぐ小豆島に進んでいる。向かいの席にはドイツ人らしい夫婦が座っており、向こうには折り畳み自転車を持った台湾人らしいグループがワイワイ楽しそうある。きれいに着飾った可愛い女の子二人は韓国から来ているみたいだ。小豆島へ向かうフェリーはたくさんの喜びを乗せて瀬戸内を走っている。

フェリーの中で、コンビニのサンドイッチで朝ごはんにする。見れば船中にもうどん屋があり、レースのスカートをまとった美術展行きのギャルが立食いをしている。うどんの汁の匂いが立ち込める室内を抜け出し、デッキに立つ。行く手には大きな島が見え、高くそびえた寒霞渓があるから小豆島とわかる。

なぜ四国旅行に小豆島を含めたか、その理由を書こう。小豆島は最初の計画には入っていなかったが、吉村昭の小説『海も暮れきる』を読んで断然行きたくなった。この本は、俳人の尾崎放哉(1885−1926)が小豆島で過ごした最後の2年間について詳述したものだ。放哉は、種田山頭火(1882−1940)とほぼ同時代に生きて、五七五に囚われない自由律俳句の秀作を多数残した。放哉は、これまた山頭火と同様、仕事や家族を捨てて放浪し、最後は小豆島で病没している。人生最後の1、2年に集中して優れた俳句をたくさん書いたことでは、正岡子規にも似ている。放哉は、小豆島の土庄町の西光寺にある、南郷庵という小屋を終の住処としたが、ここに住んだのは、海が見えて、酒が飲めて、何より静かに俳句が書けるからだった。だから放哉の句の背景には小豆島の海がある。僕は、その海がどんな海なのか、ぜひ見てみたくなった。


小豆島で放哉が書いた句をいくつか:


いつも寂しい村が見える入江の向ふ

庭をはいてしまってから海をみている

足の裏洗へば白くなる

海が少し見へる小さい窓一つもちたる

いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞

自分をなくしてしまって探している

縁の下から猫が入って来た夜

ごそごそ寝床の穴に入っておしまひ


小豆島を一周する

どんな島でも一周するのは楽しい。時計回りなら、海を左側に見て走っていくと、元いた場所に戻ってくる。何だか狐に化かされたようだ。「行って戻ってくる」というのは一つの物語形式であるが、そんな絵本に『パナマってすてきだな』(ヤーノシュ作と絵、矢川澄子訳、あかね書房)という作品がある。これは、仲良しのトラとクマが、「楽園の国パナマ」を探しに行く物語だ。二人は、そこらを一周して元の家に帰ってきて、そこが結局楽園パナマであったことを発見する。「旅」の定義は色々あるだろうが、行って帰ってきてこそが旅なのかもしれない。だったら放哉や山頭火のように、放浪した挙句、最後に異国で野垂れ死にするのは、果たして旅なのだろうか。でも、死がどこかへ戻っていくことならば、それも旅なのかもしれない。

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万国旗のような人々をのせたフェリーは、土庄に朝8時過ぎに到着した。ここでフェリーを乗り換える人たちは下船する。たくさんの人が次のフェリー乗り場まであたふた走って移動しているが、どうしてあんなに急ぐ必要があるのだろうか? 

まず、今日泊まるMという民宿に荷物を預けに行く。Mは土庄港からすぐだった。ガタガタした扉を開けると、200歳くらいの、前歯がすっかり抜け落ちた婆さんが奥から出てきた。ヤマンバだ!と、僕は声をあげそうになった。「予約した渡辺です。今夜泊まるのですが、とりあえず荷物だけ置かせてください」と言うと、「ヒャア、二階に部屋を用意ひてあるからヒャア、ひょこに置いておけばいいヒャア」と言う。「ヒャア」と言うのは、歯ぐきから空気が抜ける音だ。婆さんは急な階段を登って二階に案内してくれたが、階段を上がるのもやっとのようだ。僕は、転がり落ちてきたら抱き抱えるつもりで後から両腕を広げて登ったが、幸い、その必要は生じなかった。

荷物を部屋に放り込んで身軽になった。尾崎放哉の西光寺はこの土庄にあるが、見学するにはまだ時間が早過ぎるので、まずは島を一周することに。

土庄の町は迷路のようで、びっしりと古い家が立ち並び、その軒先をかすめるようにくねくねと道が走る。背のびしたような路地の間から、背後の山を見上げながらゆっくり走っていくと、運河があって町を二分している。運河を渡り1、2キロも行くともう町は終わりで、あとは、ひなびた海岸が続いている。島の南側、つまり香川県側は開けていて町がいくつかあるが、北側の本州側は寂れた村落がいくつかあるだけだ。

まずはその寂れた側を走っていく。車も滅多に来なくて、誰も歩いていない。海の向こうには島がいくつも見える。瀬戸内は静かだが、狭い海峡だから早くて複雑な海流が流れているはずだ。もちろん、地上から見ても分からない。

緩やかに登ったり下りたりする海沿いの道を走っていく。見れば道端にピラミッドがある。もしかしたら例の美術展の作品だろうかと思って近づけば、墓石を積み上げたものだった。足元の一列は古い地蔵である。後で調べたら「無縁さん」と呼ばれるもので、役目の終わった墓石を積み上げたものらしい。縁がなくなった墓石であるから無縁さんと呼ぶのだそうだ。古い墓は面倒を見る人がいなくなると始末に困る。我が家でも、父方の先祖の墓をそろそろ始末しないといけない時期に来ていて、親類が集うとその話になる。でも、墓をしまうにも手間や金がかかるからなかなか話が進まない。そういう墓が全国にどれだけあるだろう。小豆島ではこうやって古い墓を積み上げても、せいぜい5メートくらいだが、都会でこれをやったら相当な高さになるだろう。地震の時には危険極まりない。海に沈めて魚礁にでもしたら良いが、墓石が沈んでいる海も不気味だろう。

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その先の集落には、小さな道の駅があった。ここで地みかんを買って食べていたら、反対側からサイクリング旅行のおじさんが来た。みかんを2、3個お裾分けして、しばし話をする。

「小豆島の一周は、それほどきつくなさそうですね」と、僕。
「いや、この先の福田港は、入るにも出るにも、結構な登りがあるから注意が必要だよ」と、おじさん。

この人は関西のどこかから来たらしく、小豆島も初めてではないらしい。見れば、イタリア製の値の張る自転車に乗っている。その癖、宿代がもったいないから今日は野宿だと言う。何だか矛盾しているが、考えてみれば、自転車なんて自動車ほど値が張るわけではないから、いくら高級車に乗っていても金持ちとは限らない。

みかんを食べながら、そう考えてちょっと安心した。実際その人は、僕のあまり高級でもない自転車に感心し、「これは珍しい自転車だから、写真を撮らせてください」と言ってパチパチ写していった。僕は、ザマアミロと誇らしい気持ちになった。出来の良くない息子が褒められたような気分だ。褒めてくれたお返しに、「僕も写真を撮らせてください」と言って、高級自転車の写真を写させてもらったが、それは単なる義務感からであった。自分で言っておいて気分が良くなかったから、そういうお愛想は言わないことに越したことはない。

みかんを食べると「大阪のカエルと京都のカエル」みたいに、僕とサイクリングおじさんは右左に別れた。しばらく走ると福田港だった。福田港に入る前には、確かに長い下り坂があった。ここは、小さいながらもフェリーが出入りする港だから店や食堂が少しある。ちょっと早いが、昼飯を食べようと港の食堂をのぞいた。すると、すでにロードバイクの若者十名ほどが占領していて、「腹減ったなあ、早くアナゴ丼を食いたいなあ」と、アホ面をして座っている。それを聞いて、僕もそのアナゴ丼を食べたくなったが、小さな店だから、この集団の後となると、かなり待たされる。どうしようか?

すると今度は、大きなピカピカの岡山ナンバーの黒塗りワゴンがやってきて、中から、人相も服装も非常に良くない親父たちが七名降りてきた。この親父たちも店をのぞいたが、ほぼ満席で座る場所はない。この男たちがどれくらい人相が悪いかと言うと、ビートたけしの『アウトレイジ』と言うヤクザ映画に登場する男たちを想像してもらえばぴったりだ。この親父たちは、「おっ、山ちゃん、ビールも冷えてるぜ、ビール、ビール!ビールでアナゴ丼!」とか騒いでいる。やばい状況になってきた。

そこで僕はハンカチ落としの要領で、ひとつ空いていた席に電光石火の如く座った。そして間髪を入れず、「アナゴ丼ひとつね!」と注文した。

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ヤクザ的七人は、粘り強く諦めず、店の外のベンチで待つことにしたようだった。僕のアナゴ丼は案外すぐにやってきた。それはおいしいアナゴ丼だった。穴子は柔らかくさっぱりした味で、ご飯もすまし汁もおいしい。親父たちは、店の外でよだれを垂らさんばかりにして人々がアナゴを咀嚼している姿を見ている。僕は、親父たちからもっとよく見えるように座り直すと、ことさらゆっくり美味しそうに食べた。食べ終わってもそうすぐに席を立たず、悠々と爪楊枝を使い、お茶を飲んだ。そして勘定をすますと、さっさと自転車にまたがって福田港を後にした。

福田港を出ると、登り坂だった。それは確かに急な登りだった。それでもサイクリングおじさんが言うほどではなかった。サイクリングおじさんは高級自転車に乗っていたくせに、案外見かけ倒しだったのかもしれない。登り坂がどれくらい大変かは、主観によるところも大きい。傾斜はパーセントで測れる。例えば8%の登りは結構きつい。しかし、それだって一つの目安にすぎない。その時僕のお腹にはアナゴ丼が入っていたから、それが燃料になって急坂をスイスイ登れたのだろう。


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美しい廃屋

とか考えながら走っていると、いつの間にか小豆島の賑やかな側に到達していた。とたんに自動車が多くなってきたから、そう分かった。小豆島なんて小さな島だと思って見下していると大間違いで、ここには実に色々なものがある。その証拠に、しばらく行くと「オリーブの丘」と言う観光地があった。その時は、ちょうど目の前を仮面ライダーみたいな(悪く言えばゴキブリみたいな)黒いウェアに身を包んだ親父が、これまたイタリア製高級ロードバイクに乗って走っていた。僕は、捕まえてとっちめてやろうと意識していたわけではないが、正直に言えば、いささかしゃくな気分で、こいつを追いかけていた。だから普段ならばこう言う観光地は素通りするのだが、ゴキブリ親父にくっついて、自然とオリーブの丘に来しまったわけだ。でも、ちょうど午後3時くらいのコーヒータイムだったから、結果論的にはそれで良かったのだ。

オリーブの丘には、オリーブの木がたくさん植っている。オリーブの木なんて、僕が住んでいるメルボルンには、ギリシャ人がたくさんいるから珍しくもないが、香川県民やその他の民衆には目新しいのだろう。オリーブの丘には、どう言うわけかオランダ風車なども建てられている。その上『魔女の宅急便』にも何か関連があるようで、この物語の主人公の魔女の子が乗っているホウキをタダで貸してくれるようになっている。ここに集まっている人たちは、そのホウキに乗ってセルフィーを撮ろうと辛抱強く列をなしている。

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ホウキに乗って飛ぶ人たちを眺める

僕は、そのような幼児的退行現象を眺めつつも、おおらかな気分でソフトクリームをなめた。それだけでは足りず、抹茶コーヒーなるケッタイなものまで飲んでしまった。真面目に80キロばかり走り、疲れて喉も乾いて、甘いものとカフェインを欲していたからだろう。そしたら気持ち良くなってベンチで30分ほど眠ってしまった。目を覚ますと僕はすっかり元気になっており、ゴキブリ親父もいなくなっていたので、土庄の宿まで最後のひとっ走りすることにした。

そこから宿まではたった30分ほどだった。これで小豆島一周は完結だ。走った距離は80キロだった。もう夕方だし、民宿の部屋でくつろいでいたら、ヤマンバがやって来てた。「今日はお客ヒャンが多いからヒャン、4畳半の小部屋へ移ってくれヒャア」と言う。

「え、今から?面倒だなあ」とか言いつつも、ついお人好しの顔をしてしまい、荷物を抱えてトイレ横の四畳半に移った。移ってから、トイレの横とは失敗だったと後悔した。仕方なくお茶を飲んでいたら、またヤマンバがやって来た。「狭い部屋に移ってもらって悪いからヒャア、これだけおまけしとくヒャン」と言って500円玉をくれた。3000円の宿代が2500円になった。本当は、性根の良いヤマンバなのかもしれない。しかし、油断させておいて、後でとって喰う算段かもしれない。C I Aとか陸軍中野学校がよくとる戦略である。

さて、そろそろお風呂に入りたかったが、「お風呂は、まだ入れてないヒャア」とヤマンバ。やはり一泊2500円の宿だ。そこで近くの高級ホテルの大浴場に行くことにした。昔話では、風呂から出てくると、ヤマンバが待ち構えていて、包丁で輪切りにされて食べられてしまうのだから、用心に越したことはない。

高級な大浴場にゆったりつかった後、カルピスを飲みながら港で涼んだ。見れば、港にもオリーブの木が植っている。もうすぐ暮れていく空を背景に、木に梯子をかけて実を収穫しているおじさんがいた。

「うちにも小さなオリーブの木があるんだけど、どうやったらそんなに実がなるのかな?」と、僕。
「雄の木と雌の木を植えてやるんだよ。そうすれば実がなるさ」と、おじさん。
「これだけ木があったら収穫も大変ですね」と、僕。
「今日はここにある数本をやったから、もうおしまいね」と、おじさん。

一句浮かぶ:

オリーブの 枝に輝く 星の粒

宿では、買ってきたコンビニ弁当を食べ、ヤマンバよけにガッチリ鍵をかけてから早くに寝た。

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10日目 尾崎放哉の庵を詣でて、また高松へ

朝8時に民宿Mを出る。阿波池田の3700円の駅前旅館では、ショートヘアの可愛らしい女将に心がときめいた。小豆島の2500円の宿にはヤマンバがいて、何度も部屋にやってきた。1200円の差額で、この違いとは驚きだ。出がけにヤマンバが見送ってくれたが、一緒について来たら大変だから、さっさと飛び出した。

まだ朝は早い。とりあえず、土庄の近くの弁天島に行く。この小さな島は、エンジェルロードと名付けられた砂州で小豆島とつながっている。この砂州を恋人と渡ると、二人は永遠の愛で結ばれるのだそうだ。だから縁結びの妖精にちなみ、この砂州をエンジェルロードと名付けたと、そんなことらしい。

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弁天島とエンジェルロード

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赤いマジックで永遠の愛が記されている

エンジェルロードの砂州を渡ってみると、手をつないで歩いているカップルもいる。老人も多い。すると僕の脳裏には、なぜか民宿のヤマンバが想い浮かんだ。もし彼女が追いかけてきて、僕の手を取ってエンジェルロードを渡ってしまったら、永遠の愛をヤマンバに誓う羽目になる。まるでホラー映画だ。僕には、こうなったら困るということを、つい想像してしまう癖がある。強迫性障害か? そういう人の中には、強迫観念を振り払うために異常な行動をする人があるらしい。例えば、過度の手洗いなどである。幸い、僕にはそういう癖はない。でも、念のため、トイレで丁寧に手を洗った。もう大丈夫、ヤマンバは追ってこないだろう。僕はそう確信してトイレを出で、弁天島を後にした。

そこから、名前は知らないが、弁天島の先から小さな半島がコブのように飛び出ているので、そこを一周した。12、3キロだったろうか、海辺をすっ飛ばした。瀬戸内のこのあたりは高波も来ないのか、海辺ギリギリまで家が建っている。こういう家の縁側で寝っ転がったら、頭の高さに海が見えるのだろう。そんな家に一度でいいから住んでみたい。


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尾崎放哉の墓

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放哉が晩年を過ごした南郷庵

お昼前土庄に戻る。西光寺の南郷庵を詣でた。海辺の明るさに比べると、ここは何と寂しい場所だろう。町外れの、すり鉢のように窪んだ土地にびっしりと墓が並んでいる。「放哉さんのお墓→」という看板があったので、辿っていくと、墓地の上の方にその墓があった。 墓の前に立ち、どこかユーモラスな、それでいて寂しげな俳句を放哉がここで書いている姿を想像しようとした。この場所は、僕が想像していた通りとも言えるし、全然違っていたとも言える。放哉がここにいた90年前は、もっと寂しい場所であったに違いない。南郷庵は思ったよりも立派な建物だった。中は記念館になっていて、資料が展示してある。放哉直筆の手紙や俳句、知己や友人からの手紙や関連書籍などがびっしりと置いてある。一つ一つ手にとって読んでみたい気持ちにも駆られたが、なぜか、そうすることがためらわれた。むしろ、そんなことはせずに、南郷庵の寂しい印象を抱いたまま、この場を立ち去るべき心境だった。まるで、放哉さんに、そうしなさいと言われたような心持ちだ。帰ったらもう一度、南郷庵と小豆島の印象が風化しないうちに、また放哉の句を読んでみよう。

その後、僕は高松までフェリーで戻った。その日の残りは休息にして高松見物と洒落込み、菊池寛記念館、香川県立美術館をゆっくり覗いた。

さあ、旅もいよいよ終盤である。明日は高松から徳島の鳴門まで戻る。そして、締めくくりに吉野川を遡って走り、それでこの旅も終わりだ。

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(続く)

放哉の俳句は以下から引用: 
『尾崎放哉全句集』村上譲著、ちくま文庫
『尾崎放哉句集』池内紀編、岩波文庫



















posted by てったくん at 14:30| 日記

2019年12月14日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第6話  
7日目 阿波池田から山越え、観音寺を経て善通寺まで、
8日目セルフうどんを食べ、金比羅宮を詣でてから高松まで行ったこと


「楽しいことならなんでもやりたい
笑える場所なら何処へでもいく
悲しい人とは会いたくもない
涙のことばで濡れたくはない
青空 あの日の青空ひとりきり」
  
   (井上陽水、青空ひとりきり)


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池田にて、濃霧の吉野川

心残りな濃霧の池田を後にする

7時前、阿波池田の宿を出る。ショートヘア女将にお別れを言いそびれたのが心残りだ。旅は、いつもどこかへ、心残りを置いて先へ進むもの。

予報では雨だったが、濃霧だった。池田は来た時も霧、帰るときも霧。ウィンドブレーカーを羽織って出るが、うすら寒い。コンビニで、三角サンドイッチとコーヒーの朝ごはん。日曜なので、これから野球やテニスへ行く格好の人々が切れ目なしにやってくる。

ここで一句。

    「コンビニの 赤いポストで 朝ごはん」  
                  
                    鉄沈

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吉野川に沿って2、3キロ北上し、池田大橋を渡って192号線の阿波街道に入る。田舎の県道。トンネルもあるが、交通量も少なく、濡れた道を快走する。濡れた道を走るのは、筆で文字を書くように滑らかなテクスチャーがある。英語のテクスチャー=textureという語は訳すのが難しい。「感触、肌触り、きめ、歯応え」などの意だが、自転車のタイヤが路面を転がるときの感じを何と言えばいいんだろう。

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佐野という村から旧道の山道に折れる。途端に急登だ。狭い山道をうんせうんせ登ると、若い頃奥多摩、秩父、信州などの峠を走った記憶が蘇る。登っていくと突然スポッと霧の上に出て、青空に頭が出た。井上陽水「青空ひとりきり」のメロディーが心に浮かぶ。

  「楽しいことならなんでもやりたい
   笑える場所なら何処へでもいく
   悲しい人とは会いたくもない
   涙のことばで濡れたくはない
   青空 あの日の青空ひとりきり」


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阿波と讃岐国境の空

気を良くして、陽水メドレーを歌いながら走っていくと、曼陀トンネルという幽霊でも出そうな古いトンネルがあった。そこを出ると阿波(徳島)と讃岐(香川)の国境の峠だった。

何もない峠はひっそりしている。もう40年も前、T村と二人、長野と岐阜の境の野麦峠を越えた。峠では、山猿の一軍が道を塞いでいた。先へ進めないので、自転車の空気入れを振り回して大声を出したら、猿たちは呆れたような顔をして山の中に消えていった。頭のおかしい人間だと思ったのだろう。幸い今日は、そんな出迎えもない。ちょっと休んで山を下ると、また霧の中だった。道は濡れている上、落ち葉や砂利に覆われているから、スピードが出せない。しばらく行くと、五郷ダムと言う小さなダムがあったが、死体を捨てるのにちょうど良さそうな寂しいダムだ。

五郷ダムから、瀬戸内の観音寺の町境まで10数キロ、うんざりするほど真っ直ぐなだらだら下り。晴れていれば青い瀬戸内海が目前にバーっと広がるのだろうが、曇りだから、どよんとした灰色の塊があるだけ。

こういう時は、頭もぼんやりしてくる。田舎の交差点で信号を待っていたら、突然自転車ごとひっくり返った。荷物を荷台に積んでいるので、ちょっとバランスを崩しただけで倒れてしまう。実際、自転車旅行では、走っていて転ぶより、止まっていてひっくり返ることの方が案外多い。

倒れたまま自転車に足が絡まって、なかなか起き上がれない。逆さまになった亀みたいに、しばらくは、もぞもぞとうごめいている。ようやく起き上がると、肘から血が出ている。

こういう時は身体的なダメージよりも精神的な動揺の方が大きい。仲間がいれば、起こしてくれたり、励ましてくれたり、あるいは逆に思いっきり笑われたりもする。それでも、自分だけでふてくされているよりも良い。幸い田舎道の信号だったので、誰にも見られなかったのは幸いだ。

ついてないな、と思いながら行くと、祭囃子が聞こえてきた。秋祭りだ。見れば、向こうから道幅いっぱいに山車がやってくる。山車はハッピを着た住民が引いている。しばらくは交通遮断だけど、こういう交通遮断は楽しい。山車には、猿の子みたいな子どもたちが群がっている。さっき転んだときはひどく損した気分だったが、これで機嫌が良くなった。きっと氏神様が、慰めてくれたんだろう。

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観音寺の巨大砂絵「寛永通宝」のご利益は?

今日の行く先は、観音寺、善通寺と、お寺の町。観音寺市の手前で、ついに雨が降り出した。今回初めて上下に雨具を着る。雨は降りはじめが嫌なものだが、いったん濡れてしまえば、どうと言うこともない。雨の中を走る。

走ること30分、観音寺の市街に着く頃雨がやんだ。海岸にある琴弾公園でも秋祭りの屋台が出ている。この浜辺には、銭形砂絵という寛永通宝のコインを模した巨大砂絵があって、山上から眺めることができる。直径120メートル、周囲350メートルほどの砂絵で、1600年代に作られて以来、400年近く続いているんだそうだ。これを眺めると、長生きできてお金にも困らないそうだから、老後は観音寺へ引越すのが良かろう。僕も、困ったら観音寺に引っ越すことにしよう。

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銭形砂絵の全容

ご利益があるように、目が痛くなるほど寛永通宝の砂絵を見た。今日の予定は、この先、瀬戸内に突き出ている荘内半島をぐるっと回って善通寺に向かうつもりだったが、また雨が降ってきた。迷いながら、とりあえず荘内半島の付け根の仁尾まで来たが、ざあざあ降りになった。荘内半島はパスだ。荘内半島からは、しまなみ街道の橋やら、本州の山並みやら見えたかもしれないのに、全ては灰色の壁の向こうにけぶっている。


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灰色のカーテンに覆われた瀬戸内海

雨の中を善通寺に直行だが、昼飯の問題があった。もう昼はとっくに過ぎている。途中、山の上に道の駅が見えたので、2キロほど坂を登る。雨の中、汗だくになって坂を登るのは結構こたえる。

やっと着いたら、この道の駅、驚くほどろくな食い物がない。ハンバーグ定食、カレーライス、ホットケーキ、ソフトクリーム、たこ焼き。マジですかい?と文句の一つも言いたくなるが、ロボットのような茶髪店員が二名、遠くを見るような眼差しでカウンターに立っているだけ。仕方なくハンバーグ定食にしたが、これがまた絶望的に不味かった。純粋に「燃料」、ないしは「餌」と考えて口に入れる。

とにかく血糖値だけは上がって人間らしい気持ちになった。雨も止んでいる。自販機のアイスを食べていたら、ロードバイクに乗ったお遍路青年がやってきた。

「やあ、こんにちは。雨に降られませんでした?」と僕。
「いや、車の中にいたんで大丈夫でした」と遍路。
「え? だって、自転車でしょ?」と僕。
「はい、でも車で徳島から来て、お寺へのアプローチだけ自転車なんですよ。会社員なんで時間もないし、こんな風に、もう三十箇所ほど回りました」と遍路。
「そういうお遍路もあり?」と僕。
「はい、ありです。でも、全部を自動車で廻るよりはましでしょ?」と遍路。

確かに、どんな形式であれ、お遍路をしているだけでも良しとするべきか。


お寺や神社の階段数と平均寿命の統計的関係に関する一考察

そこから善通寺市まで小一時間。今日は善通寺のビジネスホテルで泊まりだが、雨も止んだし、善通寺を見学することにした。

善通寺は立派で、広大なお寺だ。大きな休憩所やトイレや駐車場もある。駐車場から歩いて本殿に行くには、長い距離を歩かなくてはいけない。そこを全国から集まった善男善女がてくてく歩いている。

子供時代に抱いていた疑問が一つある。それは、寺とか墓地とか神社の「休憩所」についてだ。寺や神社へ行くと、必ず休憩所があるが、そこではお年寄りたちがトレイに行ったり、饅頭や弁当を食べたりして休憩している。それを見て幼い僕は、寺や神社を詣でるのに、そんなに体力が必要なのか?と、疑問を持った。僕からすれば、学校で勉強したり、体育の授業で走らされたりすることの方がよっぽど体力を使うように思えた。だのに、どうして学校には「休憩所」がないのか?墓参りなんて、歩いて、お線香を上げて、念仏を唱えるだけだ。それなのに墓には休憩所があり、そこではお茶も出れば、お菓子やうどんや団子だって供される。全く解せなかった。

しかし、今や僕も老人にぐんと近い年齢になったので、休憩所の必要性はひしひしと感じるようになった。老人にとって、寺や神社の参拝は大チャレンジ、そのために残りの人生を捧げているお年寄りだって少なくないだろう。だが、寺や神社は広くて階段が多い。100段の階段など珍しくない。この近くの金比羅様に至っては、785段もある。

これはなぜか?端的に考えるならば、寺や神社詣は、お年寄りに課せられた一つの試練であるからに違いない。老人は、得手して安楽に過ごしがちである。しかし、人生はいかなる時も、安楽に過ごしてはいけないのだ。人生は修行であり、苦行であるからして、多少のストレス、負荷があって当然なのだ。

さらに類推するならば、日本の老人が抜きん出て長寿なのは、お寺や神社を詣でる負荷が幾らかでも寄与しているからではないか?考えてもみよ、フルフラットで階段無し、バリアフリーの神社やお寺があるか?あまり見たことがない。そんな物を作ったら、日本の平均寿命はたちまち数パーセント短かくなるに決まっている。きっと、お寺の石段数と平均寿命の関係には、統計的有意性があるに違いない。

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僕も、無事に善通寺参拝を終え、今日の宿に赴く。善通寺駅前ビジネスホテルはのっぽな鉛筆ビルだった。受付の女性はニコニコと、自転車を部屋に入れても良いと言った。こう来なくてはいけない。しかし、狭いエレベーターに自転車を入れるには技がいる。すなわち、サーカスのごとく、「エイっ!」とかけ声をかけ、自転車を一気に立ててエレベーターに入る。かけ声をかけると、不思議にも自転車は訓練された動物のようにスッと垂直に立つ。気合を入れずに適当にやるとうまくいかず、自動ドアに車輪が挟まって、ちょっとした惨事になる。

どうにかうまく自転車や荷物を部屋に入れて、ほっとする。雨に濡れたせいで、体がふやけている。ユニットバスの小さな湯船で長湯して疲れをとり、「アンメルツヨコヨコ」を太腿やふくらはぎに塗る。圧倒的な快感にしばし恍惚とする。

今日走った距離は72キロだった。あまり長い距離とは言えない。しかし、その割には、霧にまかれたり、雨に降られたり、巨大砂絵を見たり、お寺に行ったりして変化のある一日だった。

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自転車はホテル室内に持ち込む


8日目、セルフうどんの朝食を食べ、金比羅さんを詣でて高松まで走ったこと

香川県は讃岐、讃岐と言えば讃岐うどん。今日こそ讃岐うどんを食べてみよう。それが本日の大きなテーマだ。

讃岐うどんは、朝の5時からやっているらしい。だから香川県の人は早起きして、うどんを食べると聞いている。でも、それは香川県民が早起きだからなのか、うどん屋が朝5時からやっているから香川県民が早起きになったのか分からない。きっと香川県民にも分からないのであろう。讃岐うどんは、朝だけでなく昼も夜も食べるらしい。一日に五回食べる人もあるというが、よく意味が分からない。だから、流行っているうどん屋は、午後には売り切れるらしく、2時でも3時でも早々に店じまいするらしい。となると、夜やっているうどん屋は流行らない店なのか? 他国の食文化には疑問点が多い。

讃岐うどんの名声は国際的に広まっていて、メルボルンにもセルフうどん屋がある。ならば、ロンドンやパリやロスにもあるだろう。以前ミラノでソースカツ丼を食べたことがあるが、今やどこに何があるのか分からない時代になった。

これだけの事前知識で武装した私は、讃岐うどんを食べる期待感に満ちあふれてビジネスホテルを出た。時は朝6時45分、順風満帆の気持ちで、本日第一の目的地、金比羅さんのある琴平市に向かった。


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国道に現れたるセルフうどん屋

すると、国道を2キロも行かないうちに、すぐさまセルフうどん店が出現した。普通ならローソンやセブンイレブンが登場することが多いのに、その前にうどん屋が現れたので感動した。讃岐うどんを食べることが、本日の大きなテーマだったのに、朝7時前いきなりその大テーマが目前に現れてしまったから、正直慌てもした。

だから私は、「まあ、待て」と、すぐにでもその店に入らんとする自分を制した。香川で讃岐うどんを食べるには、それなりにきちんとした作法で食べたいと思ったからだ。私は東京人であるから、普段朝からうどんは食べない。他にも朝から食べないものは多々あるが、面倒なのでここには列挙しない。でも、今ここにいる私は、朝からセルフうどんを食べてみようという気持ちになっている。それは、私の人生においてほぼ初めてのことだ。

しばらく店の前に立って観察したが、店内にはすでにたくさん客がいる。男性が多い。さらに近づいて覗くと、長いカウンターがあり、お盆を持った香川県民たちが左から右へスライドしていく。まず麺を注文し、移動しながらトッピングのイカ天やかき揚げ、サイドオーダーのお握りやお稲荷をピックアップしていく。最後にお勘定を済ませ、思い思いの席でそれらを摂取する仕組みだ。簡単そうだ。

実は私は、2年前に愛媛の今治で、セルフうどんのデビューをしている。しかし、ここでは失敗した。別皿に載せてタレをかけて食べるべきイカ天を、うどんに載せて食べてしまい、すぐさま東京人であることを露見させてしまった。が、今日はそういう屈辱は絶対に繰り返さない決意だ。

私はいよいよ決心して入店した。まず、前に並んでいる親父にぴったり接近し、同じうどんを注文した。暖かいぶっかけうどん、中盛りである。それから、かき揚げを別皿にとった。もう一度書くが、別皿に、である。

今回は朝ごはんなので、あまりたくさん食べる必要はない。載せるものは、これだけにしてお金を払って席につく。ところが見渡すと、客の多くは、トッピングなど買わずに、無料サービスの揚げ玉を山盛りにうどんにかけて済ませている。迂闊であった。かき揚げなどを食べていると、田舎者だと思われるに違いない。

とにかくカウンター席に座って食べ始めた。すぐに隣に男が座った。その人は、席に斜めに座り、丼に顔を突っ込むような、いわゆる犬食の姿勢で、すごい音をたててうどんをすすり始めた。うどんをすすりつつも、片目は携帯電話から離さない。観察するに、この男性にとってうどんを朝食に食べることは、全く自然な行為であるようだ。フランス人が、もう無意識に朝からバゲットをカフェオレに浸して食べるようなもので、別におしゃれとか、シックとか、そんなことでは全然ない。だから私も、すかさず斜め座りに姿勢を直し、うどんを朝食べるなんて全然珍しくないんだぜ、前からこんなこといくらでもやってるぜ、と言う顔でずるずる食べた。

ところが、悲しいかな、やはり失敗をした。中盛りうどんは量が多すぎた。かき揚げと食べると、いささか持て余してしまう。ああ、小盛りでも良かったと後悔した。うどんネイティブになるには、修行がいるのだ。


金比羅さんの785段を登ったことなど

善通寺から金比羅さんまでは30分もかからなかった。まだ朝の8時過ぎと言うのに、結構な人出だ。金比羅さんは何せ785段ある石段が有名で、これを制覇せんと民衆が集まっている。自転車を担いでこの石段は登れないので、自転車は下に置いて、えっさえっさ登り始めた。沿道の土産屋では竹の杖を100円で貸してくれるので、これを突いて登っている人もある。

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サイクリングで走っていて、さらにこんな石段を登るのは二重に体力を使うが、ゆっくり登れば大したことないだろう。案の定、3、40分で頂上まで行けた。先に、お年寄りのお寺や神社詣では修行であり、チャンレジであると書いたが、金比羅さんでは、そういう光景が至るところにあった。お年寄りたちは、はあはあ息を荒くして登り、至る所に設置されている休憩所やベンチなどで、赤くなったり青くなったりして、休んでいる。中には階段の途中で、チベット寺院の五体投地のように、亀のようにへたり込んでいる人もある。金比羅さんは、そう言う意味で、老人のエベレストなのかもしれない。下の方の茶屋には籠担ぎの人もいたが、いちばん上まで乗せてもらうと5300円、往復だと6800円だ。高いのか安いのか分からないが、乗る人もいるからこう言う商売もあるのだろう。

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お年寄りのエベレスト、金比羅宮の石段

金比羅さん詣も無事終えた。ここから高松までは30キロ少し。信号が結構たくさんある田舎の県道をどこまでも走っていく。ぽこん、ぽこんと、あちこちに突き出た小山の景色が愉快だ。どの山も高さはせいぜい100メートルだろうが、ひょっこりひょうたん島のようでもある。それ以外の土地は平らな畑や田んぼで、所々にはコスモそが一面に咲いている空き地なんかもあって、秋なんだあと感じ入る。

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香川の小高い山々、その向こうの瀬戸内海

眠たげな県道をうんざりする程走ると、そこが高松だった。町の中心に向かう国道には、場外馬券場、ユニクロ、マック、ファミレスと言った店舗などが無秩序に並んでいる。金比羅さんとは別世界だ。とにかく高松港まで行ってしまえと、もう一踏ん張りし、瀬戸内海を眺める岸壁に出た。高松の港は、今も昔も瀬戸内の交通の要であり、あちこちへ向かうフェリーや連絡船が行き来する。白い船が青い海と空の間を行き来しているのは美しい。

遅くなったが、昼めしだ。今日は、じっくり讃岐うどんと向き合うつもりである。やや邪道かもしれないが、どうせ僕は観光客だから、高松の中心街にある、高級そうなうどん屋に入った。もちろんセルフではない。壁には、アベノミクスのあの首相も来て食べたと写真が貼ってある。シャクな気分であったが、どうせならと、アベちゃんと同じやつを食べたが、これは大層美味であった。揚げたての天ぷらはサクサク、うどんはシコシコモチモチ、お汁は澄んだ薄味なのに出汁はしっかり効いている。やっぱり高級店は違うねえと言う結論。


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讃岐うどんを食べるアベちゃん

今日の走行距離も70キロと軽めだった。だが、明日は早朝フェリーで小豆島に渡り、ファイト一発、島を一周する予定だから、今日はこれで打ち止めだ。午後3時に高松の栗林公園を見下ろすビジネスホテルにチェックインし、洗濯したり昼寝したり、ゆるゆる過ごす。

(続く)

出典:
陽水の歌詞は『井上陽水』成美堂出版から





posted by てったくん at 15:34| 日記

2019年12月09日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第5話  五日目と六日目:
高知から阿波池田まで輪行し、大歩危小歩危、かずら橋と祖谷渓を走る


「咳をしても一人」(尾崎放哉)

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大歩危渓

土讃線で高知の後免から阿波池田まで輪行する

ついに一人になった。尾崎放哉の句を借りるなら、「咳をしても一人」という境地。

これまで4日間、旧友T村と恩師T屋先生との同窓会サイクリング旅行だったのだが、この先9日間は一人旅である。今までは修学旅行のような楽しいノリだったが、これからはワビサビの境地、寂寥感も胸に溢れてくる。秋を追いかけて、愛車フジコちゃんと共に、予定通り四国山地を抜けて讃岐に向かって進んで行くのだ。

朝、T村とT屋先生と南国市のホテルで別れた後、後免という駅で自転車を畳み、阿波池田へ向かう土讃線車中の人となる。目的地の阿波池田は山間の町だ。輪行したのは、今日は体を休ませたいからだ。2年前高知と愛媛を周った際、最初五日間、調子に乗って飛ばし続けたら疲労が溜まり、そのあと回復できなかった苦い経験がある。だから今回は、少なくとも3、4日毎には休息日をとることにした。今回は、頑張らない、いたずらに距離を稼がないで旅を楽しむのがモットーだ。


長閑な土讃線鈍行列車

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土讃線の青春

2両編成の鈍行列車は、後免の駅をカラスの群れみたいな高校生をたくさん乗せて走り出した。鈍行だからしょっちゅう駅に止まるが、そのたび、カラスたちは何羽ずつか降りていき、仕舞いには4、5名だけになった。その中に女子二名と男子一名の仲良し組がいる。三人は頭を寄せ合って数学の宿題を解いている。おじさんはそれをチラチラ眺め、いいなあ、青春だなあ、と思う。やがて、ある無人駅で女子のうち一名が降りて、男子一名女子一名になってしまった。おじさんは、なぜかドキドキする。二人きりになって、何か起きるだろうか?ところが何も起きない。外は秋めいた山で、素晴らしい景色なのに二人はお構いなしに宿題をやっている。もしかしたら、親しげに手を握ったりとかしないのか?と、おじさんは期待する。が、何も起きない。そして、嗚呼!ついに最後の女子はどこかの、ムジナでも出そうな無人駅で降りてしまった。男子学生は一人取り残された。お前それでも男か!チャンスをつかめ、チャンスを!と、おじさんは憤る。おじさんは考え過ぎなのかもしれない。

後免から阿波池田までたっぷり2時間以上かかったが、全く退屈しなかった。と言うか、退屈を楽しんだ。特急なら1時間だが、なぜ人は倍の料金を払ってまで、かくも素晴らしい旅を半分に短縮してしまうのか。

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駅前旅館の女将の憂い

阿波池田に着いたのは2時ごろだ。小雨が降っていた。山に囲まれているから、霧のような小雨が降るだけで、昼なのにもう暗い。駅前のセブンでお握りを食べ、ゆっくりコーヒーを飲む。昨日まではT村とT屋先生と一緒だったから上等の宿に泊まっていたが、今日からは「放浪詩人」なのだから、安宿に泊まることに。かと言って、若者が集まるライダーズインとかバックパッカーとかは騒がしいから、私が泊まるのは商人宿、民宿、ビジネスホテルの類だ。

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池田駅前商店街

今夜は駅前旅館、素泊まり3700円。ここに今夜と明日2泊する。旅館の玄関には「すぐ戻りますから、X X X Xまで電話ください」と貼ってある。電話すると、女将がすぐ裏から出きた。若いお母さん、ヤンママみたいな女将で、服装もスポーツウエアみたいなものを着ている。

古い建物のくせに、なぜか玄関は自動ドア。だが、トイレと風呂は共同だ。「今日はお客さんと、もう一名だけです」と女将が言った。女将さんが、ショートヘアでちょっと可愛いいのが救いかもしれない。池田高校陸上部出身という感じ。さっきから僕の自転車に興味があるらしく、輪行袋に入った自転車をチラチラ盗み見ている。僕がその視線を捉えると、いたずらを発見された少女のように照れながら、「私も、実はロードバイクを持っているんです。B社のアンカーってやつ。あまり乗らないんですけど…」と言った。

「それって、オーダーメイドのすごくいい奴でしょ?」と褒める。偶然だが、T屋先生の愛車と同じだ。女将は頬を少し赤くして、「ええ、でも旅館をやっているから、あまり乗る暇がないんです…」と、言葉に憂いがある。旅の妙味の一つは、こうして出会う女性が、みんな素敵に見えてしまうことかもしれない。

「そうか、そうなんだあ、いや、もったいないなあ。僕は明日、大歩危小歩危、かづら橋、祖谷渓を自転車で回るんです」と言い、「一緒にいきませんか?」と喉まで出かかった。しかし、出会ったばかりの人妻(に決まっている)にそんなことを言うのは、調子が良すぎないか。これがオーストラリアで、英語で冗談っぽく言うなら済まされただろうけど。

そこで、「どこで晩ご飯を食べたらいいかな?」と話題を変えると、いくつか居酒屋や料理屋を教えてくれ、「近くで主人も洋食屋をやっているので、良かったらどうぞ」と言って店の名前を言った。やはり人妻である。

午後もまだ早いので、宿の傘を借りて小雨降る池田の町をぶらぶら歩いた。宿の裏に郵便局があり、荷物の中のいらない服を東京の女房の実家に返送することを思いつく。客のいないお土産屋でウイロウを買った。ウイロウは亡くなった母の好物だった。これを小包に入れて、妻の両親に送った。でも、老人はいきなり小包を送ったりすると驚くから携帯から電話をして、小包とウイロウのことを伝える。すると、義父が「ウイロウは名古屋だったろう?」と言った。そうだったが、「もう送ってしまったのだから、食べてください」と言う。

宿に戻り、宿の玄関先で自転車を組み立てた。すると、またショートヘア女将が出てきた。「あら、黄色い自転車なんですね、すごくかわいい!私もこう言うのが欲しいなあ」と、高校生みたいにはしゃぐ。

もしかしたら彼女、本当に誘ってくれるのを待っているのかもしれない。だから僕は、ちょっと期待を込めて「大歩危小歩危の方は、道路はどんなかな?」と尋ねた。「一度、ずっと前にみんなで走りに行ったけど、国道だから結構車が多いんです。でも、川の対岸に旧道があるからそっちなら静かですよ」と言う。

「かずら橋まではどうかな?登りは急かな?」などと、あたりがないかさらにチェック。一緒に行きたそうな素振りを見せたら即座に誘おうと決心したが、結局そんな素振りは見せなかった。 考えてみれば、宿の客と仕事をほったらかしてサイクリングというわけにもいくまい。

その夜は、近所のスーパーで弁当を買ってきて、電子レンジで温めて食べた。女将の旦那がやっている洋食屋へ行っても良かったが、旦那がいい男であれ、不細工であれ、どちらにしても幻滅するに決まっている。安宿の4畳半で大胡座をかき、テレビのニュースを見ながら弁当を食うのも気楽なものだ(と、自分に言い聞かせた)。

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質素な部屋も悪くない

池田の夜は静かだった。小雨が降っているせいもあるだろう。こういう夜は露天風呂にでもつかりたいが、駅前の安宿でそんな贅沢はできない。ステンレスの浴槽に入ってから寝た。


小歩危、大歩危からかずら橋まで

6時起き。買っておいたパンを食べたが、このパンが不味くて閉口した。そのせいか分からないが、池田の町を出て、高知方面に向かって小歩危、大歩危に行くつもりが、逆の高松方面に向かってしまった。4、5キロ走って気がつき、舌打ちしてUターン。T村のiPadがあればこんなことはなかっただろう。携帯くらいは持っているが、そんなものを見ながら走ろうとは思わない。僕のハンドルバッグの上には昔ながらの透明の地図入れが付いていて、これに14万分の1の道路地図がはさんである。若い頃はこれを見ながら走れたが、今は停車し、メガネを外してから地図に顔を近づけないと読めない。ならば何のためにここに地図があるのかと言うと、ただの意地である。

幸い、昨日の小雨は上がって曇り空だ。徳島、香川を自転車で回ると友人に話すと、複数の人が大歩危小歩危にはぜひ行かないとだめだと言った。行ったことのない者までがそう言うのだから、行かない訳にはいかない。大歩危渓は天然記念物であり、国定公園の一部でもあると言う。僕は、渓谷が好きだから、とても楽しみだ。ガイドブックの写真を見れば、吉野川のコバルトブルーの水に渓谷の緑が映り、ゴツゴツした岩の間を遊覧船やカヌーが漂う様子は素晴らしい。

ただ、この様に「ここは秘境ですよ、すごいですよ、見にこないとダメですよ!」と喧伝される場所は、まずは人が多くて車や観光バスだらけの場合が多くて、いささか閉口するのが常だ。

そして、その予想通りだった。景色は素晴らしく、山肌から降りてくる低い雲の間に見える、紅葉の始まりかけた山肌は美しかった。が、コンビニ、ガソリンスタンド、道の駅、蕎麦屋、けばけばしい看板などが後からあとから並んでいる。仕方がない。これが日本なのだから。

トラックや観光バスにおあられながら、国道を走る。狭いところは崖っぷちの歩道を走る。歩道から崖下を見るとクラクラするほど高い。僕は高いところが得意じゃない。自転車に乗っていると、柵の上に上半身が半分出てしまうので、バランスを崩すと転落間違いない。だから、落ちない様に気を入れて走った。


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イスラエル人の旅人との出会い、かずら橋でヨシコさんを見捨てたこと

1時間ばかりで大歩危についた。コンビニでトイレ、それからコーヒーを買う。横で西欧人の青年が地図を指差して道を店員に尋ねているが、会話が通じない。そこで話しかけると、イスラエルからの旅人であった。これからかずら橋まで歩くと言う。まだ18キロあるから、3時間はかかるだろう。

イリアス君と言う名前だったが、「18キロ、全然大丈夫!」とニコニコしている。日本に来て二ヶ月、あちこち放浪しているらしい。なかなか好人物なので、しばらく話した。彼はベジタリアン、それもビーガン(乳製品も食べない)だと言う。加えてユダヤ教だから食事に相当な制限がある。聞けば、コンビニの「昆布お握り」やナッツ類、果物で生きていると言う。「大変だね」と言うと、「慣れているから、そんなでもない」と笑っている。偉いものだ。

イリアス君は、先が長いので、さっさと歩き出した。僕は、再度トイレを借りたり、写真を撮ったりとかしてゆっくり出発。それでもすぐにイリアス君を追い抜いた。

大歩危橋を渡ると、奥祖谷へ向かっての急登だ。荷物は宿に置いてきたが、それでも坂はきつい。大汗をかきながら登る。だが、グングン標高を稼ぐのが気持ちよく、カーブを曲がると、大歩危や吉野川がはるか下に見える。

かずら橋までの18キロ、1時間半だった。かずら橋は、シラクチカズラのツルで作った45メートルの橋である。3年ごとに掛け替えると言う。深山の趣がたっぷりで、素晴らしい谷間だ。素晴らしくないのは、すぐ横に建っている、国立競技場と見紛う様な建物だ。ここに土産屋やらレストランが入っている。しかし他に選択の余地もないので、ここでお昼に祖谷蕎麦を食べる。案の定あまりおいしくなかった。祖谷蕎麦のせいではなく、この食堂が良くないのだ。分かりきったことだ。

さて、かずら橋を渡ろうと谷底の河原へ降りる。見れば向こうで、盛んに手を振ってい西欧人がいる。イリアス君であった。おかしいな、彼はまだ山道を歩いているはずだが。僕が「?」と言う顔をすると、イリアス君は「ヒッチハイクしたんだ」と、ケラケラ笑う。なるほど、それなら分かる。天狗みたいに空を飛んできたのかと思った。

かずら橋は、渡り賃が500円だ。その上一方通行なので、一回渡ってしまえば終わり。だからじっくり渡ってやろうと思って渡川に挑む。見れば、橋の中程で手すりにつかまって、川面に見入っている女性もいる。きっと深山の景観を心ゆくまで楽しんでいるに違いない。

恐怖のかずら橋
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しかし、さっきも書いた様に、僕は高いところが苦手である。渡り始めた途端、これは早く渡ってしまうに限ると、考えを変えた。何せ、高さが15メートルもある橋である。足元も藤蔓だから隙間だらけ、踏み外せば15メートルの空中に宙吊りだ。欄干も藤蔓で隙間だらけだから、うまくつかまって歩くことが難しい。バランスを崩して倒れれば、藤蔓の隙間から15メートルを落下して、全身打撲で死亡することも不可能ではない。一応、旅行傷害保険には入っているが、落ちれば痛いに決まっている。また橋の上を常時二十名くらいが歩いているから、常にゆさゆさ揺れ、まるで大地震だ。非常に恐ろしい橋である。僕は、両手を前にした幽霊歩きの、中腰のみっともない格好で、下を見ないように移動した。橋の真ん中に差し掛かるが、景色を見ていると思った女性は、実は蒼白になっていて、そこから動けないでいるのだった。対岸では、先に渡った夫と思しき中年男性が、「ヨシコー、早く来いよ、バスが行っちゃうよー!」と叫んでいる。だが、哀れなヨシコさんは、そこから一歩も動けない。気の毒だったが、下手に手を出したりすると彼女と二人、もつれたまま落下することは避けられない。こんなところで、他人と心中するのは御免だ。申し訳ないが、ヨシコさんは見捨ててさっさと渡ってしまった。

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15メートル下がスケスケに見える

どうにか、かずら橋を渡り終えた。500円払ってこんな目に遭うなら、渡らずに写真だけ撮っても良かったとも思うが、人生、経験であろう。

祖谷渓の小便小僧

ここから、昔の山道を走って祖谷渓谷を降りて池田に戻る。距離は30キロほどだから大した距離ではないが、山道なので飛ばせないし、何もない原始的な渓谷を走るのだから、ゆっくり景色を楽しみながら戻ることにしよう。

それにしても祖谷渓は山奥だ。道は狭くて車がやっとすれ違える幅しかない。交通量は少なく、自転車で走るにはうってつけだ。山肌に作られた道からは、遥か下に祖谷川が見える。ここを走っていくのは至福である。

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そんな、くねくねした山肌に作られた道を、くねくね走っていくと、あった、あった小便小僧の像である。それにしても、なぜこの素晴らしい渓谷の、もっとも切り立った険しい場所に、小便小僧がいるのか?後で、インターネットで調べたが、祖谷渓谷の道路工事をした際に、この場所で度胸試しに工事関係者が立ち小便をしたのだそうで、それを讃えて?小便小僧の像を立てたんだそうな。そんなアイデアに反対した人もありそうなものだが、そういうことはどこにも書いていない。宇都宮駅前の「餃子の像」も奇怪であったが、こちらも負けてはいない。

そもそも小便小僧とは何か? これもウィキペディアの情報だが、ベルギーはブラッセルに、オリジナルの小便小僧像があるという。その由来には諸説あるらしいが、一番面白いのは、反政府軍が仕掛けた爆弾の導火線におしっこをかけて消した勇敢な子供を称えて作られたという説だ。でも、どうしてその子は、導火線を足で踏んで消さなかったのかと私は疑う。よほどおしっこがしたかったのだろうか。ブラッセルには小便娘の像もあるらしいが、こちらの由来はまだ調べていない。

祖谷のこの像は、崖っぷちの切り立った場所にあるので、絶対にここでは立ち小便をしてはいけないと観光案内書に書いてある。(若い頃のT村なら、きっとやっただろう。)

さて、ここから池田までは、ずっと下りだった。時々ひどくひなびた集落があり、旅愁にひたっていたせいか、山頭火の句が頭に浮かぶ。
    
     「また見ることもない山が遠ざかる」
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     「へうへうとして水を味わう」
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池田へ帰り着くと3時半だった。駅のセブンでコーヒーを買い、待合室のベンチで菓子パンを食べる。一人ぼっちでこんなことをしていると、永井荷風になったような気分だ。

明日は山超えで瀬戸内へ出て、観音寺、善通寺と走る。天気予報は曇り時々雨だが、気温は低くないから、雨のサイクリングも乙だろう。だがその前に身ごしらえをしなくてはいけない。池田のダイソーへ走り、靴カバーを買う。以前に雨の中を走り、レインコートを着ていて体は濡れなかったが、足がびしょ濡れになったことがあるからだ。

ここで大失敗。ダイソーの前に自転車にロックをかけて駐車しておいたが、ロックは、細い自在に伸びるワイヤー形式だった。ところが帰る際、このロックをつけたまま自転車を引いて2、3メートル歩いてしまった。すると後輪にロックの針金がギチギチに絡まって外せなくなった。慌てて引っ張ったら余計ひどく絡まった。仕方がないのでまたダイソーに入り、ペンチを買った。そして店の前でワイヤーをペンチで切ろうとしたが、案外丈夫でなかなか切れない。10分も格闘してようやっと切れたが、下手したら車輪のスポークを折るところだった。うっかりしているとこんな失敗をして、もしかしたら旅を中断しなくてはならなくなる。

宿へ帰ると、風呂を勝手に入れて入った。ワイヤーロックのせいで、くたくただった。風呂から出たらいくらか気分が良くなったので、また弁当を買ってきて部屋で食べた。これが今回の旅の習慣になりそうな気がする。気楽で良いが、安い弁当は、ご飯ばかり多くて、おかずが少ないのが難点だ。

さあ、明日は香川県に入る。秋は、もうあちこちに来ている。

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(続く)


出典:
種田山頭火の句は、『山頭火句集(1)』春陽堂から
尾崎放哉の句は、池内紀編『尾崎放哉句集』岩波文庫から









posted by てったくん at 16:49| 日記

2019年12月03日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

「結婚ってのは全く素晴らしい発明だが、パンク修理セットだってそうだ」
(ビル・コノリー、スコットランドのコメディアン)


第4話  四日目と五日目 中学時代の恩師T屋先生と高知を走る

南国市ホテルにおける宿泊客の生態


「明日は、7時起床、7時半朝食、8時半出発だな」とT屋先生は、昨夜そう言った。T屋先生は79歳であり、立派な後期高齢者である。その割に、それほどの早起きでないことがこれで判明した。人はこの年齢になると鳥のように日の出と共に目覚めるのかと思ったら、そうでもないらしい。

ところが、朝7時半にホテルの食堂にいくと、先生はすでに朝食を半ば終えている。やはり油断はできない。「おめっちは、昨夜はすぐ寝ちまっただか?俺は、あれからサウナに入ったよ。やっぱ、サウナに入って汗を流すと気持ちいいねえ」と、けろっとおっしゃる。

僕とT村が恐れていた通り、T屋先生は元気いっぱいだ。今日はロードバイクで思いっきり走るぜー、青春だぜー、という精力にみなぎっている。昨日先生は、沼津から東京まで電車で移動し、そのまま羽田から高知まで飛んできたものの、自転車で走ったのは空港からの8キロだけだから体力が余っているのだ。一方僕とT村は、室戸岬から高知まで82キロを走ったから、寝る前にサウナどころではなく、バタンキューで寝てしまった。二人とも、今日はできるだけ負担の少ない走りで体を休めようぜ、と密かに打ち合わせてあるが、T屋先生は、そうはさせまいと意気ごんでいる。

「この近くのゴルフコースでベテラン・コンペが開催されていて、400人ばかり参加しているから、このホテルにもシニア・ゴルファーが百人くらい滞在しているらしいよ」と、T屋先生はまわりを 見渡しながら、うれしそうにおっしゃった。見れば、食堂はご老人ばかりだ。日本は高齢者が増えているから、どこも老人が多いですね!なんて油断していると、周囲を完全に老人に包囲されてしまう。このホテルなど、老人純度が100%近い。

しかし、ゴルフのコンペに出る老人ばかりだから、みんな元気だ。入れ歯をもごつかせて、トーストや茹で卵を喉につまらせているような人は一人もいなく、みんな元気に朝ごはんを咀嚼している。慶賀の至りである。

僕たちは、本日の行程を打ち合わせると、朝食をさっさと済ませて、出発の準備をした。


下田川の亀を見て、五台山を征服したことなど

ホテル前に三台の自転車が揃い、三人の男たちが出陣したのは8時40分である。予定より10分遅れだが、まずは合格であろう。何せ朝出かける前は、着替え、薬を飲む、歯磨き、トイレ、忘れ物チェック、再度のトイレ、再度の忘れ物チェックなど、障害物競走のようにやることが多いのだから。


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いざ出陣の三名

さて、ここで三人の自転車を比較する。細かい点は、読者を退屈させるだけだから勘所だけを列挙しよう:

T屋先生の自転車:国産ブランド(純国産)、オーダーメイド、カーボンフレーム、高級パーツ、22段変速、重量8キロ

T村:英国ブランド(英国製は名ばかり、実は日本製)、既製品、鉄フレーム、普及品パーツ、16段変速、重量10キロ

私:米国ブランド(実は中国製)、既製品、鉄フレーム、16段変速、重量11キロ

野暮だから値段は書かないが、自転車に詳しい読者には、これら三台の違いは一目瞭然だろう。先生のは高級品、我々のは普及品。まず先生のフレームはカーボン、すなわちNASAなどが用いる新素材、21世紀テクノロジーの賜物だ。一方我々のは鉄製、すなわち鉄器時代、せいぜいが産業革命の時代の素材だ。ここにもう数世紀の開きがある。また先生の自転車は特注オーダーで、フレームは先生の体型に合わせて手作ってあり、注文から完成まで数ヶ月かかったと言う。一方我々の自転車は既製品。背広に例えるならば、先生のはテーラー仕立ての手縫い、我々のは紳士服アオキの吊るしである。先生のギアは22段。我々のは16段で全く勝負にならない。重量も先生のは8キロ、我々のは10キロ以上と、決定的に違う。T屋先生の愛車はすぐにでもツールドフランスの実戦に登場できるサラブレッドだが、我々のは「狼の皮をきた羊」と言った程度である。

そういう違いはあるものの、所詮は自転車、三台並んで高知方面に向かった。最初の目的地は五台山だ。五台山は、高知市の東側にある小高い山で標高146メートル。眼下には浦戸湾、西に高知市、南に太平洋を望む。頂上には四国霊場三十一番目の竹林寺や牧野富太郎植物園がある。

国道を少し走り、裏道にハンドルを切る。そこはサイクリスト好みの田舎道だ。田んぼの間の農道、古い農家や納屋の連なる古い街道、その間を大きな浦戸湾に連なる下田川がゆっくりと流れている。

とある橋上から川面を見ると、大きなボラのような魚がウネウネ泳いでいる。「見える魚は釣れないんだよな」と、T屋先生が呟く。亀がたくさんいる。ぱっと見渡しだけでも30匹はいるだろうか。みんな岩や岸辺で甲羅干しをしていたが、我々が大きな声で喋っていると、警戒してぼちゃぼちゃ潜ってしまった。亀は老人のような顔をしているが、耳は良いらしい。新しい発見だ。とにかく朝からたくさんの亀を見たことは、めでたいことの予兆だ。

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下田川の亀

T村はiPadの地図を見ながら走っているので、我々は迷わず五台山への登り口に行きついた。その急坂を登るにあたり、二つの問題点に留意しなくてはいけないことに気がついた。一点は、T村と私がその急坂で79歳のT屋先生に出し抜かれたらどうしようかという点だ。先生と我々の年齢差は20歳プラス。20歳も年上の老人に上りで負けたら、我々の沽券に関わる。それで、もし負けたら乗っている自転車のせいにしようと私は考えた。T屋先生のは高級車で、我々のは普及車だから、性能の差は歴然であり、勝敗に疑問の余地はない。二点目は、T屋先生が急坂の途中で心臓麻痺か卒中を起こして倒れたらどうするかという点だ。いくら健脚を誇る先生でも、不慮の出来事はあるかもしれない。僕は、先生をあまり張り切らせず、高齢者らしい節度を持って走るように、それとなく目を配ろうと考えた。その上で何かあったときは、慌てず119番連絡ができるよう、密かに携帯電話を胸ポケットに入れた。T村もiPadsで武装しているから、万全であろう。

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登坂するT屋先生

しかし、心配することはなかった。先生は、我々を出し抜くこともなく、卒中を起こして倒れることもなかった。ただ、T屋先生ご自身には、その登坂はいささか苦難の道であったようだ。先生はのっけから、「いやー、急な坂だなここは、坂はできれば登りたくないよ、坂は嫌だなあ、だから坂はできるだけ避けてるんだよ」と、そんなことを大声で言いながら、這うように坂を登った。私は、その後ろから「先生、この坂は2キロちょっとですよ、すぐですよ。ほんの15分程度ですよ、ファイト!」と、優しく励ましながらゆっくり登った。

一方でT村は、一昨日から自分の健脚に良い気になっているので、どんどん一人で登っていく。そして、先の方のカーブで止まっては、先生が苦渋の表情で登坂している様子を写真に写し、「しっかりしろ!倒れたら、すぐに救急車を呼ぶから、一生懸命こげ!」などと、叱咤激励している。同じ教え子でも、人格者とそうでない者の違いが、こういう場面で明らかになるのだ。

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恩師をあおり走行で脅かすT村

登坂は20分ほどだっただろうか。先生は「もうだめだ、足がつりそうだ、登り坂と向かい風は、サイクリングの敵だぁ!」とか悪態をつきながら、どうにか五台山の頂上についた。

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五台山から浦戸湾を望む

それだけに展望台のからの眺めは格別であった。我々は絶景に見惚れて、長い間そこで過ごした。いや、長居した理由は絶景のせいだけではない。そこにもう一人の地元サイクリストが現れたせいでもあった。

そのサイクリストは、軽そうな自転車に乗って風のように登場した。聞けば、北海道出身の元自衛隊員で、高知市役所観光課勤務の人であった。「どちらからいらしたんですかー?」と、観光課だけあって、愛想よく展望台の下から声をかけてきた。T村もT屋先生も話好きだから、この青年と展望台の上と下で話しこむことになった。特にT屋先生は、自衛隊ということに深く関心を抱いたようだった。

会話の要点は、以下の通り:

T村「我々は、教え子と先生の三人連れで、サイクリング旅行をしている。」
青年「自分は北海道から移住し、高知市観光課に勤務している。元自衛隊千歳基地勤務。サイクリングが趣味。高知にはサイクリングの見どころが多いですよ」
T屋先生「自衛隊の退職金は多い。富士山の陸上自衛隊訓練に参加したことがある。」
青年「自衛隊の規律の厳しさに比べて、地方公務員は楽。四国は温暖で暮らしやすい場所です。」
T屋先生「富士の訓練で戦車に乗ったが、戦車は見かけによらずスピードが速い。」
青年「私も自衛隊時代に戦車に乗ったことがある。」
T屋先生「戦車はスピードが速いばかりでなく、乗り心地も素晴らしい。」
青年「そろそろ行かないといけません。じゃあ、皆さんお元気で。」
T屋先生「戦車は乗用車並みに中が静かで、椅子も座り心地が良い。」
青年「本当に行かないといけません。じゃあさようなら(青年、立ち去る)」
T屋先生「戦車は、本当に良くできている。」
私とT村「先生、さあいきましょう。」
T屋先生「戦車には、ぜひまた乗りたい。戦車は素晴らしい…」
私とT村「先生、早くいきましょう。」


桂浜の観光食堂で、T村愚問を放つ

展望台での会話が長引いたので、我々は竹林寺にも牧野富太郎植物園にも寄らずに五台山を降り、次の目的地である桂浜へ向かった。T屋先生は、五台山の上りでは苦悩したが、下りは高級ロードレーサーの性能を十二分に生かし、華麗なフォルムで坂を下った。

桂浜は太平洋岸にあるので、当たり前だが、我々は海の方へ向かった。途中、浦戸湾を市営の渡し船で渡ったりしたので、時間がかかった。そんなで三人ともお腹が空いたが、桂浜まで造船場ばかりでお昼を食べる食堂が見当たらなかった。

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桂浜の龍馬像

腹を減らした我らは桂浜にようやく行き着いたが、果たしてそこには数軒の食堂があった。それらは観光食堂と呼んだらいいような食堂だった。要するに、土産屋の二階にある食堂だ。そう言う食堂では、うどん、カツ丼、カレーライス、豚生姜焼き定食など、その土地とは関係のない食いものを出すのが常だ。

我々は、ひとまず「月の名所、白砂青松、龍馬像の立つ」と言う桂浜を歩き、1時間後、ようやく一軒の観光食堂に入り、遅めの昼ごはんを食べた。その観光食堂でだが、T村は、ある愚問を投げかけた。それは、水の入ったコップを持って我々のテーブルに接近してきたウェイトレスに対して放たれた質問だった。

それはこういうものであった。

T村「あのー、お姉さんさあ、ここのウドンってのは、讃岐(さぬき)うどんみたいな、そう言ううどんなわけ?」
お姉さん「あのねえ、お客さん、ここは土佐なんだから、讃岐じゃないの。だからここのうどんは讃岐うどんじゃないの。讃岐うどんは、香川県のもの!」

そういうやりとりだったが、讃岐と土佐を混同したT村の疑問は、高知県民のその女性からすれば、聞き捨てならないものであっただろう。坂本龍馬が聞いていたら、T村は叩き斬られていたに違いない。ただ私は、東京人として少しはT村に同情する。なぜから我々関東人からすれば、土佐も讃岐も同じ四国の田舎なのだから、高知のうどんなど、きっと讃岐うどんみたいな代物であろうと考えても仕方ない。それにしても、「讃岐うどんみたいな、そう言ううどん」とは一体どんなうどんを指すのか?

まあ、そう言うわけで、我々はうどんはやめて、三人ともかき揚げ丼を食べた。なぜ三人とも同じになったかには理由がある。僕とT村は昨日安芸市で食べた「じゃこかき揚げ丼」があまりにも美味しかったので、その流れで「今日もかき揚げ丼にしよう」となったのだ。もちろん、二人とも昨日ほどのかき揚げ丼に今日も出会えるとは思っていたわけではないが。ではT屋先生が、なぜ我々と同じかき揚げ丼を注文したのか?それは簡単だ。先生は、五台山の登坂で疲労していたので、面倒だったからだ。

言うまでもないが、ここのかき揚げ丼は、特に言及するほどの味でなかった。小田急線の立ち食いそば店「箱根そば」のかき揚げ丼と、どっこいどっこいだったと言えば、想像がつくだろう。


奇跡の仁淀川を走ってから、スーパーでおやつを食べたこと

とにかく、かき揚げ丼で腹も作ったので、次に「奇跡」と呼ばれる仁淀川に向かった。誰がそう呼んだのか、奇跡とは大袈裟だが、確かに仁淀川の流れは美しい。桂浜から仁淀川河口までは、太平洋岸を走るが、どこまでも真っ直ぐな道は爽快だ。

四国へ来ると驚くのは、海岸の見晴らしの良い一等地に墓地がたくさんあることだ。もしかしたら四国だけではないかもしれないが、先祖を大切にするという意味で、日本人の国民性を表している気がする。これが私の住むオーストラリアなら、このような海浜の一等地は、有名スターや実業家が買い占め、何百万ドルもする豪邸や一流ホテルが立ち並んでいる。ところが、ここ高知県ではお墓が林立しているのだから驚くべきことだ。

「お墓ばっかりで、もったいないですよ!」と、不敬にも僕がそう言うと、T屋先生は、「それなら、てっちゃんがここの土地を買い占めて、それをT村君が造成して売れば、二人は大金持ちになれるずらよ」と賢明にもおっしゃる。T屋先生は元は数学の先生だから、数字に明るい。そう言う先生の言うことだから、きっとその通りだ。私は、それを聞いて明るい気持ちになった。

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太平洋岸を走る

そんなことを話しながら走行していると、じきに仁淀川の河口だった。ここを川沿いに数キロ北上する。仁淀川は川沿いの村落で和紙の生産などが行われている清流で、一説には四万十川よりも水が澄んでいると言う。我々はしばし路肩に立ち止まってその清流に見惚れた。こんな場所に暮らしている人たちはどんな人たちであろうかと思うだろうが、それについては宮尾登美子著『仁淀川』などの名著に筆を譲ろう。

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仁淀川

さて、しばらく行くと高速道路の大きな橋があり、そこから私たちは高知市方面にハンドルを切った。しばらく行くと、ちょっとした峠があり、ここでもT屋先生のスピードは低迷を見せた。「もう少し行ったら、おやつでも食べましょう!」とT村がそそのかすと、T屋先生は突然元気を取り戻した。少し先に大きなスーパーがあったので、そこで一休みした。

T先生は愛妻家である。だから、このスーパーで、郷里沼津で先生を待っている奥さんにお土産を買うことを思いついた。先生は店を一巡したが、「あまり買いたいものはないね」と無念そうであった。我々は、イートインコーナーに座し、コーヒーを飲みながら、おまんじゅうや羊羹を食べた。サイクリングに行くと甘いものが美味しい。T屋先生は大きな柿を一つ買って、ナイフで剥いてくださった。恩師に柿を剥いてもらって食べるというシチュエーションは、私が正岡子規だったら、まさに俳句的モーメントだろう。でも、その時の私は、何か別の思索にふけっていたので、うかつにも好機を逃してしまった。

そこで、今一句捻ってみた。

   さあ食えと 恩師が固き 柿を剥き 

                鉄沈 

自分で書いておきながら、何を言っているのか分からない句である。

さて、おやつを食べて、自転車のところに戻ると、驚いたことにT屋先生の自転車がパンクしている。先生は動揺を隠せず、「おお、パンクしている!」と、大きな声で叫んだ。そこで僕もT村も、「先生、落ち着いてください。パンクくらい、すぐに直せますよ」と冷静に、先生がパンクを直すのに手を貸した。麗しき師弟愛だ。


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パンクを直すT屋先生とT村

特にT村は、買ってからまだ使ったことがない炭酸ボンベの空気入れを使ってみる好機が到来したので、嬉しそうであった。炭酸ボンベの空気入れとは妙な物だが、普通の空気入れはシュコシュコ押して空気を入れる手動ポンプなのに対し、T村の新式ポンプは圧搾炭酸が入った小型ガスボンベなので、シュコシュコしなくても一瞬にしてタイヤが膨れ上がる新兵器なのだ。案の定、その炭酸ボンベでT屋先生のタイヤは瞬時に膨れ上がった。ただ、タイヤには空気ではなくて炭酸ガスが入っているのだが、走行に支障はない。

パンク事件のせいか、T屋先生は突如帰巣本能を強くしたようだった。先生は、帰心矢の如しで先頭を切って走り出し、瞬く間に我々を高知市へと導いた。そのまま我々は、はりまや橋も高知城も見物せず、最短距離で国道を走り続け、南国市のホテルに舞い戻った。到着したのは夕闇迫る5時だったので、脇見も振らずに走ったのは正解だった。先生のすることはいつも正しい。


同窓会サイクリング、無事終了

翌朝私たちは、また7時に食堂で落ち合った。今日で同窓会サイクリングは終わりだ。二人は午後の羽田行きの便で帰宅し、僕はそのまま四国サイクリングを継続する。

久しぶりに友達と恩師とサイクリングをした感想は、とても楽しかったことに尽きる。近年ずっと独りで走っていたから、その自由さもまた良し、と信じてきた。でも、人と一緒に走ると、誰かが励ましてくれたり、面白いことを言ったりするので、楽しいムードが持続する。一人でも楽しい時は楽しいが、自分のムード次第で、憂鬱になったり、うんざりしたりすると、ムード挽回が難しかったりもする。だから、これからもこうして、T村やT屋先生と一緒に走る機会をできる限り作ろうと考えた。

さて私は、ここから後免と言う駅で自転車を畳んで、阿波池田まで輪行する。その後は香川を巡り、小豆島に渡って一周し、高松から鳴門、徳島へと旅が続く。

T屋先生は、ホテルでちょっとのんびりとしたら、まっすぐ空港へ向かって、そこで奥様へのお土産でも見繕いながらフライトを待つと言う。T村は、飛行機が出る午後までまだ時間があるので、寸暇を惜しんでもう一周、高知の田舎を走ってくるのだと張り切っている。

三人は「それじゃあ、またな」と握手してから、ホテルの前で分かれた。台風など、いろいろなことがあったが、あっという間の四日間であった。

(私の四国の旅は、まだ続く)






posted by てったくん at 12:28| 日記

2019年11月27日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

「その先に何があるか知りたくて、私はずっとペダルをこいできた」
(ハインツ・シュトケ、50年間世界を自転車で旅し続けたドイツ人旅行家)


第3話  三日目、室戸岬から高知まで

私とT村は、昨日は徳島から牟岐まで列車移動し、その後60キロをサイクリングしたわけだが、T村は60キロを難なく走れたことで、大分気を良くしたらしい。何せ、昨年35年振りに自転車を新調して以来、走った最大距離が25キロだったから、彼にとって60キロは大躍進であろう。

しかし、問題はむしろ今日だ。今日の走行は、室戸岬から高知までの90キロ。90キロというのは、なめてはかかれない距離である。J Rに乗ったら1680円も取られる。歩いたら二日かかる。25キロから60キロは大きな躍進だが、60キロから90キロは、更なるジャンプである。さて、丁と出るか、半と出るかだ。

90キロ先の高知では、我々の恩師で79歳のT屋先生と待ち合わせしている。T屋先生は、空路で羽田から高知入りし、夕方にはホテルには入っている手筈だ。到着が遅くなって先生をあまりお待たせしてはいけない。なぜなら老人は、ちょっと遅くなっただけであれこれ心配するし、その心労で具合が悪くなったりするからだ。そうなっては一大事だ。

だから賢い私は、高知の少し手前、高知龍馬空港近くの南国市を今日の到達地にした。そうすれば走行距離は82キロに減る。T屋先生にしても、空港から近いホテルの方が便利であろう。それに南国市から高知まではたった8キロだから、翌日高知の自転車巡りをするにもそう遠いわけではない。


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室戸岬の朝日

80キロ以上の道のりを控えて、T村と私は朝6時に起床した。そして、室戸岬の突端まで歩いて朝日を拝んだ。これは我々の意気込みが非常に強かったことの証である。それがとても素晴らしい朝日であったらもっと良かったのだが、ちょうど朝日が上がってくる場所に雲がかかっていて、かなり劇的さ加減に欠ける朝日であった。旅に何ら影響が出るわけではないから、それはそれで良し。

旅館の前で記念写真を撮ってから出発する。T村は、昨日の60キロ走行の疲れも見せず、池に放った金魚のようにスイスイと走っていく。室戸岬の東側は荒涼とした断崖であったが、西の高知側は明るく平らな道である。青春を謳歌したくなるような道だが、50代後半の我々は何を謳歌すればいいのか?長寿? T村は時々携帯電話を取り出して、走りながらセルフィー撮りなどをしているが、この男は間違いなく、今を楽しんでいると言えよう。


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自撮りしながら走るT村


吉良川でコーヒーをご馳走になる

しばらく行くと、吉良川と言う宿場町に差しかかる。国道は車の往来が多いので、旧道を見つけると我々はすかさずそちらにハンドルを切る。吉良川は古い街並みを道沿いに保存してあり、軒の低い木造建築が並び、海岸から拾ってきた石を積み上げた塀が連なる、趣のある街並みだ。そこらの有名な観光地のように、これ見よがしな感じではなく、自然に歳を経て古くなったままをそのまま保存してある。歳をとっても、魅力がますまずにじみ出てくる人がたまにいるが、そういう人物のような町である。

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吉良川の街並み

建築に関心のあるT村は、興奮気味にその街並みを撮影しながら進む。僕は、そろそろモーニングコーヒーを飲みたくなったので喫茶店を探すが、まだ10時前でどこも開いてない。僕が「コーヒー飲みたいなあ」とぼやきながら、1キロばかりの古い街並みを行ったり来たりしていると、T村が向こうから、「おーい、コーヒー飲めるよー!」と手を振っている。そこは古い旅館のような建物だった。入り口に「いこいの家」と看板がある。

そこは旅館でも喫茶店でもなく、公民館のように使われている旧家の建物だった。中は広い座敷で、奥が縁側、その向こうは手入れの良い中庭である。T村はさっさと靴をぬいで座敷に上がり、そこにいた品の良い年配の男性と女性と喋っている。


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いこいの家にて

「この女性はね、吉良川で二番目に美人の女性ですよ。一番美人の女性はこれから現れます!」と、その男性は言った。二番目に美人と言われた女性は、「あらー、うふふ、嫌だわー。でも、私が二番目なのは本当ですよ」と、まんざらでもなさそうに笑いながら、コーヒーを入れてくれた。すると、5分もしないうちに「一番美しい女性」、ミス吉良川が登場した。僕は幾らかの期待をして待っていたことをここに素直に記す。現れた女性は、確かに30年前は吉良川で一番だったかもしれないという感じであった。人生には、あまり期待しすぎない方が落胆が少なくて良い場合が時たまあるが、まさにこの時がそうであった。

とは言え、僕たちは吉良川のナンバーワンとナンバーツーにかしずかれて、淹れたてのコーヒーをご馳走になったので、朝から運が良かったと言わなくてはいけない。しかもコーヒーは無料だと言う。でも、そこまで幸運にあぐらをかくと、この先悪いことが起きそうなので、この建物の保存のために500円の寄進をしてからここを出た。ところがナンバーツーが駆け出してきて、「これじゃあ多すぎますよ」と、300円のお釣りをくれたので、結局コーヒーは一杯100円と言うことになった。だから、全くの無料ではなくなったが、地元の民と交流ができたことは、私たちのサイクリングも、旅の本質に迫ってきていると言えるだろう。


岩崎弥太郎生家を訪れ、ジャコ揚げ丼を食べたこと

さて、こう寄り道ばかりしていたらなかなか高知につかないので、海岸沿いを飛ばす。しばらく行くと安芸市であった。ここは、三菱グループ創始者の岩崎弥太郎の生家がある町だ。ここには、何かの作物のビニールハウスがたくさん並び、どこまでも農地が広がり、眼前には海を抱き、奥には山を抱いている美しい山里だ。

「岩崎弥太郎さんに会いにいきましょう!」と、歴史学科卒業のT村が言うので、またもや寄り道になる。こういうのを「鶴の一声」と言うのかも知れないが、思い起こせば、T村は昔から鶴の一声が得意な男であった。昔、北海道一周した時は、クッチャロ湖かどこかで、「焼きホタテ」という看板にT村がつられて寄り道することになったが、その時は遠回りはするは、にわか雨には降られるは、一本道をまた何キロも戻るはで、えらい目にあった。

だから、T村の鶴の一声には用心しなければいけないのだが、この寄り道は、全てが順調にいった模範的な寄り道であった。それと言うのも、今や彼はiPadやグーグルマップで武装しており、走りながらも大統領専用機エアフォースワン並に情報収集を行っているから、寄り道にも間違いが少なくなってきているのだ。

美しい農村地帯を2、3キロばかり山間に向かって走ったが、そこは畑の中でありながら、舗装も良い真っ直ぐな道だった。傍を豊かな川も流れている。車も少なく、我々サイクリストにとっては天国のようだった。その奥の、さらに奥に、岩崎弥太郎さんの家があった。弥太郎さんは、とっくの昔に亡くなっているので、お会いすることはできなかったが、銅像が立っていた。生家は藁葺き屋根の割に小さな家だが、敷地には立派な土蔵があった。今はどんなに金持ちでも、例えば孫正義のような人でも流石に土蔵は建てないだろうが、昔の金持ちにはやはり土蔵が必要だったことがわかる。弥太郎さんの土蔵には、当然ながら三菱の家紋がついている。U F J東京三菱銀行も昔はこんなだったかのかと、僕は感慨にふけった。横でT村が、「日本の歴史の中でも、幕末はいろいろな人物や事件が交錯していて、調べれば調べるほど面白いんだよ。岩崎弥太郎もね、龍馬や勝海舟ほどは知られてないけど、実は明治維新の際には財政面で土佐藩と龍馬を助けて、実業家として維新を推し進めた重要な仕掛け人であるんだなあ」と、嬉しそうに話す。もしかしたら、これも走りながらiPadで仕入れた知識かも知れない。

岩崎弥太郎さんの家の前には、小さなカフェがあった。そこには、原宿のカフェにいるような、おしゃれな女性が店番をしていた。営業マンのT村は誰にでも愛想よく話しかけるが、特に、これはという女性には必ず声をかける。その女性にも、「ここはさー、岩崎弥太郎さんの家なわけよねー。立派なもんですなあ。やっぱ三菱銀行の人なんかも来るわけ? へー、来るんだ? だって、創始者だもんねー。すごいよねー」とか、調子良く連発している。カフェの女性によれば、三菱銀行の人は確かに時々くるし、三菱と大きな取引をする会社の人なんかもやってくるらしい。だが、三菱社員は必ずここに詣でなければいけないという社則はないはずだと言う。でも、そんなことを知っているなら、この女性も三菱の社員かも知れない。訳あってこんな土佐の田舎にいるが、本当は、青学の経営学科なんか出ているのだろう。どおりでおしゃれなはずだ。だとしたら、このカフェだって密かに三菱系のアンテナショップという可能性だってある。いや、そうに違いない。

T村はこのカフェで、「茄子プリン」という珍妙なものを食べていた。何でも、地元の農業高校の生徒が考案したものらしい。そう言えば、畑にずらっと並んでいるビニールハウスは茄子栽培のためであった。あれだけの茄子は、プリンにでも何にでもして売りつくさなければならないだろう(その農学校だって、茄子畑だって、三菱系列かもよ)。

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岩崎弥太郎生家

さて、もう昼である。我々はここで、さっきの吉良川ナンバーツーと、ナンバーワンが推奨してくれた「ジャコかき揚げ丼」を食べに行くことにした。畑の中の道を若干迷ったが、そこではまたもやT村のiPadが活躍し、たちどころにその食堂を探し当てた。「ジャコかき揚げ丼」は、ナンバーワンとツーが推奨しただけあり、サクサクしていて非常に美味であった。これを食べにまた高知に戻ってきても良いくらいだ。こういう素晴らしい味に出会うためには、インターネットやガイドブックに頼るのでなく、地元の人に口づてに教えてもらうに限る。食後に食べた「柚子ソフトクリーム」も美味だった。僕は以前からソフトクリームという食べ物は、馬鹿が食うものだと思っているのだが、これは例外だ。

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美味ジャコかき揚げ丼

どんどん高知に近づき、南国市のホテルでT屋先生に邂逅したこと

さて、我々は海岸の道をさらにひた走り、みるみるうちに高知に近づいた。穴内という場所からは海岸沿いに自転車道もあり、我々は50代後半の普通のおっさんとしては考えられないペースで快進撃を続けたのである。

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海岸沿いをラーレー号で快走するT村

しかし、高知の市街地まで通じているバイパスに入った途端にガタっとペースは落ちた。市街地は走っていても面白味に欠ける上に車も多い。車道を走ったり歩道に上がったりしてペースがつかみにくい。歩道に乗り上げるときは段差があるので、その度にボコンと衝撃もあり、お尻も痛くなってくる。とかく東京の人間は、四国など、ど田舎だと思って馬鹿にしているのだろうが、どうしてどうして、こういう地方都市は車社会だから、東京の青山とか渋谷並にたくさん自動車が走っている。しかも土佐だけあってみんな気性が荒っぽいから、そこを自転車で縫うように走るには十分な安全確認が必要なのだ。

そうしているうちに、ようやく目指すホテルが見えてきた。そこまで走った距離は82キロ、やはり二人ともそれなりに疲れている。T村も、35年ぶりに80キロという長大な距離を走りぬいた喜びにひたりつつも、完走できた安堵感にいくらか虚脱している感じがぬぐえなかった。

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穴内付近の海岸から室戸岬を望む

多少へたりこみつつも、T村はフロントで「T屋っていう人は、もうチェックインしてますかね?」と尋ねることは忘れなかった。
「はい、もうおいでになっています。X X X号室ですよ」とフロントの男性が教えてくれた。我々は自転車を片付けて荷物を部屋に置くと、さっそくT屋先生の部屋に挨拶に行った。

「おー、おめえら無事についただか?ずいぶん早かったじゃん」と、T屋先生は軽やかに登場した。先生は、東京から飛んできたものの、まだ自転車には乗ってないから全然疲れていない様子だった。それにしても、懐かしい先生に、しかも四国の高知で会えるとは格別な気分であった。


45年前のT屋先生と僕たち

その晩は、ホテル近くの土佐料理を食べさせる居酒屋に繰り出し、昔話に花を咲かせた。T屋先生と僕たちの間で一番思い出深いことは、僕らが中学一年生の夏休みの出来事だ。

僕とT村の通った中学は、静岡の沼津にあるKという中学校だ。僕たちはその学校の寮に入っていた。どうして僕とT村が、沼津の学校なんかに通っていたかの理由は省く。中学で寮に入るのもずいぶん怪しい感じがするだろうが、別に怪しいことは何もないことを名誉のために断っておく。

T屋先生は僕らの担任だった。僕とT村は、当時からサイクリングに狂っていて、中学最初の夏休み、他の寮生はみな両親の運転する自動車か電車で帰省したのだが、我々二人だけ自転車で帰省することにしたのだ。

それに関して、両親や他の教員からは、東京まで中学生が国道1号を走って帰るなど危険極まりないという声も上がったが、担任のT屋先生は、「いいじゃんか、やってみたら良いっけよ」と、許可してくださった。我々はその言葉に勇気百倍を得て、周到にその準備をし、沼津警察などの関係機関にもおもむいて道路事情を細かく調査した上で、完璧な計画書を書いた。

そして夏休み初日、僕とT村は沼津を出発した。僕の実家は東京の多摩市、T村の家は川崎市だった。どちらも沼津から130キロは離れている。中学一年生が一日に走る距離としては相当長い。僕たちもそんな遠くまで自転車で走るのは初めてだった。

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永遠の中学生、私とT村

T屋先生は、もちろん担任として我々の行動をモニターしておられた。そればかりか、我々の後をこっそり自動車で追いかけたのである。それは、我々の預かり知らぬことであった。ところが僕とT村は、予定よりずっと早く、朝の4時に沼津を出発していたのである。二人とも興奮してろくすっぽ寝られなかったからだ。

だが、T屋先生は、我々が予定通り朝6時ごろ出発したものと思い込み、箱根の頂上まで車で追いかけて来たのだが、我々はとっくに小田原まで行っており、T屋先生をすっかり出し抜いた形になった。そのまま二人は真夏の太陽の照りつける中を疾走し、もう午後の2時には、それぞれの実家に着いてしまった。13歳の時である。我々は元気な若者だった。

それは、もう45年も前の話だが、つい昨日のことのように思い出せる。涼しかった早朝の箱根越え。箱根で僕の自転車のギアが壊れ、小田原で自転車屋を叩き起こして直してもらったこと。ギラギラ照りつける夏の太陽。路肩で飲んだミツヤサイダーの味。あの最初のサイクリングが忘れられないから、こんなおじさんになってもまだ自転車に乗っているのだ。

T屋先生も、「俺が箱根まで追いかけて行ったら、もうお前たちが行った後だったんだよなあ。お前ら、ずいぶん足が早いんで驚いたっけよ」と、目を細めて笑う。
「先生、本当に申し訳ありませんでした! 携帯もなかった頃だから、連絡もできなかったし」と、T村がお詫びする。

T村とT屋先生が楽しそうに話している横で、僕は二人を眺める。もう45年も経っているのに、どうして人はこんなに変わらないのだろう。T村も僕も今はおじさんだし、T屋先生は白髪のおじいさんだ。我々の肉体の細胞は絶えず入れ替わっているはずだけど、命が続く限り、こうやって同じ人間でい続けられる。人の関係はもろいから、時として形なく壊れてしまうこともあるが、逆に長いこと続くこともある。子供時代に作ったマッチ棒でできた繊細な模型でも、大事にすれば壊れないように。この二人が、きっとその証だ。

「さあ、そろそろいきますか! いやー、楽しかった、楽しかった」と、T村が営業マンらしい、景気の良い声で言う。(昔から声がデカかったよな…)。

明日は、その三人で高知を歩く。楽しみだ。

(続く)














posted by てったくん at 20:00| 日記

2019年11月23日

四国サイクリング旅行 version 2

(2019年10月13日から26日)

第二話: 二日目、十月十四日、牟岐線で牟岐まで行き、室戸岬まで人気のない海岸線を走ったこと

「そりゃあ、自転車で行けるんだったら、自転車で行くに決まってるさ!」
(デービット・アッテンボロー、英国の映画監督)

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僕とT村は、畳んで袋に入った自転車を担いで徳島発9時半の牟岐線に乗った。本当は徳島から走り出すはずだったが、台風のせいで予定が一日遅れたので、輪行して距離を稼ぐことになった。(自転車を担いで列車に乗ることを「輪行」と呼ぶ)。

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先を急ぐのは本意ではないが、本当は三日で行く距離を二日で走らなければならない。そのためには、今日中に室戸岬まで行かなくてはならない。明後日には中学校の恩師であるT屋先生がわざわざ静岡は沼津から飛んできて、高知で我々と「同窓会サイクリング」をする予定だからだ。

徳島から高知までは、室戸岬経由で230キロある。健脚サイクリストであったら、もしかしたら一日、少なくとも二日あれば鼻歌まじりで走ってしまう距離だ。しかし鈍足の我々には、二日でも無理かもしれない。しかも、昨年サイクリングに復帰したばかりのT村の実力は、実際あまり当てにならない。これまで彼が一日で走った最高距離はせいぜい25キロだと言う。僕は、「25キロ走れるなら、60キロくらい絶対大丈夫だよ!」と太鼓判を押しておいたが、正直言って、全く期待してなかった。それどころか、場合によってはT村は、足がつって走れなくなり、途中でタクシーを呼ぶ可能性もあると踏んでいた。だが、列車で牟岐まで行けば、室戸岬まであとは60キロだから、仮にどこかの地点でタクシーを呼んだとしてもそれほどの出費にはならないだろう。それに、彼がダウンしてタクシーを呼ぶなら、その出費は当然彼の支出になろう。でも、そのことはあえてT村には言わず、僕の胸中に留めておいたことは言うまでもない。

さて牟岐線の車中、35年ぶりに輪行をしている僕たちは、まるで中学生のようにはしゃいでいた。特にT村のはしゃぎぶりは、行き過ぎの一歩手前と言っても過言ではない。五分たりとも座席に座っていられず、列車の中をあちこちを歩き回る。自撮り棒に携帯電話を括り付けたものを振り回しながら写真を撮ったり、ナレーション入りでローカル線が進んでいく光景をビデオ録画しているのだ。「えー、只今、列車は阿波冨田の駅を出発し、二軒屋に向かって進行中であります。えー、素晴らしい田園風景の中を進んでおります。あっ、今トンネルに入りました!」とか話している。ピチピチの自転車ジャージを着たおっさんがそんなことをしているのだから、かなり妙である。だが、子犬のようにはしゃぎまわっている男(子犬と呼ぶには、ちょっとふけ過ぎているが…)と一緒にいると、こちらも楽しくなってくるから許してやることにする。

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牟岐線内で童心にかえるT村

そんなローカル線の2時間はあっという間に過ぎ、11時半に牟岐に着いた。すぐに駅の軒下で自転車を組み立てる。昔取った杵柄、二人とも苦労せずに20分ほどで組み立て終わった。

さて、二人は、いよいよ銀輪にまたがり、国道55号線を西に向かって走り始めた。台風が去った後だから気温が高く、十月なのに夏のようだ。ちっぽけな牟岐の町はすぐに走り抜けた。もう昼だから腹が減ってくる。この先室戸岬までの50キロはほとんど町もなく、昼飯を食べさせる場所もあまりない。牟岐の先の海部という町には、うまい魚を食べさせる店があるらしいので早速行ってみたが、評判の良い店だけに人であふれかえっていて当分は昼飯にありつけそうもない。

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仕方がないので先へ行くと、国道沿いに民宿兼食堂があった。「生きアジあります」とあったから、釣宿だろう。「ふー、やれやれ」と汗を拭きながら店に入り、僕はカマスフライ定食、T村はアジフライ定食を食べた。味は悪くなかったが、ご飯の量が少ない。物足りなさそうな顔をしていたら、店の腰の曲がったばあさんが、「もうちょっとでご飯が蒸しあがるから、待ってろ」と言う。昼の書き入れ時なのにご飯を炊いてなかったとは、相当迂闊な店だ。しかし、四国ではこんなでも商売が成り立つらしい。一昨年の時も、夕食を食べに入った高知の山奥の食堂では、夕方七時なのに「もうこれで、今日のご飯は終わり!」と、店のおばさんが宣言した。だから、僕の後から来た客はご飯なしの定食を食べていた。東京だったらこんな店はすぐに潰れるが、それでも成り立っているところが四国の不思議なところだ。

さて、僕もT村もさほど大食ではないし、先も急ぐので、小さな茶碗いっぱいのご飯で足りたことにする。勘定を済まし、さて出発と思ったら、そこからが長かった。腰の曲がったばあさんも、外で生きアジの世話をしていたじいさんも意外に話し好きなのだ。牟岐線の将来的な展望についてひとくだり、ここいらで釣れる魚についてのレクチャーなどが始まった。ここでは浜からでも、生きたアジをくっつけた仕掛けを海に投げ込むと、でっかいイカがじゃんじゃんとれると言う。すごいことだ。いつか釣り好きの息子を連れて戻ってこよう。

もう昼過ぎなのにまだ10キロくらいしか走っていない。あまり旅情に浸り過ぎていては、室戸岬に着く前に日が暮れる。先は、まだ50キロあるのだ。そろそろ気合を入れて走ろう。


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T村、自撮り棒を振り回す

公衆トレイの民営化

二人はシャカシャカ走りだし、おかげでこの辺りにあったはずの「種田山頭火句碑」を見過ごす。しばらく行くとコンビニがあった。T村は、iPadを自転車のハンドルにくくりつけて走っているので、刻一刻と色々な情報を走りながら教えてくれる。便利な時代になったと思うが、便利すぎて、逆に我々は頭が悪くなっているのだろう。きっとそうだ。

さて、T村の情報によれば、このコンビニを見逃すと、かなりの間店がないらしい。そこで僕は、ここで「ガリガリくん」と言うアイスを食べることにした。その理由は、ここが最後のコンビニなのだから、何か食べておかなくてはいけない気がしたからだ。実際そんなものを食べる必要は全くなかったのだが、複数のサイクリングのブログに、自転車に乗って汗をかいた後「ガリガリくん」を食べると最高だと書いてあったから、日本に帰ってサイクリングをしたら、ぜひ食べてみたいと思っていたのだ。こんな好機到来は、またとないだろう。

しかし、そう言う客は、実はコンビニの思う壷なのだ。僕は社会のことをあれこれ批判しつつも、実は商業主義の奴隷になっていることがこれで明白になった。コンビニというのは、食品会社の作った餌で獲物を待つ漁師のようなものだ。で、その餌食となった僕が「ガリガリくん」を食べた感想はどうだったかと言うと、「なんだこんなものか…」と言う程度のものであった。その上、急いで食べたので頭痛になった。いささか馬鹿馬鹿しい気分だ。

それで、しゃくになり、買い物もしたので、堂々とトイレを借りておくことにした。そこで考えたのだが、コンビニが増えたおかけでトイレに困ることは少なくなったが、コンビニのトイレが増えた分だけ公衆便所が減ったに違いない。つまりそれは、公衆便所が民営化したと言うことではあるまいか?民営化はこれまで郵便局や鉄道などの諸機関で起きてきたが、その度に国民は大騒ぎをした。しかし、トイレの民営化は隠密に進み、国民がうかうかアイスや肉マンなどを食べているうちに政府の目論見は見事に達成されてしまったのだ。これを一体どう考えたら良いのだろう。このトイレの民営化で一番得をしたのは誰か?

僕はこの最果てのコンビニの、「キレイなトイレ」に座りつつ鋭意考えたが、納得できる回答には、ついにたどり着けなかった。

室戸岬における建築学的な考察

さて、コンビニを出ると、もう室戸岬まで30キロほどの道なりには本当に何もなかった。僕たちは、そういう人気のない海岸線の崖っぷちの道をひた走った。とにかく、ひた走るしかないような何もない道なのだ。

その海岸には大きな石がゴロゴロ落ちている。時たま道端にある漁師小屋の壁には、荒波で飛んできたごろた石で穴が空いている。よく台風情報で、「室戸岬は、風速50メートルで大荒れです」とかやっているが、そんな時にここにいたら、本当にこの世の終わりみたいだろう。


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荒涼とした海岸線で感慨にふける男

そんな寂しい海岸沿いの道を走っていると、T村も「弘法大師がここを歩いた時は、もっと荒涼としていただろうな」と、感慨深そうに言う。そして、室戸岬の方を指差し、「きっとあちらから、弘法大師もこの海岸をとぼとぼ歩いてきたのだろう」と言う。彼は、K大学の歴史学科を卒業しているので、時代の物差しをぐっと何百年も戻したような、こんな味のある発言を時々する。そこは尊敬に値するのだが、確か弘法大師は四国を時計回りに回ったはずだから、室戸岬から徳島じゃなくて、徳島から室戸岬の方角に歩いたはずだよなあ、とすかさず僕は気がついた。でも、せっかく深い感慨に浸っているT村の気持ちを傷つけたくなかったので、そのことは黙っていた。

さて、見ればその寂しい道をお遍路が2、3名歩いている。実に四国らしい光景だ。自転車で追い抜きざまに手を振って声をかけてみると、外国からきた人たちのようであった。まだ室戸岬まで20キロ以上はある。あの人たちは無事に今日の宿に着けるのであろうか?そんなことを心配しつつ走る。やがて日が傾く頃、室戸岬の灯台や山上のアンテナが見えてきた。

我々の宿は「岬観光ホテル」と言う立派な名前の、小ぢんまりした旅館であった。ここは70年ほど前に、徳島のお金持ちが別荘がわりに建てた宿らしい。昭和初期の匂いのするシックな洋館である。


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建築学的な考察対象となった旅館

さて、ここでまたT村は、歴史的な考察を行った。前回も述べたが、T村は台所キャビネットを売るのが仕事だから建築に詳しい(と本人は言う)。だから、この建物に入るや否や、「うーん!」とか「いや、これはこれは!」とか関心しまくっている。僕は軽く聞き流していたのだが、夕食どきにはビールの酔いがまわったせいもあり、T村は女将を捕まえてレクチャーを始めた。

「奥さんねー、この建物は立派なものですよ。うん、僕には分かるんだなあ。実は私はね、これでも建築関係の仕事をしておりまして、うん、仕事がら色々な建物を見て歩くんですよ。この建物はね、多分日本では、一番初期の時代のツーバイフォーの建築ですな。これは、まず間違いはない。うん、きっとそうでだ。奥さんねー、ツーバイフォーわかる? それについては、何か聞いたことがありますか?えっ、聞いたことがない?そうか、じゃあ今度調べてみてください。実はね、これと全く同じような建築が鎌倉にあるんですよ。私はね、一眼見ただけで分かったんだ、この建物がね、それと同じツーバイフォーってことがね。ねっ、おもしろいでしょ?とにかくね、これは大発見ですよ、奥さん」と延々と続くのである。相手は、旅館の女将さんだから、決してお客をないがしろにはしない。ニコニコ笑顔でT村の学説を聞いている。僕は、T村の学説よりも、むしろ女将さんの態度に感心していた。

その夜は、室戸岬に砕ける波音を聞きながら、久しぶりに旧友と枕を並べて寝た。40年近い月日が一挙に後戻りし、僕は17歳に戻ったような新鮮な気持ちでT村の寝息を聞きながら眠った。

(続く)















posted by てったくん at 19:10| 日記

2019年11月14日

四国サイクリング旅行 version 2 (2019年10月13日から26日)

前置き:

2017年11月中旬から12月上旬にかけ、僕は一人で自転車に乗り、高知を皮切りに、四万十川、足摺岬、宇和島、八幡浜、松山、今治、しまなみ海道を通って広島の尾道まで、時計回りに四国を半周した。十二日間かけて走った距離は800キロ。そして今回はその第二弾として、2019年10月中旬から下旬にかけて十二日間、徳島市から時計回りに、高知、阿波池田、香川に入って、善通寺、高松、小豆島を走り、また徳島県に戻り、鳴門の渦潮を見て徳島市に戻る自転車旅行を行った。前半4日間は、中学の同級生であるT村君と我々の恩師であるT屋先生が同行した。彼らとは230キロばかり走り、僕自身は730キロ走った。これで四国をほぼ一周したことになる。その今年の旅行について、以下に書く。

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小豆島にて

第一話: 一日目、徳島まで

「始まりの前には混沌がある」(易経)

十月十二日、台風19号は、関西地方から日本に上陸して関東地方に向かった。その過程では、千葉と長野に重大な被害を及ぼしたことは我々の記憶にまだ生々しい。台風は去っても、被災地の皆さんはまだ復興の最中にある。

さて、旅の始まりは、仕事で和歌山に滞在していた僕の頭上を台風19号が通り過ぎた十月十三日朝だった。東海道および山陽新幹線をはじめとしたJ R各線はまだ止まっていたが、関西空港へ向かうリムジンバス、そして関西空港から徳島を繋ぐバスは、始発から動き始めていた。台風のせいで一日長く缶詰になっていたホテルを早朝抜け出し、僕は関西空港へ向かう車中の人となった。

友人T村君のことなど

その頃横浜市緑区では、今回のサイクリング旅行の最初4日間を同行するT村君が自宅で天気が回復するのを待っていた。彼は中学の同級生だ。中学高校時代二人は、一緒に日本中銀輪を駆って走ったものだ。

サイクリング友達T村との旧交が復活したのは昨年2018年だった。僕は、普段オーストラリアに住んでいるのだが、近年はメルボルン近郊を自転車で走り回っている。そのことを時々Facebookに載せていたのだが、それに対して、あるときT村が「昔はよく一緒に走って楽しかったなあ」と述懐した。僕は、「そんなこと言ってないで、また一緒に行こうよ」と返答した。Facebook上の会話はさらに続いた。「でももう自転車がないよ」、「また買えよ、5万も出せば今は良いのが買えるぜ」。そして、僕が昨冬帰国した際、試しに二人はレンタサイクルを借りて、T村の住む横浜近郊を走った。T村の自転車熱はそれで赤々と再燃し始めた。それから間もなく、T村は英国の名車ラーレー号を購入し、鶴見川の土手道などを走りはじめた。少し後の話だが、そのせいで彼の体脂肪率は5%ほど下がったと言う。まさにサイクリングの素晴らしき効用と言うべき他はない。

そのT村は、僕が2年前から計画していた四国サイクリングversion 2の計画を聞くに及ぶと、忙しい仕事の合間に休みをとって、最初の数日同行することを決意した。サイクリングは、古い友情の復活に見事に寄与したのだった。

79歳のT屋先生、「俺も行きたいずら」と言う

ところが、四国サイクリング計画にのってきたのは、T村だけではなかった。我らの中学校の恩師である、沼津市在住のT屋先生も、本計画を聞き及んで「俺も行きたいずら」と言い出した。T屋先生は79才である。そんな高齢者に四国サイクリング旅行はできるのか?登り坂で心臓麻痺をおこして死んだら?そんな疑問がいくつも浮かび、僕は心配した。そこで僕とT村は、近年のT屋先生を知る同級生など各方面にそれとなく様子を聞いたが、その結果T屋先生は、我々よりもはるかに健康であることが判明した。そればかりか、T屋先生の家は長命で知られていて、T屋先生の御母堂は、現在100歳を超えても伊豆の山で畑仕事に勤しみ、自給自足の生活をしているという。T屋先生曰く、「俺の心配は、お袋みたいに長生きしちゃうことずら」。長寿国日本、恐るべしである。

79歳とは言え、T屋先生はゴルフの腕前はシングル、自転車について言えば、日頃はお住まいの沼津から静岡や伊豆に向かって100キロほどを飛ばすだけでは物足りず、実業団の選手などと一緒に全国津々浦々を走り回っていると言う。「琵琶湖一周200キロなんて、二日あれば十分だら」と、涼しい顔でおっしゃる。となれば、問題はT屋先生ご自身よりも、T屋先生に我々がついていけるかどうかである。

そんなT屋先生であったが、スケジュールがお忙しいと言うことで、一日だけ高知で合流することになった。そのために、わざわざ沼津から羽田へ自転車抱えて電車で移動し、さらにそこから飛行機で高知まで飛んで来るとおっしゃる。こうなったらT村と僕は、石にかじりついてでも高知まで行かなくてはならない。

四国サイクリング旅行 version2の旅程について

さて、T村と僕は、最初の予定では、和歌山で合流し、そこから南海フェリーで徳島へ渡り、時計回りに海岸線を西に向かい、牟岐町、室戸岬を経て高知まで、200キロ強の行程を三日かけてゆっくり走る予定だった。そして高知でT屋先生と合流し、高知周辺をゆるりと三人で自転車で歩き、美味しいものでも食べながら昔話でもして大いに笑おうという算段だった。その後は、T村とT屋先生は高知から空路帰宅し、僕だけ四国旅行を続ける予定だった。

その僕自身のソロツーリングの予定だが、高知の後は四国山地を超えて大歩危小歩危を廻り、阿波池田から山越えで香川に抜け、善通寺や金比羅さんに詣でてから高松に入る。そこからフェリーで小豆島に渡って一周し、また高松に戻り、鳴門の渦潮を見てから徳島までという手筈だった。さらに余裕があれば、吉野川沿いを走って初秋を満喫し、その後東京に戻るという合計12日間の急がない旅程だ。

ナポレオンのごとく諦めないT村

T村と僕が一緒に走るのは、実に35年ぶりだ。そこへ 担任だったT屋先生も加わるのだから、僕たちの鼻息は大いに荒くなった。

ところが、そこへ台風19号だ。その結果、徳島へ渡るフェリーは荒波で欠航、J R西日本も新幹線もことごとく不通、T村が乗ってくるはずだった羽田発の関西行きフライトも12日は全便欠航、高速道路も交通止めと、我々の出発は尽く阻まれた。

そこでT村と僕は、12日に合流する予定を13日に繰り下げ、僕は和歌山のホテルで、T村は横浜の自宅で待機し、一晩中天気予報と交通情報のウエブサイトを睨んで夜明かしした。

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嵐の前の静かな空(和歌山にて)

十二日晩であるが、僕はホテルでテレビの天気予報とニュースを睨んでいたが、その間もT村からのアップデート情報が携帯に次から次へと飛び込んでくる。あまりに状況が過酷なので、僕はいったんは、みんなで一緒に四国を走るのを諦めようと考えた。そこで代替案を考え、東京から遠く離れた四国を走るより、もう少し近くの伊勢志摩とか琵琶湖周辺を走ったらどうかと、T村にも相談した。

ところがT 村は諦めない。彼は筋金入りのセールスマンである。それも、女性に台所のキャビネットを売る仕事を30年もしているのだ。T村は、財布の紐が固い女性に高価な商品を売ることで、逆境に強い、強靭な人間に成長していた。少年時代の彼は、精神的に柔なところがあって、自転車で急な峠を登ろうものなら、すぐに顎を出した。挙句に自転車ごとヒッチハイクをして、大いに男を下げたこともある。しかし、30年の女性相手の営業生活で彼は大いに鍛えられていた。そんなT村は、まるで冬のモスクワを攻略するナポレオンか、砂漠の虎と言われたロンメル将軍のように、最後まで希望を捨てず、天気予報を血眼で分析し、どうすれば明日中に四国徳島まで辿り着けるか交通情報をくまなく検索して余念がないのだった。


鷲は明日の夜飛び立つ!

でも、誰がどう見ても、明日中に僕たちが徳島で合流できる望みは薄かった。望みも尽き、そろそろ寝ようかと思った頃、T村から最後のメッセージがきた。「鷲は明日の夜飛び立つ! 明日夕刻の徳島行きフライトが予約できた。」天は我らを見捨てなかったのだ。思わず携帯電話を握り締め、ホテルの部屋で小躍りしてしまった。

翌朝、僕は早起きして走りはじめたバスに飛び乗った。まずは和歌山から関西空港まで、そこで乗り継いで大阪、神戸、淡路島をひた走った。そして昼すぎにはもう徳島入りし、駅ビルでうどんを食べていた。

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折りたたんだ自転車を担いで四国へ向かうバスに乗る

ホテルにチェックインし、ぽかっと空いた午後の時間、僕は徳島の町外れの眉山という山に登った。台風一過で青空が広がり、山頂からは太平洋沿いの山並みが見えた。その向こうは室戸岬、そして高知だ。気分は坂本龍馬だ。待ってろよ、俺たちは明日そちらへ行くぞと、僕は高知の方を見据えて呟いた。

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徳島、眉山からこれから向かう太平洋岸を望む

夜の帳が降りた頃、T村が徳島阿波踊り空港にタッチダウンした。空港バスから、折りたたんで袋に入った愛車ラーレー号を抱えて降りてきたT村は、満面の笑みを称えながら、「ついに来たぞ!」と吠えるように言った。二人は堅い握手を交わした。

その夜、日本対スコットランドのラグビー戦が行われた。我々は、その試合をホテル一階のカフェで観戦した。カフェの客が固唾を飲んで見守る中、日本勢は、強豪スコットランドを堂々うち負かし、ベストエイトに進出した。

ラグビーのお陰もあって、我々の士気もこれ以上ないくらい高くなった。いよいよ旅が始まる!

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日本を旅する僕の相棒「フジコちゃん」(Fuji Feather CX+)
(続く)



posted by てったくん at 09:16| 日記